歯科医物語

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近代俳人列伝 その1 「短命だが近代俳句の俳聖 ー 正岡子規」 俳誌 「みづうみ」 2013 7月号掲載

2016-09-19 01:33:08 | ☆エッセイ・コラム

 正岡子規は明治時代を 代表する俳人。

俳句の革新を成し遂げたことは 人口に 膾炙。

芭蕉と並んで「俳聖」の称号でと呼ばれることも。





 彼の功績は 次の3つである。

1、俳諧から独立させて俳句という呼び名を与えたこと

2、江戸時代の陳腐な俳句を 月並み俳句と呼んで否定し、写生による俳句を確立させたこと

3、松尾芭蕉の真核化の否定と、与謝蕪村の再評価





 子規は1869年(慶応3年)現在の愛媛県松山市に生まれる。

1872年、幼くして父が没したため家督を相続することになる

外祖父・大原大観の私塾に通って漢書を習ったことが彼の文学の元になっている。





 1883年上京し、共立大学を経て 

1890年(明治23年)帝国大学哲学科に進学する。




 文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科。

この頃より「俳句分類」という仕事に没頭、

過去の俳句をひとつひとつ季題別に分類していった。




 1892年(明治25年)には日本新聞社に入社その誌上に

「獺祭書屋俳話」を掲載する。

その後明治28年「俳諧大要」明治30年に「俳人蕪村」を発表、

その中で写生に開眼する

そして 蕪村の再評価をする。





この運動は世間から承認される形となった。

日本新聞への投句社は、全国的に広がる。





 その後 「ホトトギス」誌上で 同じ運動を試みる。

前後するが、従軍記者として中国に渡り、帰国の船上で喀血。

その後、結核の 病状悪化





 「病牀六尺]という日記と[仰臥漫録」というエッセイを、

亡くなるまで書き続けた。





 筆者の好きな7句

あたたかな雨が降るなり枯葎

行く秋にとどまる汝に秋二つ

柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

いくたびも雪の深さを尋ねけり

ある僧の月も待たずに帰りけり

鶏頭の十四五本もありぬべし

五月雨や上野の山も見飽きたり





 明治35年9月18日午前11時、画板にはった紙に次の句


糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をととひの糸瓜の水取らざりき




 と、「病床に仰臥しつつ痩せに痩せたる手で書かれた気力の絶唱である。」

この碧梧桐の経過描写は実に精彩をきわめている。

そして、13時間後には永遠の眠りについてしまった

享年34歳11か月。

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