三浦梅園めぐり 

江戸中期の哲学者三浦梅園ゆかりの地と事柄をたずねて。国東・杵築の詩碑めぐりを中心に梅園に関する思いをつづります。

閑話 西安岐中学校校歌

2015-07-25 15:43:36 | 歴史文学探究

西安岐中学校跡(国東市安岐町)

今は安岐中学校に統合されていますが、幸いに鳥越の丘の校舎は残っています。

旅立った友が遊ぶ学び舎の木陰

 

西安岐中学校 校歌

松本義一   詩 辛島武雄   曲

 

1.天つ日の光みなぎり 

  山々の みどりわきたつ

  歓喜(よろこび)は 胸にあふれて 

  自主の旗 高く掲げん

  あゝ希望(のぞみ)あり われらが母校

2.露しげく 稲穂はみのり

  安岐川の 流れきらめく

  研修の 鐘はひびきて 

  はつらつと 真理もとめん

  あゝ誇りあり われらが母校

3.見はるかす 瀬戸の内海(うちうみ)

  清けらく 夢をはぐくむ

  吹く風に 膚(はだ)はかおりて

  すこやかに 生命(いのち)伸ばさん

  あゝ力あり われらが母校

4.幸多き 鳥越(とりごえ)の丘

  さんらんと いらかかがよう

  早咲きの 梅と勢(きそ)ひて

  若き日の 歴史創らん

  あゝ誉れあり われらが母校

 

国東市安岐町塩屋の「太喜」の二階・階段横にかかる「西安岐中学校校歌」の額。

ご主人がかつて校長室に掲げてあったのを廃校のおり払い下げてもらった。

「太喜」へのアクセスはこちらから:http://map.goo.ne.jp/place/44000157581/

西安岐中学校校舎の西隣・御稲荷さんを祭る森にある唐見古墳


三浦梅園と「姫島」その4 二度目姫島26歳春

2015-07-21 15:45:20 | 歴史文学探究

               姫島 『拍子水』湧水の周囲が赤く鉄錆びたように変色している。

2.二度目の姫島 客人と一緒に 26歳春

 26歳の梅園は延享5年戊辰年(1748年の春・寛延元年は1748年7月12日より)客人と酒を携え今の国見町伊美から舟で姫島にわたった。

「姫島に遊ぶ詩並びに序」という長い序が残されていて、『三浦梅園外伝』(昭和63年三浦梅園研究会刊行)の「姫島と梅園」に復刻されいる。原本は25-26歳の詩文集『乙三・丁卯稿戊辰付』(「浦子手記」)に収録されている。

 このときのルートも梅園の自宅から一旦両子山のふもとまでのぼり、現在の31号線を千燈寺経由で伊美まで出たことが、姫島を詠む前に「千燈寺」「不動巌」の詩を詠んでいることから窺える。「序」は「伊美浦に舟を泛ぶ」と題する二編の詩にはさまれている。不幸にも最初の詩編は翻刻されていない。

 序末の「伊美浦に舟を泛ぶ」との比較のため、序に先立つ詩を翻刻してみる。(読み切れていないところはご指摘いただければ幸いです)

 「伊美浦に舟を泛ぶ」 姫島(その1)

 緑崕(崖)維舟日已曛 

 江辺訪古思紛々  

 牧牛天子今何在 

  長笛動人疑是君 

緑の崖に舟をつなぐ。日はすでにたそがれ

江辺を訪れ古思紛々

牧牛の天子今いずこにありや

長笛ややもすれば人これを君かと疑う

 

若草が芽吹いた島の岸に舟をつなぐともう日が暮れていた

鉄漿渓を訪れるといにしえの伝説が千々に思い浮かぶ

牧童となった天子は今はどこにおいでになるのか

長く哀愁を帯びて聞える笛の音があの天子の笛の音ではなかろうか

 

 この詩の次に「姫島に遊ぶ 詩並びに序」が続く。

 梅園は25歳・26歳当時「懶子 三浦安貞 公幹」と名乗っていた。公幹こと26歳の梅園は姫島に伝わる珊郎(さんろ=山路)と玉世姫の伝説を聞いて、姫島の名所の名づけ方は時代考証的におかしいと同行の客に異議を唱えてみせた。

       1.   姫柳              

       2.    羽黒石

       3.    羽黒井

       4.   鉄漿渓

を挙げ、名所の命名の由来は、いずれも豊の国から帰京するのちの用明天皇に付き従った真野長者の娘・玉世姫がこの島で舟をおり、歯を染めた逸話ににちなんでいる。6世紀末の用明帝のころはまだ鉄漿(おはぐろ)の習慣はない。やっと鳥羽天皇のころ12世紀になってその習慣は始まる。おそらく司馬相如のような文章家がいてこじつけたものであろう、というのが梅園=公幹の主張だ。

 これらは現在でも姫島七不思議伝説として名所になっている。1.は、逆柳(さかさやなぎ)、2.は、かねつけ石、3.と4.は、湧き水のまわりの石は鉄さびがついたように赤くなっている「拍子水」のことだろう。

 26歳の梅園(公幹)は、姫が上陸した島から「姫島」となった由来の姫を真野長者の娘「玉世姫」としている。

 少なくとも梅園が聞いた伝説では、姫島の姫は、現在いわれている日本書紀・垂仁記に現れる「比売語曽(ひめこそ)」の姫ではない。この姫は新羅王の都怒輪我阿羅斯(つぬがあらし)が牛と交換した白い石から生まれた美女で、性交をせまる王から逃れて東へ逃げる。難波にわたり、次いで姫島にわたり両地で「比売語曽社(ひめごそやしろ)の神」としてまつられたとある。

 白い石から生まれた姫のバリエーションが、『古事記』応神天皇記に見える赤石の玉から生まれた「阿加流比売(あかるひめ)」である。この姫も夫の新羅の国主・天之日矛(あまのひぼこ)から逃れて祖国に小舟でわたり、難波の比売語曽の社にまつられている。『古事記』には豊後の姫島にも祭られたとの記述はみえない。

 梅園=公幹の「姫島」の姫は、海の向こうから来た「比売語曽(ひめこそ)の姫」でも「阿加流比売(あかるひめ)」でもなく、豊後の炭焼き長者「真野長者」の娘「玉世姫」であった。梅園はのちに「玉依姫」と表記し、三重町蔵本「内山記」・「真名野長者物語」では「般若姫」で表記される姫である。

 さて、梅園こと公幹青年は、客人にむかって名所の命名にケチをつけるような無粋なことを述べてしまったことを恥じる。恥じたあと酒を酌み交わし、笑う。

 反論もせず、じっと風景に見入っている客人にしたがって公幹青年も風景をあらためて眺めた。

 南には鷲の巣・峨眉の国東の諸峰が連なり、はるか西に門司赤間の関、北東にぼんやりと山陽南海の地がめぐっている。

 姫島はまるで碧い波に、亀に跨るように浮かぶ人間界の瀛州(えいしゅう)のようではないか。瀛州とは古代中国において、仙人の住むとされた東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つとされる山である。姫島を仙人の住む山にたとえたくなるほど、公幹=梅園の旅情は高まる。

 玉世姫の伝説が残る姫島の風景に、皇太子の用明帝が山路(さんろ)と称して真野の長者の牛飼いになった物語があらためてしのばれる。山路の面影を求めると、涙が出てくる。

 今では月にかかる蘿(つた)が皇子の環佩(腰につける環(わ)の形をした玉)のようにみえるだけだ。夕暮れの雲が君面影を求める美女の魂のようにたなびいているだけだ。

 後年、梅園は、姫島の姫とおはぐろ関連の遺跡を結びつける違和感を、33歳の『豊後跡考』(宝暦5(1755)年)「姫島」で、再び表明する。

 梅園の説のように用明天皇のころに鉄漿の習慣がなければ、大陸から渡ってきた古代の姫が歯を染めた場所とするのはもっとおかしなことになりはしないか・・・。

 ここは「姫島」の姫の由来になった古代の姫と、島でおはぐろをした姫は別だと考えたほうが合理的だ。しかし、名所の名所たるゆえんは、古代も奈良時代も平安時代も過去は過去としてごちゃまぜにしたところにある。時代背景など関係なく、名所に立てば、それぞれのいにしえの物語がしのばれ、訪れた人の想像力をかりて風景がただの風景ではなくなるところに醍醐味がある。

 

「姫島に遊ぶ 詩並びに序」(原文は漢文・改行はブログ作者)

 豊は九州の東なり。姫島は豊の東なり。戊辰春三月客壺を携え舟を泛(うか)ぶ。霖雨(りんう=長雨)新たに霽(は=晴)れ、青螺畫(画)の若し。欸乃歌(あいだいか・船歌)崖を発して山を転じて過ぐ。

 清風怗(ちょう・静か)として、海に波無し。須臾(しゅゆ=しばらくして)島に到り、舟を白砂の崖に維(つない)で、相問訊す。人有り語る。

 在昔(ざいせき)用明帝の東宮に在りしとき、豊の真野の長者の女(むすめ)玉世姫色有りと聞く。ひそかに使いを使わしめこれを召す。長者命に応ぜず。

 太子竊かに宮を出で豊に来る。名を珊郎(さんろ)と改め、一日山路長者の牛を牧す。野に在るの日、牛に跨り笛を吹く。声甚だ哀し。人聴く能わざる。

 長者疑いて之を窺う。其の太子なることを知りて、大いに恐惶し女(むすめ)をして従わしむ。

 太子京に入る。路姫島を過(よぎ)る。

 是に於て(ここにおいて=このとき)女(むすめ)舟より下り、石に座して以て歯を染む。其の歯を染むところの筆を執りて以てこれを地に立つ。筆長じ柳と為る。之を姫柳①と謂う。

 其の座す所の石、之を羽黒石2.と謂う。

 井有り 之を羽黒井3.と謂う。

 岩間涓涓(けんけん)として水湧く。之を鉄漿渓4.と謂う。

 予慨然として(嘆いて)客に謂いていわく、用明帝の豊に来るや、史伝において未だ之を見ず。伝えて人口に在ること之久し。蓋し史醜声を悪み之を伝えずか。

 何ぞ夫寥々(りょうりょう)として聞くこと無きや。

 又意(おも)う。古昔(こせき)風流に相如(司馬相如)がごとき者有れば、而して之を誤り伝えるや。

 鬋を髭り(ひげをそり)、歯を染むること鳥羽の朝(鳥羽天皇=平安後期12世紀)より始まる。相去ること五百有余載(=年)。豈此の事有り得んや。意(おも)うに好事(こうず)者の託(たく=かこつけること)ありて然るか。

 子を以て之を観ること如何。客応えず。いわく、子観るや。

  南を擁して蒼々たるは鷲の巣・峨眉の諸峰なり。

 西に当たりて(向き合って)茫々然たるは赤間文字(=門司)の関なり。

 綿々然として雲の若く透迤(とうち=曲がりくねって続くさま)として波の若く、

 東北に環(めぐ)るは山陽南海の地なり。

 點々(=点々)然(あちこちに散らばる)として星の若くは舟の往来なり。

 片々として雪花の若くなるは、白鷺の飛ぶなり。

 岸を隔て嘔啞(唖)(おうあ=にぎやかな声)たるは漁歌の相和すなり。

 金波龍の若くなるは落日の射なり。

 縹緲(ひょうびょう=かすかに見える)として虚に憑(つく)が若くなるは碧波の中に座すればなり。

 陶々(=ゆったり)かな。亀に跨る若くなるは絶境の然らしむるなり。

 神州(しんしゅう)の濶(かつ=広さ)吾知らず、実に人間の一瀛州(えいしゅう=仙人の住む山)なるかな。

  予亦前言の失することを愧じ、酒を酌みて相笑う。既に詩就(な)る。因りて其の言を以てこれが序と為す。云(いわ)く。

 

 帝子昼錦(ちゅうきん=故郷に帰る)の日

 蘭橈(らんじょう=舟の美称)この地に過る

 如今(じょこん=現在)見るべからず

 只余す 長流の水

 青苔年々 井上の石

 好し 江上に向かいて遺跡を訪(おとな)わん

 珊郎(さんろ)の長笛今いずくにか在る

 落日空しく対す 孤舟の客

 十三十四女 蘋(うきくさ)を釆(と)る

 菱歌(りょうか=菱とり歌)一曲 楊柳 新なり

 知らずや

   古を吊(=弔)えば独り涙有り

 柳條を攀折(はんせつ=折る)すれば春を滅却するを

 青天依微(いちょう=ぼんやりとしている)たり 江上の樹

 白鷺蕭条(しょうじょう=物寂しいさま)たり 渡口の霧

 蘿(つた)垂れて環佩(かんぱい=腰につける環(わ)の形をした玉) 夜月に懸け

 花発(ひら)きて 玉顔暁露を含む

 唯香魂(=花の精・美人の魂)ありて君を憶い 

 化して朝朝暮暮の雲と為るに似たり

 

  「伊美浦に舟を泛(うか)ぶ」(その2・原文は漢詩)

  扁舟(へんしゅう・小舟)三月東風に掉さす

  万里の烟霞(ぼんやりとみえる風景)鴉路(あろ)空し

  海上の青螺天より落ち

  幾人か同(とも)に在らん瑠璃の中

 小舟を三月の東風に漕ぎ出す

どこまでもかすむ景色に鴉(からす)の道案内もない

 海上に見えるあの島は天から落ちたようだ

 同行の諸子よ さあ 行こう あの瑠璃色の中へ

(余利ゝ子の私感で訳す)

 


三浦梅園と「姫島」その3 初めての姫島20歳秋

2015-07-03 18:04:58 | 歴史文学探究

梅園の姫島行

 20歳、26歳、27歳の三度、梅園は姫島を訪れている。この三度については詠詩がのこる。『姫島村史』姫島村史編纂委員会編をはじめ『姫島の歴史 ロマンあふれる島への誘い』木野村孝一著 で姫島を詠んだ詩歌として引用されている梅園の漢詩は天明3年(1784)「玉女島。姫島」(『梅園詩稿』)梅園61歳の作である。翌々年の天明5年63歳のときにも「玉女島」(『梅園詩稿』を詠んでいるが、実際に島を訪れて詠んだのはではないであろうと永松先生は「梅園学会報」第24号「三浦梅園と姫島」において見解を示されている。

 姫島を梅園は「玉女島」と呼ぶ。姫島から「玉女島」に至る変遷をたどりながら、梅園にとて姫島はなぜ玉女の島なのか後稿で触れたい。ちなみに下記に引用する20歳の詩では「姫島」は「姫島」である。

 1.     20歳の秋、初めての姫島

 姫島出身の友人清香山を送りがてら島まで同行する。清香山については梅園53歳の時安永4年に「悼清香山」(梅園詩稿』所載)の詩がある。それ以外の人物像については不明だがおそらく17歳で入門した杵築の綾部綗斎(けいさい)の門弟仲間だったのではと想像する。そうでなければもう一人の師・中津の藤田敬所のところか。お互い詩をよくし、友が姫島に帰省すると知った梅園が一緒に連れて行ってくれと頼んだのだろう。梅園は両子山から見える姫島に一度は行きたいとかねがね思っていた。15歳で家にある唐代の詩のアンソロジー『三体詩(さんたいし)』で詩を独学して以来、作詩に燃え、少年ランボーを彷彿とさせるかのように21歳で最初の詩集『独嘯集』を完成させている。その時の署名は「浦安貞」、17歳5首、18歳19首、19歳22首、20歳36首、21歳29首の計100首を収める。

 「あなたがおふくろの味恋しさに島に帰るのについてきてよかった。この景色もあの景色も感興を催され詩心が刺激されます」と友に語る青年梅園=安貞の声が聞こえてきそうである。

 「遥かに清香山姫島に之くに同ず」

寛保2(1742)年秋・『独嘯集』・原文は漢詩

西風に纜(ともづな)を解きて江城(こうじょう)を去る 

一片湖聲 櫓聲(ろせい)を兼ぬ

海上の烟波(えんぱ)に蜃気に動き

洲前の斜日(しゃじつ)に客心驚く

霜飛びて両岸紅風冷かに

雲散じて千峰落月(らくげつ)清し

處處の山川興に乗ずるに耐え

東征は是れ蓴羹(じゅんこう)の為ならず         

  • 江城 川辺の町
  • 東征 東方の夷狄を征伐すること。東に行くこと。
  • 蓴羹(じゅんこう)じゅんさいの吸い物。故郷を思う情のたとえ。

 川辺の町から西風を受けて船を出す

波の音に艪をこぐ音が重なり

海面がけぶるように波立ちゆらゆら揺れている

砂州の前に沈む夕日が客となった私の心を驚かせた

両岸の紅葉に冷たい霜がふる

雲がはれて国東の連山に傾く夕月がなんとも清らだ

あの山もこの川も詩興を催さずにはいられない

東の海に浮かぶこの島を尋ねたのは故郷の味を恋しがる友の為ばかりではない、

友と風雅を味わいにきたのだ        

【余利ゝ子の私感で訳す】