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満福山城国寺

宮城県栗原市にある曹洞宗の満福山城国寺のブログです。

仏法を学ぶにはよくよく聞かなければならない

2008-12-06 09:35:21 | 『正法眼蔵随聞記』
示に云ク、当世学道する人、多分法を聞ク時、先ヅ好く領解する由を知られんと思ウて、答の言の好カらんやうを思ふほどに、聞くことは耳を過ゴすなり。詮ずる処道心なく、吾我を存ずる故なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-9


道元禅師は、仏法を学ぶ者の中に、自分が良く理解している事を認めてもらおうとして、大して聞きもせずに分かったつもりになっている者が多いと批判しています。

そして、今でも、同じように自分が何のために、仏教を学ぶのかを知らない人がいます。けっして、知識を誇ったり、自分の頭の良さなどを誇るためではないはずです。

吾我を捨てるには、ただ虚心に師の教えを聞けば良いのです。非常に簡単な話です。

法を惜しむことはありません

2008-12-05 10:08:38 | 『正法眼蔵随聞記』
俗の云ク、「我れ金を売れども人の買フ事無ケればなり。」ト。仏祖の道も是のごとし。道を惜シむにあらず、常に与フレども人の得ざるなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-7


最近、お寺に物事を相談しに来る人が少なくなったように思います。お寺という場所は、決して自分からは教えを説きに回ったりはしません。しかし、来た人には、最大限の功徳を得て帰って欲しいと願っています。

ですから、物事を相談しに来た人には、親身になって、一緒になって、問題の解決法を考えて差し上げたいと思っています。しかしながら、我々は仏教徒です。よって、お釈迦さまや、道元禅師・瑩山禅師という先達の教えに基づいて、物事を考えるようにしています。

そうなると、なんだか、抹香臭いとか、押しつけがましいとか、そういうイメージを持たれてしまうことが多いように思います。お釈迦さまにしろ、道元禅師・瑩山禅師にしろ、その教えとは、我々自身の心をどうするかということに尽きるわけです。

つまり、多くの問題について、もちろん、社会的な苦が産み出されることがありますが、それ以外には、意外と自分自身の執着が、問題をややこしくしていることがあるわけです。それを解きほぐす方法を伝えたい、そう願って、毎日毎日お寺を守っているわけです。

僧侶は常に本気で答える存在

2008-12-04 05:12:47 | 『正法眼蔵随聞記』
一日示ニ云ク、人、法門を問ふ、あるイは修行の方法を問フ事あらば、衲子ハすべからく実を以て是レを答フベシ。若シクは他の非器を顧み、あるイは初心未入の人意得べからずとて、方便不実を以て答フべからず。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-8


もし、一般の人が、教えの内容や修行の方法を聞いてきたならば、禅僧は真実をもって答えるべきだという、道元禅師の教えです。「方便」などという便利な言葉を使って、「相手が理解できないから」「初心者に相応しい言葉で」などと、余計な気を遣ってはならないのであります。

本音と建て前という言葉がありますが、常に本音を答えるべきだともいえましょう。僧侶は、世を渡るのに、自分が偉くなろうなどと思ってはならないのです。常に本気で、真実を語るように訓練しなければなりません。そして、聞き手の側も、真実をいって欲しいと願わなくてはならないのです。どれほどに耳障りな言葉であってもです。

もしも悟りを開いたら?

2008-12-03 04:25:17 | 『正法眼蔵随聞記』
学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思ウて行道を罷ル事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-5


永平寺を開かれた道元禅師は、もし修行者が悟りを得ても、今が最高の状態だと思ったりして、修行を止めてはならないとしています。むしろ、道元禅師の悟りとは、何かの「欠乏」を生み出すものです。

よって、悟りを得れば、尚更修行をしなければならないのです。ちょうど今は「臘八摂心」ですけれども、これも悟りを得たから修行しなくても良い、ということはなく、修行と悟りとは一等であると自覚し、どこまでも修行をしなければならないのです。

坐禅の効能

2008-12-02 09:58:34 | 『正法眼蔵随聞記』
曹洞宗では、坐禅の効能について、強く訴えることはありませんが、しかし、永平寺を開かれました道元禅師は次のように仰っています。

禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-2


禅僧とは、只管打坐によって好き人となるのです。それは、生まれながら持った才能などに依存せず、誰でもそうなるのです。今は、臘八摂心でもあります。多くの皆様に、坐禅に親しんでいただけることを願っております。

宮城県栗原市花山にある当城国寺でも、近い内に、多くの皆様に坐禅をしていただけるような環境整備をしたいと思っております。

優れた指導者に会う大切さ

2008-11-30 07:20:09 | 『正法眼蔵随聞記』
初心の学道の人は、ただ衆に随ツて行道すべきなり。修行の(用)心故実等を学し知らんと思ふ事なかれ。用心故実等も、ただ一人山にも入り市にも隠れて行ぜん時、錯なくよく知りたらばよしと云ふ事なり。衆に随ツて行ぜば、道を得べきなり。譬ば舟に乗りて行クには、故実を知らず、ゆくやうを知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも知ラざるも彼岸に到るがごとし。善知識に随ツて衆と共に行ジて私なければ、自然に道人なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-5


曹洞宗の高祖であり、大本山永平寺を開かれた道元禅師は、修行の初心者は、余り自分の思いを優先させずに、周囲の仲間、あるいは優れた指導者にしたがって修行をすれば良いとしました。

特に、船の譬えは面白いですね。我々禅宗は、「自力の宗教」であるともいわれますので、全部自分で決めるのが尊いと考えられておりますが、指導者に任せれば、特に自分のことを知らなくても、優れた修行者になるというのです。

それでは、優れた指導者とはどのような人でしょうか。道元禅師は別の著作で、修行も悟りも具えた人であり、自分の見解を優先させずに、さらに指導者からその境涯を認められた人だとしました。

我々も、多くの檀信徒の方にとって、良き仲間、必要であれば指導者となって導けるようにしています。檀信徒の皆様、どんなことでも結構ですから、当寺にいらっしゃってご相談ください。

心を整えるには体を整える

2008-11-29 05:30:44 | 『正法眼蔵随聞記』
身躰血肉だにもよくもてば、心も随ツて好くなると、医法等に見る事多し。況ンや学道の人、持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて、身儀ををさむれば、心地も随ツて整なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-3


普段から、履き物を揃える、丁寧に挨拶する、そういう行いを通して、我々は心を整えていくという、道元禅師の教えです。心の不調とは、実は体の不調から来ているのです。

よって、明らかに疲れているときには、早寝早起きの生活に切り替え、無理をせず、悩みがあるときにも、ウジウジと考えず、まず行動すること、これが良いとされているのです。

その時、むやみやたらに行動したり、体を動かしては、かえって心は悪くなる一方です。これまで、正しい生き方をしてきた仏さま、あるいはその教えを受け継いできた祖師と呼ばれる僧侶の教えを学んでおく必要があるのです。

仏教とは、自分の体を整え、そして結果的に心を整える教えなんだと理解し、日々の生活に活かしていただければ良いと思います。合掌

大切にしたい心

2008-11-28 10:00:38 | 『正法眼蔵随聞記』
示ニ云ク、先聖必ズしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思へば幾ばくならず、在世を考フるに人皆俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり。比丘衆の中に不可思議の悪行するものあり、最下品の器量もあり。然れども、卑下して道心をおこさず、非器なりといツて学道せざるなし。
    『正法眼蔵随聞記』巻1-2


曹洞宗の高祖であり、福井県にある大本山永平寺を開かれました、道元禅師の言葉です。内容は、「私などはその能力がありませんから」などと、自ら卑下して、修行のやる気を起こさない者を諫めるものです。

「利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」という教えもありますが、誰でも坐禅をすれば、必ず良い人になります。この良さとは、見た目や振る舞いにはなかなか現れませんが、少しずつ少しずつ、その人を良い方向に良い方向にと変えていってくれるのです。

現代の若者というのは、他人に対する評価が厳しいという意見があります。そして、その批評眼を自らに向けてしまい、厳しく判断して自信を失っているという見方もあるそうです。

逆に、他人の良さを見る目を養えば、自分にもどのような能力があるのかが見えてくるように思います。そして、せっかく他の人と一緒に生きていくのであれば、悪いところではなくて、良いところを見てみたいものだと思います。