三浦梅園めぐり 

江戸中期の哲学者三浦梅園ゆかりの地と事柄をたずねて。国東・杵築の詩碑めぐりを中心に梅園に関する思いをつづります。

三浦梅園と姫島 その8 小串仙助(重威)の『姫島考』

2015-10-06 14:18:04 | 歴史文学探究

 

 伊美港から姫島を臨む

 

三浦梅園と姫島 その8 小串仙助(重威)と『姫島考』

  小串仙助(重威)

 『姫島考』の作者・小串仙助(重威)(1758-1839 天保10年・82歳で没す)については、『三浦梅園外伝』に小串信正氏の詳しい文章があるのでそこから紹介したい。

 仙助は竹田津の大庄屋竹田津俊芳梅軒)の次男「竹田津直好」である。竹田津氏はもとは「大蔵姓小串氏」といい、庄屋をしている土地の名を称して竹田津姓を名乗るようになった。仙助は、小串政俊の養子になり、政俊の末娘と結婚して、小串姓となり、のちに諱を「重威」と変えた。

 『姫島考』には「豊後杵築藩 小串仙助大倉重威」と署名している。二人の人間の連名にみえるが、上記のいきさつから「大蔵」「大倉」の違いはあるものの仙助の通称と本名であることがとわかる。

  小串政俊は、梅園と綾部綗斎門下の旧友同士であり、同じく友人の綾部伊承の推挙を受けて両子手永捌大庄屋から杵築藩郡奉行となった。(伊承については前々回の記事ご参考ください)

 政俊の娘と結婚した仙助が杵築藩士の「小串家」を嗣ぎ、両子の大庄屋のほうはもう一人の養子「小串春卿(両子文平)」が嗣いだ。文平もまた梅園の主要な門弟のひとりで、梅園古稀を前にして『玄語』『贅語』の出版を目指して寄付金を集めた『玄語贅語刻料』の発起人にもなっている。

 仙助からすると、義父は梅園の親友で義兄は梅園の門弟。実の父竹田津俊芳梅軒もまた年上ながら梅園の門弟とされている。還暦の祝いに梅軒に贈った「梅軒竹翁の六十を寿す」(『梅園詩集』上巻)という梅園49歳の詩があり、竹田津周辺の景色を詠み込んでいる。その一節に、

「嫦娥(じょうが、こうが)夜遊ぶ玉女の島月の女神が遊ぶ姫島)

と姫島を詠んでいる。

  こうした実父と義父が梅園の門弟と親友である環境から、のちに『姫島考』を68歳で記すことになる仙助も、若いころ梅園の『豊後跡考』「姫島」を読んでいた可能性は大いにある。前述の小串信正氏は仙助を梅園の門弟とみなして間違いないだろうと述べている。

 『三浦梅園』の著者・田口正治も杵築藩の七代藩主親賢候に仕える若き有望な藩士として、綾部伊承の息子・綾部輔之(1761-1834)とともに小串仙助が藩主に伴い江戸へ上る際に梅園を訪ねたときの詩「綾・串に君将に公に従って東部に赴かんとし茅堂(ぼうどう)に抂駕す(=枉駕・おうが・わざわざ立ち寄る)」を紹介している(『三浦梅園』吉川弘文館・198頁)。

  ときに天明6年(丙午)、梅園は64歳。7代藩主親賢公に『丙午封事』奉り5月に謁見している。8月に親賢公は参勤交代のため江戸にいく。小串仙助と綾部輔之は、このときの参勤に従ったのだ。帰国した仙助は梅園に白川候の『国本論』を江戸から持ち帰って贈っている。(「答串仙助」全集下巻756頁)

 

仙助こと小串重威の『姫島考』

  小串仙助(重威)で『姫島考』で本居宣長の『古事記伝』にある記述にたいして反論する形で、

1.『古事記』の国生みの神話でイザナギ・イザナミの二柱の神が「大島」の次に生んだ「女島」が現在の国東半島東北にある「姫島」である

2.宣長が「伊岐の比売嶋」と誤って記述し「筑紫の国」を「筑前の国」と解したのは、摂津国風土記』にある「筑紫国(つくしのくに)の伊波比(いはひ)の比売嶋」であり、風土記のころは「筑紫」は九州の聡名で、豊後と周防の間の海をすべて「伊波比(いはひ)洋」と呼んだことから、「豊後の姫島」であると、論証した。

  小串重威としては、大学者の本居宣長を批判する気はさらさらないが、自分の生まれ故郷の竹田津から姫島は目と鼻の先ありこのあたりの地理は誰よりも詳しいという自負があった。

 「遠き国々のことは彼の大人といえどもかかる違いなきにしもあらざるなり

 地理的に遠ければ、立派な学者でも過ちもあろう、その点自分の生地は、

 「ここの姫島はおのれ眼前(めのまえ)によく見て知るところ」なので、「記伝」と風土記の過ちを正しておきたいという気持ちを記している。

 現在読める『日本書紀』(講談社文庫)で確認すると伊予の二名州(いよのふたなのしま)(四国)の次に二神が生んだ「筑紫州(つくしのしま)」には(九州)と注がついている。仙助(重威の)姫島説が通説となったのだ。

  姫島にとって小串仙助(重威)は、記紀の伝説の島であるという根拠を与えてくれた恩人といってよい。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿