岐阜空襲から74年がたった8日、犠牲者を慰霊する「平和の鐘」式典が岐阜市司町のみんなの森ぎふメディアコスモスで開かれた。岐阜中央中学校の1年生や市民約150人が鐘を鳴らし平和への誓いを新たにした。
市主催で1990年から開いている。式典では体験者による語りもあり、9歳のときに岐阜空襲で父母と4人のきょうだい全員を亡くし、孤児になった各務原市各務東町の平光美那子さん(83)が空襲の惨状を語った。
一家は逃げるときに炎に巻かれたといい、平光さんは死に際に母が口にしていた子守歌を歌って、「父母はまだ30代だったが、目の前で次々と子どもを亡くし、つらい最期だった。悲惨で残酷な戦争に二度と巻き込まれることがないよう、平和な時代が続くことを願う」と言葉を詰まらせた。
柴橋正直市長は「つらい記憶を、若い世代に直接経験を伝えてもらえた」と話し、松久宗心市仏教会長、同校の生徒代表と、千羽鶴で飾られた「平和の鐘」を打ち鳴らした。約100人の生徒が平和の誓いを読み上げ、戦争の記憶を次世代へ継承すると宣言した。
駿河山にある時鐘楼で市民が鐘を突いて追悼し、市内の寺院約130カ所でも鐘を開放した。
岐阜市史によると、岐阜空襲では45年7月9日午後11時40分ごろから翌10日午前2時ごろまでの間、市内は米軍B29爆撃機による激しい空襲を受け、約900人が亡くなった。
市主催で1990年から開いている。式典では体験者による語りもあり、9歳のときに岐阜空襲で父母と4人のきょうだい全員を亡くし、孤児になった各務原市各務東町の平光美那子さん(83)が空襲の惨状を語った。
一家は逃げるときに炎に巻かれたといい、平光さんは死に際に母が口にしていた子守歌を歌って、「父母はまだ30代だったが、目の前で次々と子どもを亡くし、つらい最期だった。悲惨で残酷な戦争に二度と巻き込まれることがないよう、平和な時代が続くことを願う」と言葉を詰まらせた。
柴橋正直市長は「つらい記憶を、若い世代に直接経験を伝えてもらえた」と話し、松久宗心市仏教会長、同校の生徒代表と、千羽鶴で飾られた「平和の鐘」を打ち鳴らした。約100人の生徒が平和の誓いを読み上げ、戦争の記憶を次世代へ継承すると宣言した。
駿河山にある時鐘楼で市民が鐘を突いて追悼し、市内の寺院約130カ所でも鐘を開放した。
岐阜市史によると、岐阜空襲では45年7月9日午後11時40分ごろから翌10日午前2時ごろまでの間、市内は米軍B29爆撃機による激しい空襲を受け、約900人が亡くなった。
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