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輸入雑貨店「イトウ・ショウジ」の店長日記

ネパールやアジアの国々の衣料、雑貨を直接買い付けて輸入販売している雑貨店イトウ・ショウジの店長の営業日記

安宿街はファランポーン駅の近くの中華街にたくさんある

2011年02月13日 | 蒼き神々の行方
 左の手の平で銃把(じゅうは)の尻を支える様にして銃口を郷戸の顔に向け、右手の人差し指でゆっくりと引き金をしぼり始めた。

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「本気で撃つつもりだろうか?」郷戸(ごうど)は判断に迷ったが、両手を広げてゆっくりと上へ上げた。そして、左手のチャーハンの皿を持つ指を広げて、野良犬の頭の上に落とすと、ビックリした野良犬は「キャン」と短く鳴いて飛び上がった。辺(あた)りの緊張が途切れたその瞬間に、空いた左手で口にくわえたフォークを銃を持った刈り上げ男の右肩へ投げた。フォークは飛ぶ姿も見せずに狙ったところに突き刺さり、刈り上げ男の銃を持った手が、「グッ!!」と言う声と共に右へ揺れた。フォークが郷戸の左手を離れると同時に右手に握られた棒は振り上げられ、太った男の鼻先をかすめた。


 振り上げた棒を、左手に持ち替えてそのまま歯ナシ男の口の中に差し込み、グイッ、と、一押ししておいて、刈り上げ男のみぞおちを右足で蹴った。刈り上げ男が倒れる寸前に郷戸はその男の右手を掴(つか)んでひねり上げ、自動拳銃を奪った。 太った男は右手を振りかぶり、前に出ようとしたとき、鼻がスーッとした感覚に捉(とら)われた。男は左手で鼻を触るとあるはずの左の小鼻がないことに気が付き、左手で鼻を覆い、右手を振り上げたまま動かなくなった。

 「この技はなんだ!?」男達にとっては初めて見る技だった。
 郷戸は、歯ナシ男の口から棒を抜いた。その拍子に1本だけ残っていた下の歯がポトンと地面に抜け落ち、野良犬がパクッと食べた。引き抜いた棒を太った男の鼻先に突きつけ、そのままゆっくりと通りの向こうへ向けた。太った男は、郷戸の意味することを理解し、細かく頷(うなづ)き振り向いて、ゆっくりと歩き始めた。野良犬は、「カッ!!」と、歯を吐き出した。男達が背中を見せた時、郷戸は自動拳銃の弾装(だんそう)を引き抜いた。そして、スライドを後ろに引っ張り、薬室内の弾を落とし、
 「ヘイ!!」と男達の背中に声をかけた。男達は、ビクッ、と肩を動かし、ゆっくりと振り返った。
 
 郷戸は、刈り上げ男に向かって銃を放った。刈り上げ男は右肩を押さえていた手の腕と胸の間で銃を受け止め、太った男と顔を見合わせて、「どうしようか」と、迷った顔をしたが、そのまま去っていった。
 男達が去ると、たちまち、先ほど追って来た日本人達が近づいて来て、カメラを構えた。郷戸は、男達に、ダッ、と近づき、3台のカメラを棒で叩き落し、リーダー格の男の顔先に棒を向け、「ゴー」と言った。
 男は、
 「少しお話を・・・」と言ったが、郷戸は日本語が分からない振りをして、再び、
 「ゴー」と、強く言った。男達は、カメラを拾い上げながら、
 「なんだ、日本人じゃねぇのかよ。今日のとこは引き上げるか。ひでえな、このカメラ、使えるかな・・・」などと言いながら来た方向へ帰っていった。


 郷戸(ごうど)は倒れた男の腕を取り、椅子に座らせると、野次馬達は、もう、これ以上騒ぎが起きないことを知り、ゆっくりと散っていった。郷戸はズボンのポケットから100バーツ紙幣を出し、テーブルの上に置いて去ろうとしたが、男は、
 「ちょ、ちょっと待ってえな、兄ちゃん」そう言って郷戸の腕を掴(つか)み、
 「ほんまに、助かったわー、えらい目におおてしもたがな。おおきに、おおきに」そう言って、頭をテーブルの上にぶつけるように何度も何度もさげた。そして、顔を上げ、上目遣いで郷戸を見、
 「あんさん、日本人だっしゃろ?隠さんでもええがな。ワテにはわかりまっせ」
 郷戸は返事をしなかった。

 屋台の娘がタオルを持ってきて、男に差し出した。男は顔を上げて、
 「?」と言う顔をすると、娘は、タオルを自分の顔の口のところに持って行き、拭く真似をした。
 「あー、そうかいな、おおきに、おおきに」男はそう言って娘からタオルを受け取り、口の端の血を拭き、
 「ほんまに、やさしいなー、タイの女子(おなご)は」そう言いながら腕の泥をそのタオルではたき落とした。

 郷戸は、テーブルの下に置いていたナップザックを掴(つか)んで、棒に引っ掛け、その棒を肩に担いだ。
 「待ってーなー、兄ちゃん」そう言って、ポケットから100バーツ紙幣を1枚取り出し、娘の手に握らせようとしたが、娘は受け取ろうとしない。
 「なんでや、ええから、取っときーな」そう言って無理やり娘の手に握らせた。


 「兄ちゃん、どこ行きまんのや?泊るとこありまんのか?」男は、早足で歩く郷戸の後ろから声をかけた。
 「もうちょっと、ゆっくり歩きいな、ハア、ハア」
 「ついて来るなよ。ごたごたに巻き込まれるのはごめんだ」前を見たまま答えた。
 「あー、やっと喋(しゃべ)ってくれたなー」男は、タタタッ、と、郷戸のすぐ後ろにくっついた。

 「あんた、何をしたんだ?さっきから、さっきの男達とは違う男がついて来てるぜ」早足で歩きながら、男に言った。
 「えっ、ホンマかいなー!?」男は振り返った。
 「あっ、ホンマや。ひつこいなー。タイ警察やがな」
 「タイ警察?あんた何をしたんだ?」
 「兄ちゃん、あんさん、もうワテに関わってしもうたんや」そう言って郷戸の横に並んで顔を見上げてニコッと笑った。
 「ワテ、玉木言いまんのや、よろしゅうな」


 「宿はどこでんのや?」
 「玉木さんと言いましたかね。もう、俺には構(かま)わんでくれ」郷戸は、香港からの飛行機の中で若い日本人のバックパッカーから、安宿街はファランポーン駅の近くの中華街にたくさんあると聞いていた。空港からは汽車に乗って先程駅に着いたばかりだった。腹が減ったので、まず腹ごしらえをと思い席についたところでこの騒ぎに巻き込まれてしまったのだ。

  「兄ちゃん、あんさんも訳(わけ)ありやなぁ」玉木は郷戸(ごうど)の言葉には構わず、ゆっくりと言った。郷戸は、ファランポーン駅の方へ向かって曲がろうとした。
 「あかん、あかん、そっち行ったら、中華街や。日本人だらけや。日本人の追っ手が来ても目立たへんから、追っ手の姿に、気ぃつきまへんで」
 「隠れんのなら、ワテのとこ来なはれ。ワテは、こっちに部屋持ってまんのや」
 「男の言うことにも一理あるな」そう思い男の手に引かれるまま大通りに出た。玉木と名乗った男は、
 「今晩はほんまに助かったわー」と言いながら、人差し指を立てた右手を斜め下に突き出しトゥクトゥクと呼ばれるオート三輪を停めた。そして、
 「マレーシア、マレーシア」と言って座席に郷戸(ごうと)を押し上げ、続いて乗り込んだ。トゥクトゥクは青白い煙と叫び声を吐き出し、熱風を切り裂いて走り始めた。

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1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク

2011年02月12日 | 蒼き神々の行方
 「消印はタイでござんした」

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熱風!!バンコク
 1972年(昭和47年)11月 タイ 首都バンコク

 「も〜っ、エエ加減にせんかいなー。ワテも終(し)まいにゃ、怒るでー、あんたらぁッ」
 そう日本語で言いながら、中年の額(ひたい)が禿(は)げ上がった男が、人混みを掻き分けて小走りでやって来た。周りのタイ人や、白人のアベックのヒッピーや観光客達は、何事が起こったのかと振り返ったり、追い越された男の後姿を目で追った。その中年男の後ろから5、6人の日本人が追いかけて来た。

 「エエ加減にせぇ言うとるやろ」と、少し大きな声で振り返って言った拍子に、男の体が屋台のテーブルに「ドンッ」と当り、テーブルが大きく揺れて、客が食べていたトムヤングンが鍋ごと道へ音をたてて転がり落ち、客の男達の怒声と共に白い湯気が上がった。落ちたエビはさっそく野良犬の夕食になった。

 郷戸一星(ごうどいっせい)は、安定の悪いテー ブルで、ちょっと酸っぱいタイチャーハンを食べながら生ぬるいシンハービールを飲んでいたが、テーブルが揺れる直前にフォークは口にくわえ、チャーハンの皿とビール瓶を持ち、立ち上がっていた。

 先程からこのテーブルでは、郷戸と一緒に三人の男達が、トムヤングンを食べていた。でっぷりと太った男は、シャツの前をはだけ、買ったばかりの黒ズボンの裾(すそ)を捲(めく)り上げて、汁を飛ばさないように気をつけながら食べていた。髪の毛をきれいに刈り上げた男は黒いシャツの裾(すそ)をよれよれのグレーのズボンの上に出し、へらへらと太った男に愛想笑いをし、遠慮しながら鍋から具を自分の皿に少しずつ移していた。もう一人の男は前歯のない口を開け、1本だけ残っている下の歯をいじりながら、時々、郷戸の方を見ては、何やら二人に言ってはニタニタと笑っていた。三人ともシャツの袖(そで)からは刺青がのぞいていた。

 テーブルが大きく揺れて、 男達の食べていたトムヤングンが鍋ごとひっくり返り、太った男のズボンにかかった。太った男は、怒鳴りながら、新しいズボンにくっついた野菜の切れ端を払い落とし、テーブルの上に残った皿を右手で掴(つか)んで、ぶつかった日本人の顔めがけて投げつけた。皿は男の左頬に当たりはじき飛んだ。
 「あー、堪忍(かんにん)してーッ」男は両の手のひらを広げ太った男の方に向け細(こま)かく動かした。

 髪の毛を刈り上げた男が左手で男の襟首(えりくび)を掴み、右手で思いっきりその男の左頬を殴った。男は、たった今飛び散ったトムヤングンのスープと具の上に、ザッ!!と半回転して前のめりに倒れこんだ。その瞬間、野良犬は、さっと横へ1mほど逃げたが、犬はそこで振り向き尻尾を後ろ足の間に巻き込んだまま、再び、目の前にあるエビの魅力に負けて戻ってきた。

 前歯のない男がゴムぞうりを履いた足で倒れこんだ男の背中を2、3度踏みつけた。
 男の小奇麗な白いシャツにはゴムぞうりの黒い跡が残った。

 追いかけてきた男達は、突然、倒れた男の写真を撮りはじめた。フラッシュが「パッ、パッ」と光ると、辺りの野次馬は余計に増えてきた。太った男は、自分の濡れたズボンが足にくっつくのを防ぐように両手で両腿(りょうもも)の部分をつまみながら倒れた男のところに近づくと、倒れた男の腹を思いっきり蹴り上げた。追いかけてきた男達は、なおも写真を撮り続けている。

 「ググッ・・勘弁してーな・・」倒れた男は、なおも日本語で力なく言った。
 「ゲフッ、あんたら、・・・もう、エエ加減にしてーな・・・」そう言って立ち上がろうとしたが、前歯のない男が中年男の足を払った。また、男は地面にひっくり返った。太った男は地面に転がったステンレスの鍋を拾い上げ、倒れた男の側頭部めがけて振り下ろした。
 太った男は振り下ろした手が、スカッ、という感じで、手が急に軽くなり、体のバランスを崩しそうになった。そして、鍋が「カーン!!」という音と共に5m向こうに飛んでいった事にようやく気がつき、空(から)になった右手を見た。

 郷戸(ごうど)は、フォークを口にくわえ、左手に皿を持ち、右手はビール瓶から木の棒に持ち替えて立っていた。男達には、どうして鍋が吹っ飛んだのか分からなかった。

 太った男が何やら低い声で郷戸(ごうど)に言った。郷戸には何を言っているのか理解できなかった。男はもう一度何かを言った。それでも郷戸は、口にフォークをくわえ、左手にはチャーハンが半分ほど載った皿を持ち、右手には1、5m程の丸棒を持って立っていた。男達は1mほどの間隔を置いて郷戸を要(かなめ)にした扇形に三人並んで立った。太った男が刈り上げ頭の男へ顎をしゃくって何やら言うと、刈り上げ男はニヤニヤ笑って、左手で服の裾(すそ)をまくり、右手でズボンのベルトに挿していた黒光りのする自動拳銃を引っ張り出した。

 取り囲んでいる写真を撮っていた日本人達や、白人ヒッピーや観光客、野次馬のタイ人達に一瞬緊張が走り、それまで囲んでいた輪が一斉に広がった。

 倒れている男は、両手を支えにして、尻をついたまま拳銃を見つめていた。その隣では野良犬が、「ぺチャ、ぺチャ」と音をたてて、こぼれた汁をなめている。真ん中に太った男、その左に歯ナシ男。右に拳銃を持った刈り上げ男。
 刈り上げ男は何やら言いながら銃口を郷戸(ごうど)の方に向けた。太った男は、目は郷戸に向けたまま、緊張した顔で、刈り上げ男に何やら言うと、刈り上げ男は薄っすらと額に汗を浮かべながら、左の手の平で銃把(じゅうは)の尻を支える様にして銃口を郷戸の顔に向け、右手の人差し指でゆっくりと引き金をしぼり始めた。

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消印はタイでござんした

2011年02月11日 | 蒼き神々の行方
山田が、時々包丁を拭う左手の小指と薬指の2本は第二間接から先がないことに先ほどから気がついていた。

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 「その会長は、お人の出来たお方でござんしてね。あっしらのような下っ端にも情の厚い、いいお方でござんした。ところが、その会長の後継者って野郎、会長の息子でござんすがね、皆から、若、若、って呼ばれて、調子付いて、こいつが、全くの世間知らずって言うんですかい」話しながらも包丁の動きには淀みがない。

 「若けえもんを虫けらのように扱う野郎でござんしてね。それに、もう、なんかありゃあ、チャカを持ち出し、終めぇにゃあ、素人衆からもみかじめ料を取ってこいだとか抜かしやがって。会の者もついていかなくなりやしてね、あっしもついに、堪忍袋の緒が切れて、ってわけでござんすよ」
 「へい、野菜の焼きづけでござんす」そう小さな声で言って料理をカウンターの上に出した。

 「ちょうど、その時分は、県警の取り締まりも厳しくなって来やして、ここいらが潮時かと・・・時代でござんしたねぇ」そう言いながら顔を上げ包丁をふきんで拭(ぬぐ)った。
 「会を抜けるときにゃ、こちらの旦那にゃ、そりゃあもう、口では言えねえくれえのお世話になりやした」頭を下げた。
 「もうあの頃のこたあ、思い出すのもイヤでござんすよ」山田は軽く頭を振った。
 「いや、悪いことを思い出させてしまいましたね」小さな声で神田は言った。
 「いやいや、良ござんすよ。たまにゃあ、昔のことも振りかえらねえと、これからの行く道も見えなくなるってもんでござんすよ」


 「今となっちゃあ、何にも悔やむものはござんせんがね。ひとつだけ、気になっていることが有りやすんで」山田は、遠くを見つめるような目をした。
 「あっしも、いっぱしに子分を抱える身分になりやしてね。ある若けえ者んを会に引き釣り込んだんでござんすよ」山田は次の料理にかかった。

 「その野郎は純な野郎でござんしてね。腕っ節も立つし、さっぱりしてるし。あっしが会を抜けるときにも、その野郎にも、一緒に抜けるように言ったんでござんすが、そいつも義理堅い野郎でござんして、会長への義理を果たすまでは会に留まると言い張りやしてね。どうやら、おっ母さんの薬代を会長から借りていたようなんで」再び、小気味良く包丁の音が響いた。
 「あー、郷戸(ごうど)のことかい?」高見刑事は思い出したように言った。

 「郷戸!!」神田は思わず声を出した。
 高見刑事は、杯を持ったまま、
 「あー、びっくりした」と背筋を伸ばした。
 「郷戸のことは鉄さんからも何度か相談されたからね。憶えてるよ」
 「神田(かみた)の旦那も郷戸のことをご存知なんで?」そう言って、神田の拳に目をやり、一瞬にして全てを理解したようだ。
 「あっ、そうでござんしたかい。あっしが会を抜けてすぐ、大木会と学生さんの大立ち回りがありやしたが、ひょっとしてその時の拳法部の・・・」
 「はい。そうです」

 「おや、これは初耳ですね」高見刑事はこぼれた酒で濡れた手をオシボリで拭きながら神田を見た。
 「で、その郷戸(ごうど)って人はその後?」
 「あの後、若の息子がチャカでケリをつけようとしたのを邪魔したとかで、会から、と言っても、半身不随になった若の野郎ひとりの指図ですがね、命を狙われるようになりやして姿をくらましやした」
 「鉄さんは、その郷戸の消息を?」高見刑事は尋ねた。
 「それから、しばらくして、ありゃあ、いつ頃だったでござんしょうか・・・おい、おとみ、郷戸から葉書が来たのは何年ぐれえ前だったか、お前え、覚えちゃいねえか?」山田は奥に向かって声をかけた。

 「あれは、鉄太郎が小学校1、2年頃だから、昭和47年(1972年)頃の暮れだったと思います。簡単な文面で、義理を欠いて申し訳ない、とか、このご恩は一生忘れませんとか、そんな風なことが書いてありましたね。全くあの人らしくて・・・」奥の座敷の客にお酒を運びながら、思い出し、出し、言った。
 「で、その葉書はどこから?」神田は山田の方に向き直って聞いた。
 「消印はタイでござんした」

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その拳(こぶし)や肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ

2011年02月10日 | 蒼き神々の行方
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」山田は右手を頭にやって再び頭を下げた。

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 「で、こちらさんもやっぱり」と高見刑事を見たまま聞いた。
 「いやいや、こちらはちょっとした知り合いで」高見刑事は大げさに手を顔の前で振りながら答えた。
 「神田(かみた)といいます」神田はオシボリで手を拭きながら頭を下げた。
 「へい、こりゃご丁寧に、山田鉄男と申しやす」男は恐縮したように深々と頭を下げた。

 「あっしゃ、また、こちらさんも高見さんとご同業かと」高見刑事のほうへ向き直って言った。
 「そんな風に見えますか?」神田は笑いながら言った。
 「へい、その拳(こぶし)や肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ」山田と名乗った板前は神田の体をしげしげと見て低い声で言った。
 「おい、おい、相変わらず、深読みするねえ」高見刑事も笑いながら言った。
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」山田は右手を頭にやって再び頭を下げた。


 「とりあえず、熱燗(あつかん)を。神田さんいいですか?」高見は神田に聞いた。
 「はい。いいですね」そういいながら、改めて店内を見渡した。壁は漆喰(しっくい)で仕上げてあり、腰板はこれも、濃い目の弁柄仕上げだ。店の真ん中には太い柱が建っており、天井には、煤(すす)けた梁(はり)が1本渡してある。古民家の材料を使った建て方のようだ。
 「へい。承知いたしやした。おい、おとみ、高見の旦那に熱燗を」山田は奥に声をかけた。
 「あいよっ」奥から元気のいい声が返ってきた。
 「で、今日は何をお出しいたしやしょう?」山田は包丁を拭きながら尋ねた。
 「そうだな」そう言って壁に貼られた品書きを眺めて、
 「神田さんは?」と神田に声をかけた。
 「えーと」と言いながら品書きを見てもそこには判読不明の漢字が並んでいた。 
 「高見さんのおすすめに従います」
 「じゃあ、鉄さん、コースで頼むよ」
 「へい、承知いたしやした」そう言うとすばやく料理にかかった。

 「どういうお知り合いなんですか?」神田は顔を伏せて小さな声で尋ねた。
 「あー、まだ、私が若い頃ね、彼も若くてね。いろいろあって」と、意味の分からない返事をした。
 「そうですか」と、神田もそれ以上は聞かなかった。


 「お待たせをいたしました」女将さんが徳利と杯を運んできた。やや大ぶりの徳利(とっくり)に、これも大き目の杯(さかずき)だ。白和(しろあ)えが突き出しだ。
 「ごゆっくりどうぞ」女将さんはそう言って奥に引っ込んだ。

 「ま、一杯」高見刑事は神田に徳利を向けた。
 「ありがとうございます」杯を両手で持って受けた。
 「どうぞ」神田は高見刑事から徳利を受け取り、高見刑事に酌をした。
 「ここのお酒は出雲の酒ですよ。まろみがあっておいしいですよ」高見刑事も杯を両手で持って酌を受けた。
 「じゃあ、お疲れ様でした」杯を上に上げ、それから、ふたりともグビッと杯半分くらいを飲んだ。
 「うーん、うまい」と、神田(かみた)は言い、杯を下ろした。
 「でしょう、さばけもよくてね」高見刑事は自慢げに神田の顔を覗き込むようにして言った。

 神田は突き出しに箸をつけた。さいころに切られた柿に、塩で味付けされた白和えが程よく合い上品な味だ。
 「へい、お待ち」山田がカウンターの上に料理を出した。
 「茄子のなめこおろしがけでござんす」
 「へー、おいしそうですね。大将は、この道長いんですか?」
 「へへ、面目ねぇ。包丁持ったのは、随分と昔のことでござんすがね・・・へへへ。もっとも、その時分にゃ、野菜は切っちゃいませんでね」


 「鉄さんは、昔は匕首(あいくち)の鉄と呼ばれて、その筋じゃちょっとした有名人だったんですよ」料理に箸をつけながら高見刑事は言った。
  「へへ、面目ねぇ。若気の至りってやつでござんすよ」山田は顔を上げずに次の料理にかかっている。

 「何だか訳ありですね」そう言って高見刑事に酌をした。
 「いやー、たいした訳なんぞありゃしやせん。その道から、お救い下すったのが、こちらの旦那でござんすよ」
 「へー」そういう繋がりだったのか、と、ふたりを見た。
 「いいのかい、そんなにペラペラしゃべっても」神田に酒を勧めるように徳利を持った。
 「へへ、良ござんすよ。もう、40年以上前のことになりやすかね。あっしも血気盛んな頃でしてね。その頃、広島ではちょいと知られた一家の会長にかわいがられていやしてね。それを好いことにあの頃は無茶したもんでござんすよ」そう言いながら、見事な包丁捌きの音を出した。神田は、山田が、時々包丁を拭う左手の小指と薬指の2本は第二間接から先がないことに先ほどから気がついていた。

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その拳(こぶし)や肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ

2011年02月09日 | 蒼き神々の行方
 神田は、あの大男は、富士山の剣が峰から飛び立ったのと同じように弥山(みせん)山頂からもパラグライダーで飛び立ったことは間違いないだろうと思った。

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 「山頂のレストハウスの主(あるじ)が見た時は男は大きなザックを背負っていた。それが、俺が会ったときには何も持っていなかった。台風の日の前日、弥山山頂の岩場のどこかにザックを隠して、鉄の棒を奪った日か、その翌日には山頂から脱出したのだろう。しかし、その後はどうやって富士山まで行ったのか?誰かの協力なくしてはとても出来そうにないが・・・」そんなことを考えていた時、高見刑事は立ち上がった。内ポケットから携帯電話を取り出し、窓際に移動して話し始めた。

 「はい、高見です。・・・ああ、これはどうも、昨日はお世話になりました。・・・はい、・・・あ、そうですか。それは助かります。・・・では、近日中に、またそちらへ伺い、・・・え?・・・こちらへですか?・・・それはまた、・・・で、お名前は?・・・」
 どうやら富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の宮司からのようであった。
 「じゃあ、私は、これで。写真はお預けしておきますから」そう言って館長は立ち上がり、ドアの方へ向かった。
 「ありがとうございました。いろいろ助かりました」神田は椅子から立ち上がり、頭を下げた。高見刑事も電話で話しながら、館長に頭を下げた。

 「宮司さんからですか?」
 「ええ、あの、八頭神社(はっとうじんじゃ)の宮司さんと連絡が取れたようです」高見刑事は携帯電話を閉じてポケットに納めた。
 「ああ、それは良かった。で、どちらに?」
 「お住まいは、あの神社の近くのマンションらしいです。宮司さんはそこから神社の社務所に通っておられるとか」
 「じゃあ、近々またあちらに・・・」
 「いや、それが、こちらに来ていただけるようです。旅行のついでだからということらしいです」
 「それは、好都合ですね。いつ?」
 「明後日の午後2時頃、この事務所を訪ねられるとかで、もう、あちらは発たれたようです。私も時間に合わせてこちらに伺います」


 「ところで、神田(かみた)さん、ダイエット中の神田さんにピッタリの料理屋さんがあるんですが、今晩どうですか?」そう言いながら、コーヒーカップを持った手を軽く上へ上げた。
 「いいですね。どこにあるんですか?」
 「廿日市(はつかいち)の駅前通りです。広電の電車で行けばすぐですから。私は時間まで島内を観光しています。ちょっと、調べたいこともありますし。コーヒーご馳走様でした」高見刑事はそう言って立ち上がった。
 「じゃあ、5時過ぎに、フェリー乗り場ということで」神田も立ち上がり、右手を上げた。

 その日の夜7時前、神田と高見は広電廿日市(ひろでんはつかいち)で下車し、商店街をJR廿日市駅方向へ歩いていた。
 「学生時代とくらべると、この通りも何だか寂しくなりましたね」神田は、時間もさほど遅くはないのに、すでに人通りの少なくなった商店街をきょろきょろと見ながら歩いた。店の様子も随分変わっている。

 「学生時代って言うと、大学?」高見刑事は神田の方を振り向いて聞いた
 「いえ、高校時代です」神田は商店の看板を見ながら返事をした。
 「じゃあ、神田さんは生まれも育ちも広島ですか?」高見刑事は歩道脇にある石の階段をいくぶん足を引きずって下りていった。
 「そうです。高校も地元ですし、大学も広島ですから。大学を卒業して今の宮島観光推進協会に勤めましたからね」神田も高見刑事の後に続いた。
 薄暗い小路の奥に小さな、飲み屋風の入り口が見える。濃い弁柄(べんがら)色に塗られた引き戸は腰から上には障子紙が貼ってあり、縄のれんを通して電球色の灯りがもれている。軒下の赤提灯には、くずした平仮名で「おとみ」と書いてあった。


 「ここにはよく?」
 「いや、年に一回くらいですかね」そう言って、ゴロゴロっと引き戸を開け、高見刑事は入って行った。
 神田(かみた)も後ろに続き、後ろ手で戸を閉めた。重そうに見えた戸もそれほどでもなく、ゴロゴロ、トンッ、と閉まった。

 店内はやや薄暗く、突き当たりのカウンターは6席くらいで、若い男性客が端で日本酒を飲んでいる。三和土(たたき)の土間には一畳ほどの大きさの木のテーブルが2枚置かれ、木の丸椅子が、それぞれ5、6脚その周りに置いてある。左奥には畳の小部屋もある。その小部屋にも一畳くらいの大きさのテーブルが置いてあり、サラリーマン風の中年の男性客が三人、何やら小声で話しながら食事をしていた。カウンターの中の壁には、こういう場にはそぐわない神棚が祀ってある。

 「神田(かみた)さん、こっちへ」高見刑事は神田を手招きしてカウンター席へ呼んだ。
 店主が手ぬぐいの鉢巻を取り、
 「こりゃ、どうも」と、挨拶にやって来て、深々と頭を下げた。
 「やあ、久しぶりだね。その後どうだい?」高見刑事は右手を軽く上げて椅子に腰掛けた。
 「まあ、ぼちぼちでござんすよ」店主は鉢巻をはげた頭に閉めなおした。やや長めの白髪が後頭部で垂れた独特の髪形をしている。見ようによっては注連縄(しめなわ)にぶら下がる紙垂(しで)のようにも見える。60を少し出たくらいであろうか。

 「しかし、お久しぶりでござんすね。一年振りくらいでござんしょうか?旦那もお変わりなく?」男はいくぶん前かがみになり尋ねた。
 「ござんす?・・・」神田はチラッと高見の顔を見たが、高見は、
 「ああ、ありがとう。何とかね」と、神田の視線は無視した。
 「そいつは良ござんした」
 「おい、おとみ、高見の旦那がお見えになったぞ」暖簾(のれん)の奥へ声をかけた。

 「まあ、まあ、これは高見さん」暖簾をくぐって品のよさそうな女が前掛けで手を拭き拭き出てきた。
 「奥さんもお変わりなく」
 「お蔭様で、貧乏暇なしです」手ぬぐいで神田と高見刑事の前のカウンターを拭きながら答えた。
 「それが一番だよ」
 「ところで、今日は何か?」男は、女将から受け取ったオシボリをカウンターに置きながら不安そうに聞いた。
 「いや、いや、ちょっと鉄さんの顔が見たくなってね」
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」そう言うと、安心したかのように右手を頭にやり、軽く頭を下げた。
 「で、こちらさんもやっぱり」と高見刑事を見たまま聞いた。
 「いやいや、こちらはちょっとした知り合いで」高見刑事は大げさに手を顔の前で振りながら答えた。
 「神田(かみた)といいます」神田はオシボリで手を拭きながら頭を下げた。
 「へい、こりゃご丁寧に、山田鉄男と申しやす」男は恐縮したように深々と頭を下げた。

 「あっしゃ、また、こちらさんも高見さんとご同業かと」高見刑事のほうへ向き直って言った。
 「そんな風に見えますか?」神田は笑いながら言った。
 「へい、その拳(こぶし)や肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ」山田と名乗った板前は神田の体をしげしげと見て低い声で言った。
 「おい、おい、相変わらず、深読みするねえ」高見刑事も笑いながら言った。
 「へへ、こりゃ、面目ねえ」山田は右手を頭にやって再び頭を下げた。

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平氏の宮島、源氏の富士山

2011年02月07日 | 蒼き神々の行方
 「今回は引き上げですね」高見刑事は右手で左肩を揉みながらそう言い、車の方へ向かって歩いて行った。神田も何度か振り返って神社を見ながら後に続いた。

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2005年(平成17年)9月 宮島

 富士山から帰った翌日の午後高見刑事は宮島観光推進協会の事務所に現れた。
 「どうですか、神田(かみた)さん。よくお休みになれましたか?」高見刑事はいくぶん眠そうな顔で椅子に腰掛けた。
 「もう、グッスリです。それに、もう、出勤前には山を走ってきました」神田はいくぶん右足を引きずりながらコーヒーサーバーのところへ行った。

 「ほう、それは大したもんです。まだ、若いですね」高見刑事も足をさすりながら神田を眺めている。
 「当たり前ですよ」いく分自嘲気味に言って顔を引き締め「ところで、何か進展でも」カップにコーヒーを注ぎながら尋ねた。
 「たいしたことじゃありませんが。例の中国大使館の三人組、今朝、成田から帰国したそうです」白髪頭に手をやった。
 「えっ、そんな簡単に出国できるんですか?」コーヒーをテーブルの上において、高見刑事のほうに押し出した。

 「ま、そんなもんですよ」高見刑事は投げやりにそう言うと「今日は、ちょっと、神田さんと推理ごっこをしようと思いましてね」と、話を変えた。
 「そうですね。ここまでの話をまとめておきましょう」神田もそれを考えていたところだった。
 「えーと、まず、ここまでの事実から行きましょうか」高見刑事は手帳とボールペンをポケットから取り出し、話し始めた。


 「宮島の鉄の棒は枕崎台風の時の土砂崩れで山頂から流されてきたという可能性もありますよね。ということは、鉄の棒は宮島の山頂、そして、もうひとつは富士山頂にあった、ということになりますね」高見刑事はさらに、
 「そして、今は、その二つとも何者か分からない大男の手元にある」と、大きく息を吐いた。

 「それを何故だか中国も狙っている」神田は付け加えた。
 「宮島と富士山。この共通項は?」高見刑事はそう言って神田の顔を見た。
 「両方とも信仰の山ですよね」神田は腕組みをして答えた。
 「宮島にはもともと社殿はなく、島そのものが信仰の対象となって、対岸から拝まれていましたし、富士山も山そのものが信仰の対象だったらしいですからね。今の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)に遷座される前の神社は山宮浅間神社として現存していますし」神田はこれまでに調べたことも高見刑事に話した。

 「来年がその遷座されて1200年に当たる年だと言われていましたね」高見刑事は、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の社務所に貼ってあったポスターを思い出した。
 「そうですね。そして、単純に言って、宮島は海の神、富士山は山の神」
 「御祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)をはじめとする宗像三神(むなかたさんしん)の女性の神様、そして富士山も木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女神。でしょ?」高見刑事は確認するように神田に聞いた。

 「それに、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は富士山の噴火を鎮(しず)めるために祀(まつ)られた水の神でもありますよ」神田は付け加えた。
 「へー」高見刑事は、感心したように何度かうなづいた。
 「昔、富士山が大噴火をしたため、周辺住民の生活が疲弊したのを第11代垂仁天皇が心配して、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったところ、噴火が静まり、住民は平穏な日々が送れるようになったということです」
 「その浅間大神(あさまのおおかみ)とは?」
 「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と同一とみられているようですね」
 「両方とも水の神様か」高見刑事は両手を頭の後ろで組んだ。
 その時、宝物館の館長が入ってきた。


 「ああ、刑事さんもご一緒でしたか。ちょうどよかった」そういって宝物館の館長は空いている事務椅子を引き寄せ、それに腰掛けた。
 「ありましたよ」そう言って封筒からファイルを取り出した。
 「何ですか?」神田は、カップにコーヒーを注ぎながら聞いた。

 「例の鉄の棒のエックス線写真です」ファイルに挟まれたやや古びた写真を取り出した。
 「どこにそんなものが?」高見刑事は館長の手元を覗き込んだ。
 「発見者の自宅にですよ。あれはまだ、正式には調査されていなかったのですが、当時の発見者が、戦後何年かして、あの棒が何なのか知りたくて、知り合いの医者に検査を頼んだらしいんですよ。そのときの写真です」そう言って、テーブルの上のコーヒーカップを端に寄せ、
 「鉄の棒には間違いないようですが、中に、ほら、ここに、矢のような影が見えるでしょ?」
 「矢?弓矢の矢?ですか?」
 「そんな風に見えますね。その矢のようなものを鉄で封じ込めて、さらに表面を鉄の板で巻いてある、こういうことのようですね。ただの鉄の棒じゃなかったんです」
 「年代とか、表面の文字だか模様だかの意味は?」
 「分かりません。あるのは、この写真だけですから」
 「矢を鉄で固めて棒状にした?何のために?」


 神田(かみた)、高見刑事、宝物館(ほうもつかん)館長、三人とも腕組みをして押し黙った。
 神田は、テーブルの上の写真をもう一度手に取り、
 「矢というのはこんなになっているんですか?」館長に尋ねた。
 「はい、正確に言うとこれは矢尻ですね。これが矢の柄の部分に入っていて、たとえば身体に突き刺さった矢を引き抜いても、先のこの部分、矢尻は固定されていないので身体に残る仕組みになっているんですよ」自分の身体に、高見刑事の手から取ったボールペンを当て、身振りを交えて説明を始めた。

 「この矢尻の形は、おそらく戦闘用の柳葉(やないば)と言われるものでしょう」
 「いつごろのものでしょうか?」高見刑事は神田から写真とボールペンを受け取り、写真を見ながら聞いた。
 「鉄を分析すれば分かるんでしょうが、これだけだとなんとも。平安以降だとは思いますが」館長はコーヒーカップを手にして答えた。

 「平安。源平か」神田は体を起こして高見刑事の方を向いた。
 「さっきの続きですが、平氏の宮島、源氏の富士山とも言えますね。頼朝は、鎌倉から富士山を見つめていたでしょうから。富士の裾野で狩を楽しんでいたし、当時は今と違って気温は何度か低かったでしょうから富士山も雪に覆われている期間も長く、雪の量も多かったでしょうからね。頼朝の頭の中には白く輝く富士山が印象深く残っていたと思いますよ。紅葉を白く覆ってゆく雪に自らの思いを重ねたという可能性はあるんじゃないでしょうか?」
 「朱(あけ)の大鳥居と雪を被った富士山。平氏の赤に対抗して源氏は白を御旗の色にしたのかな?」高見刑事は腕を組みなおした。

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御祭神は浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)

2011年02月05日 | 蒼き神々の行方
 「はい。その神社様は、こう言っては何でございますけれども、非常に小さな神社様でして、そこに大勢の進駐軍が押しかけたものですからご近所の方も驚かれたと聞いています」

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 「ほー」高見刑事は興味深げにその話を聞いていた。
 「それで、その神社さんはどちらでしょうか?これから伺(うかが)えればと思いますが」神田は体を前に傾けながら尋ねた。
 「はい。それは富士吉田の八頭神社(はっとうじんじゃ)様でございます」宮司は両手を膝にそろえて言った。
 「その八頭神社さんのご住所は?」高見刑事は手帳とボールペン持ったまま、体を前に倒し尋ねた。
 「しばらくお待ちくださいませ」そう言うと部屋を出て行った。
 「神職というものはいろいろとしきたりがあって難しいですね」高見刑事は顔を伏せたまま小声で言った。

 しばらくして、宮司がメモを手に戻ってきた。
 「こちらがご住所でございます。少し分かりにくいと思いますので、このお近くでどなたかにお尋ねくださいませ」宮司は、メモ用紙を高見刑事に渡しながら言った。
 「ありがとうございます。さっそく、お伺してみます。それと、これから、何かございましたら、ここに連絡をお願いします」高見刑事はそう言って胸のポケットから名刺を出し、宮司に手渡した。


 神田(かみた)と高見刑事は新富士宮駅前でレンタカーを借り、東名高速を使って富士吉田の、宮司から教えられた住所に向かった。何度か迷っても辿り着けない。

 「確かこの辺(あた)りのはずですけどね」
 「あ、あの人に聞いて見ましょう」高見刑事は助手席の窓を開けた。
 「恐れ入りますが、この辺りに八頭神社(はっとうじんじゃ)さんがあると聞いて来たんですけど、ご存知ありませんか?」
 「あーあ、八頭社(はっとうしゃ)さんならそこを曲がった突き当りですよ。こんもりとした森が見えますから、その中です」年配の買い物帰りといった風の女性が指を指しながら教えてくれた。
 「ありがとうございました」
 高見刑事は女性に頭を下げ、パワーウィンドウのスイッチをパチッと押すと、神田を見て
 「どうやら地元では八頭社(はっとうしゃ)さんと呼ばれているみたいですね」と言った。

  「確かに、これでは分からないですね」神田はハンドルを切りながら前方の背の高い木が集まっている一画を見た。道端に車を停めて石の階段を10段ほど登ると、椎(しい)や樫(かし)の木に覆われて薄暗い道の奥に小さな神社が見えた。小さいのは社殿だけではない、鳥居も2m足らずの高さしかないし、狛犬(こまいぬ)もまるでミニチュアといった感じで、高さは30cm位しかない。一対の狛犬は腰の高さほどの石の台座の上に座っている。しかも、鳥居の外にあるのが普通だが、この狛犬は鳥居の内側にある。

 「神社というより祠(ほこら)といった方がいいですね」神田は高見刑事を振り返って言った。右隣に小さな民家がある。
 「ごめんください」
 高見刑事は、擦りガラスのはめ込まれた木の引き違い戸を叩いたが返事はない。特に表札らしいものも出ていないが、社務所として使われている気配はある。
 「留守みたいですね」高見刑事は携帯電話を取り出して、富士宮浅間大社(ふじのみやせんげんたいしゃ)の宮司に電話をかけ、連絡先を尋ねた。

 「あいにくとそれは分かりかねますが、心当たりにお聞きしてみましょう。分かりましたら、ご連絡差し上げます」という宮司の返事であった。
 「いろいろとご面倒をおかけしまして申し訳ございませんが、よろしくお願いします」
 神田は、高見刑事が電話をしている間に携帯で神社の写真を撮っていた。御祭神は浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)とあった。
 「今回は引き上げですね」高見刑事は右手で左肩を揉みながらそう言い、車の方へ向かって歩いて行った。神田も何度か振り返って神社を見ながら後に続いた。


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あの銃声はトカレフのものだ

2011年02月04日 | 蒼き神々の行方
「あっ!!」
「どうしました?」
「あいつだ」

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マットだと思ったのは黒い男の体であった。その男は、富士宮浅間大社奥宮(ふじのみやせんげんたいしゃおくみや)の屋根の上に大きく立ち上がった。宮島の時と同じく裸だ。背中にはザックを背負っている。中国大使館の男達は、男の巨大さに圧倒されたかのように、一、二歩あとずさりした。男は鉄の棒を握り締めた右手をゆっくりと上げ、口にくわえた。かと思った瞬間、ポーン、と郵便局の屋根に飛び移り、そこから下に飛び降りて、剣が峰方向に走った。


 神田と高見の視界からは山小屋の陰になって大男の姿はあっという間に見えなくなった。大使館員たちは、ザックを放り出して、後を追いかけ始めた。
 「まるで猿か天狗だな」高見刑事はつぶやいた。
 その時、
 「パーン!!」という乾いた音が鳴り響いた。
 「トカレフだ」高見刑事は目を光らせ、小さく言った。
 「あの銃声はトカレフのものだ」


 男達の足は速かった。とても普通の大使館員とは思えない。しかし、大男はもっと速い。見る見る距離をあけている。神田と高見刑事も必死で後を追いかけた。神田は、ガスの合間から見える富士火口をチラと見やり、「まるで地獄の釜だ」と思いながら前方200mほど先の大使館員達を目で捉えた。そして、さらに先を行く大男が「馬の背」と呼ばれる急勾配の登山道を苦もなく駆け上がっているのを見て、改めてこの男の尋常でない運動能力に驚嘆した。


 大使館員たちもようやく「馬の背」の取っ掛かりに着き、登り始めたが、ザラ、ザラと崩れる火山岩の砂礫(されき)に足を滑らせている様子が見える。再び、「パーン」と音がした。
 「高見さん、ハア、ハア、大男はどこへ行くつもりでしょう?ハア、ハア・・・」息を継ぎながら神田は高見に聞いた。高見刑事も「ハア、ハア、あの先は剣が峰ですけど、そこから先は、ハア、ハア、断崖絶壁ですよ。ハア、ハア・・・」


 再びガスがかかってきた。時折り、空全体が、パパッ、と光る。
 大男は、「馬の背」を登り切り、階段を駆け上がって、気象観測所の建物の上に上がった。大使館員達もようやく「馬の背」を登り切って、気象観測所への階段に足を掛けた。大男はまるで大使館員たちを待ち受けていたかのように観測所の屋根の上に立っている。宮島でカクと名乗った男が右目だけを異様に大きく見開いて、右手に握ったトカレフを大男に向けて何か言った。大男は鉄の巻物をくわえた口の端を上げて嗤(わら)った。もう一度カクが何かを言って左手でトカレフを支え、腕に力が入った時、空が再び、ピカッ、と光った。大男は空に向かって飛び降りた。


 「パーン」「パーン」二発の銃声が響いた。
 男達は、中国語特有の甲高い声で何やらわめきながら観測所の屋根に上がり、大男が飛び降りた方向を見た。
 大男は雲に向かって落ちている。


  神田たちには剣が峰で何が起こっているのか分からなかった。男達の喚(わめ)き声と銃声で、ただ事ではないことが起こっている、それしか分からなかった。「馬の背」をようやく登り終え、お鉢巡りと呼ばれる火口周遊ルート方向へ少し下ったところに身を隠した。ここならガスで見えないはずだ。男達は、何やら叫びながら階段を駆け下り、ザーッ、ザーッと音を立てて「馬の背」を転がるように下っていった。


 神田と高見刑事は「馬の背」を登りきったところまで戻って観測所の建物のある剣が峰頂上へ上がろうとした。その時、観測所の向こう側のガスがサーッと晴れて、巨大な鳥が風に乗って舞い上がって来た。それは、ゆっくりと大きく旋回し、雲に映ったその影はまるで巨大な烏(からす)のようであった。


 「カメラ!!」高見刑事は神田(かみた)に向かって叫んだ。神田はポケットから携帯電話を取り出し、「パシャッ、パシャッ、パシャッ」レンズを大男に向けて3回シャッターを切った。
 大男は、巧みな操作で風に乗り、駿河湾方向へ飛んでいった。その姿も写真に撮り続けた。神田は、無言で、男の姿が黒い点になるまで見続けていた。高見刑事は警察庁の外事課の鈴木刑事に電話をかけ、状況を報告している。
 「外事課はなんて言ってました?」
 「中国大使館に、今回の件の報告を求める、それだけです」携帯をパチッと折畳みながらがらそう言った。
 「あの大男のことは?」
 「山頂から民間人がパラグライダーで飛び降りたぐらいではヘリは出せない、とさ」ポケットに携帯を納めチョコレートの箱を取り出した。
 「ま、そうでしょうね」神田は、高見刑事が差し出した箱からチョコレートを一粒つまんで口に放り込んだ。
 「猿から烏(からす)に変身ってわけか・・・」高見刑事は大男の消えた方向を見つめながらつぶやいた。


 神田(かみた)と高見刑事は、3時間かけて5合目まで下りた。山頂では晴れ間も見えていたが、5合目は依然ガスに覆われて、山頂の姿は見えない。観光客を乗せて来ていたタクシーに乗り、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)まで戻った。

 高見刑事は、拳銃発射の件や大男が剣が峰から飛び立ったことは伏せて、何者かが、中国の新聞社の人間が着く前に、奥宮(おくのみや)の扉を壊して鉄の棒を盗み出し逃走したことだけを宮司に話し、被害届を出すことを勧めた。

 「私どもの職員も五合目で新聞社の方々からそのように聞き、連絡をよこしましたが、本人は、体調が優れないとのことなので先ほど帰宅させました。今、ちょうど、状況確認のために職員を奥宮様に向かわせたところでございます。何とも恐れ多いことでございます。しかし、おふたりともご無事で何よりでございました」宮司は、ふたりにお茶を勧めた。

 「職員からの報告によりますと、昨夜、山小屋で、新聞社の方々と食事を済ませ、床に就きましたら、ぐっすり眠ってしまい、途中、新聞社の方々から早めに出発したいと、お申し出があったそうですが、なんとも体が動かないので、鍵だけお渡しして、本人は新聞社の方々が下山されるまで山小屋で休んでいた、と、まあ、こういうことでございました。いやはや、新聞社の方々には、申し訳ないことをいたしました」そういいながら、恐縮して肩をすぼめた。
 「!」神田と高見刑事はお互いの目を会わせた。
 「それに、神職にあるものが、軽々しく鍵を渡すなどとは・・・。何とも申しようがなく・・・」宮司は恥ずかしさと無念さで膝の上でハンカチを握った拳を握り締め、
 「ただ、ただ、ご本殿に無礼なことが無かったことをお祈りするばかりでございます」そう言って頭を下げた。

 「新聞社の方々は、帰国の準備があるので、と、五合目でタクシーに乗られて新富士宮駅に向かわれたようでございます」
 「そうですか」そう言って、神田と高見刑事は顔を見合わせた。
 「ところで、昨夜の話の続きですが」高見刑事はお茶を一口すすり宮司に聞いた。
 「話の続き、と申しますと?」
 「その、御文書には何が書かれていたのか、ということですが」高見刑事はポケットから手帳を取り出した。
 「あー、それは私も直接見たり、聞いたりしたことではございませんで、おとぎ話のようなことが書かれていた、ということだけしか」宮司はハンカチを膝の上に置き、湯飲みを両手で持った。
 「おとぎ話?」神田は湯飲みをテーブルに戻した。
 「内容についてどなたかご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?」高見刑事は続けて尋ねた。
 「それはどうでございましょうか?野中様はご長寿で、確か、昭和の30年(1985年)、89歳で天寿を全うされたとお聞きしていますが、生前、その内容については一言も触れていらっしゃいませんし、また、解読した家系の方々も口外していらっしゃらないということです。それに、その鉄の箱と御文書は既にないと思いますが」と、困ったように二人を交互に見つめた。



 「既にない?と言いますと?」神田(かみた)と高見刑事は、宮司の顔を見た。
 「はい。その鉄の箱と御文書はその解読をした神社様から野中様のお手元に返され、しばらくは野中様がご自宅で保管され、その後、不幸なことに、戦時中の空襲で、写しや、資料は焼けてしまったと聞いております」
 「はー、そうですか」高見刑事は、何度かうなずきながら背もたれに背中を倒した。

 神田(かみた)は、いくぶんかの期待を持って、
 「野中さんのご家族の方はその鉄の箱の件は?」と尋ねたが、
 「内容につきましては、まったくご存じないと思います。何しろ、野中様ご自身、その件に関しましては、その後一切口にされなかったようでございますから」と、宮司も申し訳なさそうに答えた。

 神田はさらに、
 「失礼ながら、こちらの先代、あるいは先々代の宮司さんは、御文書の内容をご存知では?」と、尋ねたが、
 「存じてなかったと思います。仮に存じ上げておりましても、その様なこと、軽々しく口にすべきものではございません」宮司は幾分顔を赤らめて言葉を強めた。神田はやや狼狽しながら、再び宮司に尋ねた。
 「では、その鉄の箱に入っていた御文書の分析解読をされた神社さんにはその御文書の控えとか、書き写したものなどは残っていないでしょうか?」
 「どうでございましょうか、終戦後、進駐軍は多くの神社の招魂碑(しょうこんひ)などの施設や書き物を破壊、没収しましたが、その時に、そちらの神社様もかなり大掛かりな捜索を受けたと聞いていますので」宮司は少し腹立たしそうに言った。
 「大掛かりな?」
 「はい。その神社様は、こう言っては何でございますけれども、非常に小さな神社様でして、そこに大勢の進駐軍が押しかけたものですからご近所の方も驚かれたと聞いています」

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「表富士宮五合目レストハウス」には二階の売店の奥に宿泊者のための部屋がある

2011年02月03日 | 蒼き神々の行方
「と思いますが。念には念を、ですよ。今回の件は、どこに話が転がって行くか分かりませんからね」

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 日が落ちて、あたりはすっかり闇に包まれている。時折り対向車とすれ違うが、タクシーの運転手の話によると、六合目までは、観光客でも登れるらしく、まだ山小屋も営業しているらしい。神田たちは、新五合目の「表富士宮五合目レストハウス」に宿泊予約を入れていたが、休憩だけして今夜中に出発するつもりでいた。宮司から、浅間大社の職員は六合目の山小屋に宿泊して、夜中2時頃に出発の予定だと聞いたからだ。

 「表富士宮五合目レストハウス」には二階の売店の奥に宿泊者のための部屋がある。神田(かみた)たちは荷物を置いて一階の食堂へ向かった。
 「腹が減っては戦(いくさ)は出来ませんからね。それに、体を高度順応させる必要もありますし。高山病をなめたら、痛い目にあいますからね」高見刑事はそう言って蕎麦(そば)をすすった。

 「連中より先にあれを手に入れて、そもそもあれが何なのかを解明しないことには・・・」神田はそう言って、窓の外を流れるガスに目をやった。
 部屋で2時間ほど横になって、夜11時過ぎ神田と高見はレストハウスを出発した。合羽(かっぱ)を着てガスに包まれている外に出、頂上方向を眺めたが、湿気を含んだガスに阻(はば)まれて何も見えない。

 「あっちもこっちも見えないものばかりだな」高見刑事はストックのバンドに手を通しながら小さく言った。懐中電灯で足元を照らしながら、一歩を踏み出した。六合目までは歩き易い道が続く。じきに合羽の表面は濡れて水滴がつき始めた。六合目の手前で、懐中電灯の明かりをやや絞り気味にして、六合目山小屋「雲海荘(うんかいそう)」の前を通り過ぎ、左手に曲がり、本格的な登山道に入った。フードを被(かぶ)った神田の耳には、足を踏み出すたびに「ハッ、ハッ」という自分の息と「ジャリッ、ジャリッ」という足音だけが聞こえてくる。

 八合目を過ぎたあたりからガスが薄くなり、神田と高見刑事は合羽を脱いでザックのバンドにくくりつけた。
 「これどうですか?」高見刑事はチョコレートの箱を開けて神田(かみた)のほうに差し出した。
 「あ、頂きます」神田は手刀を切るしぐさをして一粒つまんだ。
 「あれ?ダイエットは?」そう言って高見刑事は神田をからかった。
 「ははっ、登って下りたらカロリーは十分消費してるでしょうから」そう言い、
 「あとどれくらいですかね?」とザックを背負いながら高見刑事に聞いた。
 「この調子で行くと夜明け前じゃないですかね」高見刑事は帽子を取って、上の方に見え隠れする赤茶色の砂礫(されき)を眺(なが)めた。

 神田(かみた)と高見刑事は、最後の鳥居の手前で再び腰を下ろした。ガスは薄くはなったものの、なかなか晴れない。
 「高見さん、頭、大丈夫ですか?」神田はスポーツドリンクを一口飲んで聞いた。高見刑事もドリンクのキャップを外しながら、
 「私は大丈夫ですよ。神田さんは?」と神田の顔を見た。
 「最近の寝不足がたたって、がんがんします」神田は目を閉じて、頭をゆっくり回しながら言った。
 「もう、ヘッドライトはいいでしょう。頭からベルトを外すとだいぶ楽ですよ」高見刑事は自分もヘッドライトを外しながらそう言った。
 「そうですね」そう言って、ヘッドライトを外してザックに納め、大きく深呼吸を何度かした。しかし、空を見上げると、まだ、クラッと貧血になったような感じになる。

 「さあ、もうじきです。でも、ここからが長いんですけどね」そう言って頂上の方向を見た。
 「あ」高見刑事は一方向を凝視している。
 「どうしました?」
 「人影が。今一瞬ガスの切れ目に人影が見えました」その方向を見据えたまま答えた。
 「ひょっとして、連中ですかね?」神田も、高見刑事の視線の先を見つめたが、再び薄くガスがかかってしまった。
 「でも、まだ出発してないはずでしょ?」神田は、靴ひもを締めなおし、ザックを背負った。
 「いや、いや、それは当てにできませんよ。ともかく、急ぎましょう」
 ふたりはピッチを上げて歩き始めた。

 頂上の山小屋が見えてきた。幸いなことに、「このガスで気付かれていないはずだ」神田(かみた)と高見刑事はそう思いながら頂上直下の岩陰に身を隠した。ふたりはここでザックをおろし、身軽になった。
 「高見さん、どうしますか?もし、連中が大使館員なら、身分を偽わってまであの鉄の棒を盗もうとしてることになりますね?」岩に背を押し当てて小さな声で言った。

 「新聞社の人間なら、何も問題はないわけですがね」高見刑事も岩に背をつけて神田に並んで座っている。
 「こんにちはー、って出て行きますか?大使館員なら何か行動を起こすでしょうし、新聞記者なら、こんにちは、ですむでしょうし」神田は、両手の指と指を胸の前で組み合わせて手袋をギュッ、と締めた。

 「まず、顔を確認しましょう」高見刑事は岩陰から少し顔を覗かせ奥宮(おくみや)入り口付近に固まっている人影を見た。
 「間違いないですね。大使館員です。でも、三人だけですね。神社の職員はどうしたんでしょうね?」神田のほうを振り返って言った。今度は神田が、少し伸び上がって様子をうかがった。

 「あれっ、なんだか、慌(あわ)ててますよ。どうしたんだろう?」
 三人は、ますます慌てた様子で、鳥居と奥宮の間に散らばって周辺のあちらこちらに目をやっている。
 「どうしたんでしょう?」神田と高見刑事は再び岩陰に身を隠した。

 男達の声が大きくなって、一か所に固まっているようだ。神田(かみた)と高見刑事はゆっくりと覗いた。男達は奥宮の屋根の上を指差し、口々に何やら叫んでいる。ガスの流れが早くなってきた。屋根の上に何か黒いマットのようなものが置いてあるのが見えた。男達は、そのマットに向かって、必死に何か叫んでいる。風で、サーッとガスが流れ去った。黒光りしているマットは、奥宮(おくみや)の屋根の上で、ムクムクと動き始め、風にあおられて大きく広がった。

 「あっ!!」
 「どうしました?」
 「あいつだ」

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富士文献と申しますのは、宮下文献(みやしたぶんけん)、とも言われておりまして

2011年02月01日 | 蒼き神々の行方
「大使館?どちらの?」
 「中国でございます」

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 「先ほど、お車で五合目に向かわれました」宮司は、それが何か、と言う様な顔をした。
 「じゃあ、先程の、お客様というのは・・・」神田(かみた)と高見は顔を見合わせて立ち上がった。
 「さようでございます。中国の新聞社の方々でございます」
 「何人ですか?」高見刑事が聞いた。
 「3人様でございます」
 「私どもの職員が一人ご案内役としてご一緒させていただいていますから、全部で4人でございます」宮司は、両手を膝に乗せて答えた。
 「じゃあ、中国人は3人?」神田の顔がやや紅潮した。
 「さようでございます」宮司もゆっくりと椅子から立ち上がった。

 宮司は思いついたように、
 「そうだ。その職員に電話をして、鉄の棒を持って帰るように申し伝えましょう」
そう言って、懐(ふところ)から携帯電話を取り出した。
 「あ、ちょっとお待ち下さい。その新聞社の男達は何か言っていましたか?」
 「いえ。ただ、天気が心配だとか何とか、と、おっしゃっていらっしゃいましたが」携帯電話を懐(ふところ)に納めながら宮司は言った。
 「高見さん、どう思います?」神田は高見刑事の顔を見た。
 「今までの流れから行くと、新聞社じゃないでしょう。それにしても速攻だな」高見は腕時計をチラッと見た。
 「隙を見てその鉄の棒を奪い取る気ですよ、きっと」神田は床に置いたザックに手をかけて言った。

 「どういうことでございましょうか?」宮司には事態は飲み込めていない。
 「予備の鍵をお貸し願えませんでしょうか?」高見刑事は宮司の顔を見つめて言った。
 「それはよろしゅうございますが・・・」
 「職員の方には何もおっしゃらないで下さい。私達もこれから富士山に向かいます」高見刑事はザックを抱え、神田と共に、宮司に頭を下げた。


 「ところで、先ほど、宮司さんは、あの鉄の棒は、御文書と一緒に、と、おっしゃいましたが、その御文書は今は?」社務所から出て裏の駐車場へと歩きながら聞いた。日はもう落ちて、外灯の灯りが境内(けいだい)を照らしていた。
 「それは、その鉄の棒が入っておりました箱と一緒に、野中様がご自宅にお持ち帰りになりました。私も聞いた話でございますので、定かではございませんが、なんでも、その御文書は大半が燃えて灰になっていたらしゅうございます」宮司はいくぶん顔を傾け神田の顔を見ながら答えた。
 「で?」
 「はい。ご自分ではどうしようもないので、ある人に分析、解読を頼まれたとか聞いております」
 「そのある人とは?」高見刑事は手帳を取り出しながらたずねた。
 「いや、これは、定かではございませんので・・・」宮司は言葉を濁(にご)した。
 「何か不都合なことでも?」
 「これは、私どもとは関わりのないことでございますが・・・」
 「?」神田(かみた)と高見は同時に宮司の顔を見た。
 宮司は思い切ったように言った。
 「富士文献(ふじぶんけん)というのをご存知でございましょうか?」


 「富士文献(ふじぶんけん)?何だか聞いたことがあるような、ないような」高見刑事はボールペンで手帳をポン、ポン、と軽くたたきながらつぶやいた。宮司は、それでは、といった風な感じで説明を始めた。

 「さようでございますか。富士文献と申しますのは、宮下文献(みやしたぶんけん)、とも言われておりまして、日本の太古の歴史が書かれたました厖大(ぼうだい)な書物でございます」
 「あーあ、なんでも、古事記よりも古いとか言われている」高見は、おぼろげながらに思い出した。
 「さようでございます。それは、徐福文献(じょふくべんけん)とも言われておりまして、そもそもは、古代文字で木片などに書かれていたのでございますが、それを、徐福さんが漢字に書き直されたと言われております」タクシーのやって来る車寄せの方向へ手を軽く伸ばし、神田と高見は宮司に続いてその方向へ曲がった。

 「しかし、それは、伝説の類(たぐい)では?」神田(かみた)は聞きにくそうに宮司に言った。
 「さあ、それは、私には分かりかねますが、徐福さんが古代文字から漢字に書き直す、まあ、翻訳する、とでも申しましょうか。それを代々手伝っていた家系がございまして・・・」
 「それはいつ頃の話なんですか?」神田は背負ったザックのベルトに手をやり、グイッ、と揺すって背負いなおした。
 「いろいろと説はございますが、今から、少なくとも、2000年以上も前のことだといわれております」

 「2000年!?」神田は、「そんなことはありえないな」と、思った。
 「それで、その・・・エート・・・」
 宮司は高見刑事の言葉を次いで、
 「徐福(じょふく)さん。その徐福さんの手伝いをした家系が代々この富士の裾野(すその)におられまして」
 「今でも!?」高見刑事は驚いて宮司の顔を見た。
 「はい」宮司は自信ありげに答えた。
 「今でもですか!?」神田も幾分念を押すように宮司に尋ねた。
 「はい。宮下家の遠縁に当たられますが、今は、富士吉田の小さな神社をお守りになっていらっしるお宅がございまして、そちらなら、その御文書の解読ができるのではと、野中様はお思いになられたのでございましょうね」
 「で、結局、その御文書には何が書かれていたのですか?」高見刑事は車のライトが近づいてくるのに気がついた。
 「あ、タクシーがまいりました」


 高見刑事は、タクシーから警察庁の外事課の鈴木刑事に連絡を取った。鈴木刑事によると、東京駅までは確かに一緒だったということだった。
 「すると、それからすぐに、やっこさんたち、支度を整えてこっちに向かったということか。よほどあせってるな、これは」
 「ですね。だから、今回は警察庁抜きで動き始めたんでしょう」神田はすれ違う車のライトをぼんやりと眺めながら、頭の中で今回の一件をもう一度整理した。

 タクシーは市内を抜け、やがて富士山スカイラインに入った。
 「どうも、話が見えてきませんね」神田は、腕を組んで前を見たまま言った。
 「どうしてこの一件に中国大使館が絡んでくるんだか?」高見刑事も自分自身に問いかけるようにつぶやいた。
 「高見さん。これは?」神田はそう言って、右手の人差し指と親指を立てた。
 「ここに」高見刑事は胸のふくらみに手をやった。
 「まさかね。まさか、これの出番はないでしょう!?」高見は、そのふくらみを軽く一回叩いた。
 「と思いますが。念には念を、ですよ。今回の件は、どこに話が転がって行くか分かりませんからね」

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