徒然なる写真日記

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足尾銅山 購買組合三養会(1)

2016-09-24 02:01:31 | 足尾/足尾銅山
 足尾銅山の生活協同組合の起源を調べる

 少し前に、足尾羊羹の記事でも触れたが、足尾の生活協同組合「三養会」が2016年9月末日で解散となる。
私自身は足尾で生活したことがないのでなじみは少ないのだが、父方の遠い祖先、その兄弟たちの家族、曽祖父母、祖父母、幼年時代の父と
明治~昭和初期まで足尾で過ごした方々には生活用品の供給先として利用してきた有り難い存在であったであろう。
昭和48年に銅山閉山後も、今まで足尾の人々の生活購買のよりどころであった生協。

その長い歴史を 龍蔵寺の住職であった大田貞祐さんの書かれた 続・足尾銅山の社会史 の中から読み解いていこう。

2016 8月現在の通洞三養会 売店  銅山観光の手前にある


昭和の時代の通洞三養会



(明治~大正期)

足尾銅山の早創期には宇都宮 鹿沼 今市方面から物資を購人して 馬の背に積んで足尾に運搬していたが、人口が増えるにしたがって
日光町に銅山出張所を設置して、仕入れをした。 明治二十三年十一月、日光~細尾足尾地蔵坂間(二七九〇m )に日本最初の本格的な鉄索が出現した。 同時に馬車鉄道も足尾各地にその運転を開始した。さらに 明治三十三年に細尾~足尾栃木平間に鉄索が出来て便利になった。
 神子内の栃木平出張所は、日光から到着した諸物資を保管したり 馬車鉄道で各倉庫への配給をした。
 足尾鉄道の開通とともに、すべての物資は鉄道で運搬されるようになり、大正二年一月掛水の足尾駅わきに中央倉庫が出来て、神子内出張所は廃止された。

写真は足尾銅山写真帳(小野崎一徳氏)から。 明治20~21年の本山:倉庫付近 馬車鉄道による米俵の運搬風景。坂が多い場所だったらしく、
より力の強い牛までもが使われている



・倉庫制度について
明治時代の足尾銅山
鉱夫にとって日常必要な日用品は銅山(足尾鉱業所)が倉庫品(売店用品)として一括購入し、鉱夫たちに貸下げした。 これらの販売は現金によらずに従業員各人に通帳(貸下品請求帳)を渡し、 代金はまとめて月末に賃金から差し引くという形を取ったのてこれを貸下げといった。
 取扱品目は上米、並米、上味噌、並味噌、塩、郵便切手、蝋燭、マッチ、木炭を始め衣類その他一切の日用品なと八十四品目が含まれていた。
 さらに しょう油、酒、茶、石鹸には上と並があり、役員には上もの 労働者には並ものを同価格にて貸下げした。
しかし この不公平な貸下げ法は後に問題になった。
*上米と並米について
上米は役員に並米は鉱夫に貸下げした。上米は日本米、並米には多くの外米の南京米が混じっていた。
南京米は南京袋に入れて運ばれて釆たので、当時の足尾の長屋には南京虫が蔓延し、住民は悩まされた。
なおこの並米はまずくて常に坑夫たちの不平の種てあったのである。
明治四十年二月の足尾暴動時に坑夫たちは鉱業所に対し同価にて粗悪品の貨下げの不公平をなくすよう強く要求している。

このような倉庫制度により、従業員たちは作物の作不作や物価の変動にほとんど左右されることなく、生計の営みが出来るようになった。 彼等は物品購入のさい、倉庫係に来て口頭で請求する。 書記が帳簿に記人して切符を与え、 同時に給料から差し引く余裕があるかどうかを査定する。 その上で渡しロから現品を渡すことになっていた。 月末に給料から貸下けの総計額が差し引かれて、本人の手取りとなった。 その手取りを「あがり」といい、赤字を「さがり」といった さがりの鉱夫は倉庫にて物品購入が出来ず、さがリを苦に逃亡する坑夫もいたのて飯場の頭役や組頭は神経を使った。 さらに飲む打つ買うの好きな坑夫には借財がかさんだ。 借財は友子の親分や兄弟分が弁済の責任を持っていたのて 友子組合を除名にし、その名を全国の鉱山の友子組合に回章するという制裁を加えたという。
 
明治 大正 昭和初期と 坑夫は飯場に住もうと長屋に住んでいようと、全員がいずれかの飯場に所属していて、飯場頭の管理下にあったのは会社の方針によったものである。
鉱業所は最初の頃は倉庫課を置いたが 明治三十年よりは調度課に倉庫係を置き、本山倉庫のほか、小滝、通洞、下問藤につぎつぎに倉庫や支局を設けて 安値で販売した なお、貸下げは日常必要な生活必需品ばかりはなく、仕事上の必要品にも行われた。 例えば、坑夫にとって必要なカンテラ、導火、セット、ハンマー、縄、叺(かます)等であった。 これは、その日暮らしに追われる坑夫が安心して就業出来るためでもあった。
 明治三十六年雑貨など大幅にその貸下げ品目を減らした。蝋燭、マッチ、半紙、茶碗、梅干、かずのこ、種油、ランプホヤなとが減り、三十五品目となった。 種油やランプホヤがなくなったのは電灯の普及のためであり、その他は商店との競合を避けたためであろう。 その頃 赤倉 問藤の町部は発展し、商店も振い、商品の品数も増え、便利になっていたのである。
 また 大正三年七月、町部の商業組合より銅山三養会廃止運動が起こり、次いで倉庫貸下品の中の雑穀の貸下げ廃止の請願があったので、大麦、豆類、下駄類なとの貸下げを廃止している。 
  
・その後の倉庫制度

 第一次大戦後 諸物価が上昇したが なかでも米価は大正六年夏頃より異常に上昇した。 そのために大正七年七月から全国に「米騒動」が起こった。足尾では貸下米制度のため騒動は起こらなかった。
大正八年の和米の東京での仕入値段は、1石三十五円前後であったが、足尾では十七円(一升十七銭)で鉱夫に貸下した。
米価の対価は鉱業所が支給したので、これを米価補給制度といった。

大正八年の貸下け品目は白米,味噌、しょう油、酒、カーバイト、カーバイト入れ缶、ガスカンテラ、導火、叺等、十七品目に減っている。これによると、米などの差別配給が一応無くなったが、やはり鉱夫には和米(台湾米などの外米を混合したもの)が配給されており問題は残った。最初に賃下げした種油、セット、ハンマー、武力(ブリキ製)、カンテラがなくなりカーバイトやガスカンテラに変わったことに気が付く。これは労働者の生活の向上や仕事の変化なとを意味していよう。
坑夫の仕事について言えば、この頃からセットとハンマーによる手掘りから削岩槻による機械掘りに変わったことを意味してしる。 カンテラの燃料も種油からカーバイトに変り ガスカンテラに改善された。

 また 貸下げ総額が鉱夫の稼き高を越えないことや、転売防止の目的のため 単身鉱夫にして飯場その他に同居している者には貸下げをしない。 採鉱夫は自由に貸下げを受けることがてきるが、採鉱夫以外の一般鉱夫には稼ぎ金の七割以下の貸下けしかしないとの制限をしている。
 また 米の貸下けは一日 本人->七合 家族は十五歳以上男->五合 十七歳以上女->四合 十二歳以上男->四合 四歳以上->三合 なお 木炭の貸下げは家族持ち鉱夫一でて 冬場(十一月~3月)は三俵 春秋(四、五、六、十月)二俵 夏(七~九月)一俵。 同居者一人冬場のみ一俵半という制限があった。 これは廉価て購人出釆たための転売防止策であった。

(続く)

 (以上 続・足尾銅山の社会史 から抜粋)


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