goo blog サービス終了のお知らせ 

輸入雑貨店「イトウ・ショウジ」の店長日記

ネパールやアジアの国々の衣料、雑貨を直接買い付けて輸入販売している雑貨店イトウ・ショウジの店長の営業日記

1972年(昭和47年)10月 広島 暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ

2011年01月19日 | 蒼き神々の行方
1972年(昭和47年)10月 広島 

 神田龍一(かみたりゅういち)は高校を卒業し、広島市内の修道館大学(しゅうどうかんだいがく)へ進学した。その頃は、学生運動も下火になりつつあったが、それでも、神田(かみた)の通う大学は学生運動の急進派の核となっていた。

  神田(かみた)は彼らとは、一線を画し、いわゆる「ノンポリ学生」であったが、ただひとつ、高校時代から熱心に取り組んでいたのが、日本拳法だ。神田(かみた)は幼い頃から体が大きく、高校生の頃には185センチに達していた。大学に進学すると、教室よりも拳法部の道場にいる時間のほうが長く、大学の2年生になった頃には、その体を活かして繰り出す、頭部への横蹴(よこげ)りに敵(かな)う相手は西日本にはもういなかった。しかし、全国大会に出場する機会はやってこなかった。

 修道館大学は、日本拳法西日本大会で団体優勝を勝ち取り、神田(かみた)は個人優勝した。
 「よーし、次は、全国制覇だ」
 部員の気持ちも高揚し、その打ち上げを終えて、市内の繁華街を部員と歩いていた時、部員の一人の体が駐車していた車のミラーに当たった。相手が悪かった。

 その車に乗っていたのは、当時、広島市内を牛耳(ぎゅじ)っていた暴力団「大木会」の会長の息子であった。「若」と呼ばれていた仁一郎(じんいちろう)は、父親である会長から溺愛(できあい)され、当時は縄張りのひとつを与えられ、勝手し放題の、いわば、絶頂期であった。

 「おい」後部座席のドアを少し開け仁一郎は言った。
 「どういうつもりじゃ」
仁一郎(じんいちろう)は、部員を呼び止めた。
 「あっ、すみません」
 部員全員が、「まずい」と思った。
 「もうしわけありません」
 部長の山口大河(やまぐちたいが)が一歩前に出て、頭を下げた。
 しかし、それくらいで、引き下がる相手でないことは山口にも分かっていた。


 車から降りるなり、仁一郎は左頬に薄ら笑いを浮かべ、
 「指ィ、詰めーや」と言い放った。
 「郷戸(ごうど)、ドスを出せィ!!」目は山口に向けたまま、顔を後ろの用心棒たちに向けた。
 そして、仁一郎は両手をポケットに突っ込んだまま、ポケットの中の小銭を「チャラチャラ」と揺らした。

 仁一郎(じんいちろう)の後ろには、用心棒が3人立ち、そのうちの一人は、すでに、朱塗りの木刀を右手に垂らしていた。その男の額には赤いタオルが巻かれていた。郷戸(ごうど)と呼ばれたその男は、懐(ふところ)から白鞘(しらさや)のドスを出して仁一郎に渡した。通行人がいっせいに広がり、大きな輪を描いた。

 その輪の中で、山口は、再び、
 「もうしわけありませんでした」と頭を下げたまま言った。頭を下げ、仁一郎と用心棒の足元から自分との距離を測った。
 さらに、膝(ひざ)をつき、土下座をした。神田(かみた)を始め、部員全員が山口に倣(なら)って土下座をした。

 仁一郎は、山口の頭を右足で押さえつけた。押さえつけながら、
 「学生の分際でわしのシマを歩くのは十年早いんじゃい」と、さらに足に力をこめた。
 押さえつけられながら、「どうやってこの場を納めるか」を山口は考えていた。部員は12名、相手は仁一郎を含めても4名。殴り合いになれば山口ひとりでも一瞬にして3人は倒せる。ただ、赤い木刀を持った男には、部員全員でかかっても「手間取るかもしれない」と、感じた。

 神田(かみた)も、山口の半身(はんみ)後で土下座をしながら、木刀を持った男の動きだけに注意を払っていた。

 部長の山口は、
 「ここは逃げるしかないか」と、思った。
 押さえつけられたまま、後ろで土下座をしている部員に目配せをした。神田(かみた)も山口の考えが分かった。

 山口は、歩道についていた左手で仁一郎の右足を払い上げ、同時に、
 「逃げろ!!」と叫んだ。
 仁一郎は、右足を大きく空(くう)に上げ、両手をポケットに突っ込んだまま、仰向(あおむ)けにひっくり返り、背中から水溜(みずたま)りの中に倒れこみ、ポケットの小銭が車道にばらまかれた。


 山口と神田(かみた)は、土下座の姿勢から、倒れた仁一郎の横をすり抜け、姿勢を低くして野次馬たちの脇の下を通り抜けた。山口と神田の場合、土下座の姿勢から立ち上がり、体を反転させて、用心棒たちと逆方向へ走るよりも、彼らの脇を、仁一郎を楯(たて)にした形で走り抜けるほうが無難な方法であったのだ。

 他の部員たちは、用心棒たちとは距離があったので、いっせいに、逆方向へ走り、ばらばらに走り去った。

 用心棒の朱塗りの木刀は一瞬にして左手に移され、横へ払われたが、倒れた仁一郎が邪魔をして、山口の肩先をかすめただけであった。
 野次馬の脇を駆け抜けるときに、神田(かみた)と用心棒の眼が一瞬合った。

 他の二人の用心棒は仁一郎のところへ駆け寄り、「若、若ァ」と声をかけるのが最初の行動であった。
 仁一郎は、倒れたとき、頭を車のバンパーにしたたかに打ちつけ微動だにしなかった。
 用心棒は、
 「馬鹿たれーっ、見せもんじゃないどぉ!!」と、野次馬を手と足で払い散らし、仁一郎の体を抱え上げたが、仁一郎の顔から、すでに、血の気は失せようとしていた。

 用心棒は、左手に持った木刀を、横に払った形のままで、姿のない、山口と神田の逃げた先を無表情のまま追っていた。

 この夜の、学生と暴力団とのトラブルは、翌朝には誰も憶えていないほどの、ささいなことであったが、5日後には、この夜のことが引き金となり、全国的に三面記事のトップを飾るニュースとなった。

 暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ。

>>>続く

「一人、二人の警官じゃダメだぞ」と、神田は付け加えた

2011年01月19日 | 蒼き神々の行方
「島の人間ではない」と直感した。こんな状態の中を出歩くものなどいるはずがない。それに、「あの格好はなんだ」と、神田(かみた)は思った。男は素っ裸であった。


 「おーい!!」
 神田(かみた)は男の姿が消えたほうに向かって叫んだ。そして、顔を左下に向け、塩気を含んだ雨水を「ペッ!!」と吐き出した。

 男に聞こえたかどうかは分からない。しかし、このままにしておくわけにはいかない。神田(かみた)は、渡辺と共に後を追った。神社の裏を通り抜けた。このまま行くと宝物館に出る。雨と風がさらに強くなってきた。男の姿は見えない。

 「どこ、行ったんでしょう?」渡辺は叫んだ。そして、
 「家に、何か取りに帰ったんじゃないでしょうか?」と続けた。
 この通りの住民には避難勧告が出て、公民館に避難している。そのうちの誰かが、何かを取りに帰ったのではないかと言うのだ。

 「いや」
 「違う」と神田(かみた)は確信していた。あの体つきは日本人ではない。背はゆうに190センチは越えていた。頭の大きさ、肩幅、それに、手足の長さは日本人のものではない。
 「何をしているんだろう?」

 渡辺に、市役所に待機している警察に連絡をとるように指示をした。そのとき、宝物館(ほうもつかん)の方向で、チラッと明かりが動くのが見えた。渡辺は、携帯電話を取り出したが、雨に濡れて使い物にならない。

 「どうしますか?」
 渡辺は神田(かみた)に聞いた。
 宝物館には国宝、重要文化財が所蔵されている。広島県の国宝の大多数はこの宝物館にあるといっても過言ではない。
 「火事場泥棒ってやつでしょうか?」
 渡辺は、合羽のフードを掴みながら、神田(かみた)に体を押し付けるようにして言った。


 「だとしたら、これは警察にまかせるしかない」
神田(かみた)は、渡辺に、市役所に戻って警官を呼んでくるように言った。

 「神田さんは?」
 「俺はこのまま、ここで見張っている」
 「分かりました。気をつけてくださいよ」
 「ああ、そっちもな。それと、一人、二人の警官じゃダメだぞ」と、神田は付け加えた。

 あの体つきだ。抵抗されたら、「相当てこずるに違いない」と、神田は思った。
 渡辺は、来た時とは違って、風に背中を押されるようにして市役所の方向に向かって行った。黄色の合羽は、あっという間に見えなくなった。
 神田は宝物館(ほうもつかん)の横が見えるほうへ移動した。
  「あそこから入ったのか」

 宝物館の側面の上部の明り取り窓が壊されていた。壁には丸太が立掛けられ、それを足場にしたようだ。すでに、警報装置は働いているはずだが、この台風ではそれもあてにできない。
 神田(かみた)は念のため懐中電灯の明かりを消して、宝物館の向かいの民家の軒先(のきさき)に身を伏せた。

>>>続く

2005年(平成17年)9月 広島県 宮島 歴史に登場する以前から、神の島 として人々の信仰の対象であった

2011年01月18日 | 蒼き神々の行方
瀬戸内海に浮かぶ周囲約30kmの小島は、歴史に登場する以前から、神の島 として人々の信仰の対象であった。太古より深い森に覆われ、その頂(いただき)は須弥山(しゅみせん)に喩(たと)えられ、弥山(みせん)と呼ばれ、静かな内海に浮かぶその小島は、女神の寝姿として、今もなお、島全体が神として崇(あが)めらている。その、女神の横たわる裾(すそ)の尾根は博打尾(ばくちお)と呼ばれている。

2005年(平成17年)9月 広島県 宮島

 その尾根を、霧雨の中、登っている男がいた。神田龍一(かみたりゅういち)がこの尾根を登るのは30年ぶりだ。こんな気持ちになったのは、学生時代の暴力団襲撃事件以来だ。それにしても、あの男の狙いはなんだったのか。

 あれは、観測史上最大の大型台風の襲来に備えて、神社と回廊の見回りをしていた時だった。すでに、台風は九州に上陸し、九州各地に甚大(じんだい)な被害を与えながら山口県地方に向かっていることが報道されていた。

 「タイミングが悪いな」と、神田(かみた)は思った。このままだと、台風上陸と大潮の満潮時間が重なってしまう。山口県に上陸したら、風向きは宮島にとって最悪となる。さらに、気圧が下がって、潮位も上がり、過去の大型台風被害どころの騒ぎではなくなる。

 神社、市役所、観光推進協会、消防団、島民ら合わせて300人以上が台風襲来に備えていた。すでに、やるべきことはやった。回廊の床板ははずし、神社の屋根はロープで補強した。要所、要所は板で補強をした。もう、神に祈りつつ、台風が過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった。

 風も強くなり始めた午後9時過ぎ、神田(かみた)は合羽を着て回廊に向かった。これ以上風が強くなったら、外に出ることは出来ない。最後の見回りにするつもりであった。もう、外には誰もいないはずであった。先ほどまで、テレビの実況をしていた放送局のスタッフたちも、引き上げて、旅館、ホテルに待機している。

 合羽のフードをつかみ、顔を伏せて進んでいる時、一緒に見回りに出た渡辺が叫んだ。
 「神田(かみた)さん、アレ」渡辺が、顎(あご)で指した先を大柄の男が足早に進んでいた。よこなぐりの雨と、波しぶきで、すぐに見えなくなった。

 「島の人間ではない」と直感した。こんな状態の中を出歩くものなどいるはずがない。それに、「あの格好はなんだ」と、神田(かみた)は思った。男は素っ裸であった。

>>>続く