常識的には、まず心と物とが相対立し、知るというのは心の働きと考えられます。しかしこのような考えはあまりにも素朴的であると彼は言います。
西田幾多郎
物心の独立存在
我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には「心」なる物があっていろいろの働きをなすように考えています。またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっています。しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によりて仮定したまでで、いくらでも疑えば疑いうる余地があるのです。
活動そのものが実在
普通には何か活動の「主」があって、これより活動が起こるものと考えています。しかし直接経験よりみれば、活動そのものが実在です。この「主」というのは抽象的概念なのです。私たちは統一とその内容との対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのです。
主観と客観
普通わたしたちは主観と客観とを別々に独立できる存在であるかのように思っています。そしてこの二つの作用により意識が生じるかのように考えています。つまり精神と物質の二つの実在があると考えていますが、それはまちがいです。
主観・客観というのは一つの事実を考察するさいの観点の相違なのです。精神と物体の区別もこの見方から生じるのであり、事実そのものの区別ではありません。
たとえば実際の花は単なる物体ではありません。色や形をそなえかおりのする美しく愛すべき花なのです。真の実在は普通に考えられているような冷静な知識の対象ではありません。
それはわたしたちの情意より成り立ったものです。単なる存在ではなく意味をもったものです。ですからこの現実からわたしたちの情意を除き去ったなら、もはや具体的な事実ではなく単なる抽象的概念になります。
それは学者の言う世界であり幅のない線、厚さのない平面と同じで、「実際に存在するもの」ではありません。この点より見て、学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。
西田幾多郎『善の研究「実在」より