足尾に初めて行った日の写真が古いアルバムにあった。
昭和45年(1970)11月である。 記憶がもうあまり・・
まだ自家用車がなかったので 宇都宮から東武線で栃木まで、そこから両毛線で桐生まで、さらに当時のJR足尾線で 足尾?か間藤駅へ。
宇都宮にお墓を建てたので、足尾のそれまでの墓から、父の兄弟と祖父を分家したと聞いた。
足尾線の気動車の暖房が効きすぎていたのと、たぶんお寺が寒かったのか次の日、熱を出して学校を休んだのは覚えている。
今まで分骨した先祖のお墓があったお寺は、赤倉の龍蔵寺かと思い込んでいたが、写真を見たら足尾駅近くの赤沢の宝増寺であった。
宝増寺
背景は足尾銅山製錬所 赤倉の古河橋付近と思われる。おそらく龍蔵寺に行った帰りだろう。明治17年に生野銀山から足尾にやってきた先代の墓が龍蔵寺にある。龍蔵寺から見る製錬所の煙突と松木集落の合同墓塔は記憶にある。
3つ並んだ製錬所硫酸タンク。現在でも錆びてはいるがこのタンクは残っている。‟やまいち”のマークがある。 これは初代:古河市兵衛が‟山一筋”の意味を込めたマークだとか
初めてに訪れた当時の足尾の印象としては・・ 小学生なりにモノクロの世界、モノトーンの印象が強かった。 間藤~赤倉の山々は緑が見えない岩山、その付近の鉱山社宅の長屋は、屋根や建屋が黒いくすんだ色をしていた様だった。腐食防止のコールタールでも塗っていたのだろうか。
写真は 本山地区である。幼少時の自分が立っている橋が、出川にかかる橋で本山有木坑口に続くレールがかかっていた。上の方に本山坑に向き合う形で祠が見えるが、杉菜畑山神社である。 当時どうやってここを訪れたのか全く記憶にない。間藤駅から歩いていくにはちょっと遠くて坂道がきついし・・タクシーを使ったのだろうか?それともバスがあったのか?
上の写真の右側。上の方にグラウンドのネットや,山の斜面の石垣上の平地には社宅や事務所が立ち並んでいる
2枚の写真を合成してみた。 3か月ほど前に行ってみたが、もちろんこの景色は既にない。本山地区は閉山してからすぐに社宅は無人となり、
取り壊された様だ。 今は社宅の石垣と神社の鳥居が残るのみ・・ 上の神社には祠は残っている様だが、藪が深くて容易に近づけないし、木々に覆われて下から祠は見えず。
小滝抗は昭和28年に閉山、 本山と通洞は昭和48年2月に閉山する。この写真の時から3年後だ。
ここで昭和45年付近の足尾銅山史から当時の記事を見てみる
44年(1969) 5月:高松氏が所長就任。就業時刻変更など実施。 松原と赤沢に大火発生。足尾公民館が竣工。
45年 (1970) 有越採掘跡等の散水による機械収銅が稼働開始。クルー採鉱を下部で実施、以後稼行範囲を拡大する。
46年 (1971) 6月 通洞、本山の抗制を廃止、採鉱課を3採鉱係に再編成する。陶管製造プロジェクト開始、事務鉱員の社内配転始まる
47年 (1972) 4月 鉱業所、製錬所、陶管工場が合併し、足尾事業所が発足。 上期決済で1億余の大幅赤字、下期は月割予算となる。 10月の役員会で足尾閉山を決定、 11月 閉山の事前協議開始。
足尾町の人口推移
大正5年が38,428人でピーク 昭和45年 11,476 昭和48年閉山時 9,632 平成10年 3,954
足尾銅山 産銅量
大正6年 15,735t でピーク 昭和45年 5,141t 昭和48年 105t
昭和45年(1970)11月である。 記憶がもうあまり・・
まだ自家用車がなかったので 宇都宮から東武線で栃木まで、そこから両毛線で桐生まで、さらに当時のJR足尾線で 足尾?か間藤駅へ。
宇都宮にお墓を建てたので、足尾のそれまでの墓から、父の兄弟と祖父を分家したと聞いた。
足尾線の気動車の暖房が効きすぎていたのと、たぶんお寺が寒かったのか次の日、熱を出して学校を休んだのは覚えている。
今まで分骨した先祖のお墓があったお寺は、赤倉の龍蔵寺かと思い込んでいたが、写真を見たら足尾駅近くの赤沢の宝増寺であった。
宝増寺
背景は足尾銅山製錬所 赤倉の古河橋付近と思われる。おそらく龍蔵寺に行った帰りだろう。明治17年に生野銀山から足尾にやってきた先代の墓が龍蔵寺にある。龍蔵寺から見る製錬所の煙突と松木集落の合同墓塔は記憶にある。
3つ並んだ製錬所硫酸タンク。現在でも錆びてはいるがこのタンクは残っている。‟やまいち”のマークがある。 これは初代:古河市兵衛が‟山一筋”の意味を込めたマークだとか
初めてに訪れた当時の足尾の印象としては・・ 小学生なりにモノクロの世界、モノトーンの印象が強かった。 間藤~赤倉の山々は緑が見えない岩山、その付近の鉱山社宅の長屋は、屋根や建屋が黒いくすんだ色をしていた様だった。腐食防止のコールタールでも塗っていたのだろうか。
写真は 本山地区である。幼少時の自分が立っている橋が、出川にかかる橋で本山有木坑口に続くレールがかかっていた。上の方に本山坑に向き合う形で祠が見えるが、杉菜畑山神社である。 当時どうやってここを訪れたのか全く記憶にない。間藤駅から歩いていくにはちょっと遠くて坂道がきついし・・タクシーを使ったのだろうか?それともバスがあったのか?
上の写真の右側。上の方にグラウンドのネットや,山の斜面の石垣上の平地には社宅や事務所が立ち並んでいる
2枚の写真を合成してみた。 3か月ほど前に行ってみたが、もちろんこの景色は既にない。本山地区は閉山してからすぐに社宅は無人となり、
取り壊された様だ。 今は社宅の石垣と神社の鳥居が残るのみ・・ 上の神社には祠は残っている様だが、藪が深くて容易に近づけないし、木々に覆われて下から祠は見えず。
小滝抗は昭和28年に閉山、 本山と通洞は昭和48年2月に閉山する。この写真の時から3年後だ。
ここで昭和45年付近の足尾銅山史から当時の記事を見てみる
44年(1969) 5月:高松氏が所長就任。就業時刻変更など実施。 松原と赤沢に大火発生。足尾公民館が竣工。
45年 (1970) 有越採掘跡等の散水による機械収銅が稼働開始。クルー採鉱を下部で実施、以後稼行範囲を拡大する。
46年 (1971) 6月 通洞、本山の抗制を廃止、採鉱課を3採鉱係に再編成する。陶管製造プロジェクト開始、事務鉱員の社内配転始まる
47年 (1972) 4月 鉱業所、製錬所、陶管工場が合併し、足尾事業所が発足。 上期決済で1億余の大幅赤字、下期は月割予算となる。 10月の役員会で足尾閉山を決定、 11月 閉山の事前協議開始。
足尾町の人口推移
大正5年が38,428人でピーク 昭和45年 11,476 昭和48年閉山時 9,632 平成10年 3,954
足尾銅山 産銅量
大正6年 15,735t でピーク 昭和45年 5,141t 昭和48年 105t
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