先月の毎日の平均歩数は一万一千歩を少し越えた。何と
言っても数日ごと六回の水戸街道ウォークが大きい。
月間では227キロ歩いたことになる。
また、年間を通しての一日平均歩数が十年ぶりに一万歩
越えた。十一年前まではまだ会社勤めだったので通勤だけ
でも数千歩歩いていたから、純粋なウォーキングをしては
最近の方が多い。暇を持て余しているから当然ではある。
故郷長野市からの第三ステージに入った「バーチャル日本
一周伊能ウォーク」は上越市から佐渡に渡り、佐渡を80キロ
歩いてから新潟市に渡り、日本海に沿って南下し始め、寺泊
を過ぎて出雲崎町に着いたところ。
さて、年末に途中で終わった日光街道、栗橋宿の紹介の
後半である。
この日の街道沿いで唯一だった食事処の蕎麦屋で昼食後、
栗橋宿の中心へ向かうと古い商店が目立つようになる。
軒下に「出し梁」が覗く、街道筋に多い造りである。
利根川の土手までポッカリと空いた空地の奥、関所跡で
あろう。栗橋関所は東海道箱根、中山道碓氷ともに重要な
関所で、特に出女を厳しく取り締まったという。
この関所跡碑は旧番士、本陣、宿名主などの発起で大正
十三年に建てられたが、利根川堤防の度重なる改修で移転を
繰り返しており、今も仮設置中。
この先に本陣などがあったはずだが、堤防強化工事で
大きく様変わりした。ちょうど十年前に利根川を上下流に
分けて歩きは始めたのがこの栗橋から。
正面の盛土の上が八坂神社だろう。本陣もこのあたりに
あって、十年前にはまだ残っていたと言うが、当時は栗橋
が「宿」だったという認識は全くなく、八坂神社とともに
あったかどうかは全く覚えていない。
八坂神社へ向かうスロープから見えるここが本陣発掘調査
の跡かも知れない。2013年から三次に渡り行われ、基礎以外
にも様々な物が出て来たという。
土手に上がり下流側を見る。十年前には架替え前の国道
4号上り線の優雅なトラス橋が見えたが、今はフラットな
梁桁の橋になっている。
十年前
土手の脇、盛土の上の八坂神社は真新しい。やはり堤防
改修で移転、建替えとなったのだろう。名物は狛犬ならぬ
「狛鯉」。利根川の鯉が神社開創の所縁でもある。
左が「除災」、右が「福」を願う。
ガラス窓の中に神輿が飾られる。幅1.5メートル、長さは
2メートル近い大きな神輿は百人神輿と呼ばれる。新潟県
燕市の銀や銅の神輿は、交代の担ぎ手も入れて千人神輿と
呼ばれていることを思い出す。
栗橋宿は概ねこのあたりまでで、この少し先で利根川を
渡った。駅入口の交差点まで数百メートル戻って栗橋駅へ
向かう。突き当りは福寿院だがパス。
栗橋駅の直前にあるのが「静御前の墓」。頼朝の追手から
奥州へ逃れた義経。これを追った静御前が京都からここまで
来た時に義経の訃報を聞く。
京都に戻って義経の菩提を弔おうとしたが病に倒れ、ここ
栗橋が終焉の地となった。さして広くはない墓前の一帯には
いろいろなものが置かれ所狭しである。
これはJR栗橋駅、乗るのは東武線栗橋駅、橋上駅舎で
繋がる。モニュメントは二十年前に橋上駅舎、自由通路が
出来た記念。彫刻家、建畠覚造によると説明される。
この先の日光街道ウォークは、暖かく陽が長くなる来春
までお休みの予定。