三浦梅園めぐり 

江戸中期の哲学者三浦梅園ゆかりの地と事柄をたずねて。国東・杵築の詩碑めぐりを中心に梅園に関する思いをつづります。

安岐町恒清  鎮西八郎御台「景一尼」の像

2018-12-04 13:43:45 | 歴史文学探究

クヌギ林のかわいらしい尼さん像

鎮西八郎御台「景一尼」の像をたずねて  

 

 宝暦5年(1755)、三浦梅園は33歳のときに、八月八日から十四日まで一週間で『『豊後跡考』を完成させました。内容は、寺社記録など「大友宗麟が耶蘇をたっとび焼き払ってから今残るものも少なくなったのを危惧し、せめて伝聞したことをいとまに書き記した」ものです。

 『豊後風土記』をもとに郡名八か所から書き起こし、「大友略伝」、「山嶽」、「寺社」、豊後梅などの「名物」、土地勘のある国東各地の地名由来を説き、最後の記事を「恒清村・国東」で締めています。

 〇『豊後跡考』恒清村の記述

 梅園先生の『豊後跡考』恒清村の記述は以下の通りです。

 原文で7行です。

          「 西迎寺といへり禅刹あり。今はやうやく其跡とてほそき庵あり。

            其さとの説に鎮西八郎、保元の軍散じて伊豆の大島に流されけるに、

            其後つくしにのがれ下れける由、都にほのきこへ有ければ、

            為朝の御䑓したひてここ迄来たり、鎮西八郎もうたれ給ふに極れりとききて

            ここに庵をむすび寺をたて、尼と成て、『景一』といヘリ。今尚その像あり」

 〇 鎮西八郎為朝

 ここにある為朝とは「鎮西八郎為朝」と称した源為朝[1139~1177]のことです。弓の名手として知られた『保元物語』に登場する武将で、九州の征圧も乱暴者イメージで語られることが多いです。源為義[1096~1156]の八男。長兄は頼朝・義経兄弟の父・源義朝[1123-1160]です。つまり為朝は頼朝・義経の叔父になります。

 為朝は幼児より剛勇の聞こえがたかく、年長者を敬わずにものともしない言行が過ぎ、父により13歳で九州に追放されます。

 乱妨狼藉者のようにいわれがちな為朝ですが、当然ながら、滝沢馬琴の『椿説弓張月』では好意的に描かれます。為朝は、崇徳上皇を前にして、鳥羽上皇の息のかかった権力者藤原道憲(みちのり)=信西入道にいいがかりをつけられ、二人の武士の矢面に立つことになります。矢を防ぐことができれば弓の名手と認めようというのです。為朝は自分に向かって放たれた、二本の矢を両手ににぎり、すかさず飛んできた二の矢も一本は袍(ほう)の袖に縫い留め、もう一本は口に食い止めて歯でかみ砕き、信西にくってかかろうとしたところを父に押しとどめられます。九州追放は、為朝に面子をくじかれて恨みを買った藤原信西入道への父の配慮でした。

 為朝は、尾張権守季遠(おわりごんのかみすえとう)の後見で、豊後に国に住み、十五歳で肥後の国阿蘇郡の平忠国の婿となって、一年のうちに九州を平定します。筑紫国太宰府に居城を置き「惣追捕使」を自称します。再び『椿説弓張月』から引用すると、「賞罰を掌り、税斂(みつぎもの)を薄くして、寛く仁政を施したまひしかば、国民称賛して『鎮西八郎どの』とぞ申しける」と、あります。民から「鎮西八郎どの」と呼ばれ、名君です。保元の乱で敗れたあと、伊豆大島に流罪になります。そこでも伊豆諸島を支配下に置きます。馬琴は、力づくで支配したのではなく、領主の悪政に立ち向かい、民に耕作を教え、民の暮らしを導いて慕われる人物として描きます。

 さて、三浦梅園伝えるところの恒清村の伝説にある「為朝の御台」とは、どの女性を指すのでしょうか。

 為朝の正室と、考えられるのは阿蘇郡の平忠国の女(むすめ)、『椿説弓張月』の登場人物の名前を借りれば「白縫姫」です。側室には伊豆にながされたときの代官三郎太夫忠重のむすめ、『椿説弓張月』では「簓江(ささらえ)」がいます。

 為朝は伊豆大島に流罪になり、10年後には伊豆七島を支配し、その五年後1170年に、伊豆介工藤茂光に追討され、自害します。(一説には1177年ともいわれています)。

 〇御台は13歳当時の為朝の奥さん?

 為朝の御台はどのタイミングで「恒清村」にやってきたのでしょう。御台が「白縫姫」(阿蘇郡の平忠国の女)だとしたら、筑紫から為朝の後を追って一旦上京して、為朝が伊豆に流されたのち、再び筑紫に逃れたと噂をきき、追ってきたことになります。

 尼像をまつる石堂の背面に漢文の碑文が刻まれていました。

 この像は「近藤俊吾」という人が発起人になり、「明治二十七年四月」に造立されたことがわかります。村人の伝承が記されています。

「源為朝公坐事謫九州也公之妃悲泣情好

 不能措私出京師漂着于我国東郡黒津

 浜自是追公之跡不遇遂薙髪曰景一尼祈

 公之冥福以終身于茲此地元名前恒清村蓋

 襲尼之二侍女之名云其外尼之旧蹟歴然

 于處々矣此所乃尼之墳地也・・・」(浜田晃氏の解読を参照しました)

 源為朝公、事に坐し九州に謫(なが)さる。公の妃、悲泣情好措く能わず、私(ひそか)に京師(けいし)を出、我が国東郡黒津浜に漂着す。是れより公の跡を追うも遇わず。遂に薙髪し景一尼と曰い、公の冥福を祈り以て茲(ここ)に身を終う。

 この碑文には、為朝の妃が京から黒津崎に上陸し、恒清の地にたどりついたのは、「為朝が事に坐し、九州に流された」ときと、あります。ということは、為朝が13歳、父に豊後へ追放されたときです。

 13歳で、為朝はすでに都で妻を娶っていたのでしょうか?

 13歳にして大人顔負けの体格と武勇を誇っていた為朝を思えば、妻がいてもおかしくはないでしょうが、妻が同年齢だとしたら、なんとも初々しい夫婦ではありませんか。「景一尼」のお顔が、道理でかわいらしい。

 碑文の文章はさらに恒清村の由来が続きます。景一尼に使えた二人の侍女の名前「恒(つね)」と「清(きよ)」からとったとか。

 「近藤俊吾」氏は、明治維新の廃仏毀釈で、尼の墳墓としてあった堂が壊され、畑にかわるのをなげいき、明治二十七年四月、村人ともに石室を設けて貴像を安置して尼の霊を慰め永遠に後世に残した、と碑文の終わりに記しています。

 梅園先生が『豊後跡考』で「ここに庵をむすび寺をたて、尼と成て、『景一』といヘリ。今尚その像あり」とのべた像は、明治維新以後壊されてしまい、これは新たに造立された二代目なのですね。

  

 「恒」と「清」の墓といわれる祠も残っていました。

 

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