
今の私たちの暮らしの中で、物理的に真っ暗な闇を体験することは、ほとんど無いと言っても過言ではないでしょう。
陽が落ちても、今は昼間と見紛うばかりの光が街には満ちています。自宅に居れば、スイッチ一つで照明が得られます。自ら進んで闇の中に身を置くということを私たちはしません。何故なら 暗闇の中に居ますと、本能的に恐怖を感じずにはおられないからではないでしょうか。皆さんもご経験があるかもしれませんが、私は幼い頃、悪さをするとその罰としてよく押入れに閉じ込められました。真っ暗な闇の中、孤独と罪悪感で、泣きながら「もうしません」と反省したものです。
まぁ残念ながら一時のことでしたが・・・。
さて、進んで闇には行かない私たちなのですが、例外もあるようです。私は長野市で暮らしております。長野と言えば、親鸞聖人も参籠されたご縁があります善光寺の門前町です。
この善光寺には「お戒壇巡り」という珍しい習わしがあります。 善光寺本堂の地下には、漆黒の闇の空間がありまして、その中ご本尊の真下とされる場所に錠前があり、それに触れれば、ご本尊と縁結びができ浄土往生が約束されるという言い伝えがあるのです。
善光寺に参拝される方は、進んでこの「お戒壇巡り」をされるのですが、そのご感想を皆さんにお聞きすると、
「本当に真っ暗で何も見えなかった・・・」
「簡単なことかと思ったが、なかなか錠前に触れず難儀した」
とおっしゃいます。
すかさず私は、こんな質問をするのです。
「真っ暗とおっしゃいましたが、目をつむっておられましたか」
と、そうしますと皆さん、
「いいや、わざわざつむる必要も無いでしょう。真っ暗なのだから・・・」
と、ところが続けて、
「あっ、そう言えば、真っ暗闇と分っていても、何か見えるかもしれないかと、普段より目を見開いていました」
と、お答えになるのです。
私たちは、光の働きを目に受け止めることによって初めて、様々なものが見える訳ですが、実のところ、光の働きに気付いているでしょうか。感謝しているでしょうか。案外、自分自身の目の能力を、唯々あてにしているように思います。
「闇の中に居ながらにして、闇を知らず」
と、申しましょうか、光の働きが無ければ、闇を闇とも知ることさえできないのです。
これは、何も視覚に限ったことではありません。私たちは、知らずに、自力頼みになっているのではないでしょうか。親鸞聖人は『一念多念証文』に、 「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」
と、おっしゃっております。親鸞聖人の、このお言葉の前提には、わが身、わがこころは、疑無明(ぎむみょう)・根本無明(こんぽんむみょう)の闇の中。つまり煩悩によって愚痴(ぐち)にまみれているということがあります。ですからそのような身やこころが、何の頼りになるものかとお諭し下さっているのです。
そして、このような私たちの無明の闇を突き破って下さる阿弥陀如来の智慧の光について、親鸞聖人は『弥陀如来名号徳』に、次のようにおっしゃっています。
「智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。」
と、無痴(むち)の善根とは、私たちが、無上菩提(むじょうぼだい)にいろうと思う心を起こそうと働きかけて下さる阿弥陀さまのお力です。それは、阿弥陀さまのお智慧をいただくことなのです。 阿弥陀様のお智慧をいただくということは、愚痴・貪欲・瞋恚等の煩悩にさいなまれる私自身が明らかになっていくということです。
兎角、私たちは、自分自身のことを棚に上げ、不平不満をこぼします。こんな小噺をお聞きしたことがあります。
「隣の家の障子の破れが、気になって気になって、仕方が無い。ところがその様子を眺めていたのは、自分の家の障子の穴からだった」
と、私たちは自分の愚かさが自分自身では見えていないものです。
智慧の光をいただくということは、私の周りが明らかになっていくというよりも、先ず自分自身が照らし出されるのです。
利井鮮妙(かがい せんみょう)師のお話に「提灯の紋所」があります。「信心を頂けば、提灯にあかりが入ったようなもんじゃ、闇が去って明るくなるが、自分の自性の紋所もはっきりするぞ」
と、あかりをいただいて、まわりが見えると同時に、恥ずべき自分自身の姿が、くっきりとさせられるのですね・・・