2011年秋 JR東海『そうだ 京都、行こう。』キャンペーンポスター撮影の舞台に行く。
12/10(土) 朝、早起きしてJRで山科駅へ。
今年は紅葉のピークが1週間以上遅いとはいえ、もう12月、充分落葉しているだろうと期待半分、しかし色彩は期待薄、光の差込も早朝なので・・
人出は少ないほうがいいなあと思い早朝にしたのですが。
2011年秋のJR東海「そうだ、京都 行こう。」キャンペーンのポスター
JR山科駅から 東に少し行き、住宅街の通りを北に歩いて徒歩約20分
写真は帰りがけに振り返り写したもの
Am7時40分に到着。まだ朝日も昇っておらず少し暗い。向かって右、急な階段の参道が仁王門で本堂への表門。左方の緩やかな参道が目的の勅使門に続く参道。下の写真です。
両側の楓の木の葉はほとんど落葉して参道ヲ埋めており、ポスターの写真のように
赤く空を埋めるほどの景観はないが・・
まだ人出も少なく静かでいいね。カメラを構えている人はこの時点で自分含め3人
上の方から参道下部を見たところ
参道左側から見たところ
勅使門(ちょくしもん)
宸殿と共に第三世門主一品公弁親王が、後西天皇より拝領し、元禄六年(1693年)に移築完了した檜皮葺きの総門で、陛下の行幸、勅旨の代参、並に当門跡門主晋山の大事以外は一切開門されない。
勅使門周辺の紅葉
広場は一面の敷もみじ
玄関と宸殿
宸殿(しんでん)
御所にあった後西天皇の旧殿を貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院とした
仁王門と提灯
仁王門(におうもん)
急峻な石段の上にある本堂への表門にあたる。寛文五年(1665年)に建立された阿吽の二天像が護る。
仁王門へ登る石段。
本堂。
Am8:30。
カメラ撮影のいいアングル場所とりをする人が増えてきた。観光客はまだ少ない
勅使門内側の柵から眺める。 朝日がまだ低い
そうだ京都、行こう。 2011年・盛秋 毘沙門堂
山科・毘沙門堂
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。
ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。
創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である。
12/10(土) 朝、早起きしてJRで山科駅へ。
今年は紅葉のピークが1週間以上遅いとはいえ、もう12月、充分落葉しているだろうと期待半分、しかし色彩は期待薄、光の差込も早朝なので・・
人出は少ないほうがいいなあと思い早朝にしたのですが。
2011年秋のJR東海「そうだ、京都 行こう。」キャンペーンのポスター
JR山科駅から 東に少し行き、住宅街の通りを北に歩いて徒歩約20分
写真は帰りがけに振り返り写したもの
Am7時40分に到着。まだ朝日も昇っておらず少し暗い。向かって右、急な階段の参道が仁王門で本堂への表門。左方の緩やかな参道が目的の勅使門に続く参道。下の写真です。
両側の楓の木の葉はほとんど落葉して参道ヲ埋めており、ポスターの写真のように
赤く空を埋めるほどの景観はないが・・
まだ人出も少なく静かでいいね。カメラを構えている人はこの時点で自分含め3人
上の方から参道下部を見たところ
参道左側から見たところ
勅使門(ちょくしもん)
宸殿と共に第三世門主一品公弁親王が、後西天皇より拝領し、元禄六年(1693年)に移築完了した檜皮葺きの総門で、陛下の行幸、勅旨の代参、並に当門跡門主晋山の大事以外は一切開門されない。
勅使門周辺の紅葉
広場は一面の敷もみじ
玄関と宸殿
宸殿(しんでん)
御所にあった後西天皇の旧殿を貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院とした
仁王門と提灯
仁王門(におうもん)
急峻な石段の上にある本堂への表門にあたる。寛文五年(1665年)に建立された阿吽の二天像が護る。
仁王門へ登る石段。
本堂。
Am8:30。
カメラ撮影のいいアングル場所とりをする人が増えてきた。観光客はまだ少ない
勅使門内側の柵から眺める。 朝日がまだ低い
そうだ京都、行こう。 2011年・盛秋 毘沙門堂
山科・毘沙門堂
毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹である。
ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名がある。
創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれた。当初は出雲路(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といった。その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となった。伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である。
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