三浦梅園めぐり 

江戸中期の哲学者三浦梅園ゆかりの地と事柄をたずねて。国東・杵築の詩碑めぐりを中心に梅園に関する思いをつづります。

三浦梅園と「姫島」 その7 『豊後跡考』(2)

2015-09-23 11:14:58 | 歴史文学探究

比売語曽社奥宮 

 「比売語曽社(ひめこそしゃ)」の奥宮

 

三浦梅園と姫島 その7 『豊後跡考』(続)

 引き続き『豊後跡考』の解題。前回三浦梅園と姫島その6で、1.2.3.の疑問点が残ってしまった。3.の「梅園の姫島の姫」についてはあらためて稿を起こし、今回は1.と2.について考察したい。

1.     「 姫島」は豊後か摂津か?

2.      万葉集に歌われた乙女の溺死体が上がった「姫島の松原」とは、国東の姫島なのか?

3.      姫島の姫は「玉依姫」なのか「比売語曽(ひめこそ)の女神」の姫なのか?

 梅園は『豊後跡考』で、姫島の地名について、

「(摂)津の国ありといえれども豊後を是とす」と言い切っている。その根拠として河辺宮人の万葉集の歌(2-228)を引き、

「河辺は豊前の地名なり」とこれも言い切っている。

 「歌の作者の宮人のすむ河辺は豊前の地名なので、歌の詞書にある姫島の松原は豊後の姫島のことである」と解せる。

 川部という地名については、永松祥一郎氏の調査があり、たしかに宇佐市の駅館川西方に存在する(三浦梅園と姫島」既出)。河辺宮人の二首目の歌(2-229)が、「難波潟潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも」と、「難波」とあるので、姫島は難波の姫島をさすという見解がこれまで多い。

 河辺宮人が姫島の松原で、娘子(おとめ)の屍(しかばね)を見て作った歌にはさらに4首ある。「和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原の美人をとめの屍を見て、哀慟かなしびて作る歌四首」と先の2首と同じような詞書がつけらている。

「千人万首 河辺宮人」

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/miyahito.html

を参照させていただきました。作者にこの場を借りてお礼申し上げます。)

  最初の歌((3-434)は和歌山県の美保の浦廻のつつじをみて亡き人を思う歌、次の3首はいずれも久米の若子(わくご)」と娘子の相聞歌だ。詞書にある「姫島の松原」とは直接関係がない。と、すると、「姫島の松原」で娘子の屍をみて作った歌は最初の二首のはじめの歌、つまり、梅園が『豊後跡考』姫島で引用した歌(2・228番)しかないことになる。次の歌(2・229)に「難波」と出てくるので「姫島は難波だ」とする説は通用しなくなりはしないか。3首目を根拠にすれば「姫島は和歌山の三保の浦廻(うらみ)だ」といってもよいことになる。「難波」の浜辺ににいても「三保の浦廻」にいても「姫島の松原」でみた娘子の屍が思い出され「姫島の小松の枝が苔むす千年先までもその死が語り継がれるであろう」と哀悼せずにはいられない。「姫島の松原」は「姫島の松原」であって、河辺宮人が詠んだほかの歌を根拠にしても、姫島がどこかは判明しないのではなかろうか。 

 作者の河辺宮人についても「人名」ではなく「飛鳥の河辺の宮に仕える人」「物語上の架空の人物」と諸説あるそうだ。梅園のいうように河辺が豊前の「河辺(川部)」であるとすると、駅館川の対岸には現在の宇佐風土記の丘になっている「川部・高森古墳群」があり、川部は古代から開けていた場所だとわかる。万葉のころ8世紀、「宮人」はおそらく宇佐神宮に仕えていた「宮人」が娘子の屍を見たのは豊後の「姫島」の松原と考えてもよい可能性がでてくる。姫島へは駅館川から周防灘へ船で円状の国東半島を北へ時計まわりに半周するとすぐ近くだ。「川部」というのは古代の古墳時代の御名代(みなしろ)とも呼ばれる部民制における集団のひとつで、「川の運行や漁」に従事する職種の人々をさすそうだ。彼らは舟を操ることになれていたのではないか。

 また川辺という地名は摂津にもある。こちらは神功皇后が筑紫国に御幸で下ったとき多くの天神地祇を「川辺郡」にある神前(かむざき)に集めて幸運を祈願し、美奴売(みぬめ)の神が進言で杉の木で船を作った場所とされる。この神の船のおかげで新羅との戦いに勝ったとされる。また「難波豊前朝廷」(7世紀半ばの孝徳朝・「なにわとよさきのみかど」と読む)という、「難波」と「豊前」が合わさった名前の朝廷が存在し、共通の名称をたどってゆくと古代史の網目は次から次へとどこまでもからみあっていて、容易に抜け出せなくなる。

  姫島の七不思議の各名所に柳亭種彦が詠んだ歌碑が建っている。「拍子水」を詠んだ和歌は:

「尋ねこし松のれうかれて歌ひまふ こころも赤き八開手(やひらで)の水」

         

「松の」の個所が「松の」と解読しているもの(『姫島村史』487頁)もある。おそらく「れ」の文字が「水」に似ているせいかと推測する。

 「松のれ」はおそらく「松の末(うれ)」の意味ではなかろうか。字数だけ合わせれば「松の枝(え)」なのでは?底本を見てみたい。しかし「柳亭種彦」がいつごろ姫島に来たかも不明のようだ。しかも「柳亭種彦」には江戸後期から明治・大正にかけて2代目・3代目がいた。歌の作者がどの種彦なのは『姫島村史』を繰ってみてもいまいちわからない。ちなみに初代は有名な『偐紫田舎源氏』の作者、二世種彦は笠亭仙果(1804―1868)、高畠藍泉(1838-1885)を三世柳亭種彦と呼ぶ。三世種彦の弟子に豊後臼杵出身の右田寅彦(みぎたのぶひこ)という劇作家がいるが、なにか姫島の和歌と関わりがあるかないか・・?

 『杵築市史』(昭和43年)の監修責任者の土居寛申氏に、旧制中学時代に記した挿絵入りの『姫島紀行』(明治33・1900年・郷土史杵築第131号・132号掲載)がある。「姫島の不思議」のうち「浮田」「栄柳」(逆柳)「拍子水」を訪れ、帰りの船の都合で「玉代姫の座り玉ひしおはぐろ石」(かねつけ石)は見る事をやめたとある。柳亭種彦の歌については一切記述がない。

 話が飛んでしまった。

 なぜ柳亭種彦の「姫島の七不思議」を詠んだ和歌を話題にしたかというと「姫島の松原」は歌枕の地として有名だったのではなかろうと、推測するからだ。種彦は「尋ねこし」とわざわざ書いている。姫島の松原の松が名に負う、人口に膾炙した松、もしくは松原だったからこそ「柳亭種彦」は姫島の松を尋ね、訪れた。

 この松原の松が「千代に苔のむすまであなたの名はつたわるでしょう」と、河辺宮人が詠んだ松と、少なくともここ姫島では言い伝えられ、江戸にも伝わっていた、と考えられる。

 娘子の亡骸が山口の大畠の瀬戸で嵐に巻き込まれた「真野長者の娘・玉依姫(玉世姫・玉代姫)」(6世紀)かも・・・と想像を掻き立てられてしまう。8世紀の万葉の歌なので年代的に不整合だが、この歌の力は、史実を凌駕して読者の想像力を触発しおし広げて、あらたな物語を生み出す。

 

 難波の姫島、豊後の姫島

  内田康夫の浅見光彦シリーズに大分県の姫島を舞台にしたミステリ『姫島(ひめしま)殺人事件』がある。この中に大阪市西淀川にある「姫島神社」というのが出てくる。豊後の姫島は「ひめしま」だが、大阪の姫島は「ひめじま」と濁って読む。この神社で20年前の大分の姫島出身の娘が強姦されたが事件が、姫島で起きる殺人事件の伏線となっている。

「もともと姫島の姫島神社は大阪にあったんだそうですよ。このあいだお話しした比売語曽姫(ひめこそひめ)っていうのが難波(なにわ)から姫島に移って来たっていう話があるんです」と姫島の伝説の詳しいという設定の女子大生(この物語のヒロイン)に語らせている。(『姫島殺人事件』カッパ・ノベルス204頁)

 大分県の姫島に「姫島神社」はなく、あるのは「比売語曽社(ひめこそしゃ)」だが、「難波から姫島に移ってきた比売語曽姫」とは、

一、『日本書記』垂仁記に描かれている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の妾・白い石から生まれた女神のことだ。難波と豊国の国前郡にいって比売語曽社の神(ひめごそのやしろのかみ)になった。つまり姫のルートは:

大(意富)加羅国(おほからのくに・今の韓国南部)→難波→豊後の姫島(ルート1)

二、『摂津国風土記』では姫の名は「新羅国(しらぎのくに)の女神(ひめがみ)。夫からのがれてしばらく「筑紫国(つくしのくに)の伊波比(いはひ)の比売嶋」に留まった。「この島は新羅から遠くない。もしこの島に住んだならば、前夫の神が探してやってくるだろう」とさら逃げて「比売嶋の松原」にたどりつき留まった。だから最初に到着した筑紫国の島の名をとって、鎮座した所の名とし、島の名をした、とある。(『摂津の国風土記逸文』)(『風土記・下』角川ソフィア文庫より) 

 新羅 → 姫島(豊後) → 難波の姫島=豊後の姫島にちなんで命名(ルート2)

*「筑紫国(つくしのくに)の伊波比(いはひ)の比売嶋」は豊後の姫島であると、杵築藩士の小串仙助(重威)が論証した。

三、 『古事記』応神記では姫の名は新羅の国主の子天之日矛の妻・阿加流比売姫。

姫は御馳走を作って夫につくしていたが、横暴な夫の仕打ちに耐え兼ねて「祖(おや)の国に行く」といって新羅から逃げてくる。

 新羅→難波(ルート3)

*『古事記』では姫は豊後の姫島にはきていないことになる。

 先ほど引用した『摂津国風土記』の注では、比売嶋の松原を大阪市西淀川区姫島としている。

 浅見光彦シリーズにでてくる「姫島神社」のある場所だ。大阪市東成区東小橋の「比売許曽神社」とする説もある。

 ルート3の『古事記』の阿加流比売(あかるひめ)姫は難波に留まったまま豊後の姫島には来ていない。だが1.2.3.の姫を異名同一人物だとみる見方もある。前出の(「摂津の国風土記」・『風土記・下』角川ソフィア文庫収録)の「比売嶋松原」の項の注に「鎮座地を移すのは巡行伝承のパターン」、「地名の移動は居住者の移動」とある。それを参考にすると、姫が移動してどこかに住むと前住んでいた地名が新しい移転先に付けられるので、比売嶋の松原は難波でもあり、豊後の姫島でもあり、両方ありえるということになる。

 梅園先生には「(姫島は)津の国に在といへれども豊後是とする(ただしいとみなす)」、「」と言ってほしかった。直筆草稿でチェックしてみたがはやり「豊後是とする」であった。

 もう一度復習すると、『豊後跡考』での梅園先生の見解は、「姫島は豊後が正しいとする」とし、その根拠は万葉集の河辺宮人の「姫島の松原で詠んだ歌」の作者とされる「河辺」という地名が豊前にあることから姫島は豊後の姫島をさす」である。

「姫島は摂津の国ありといえども豊後を是とす」の「是とする」が、「是(ぜ)とする」と読む以外に「是(これ)とする」と読めるなら、

「摂津にも姫島とよぶ島はあるが、豊後にもあるので、ここでは豊後の姫島を話題にする。万葉の姫島の松原で詠んだ歌の作者・河辺宮人の「河辺」という地名は豊前にあることから、詞書の姫島の松原はそこからほどちかい豊後の姫島をさす」と解読できるのだが・・・

 梅園先生。姫島・豊後説のもっと納得できる根拠をもう少し詳しく示していいただきたかった。

  ここにひとり、『古事記』の女島が「姫島」であると論破した者がいる。梅園の晩年の門弟・小串仙助(重威)だ。次回は彼について。 

 

 

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