「理を心得たるように云へども、しかありと云へども、我レはその事が捨テ得ぬ。」と云ツて執し好み修するは、弥沈淪するなり。
禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-2
道元禅師は、坐禅をすべきだという道理を心得ても、他の修行が捨てられないとするのは、ますます悪くなるとしています。これは、ここに執着心が残るからです。
しかし、禅僧であれば、只管打坐すれば、どれほどの才能であろうとも、必ず好くなるのだとしています。問題は、坐禅という行いにあるのであり、持って生まれた才能などではないのです。
そして、坐禅を行うには、1人で坐っていては過ちを犯すのであり、必ず、指導者のいうことを聞かなければなりません。もし、坐禅会や勉強会を行っていると聞いたら、少し距離があっても、行って坐禅すべきです。
禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-2
道元禅師は、坐禅をすべきだという道理を心得ても、他の修行が捨てられないとするのは、ますます悪くなるとしています。これは、ここに執着心が残るからです。
しかし、禅僧であれば、只管打坐すれば、どれほどの才能であろうとも、必ず好くなるのだとしています。問題は、坐禅という行いにあるのであり、持って生まれた才能などではないのです。
そして、坐禅を行うには、1人で坐っていては過ちを犯すのであり、必ず、指導者のいうことを聞かなければなりません。もし、坐禅会や勉強会を行っていると聞いたら、少し距離があっても、行って坐禅すべきです。