やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(3)

2006-11-05 15:07:48 | 古代史
 第二の「共同改訂」、「景初二年」か「景初三年」か…について述べます。前回紹介しました「魏王朝のありよう」に加え、次も紹介しましょう。

<景初中、明帝、密かに帯方の太守劉(りゅうきん)、楽浪の太守鮮于嗣(せんうし)を遣わし、海を越えて二郡を定めしむ。>(魏志韓伝)
景初中…ですから、正確な年はわかりません。でも「密かに…を遣わし…」とありますから、まだ公孫淵が遼東に健在であったとき、景初二年の初めだった可能性は高い…とわたしは思います。
司馬宣王(懿)は、あらかじめ海から攻撃して二郡を抑え、本隊は陸から攻め公孫淵を挟み撃ちにする作戦だったのではないか…と先生は言われます。ですから倭国の使いが帯方郡に到着した六月は、公孫淵の喉もとをじりじりと圧迫していた…と思われます。しかし都へは、使いの二人を護衛つきで送らねばならなかった…。第一の不思議…は、これで解けます。景初二年(238年)の六月…でなければならなかったのです。景初三年…では、気の抜けたビールみたいなものですから…。では、公孫氏討伐戦を、もう少し詳しく見てみましょう。

<(景初)二年春、大尉司馬宣王を遣わし、淵を征せしむ。六月、軍、遼東に至る。…ついに軍を進めて城下にいたり、囲塹(いざん)を為す(城を塹壕を造り囲む)。たまたま霖雨(りんう、長雨)三十日、遼水暴長し(遼河が水かさを増し)、船を運(めぐ)らし、遼口より直ちに城下に至る。雨はれ、土山を起こし、櫓(やぐら)をおさめ、為に石を発し、弩(ど、いしゆみ)を連ね、城中を射る。淵、窘急す(きんきゅうす、どうにもならない状態に追い込まれた)。糧尽き、人相食らい、死者はなはだ多し。将軍楊祚(ようそ)ら、降る。>(魏志公孫伝)
六月には、全軍が公孫淵の城下に殺到していたようです。そして塹壕を築き、糧道を絶ちました。「人、相(あい)食らう…」悲惨な状況が、目に浮かびますね。
この戦役のことを去年の暮れか今年の初めにキャッチした倭国女王卑弥呼は、取るものもとりあえずたった二人の使いを、しかもわずかな貢の品を持たせて急きょ派遣したのでしょう。豪華な品を準備する時間はなかった…。倭国の存亡を賭した、卑弥呼の機敏な外交感覚だったのです。
ですから魏の明帝は、倭国自らこの戦中に使いして来たことをことのほか喜んだのでしょう。わずかな倭国の貢に対し、豪華なお返しの品々に加え、卑弥呼個人にも銅鏡百枚なども好物として与えたのです。これで第二、第三の不思議も解けます。
第四および第五の不思議を解く鍵は、翌景初三年正月の明帝の急死です。景初二年十二月の明帝の詔勅には、「(下賜品は)みな装封して難升米・牛利に付し、還り到らば録受し(目録と照合して、あるいは目録を作って受け取り)、悉く以って汝が国中の人に示し、国家(魏)汝を哀れむを知らすべし。」とあったのです。下賜品を持って帰国の途につこうとした矢先に明帝の死に会い、詔勅は実行されませんでした。景初三年の一年は、公式行事一切が取り止められて喪に服したからです。ですから「共同改訂」の如く景初三年(239年)に使いしたとすれば、魏志の記事すべてに反し、肝心なことは当の明帝が亡くなっている…ということです。
共同改訂の上に安住している学者先生方は、誰一人おかしい…と思わなかったのでしょうか。師の説に叛くは不忠…ということなのか、あるいは学閥の外に出るのは怖く地位も収入の道も閉ざされる…、とお考えなのでしょうか。古田先生以外の方で「景初二年が正しい」といわれないのは、考える学問の放棄…とわたしには思えます。

 共同改訂の第三、「始めて一海を度(わた)る、千余里。対海国に至る。…名づけて瀚海(かんかい、広い海または飛ぶように流れる海)という。一大国に至る。…」の中で、「対海国」は「対馬国」のまた「一大国」は「一支国」の誤り…とするものです。
その理由は、「魏の使いの倭国への経路より見るに、対馬(つしま)→壱岐(一支、いき)を通っていることは万人が認めている。しかるに、「対海」も「一大」も「日本語で」読めないではないか」というものだそうです。この理由の中に解決のヒントは隠されている…と古田先生は言われます。
つまり、二国の境界にある地は、それぞれの言語で表される…という原則です。日本から言う「樺太・千島」は、ロシヤからは「サハリン・クリル」です。「沖縄」は和語ですが、「琉球」は中国語ですね。よって当時の魏は、瀚海に対する国ということで「対海国」といい、倭国の強力な軍団「一大率」発祥(出身)の地を「一大国」と称したとしても不思議ではありません。
わが国より見れば同じく、「馬韓に対する国…として対馬(本来「つま」としか読めないが、古くからの「津島」に準用したか…)といい、壱岐(伊伎とも書く)は古い呼び名だろう」といわれます。ですから、この第三の共同改訂も間違いであった…ということです。

 三つの共同改訂は、ことごとく間違いであった…。やはり「会稽東治」が、「景初二年」が、「対海国、一大国」が正しかった…ことが証明されました。皆さん、ここまで納得いただけましたでしょうか。詳細(詳しい論証)は、古田先生の三部作の一「『邪馬台国』はなかった」をお読みください。なるほど…と、ひざを叩かれること請け合いです。

 では次回は、「身勝手な各個改訂」の問題です。つまり学者先生方が、自説…即ちあらかじめ結論付けた邪馬台国「近畿説」あるいは「九州説」に誘導するため、「魏志倭人伝」の原文・字句を論証もないまま勝手に・恣意的に・自由奔放に改変したものです。つまり、学者先生は「倭人伝には、何せ誤りが多い。だから、わたしの立論にとって都合の悪いこの箇所(文、字句)も、やはり誤りと考えて許されるだろう」と考えられるのです。これは著者の陳寿を貶(おとし)め、当時の倭人を蔑(ないがし)ろにすることではないでしょうか。もっと謙虚に「魏志倭人伝」に向き合う必要がある…、と先生は言われます。
各個改訂については、魏志倭人伝を読み解きながら、如何に理不尽な改訂であるか…を見ていきます。では…。