歯科医物語

歯科医、現在 休養中、「木偶庵」庵主、メインサイト http://www.jiro-taniguchi-fan.com/

片岡篤史は松坂大輔に「謝罪されました」

2021-07-11 16:52:00 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
片岡篤史は松坂大輔に「謝罪されました」。3年前に初めて話したあの空振りシーン
7/11(日) 10:50配信
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1999年4月7日、西武のルーキー松坂との初対決で空振り三振を喫した日本ハムの片岡
"平成の怪物"と呼ばれた西武の松坂大輔が、今季限りでの引退を決断した。  1998年に横浜高校で甲子園春夏連覇を果たし、鳴り物入りで西武に入団。1年目から16勝を挙げ、その年から3年連続で最多勝に輝くなど多くのタイトルを獲得。2007年からはボストン・レッドソックスでプレーし、同年のワールドシリーズでは日本人投手として初の勝利投手になった。 ◆高卒1年目でプロを見下ろす度胸。松坂大輔を支えた投球以外のすごさ  日本代表としても、シドニー五輪やアテネ五輪でエースとして活躍。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では2大会連続MVPに選ばれ、日本の連覇に貢献した。  そんな松坂を語る上で欠かすことのできない名シーンのひとつが、1999年4月7日のプロデビュー戦。当時の日本ハムの主力であり、パ・リーグを代表する強打者でもあった片岡篤史との対戦だ。  片岡は、当時を次のように振り返る。 「甲子園を春夏連覇した松坂のデビュー戦ということで、お客さん、報道陣の数も多かったですね。球場(東京ドーム)全体が異様な空気に包まれていました」  対戦前は「どんな投手なのか」という興味はあったものの、それでも相手は高校を卒業したばかりの投手。片岡自身も含め、日本ハムのベンチには「負けるわけがないという雰囲気だった」という。  しかし、初回の松坂の投球を見て、その意識が変わった。 「立ち上がりの投球を見て、『これは、ただの高卒ルーキーの投手ではない』と感じました。スライダーは、近鉄で長くクローザーを務めていた赤堀(元之)と同じくらいすごかったですし、西口(文也)や石井(貴)ら当時の西武にいたエース級の投手たちと遜色がないほどの完成度でした。あと、デビュー当時はまだ線が細かったですけど、体の強さも感じましたね」
片岡と松坂の初対戦は、初回二死、走者なしの場面。カウント2-2から松坂が投じたインハイへの155kmの直球を片岡が豪快にフルスイングするも、バットは空を切った。 「当時、自分は調子がよくて、伊良部(秀輝)の球でも空振りしない自信がありましたし、四球を取ることにも自信がありました(1998年・2000年の四球数はリーグ最多)。普段であれば、あのコースは見逃していると思うんですが、直球が来た時にストライクと思って振りにいきました。あんなふうに足から崩れるような空振りは、現役時代を通じてあまりしたことがないんですけどね。  当時の東京ドームはスピードガンで球速が出にくくて、伊良部でも150kmが計測されることは稀でした。そんな中での155kmですから。『可愛い顔をした兄ちゃんが、こんなにエグい球を投げるのか』と(笑)。松坂はメジャー時代もすごい球を投げていましたが、日本のマウンドで投げた球の中では、最高の球だったんじゃないかと思いますね」  勢いづいた松坂は、デビュー戦で8回2失点と好投し、プロ初登板・初勝利を挙げた。以降もイチローをはじめとした球界を代表する打者たちと名勝負を演じるなど、長らく西武、日本球界のエースとして君臨し続けた。片岡は言う。 「イチローと松坂の対戦は野球界を盛り上げましたし、僕らも松坂と対戦する時は気持ちの入り方が違いました。特に自分は、あのように豪快な空振り三振を喫していたので、余計に気持ちが入っていましたよ」  松坂の怪物ぶりを示すシーンとして、プロデビュー戦での片岡との対戦時の映像は、幾度となくメディアで紹介された。長い月日が流れた2018年、片岡が阪神の一軍ヘッド兼打撃コーチを務めていた際、松坂と話をする機会があったという。同年、ソフトバンクから中日に移籍して1年目の松坂は6勝を挙げたが、ある試合前の練習時にグラウンドで言葉を交わした。
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片岡篤史は松坂大輔に「謝罪されました」。3年前に初めて話したあの空振りシーン
7/11(日) 10:50配信
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1999年4月7日、西武のルーキー松坂との初対決で空振り三振を喫した日本ハムの片岡
"平成の怪物"と呼ばれた西武の松坂大輔が、今季限りでの引退を決断した。  1998年に横浜高校で甲子園春夏連覇を果たし、鳴り物入りで西武に入団。1年目から16勝を挙げ、その年から3年連続で最多勝に輝くなど多くのタイトルを獲得。2007年からはボストン・レッドソックスでプレーし、同年のワールドシリーズでは日本人投手として初の勝利投手になった。 ◆高卒1年目でプロを見下ろす度胸。松坂大輔を支えた投球以外のすごさ  日本代表としても、シドニー五輪やアテネ五輪でエースとして活躍。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では2大会連続MVPに選ばれ、日本の連覇に貢献した。  そんな松坂を語る上で欠かすことのできない名シーンのひとつが、1999年4月7日のプロデビュー戦。当時の日本ハムの主力であり、パ・リーグを代表する強打者でもあった片岡篤史との対戦だ。  片岡は、当時を次のように振り返る。 「甲子園を春夏連覇した松坂のデビュー戦ということで、お客さん、報道陣の数も多かったですね。球場(東京ドーム)全体が異様な空気に包まれていました」  対戦前は「どんな投手なのか」という興味はあったものの、それでも相手は高校を卒業したばかりの投手。片岡自身も含め、日本ハムのベンチには「負けるわけがないという雰囲気だった」という。  しかし、初回の松坂の投球を見て、その意識が変わった。 「立ち上がりの投球を見て、『これは、ただの高卒ルーキーの投手ではない』と感じました。スライダーは、近鉄で長くクローザーを務めていた赤堀(元之)と同じくらいすごかったですし、西口(文也)や石井(貴)ら当時の西武にいたエース級の投手たちと遜色がないほどの完成度でした。あと、デビュー当時はまだ線が細かったですけど、体の強さも感じましたね」
片岡と松坂の初対戦は、初回二死、走者なしの場面。カウント2-2から松坂が投じたインハイへの155kmの直球を片岡が豪快にフルスイングするも、バットは空を切った。 「当時、自分は調子がよくて、伊良部(秀輝)の球でも空振りしない自信がありましたし、四球を取ることにも自信がありました(1998年・2000年の四球数はリーグ最多)。普段であれば、あのコースは見逃していると思うんですが、直球が来た時にストライクと思って振りにいきました。あんなふうに足から崩れるような空振りは、現役時代を通じてあまりしたことがないんですけどね。  当時の東京ドームはスピードガンで球速が出にくくて、伊良部でも150kmが計測されることは稀でした。そんな中での155kmですから。『可愛い顔をした兄ちゃんが、こんなにエグい球を投げるのか』と(笑)。松坂はメジャー時代もすごい球を投げていましたが、日本のマウンドで投げた球の中では、最高の球だったんじゃないかと思いますね」  勢いづいた松坂は、デビュー戦で8回2失点と好投し、プロ初登板・初勝利を挙げた。以降もイチローをはじめとした球界を代表する打者たちと名勝負を演じるなど、長らく西武、日本球界のエースとして君臨し続けた。片岡は言う。 「イチローと松坂の対戦は野球界を盛り上げましたし、僕らも松坂と対戦する時は気持ちの入り方が違いました。特に自分は、あのように豪快な空振り三振を喫していたので、余計に気持ちが入っていましたよ」  松坂の怪物ぶりを示すシーンとして、プロデビュー戦での片岡との対戦時の映像は、幾度となくメディアで紹介された。長い月日が流れた2018年、片岡が阪神の一軍ヘッド兼打撃コーチを務めていた際、松坂と話をする機会があったという。同年、ソフトバンクから中日に移籍して1年目の松坂は6勝を挙げたが、ある試合前の練習時にグラウンドで言葉を交わした。

 

 


 
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