2015年7月22日(水) No.3032 敗戦後子供の頃の生き様
今日も暑いね、さすが今日はお見合いはないようだ。しかしこんなに多くの大和男が在日中国人女性とのお見合いが多いのは御見合い料が唯というのも起因している様だ。決まるかどうか分からない御見合いに、いちいち1万円も払うのは馬鹿らしい、決まれば、100万くらいの金は気持ちよく払うよ。と多くのクライアントは言っていた。
ところで昨日は海の日、なりあがり爺の回想を書いたが、今日も36才の頃、軽飛行機も買った話しをしよう。富士重工のFA-200エアロースバルで、コールナンバーは【JA-3474】調布の飛行場を基地にしていた。勿論パイロットは社員として抱えていたが、遊び半分、仕事半分、私も若かった。
今考えれば,昭和20年(1945)8月、敗戦間じかの満州、安東朝日小学校の上空を白い飛行機雲を引いて飛んで行ったB-17爆撃の後を追って行った戦闘機は富士重工のこの程度の飛行機なのだったのだろう。とても飛行機雲を引く高度までは上昇できず、せいぜい高度3000mぐらいがやっとだろう。
【ここからの挿入絵は1988年・安東帰国訪問団の時のスナップです】
だけれど、あの敗戦後のドサクサには小学校6年生の私はどきまぎしながら震えながら右往左往した。当然社会の秩序はないもの同然、暴動、略奪、カッパライは日常茶判事で、権力が失われた空間で、なんでもあり、一番ひどかったのが、黒竜江を渡って侵攻してきたロシアの囚人兵で、強盗・略奪・強姦、こちらも何でもありだった。
【安東朝日在満小学校は、丹東市第二中学校に変わりました】
権力の背景には、力つまり暴力がなければ収拾できない。、ロシアが進入し、満州・日本の官憲は雲隠れし、国府軍が入り何時の間にか居なくなり、そして八路軍が入ってきて、どうやら社会秩序は戻りそうになったが、旧権力の掃討が始まり、罪人は街を引きずれ廻され、鴨縁江の辺で銃殺刑が毎日続いた。
勿論、51才の民間人の父も物流の仕事に関わっていた以上、旧権力の一派と見なされても仕方がない。父は家に引きこもり、いっさい外には出なかった。やむなく母は闇市で我が家の金目になる衣類・家財道具・装飾品等々の売り食いで、正にたけのこ生活でした。(こんな言葉知らないでしょう)
【戦前の安東神社の鳥居は両袖に柱をふやっして中国流の山門に変わりました】
妹は小学校4年生で、ウインド・ミスター・コマンデルなんて英国の闇煙草の製造工場に働きに行き、私は4時起きで、豆腐屋に豆腐等を仕入れに行き、一丁3円50銭で40丁仕入れて、前の缶に20丁、後ろの缶に20丁、天秤で担ぎ一丁5円で朝が開ける安東の街を「とうふー豆腐、油あげーに、納豆。仙台納豆。」と叫びながら売り歩いていました。
夏が来ました
45~65才逃げられない失敗しない国際結婚
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花咲爺 石田洋司 (直)03-3479-3061
Email:kadokami@tokyo-onyx.co.jp
花咲じい爺さんも暇になったのでコメントを受けアンサーバックを行います。
アジアBセンターでは8月2日(日)会費5,500円でお見合いパーテーを行います。03-5414-2121
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