
ではでは,1アマを取得するまでのお話を.
2アマを取得した後,今の場所へ住むまではQRT状態がしばらく続きました.
再び,QRVを始めたのが93年頃の事.当時の2mの空は大賑わい.いわきでも夜になると空いているところを探すのも一苦労した時代ですから,知合いも増え,同世代のローカル局から1アマを狙うので誘われます.アララ,高校時代と一緒やん.
2アマと1アマを比べても出力の差しかないし,別に500w(当時)を出す気も無かったしで,「俺,いいよ.」と断っていました.結局,話に無理やり乗せられて試験勉強を始めた気がします.これマジな話っす.
試験勉強を始めたのは93年の12月頃からだったかな.でも,気合が入らずでして,本気モードに入ったのは,94年の4月期を受けてから.当時の実技は,欧文60字と和文50字の3分間受信がありましたからね.とりあえず実技合格を狙って一人で受験したのですが,もろくも和文実技で失敗.その頃は,ハガキの裏にポンッと「不合格」ってスタンプが押された昔のスタイルではなく,剥がさないと合否が見えないタイプに変っていました.結果は,「開いて見たけど,不合格だったよ.」カミサンから電話がありました.
突然,本気モードのスイッチが入ったのですよ,その「不合格」ハガキを机に貼り付け,机の上には必ず,「上級ハムになる本」と「問題集」が置かれ,職場から帰って来たら毎日,学科と和文実技の聞き取りを繰り返す事,6ヶ月.なんせ,機械屋の無線工学ですから,基礎が違うでしょ,大変でしたよ.
2mの空では,
「勉強してる?」
「してるよ,その日のノルマが終わるまでは空に出ないと決めたから,こんな時間だよ.」
って,久々の本気モードでしたね.
翌日のコンディションをベストにする為,試験前日,94年10月15日の夕方,平駅(現:いわき駅)の1番ホーム,上野行きの特急電車を待ちながら,
「俺,明日,電車からホームに降りる時,どんな顔しているのだろう...」
晴海の試験会場,学科の手応えはバッチリ.ネックはやはり,和文でした.「ワガクニニオケル タンパツウシンノ...」の「°」(・・--・)が??で5,6度は出た終わり頃,「アッ! 半濁点」と気付き,2度は書けたけど,文字抜けしてしまったわけ.「タンパ」が良く出た和文でした.
半年の努力が,たかだか「トトツーツート」の為に終わるのか...チョットナーバスになりながら,文字抜けはそれ程大きな減点ではないはず.でも,今回も落ちたら,きっと和文だな...で試験を終えました.
毎分50字の和文3分が早かったナァ...和文の次は欧文,毎分60字の3分間は,頭の中で随分長いんとちゃうか? なんて考えながらでもデコード出来る程余裕だったのは,自分ながら驚いてましたよ.その頃はバリバリCWで空に出てましたからね.
1アマ受験,発起人のローカル局と特急電車の中,ビール片手の帰路でした.そうそう,東北だのに,東京で受験しても良い事を知ったのはこの頃.
エッ? 帰って来た時のホームに降りた時,どうだったか?
ベストはつくしたけど落ちたら和文かナァ...でチョット心配でしたが,達成感はありましたよ.良い顔していたはず.
答え合わせはやめるべと言っていたのに,翌日の2mの空.いつものメンバー達がQSOしているのを聞いていたら,アララ,しっかり答え合わせしているじゃないのよ.もちろん,その中へ.
「ヤッパ,気になって仕方ないよ.」
「だよな,でも悪いけど,俺が落ちたら和文だよ.」
「自信あるんだ?」
「あるよ,俺,学科は満点に近いはず.落ちたら,原因は和文だって.」
遠慮という言葉がないのか,その理由を云々と話したわけ.
発表は2ヵ月後位ですと言っていたのに,僅か1ヶ月でその日はやって来ました.
珍しく昼休みにローカル局から職場へ電話が.(当時は携帯など無い時代.)
「ハガキ来たぞ!」
「ウソ,だって2ヵ月後って言ってたじゃん.」
訳の判らん事言ってた気がする.
電話の相手は,実技合格との事.大丈夫だよと言われても,見るまでは判らない.
自宅へ電話すると,ハガキが来てると小学校から帰って来た子供が受話器の向こうで答える.お父さんの机の上に置いて頂戴.と電話を切る.
さぁ,その日の午後は仕事にならず,定時速攻で自宅へ.
見れば,机の上にはハガキが.
小2と幼稚園の二人が何事かとやって来る.
開けるつもりで手にしたが,一度躊躇ってしまう.
「僕が明けようか?」
「駄目,お父さんが開けるの.」
深呼吸一つ...一気に剥がす.
「合格」の二文字が目に入る!!
「やったぁーーーッ!!」子供達と抱き合って喜ぶ.
カミサンは子供を叱ったのかと心配で部屋へやって来る.
昼間連絡をくれた相手に電話.
「良かったなぁ」の言葉に,目頭が熱くなる...
一騒ぎが終わった夜,机の上に必ずあった「上級ハムになる本」と「問題集」そして,半年前に届いた不合格通知.
本棚に収め様とした時,恥ずかしながら涙が頬を伝う...
不思議と思い出してしまうコールサイン.
「SWD,XNS,SCD,俺,1アマ取ったぞ...」
平成6年,晩秋の事でした.
今でもあの頃の事を思い出すと,ジーンと来ますよ.
それくらい,私にとって1アマライセンスは,別格なものだったのですよ.
さて,ARP 元気でやってるかい?
1アマを取るきっかけを作ってくれたのだと,今でも思っている.
おかげで,まだ和文受信の試験があった為,苦労して取った事,良い思い出です.
彼の名誉の為に翌年の4月期,無事ライセンスを取得した事を記してキーから手を離す事にしよう.
最後に,ひょっとしたら12月期の2アマ,1アマの試験を受けられる方達が読んでいられるかも知れませんね,是非頑張られて下さい.
きっと皆さんにもドラマが待っていますよ.
2アマを取得した後,今の場所へ住むまではQRT状態がしばらく続きました.
再び,QRVを始めたのが93年頃の事.当時の2mの空は大賑わい.いわきでも夜になると空いているところを探すのも一苦労した時代ですから,知合いも増え,同世代のローカル局から1アマを狙うので誘われます.アララ,高校時代と一緒やん.
2アマと1アマを比べても出力の差しかないし,別に500w(当時)を出す気も無かったしで,「俺,いいよ.」と断っていました.結局,話に無理やり乗せられて試験勉強を始めた気がします.これマジな話っす.
試験勉強を始めたのは93年の12月頃からだったかな.でも,気合が入らずでして,本気モードに入ったのは,94年の4月期を受けてから.当時の実技は,欧文60字と和文50字の3分間受信がありましたからね.とりあえず実技合格を狙って一人で受験したのですが,もろくも和文実技で失敗.その頃は,ハガキの裏にポンッと「不合格」ってスタンプが押された昔のスタイルではなく,剥がさないと合否が見えないタイプに変っていました.結果は,「開いて見たけど,不合格だったよ.」カミサンから電話がありました.

突然,本気モードのスイッチが入ったのですよ,その「不合格」ハガキを机に貼り付け,机の上には必ず,「上級ハムになる本」と「問題集」が置かれ,職場から帰って来たら毎日,学科と和文実技の聞き取りを繰り返す事,6ヶ月.なんせ,機械屋の無線工学ですから,基礎が違うでしょ,大変でしたよ.
2mの空では,
「勉強してる?」
「してるよ,その日のノルマが終わるまでは空に出ないと決めたから,こんな時間だよ.」
って,久々の本気モードでしたね.

翌日のコンディションをベストにする為,試験前日,94年10月15日の夕方,平駅(現:いわき駅)の1番ホーム,上野行きの特急電車を待ちながら,
「俺,明日,電車からホームに降りる時,どんな顔しているのだろう...」
晴海の試験会場,学科の手応えはバッチリ.ネックはやはり,和文でした.「ワガクニニオケル タンパツウシンノ...」の「°」(・・--・)が??で5,6度は出た終わり頃,「アッ! 半濁点」と気付き,2度は書けたけど,文字抜けしてしまったわけ.「タンパ」が良く出た和文でした.
半年の努力が,たかだか「トトツーツート」の為に終わるのか...チョットナーバスになりながら,文字抜けはそれ程大きな減点ではないはず.でも,今回も落ちたら,きっと和文だな...で試験を終えました.
毎分50字の和文3分が早かったナァ...和文の次は欧文,毎分60字の3分間は,頭の中で随分長いんとちゃうか? なんて考えながらでもデコード出来る程余裕だったのは,自分ながら驚いてましたよ.その頃はバリバリCWで空に出てましたからね.
1アマ受験,発起人のローカル局と特急電車の中,ビール片手の帰路でした.そうそう,東北だのに,東京で受験しても良い事を知ったのはこの頃.

エッ? 帰って来た時のホームに降りた時,どうだったか?
ベストはつくしたけど落ちたら和文かナァ...でチョット心配でしたが,達成感はありましたよ.良い顔していたはず.
答え合わせはやめるべと言っていたのに,翌日の2mの空.いつものメンバー達がQSOしているのを聞いていたら,アララ,しっかり答え合わせしているじゃないのよ.もちろん,その中へ.
「ヤッパ,気になって仕方ないよ.」
「だよな,でも悪いけど,俺が落ちたら和文だよ.」
「自信あるんだ?」
「あるよ,俺,学科は満点に近いはず.落ちたら,原因は和文だって.」
遠慮という言葉がないのか,その理由を云々と話したわけ.
発表は2ヵ月後位ですと言っていたのに,僅か1ヶ月でその日はやって来ました.
珍しく昼休みにローカル局から職場へ電話が.(当時は携帯など無い時代.)
「ハガキ来たぞ!」
「ウソ,だって2ヵ月後って言ってたじゃん.」
訳の判らん事言ってた気がする.
電話の相手は,実技合格との事.大丈夫だよと言われても,見るまでは判らない.
自宅へ電話すると,ハガキが来てると小学校から帰って来た子供が受話器の向こうで答える.お父さんの机の上に置いて頂戴.と電話を切る.
さぁ,その日の午後は仕事にならず,定時速攻で自宅へ.
見れば,机の上にはハガキが.
小2と幼稚園の二人が何事かとやって来る.
開けるつもりで手にしたが,一度躊躇ってしまう.
「僕が明けようか?」
「駄目,お父さんが開けるの.」
深呼吸一つ...一気に剥がす.
「合格」の二文字が目に入る!!
「やったぁーーーッ!!」子供達と抱き合って喜ぶ.
カミサンは子供を叱ったのかと心配で部屋へやって来る.
昼間連絡をくれた相手に電話.
「良かったなぁ」の言葉に,目頭が熱くなる...
一騒ぎが終わった夜,机の上に必ずあった「上級ハムになる本」と「問題集」そして,半年前に届いた不合格通知.
本棚に収め様とした時,恥ずかしながら涙が頬を伝う...
不思議と思い出してしまうコールサイン.
「SWD,XNS,SCD,俺,1アマ取ったぞ...」
平成6年,晩秋の事でした.
今でもあの頃の事を思い出すと,ジーンと来ますよ.
それくらい,私にとって1アマライセンスは,別格なものだったのですよ.
さて,ARP 元気でやってるかい?
1アマを取るきっかけを作ってくれたのだと,今でも思っている.
おかげで,まだ和文受信の試験があった為,苦労して取った事,良い思い出です.
彼の名誉の為に翌年の4月期,無事ライセンスを取得した事を記してキーから手を離す事にしよう.
最後に,ひょっとしたら12月期の2アマ,1アマの試験を受けられる方達が読んでいられるかも知れませんね,是非頑張られて下さい.
きっと皆さんにもドラマが待っていますよ.

私も思い出します。1アマを取った時の事。
私の場合は、平成5年の秋に通信術のみを受験しました。その半年前に2アマを合格し、いきおいで1アマを受験しました。ゼロエリアですから、善光寺のすぐ隣が試験会場でした。学科は初めから全く勉強してなかったので、午前中の試験は全く解らなかったです。問題の通信術。長机に二人づつ座り、私は右側に座りました。和文の試験が始まり、緊張のド真ん中にいるその時、な、何と、私の左側に座った人が、(開始10~20秒後だったと思う)
ポ~~~ン、カラ、カラ、カラ・・・・・・。
突然ペンを投げ出したのでした。
もう、私の頭の中は「まぁ~~~~~~白!!!!」
それでもなんとか書くだけは書いていました。
その後、その人はまた書き出したようでしたが、又しばらくしてペンを投げました。
試験が終わった後、おもいっっっっきり「落ちた~~~」と思いました。
帰る時の高速道路がえらく長く感じました。
それからハガキが来るのが恨めしい位長く感じました。
で、結果は「科目合格」でした。
気をよくして平成6年の春学科を受け、無事合格しました。
今だから良い(?)思い出としてこんな事を書けますが、当時は・・・・・・・。
JH0TDP局は私と同じ頃に受験されていたのですね.
丁度,私が1アマの落ちた4月期に合格されたわけですね.
私は4月期は全滅,10月期にクリアー出来たわけです.
私が一番気になったのは,和文は原稿用紙みたいなマス目に記入して行ったでしょ.
だから,例えば1行目が終わって次の行に移る時,周りの受験者と一緒に行が変わらないと,おかしいと判るから余計焦りますよ.
おかげで,2度目のチャレンジの時には,周りを見ない様にしました.
もう過去の試験科目になってしまいましたが,あの頃の実技試験は今思い出しても辛かったですねぇ...でもやっただけの甲斐はありましたよ.
2アマ,1アマを受けたおかげで,CWが好きになりましたからね.私のアマ無線のCWウェートは8割近くCWでしょうから.
これからも,どうかご贔屓に.
升目の事が気になるって、余裕があったんじゃないですか。素晴らしい!!
私はとてもそこまで考えが及びませんでしたよ。
学科は平成5年秋の問題の方が、「倍」くらい難しかったです。自宅で問題用紙の答え合わせをしたのですが、「1アマって、こんな問題が出るんだ~~~」と思い、半分落ち込みつつ、「でも頑張らなきゃ」と余計勉強に気合いが入りました。私の友人が、その試験で合格してまして、その人はすごいなと、今でも思っております。平成6年の春は、思った程難しく感じませんでした。自宅で答え合わせをしたら、なんと2アマで合格した時の問題が出ていたのはさすがにビックリしましたね。試験中も「あれ?」と思ってましたら、やっぱり、でした。
合格通知が来て、次の日には免許申請しましたら、何と免許証の番号が「****00001」でしたよ。
今から思えば色々あったけど良い思い出ですね。
私もHFは殆どCWですね。ブランクが有った復活組ですので、最近又和文を覚え直しております。
その頃のテープを又引っ張り出して来て聞いております。実際の交信はすごくゆっくりです。早く打つ事には興味がないのです。楽しめればよいので相手は早いのに私が遅いと言う変な交信になっております。「NO QRS」も時々打ったり・・・。
確か15回申請して受験できたのは2回随分お布施したなぁ、その甲斐もあってか1アマは2回で合格したのでした。
チャンチャン、今日も張り切ってお仕事でーーーーーーす。
学科は出勤して15分、お昼休み20分、家に帰って数時間集中勉強、通信術はハムフェアで製作したミズホのCW練習機にお世話になった。
次は何を受けようか・・・そうだ3級持っていなかった!
おはようございます.
>升目の事が気になるって、余裕があったんじゃないですか。素晴らしい!!
余裕ではありませんよ.妙なところに気付くだけです.
和文練習はマス目用紙で自宅でも練習していましたからね.
私も和文は何度トライしても,使う頻度が低いので忘れはじめています.というか,符号は覚えていても,聞き取りの練習をしないと通常交信は無理ですね.以前は和文でもQSOはしていたのですけどね.欧文は忘れる事はないでしょうけど,和文はまだまだ染み付いていない様です.
ところで,もう直ぐ3B7Cが終わりますから,この連休で何処まで出来るかですねぇ.
ドモドモ,お久しぶりで.
お忙しそうですね.
コレクターではないけど,4枚持ってます.Hi
1ステップ毎に続けたからね.今なら,3アマの次は1アマとか,実技試験のレベルを落しているし,きっと近い将来,無くなるでしょうね.そうなると,いきなり1アマってのもありそうですよ.
ちなみに,今日は部活帰りの姪っ子と「HERO」見て来ます.オジサンと付合ってくれる良い子ですよ.条件は夕飯付ですが.Hi
電話のほうはなんとかなりますが、トンツーのほうはスピードが早くて大変でした。高2の時、初めて受けた3総通の通信術は試験官に怒られましたよ。「何打ってるんだ練習が足りないな」とね。今ではいい思い出です。昨夜は日立の風神山プチ移動やってきました。地デジのアンテナすごかったです。
昔のテープを聞いてますので、今は使わない「かぎのあるエ」とかが出てきて、それでどうしても一瞬止まってしまいます。なかなか7MHzでよく使われている70字前後の速度まで上がりません。何とかしたいと思ってはいるのですが、暗記受信が未だ出来ないので、道は遠そうです・・・・・・。
あ、思い出しましたが、JARLの入会時にくれたコールの入ったプレートは、電話級がオレンジ、電信級が薄いブルー、2アマがグリーンでした。1アマは貰ってませんので解りません。
お勤めご苦労様です.
プロはまだ送受信の実技試験がありますよね.やはり,アマチュアとプロの世界は違う事を改めて実感する事実ですよ.
職場にも通信士で転職された方が2名程いますが,こっちは,とりあえず職場では部署は違えど上司ですが,個人的には尊敬しています.だって,和文で苦労していたアマチュアですから,1アマを受ける時,アドバイスしてもらいましたよ.Hi
コンニチハ.
和文は欧文より判りやすいです.以前は暗記受信も出来ていたはず,日本人ですから.Hi
だから,試験中,トトツーツートが途中で判ったのも聞きながら読めたから.タンハがタンパだと判って書き直したと言うか,試験の品位は無視して「°」を書き加える事が出来たのですが,さすがに後で全部には書き加える事は出来ませんでしたね.まだ,試験の符号が流れていたわけですから.そうなると3分間は早かったですよ.まぁ,弁解ですが合格すれば誰でも満点です.Hi
以前,JARL会員になると貰える1アマのコールサインプレートは黄色です.これ,ローカル局が持ってましたから判ります.
1アマのステータスでしたねぇ.
でも,色が一緒になってからしばらく過ぎていますから,最近の人には判らないでしょうね.