書籍名 『ドイツ流 掃除の達人 ~世界一きれい好きな国に学ぶ~』
カテゴリー 住宅・(環境問題 趣味)
著者名 沖 幸子 発行年(西暦)2005.8.
出版者 光文社(知恵の森文庫) 値段 629円+税
投稿日時 2006/03/19 本のサイズ 文庫版
感想 実用度☆☆☆ 娯楽度☆☆ 感動度☆☆ ファッション度☆☆
お行儀が悪くて、筆者には大変申し訳ないのだが、去年の暮に買ったこの文庫本の一冊は居間に置き、一冊は実はトイレの棚に置いている。毎朝のトイレの数分間、この本のページをどこでもいいから無作為にぱっと開いて見る。その時「ああ、そういえば今日はどこを拭いてみようか」、と思い、イメージして、汚れに気づいたらその日に拭いたりするのである。
筆者の紹介する部屋の写真が多く、掃除方法も要点だけ短くエッセイ風に書かれているので、さっと見るその数分間で、瞬間的に脳裏に室内のイメージを思い描くのにも役立つ。
もちろん、この本に書いてある通りの掃除を、私が全て実行しているわけではなく、いつかやってみようかと思いつつも玉葱の皮を煮るところまでには至っていない。ただ、シンクや蛇口やドアノブや電灯の笠等は以前よりもよく拭くようになり、古タオルの洗いざらしをすぐ使える場所に備えて置くようになった。最低一週間に一回でも、全室の掃除機かけとベッドリネン交換をする、という習慣が継続できているのも、入院時や研修生活時の経験に加えて、この本のおかげだろうと思う。確かに、自分のように掃除の習慣の皆無だった者が出逢って読むべき本ではあった。
何といっても、私が2年半前、劣悪な室内に住んでいた頃に半ば絶望的な心境で書いた疑問に対する答えが、この本には書かれていた、と一読した時に思い、驚愕したから。
それは、「人生の半分」なのか、と。
…よく読むと、「人生の半分は整理整頓でうまくいく」と書いてあったので、そこまでのことではなかったらしく、少し安堵した。筆者も、一回の掃除は「15分以内」、でないと続かない、と言っている。
ただ、それを繰り返していく必要はある。
私のこれまでの人生にはことごとく欠如していたことであったから、15分を毎度毎度累積していけば、残りの人生の全ての時間をかけてもまだ足りない位であるかもしれない。
「単身赴任の始まった後輩」や「結婚して主婦になったばかりの会社員の友人」等がかつて、生活の変化を契機として“時間がなくなり、掃除が疎かになってしまう”とこぼしていたのを、思い出したりもした。自分の場合は、実家から出て一人暮らしを始めた頃から、暇だろうが忙しかろうが関係なく自分で掃除をする習慣が全くなかったので、そう感じることもなかったようだ。学生の頃から就職しても一貫して、自宅も汚く仕事先のデスクも汚いということに何の疑問も感じず、「私は性格的に、整理整頓や掃除が嫌いなのだ」と思い、掃除好き・整理整頓好きな人とは人生が違うのだろう、としか考えなかったようなところがある。
仕事上、大量の本や資料を作業で必要とするため、物を減らすだけの整理整頓方法では解決せず、喪失感が大きいと却って自分の精神生活も保てないことは、元々実感しており、この一年の引越活動でも了解したことだった。ただ物を機械的に捨てればよいとか、いや、物は捨てずにとっておくべきだとか、その間の二者択一しかないかのような議論こそ、幼稚に思える。
悪いのは物ではなく、人間である。物のせいにしてはいけない。
物が無ければ掃除は確かに楽だが、物が有ろうと無かろうと、掃除はしなければいけない。だが、物を捨てられないことを罪悪と考える必要もないし、そのことと掃除をするかしないかは別の問題だ。物は、不必要だと考えるようになれば、それ自体を持たなくなるのであって、それだけにすぎない。そこを混同して、物があることを掃除をしない理由にするようなこと自体、合理的ではない、ということにも気づいた。
本書の示唆する「一度に長時間の大掃除をしない」「気づいたらその場で、少しずつ」「換気をすること」等の発想には、それぞれの根拠がある。
家の中に居る時間が「意識的」であれば、例えばサッシの窓ガラスの汚れや壁の隅の埃のたまり方も発見しやすくなり、気づけばその都度拭いたり掃いたりできる。これも意識するかしないか、知っているかいないかで、物事が随分変わってくる。掃除をすることは「一人で過ごすどんな時間も大切にする」「お客様を迎えるような居心地のよい最高の演出を、自分のためにする」ことである、と筆者は言う。このページで、他人が部屋に来るか来ないかといったことは、実は付随的な問題にすぎないのだということにも気づいた。本質的には自分の快適さや満足のためなのである。勉強すべきこと、というものは人生にまだまだあるものだ。
習慣化していく、という行動の方法は、食生活改善で了解した要領に、非常に似ている。
とにかく一日や一回で、ちょっと汚くなったからといって、そこで諦めないことである。多少はずれてきたら二三日で軌道修正していく、というように。
効果は一週間や二週間たたないと出てこないとしても、素朴で形に見えるものである。長期的に見てそこそこ維持されていれば、完璧でなくてもよい、ということは、多くの問題において共通するように感じられてきた。
カテゴリー 住宅・(環境問題 趣味)
著者名 沖 幸子 発行年(西暦)2005.8.
出版者 光文社(知恵の森文庫) 値段 629円+税
投稿日時 2006/03/19 本のサイズ 文庫版
感想 実用度☆☆☆ 娯楽度☆☆ 感動度☆☆ ファッション度☆☆
お行儀が悪くて、筆者には大変申し訳ないのだが、去年の暮に買ったこの文庫本の一冊は居間に置き、一冊は実はトイレの棚に置いている。毎朝のトイレの数分間、この本のページをどこでもいいから無作為にぱっと開いて見る。その時「ああ、そういえば今日はどこを拭いてみようか」、と思い、イメージして、汚れに気づいたらその日に拭いたりするのである。
筆者の紹介する部屋の写真が多く、掃除方法も要点だけ短くエッセイ風に書かれているので、さっと見るその数分間で、瞬間的に脳裏に室内のイメージを思い描くのにも役立つ。
もちろん、この本に書いてある通りの掃除を、私が全て実行しているわけではなく、いつかやってみようかと思いつつも玉葱の皮を煮るところまでには至っていない。ただ、シンクや蛇口やドアノブや電灯の笠等は以前よりもよく拭くようになり、古タオルの洗いざらしをすぐ使える場所に備えて置くようになった。最低一週間に一回でも、全室の掃除機かけとベッドリネン交換をする、という習慣が継続できているのも、入院時や研修生活時の経験に加えて、この本のおかげだろうと思う。確かに、自分のように掃除の習慣の皆無だった者が出逢って読むべき本ではあった。
何といっても、私が2年半前、劣悪な室内に住んでいた頃に半ば絶望的な心境で書いた疑問に対する答えが、この本には書かれていた、と一読した時に思い、驚愕したから。
それは、「人生の半分」なのか、と。
…よく読むと、「人生の半分は整理整頓でうまくいく」と書いてあったので、そこまでのことではなかったらしく、少し安堵した。筆者も、一回の掃除は「15分以内」、でないと続かない、と言っている。
ただ、それを繰り返していく必要はある。
私のこれまでの人生にはことごとく欠如していたことであったから、15分を毎度毎度累積していけば、残りの人生の全ての時間をかけてもまだ足りない位であるかもしれない。
「単身赴任の始まった後輩」や「結婚して主婦になったばかりの会社員の友人」等がかつて、生活の変化を契機として“時間がなくなり、掃除が疎かになってしまう”とこぼしていたのを、思い出したりもした。自分の場合は、実家から出て一人暮らしを始めた頃から、暇だろうが忙しかろうが関係なく自分で掃除をする習慣が全くなかったので、そう感じることもなかったようだ。学生の頃から就職しても一貫して、自宅も汚く仕事先のデスクも汚いということに何の疑問も感じず、「私は性格的に、整理整頓や掃除が嫌いなのだ」と思い、掃除好き・整理整頓好きな人とは人生が違うのだろう、としか考えなかったようなところがある。
仕事上、大量の本や資料を作業で必要とするため、物を減らすだけの整理整頓方法では解決せず、喪失感が大きいと却って自分の精神生活も保てないことは、元々実感しており、この一年の引越活動でも了解したことだった。ただ物を機械的に捨てればよいとか、いや、物は捨てずにとっておくべきだとか、その間の二者択一しかないかのような議論こそ、幼稚に思える。
悪いのは物ではなく、人間である。物のせいにしてはいけない。
物が無ければ掃除は確かに楽だが、物が有ろうと無かろうと、掃除はしなければいけない。だが、物を捨てられないことを罪悪と考える必要もないし、そのことと掃除をするかしないかは別の問題だ。物は、不必要だと考えるようになれば、それ自体を持たなくなるのであって、それだけにすぎない。そこを混同して、物があることを掃除をしない理由にするようなこと自体、合理的ではない、ということにも気づいた。
本書の示唆する「一度に長時間の大掃除をしない」「気づいたらその場で、少しずつ」「換気をすること」等の発想には、それぞれの根拠がある。
家の中に居る時間が「意識的」であれば、例えばサッシの窓ガラスの汚れや壁の隅の埃のたまり方も発見しやすくなり、気づけばその都度拭いたり掃いたりできる。これも意識するかしないか、知っているかいないかで、物事が随分変わってくる。掃除をすることは「一人で過ごすどんな時間も大切にする」「お客様を迎えるような居心地のよい最高の演出を、自分のためにする」ことである、と筆者は言う。このページで、他人が部屋に来るか来ないかといったことは、実は付随的な問題にすぎないのだということにも気づいた。本質的には自分の快適さや満足のためなのである。勉強すべきこと、というものは人生にまだまだあるものだ。
習慣化していく、という行動の方法は、食生活改善で了解した要領に、非常に似ている。
とにかく一日や一回で、ちょっと汚くなったからといって、そこで諦めないことである。多少はずれてきたら二三日で軌道修正していく、というように。
効果は一週間や二週間たたないと出てこないとしても、素朴で形に見えるものである。長期的に見てそこそこ維持されていれば、完璧でなくてもよい、ということは、多くの問題において共通するように感じられてきた。
