goo blog サービス終了のお知らせ 

満福山城国寺

宮城県栗原市にある曹洞宗の満福山城国寺のブログです。

困っている人に対して僧侶はどう応対すべきか?

2014-01-16 16:41:00 | 『正法眼蔵随聞記』
夜話ニ云ク、若シ人来ツて用事を云フ中に、あるイは人に物を乞ヒ、あるイは訴訟等の事をも云はんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我レはなり、遁世篭居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂ハんは非なりとて、眼前の人の所望を叶へぬは、その時に臨ミ思量すべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-16


道元禅師の時代には、「出家遁世」した人のことをと呼びました。要するに、一切の世俗に関わらない人のことです。ところが、僧侶で様々な学問を積んだ人もおりましたので、世俗の人から物事を頼まれることもありました。

道元禅師は、自分が出家遁世しているとしても、そのような依頼に対して、全く応えないということは極端なので、その時々の状況を考え、必要であればその依頼に応えていくべきだとしたのです。

結局、困っている人に、積極的に手を差し伸べるべきだとは書いていませんが、助けを求めて伸ばしてきた手を振り払うようなことはしてはならないというのです。

僧侶への供養は効果がある

2009-05-06 14:42:36 | 『正法眼蔵随聞記』
 末世の比丘、聊カ外相尋常なる処と見ユれども、また是レに勝リたる悪心も悪事もあるなり。仍て、好キ僧、悪シキ僧を差別し思フ事無クて、仏弟子なれば此方を貴びて、平等の心にて供養帰敬もせば、必ズ仏意に叶ツて、利益も速疾にあるべきなり。
 また冥機冥応、顕機顕応等の四句有る事を思フベシ。また現生後報等の三時業の事も有り。此等の道理能々学スベキなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-15


末世の比丘は、外見は多少まともそうでも、内面は何を考えているか分からないと道元禅師は指摘します。しかし、だからこそ、僧の善悪を付けてしまうことはないとしています。つまり、供養することが、何であれ結果としての功徳をもたらすのです。

よって、在家人は僧侶に供養をしていれば良いのだ、と道元禅師はいわれます。また、その功徳がいつおとずれるかは分かりません。しかし、必ず得るものなので、ただ真心から信じれば良いというのです。

僧侶の行いを見てはならない

2009-03-29 08:06:47 | 『正法眼蔵随聞記』
 爰に有ル在家人、来ツて問ウテ云ク、「近代在家人、衆僧ヲ供養じ仏法を帰敬するに多く不吉の事出来ルに因ツテ、邪見起りて三宝に帰(敬)せじと思ふ、如何。」ト。
 答ヘテ云ク、即チ衆僧、仏法の咎にあらず。即チ在家人の自ガ誤なり。そノ故は、仮令人目ばかり持戒持斉の由現ずる僧をば貴くし、供養じ、破戒無慚の僧の飲酒肉食等するをば不当なりと思ウて供養セず。こノ差別の心、実に仏意に背けり。因ツて帰敬の功も空シく、感応無キなり。戒の中にも処々にこの心を誡めたり。僧と云はば、徳の有無を択バず、ただ供養スベキなり。殊にその外相を以て内徳の有無ヲ定ムベカラず。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-15


或る在家人が、僧侶を供養して、仏法に帰依しても不吉なことが起こるのは、この行いが実は悪行だからではないか、と考えていたようです。そして、その理由を、僧侶の堕落が原因になっていると考えているのです。

しかし、道元禅師はそのように僧侶の善悪を見ようとしている在家人の心こそが問題であるとし、そのように外面ばかりを見て供養するかどうかを決めようとするから、功徳も出てこないというわけです。

無論、道元禅師の教えですから、僧侶に好き勝手生きれば良いと定めているわけではないと言えましょう。しかし、僧侶の良し悪しについて、在家人に決める資格を与えているわけでもないと言えるわけです。

善事と悪事

2009-03-12 10:36:17 | 『正法眼蔵随聞記』
人も知ラざル時は潜に善事を成し、悪事を成シて後は発露して咎を悔ゆ。是ノごとクすれば即チ密々に成ス所ノ善事には感応有り、露レたる悪事は懺悔せられて罪滅する故に、自然ニ現益も有るなり。当果をも知ルベシ。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-15


道元禅師は、他人に知られないように善事を為し、悪事を為したならば直ちにそれを明らかにして、その咎を悔いるように求めています。普通に考えれば、逆のことをしようとしてしまいます。要するに、良いことをすれば明らかにしようとし、悪いことをすれば隠そうとするのです。

しかしながら、結局善悪の行為の功徳はそのまま残り続けてしまいますから、その時は良いと思っていても、結局は人生に上手く行かなくなるのです。淡々と良いことを進めていれば、いつの間にかその功徳も明らかとなり、逆に悪いことを抑えてたり、正しく懺悔できていれば、その功徳も明らかとなるのです。心を真っ直ぐにして人生を送りたいものです。

悪事を隠し善事を誇る人達

2009-02-28 05:23:02 | 『正法眼蔵随聞記』
夜話ニ云ク、世人多く善事を成す時は人に知ラれんと思ひ、悪事を成ス時は人に知ラれじと思ふに依ツて、こノ心冥衆の心にかなはざるに依ツて、所作の善事に感応なく、密に作ス所ノ悪事には罰有るなり。己に依ツて返りて自ラ思はく、善事には験なし、仏法の利益なしなんど思へるなり。是レ即チ邪見なり。尤も改ムベシ。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-15


夜話というのは、道元禅師が夜に、修行僧たちと様々な法談を行っていたことを示すものです。その中で、世の中の人々の気質を批判しています。その気質というのは、良いことをしたときには多くの人に知られようとして誇り、逆に悪いことをしたときには人に知られないように隠すということです。

ところが、道元禅師は、このような心は、この世界を見守っている冥界の者達の心に契わないので、良いことが良いことと認められず、隠した悪事がバレバレだと仰っているわけです。

しかも、その心根が悪いのに、正しく応えてくれない者達を逆恨みして、「良いことをしても意味は無い」などと考えてしまうのは、尚更に誤っているわけです。つまり、我々は淡々と良いことを行い、悪事を抑えるべきだということです。

言葉に引かれて心も起こる

2009-02-24 05:56:50 | 『正法眼蔵随聞記』
聖教の中にも、「麁強ノ悪業ハ人ヲシテ覚悟セシム、無利の言説は能ク正道を障ふ。」ト。ただ打チ出し言ふ語すら利無キ言説は障道の因縁なり。況ンや然ノごとキ言説ノことばに引カれテ、即ち心も起りつべし。尤も用心すべきなり。わざとことさらいでかくなんいはじとせずとも、あしき事と知リなば漸々に退治すべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-14


道元禅師は、様々な場合で、仏道に於いて無益な言葉を使わないように弟子達に求めています。それは、このような教えが根底にあるからでしょう。つまり、利益がない言葉は、正しい仏道を学ぶのに障りとなってしまうのです。

無益な言葉を用いれば、仏道にとって無益な心が起こるのです。これはもっとも用心すべきであるとしています。もし、仏道を学ぶのに悪いと知ったならば、徐々にでも退治すべきなのです。

これは、仏道に於ける「身口意の三業」が、能く三毒を生み出すことに由来しています。よって、これらの三つを正しく用いることが必要なのです。日常の行動から、言葉遣い、そして想いも全て、仏道を学ぶのに適した状況としていく必要があるわけです。

道場での雑談禁止

2009-02-20 05:48:55 | 『正法眼蔵随聞記』
宋土の寺院なんどには、惣て雑談をせざれば、左右に及ばず。我ガ国も、近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも是のごとキ言語出来ラず。滅後も在世の門弟子等少々残リ留マリシ時は、一切に言ハざりき。近ごろ七八年より以来、今出の若人達時々談ズルなり。存外の次第なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-14


中国の修行道場では、猥談を始めとする余計な話(雑談)はしていなかったとしています。日本でも、建仁寺の僧正(栄西禅師)がご存命の頃にはそのような言葉が語られることはなかったわけですし、栄西禅師が亡くなった後も、その門弟が建仁寺にいた頃には余計なことは言わなかったそうですが、この『随聞記』が語られた頃には違ったようです。

しかも、キチッと指導を受けていない若い者達が余計なことを語るようです。いつでも、新入りの人を指導する必要性を感じさせる教えですね。

猥談禁止でございます

2009-02-14 11:08:14 | 『正法眼蔵随聞記』
雑話の次デに云ク、世間の男女老少、多く雑談の次デ、あるいは交会淫色等の事を談ず。是レを以テ心を慰メンとし興言とする事あり。一旦心も遊戯し、徒然も慰むと云フとも、僧は尤モ禁断すべき事なり。俗なほよき人、実しき人の、礼儀を存じ、げにげにしき談の時出来らぬ事なり。ただ乱酔放逸なる時の談なり。況ンや僧は、専ら仏道を思フべし。希有異躰の乱僧の所言なり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-14


道元禅師が、猥談を禁止した箇所として知られることです。そんなことを話している暇があるのなら、仏道のことを思えといっております。同じように、世俗の様々なことも、話すべきではないのでしょう。人間関係についてだとか、金銭の収入だとか、そういうことは皆、無用なことなのです。

しかし、実際にはその逆のことが多いわけですが、常に仏道を思わずに、どうして仏道を得ることが出来ようか。

国に賢一人出来らざれば賢の跡廃るる

2009-02-12 05:56:26 | 『正法眼蔵随聞記』
また云ク、文選に云ク、「(一)国は一人ノ為ニ興リ、先賢ハ後愚ノ為ニ廃ル」ト。文。言ふ心は、国に賢一人出来ラざれば賢の跡廃ルトなり。是レを思フべし。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-13


道元禅師は、幼い頃から仏典以外の外典も読んでいたとされ、此処で引用されている『文選』は、中国の南北朝時代、梁帝国の昭明太子によって編纂されたとされる詩文集です。

全30巻もあり、春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録しています。今回のはその1つになります。

仰っていることは、要するに国が栄えるのは、一人の賢人が出るからであり、賢人が出ない場合には廃れてしまうということです。道元禅師は、師である如浄禅師の教えを受けて、自らを「仏法の総府」だと考えていました。よって、この賢人というのも、世俗的な賢さを問うているのではなくて、仏法を体得している者、という意味で捉えられているわけです。

人人皆仏性有り

2009-02-09 07:59:40 | 『正法眼蔵随聞記』
 問ウテ云ク、破戒にして空シく人天の供養を受け、無道心にして徒らに如来の福分を費ヤさんよりは、在家人にしたがうて在家の事を作シて、命いきて能ク修道せん事、如何。
 答ヘテ云ク、誰か云ツし破戒無道心なれと。ただ強ヒて道心をおこし、仏法を行ずべきなり。何ニ況ンや持戒破戒を論ぜず、初心後心をわかたず、斉シく如来の福分を与フとは見エたり。未ダ破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見エず。誰人か初めより道心ある。ただ是ノごとク発し難きを発し、行じ難きを行ずれば自然に増進するなり。人々皆仏性有ルなり。徒らに卑下する事なかれ。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-13


或る者が、破戒僧であり、道心を発すことも出来ず、虚しく供養をしてもらっているくらいなら、むしろ在家人のような生き方、或いは還俗した方が良いのではないかと聞いたそうです。

それに対して道元禅師は、破戒僧でも、道心が無くても、出家の立場を止めてはならないと示されます。むしろ、そのような者でも、如来は福分を遺しておいていただいていて、我々には仏性があるのだから、卑下せずに修行に励むように説いておられます。

菩薩戒とは、破戒持戒を論じてはなりません。しかし、常に道心を発すようにしなければならないというだけなのです。我々も、このような道元禅師の言葉を励みに、道心を発して、檀信徒の安寧に寄与したいと思います。