世界に類を見ない日本の国民皆保険制度、その開始は困難を極めた。
昭和9年に要綱案は出来たものの減収を危惧した医師会や売薬業者が
大反対し、政府内でもうまく機能するかの懸念が大きかった。
これを救ったのが埼玉県越谷市(当時越ケ谷町)の「順正会」。
元々は納税組合から発展した共済組織で、その資金の使い道として当時
町財政の重荷になっていた伝染病対策として医療費の共助を計画。
しかし治安警察法に抵触するとして頓挫しかけた。この情報が内務省
保険部長の川西実三の耳に入ったことが順正会と国の双方に幸運となった。
内務官僚として最初の赴任が埼玉県庁だった川西は「異常なる熱意」を
持って越ケ谷町と順正会にテコ入れした。
要綱案が出来たものの誰も法案化する自信と勇気がなかった国民健康
保険制度の後押しとなればと、川西は頓挫しかけた越ケ谷町の順正会を
実験地の一つとして選び、何とか資金も工面出来て発足した。
順正会の会員は一年で4千人になり、大蔵次官の順正会視察を経て
予算が降り構想から足かけ6年の昭和13年、国民健康保険法が成立した
のである。
越谷市役所前に立つ高い記念碑には「相扶共済」の文字が刻まれる。
国民健康保険法(旧法)第一条の文言である。原案は「相互扶助」で
あったが、内務次官の「助平の助は嫌いだ」で変更された。
(3/9朝日土曜版「はじまりを歩く」から)
3月10日、久々の日の出散歩から