昨日のタイトル「日光街道、野木宿へ」は「古河宿へ」の
間違い。また本文中でも、古河宿を「古賀宿」と変換ミス。
原因はロシアのウクライナ侵略で怒り心頭(でもないか)。
今歩いている日光街道関連のローカル・ニュースを二つ。
まずは昨秋歩いた草加松原で松の「こも外し」が行われた。
冬の間にマツクイムシやマツカレハを籠らせて「こも」ごと
焼いて除去するためだが、温暖化で虫たちの活動開始が早まり、
今後は外す時期を早めないといけないという。
次は、今歩いている古河宿のすぐ西、渡良瀬遊水地周辺で
昨日行われた「ヨシ焼き」。病害虫の駆除と柳の大木化を
防ぐためだが、コロナ禍などで2年中止となっていた。
中止による植生への影響が予想されたが、やはり外来植物
の繁茂でヨシがかなり枯れたという。ヨシ焼きの面積は何と
3300ヘクタール(ほぼ3300町歩)という。
さて旧日光街道(県道261号)は、左から来た公方通りと
合流。その角に立つ常夜灯脇の口碑を読むと、
このあたりは5キロに渡って松並木が続き、その間から
古河城の白壁、富士、浅間、筑波、男体山が見え、数ある
街道の中でも一番の景観だった。その景観を惜しみ未来に
歴史を語り継ぐため松の植樹をした(平成十七年)。
広い石畳の歩道には、脇に口碑が書かれる常夜灯が要所要所
に立つ。古河の教育委員会もなかなかじゃ。「日本三(大)
長谷観世音参道」の極細い通りには次々と車が入って行くが、
寺までの距離が分からずパス。
此の風変わりな建物は?じっくり見るとパン屋さん。
やっと見つけたカラー版マンホール、渡良瀬川の花火大会か。
「古河城御茶屋口門址」、これも口碑を読む。
街道から古河城への入口、江戸の初期に茶屋があったが詳細
は不詳、茶屋の後は街道を通る大名や幕府閣僚の挨拶を受ける
役人の詰所、などと書かれる。
このルートを辿ってみる。
二度クランクした後、城下町の雰囲気がある。
右奥が文学館、真っ直ぐが歴史博物館、その先が古河城?
再び二度クランクして歴史博物館前。と、前から来た散歩中
と思われる同年配の男性が「残念だね、今日は休館だよ」と
「声掛け」してくれる。そうか今日は月曜日だ。
今は跡形もない古河城のジオラマなどがあるという歴史
博物館に入るかどうか迷っていたのでちょうど良かった?
古河城があった渡良瀬川沿いまではまだ数百メートルはある
のでUターンして日光街道に戻る。その途中、気になっていた
白壁土蔵造りの建物「ぬた屋」を眺める。
「伝承」と題される口碑を読むと、江戸中期に立場茶屋だった
「おつま店」が家伝食である鮒の煮付けを旅人や馬方に提供した
のがはじまりで、明治になり砂糖や醤油が簡単に手に入るように
なって甘露煮を始め古河の名物になった、云々。
街道沿いの常夜灯の口碑を一つ。
古河駅入口あたりが古河宿の中心で本陣や高札場があった。
残念ながら跡碑だけ。
まだ3時だが、3月下旬並みの「暑さ」とあちこちへの
寄り道で疲れ、古河宿の残りは次回野木宿へ向かう折として
古河駅に向かう。