1972年(昭和47年)10月 広島
神田龍一(かみたりゅういち)は高校を卒業し、広島市内の修道館大学(しゅうどうかんだいがく)へ進学した。その頃は、学生運動も下火になりつつあったが、それでも、神田(かみた)の通う大学は学生運動の急進派の核となっていた。
神田(かみた)は彼らとは、一線を画し、いわゆる「ノンポリ学生」であったが、ただひとつ、高校時代から熱心に取り組んでいたのが、日本拳法だ。神田(かみた)は幼い頃から体が大きく、高校生の頃には185センチに達していた。大学に進学すると、教室よりも拳法部の道場にいる時間のほうが長く、大学の2年生になった頃には、その体を活かして繰り出す、頭部への横蹴(よこげ)りに敵(かな)う相手は西日本にはもういなかった。しかし、全国大会に出場する機会はやってこなかった。
修道館大学は、日本拳法西日本大会で団体優勝を勝ち取り、神田(かみた)は個人優勝した。
「よーし、次は、全国制覇だ」
部員の気持ちも高揚し、その打ち上げを終えて、市内の繁華街を部員と歩いていた時、部員の一人の体が駐車していた車のミラーに当たった。相手が悪かった。
その車に乗っていたのは、当時、広島市内を牛耳(ぎゅじ)っていた暴力団「大木会」の会長の息子であった。「若」と呼ばれていた仁一郎(じんいちろう)は、父親である会長から溺愛(できあい)され、当時は縄張りのひとつを与えられ、勝手し放題の、いわば、絶頂期であった。
「おい」後部座席のドアを少し開け仁一郎は言った。
「どういうつもりじゃ」
仁一郎(じんいちろう)は、部員を呼び止めた。
「あっ、すみません」
部員全員が、「まずい」と思った。
「もうしわけありません」
部長の山口大河(やまぐちたいが)が一歩前に出て、頭を下げた。
しかし、それくらいで、引き下がる相手でないことは山口にも分かっていた。
車から降りるなり、仁一郎は左頬に薄ら笑いを浮かべ、
「指ィ、詰めーや」と言い放った。
「郷戸(ごうど)、ドスを出せィ!!」目は山口に向けたまま、顔を後ろの用心棒たちに向けた。
そして、仁一郎は両手をポケットに突っ込んだまま、ポケットの中の小銭を「チャラチャラ」と揺らした。
仁一郎(じんいちろう)の後ろには、用心棒が3人立ち、そのうちの一人は、すでに、朱塗りの木刀を右手に垂らしていた。その男の額には赤いタオルが巻かれていた。郷戸(ごうど)と呼ばれたその男は、懐(ふところ)から白鞘(しらさや)のドスを出して仁一郎に渡した。通行人がいっせいに広がり、大きな輪を描いた。
その輪の中で、山口は、再び、
「もうしわけありませんでした」と頭を下げたまま言った。頭を下げ、仁一郎と用心棒の足元から自分との距離を測った。
さらに、膝(ひざ)をつき、土下座をした。神田(かみた)を始め、部員全員が山口に倣(なら)って土下座をした。
仁一郎は、山口の頭を右足で押さえつけた。押さえつけながら、
「学生の分際でわしのシマを歩くのは十年早いんじゃい」と、さらに足に力をこめた。
押さえつけられながら、「どうやってこの場を納めるか」を山口は考えていた。部員は12名、相手は仁一郎を含めても4名。殴り合いになれば山口ひとりでも一瞬にして3人は倒せる。ただ、赤い木刀を持った男には、部員全員でかかっても「手間取るかもしれない」と、感じた。
神田(かみた)も、山口の半身(はんみ)後で土下座をしながら、木刀を持った男の動きだけに注意を払っていた。
部長の山口は、
「ここは逃げるしかないか」と、思った。
押さえつけられたまま、後ろで土下座をしている部員に目配せをした。神田(かみた)も山口の考えが分かった。
山口は、歩道についていた左手で仁一郎の右足を払い上げ、同時に、
「逃げろ!!」と叫んだ。
仁一郎は、右足を大きく空(くう)に上げ、両手をポケットに突っ込んだまま、仰向(あおむ)けにひっくり返り、背中から水溜(みずたま)りの中に倒れこみ、ポケットの小銭が車道にばらまかれた。
山口と神田(かみた)は、土下座の姿勢から、倒れた仁一郎の横をすり抜け、姿勢を低くして野次馬たちの脇の下を通り抜けた。山口と神田の場合、土下座の姿勢から立ち上がり、体を反転させて、用心棒たちと逆方向へ走るよりも、彼らの脇を、仁一郎を楯(たて)にした形で走り抜けるほうが無難な方法であったのだ。
他の部員たちは、用心棒たちとは距離があったので、いっせいに、逆方向へ走り、ばらばらに走り去った。
用心棒の朱塗りの木刀は一瞬にして左手に移され、横へ払われたが、倒れた仁一郎が邪魔をして、山口の肩先をかすめただけであった。
野次馬の脇を駆け抜けるときに、神田(かみた)と用心棒の眼が一瞬合った。
他の二人の用心棒は仁一郎のところへ駆け寄り、「若、若ァ」と声をかけるのが最初の行動であった。
仁一郎は、倒れたとき、頭を車のバンパーにしたたかに打ちつけ微動だにしなかった。
用心棒は、
「馬鹿たれーっ、見せもんじゃないどぉ!!」と、野次馬を手と足で払い散らし、仁一郎の体を抱え上げたが、仁一郎の顔から、すでに、血の気は失せようとしていた。
用心棒は、左手に持った木刀を、横に払った形のままで、姿のない、山口と神田の逃げた先を無表情のまま追っていた。
この夜の、学生と暴力団とのトラブルは、翌朝には誰も憶えていないほどの、ささいなことであったが、5日後には、この夜のことが引き金となり、全国的に三面記事のトップを飾るニュースとなった。
暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ。
>>>続く
神田龍一(かみたりゅういち)は高校を卒業し、広島市内の修道館大学(しゅうどうかんだいがく)へ進学した。その頃は、学生運動も下火になりつつあったが、それでも、神田(かみた)の通う大学は学生運動の急進派の核となっていた。
神田(かみた)は彼らとは、一線を画し、いわゆる「ノンポリ学生」であったが、ただひとつ、高校時代から熱心に取り組んでいたのが、日本拳法だ。神田(かみた)は幼い頃から体が大きく、高校生の頃には185センチに達していた。大学に進学すると、教室よりも拳法部の道場にいる時間のほうが長く、大学の2年生になった頃には、その体を活かして繰り出す、頭部への横蹴(よこげ)りに敵(かな)う相手は西日本にはもういなかった。しかし、全国大会に出場する機会はやってこなかった。
修道館大学は、日本拳法西日本大会で団体優勝を勝ち取り、神田(かみた)は個人優勝した。
「よーし、次は、全国制覇だ」
部員の気持ちも高揚し、その打ち上げを終えて、市内の繁華街を部員と歩いていた時、部員の一人の体が駐車していた車のミラーに当たった。相手が悪かった。
その車に乗っていたのは、当時、広島市内を牛耳(ぎゅじ)っていた暴力団「大木会」の会長の息子であった。「若」と呼ばれていた仁一郎(じんいちろう)は、父親である会長から溺愛(できあい)され、当時は縄張りのひとつを与えられ、勝手し放題の、いわば、絶頂期であった。
「おい」後部座席のドアを少し開け仁一郎は言った。
「どういうつもりじゃ」
仁一郎(じんいちろう)は、部員を呼び止めた。
「あっ、すみません」
部員全員が、「まずい」と思った。
「もうしわけありません」
部長の山口大河(やまぐちたいが)が一歩前に出て、頭を下げた。
しかし、それくらいで、引き下がる相手でないことは山口にも分かっていた。
車から降りるなり、仁一郎は左頬に薄ら笑いを浮かべ、
「指ィ、詰めーや」と言い放った。
「郷戸(ごうど)、ドスを出せィ!!」目は山口に向けたまま、顔を後ろの用心棒たちに向けた。
そして、仁一郎は両手をポケットに突っ込んだまま、ポケットの中の小銭を「チャラチャラ」と揺らした。
仁一郎(じんいちろう)の後ろには、用心棒が3人立ち、そのうちの一人は、すでに、朱塗りの木刀を右手に垂らしていた。その男の額には赤いタオルが巻かれていた。郷戸(ごうど)と呼ばれたその男は、懐(ふところ)から白鞘(しらさや)のドスを出して仁一郎に渡した。通行人がいっせいに広がり、大きな輪を描いた。
その輪の中で、山口は、再び、
「もうしわけありませんでした」と頭を下げたまま言った。頭を下げ、仁一郎と用心棒の足元から自分との距離を測った。
さらに、膝(ひざ)をつき、土下座をした。神田(かみた)を始め、部員全員が山口に倣(なら)って土下座をした。
仁一郎は、山口の頭を右足で押さえつけた。押さえつけながら、
「学生の分際でわしのシマを歩くのは十年早いんじゃい」と、さらに足に力をこめた。
押さえつけられながら、「どうやってこの場を納めるか」を山口は考えていた。部員は12名、相手は仁一郎を含めても4名。殴り合いになれば山口ひとりでも一瞬にして3人は倒せる。ただ、赤い木刀を持った男には、部員全員でかかっても「手間取るかもしれない」と、感じた。
神田(かみた)も、山口の半身(はんみ)後で土下座をしながら、木刀を持った男の動きだけに注意を払っていた。
部長の山口は、
「ここは逃げるしかないか」と、思った。
押さえつけられたまま、後ろで土下座をしている部員に目配せをした。神田(かみた)も山口の考えが分かった。
山口は、歩道についていた左手で仁一郎の右足を払い上げ、同時に、
「逃げろ!!」と叫んだ。
仁一郎は、右足を大きく空(くう)に上げ、両手をポケットに突っ込んだまま、仰向(あおむ)けにひっくり返り、背中から水溜(みずたま)りの中に倒れこみ、ポケットの小銭が車道にばらまかれた。
山口と神田(かみた)は、土下座の姿勢から、倒れた仁一郎の横をすり抜け、姿勢を低くして野次馬たちの脇の下を通り抜けた。山口と神田の場合、土下座の姿勢から立ち上がり、体を反転させて、用心棒たちと逆方向へ走るよりも、彼らの脇を、仁一郎を楯(たて)にした形で走り抜けるほうが無難な方法であったのだ。
他の部員たちは、用心棒たちとは距離があったので、いっせいに、逆方向へ走り、ばらばらに走り去った。
用心棒の朱塗りの木刀は一瞬にして左手に移され、横へ払われたが、倒れた仁一郎が邪魔をして、山口の肩先をかすめただけであった。
野次馬の脇を駆け抜けるときに、神田(かみた)と用心棒の眼が一瞬合った。
他の二人の用心棒は仁一郎のところへ駆け寄り、「若、若ァ」と声をかけるのが最初の行動であった。
仁一郎は、倒れたとき、頭を車のバンパーにしたたかに打ちつけ微動だにしなかった。
用心棒は、
「馬鹿たれーっ、見せもんじゃないどぉ!!」と、野次馬を手と足で払い散らし、仁一郎の体を抱え上げたが、仁一郎の顔から、すでに、血の気は失せようとしていた。
用心棒は、左手に持った木刀を、横に払った形のままで、姿のない、山口と神田の逃げた先を無表情のまま追っていた。
この夜の、学生と暴力団とのトラブルは、翌朝には誰も憶えていないほどの、ささいなことであったが、5日後には、この夜のことが引き金となり、全国的に三面記事のトップを飾るニュースとなった。
暴力団が大挙して、大学に乗り込んできたのだ。
>>>続く