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満福山城国寺

宮城県栗原市にある曹洞宗の満福山城国寺のブログです。

禅僧は坐禅をすれば好くなる

2008-12-16 05:40:14 | 『正法眼蔵随聞記』
 「理を心得たるように云へども、しかありと云へども、我レはその事が捨テ得ぬ。」と云ツて執し好み修するは、弥沈淪するなり。
 禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-2


道元禅師は、坐禅をすべきだという道理を心得ても、他の修行が捨てられないとするのは、ますます悪くなるとしています。これは、ここに執着心が残るからです。

しかし、禅僧であれば、只管打坐すれば、どれほどの才能であろうとも、必ず好くなるのだとしています。問題は、坐禅という行いにあるのであり、持って生まれた才能などではないのです。

そして、坐禅を行うには、1人で坐っていては過ちを犯すのであり、必ず、指導者のいうことを聞かなければなりません。もし、坐禅会や勉強会を行っていると聞いたら、少し距離があっても、行って坐禅すべきです。

我執を捨てて仏道を学べ

2008-12-15 06:18:02 | 『正法眼蔵随聞記』
 そノ儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教に随ふなり。そノ大意は、貪欲無キなり。貪欲無カらんと思はば先ヅすべからク吾我ヲ離ルベキなり。吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。
 世人多ク、我レは元来人に能シと言ハれ思はれんと思ふなり。そレが即チよくも成リ得ぬなり。ただ我執を次第に捨て、知識の言ニ随ひゆけば昇進するなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-2


仏道修行を行うためには、実体へのとらわれを捨てて、ただ指導者の教えに従うべきだと、道元禅師は示されています。その意味とは、貪りや欲を無くすることで、そのためには、「オレが」「私が」という、吾我の思いを離れるべきだとされています。

無常をよく観ることによって、そのような吾我の思いを離れることが可能となります。いつ死ぬか分からない、そのような実態を知れば、自分自身にこだわりを持っている暇はありません。

世俗に生きる人は、他人に良く思われ、いわれようとするものですが、これが、1番仏道から遠ざける因縁となります。また、これが我執となります。よって、それを捨て、ただ師の言葉に従うだけで良いのです。

人は家業を継ぐべきである

2008-12-14 05:32:32 | 『正法眼蔵随聞記』
 一日示ニ云ク、人その家に生マれ、そノ道に入らば、先づその家の業を修スべし、知ルべきなり。我が道にあらず、自が分にあらざらん事を知り修するは即チ非なり。
 今、出家の人として、即チ仏家に入り、僧道に入らば、すべからくその業を習フべし。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-2


道元禅師は、どのような人の家業を継ぐべきであるとしています。今、この自由主義の社会では、ちょっと意外に思われる言葉かもしれませんが、しかし、多分、遺伝的なこともあって、親の仕事が子供にとっても向いている可能性は、それなりに高いといえましょう。専門的な職業であれば、尚更だと思います。

しかし、江戸時代の健康マニア、貝原益軒に言わせると、医者というのは、代々受け継ぐべき職業ではないそうです(『養生訓』より)。むしろ、常に、新しい才能を消費しなければ、発展できない領域なのでしょう。

政治家はどうでしょうか。最近では世襲議員が問題になっていますね。もちろん、我々僧侶の世襲も問題になっています。

さて、そういえば、道元禅師は「世襲」を認めているのではなくて、その家に入ったら、その家の仕事をキチッと行うべきだといっているのです。武士なら武士、貴族なら貴族、そして仏道なら仏道。それぞれに、その道に入ったら、その道を全うせよ、という意味で「家業を継げ」と仰っているのです。

禅戒という考え方

2008-12-13 06:26:15 | 『正法眼蔵随聞記』
 弉公問ウテ云ク、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか。然ルに、彼にはじめに「受戒護戒をもて先とす。」と見エたり。また今の伝来、相承の根本戒をさづくと見エたり。当家の口決面授にも、西来相伝の戒を学人に授く。是レ則チ今の菩薩戒なり。然るに今の戒経に、「日夜に是レを誦せよ。」と云へり。何ぞ是レを誦スルを捨テしむるや。
 師云ク、然り。学人最モ百丈の規縄を守ルべし。然ルにそノ儀式ハ護戒坐禅等なり。「昼夜に戒を誦し、専ら戒を護持す。」と云フ事は、古人の行李にしたがうて祗管打坐すべきなり。坐禅の時何の戒か持たれざる、何ノ功徳か来らざる。古人の行じおける処の行履、皆深キ心あり。私の意楽を存せずして、ただ衆に従ツて、古人の行履に任せて行じゆくべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


ここ数日、同じ箇所を幾つかに分けて紹介してきましたが、今日のお話しがその最後になります。道元禅師が、兄弟弟子になる「五根房」に対し、持戒にばかり把われる誤りを否定し、どこまでも坐禅をすべきであるとしました。

それに対し、この『正法眼蔵随聞記』の聞き手である、孤雲懐弉禅師は叢林では、百丈の清規(『禅苑清規』のこととされています)を守るべきだとし、その最初に、受戒や護戒について書いてあるとされるのです。よって、菩薩戒を受けた以上は、その戒経の序を唱えることに問題はないではないか、とされるのです。

しかし、道元禅師は、そのような戒も全て、坐禅に含まれているというのです。護戒とは、坐禅をすることだとされました。古人は、皆修行の基本が坐禅だったのだから、坐禅をすることの方が重要だとされるのです。江戸時代から、我々曹洞宗では、禅戒一如という考え方が提示されました。その淵源は、このような教えにあるのでしょう。

必要なら先輩にも指導せよ

2008-12-12 05:22:43 | 『正法眼蔵随聞記』
是れに依つて一門の同学五根房、故用祥僧正の弟子なり、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨テしめたりしなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


道元禅師が中国にいたときに、先輩であった「五根房」という僧侶がおりまして、この人は栄西禅師の弟子でした。

しかし、坐禅よりも、『梵網経』を日がな一日唱え、それによって仏道を得ることが出来ると思っていたようなのです。

ですので、道元禅師は、そのようなとらわれこそが、もっとも仏道から自身を遠ざける因縁であると教え、止めさせたというのです。

たとえ、相手が先輩であっても、道理に契わないことならば、議論して、止めさせた方が良いようです。

特定の教えに依存するのは全て誤り

2008-12-11 09:29:36 | 『正法眼蔵随聞記』
 然レばとて、また破戒放逸なれと云フにあらず。若シまた是ノごとク執せば邪見なり、外道なり。ただ仏家の儀式、叢林の家風なれば随順しゆくなり。是レを宗とすと、宋土の寺院に住せし時も、衆僧に見ゆべからず。
 実の得道のためにはただ坐禅功夫、仏祖の相伝なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


永平寺を開かれた道元禅師は、以上のように示され、持戒ばかりに把われて、そこから仏道が得られると思うのは間違っているが、一方で破戒して、好き勝手生きても良いとは示しておられません。

つまり、仏の家風、叢林の家風、そのような規則には従う必要を説いておられるのです。しかしながら、それを「宗」、つまり拠り所とするのは間違っているのです。

道元禅師が、仏道を得るためには、ただ坐禅功夫のみであるとされ、それこそがこれまでの仏祖が伝えてきた教えだとされるのです。では、坐禅を拠り所にして、問題はないのでしょうか。実は、坐禅とは、とらわれを排除する最適の手段になります。よって、坐禅を行えば行うほどに、とらわれが無くなるのです。

つまり、外形的には、坐禅に把われているように見えますが、内面的には、とらわれを無くしている、この「妙味」こそが、仏祖の伝えた真実だといえるのです。

極端から極端に行くのは仏教ではない

2008-12-10 05:43:30 | 『正法眼蔵随聞記』
 仏子と云フは、仏教に順じて、直に仏位に到らんためには、ただ教に随ツて功夫弁道すべきなり。その教に順ずる実の行と云フは、即チ今の叢林の宗とする只管打坐なり。是レを思フべし。
 また云ク、戒行持斎を守護すべければとて、また是レをのみ宗として、是レを奉公に立て、是レに依ツて得道すべしと思ふもまた是れ非なり。ただ衲僧の行履、仏子の家風なれば従ひゆくなり。是れを能事と云へばとて、あながち是レをのみ宗とすべしと思ふは非なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


昨日の続きの一文です。昨日の記事では、舎利信仰が良いと聞いたら、それだけを極端に信じる人への誡める内容でした。

しかし、道元禅師は、本来の仏道修行とは、仏の教えに従って、只管打坐することであるとしています。

そして、戒律を護ることだけが良いと思って、それだけを極端に行うことも誤りだとされます。また、戒律によって、仏道を得ると思うのも間違いなのです。とどのつまり、坐禅のみであると、そのような仏の家風にしたがって修行を進めるべきなのです。

信仰だけでは悟られぬ・・・

2008-12-09 05:23:59 | 『正法眼蔵随聞記』
是レを思フに、仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是レを仰ぎて得悟すべしと思はば、還ツて邪見なり。天魔毒蛇の所領と成る因縁なり。仏説に功徳あるべしと見えたれば、人天の福分と成る事、生身と斉し。惣て三宝の境界、恭敬すれば罪滅し功徳を得る事、悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずる事は実なり。是レによりて仏の悟リを得たりと執するは僻見なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-1


仏像や舎利というのは、如来が遺された物であって、当然敬うべきなのですが、そのように仰いでいるだけで、悟ることが出来ると思うのは誤りだと道元禅師はいうのです。

三宝を敬えば、滅罪し、功徳を得るわけですけれども、しかし、それがそのまま悟りに繋がるわけではないと、繰り返し示しているわけです。そうであれば、どのようにすれば、悟りに繋がるのでしょうか。

それは、また明日、採り上げたいと思います。

他人の意見を聞くなら吾我を捨てよ

2008-12-08 07:15:25 | 『正法眼蔵随聞記』
 示ニ云ク、俗の帝道の故実を言フに云ク、「虚襟にあらざれば忠言を入れず。」ト。言は、己見を存ぜずして、忠臣の言に随ツて、道理に任せて帝道を行ナフなり。
 衲子の学道の故実もまた是ノごとクなるべし。若し己見を存ぜば、師の言耳に入らざるなり。師の言耳に入ラざれば、師の法を得ざるなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-14


帝王というのは、自分の思い通りに政治を動かしたいものだそうですが、しかし、優れた帝王こそ、「己見」を有せずに、忠臣の言葉を入れて、道理にしたがった政治を行うのです。

同じように、修行者というのも、「己見」を持っている間は、師の言葉が聞き入れられないものです。よって、それを捨てて、師の法を得るべきだというのです。

普段から、我々も道理のかなった言葉に出会えるように、心を澄ましていたいものです。逆に、心を澄まし、耳を澄ましていれば、どのような言葉でも、自分にとって役立つものなのです。

仏道修行は卑下する必要がない

2008-12-07 06:24:32 | 『正法眼蔵随聞記』
 示ニ云ク、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然レども皆改めて知識に従ひ、教行に依リしかば、皆仏祖と成りしなり。
 今の人も然るべし。我が身おろかなれば、鈍なればと卑下する事なかれ。今生に発心せずんば何の時をか待ツべき。好むには必ず得べきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-13


仏というのは、元は凡夫であり、凡夫である以上悪い行いや、悪い心掛けの時もあったけれども、皆良き指導者に出会って、その教えや行いにしたがって修行し、よって仏祖になったというのです。

今の人も、自分の身が愚かで才能がないなどと卑下する必要はありません。とにかく、やる気を起こしてもらえば、それで良いのです。これは、仏道修行に限らず、どんな仕事に於いてもいえることでしょう。

最近の仕事は、賃金が低く、内容が厳しいものばかりだと聞いています。どうしても、やる気が出ないことが多いと思います。しかし、それで、自分のモチベーションが落ちれば、自分にとって不幸なことだと思います。

一方で、待遇改善の活動を行いながら、もう一方で、常に仕事にやる気を出す、この両方は疲れることですが、せっかくの人生、疲れて疲れて、それで良いではありませんか。