1769年、オーストリアの皇女マリア・アントニア[3]は、オーストリアとフランスの同盟関係強化の一策として、母マリア・テレジアの命によってフランス王室に嫁ぐことになった。フランスの大地を踏み、フランスの服に着替えた彼女は翌年、ルイ16世と式を挙げる。
しかし当初の数年間、男性の性的機能に不都合のあったルイ16世との夫婦生活はなく、「オーストリア女」とよそ者扱いされ、「不妊症かしら」と陰口を叩かれるにつき、結婚生活にストレスを抱えた彼女は次第にパーティーやギャンブル、ドレスや靴のショッピングなど浪費に楽しみを見出し、それに傾斜していくことになる。こうした中、仮面舞踏会でフェルセン伯爵と出会う。
フランスを訪れた兄:ヨーゼフ2世の助言により、子供に恵まれたアントワネットは、田舎風の穏やかな暮らしを愛し、宮廷から逃れ、プチ・トリアノン宮殿に娘や親しい友人とともに過ごすようになる。
やがてフランスではアメリカ独立戦争への援助をきっかけに国の財政が窮乏し始め、民衆の不満の矛先は豪奢な生活を送るマリー・アントワネットに向けられる。飢餓に苦しむ民衆はフランス革命をおこす。
ルイ16世の側近は王と王妃に逃亡を進言するが、ルイ16世は毅然として「私はここに残る」と言い、王妃アントワネットも「私の居場所は王の側です」と言い放つ。そしてやはりベルサイユ宮殿は襲撃され、王と王妃は宮殿から拉致される。
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