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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「一〇三歳になってわかったこと」

2016-04-30 15:10:00 | 独学

 113. 一〇三歳になってわかったこと  (篠田桃紅著 2015年4月)

 著者の篠田桃紅は、1913年(大正2年)3月28日に、日本の租借地だった関東州大連に生まれる。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。

 文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画(墨象)と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。

 和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。作品は国内外の美術館で展示され、現在(2016年5月)も現役です。


 『 これまで私は、長寿を願ったことはありませんでした。死を意識して生きたこともありません。淡々と、生きてきました。今でも、死ぬときはこうしよう、死ぬまでにこういうことはしておきたい、などなに一つ考えていません。

 いつ死んでもいい、そう思ったこともありません。なにも一切、思っていません。先日、死生観は歳とともに変わるのかと、若い友人に尋ねられました。私には死生観がないと答えました。彼女はたいへんびっくりしていました。

 考えたところでしょうがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えてもわかることではありません。

 現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。

 さすがに病気にならないようにしようということぐらいは考えます。しかし、死なないようにしようと思っても、死ぬと決まっています。死んだ後の魂についても、さまざまな議論がありますが、生きているうちは、確かなことはわかりません。

 人の領域ではないことに、思いをめぐらせても真理に近づくことはできません。それなら私は一切考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。 』


 『 静かに笑っているように見える。見る側がそう感じる仏像があります。なんとの言えない静かな微笑みに、自分の寂しさを微笑んで受け止めてくれていると感じる。

 それだから人は、仏像を見ると自然と拝みたくなるのでしょう。歌人の会津八一さん(明治十四~昭和三十一年)の歌に、法隆寺夢殿の救世観音を詠んだ歌があります。

 天地にわれ一人いて立つごとき  この寂しさを君は微笑む

 私は一人で天と地の間に立っている。この寂しさを観音様は微笑む、と詠んでいます。会津さんという人は、ご自分の孤独をここまで客観視することができる。秀逸な歌だと思いました。

 一人で立っているという孤独感をつねに持っていた人でした。一生、結婚されず、早稲田大学の教授で、お弟子さんはたくさんいましたが、偉くなりたいなどといった出世欲はない人でした。

 孤独に徹し、孤高の学者とも言われていました。私は、渡米する前の一九五〇年代に、展覧会などで会津さんにお会いしました。渡米してまもなくニューヨークで手にした日本の新聞で、会津さんの訃報を知りました。

 孤高の人でしたが、観音様をお連れにしていたのだと知りました。観音様もまた一人で立っている。この寂しさを君は微笑む、ほんとうの孤独を知っている人でなければ、こういう歌はつくれなかったと思います。 』


 『 日本人は、なにかあると「いい加減にしておきなさい」と言います。ご飯がおいしいからといって、食べ過ぎてはいけない。いい加減にしなさい。口論が激しくなっていく様子を見てとれば、いい加減にやめておきなさい。

 「いい加減」は、すばらしい心の持ち方だと思います。ほどほどに余裕を残し、決定的なことはしない。戦後まもなく渡米したとき、そこで知り合った日本人の通訳者が、こんな話を私にしてくれていました。

 ある通訳の場で、相手のアメリカ人が「お茶はいかがですか」と日本人に尋ねて、日本人は肯定も否定もせず「結構です」とこたえたそうです。「結構」 は 「いい加減」 と同じで、決定的な言葉ではありません。

 お茶が欲しいという意味の 「結構」 と受け止めることもできるし、要らないという意味での 「結構」 と理解することもできます。

 このとき、アメリカと日本の文化の違いを知る通訳者は、「恐れ入りますが、この国ではどちらかに決めていただく必要があります。イエス結構なのか、ノー結構なのかをおっしゃってください」と尋ね返したそうです。

 このように日本の文化には、余白を残し、臨機応変に、加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。そしてこの精神は、長寿の心得にも相通じるのではないかと思います。

 たとえば、歳をとったら体を冷やすのはよくない、温かくしておいたほうがいいと言います。それでなくとも抵抗力は衰えているので、冷やすと、それが引き金となって体全体のバランスを崩しかねないからです。

 しかし、かといって汗をかくほど温かくすると、体内の機能は小さく縮みつつあるので、よけいな負担をかけてしまう。その人に合ったいい加減の温かさを保つことがいいのです。

 しかし、いい加減というと、あの人はイイカゲンなことを言う、イイカゲンな人、と否定的な意味で使われる場面が多くあります。本来は、ほどよい状態にするために加減するから、いい加減と言います。

 「お加減はいかがですか?」と尋ねれば、体の具合は良くなりましたか、それとも思わしくないですか? という意味です。「お風呂の温度はいい加減です」と言えば、ちょうどいいお湯の温度だという意味です。

 中国の孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と、度が過ぎることも、不足することも、同じように良くないと言ってます。そして「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とも言っています。

 元来、人は、食べ過ぎてもいけないし、少な過ぎるのもいけない。飲み過ぎるのもよくないけれど、長生きしたいからと言って、我慢してやめるのでは、生きている甲斐がありません。

 働き過ぎるのはよくないし、なにもせずにゴロゴロしているのもよくない。なんでもいい加減に調整するのがいいのです。歳をとると、ますます体の機能範囲は狭くなりますから、ちょっとした偏りが大きなダメージになります。

 食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人に合ったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのではと思うこのごろです。 』


 『 アメリカ屈指の美術批評家、ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・キャナディ氏が、生前、私にこんなことを言いました。「絵には作品名がないほうがいい。作品名があると、見る側がそれに左右されていまう。自分の目で判断しているので、僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」

 もちろん、キャナディ氏は、ギャラリーから作品の説明は一切、受けません。作家本人に会うこともしませんでした。説明を受けたら、自分の判断が鈍るかもしれない。作家に会うと、情が移るかもしれない、と考えたからです。

 自らを律した厳しい目で作品を見て、批評をしていました。それだから、世界的な美術批評家として高い信頼を得ていたのでしょう。キャナディ氏に否定的なことを書かれたら、アーティストとしておしまいだと、美術関係者はおそれていました。

 このごろはずいぶん減りましたが、私も、展覧会などで、「これはなにを表している絵なのですか?」とよく聞かれたものでした。絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを、目に見えるようにしたものなので、なにを、という質問には、私はいつも戸惑いました。

 絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で、そしてその「なにを」で、そしてその「なにを」は見る人によって、どのように受け止めてもいいものだからです。

 人は、説明を頼りになにかを見ていると、永遠に説明を頼りに見えるようになってしまいます。パソコンや携帯電話などの機器を買うとき、人を頼りに買っていれば、使うときも人頼りになります。

 機器を使いこなす楽しみを自ら放棄していることになります。参考にできることは、おおいに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て、考える。キャナディ氏の言葉は、私たちの日常の生きる姿勢にも通じると思います。 』


 『 昔、私の展覧会でのことです。ある人が私に、「墨で線を引けばいいだけだろう。こんなもの誰だって描けるよ」と言うので、「それなら、あなたもおやりになったらどうですか」と応じたことがありました。

 のちに、「悪かった」と謝ってきましたが、誰かがやったことを自分もすることは、誰にもできることです。しかし、まだ、誰もやらないときに、それをやった、ということが大事です。

 まだ誰もやらないうちにやった人は、それだけの自信を蓄え、自分の責任でやっています。その結果が、受け入れられるか、受け入れられないかはわかりませんが、なかには、高く評価してくれるかもしれませんし、認めてくれる人がいつか現れるかもしれません。

 人の成功を見届けてから、私もできます、と言うのは、あと出しじゃんけんをしているようなものです。

 誰もやらないときに、やった、ということで、私は最初に思い出すのは、二十世紀のアメリカの画家、ジャクソン・ポロックです。私が一九五六年に初めて渡米したとき、最も会いたかった人でした。

 彼は、当時、まだ誰もやらなかった、絵の具を、筆ではなく、撒いて描きました。彼の作品を見て、私は、子どものときにさせられていた水撒きを思い出しました。

 家の玄関から門まで続く踏み石に、柄杓で水を撒いていたのですが、垂らしたり、飛び散らせたり、自分の撒き方次第で、水のかたちがさまざまに変わり、撒いた水に濡れて、踏み石の景色が移り変わるのを、子ども心ながらに美しいと感じて、眺めていました。

 ジャクソン・ポロックは、白いキャンパスを床に広げて、キャンパスの上から、絵の具の入ったバケツを手に、撒いていましたが、撒くという新しい描き方を生み出し、絵というものは自由に描いていいものだと、人々の心を解放しました。

 そうした手法は、アクション・ペインティングと呼ばれるようになり、のちに大きな芸術運動の基礎にもなりました。しかし、彼自身は、ひどい躁鬱病に苦しみ、自らが運転する車を大木にぶつけて、四十四歳で亡くなりました。

 それは自殺としか思えない事故死で、いまだ自殺なのか、事故死なのかは謎です。彼がニューヨークで事故死を遂げたとき、私は自分の展覧会のためにボストンにいました。ボストンに行く前に、ニューヨークに立ち寄っておけばよかったと、今でも時折、悔やみます。

 若くして亡くなったジャクソン・ポロックは、自分のやったことが、世界の美術界に多大な影響を与えたこと、百五十ドルでしか売れなかった自分の作品が、のちに史上最高額の一億四千万ドルの値がついたことを知りません。

 彼のように、誰もやらないときにやった人がいたから、新しい境地が拓け、後世の私たちもそれを享受することができています。 』


 『 「真実は皮膜の間にある」  これは、人形浄瑠璃、歌舞伎の作者、近松門左衛門の有名な言葉です。もちろん科学的に、皮と膜の間にはなにもありません。なにもないのに、そこに真実がある、というのは、どういうことでしょう。

 私の従弟で、近松門左衛門が書いた「心中天網島」を映画化した篠田正浩は、言葉と言葉の間にあるという意味だろうと、私に言いました。

 真実は、言葉にしえないし、文字にもしえない。想像力を頼りにしなければ、語れないもの。近松門左衛門は、そういいたかったのでしょう。

 たとえば、悲しい、という言葉一つとっても、悲しいという感情が主体であっても、寂しさや辛さなど、ほかの感情が微かに混ざっているかもしれません。

 心の奥底には、本人も自覚していない安堵感もあるかもしれません。ですから、悲しい、と言葉にした時点で、ほかの多くの感情は失われてしまいます。

 伝えきれないもどかしさ、寂しさ、表現には限界があり、そして真実自体も、本人すらはっきりとわかりえない神秘的な、不思議な部分があります。

 真実というものは、究極は、伝えうるものではない。ですから、私たちは、目に見えたり、聞こえたりするものから、察する。そうすることで、真実に触れたかもしれないと感じる瞬間が生まれるのかもしれません。

 真実は、想像のなかにある。だから、人は、真実を深し続けているのかもしれません。 』


 『 私が通っていた女学校に、北村ミナ先生という英語の教諭がいました。英語をわかりやすく、ときには英語の歌も取り入れて、これはやさしいメロディーだから歌いましょう、と言って、英語を楽しく教えてくれる先生でした。

 そのナミ先生が、実は北村透谷の未亡人だったことを「北村透谷全集」が立て続けに刊行されたことで、私たち女学生は知り、学校中、大騒ぎになりました。

 そのころ文学全集といえば、たいていの家庭が買っていたもので、編纂は当代の人気作家、北村透谷の友人の島崎藤村によることからも、注目を集めました。

 北村透谷という人について知識のなかった私たちは、明治時代、自由民権運動に関わった近代を代表する評論家であり、詩人であること。

 大恋愛で結婚をし、二十五歳の若さで自殺。その大恋愛のお相手が、ミナ先生だったことを知りました。

 著名な代議士の娘だったミナ先生は、親の決めた許嫁との婚約を破棄し、反対を押し切って、貧しい透谷と結婚したとのことで、透谷が自殺してからは、単身で渡米し、アメリカの大学で学位を取得していました。

 自分で相手を選んで結婚するなんてことは、世間では御法度。とんでもない不良娘だとされていた明治時代に、さらに渡米までして、学位を取得。

 私たちは、ミナ先生は先駆的な女性だと感心し、特に三歳上の姉の学年は、学年中が先生の大ファンとなり、結婚する相手は自分で見つけなくてはね、と互いに言い合っていました。

 女学生たちには憧れの的でしたが、大人たちは、ミナ先生のような生き方ができる人は特別な人なのだから、真似してはいけない、と私たちをいさめていました。感化されては困る、と思ったのでしょう。

 私は、ミナ先生のことを思い出すと、明治・大正時代の人は、新しい精神に憧れて新しい生き方をした、今の人とは違う理想主義的なものを感じます。

 もちろん、ミナ先生のような人は、ごく一部でしたが、自分は新時代を生きなければと覚悟し、向う見ずのような勇気がありました。まだ封建的な時代でしたから、想像を絶する困難と苦労が伴ったことと思います。でも、ずっといきいきと生きていたように思います。 』


 『 初めて渡米した一九五六年のクリスマスのことです。私は、ギャラリーの女主人、画家夫妻とともに、ある家庭のクリスマスディナーに招かれました。夫はスペイン系の彫刻家、妻は英国人の記者、お二人の間に子どもがいました。

 食卓には、メインディッシュの大きな七面鳥が供され、続いて、デザートに、ブランデーで炎を上げたクリスマス・プディングが出されました。

 プディングのなかには、紙に包まれた二十五セントのコインが入っているとのことで、切り分けて、誰にそのコインが入っているかで、その運を占いました。

 コインは私のなかに入っていました。私はみんなから口々に祝福され、「こうしたクリスマスの祝い方は、妻の祖国である英国式である。来年は僕のスペインの式でクリスマスを祝うことになっており、毎年、交互にしている」と夫に説明されました。

 その言葉を聞きながら、私は、どちらか一方の文化に従うのではなく、お互いの習慣を尊重して、ともに楽しもうとする家族の姿に、深く感心しました。

 また、これはニューヨークのある一流ギャラリーのオーナーが自宅で開いたパーティでのことでした。集まった人たちは、国籍もさまざまなら、服装もばらばらでした。

 著名な女流彫刻家は、白いタフタのイブニングダレスをまとって、裾から背中まで、泥をはね上げてやって来ました。その夜は雨だったのですが、車からわざわざ降りて、セントラルパークで泥をはね上げ、泥模様をつくってから来たと、私に言いました。

 そうかと思うと、頭のてっぺんからつま先まで、グレーのシルクで全身を覆っている女性もいました。見えるのは両目とおへそだけ。彼女はある国の大使の娘で、一流ファッション誌のモデルをしてました。

 タキシード姿の若い男性を伴っていました。また、スペイン系の人なのでしょうか、黒のジョーゼットのブラウスを着た中世の騎士のような姿の男性もいましたし、カジュアルなジーンズ姿の人もいました。

 このように、さまざまな人種、文化、習慣を持つ人々が集まるニューヨークでは、なんでもアリ。お互いに文化を持ち寄っているのでなにがいいかなんて決めつけることはせずに、違うことを面白がっている。

 こんな楽しい街はない、と私は思いました。影響を受けることも、それによって変化することもいとわない。いつも新しくなにかをつくろうとしていました。

 オーナーはというと、一人になりたい人は壁に向かってどうぞ、と椅子を全部壁面に向けて置いた部屋を用意していました。パーティーの趣旨とは真逆なはからいでしたが、みんな面白がっていました。 』


 『 私は、友人の誰よりも長生きしてしまっていますから、折にふれて、志高く、生きた友人たちのことを思い出します。なかでも、エドウィン・ライシャワーさんと松方ハルさんは、私と同じ世代で、いろいろと思い出があります。

 お二人が駐日大使夫妻として、東京に住んでいたときのことでした。私は、随筆を書いていて、あらっ、これはいつだったかしら、と思って、エドウィンとハルさんが同じマンションの最上階に住んでいたときに、聞いたことがありました。

 そうすると、エドウィンは、それは応仁の乱の前ですから、とすぐに教えれくれました。日本の歴史を熟知している学者にはかなわない、と感服しましたが、相当な日本通でした。

 彼は、戦後まもない日本とアメリカの折衝で、両国のパートナーシップを築くなど、大切な責務を担ってましたが、日常生活においても、日本の文化を深く理解し、実践に生かしている人でした。

 たとえば、ある暑い夏、さーっと夕立が降ったあとのことです。彼は空を見上げて、「いいおしまりですね」と私たちに言いました。

 「今どき「おしめり」なんて高級な日本語を知っている日本の人は、あんまりいませんよ」と私が言うと、「そうですか」といいましたが、別のときには「根回しがたりなかったんですね」と言ったことがありました。

 彼は、日本文化の魅力を心で受け止め、「おしめり」という言葉の持つ、深い情緒を理解していました。「雨が降って涼しくなった。よかった」と言うのと、「いいおしめり」と言うのとでは、運泥の差です。

 「おしめり」のような、日本独特の情報と表現の仕方、英語には同じ言い回しはありません。アメリカと日本の両方に熟知したいたからこそ、かれは、日本人が忘れ去るのは惜しい、と思いながら、使っていたように思います。

 エドウィンとハルさんの願いは、アメリカと日本の架け橋になることでした。自分たちを無にして、尽力されていました。世の中には、ときどき、お二人のような、立派な人がいるおかげで、社会は浄化され、なんとかもっているのではないかと思います。

 お二人は死後、二国間を隔てる大平洋に遺灰が撒かれることを希っていました。 』


 『 ジョン・D・ロックフェラー三世(1906~78年)は、父のジョン・D・ロックフェラー・ジュニア(二世)の遺志を継いだ、たいへんな慈善家でした。

 慈善活動を行うために母体となる財団を幾つも設立し、公共、私立の文化、教育、医療機関などへの支援を熱心に行っていました。

 その支援は、米国内にとどまらず、戦後のアジアとの文化交流を円滑にさせるため、アジア・ソサエティを設立し、財政破綻をいていたヤッパン・ソサエティも復興しました。

 巨万の富を得た一族の長男自らが、生涯を慈善事業に費やした、桁外れのスケールの一端を、その時代、アメリカで作品を発表していた私は、垣間見ることがありました。

 ジョン・D・ロックフェラー三世のブランシェット夫人に、何回か食事に招かれ、また、ジョン・D・ロックフェラー二世が寄贈したメトロポリタン美術館の別館、ハドソン河沿いのクロイスターズ美術館にも案内していただいたことがあります。

 すばらしい庭園を抜けると、河岸には舟が係留されており、ハドソン河の遊覧を楽しむことができました。マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニングなど、当代の抽象表現主義の旗手といわれた画家たちの絵、そして私の絵もクロイスターズ美術館に、当時保管されていました。

 ブランシイェット夫人もまた、慈善家として忙しく過ごすかたわら、アジアのアート、そして近代アートの支援と収集を熱心に行っていました。

 戦後まもない年から、積極的にニューヨークの近代美術館の運営に関わり、理事も務めていました。彼女には私設のキューレーターが数名おり、収集するアート作品の候補を選んでいました。

 私の作品展のときもそうでしたが、最初は一人が観に来て、その人がいいと思ったら二人目が観に来ます。二人以上のキューレーターが推薦すれば、収集の対象となりました。

 そのことを私が知ったのは、二人目が観に来たとき、たまたま私もギャラリーに居合わせたからでした。ギャラリーのオーナーに、あの人はロックフェラー夫人のキューレーターだから、あなたはすぐに隠れて、と言われました。

 美術批評家もそうでしたが、キューレーターもまた、作家に会うことで、作品への厳選な判断が損なわれることを嫌ったのです。身を隠した私に、オーナーが事情を説明してくれました。

 また、ニューヨークのリンカーンセンターで公演されたメトロポリタンオペラのボックス席に招かれたときのことでした。

 リーンカーンセンターは、ジョン・D・ロックフェラー三世が主軸の一人となって設立された、総合芸術施設で、のちに彼は、リンカーンセンターの会長、名誉会長に就任しました。

 ボックス席は、ロックフェラー家が年間購入したもので、ブランシェット夫人は、チェック柄のスーツ姿で現れました。その前にお目にかかったときと、まったく同じ身なりでした。

 当時、世界一のお金持ちと称されていた一族でしたから、私は、偶然、、続いたのだと思い、お付きの人に、「ミセス・ロックフェラーは、よほどチェック柄のスーツがお気に入りなのですね」と言いました。

 すると、「ミセス・ロックフェラーは、お気に召した洋服は、同じものを二十着ぐらいはお作りになります」。それを聞き、私は、これは話にならない、と思いました。

 高級ブランドを取り替え引き換え着て装うという次元ではない。いつも同じ服、それでかまわなかったのです。自分を見せびらかそうという感覚がない。

 乗せていただいた車もそうでした。型が古く、オールドスタイルと言っていました。しかし、エンジンは最新のものを搭載していました。

 美術家がゆえに、私は、こうした世にも稀な人に会うことができたわけですが、ジョン・D・ロックフェラー三世のご実家は、世界の美しいアートや工芸品に囲まれていたそうです。

 それは、ご自分たちが好きだったということもありますが、子どもたちが物心ついたときから、世界中の「美」に触れていれば、おのずと、その「美」を生み出した文化とその人々に対して、敬愛の念が培われるという、ご両親のジョン・D・ロックフェラー二世とアビー夫妻の教育信念によるものだったそうです。

 美しいものは、多少の好みはありますが、どの国の人も美しいと感じます。そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増えれば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、価値観の違いや自己の利益を第一とした戦争は少なくなっていく。そう考えたのではないかと、私は思います。 』


 『 近ごろ、私の身のまわりでは、欠けたり、はがれたりして、ガタがきている物がポツポツと出てきました。あるじが、思いもかけず長生きしてしまっているのですから、すっかり疲れ果てていまったのでしょう。

 これまで、私は、買うことを目的にして出かけたことは、ほとんどなく、訪ねた先でたまたま出会い、縁があり物を手に入れてきました。そうした物は、物が水先人となって、私を、昔懐かしい人、懐かしい時間へと引き戻してくれます。

 おそらく誰にも、そんな思い出の一つや二つ、あると思います。私は、五歳から親しんできた書を、今でもよく書いていますが、題材にしているのは、自分の好きな古典の歌です。

 そして、昔は、国民的な詩人だった三好達治さんの詩が好きでよく書いていました。有名な詩集「艸千里」は、丸暗記してしまったほどです。三好さんの詩は、古典的な調べなので、古今集を書いているようなリズムで、書けたことも一因でした。

 三好さんに、初めて会ったのは、戦後まもなく、文藝春秋の本社が銀座八丁目にあったときでした。文芸春秋の地下の文春クラブでお茶をしていたところ、ちょうど、三好さんもお茶をしていました。

私が三好さんの詩を好きなことを知った編集者は、すぐその場で引き合わせてくれました。

 しばらくお話をしていると、三好さんが、今日はこれから上野のほうの古道具屋をまわろうと思うから、一緒にいらしゃい、と言って、初めてお会いしたその日に、古道具屋をまわることになりました。

 あるお店で、三好さんが、黒漆の筆箱を見つけて、桃紅さん、これをお買いなさい、と強い口調で言ったので、私は言われるがまま買い、ほかの店では、藍染の文様入りの陶筆を手にして、これは汗ばまないから、と言って、プレゼントしてくれました。

 三好さんは、古道具屋を巡るのはたいへん好きだと言い、ご自分には、好きなお酒を注ぐ伊羅保焼の徳利などを買い、私たちは、日本橋で食事をしてから帰りました。

 また、これはある晩のことでしたが、小料理屋で食事をしていると、お店の柱に胡蝶が止まりました。三好さんは、お店の主人から、品書きを書く経木を一枚もらうと、さっと、俳句を書き付けました。

 秋深し 柱にとまる 胡蝶かな

 六〇年ぐらい前のことでしたが、私の手元にある、筆箱、陶筆、俳句が書かれた経木は、いつでもその日のことを、鮮やかに思い出させてくれます。 』 (第112回)


ブックハンター「英語で味わう名言集」

2016-03-30 15:12:12 | 独学

 112. 英語で味わう名言集  (ロジャー・パルバース著 2011年3月)

 本書は前々回紹介しました「英語で読む啄木」の著者の本です。そこで感じたパルバースは、英語力もさることながら、日本語力には舌を巻くものがあります。英語をより理解するには日本語をより理解する必要があり、言語をより理解するには、文化を理解する必要があります。

 本書はパルバースが選んだ200の名言が書かれています。そのうち70人ほどが日本人のもので、英語にはパルバース自身が翻訳しています。それぞれの名言の出典が巻末に明記されてます。

 ここでも、一つ一つの名言の意味を著者自身が深く理解し、名言の作者の人間的魅力についても言及しています。名言は、日本語であろうと、英語であろうと名言自体に力というか、含蓄が含まれてなければなりません。〔RP〕は、著者 Roger Pulvers が翻訳したことを示します。English : 日本語 は私の蛇足です。

 

 『 Chance  favors  those  who  are  mentally  prepared  for  it.  〔RP〕 原文はフランス語

  好機は心の準備ができている者のもとにやってくる。 (ルイ・パスツール フランスの化学者・細菌学者)

 科学の発見には偶然のチャンスが大きな役割を果たすことを、科学者はほかの誰よりもよく知ってます。でも同時に、そのチャンスが目の前にやってきたとき、それに気づくことができる鋭敏さを持ち合わせていなくてはならないのです。

 ここでの chance は「偶然の幸運、好機」といった意味。本当に幸運な人とは、その幸運が他の誰かのところへ行ってしまう前に、しっかりつかまえられる人のことです。 favor : 好意を示す


 If  you  wish  to  accomplish  something  in  life,  be  honest  to  a  fault.  Oh,  don't  just   let  your  talents  fly.  〔PR〕

 事を成し遂げるのもは、愚直でなければ。あー才ばかり走ってはイカヌ。 (勝海舟 江戸・明治時代の政治家)

 日本語の「愚直」は――似た言葉でもっと親しみやすい「ばか正直」もそうですが――とてもすてきな言葉ですね。英語にはこれに一語で相当する単語はありませんが、ぴったり同じ意味のフレーズならあります。それが honest to a fault です。 accomplish : 成し遂げる


 True  talent  comes  from belief  in  yourself,  in  your  own  power.  〔RP〕 原文はロシア語

 本当の才能は、己自信を信じ、己の力を信じることから生まれる。 (マクシム・ゴーリキー ロシアの作家)

 ゴーリキーの戯曲「どん底」の中の、とあるセリフから取った言葉です。この作品では、 down and out (落ちぶれ、絶望の底にある)な人々が描かれています。

 私たちも down and out なとき、あるいはちょっと down (落ち込んでいる)なとき、この名言が何らかの助けになってくれるかもしれません。


 Ordinary  people  think  merely  of  how  to  spend  their  time.  A  person  of  talent  strives  to  use  it. 〔RP〕 原文はドイツ語

 凡人はただ時間の過ごし方だけを考えるだけだが、才能のある人は時間を使おうと努力する。 (ショーペンハウエル ドイツの哲学者)

 この名言でおもしろのは、時間を「過ごす」(spend)ことと、「使う」(use)ことの対比です。ショーペンハウエルは、時間を過ごすだけではだめだ、有意義に使わなくてはならない、と説いています。strive : 努力する


 I  do  not  know  anyone   who  has  got  to  the  top  without  hard  work.  That  is  the  recipe.  It  will  not  always  get  you  to  the  top,  but  should  get  you  pretty near.

 努力なしに頂点に立った人など、ひとりも知りません。努力こそが秘けつです。努力があれば必ずとは言えませんが、頂点にかなり近づけるはずです。 (マーガレット・サッチャー イギリスの元首相)

 recipe (レシピ)という語が、料理とは何の関係もない文脈で使われていることに注目。これは「秘けつ、やり方」といった意味で、a recipe for disaster (災いのもと)という決まり文句もあります。 』


 『 Luck  is  a   dividend  of  sweat.  The  more  you  sweat,  the  luckier  you  get.

 幸運とは、流した汗に対するボーナスです。汗をかけばかくほど、幸運になるのです。 レイ・クロック(アメリカの企業経営者)

 この名言の中核をなすのは dividend という語です。これは divide (分ける)をいみするラテン語から来た単語。つまり dividend とは、受け取るべき「分け前」のこと。予想していなかった「おまけ、ボーナス」を意味することもあります。


 To  cultivate  bravery,  you  must  endeavor  to  nurture  not  only  the  boldness  to  forge  ahead  but  also  the  calm  courage  to  retreat  and  stand  your  ground.  True  bravery  is  a  combination  of  the  two. 〔RP〕

 勇気を修養する者は進む方の勇ばかりでなく、退いて守る方の沈勇も、またこれを養うように心がけなければならぬ。両者が揃うて真の勇気が成る。 新渡戸稲造(教育者、農学博士)

 これは驚くべき名言ですね。前に進むための強い勇気と、退却するための静かな勇気とを結びつけて表現しています。私も勇気を持って、「勇」を boldness と英訳してみました。

 foge ahead は「どんどん前進する」という意味。 stand your ground は「自分の地位や立場を守る」というニュアンスです。cultivate : 修養する、bravery : 勇気、endeavor : 務める、nurture : 養う、forge : 進める、ahead : 前へ、calm : 穏やかな、courage : 勇気、retreat : 退却


 I  love  the  sky   and  flying   more  then  anything  else  on  earth.   Of  course  there's  danger;  but  a  certain  amount  or  danger  is  essential  to  the  quality  of  life.

 私は、空を飛ぶことを何よりも愛している。もちろん危険はある。しかし、適度な危険は人生を豊かにするのだ。 チャールズ・リンドバーグ(アメリカの飛行家)

 この名言に使われている essential 「不可欠な、必要事項」といった意味になります。


 Everything  that  is  happening  at  this  moment  is  a  result  of  the  choices  you've  made  in  the  past.

 今起きていることはすべて、過去にあなたが行った選択の結果である。 ディーパク・チョプラ(インド出身の医学博士)

 Deepeak Chopra (1946- )インド出身のアメリカの医学博士。心と体の健康を総合的にとらえる医学およびウェルビーイングを提唱。


 Anything  can  be  done,  but  only  if  you  try.  If  nothing's  done,  the  fault  lies  with  you.  〔RP〕

 成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり 上杉鷹山

 この言葉はとても有名ですね。意味をくみ取って思いきって意訳してみました。その際に使った fault という単語をご紹介しましょう。これは「(過失)責任」を表し、 one's fault で「~のせい」という意味になります。 lie : ある

 上杉鷹山(ようざん)(1751~1822)1767年、財政破綻にあった米沢藩(山形県)藩主となる。農村復興、倹約の奨励、藩校の創立など大胆な藩政改革を行う。

 1961年、米国大統領に就任したジョン・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」 ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」という有名な話があります。 』


 『 Life  is  like  riding  a  bicycle.  To  keep  your  balance  you  must  keep  moveing.

 人生は自転車だ。倒れたくなければ走り続けよ。 アルベルト・アインシュタイン (息子への手紙より)

 鋭く、そして楽しいこの名言は、simile (直喩)で始まっています。直喩とは like や as を使って物事をたとえること。この名言でおもしろいのは、最初の文が謎かけになっていることです。

 なぜ人生は自転車に乗ることなのか? それは、こぎ続けなければ倒れてしまうから、とアインシュタインは言います。人生は動きつづけなくてはだめだ、ということです。 keep … balance (バランスを保つ)はよく使われる表現です。


  People  can  say  of  me  what  they  will.  But  the  fact  remains  that  no one  knows  what  makes  me  tick  like  I  do. 〔PR〕

 世の人はわれをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞしる 坂本龍馬

 この魅力的な言葉の英訳には、いくつか興味深い表現を使っています。まずは、say … what they will。これは「好きなことを言う、勝手に言う」という意味です。 the fact remains は「(~という)事実は変わらない」の意味です。

 世の中の人が何を言おうと、自分の信念は変わらない、という強い気持ちを表現するのにこのフレーズを使ってみました。 what makes (someone) tick は、「(人)を動かすもの」。

 tick という動詞には「(時計が)カチカチと音を立てる、時を刻む、時が進む」という意味もあります。龍馬の時代から時は大きく進みましたが、彼の思想やその行動、強烈な個性は、現代の人にも大きな影響を与えています。 tick : 動く


 Trustworthy  managers  should  possess:  first,  honesty;  second,  foesight;  third,  health.  〔RP〕

 信頼できる経営者は、一に誠実、二に先見性、三に健康。 伊夫伎(いぶき)一雄 (1920-2009、元三菱銀行会長)

 確かに、この3つは誰でも持っていたいものですよね。2番目の foresight は、日本語の「先見性」と同じく、先のことを見通す力という意味です。反対語は hindsight 「あと知恵」です。 possess : 〈才能など〉を持つ、trust + worthy 〈人などが〉信頼できる


 Most  mistakes  that  business  leaders  make  arise  from  not  being  willing  to   face  reality  and  then  acting  on  it.

  経営者が犯すミスの大半は、現実を直視しないまま行動を起こすことによる。 ジャック ウェルチ(1935- GEのCEO)

 アメリカの企業家による、なかなか興味深い名言ですね。この face は「直面する」という意味。 face reality で「現実を直視する」という意味です。 arise : 起る、willing : …するのをいとわない


 Keep  your  head   low  and  your  antenna  high.  〔RP〕

 アタマは低く、アンテナは高く。 鈴木三郎助 (1922~ 味の素名誉会長)

 なんたる簡潔さでしょう! 』


 『 Business  is  not  about  what  you  have  to  do  to  sell  product,  but  about  what  you  can  do  to  give  customers  satisfaction  and  joy.  〔RP〕

 事業の原点は、どうしたら売れるかではなく、どうしたら喜んで買ってもらえるかである。 松下幸之助

 松下幸之助は「経営の神様」と呼ばれます。理由は、この名言を見れば明らかですね。 satisfaction は「満足」という意味の名詞。


 Never  tell  people  how  to  do  things.  Tell  them  what  to  do  and  they  will   surprise  you  with  their  ingenuity.

 いかにすべきかではなく、何をすべきかを伝えよ。そうすれば、人は驚くべき才能を示す。  ジョージ・パットン(アメリカの軍人)

 ingenuity とは「巧妙さ、精巧さ」といった意味。ジョージ・パットン(1885~1945)勇猛果敢な性格で戦術に優れ、第二次大戦でアフリカ上陸、シチリア島侵攻、ノルマンディー上陸作戦でも功績を残した。


 Whenever  an   individual  or  a  business  decides  that  success  has  been  attained,  progress  stops.

 個人であれ、企業であれ、成功を手にしたと思った瞬間に進歩は止まるのです。 トーマス・ワトソン(1874~1956) IBMを世界企業に成長させた

 偉大な企業家による、優れた名言です。営業マンからビジネスの階段を駆け上がったワトソンは、self-made man (たたき上げの男)と呼ばれています。attein sucess は「成功を手にする」。 attain は get  と同じく「手に入れる、獲得する」という意味です。 individual : 個人


 Have  the  will  to  become  number  one  in  the  world  in  the  field  of  work  you've  been  given.  〔RP〕

 与えられた仕事の分野では、世界一になるんだという意気込みを持て。 賀来龍三郎(1926~2001)キャノンを世界的企業に成長させた。

 「意気込み」をそのまま英語にすれば、ardor や enthusiasm (どちらも「情熱、熱意」という意味)になるでしょう。しかし、この名言で賀来龍三郎が伝えたいのは、単なる情熱ではなく、成功をつかむんだという強い意志ではないか――そう思って、私は will (意志)という語で訳してみました。


 One  of  the  great  discoveries  a  man  makes,  one  of  his  great  surprises,  is  to  find  he  can  do  what  he  was  afraid  he  couldn't  do.

 ひとりの人間にとっての最大の発見、最大の驚きは、自分にはできないと思っていたことが実はできるのだ、と知ることである。 ヘンリー・フォード(1896~1947) T型フォード車を開発

 この名言のポイントは、he was afraid he couldn't do というフレーズです。 afraid は「恐れて」という意味ですが、この場合は「恐怖」ではなく、自信がなくてたじろいでいる、ということです。

 ヘンリー・フォードは self-discovery (自己発見)を、まるで科学やテクノロジーの大発見、大発明と同じように語っています。 』


 『 Virtue  is  a  kind  of  health,  beauty  and  good  habit  of  the  soul.

 徳とは一種の健康であり、美であり、魂のよいあり方である。 プラトン(古代ギリシャの哲学者)

 これはすてきな言葉ですね。英知にあふれるこの古い名言以上に真実を表した言葉はないのではないでしょうか。 virtue : 美徳


 For  attractive  lips,  speak  words  of  kindness.  For  lovely  eyes,  seek  out  the  good  in  people. 

 魅力的な唇を手に入れるためには、優しい言葉を話すこと。美しい瞳を手に入れるためには、相手の長所を探すこと。サム・レヴェンソン(アメリカの作家) ("Time-Tested Beauty Tips")より

 この本で紹介している名言の中でも、一、二を争う美しい言葉かもしれません。女優オードリー・ヘプバーンが愛したことで知られる詩の一節です。

 ポイントとなるのは attractive と lovely という2つの単語。 attractive は attract (魅了する)という動詞の形容詞形で、人を磁石(magnet)みたいに引き付けてしまうパワーがある、というニュアンスです。


 There's  a  way  to  do  it  beter ----find  it.

 もっとよい方法があるはずだ。それを見つけなさい。 トーマス・エジソン

 最後に出てくる命令形の find it により、とても力強い名言になっています。まるでエジソンが、私たちにアドバイスではなく命令を下しているかのようですね。 good の比較級 better の使い方も気が利いています。


 Making  the  simple  complicated  is  commonplace.  Making  the  complicated  simple ―― awesomely  simple ―― that's  creativity.

 単純なものを複雑にするのは、ごく普通のことだ。 複雑なものを単純に――とてつもなく単純に――すること、それこそ創造というものだ。 チャールズ・ミンガス(アメリカのジャズ演奏家)

 まるでチャールズ・ミンガス自身のジャズのように、とてもリズムのある名言です。 awesomely という語の使い方がおもしろいですね。これは awe という、短いけれど複雑な意味を持つ単語からきています。

  awe には「驚き、感嘆」のほかに、「恐れ、畏怖」といった意味もあります。この後者の意味から、awful (恐ろしい)という語がうまれました。

 形容詞 awesome も、もともとは畏敬の念を表す語でしたが、最近は180度違う「すてきな、かっこういい、すげぇ」という意味で広く使われるようになっています。 complicate : 複雑にする、commonplace : 平凡な


 It  is  not  knowledge,  but  the  means  of  gaining  knowledge  which  I  have  to  teach.

 教えるべきは知識ではない。知識を得る方法だ。  トーマス・アーノルド(イギリスの教育者)

 根っからの教育者だったトーマス・アーノルドの言葉です。本物の教育とは一生涯続くものであることを、彼はわかっていました。 means は「手段」という意味。 』


 『 There  is  no  shame  in  not  knowing.  Not  making  the  effort  to  know:  That's  a  shame.   〔RP〕 

 知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である。 澤柳政太郎 (教育者、成城学園創立者 「学修法」より)

 英語版ぼ最後の3語、That's a shame. には「それは恥である」と「それはもったいない」という2つの意味があります。もともとの日本語版には「もったいない」の意味はありません。これはちょっとした偶然ですが、翻訳によって新たな意味が生まれることもあります。 effort : 努力


 All  people,  whether  clever  or  not,  possess  a  strong  point  or  two.  By  combining  these,  they  can  accomplish  great  things.  〔RP〕

  世の中には賢い人も愚かな人もいるが、それぞれ1つ2つは才能をもっている。それらを統合し事にあたれば、必ず成し遂げられる。 吉田松陰 (幕末の思想家、教育者)

 吉田松陰は、相手がどんな能力を持っているか、ぱっと見抜くことができる才能の持ち主でした。教師になろうとするひとには、きっとこうした能力が大切でしょうね。

 この名言における「才能」を、私は strong point と表現しました。 possess : (才能などを)持っている


 We  are  becoming  the  servants  in  thought,  as  in  action,  of  the  machine  we  have  created  to  serve  us.

  今や人間は自分の召し使いとして生み出した仕組みの召し使いである。思考も、行動も。 ジョン・ケネス・ガルブレイス(アメリカの経済学者)

 ここで言う machine とは、経済という名の巨大で無常な機械のこと。経済は人間のためにあるべきであり、人間が経済に隷属してはならないのだ、ということです。 serve はこの場合、「仕える、~のために働く」という意味です。

 同じ著書( The new industrial state )の中で、ガルブレイスはこうもいって言っています。

 What  counts  is  not  the  quantity  of  our  goods  but  the  quality  of  life.

 肝心なのは私たちの持ち物の量ではなく、生活の質でる。

 ガルブレイスは人間を重要視し、人々のニーズを最優先した経済学者だったのです。


 Being  rich  does  not  mean  having  lots  of  money,  but  having  an  amount  you  consider  enough.  Being  poor  is  not  lacking  in  money,  but  considering  what  you  have  not  enough.  〔RP〕

 (金持ち)とはお金がたくさんあることではなく、これ以上お金は必要ないと思っている人のことである。(貧乏人)とはお金がないということではなく、お金があってもまだ足りないと思っている人のことである。 久保博正(1938-)作家

 これは relativity (相対性理論)をお金に当てはめたもの。 rich か poor かは、自分の見方とその使い方によって変わるのかもしれません。


  With  nobler  desires,  greater  earnestness  and  wider  sympathy  not  limited  to  just  a  few  …  the  weakest  of  us  may  attain  success.

 高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。 津田梅子 (津田塾大学創立者)

 子ども時代のほとんどをアメリカで過ごした津田梅子は、女性の地位向上のために人生をささげました。彼女はここで、日本の若い女性にアドバイスと励ましと希望を与え、成功を手にするにはどうすればいいかを教えています。

 自己実現を果たし、成功を手にできる一番の方法は、他人へ心を開くことなのだと、彼女は説いているのです。この名言にはいくつもの形容詞が出てきますが、 noble、great、wide は -er で終る比較級、そして最後の weak は -est で終る最上級になっています。

 この3つの -er と1つの -est が作り出すリズムがすばらしいですね。梅子の英語はやや古めかしいスタイルですが、たとえば not limited to just a few (少数の人だけでなく)というフレーズは、現代の私たちでも十分使えます。

 彼女はこれを、日本の女性たちに「視野を広げてほしい」という意味で使っています。 』 (第111回)

 


ブックハンター「内山晟の五大陸どうぶつ写遊録」

2016-03-20 12:31:49 | 独学

 111. 内山晟の五大陸どうぶつ写遊録  (内山晟(あきら)著  2009年7月)

 『 一四歳の時、野鳥に興味を持ち、なけなしの小遣いをはたいて「原色野鳥ガイド」を買った。高校時代には、周はじめの写真集「カラスの四季」 「滅びゆく野鳥」などを貪り読んだ。

 動物の写真を撮りたいと思うようになったのはこの頃だった。でも、写真で食べられるようになるとは考えてもみなかった。大学時代、アルバイトで貯めた金で500ミリの望遠レンズを買い、「白サギ」の写真家・田中徳太郎先生に弟子入りした。

 そして大学四年の時に瓢湖で撮ったハクチョウの写真が子供向けの雑誌に採用され、完全にその気になった。二三歳の時である。その後、日本の野鳥と動物園の動物を撮り回るうち、ついに海外取材のチャンスが訪れた。

 一九六九年一二月、ガラパゴスに向けて飛びたった。一ドルが三六〇円、五〇〇ドルしか持ちだせない時代だった。その写真が、本格的な動物写真家として歩き出すきっかけになったのである

 以来、カメラの向くまま、気の向くまま、動物を求めて五大陸を飛び回り、気がつけば四〇年がたっていた……。 』 (”はじめに”より)


 本書は、著者の四十年にわたって世界を旅して撮った動物たちの写真集です。そして、その一枚の写真を撮るための旅のお話です。ここでは、その中から南極にいるコウテイペンギンをとるために出かけた南極への旅の話を紹介いたします。躍動する動物たちの写真はここでは、紹介できませんが、それにまつわる旅の話を読んだ後に、それらの写真を見るといっそう感懐深いものになると思います。


 『 私の事務所を訪れる編集者は「氷上にいるペンギン」を求めていた。世界に存在するペンギンは十八種類、その中で南極にいるペンギンはアデリーペンギンとコウテイペンギンだけだ。

 それも、氷の上で繁殖するのはコウテイペンギンだけだと言っても、彼らは納得しなかった。そのうち私自身もコウテイペンギンを見たいという思いが、日に日に強くなっていった。

 一九九七年一二月、南アフリカ共和国の港町ポートエリザベスへ飛んだ。そこから船でインド洋を越えて南極のコウテイペンギンのコロニーのうち三つを訪ね、オーストラリアのパースで終る、三二日間の船旅だった。

 私にとって四度目の南極取材だが、「皇帝」に謁見しにいくのは、実は初めてだった。出港して二日もすると、甲板に出ているのも辛いほど寒くなった。

 南緯四六度~四九度に位置する、ロイヤルペンギンやオウサマペンギンのコロニーがあることで有名なクロゼ島やケルゲレン島に寄る頃には、あまりに乾燥している空気に喉が痛んだ。

 ダイニングルームからレモンのエキスや蜂蜜を盗んできて飲むものの、一向に改善されず、南極の本番を思うと不安が募った。暴風圏に突入した時の船の揺れは、それまで体験したことのないほどのものだった。

部屋の椅子は鎖で床に固定されていたが、座っていても吹っ飛ばされた。寝ている時も、ベットの縁にしがみついていないとベットから放り出された。裸で寝ていて、落ちた途端に絨毯で膝を擦りむいたりもした。

 それでも三度三度の食事にはダイニングルームに出かけた。そんな時だから、出てきたのは、九〇人を超える乗客の中でも三割もいなかったと思う。テーブルクロスには水がかけられていた。こうすると器が滑っていかないのだった。

通路を歩くにもコツがあった。坂道を歩く要領で足を踏みしめていないと、つんのめったりひっくり返ったりしていまう。これに左右の揺れが加わるのだから、想像を絶する体力が必要なのであった。

 あまりの揺れの凄まじさに、腰を痛める者が出始めた。私も例外ではなかった。こんなこともあろうと、塗り薬と湿布薬をもっていたが、その噂が船の上を駆け巡り、何人もが私の部屋にやってきた。

 たいていの場合、患部に貼るようにと言って湿布薬を渡していたのだが、一人ドイツ人の若い女性には、親切な私だから、彼女の腰に手ずから貼ってやったのはいうまでもない――。 』


 『 何日も続いた揺れもようやくおさまり、我々を乗せた砕氷船は、流氷をかきわけながら氷原に入った。それまで乗ったことのある船は普通の客船ばかりだったから、初めて乗った砕氷船は、何か頼もしい気持ちがした。

 見渡す限りの氷の海に入り込むのも初めてだった。とうとう南極に着いたのだ。翌日、いよいよコウテイペンギンのコロニーに行くことになった。船に積んできた二台のヘリコプターが、何往復もして、乗客たちを船からコウテイペンギンの繁殖地のある内陸部に運ぶ。

 ヘリコプターに乗り込むのはABC順だからUchiyama は最後の方だった。防寒具に身を包んで機材を背負い、橇を片手に甲板でひたすら待つしかなかった。

 しかし、三〇分あまりの飛行中、ヘリコプターから見下ろす景色は想像を絶するものだった。白一色の中にそびえる巨大な氷山を見つめていると、感激で涙が込み上げてきてならなかった。人目もはばからず、おいおいと声を上げて泣いた。

 ヘリコプターがクロア・ポイント・コロニーに降り立つと、一〇羽ばかりのコウテイペンギンが出迎えに現われた。憧れに憧れた皇帝に謁見するような気持ちで、またまた涙があふれた。

 こんな感激を味わえる自分は幸せだと心から思ったし、この時ほど、この仕事に就いたことに誇りを感じたことはなかった。巨大な氷山の下にはたくさんのコウテイペンギンがいた。

 私は親の足下にいる小さなヒナを探しまわったが、残念なことに皆大きくなっていた。ガイドに聞くと、「別のコロニーにいるかも。メイビー(たぶん)」という返事が返ってくるだけだった。

 最終のヘリコプターが出るギリギリまで探しまわった。白夜とはいえ、太陽が地平線に近くなるときの寒さは尋常ではない。私の失望感に追い討ちをかけるように、寒風が吹き荒れた。

 結局その旅の間、ヘリコプターで南極大陸に上陸したのは四回だけだった。訪ねるコロニーのどこにも小さなヒナはおらず、綿毛から換毛した親離れ直前のものが多かった。

 一二月では遅過ぎたのを知った。南極の雰囲気を堪能し、コウテイペンギンをひと目見るだけで満足している人が大多数を占める中、しょんぼりしているのは私だけだった。

 大陸を離れた船では、往路催されたパーティーや楽しい催しはなくなり、ただひたすら航海するだけだった。いつしか氷山も見えなくなった。そうして帰り着いたオーストラリアのパースは異常な暑さだった。

 旅の間親しんだ人たちとの別れは、信じられないほどにあっけなく、私は疲れと、小さなヒナの写真を撮れなかったという虚しさだけが残ったのだった。 』


 『 その後、日本で悶々とした日々を送っていた私に、アメリカのコロラド州ボルダ―で旅行社を経営する友人から、面白い旅が見つかったとの知らせが届いた。一九九八年の真夏のことである。

 料金はそれまでの船旅よりもかなり高いものだったが、コウテイペンギンへの思いはますます募っていたので、老後のための蓄えを吐き出すことに躊躇はなかった。

 一〇月下旬、チリの最南端の港町プタンアレナスへ飛んだ。同行者はアメリカやドイツ、オランダなど様々な国から集まった十数人。コウテイペンギンの写真を撮る者、南極の最高峰を目指す者などである。

 ここから輸送機に乗り、まずは南緯八〇度、南極点から一〇七八キロの地点にあるベースキャンプへ飛ぶ。さらに軽飛行機に乗り換えてコウテイペンギンのコロニーへ向かい、一〇日間のキャンプ生活をするというツアーだった。

 飛行機は車輪のまま氷の上に着陸するため、南極の天気がよく無風でなければ出発できない。その日を皆、ただひたすら待った。日本から三日かけて来た私にとって、一日や二日は時差ぼけ解消にちょうどよかったが、三日もたつと焦燥感が募ってきた。

 遅くなればなるほどヒナが大きくなってしまう恐れがあったからだ。ましてやここでの滞在費は自前なので、余計に身の細る思いがした。待ち続けること一週間、その朝、ようやく「天気回復、夕方空港集合」の知らせが届いた。

 機内に預ける荷物は二〇キロまでは無料だが、オーバーしたものについては一キロにつき六〇ドル払わなければならない。ただし、なぜか寝袋はその限りではないというので、重いレンズや三脚は寝袋の中に巧みに隠した。

 防寒具はできる限り着こみ、首にはカメラを吊って、ポケットや防寒靴の隙間にはバッテリーやフイルムを押し込んだ。誰もが着膨れした格好をして顔を見合わせ、ニヤリと目配せをし合った。皆、計量したら二〇キロ以内だったのだ。

 ハーキュリーという名の四発プロペラの輸送機は、中は骨組みもむき出しで防音装置も何もない。後ろ半分は荷物が山済みされ、トイレはカーテンで囲われているだけだった。

 防寒具を脱いでホッとしたのも束の間、配られた耳栓をつけていても、爆音の凄まじさにみな驚かされた。夜中に飛び立った飛行機は、一寝入りして見下ろすと、白一色の世界に飛んでいた。 』


 『 ベースキャンプは、ダイニングルームとなる大きなテントと、いくつかの二人用のテントで構成されていた。寒かった。寒暖計は氷点下二〇度を指していた。

 トイレは、男子の小便用はブルキの漏斗がついたドラム缶が置いてあるだけ。女性用は狭い小屋のバケツでしたものをドラム缶にいれる。大便のほうは、一応ドアの付いた囲いがあり、便座を付けた大きなバケツで用を足し、丈夫なビニール袋に溜める仕組みになっていた。

 南極条約により、出したものはすべて本土に持ち帰るきまりなのだ。寝ている時にトイレに行くのは大変だった。狭い空間で防寒具を着て防寒靴を履くのは面倒で、ついギリギリまで我慢するのでなおさらだった。

 テントの中でおしっこをするためのピー・ボルトを配られたいたが、一人だったらいざ知らず、他人がいる空間でははばかれた。風の強い日にドラム缶の穴を目がけておしっこをしたら、飛沫になってズボンにまつわりついたがすぐに凍っていった。

 食事は、決められた時間内で三々五々、ダイニングルームのテントに集まった。暖房用のストーブがあるが、床は凍りついていた。夕食にはテーブルごとに箱詰めの赤白のワインが出た。

 私は吞兵衛のあまりいないテーブルを選んで座ることにしていた。そのほうが量が飲めるからだ。極地での活動を支えるため、食事は見た目にもカロリーの高いものだったが、それでも腹が減り、人一倍飲んで食った。

 日本に帰って体重を量ってみたら、三キロ以上減っていた。あれだけ好きなように飲み食いしても体重が減るのだから、南極の旅は「究極のダイエットツアー」なのである。

 本来、それは本土を発ってから一〇日間のツアーのはずだった。しかし、一〇日を過ぎても一行はまだ、ベースキャンプで待機していた。

 そこから我々を乗せて飛び立つ予定の双発の飛行機は、車輪の代りに橇をはいているとはいえ、出発地と到着地両方の天候が良くなければ飛び立つことができないのだ。数年前、天候が好転せずに行けなかったことがあると聞くと、不安にさいなまれた。

 客の中にアメリカ人の外科医がいたのだが、このままコロニーに行ったら11月中旬に予約された癌の手術に間に合わないといって、泣く泣く次の便で帰ることになってしまった。でも、その便がいつ本土から来るかさえ、誰にもわからないのだ。

 ある日の一七時、突然出発すると知らされた。出発はいつも「突然」なのだ。テントをたたみ、寝袋をまるめ、撮影機材を持って飛行機に飛び乗った。

 極地の天候は変わりやすいから、このチャンスを逃すと次はいつ出発できるかわからない。一緒に行けないドクターは寂しげに我々を見送ってくれたが、その時の私には同情する気持ちの余裕はなかったように思う。 』


 『 パイロットや整備士、ガイドを含めた総勢一四人の一行が南緯七六度三〇分西経二九度にあるドーソン・ランプトン・コロニーに降り立ったのは、午前一時だった。

 飛行機が停まるとすぐに数十羽のコウテイペンギンが集まってきた。歓迎を表明するためか、はたまた単なるミーハー的野次馬か。真夜中というのに誰も眠いと言わず、テントの設営は後回しにして、二キロ離れたコロニーへと先を競うように向かった。

 私は今回も、まだ親ペンギンの足の甲の上にいるような小さなヒナをひたすら探しまわった。今度こそ、何としてでも、そんなヒナを撮るつもりだったのだ。

 ほとんどが三〇センチほどの大きさに育っていたのだが、ようやく一羽見つけた時にはとてつもなく嬉しかった。と同時にホッとした。それからは、氷点下二〇度の寒さの中、ペンギン三昧の生活が始まった。

 白夜だったから、昼夜関係なく好きな時に食べ、好きな時に寝て、それ以外はひたすらコロニーでペンギンと向き合った。腹這いになって糞にまみれながらペンギンの側にいるのが、何よりも楽しかった。

 ひとたびブリザードに見舞われれば、五、六メートル先も見えなくなった。帰り道を見失うといけないので、目印に旗のついたポールを立てながら進んだ。

 フィルムが割れるような寒さの中で、暖をとるために身を寄せ合い、大きな一つの塊となっているヒナたちを撮った。一週間もたつと食料が尽き始めた。パンも卵もなくなった。パンケーキにビスケット、硬いチーズを削って、お茶を飲んで飢えを凌いだ。

 辛かったのはトイレだ。ベースキャンプでは少なくとも囲いがあったが、ここでは吹きさらしだった。防寒具を脱ぎ、尻を出すのが面倒だった。

 面倒だからと行かなかったため、便秘になって大騒ぎをするはめになったのは私だけではない。時には好奇心の旺盛なペンギンが覗きに来るのにも困った。

 南極では氷を溶かして水を作るので、水は貴重品だ。顔も洗わないでいたある日、鏡を見たら、寒さと乾燥で皮が剝けてぼろぼろになった汚い顔が映り、我ながらゾッとしたのだった。 』


 『 滞在予定日の終わりが過ぎても天候が悪く、そのうえフィルムも底をついたのか、誰もがテントから出てこなくなった。かといって、一人でコロニーに行くのは危険だ。

 写真を撮れずに悶々としていた夕方、晴れ間が見えた時にまたしても突然出発することになった。帰れると聞き、皆勢いよくテントから飛び出してきた。

 狭いテント生活と乏しい食糧にウンザリしていたのだ。荷物をすべて積み込み、発つ間際にまた雲が出てきた。間一髪、危ないところだった。

 ベースキャンプに辿り着くや、吞兵衛の私はワイン片手に餓鬼のように食べまくった。何を食べても美味しかった。しかし本土からの迎えの便はいつ着くとも知れない。再びひたすら待つ日が続いた。

 白夜の世界でもう朝だか夜だかわからなくなったある日、飛行機が本土を飛び立ったという報が入った。ダイニングルームのテントの中にワッと歓声が上がり、誰からともなくワインで乾杯が始まった。数時間後、爆音が聞こえるや皆一斉に飛行場へと走った。もう待ちきれなかったのだ。

 三週間ぶりにプンタアレナスのホテルに帰った途端、「すぐに部屋に入って!」と怒鳴られた。改めて着ているものを見たら、ペンギンの糞だらけで強烈な臭いも発していたのだ。

 部屋に入るやすぐに裸になって風呂に飛び込んだ。三週間着たきりだった下着からもひどい臭いがした。シャンプーは全く泡立たず、水も黒く濁った。バスタブの水を取り替えること三度、ようやく澄んだお湯にのんびり浸かることができたのだった。

 長くても二週間で終るはずだった旅は、結局四週間になった。小さなコウテイペンギンのヒナをこの目で見るという夢は、五度目の南極取材にしてようやく夢は叶ったのだ。この旅は、今でも私の誇りである。 』 


 本書は写遊録とありますように、写真家としての仕事であり、究極の遊びの記録です。南極で撮った氷山とコウテイペンギンの群れと青空の写真は美しいものです。船で南極に行くには、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を通らなければなりません。

 チリの最南端から飛行機で行っても、気象条件が整わなければ、出発できません。真夏でもマイナス20度の中で、小便と大便をしなければならず、迎えの飛行機が来なければ、帰ることもできません。

 遊びも究極になるとある種のぎょう(修行)を乗り越えなければ、すばらしい遊びの世界には到達することは、出来ないのではないかと感じました。(第110回)


ブックハンター「英語で読む啄木」 (後)

2016-03-16 20:47:26 | 独学

  110. 英語で読む啄木 (後) 〔自己の幻想〕  (ロジャー・パルバース著 2015年4月)


 私も啄木の歌集「一握の砂」を40年ほど前に、読んでいるはずですが、今回のように日本語と英語で啄木の歌を読んでみますと、百年の時を超えて、訳者を介して詩の感動が伝わってきました。

 最初の目的は、英語を学ぶために効果があればと考えましたが、私たち日本人が啄木短歌の感動を知らないのは、もったいないと思い、もう20首ほど紹介します。


 『  THREE-STORY  BUILDING 

 A  spring  snow                   春の雪

 Is  falling  gently  against  bricks        銀座の裏の三階の煉瓦造に

 On  a  Ginza  backstreet.             やわらかに降る


 啄木の短歌の一部は明治末期をリアルに描いています。この短歌も写生画のひとつです。当時、銀座の裏通りにあった「高層ビル」の描写は、その時代を生き生きとよみがえらせ、柔らかくて白い雪と硬い赤い煉瓦の対照はとても啄木的です。


  ON  A  TRAIN

 I  glimpsed  out  the  window  on  a  rainy  night       ふと見れば

 To  catch  the  clock  at  a  station                 とある林の停車場の時計とまれり

 Stopped  in  the  woods.                       雨の夜の汽車 

 

 まるで「銀河鉄道の夜」に出てくる小さな場面のようなこの短歌を賢治は知っていたのでしょう。汽車が森の中の駅を通り過ぎようとしているのに、時計が止まっているイメージは、賢治の創作のひらめきになったものだと感じました。


  MY  HOME  TOWN

 I  face  the  mountains              ふるさとの山に向いて

 speechless.                     言うことなし 

 I  owe  those  mountains  everything.    ふるさとの山はありがたきかな


 「言うことなし」は彼が故郷に感じている気持ちをとても生き生きと描写しています。「ありがたき」は grateful または thankful と訳してもいいかもしれませんが、ここでは適切ではありません。啄木の故郷への反応はもっと絶対的です。ふるさとの山が存在しなければ、創造力のある人間になることはできなかった……少なくとも彼はそう信じていたでしょう。 owe : のおかげをこうむる


  WITHOUT  A  THOUGHT

 I  hopped  onto  a  train              何となく汽車に乗りたく思いしのみ

 But  jumped  off  at  a  station          汽車を下りしに

 Unable  to  move  backward  or  forward.  ゆくところなし


 hopped onto (乗りこんだ)と jumped off (飛び下りた)といった言葉は、何も考えずに取った行動が衝動的だったことを強調しています。


  NEVER  FAR

 I  miss  the  mountains  of  Shibutami.       かにかくに渋民村は恋しかり

 I  miss  the  rivers  of   Shibutami.          おもいでの山

 They  ara  never  far  from  my  mind.        おもいでの川


 渋民にかんするもう一編の有名な短歌。「恋しかり」を never far from my mind (こころから決して離れてない)と訳し、詩を NEVER FAR (決して遠くない)と名づけました。これらの言葉は、彼の心は渋民を離れたことがなかったことを暗示してます。


  RAIN

 The  rain  in  the  capital  conjures            馬鈴薯のうす紫の花に降る

 The  rain  that  falls  equally                 雨を思えり

 On  the  pale  purple  potato  flowers  of  home.   都の雨に


 雨は、彼のいる東京と、自分の心のよりどころである渋民を物理的につなぐものです。 』


 『 BELIEF

 I  believe  in  the   new  age.       新しき明日の来るを信ずという

 My  belief  and  my  word        自分の言葉に

 Are  one …  yet.              嘘はなけれど―――


 この短歌のニュアンスは「なけれど」(英語の場合は yet )から来ています。ですが、この yet には二つの意味があります。ひとつは「けれど」に近く、もうひとつは「今までのところ」に似ています。それはタイトルの単語 belief によって補強されています。


  LABOR

 However  long  I  work         はたらけど

 Life  remains  a  trial.          はたらけど猶わが生活楽にならざり

 I  just  stare  into  my  palms.     じっと手を見る


 この有名な短歌は、労働者の生活に関する啄木の代表的な発言のひとつです。彼にとって生きることは trial (苦難)です。生きることを単に hard または not easy というのではなく、慎重にこの英語を選びました。人生は、「どうするのですか」と問われる trial (裁判、試練)でもあるのです。啄木の答えはただ自分の手を見つめて状況を省みるだけのようです。


  A  FAIND

 I  slipped  my  hand  into  a  sand  dune.     いたく錆びしピストル出でぬ

 As  I  dug  in  my  fungers  touched        砂山の

 A  pistol  crusted  in  rust.               砂を指もて掘りてありしに


 ここでは、ドラマが読者の心に残ります――この次、彼は何をするのでしょうか? dune : 砂の小山 crust : 堅い外皮で覆う


  FUMES

 It  gaves   me  no  joy  to  turn  my  gaze             新しきインクの匂い

 To  my  garden  turning  green                   目に沁むもかなしや

 While  my  eyes  sting  from  the  fumes  of  fresh  ink.   いつか庭の青めり


 「かなしや」を it gives me no joy と訳すことにしました。もっとも良い訳はときおり文法的には反対になります。賢治の「雨ニモマケズ」でも同じことをして strong in the rain と訳しました。これは興味深い短歌です。啄木が新しいインクで書くことに意欲満々なのは明らかです。「突然」咲き出した庭、あるいは原稿用紙のどちらを見るべきなのでしょうか。 fume : 刺激臭


  MY  PULSE

 The  nurse's  fingers  on  my  pulse      脈をとる看護婦の手の

 Feel  warm  some  days             あたたかき日あり

 And  some  days  cold  and  stiff.       つめたく堅き日もあり


 療養中は、過ぎていく時間の感覚が鈍くなります。何か聞こえてもその意味はわかりません。一方、看護婦のような人にさわられると、そのさわり方と「意味」に敏感になります。


  COMING  TO

 Affection  for  my  wife  and  daughter       病院に来て

 Visiting  the  hospital                  妻や子をいつくしむ

 Has  brought  me  back  to  myself.         まことの我にかえりけるかな

 「我にかえり」と完全に一致するのは bring back to oneself、あるいは come back to oneself です。啄木が深く落ち込むときに、自分は自分でないとはっきりと意識していることをあらわしています。

 

  MY  THOUGHTS  AGAIN

 The  pain  in  my  chest  today  is  intense.     今日もまた胸に痛みあり

 If  I  am  to  die  let  me  go  and  die         死ぬならば

 In  my  old  home  town.                 ふるさとに行きて死なんと思う


 岩手にある啄木の故郷に関連した有名な短歌。啄木はそこで死にたいのですが、結局、彼が死んだのは東京でした。実行できないかもしれないアイデアについて、啄木はふたたび書いています。 』


 『 THE  RAIN

 When  did  summer  come  upon  us     いつしかに夏となれりけり

 With  the  comfort  for  faint  eyes       やみあがりの目にこころよき

 Of  radiant  rain?                  雨の明るさ!


 ふつう、夏雨は目にまぶしいものです。長い間、病院の暗い部屋になれている目にはとくにそうです。時に東京の雨季に暗い空はつきものです。まぶしさは啄木に安らぎを与えます。だって、もうひと夏、生き延びることができたのですから。


  IN  BED

 The  weight  alone  of  this  book       寝つつ読む本の重さに

 Exhausts  me,  sending  my  mind      つかれたる

 In  all  directions.                 手を休めては物を思えリ


  SAND

 How  easily  this  pathetic  lifeless  sand     いのちなき砂のかなしさよ

 Slips  between  the  fingers              さらさらと

 Of  a  fist!                         握れば指のあいだより落つ

  

 pathetic は「苦痛」を意味するギリシャ語の pathos に由来します。悲しみと哀れみの両方を連想させる性質が pathos にはあります。「握る」ときの手の力を強調するために fist (拳骨、握りこぶし)を選びました。


  ONE  MORNING

 The  smell  of  simmering  miso            ある朝のかなしき夢のさめぎわに

 Entered  my  nostrils  just  before  awakening   鼻に入り来し

 From  a  sad  dream.                    味噌を煮る香よ


 翻訳の最初の一行には smell (匂い)、simmering (とろ火でグツグツ煮えること)といった頭韻があり、m と s を含む miso という言葉の音は、その効果を上げています。この行とその音は空気中にただよう匂いのイメージをかもし出します。みそは今、多くの国で食べられているので、その言葉はそのままにしました。


  THE  JAPANESE  ISLE

 Tears  stream  down  my  cheeks        東海の小島の磯の白砂に

 Into  the  coarse  white  sand           われ泣きぬれて

 And  I  amuse  myself  with  a  crab.      蟹とたわむる


 啄木の孤独感と孤立感を表現する、やはり有名な短歌です。coarse white sand に coarse を選んだ理由は、それが磯を意味するだけではなく「きめの粗い」という意味があるからです。「たわむる」の場合、彼の孤独と自分に固執することを強調する amuse myself (おもしろがる、楽しむ、自らを慰める・惑わす)のほうが play with (遊ぶ)よりもいいと思いました。


  FOR  NEARLY  HALF  A  DAY

 I  picked  at  the  hard  bark  on  the  tall  tree     大木の幹に耳あて

 With  my  fingertips                      小半日

 My  ear  flush  against  the  trunk.            堅き皮をばむしりてありき


 かたい樹皮と柔らかい皮膚の対照、そして高い木と小さな耳の対照的なスケールにはっとさせられます。これは生きることのつらさのメタファーでしょうか。賢治には自然からのあらゆる種類の音、音楽さえも聞こえていました。啄木はここで自然からメッセージを受け取ろうとしているのでしょうか。しかし自然は何のメッセージを発することもありません。啄木のことを「二十世紀最初の実存主義詩人」と呼ぶことができるでしょう。


  DRIFTWOOD

 I  look  around  before  addressing       砂山の裾によこたわる流木に

 The  driftwood  left  at  the  edge        あたり見まわし

 Of  a  sand  dune.                  物言いてみる


 to address という動詞はここで展開されている二つの意味があります。ひとつは「話しかける」、もうひとつは「(物・事)に焦点をあてる」です。啄木は、「流れる(drift)」木のように、状況によってあちこち運ばれるモノとして自分を見ているのです。 』 


 啄木は、結核と戦い、貧しさと戦い、有り余る才能(情熱)と戦って、二十六歳の若さで亡くなりましたが、そのおかげで、百年の歳月を経ても、英語に翻訳しても、世界の人々に感動を与えることができます。

 啄木にもう少し楽な人生を歩んで欲しかったと思いますが、そうであったらこのような詩の輝きは、生まれていないのでは……。今回は自分の英語力不足は無論ですが、自分の日本語力不足までも痛感しました。(第109回)



ブックハンター「英語で読む啄木」 (前)

2016-03-14 10:19:09 | 独学

109. 英語で読む啄木 〔自己の幻想〕(前)   (ロジャー・パルバース著 2015年4月)

 著者のロジャー・パルバース(Roger Pulvers)は、1944年にニューヨークでユダヤ人の家庭に生まれる。UCLA、ハーバード大学院に学ぶ。ベトナム戦争への反発から、ワルシャワ大学、パリ大学へ留学後、1967年に初来日。京都産業大学、オーストラリア国立大学、東京工業大学で教鞭をとり、作家、劇作家、演出家。

 著書に「英語で読む銀河鉄道の夜」、「英語で読む桜の森の満開の下」、「英語で読み解く賢治の世界」、「旅する帽子 小説ラフカディオ・ハーン」など多数。2008年、宮沢賢治賞、2013年野間文藝翻訳賞を受賞。


 『 長い間、啄木の短歌を英訳することは気がすすみませんでした。うまくできそうになかったからです。翻訳は原文と同じような感動を与え、その感動の度合いが原文と同じくらい深い分だけ成功しているのです。

 啄木の短歌にとても具体的なメッセージがこめられていることに気づくようになったのは比較的最近のことでした。彼の短歌が名作と言われるのは、それが完璧に彫られたダイヤモンドのように澄み切っているからですが、魅力はそれだけではありません。

 多義的でいろんな意味がありますし、美しい暗示もあります。言外のニュアンスが豊かにこめられています。とらえがたい感情がただよっています。

 この矛盾しているかのような二つの特徴(具体的であることと暗示的であること)を同時に表現できなければ、翻訳は失敗に終わってしまいます。

 詩の翻訳の中でも、俳句と短歌を別の言語に訳すのは最大の困難をともないます。危険な割れ目、迷い道、恐ろしい絶壁におおわれた山に登るようなものです。

 宮沢賢治の詩を翻訳するのに費やした四十五年間をとおして、私はそういう割れ目や裂け目に何度も出会いました。しかし、啄木の場合は、割れ目はさらに深く、迷い道はさらに多く、その絶壁は見上げるだけでも首を捻挫するほど高い。

 微妙な意味にあふれたいろいろな意味が響き、あいまいで、はげしく抒情的、ありのままで切なく、簡潔……そうしたものすべてが具体的な詩のメッセージにつつまれています。

 この詩を英語にして、読者に強い印象を残すにはどうすればいいのかわかりませんでした。しかしある日、登り方が閃いたのです。私はすべての短歌を簡潔で明晰な文にして、それにタイトルをつけることに決めました。 

 日本のもっとも偉大な近代詩人の二人である石川啄木と宮沢賢治はおよそ五十キロしか離れていない場所で生まれました。その年齢差はわずか十歳で、同じ中学校に通いました。

 すべて偶然の一致かもしれません。二人とも若くして結核で死にました。啄木二十六歳、賢治三十七歳。 』 (まえがき(Perfce)より)


 石川啄木は、明治19年(1886)2月に盛岡市渋民で生まれる。明治31年(1898)に12歳で、盛岡中学(現盛岡一高)に学んだ。三年先輩に金田一京助、10年後に宮沢賢治が入学する。

 啄木の第一歌集は明治43年(1910)12月に「一握の砂」、第二歌集は明治45年(1912)6月に「悲しき玩具」を発行した。啄木は結核のため26歳の若さで、明治45年(1912)4月に亡くなっているため、啄木が「悲しき玩具」を見ることはありませんでした。


 『 ON  A  LARK

 I  lifed  my  moter  onto  my  back.           たわむれに母を背負いて

 She  was  so  light  I  wept            そのあまり軽さに泣きて

 Stopped  dead  after  three  steps.        三歩あゆまず


 題名の lark は、ヒバリと同じスペルですが、この場合は、”はしゃぐこと”の意味で、on a lark で「たわむれに」という意味です。 dead は、彼の母がこの世にあと長くいないことを示しているため、stop dead (急に止まる)を用いました。


  SURPRISE

 My daughter's  face  lit  up          猫の耳を引っぱりてみて

 When  I  yanked  the  cat's  ear         にゃと啼けば

 And  it  yelped  "Meow!"            びっくりして喜ぶ子供の顔かな

 

 「にゃと」、「びっくり」、meow、yank、yelp はすべて擬声語。題名は「びっくり」からとりました。


  IN  MY  DARKENED  ROOM

 I  turned  off  the  oil  lamp,  alone                   灯影なき室に我あり

 As  my  father  and  my  mother  walked  out  of  the  wall   父と母

 Each  holding  a  cane.                           壁のなかより杖つきて出ず


 たまたまある人が体験した現実が、読者にはシュール(超現実的)のようにとらええられるのです。 cane は ”トウ製のの杖” の意味。


  INTIMACY

 When  I  compare  myself  unfavorably  with  my  friends   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 I  buy  a  bouquet  for  my  wife                     花を買い来て

 To  cherish  her.                               妻としたしむ


 「したしむ」という言葉ひとつで、妻との間に何が起こるかを暗示しているからです。誰かを守りたいことから誰かを愛することに至るまで、いろんな意味あいを含む美しい英語の単語 cherish を選びました。啄木が家に戻った時、彼と節子が行うかもしれないことを、タイトルの Intimacy (深い関係、愛情行為)はさらに示唆しています。


  LOVE

 I  want  to  try  to  love  like  a  man       やわらかに積もれる雪に

 Burying  his  burning  cheek            熱てる頬を埋むるごとき

 In  soft  drifts  of  snow.               恋してみたし


 一行目の「やわらかに積もれる雪に」の抒情的な効果を soft drifts of snow であらわそうとしました。


  WEATHER

 The  rain   brings  out  the  worst            雨降れば

 In  every  single  member  of  my  family        わが家の人誰も誰も沈める顔す

 Oh  for  one  clear  day!                  雨晴れよかし


 私がイギリス人の家内にこの翻訳を見せたとき、彼女は笑いながら言いました。「まったくイギリス人の家族みたいだわ!」と。どうやら、日本とイギリスで共通なのはたくさん降る雨だけではなさそうですね。 』


 『 MEMORY

 Dozing  on  my  belly  on  a  sand  dune       砂山の砂に腹這い

 Brings  back  every  single  distant  pain       初恋の

 Of  first  love.                         いたみを遠くおもい出ずる日


 「遠く」という対象的な言葉がこの苦しい思い出を特徴ずけています。思い出の時間や場所は遠くにあるかもしれませんが、わたしたちの中では現実として生きているのです。この短歌には色気があります。彼は柔らかくてしなやかな砂の上にいます。この感覚は愛の思い出を呼び起こします。


  ONE  DAY

 I  waited  for  her  hour  upon  hour             待てど待てど

 Yer  she  never  showed  up.   So  I  carried        来る筈の人の来ぬ日なりき

 My  little  writing  table  to  where  it  is  now.      机の位置を此処に変えしは


 わたしは作家なのでこの短歌が大好きです。やはり、作品を書く机は大事です。彼は彼女のことをあきらめたでしょうか。それとも彼女への手紙を「変わった位置から」書くだけのために机を動かしたのでしょうか。


  A  FRIEND

 I  opened  myself  up  to  him          打明けて語りて  

 And  felt  I  had  lost  something       何か損をせしごとく思い

 Before  we  parted                友とわかれぬ


   BEFORE  WE  WERE  MARRIED

 My  wife  once   longed             わが妻のむかしの願い

 To  have  a  life  in  music.            音楽のことにかかりき 

 Now  she  sings  no  longer.          今はうたわず


 節子はもう幸せではないようです。とくに啄木の時代の結婚生活は、女性から自分の時間を奪い去りました。起きているすべての時間は、夫、子供、身内の世話をするのに費やされます。


  FOR  SOME  UNKNOWN  REASON

  All  I  did  was  wave  my  hat          高山のいただきに登り

 At  the  top  of  tall  mountain          なにがなしに帽子をふりて

 Before  setting  back  down  again.        下り来しかな


 「なにがなし」の英訳はいくつかあります。なぜ帽子をふるだけのために山を登り歩きしたのか、啄木本人にもわかっていなかたでしょうから、for some unknown reason を使いました。 


  AT  THE  STATION

 I  slip  into  crowd              ふるさとの訛なつかし

 Just  to   hear  the  accent         停車場の人ごみの中に

 Of  my  faraway  home  town.     そを聴きにゆく


 啄木のもっとも有名な短歌のひとつ。どれだけ故郷を恋しがっていたかわかります。擬声語の slip (そっと入る)は気づかれないように群集にとけこんだことを指しています。 』


 『 IN  THE  RUINS  OF  KOZUKATA  CASTLE

 I  dozed  off  in  the  weeds        不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて

 As  the  sky  seized              空に吸われし

 My  fifteen-year-old  heart.        十五の心


 grass は西洋の読者に芝生を連想させるので、草は grass ではなく weeds (草、雑草)を用いました。 sucked into the sky のほうが「空に吸われし」の直訳になりますが、sky (空)を能動態動詞の seize (ぐいとつかむ)の主語にしました。するとダイナミックな感じが詩にあらわれます。  ruin (荒廃)で、dozed off (まどろむ)です。


  AUTUMN  WIND

 The  millet  leaves flutter             はたはたと黍(きび)の葉鳴れる

 Rustling  along  the  eaves  of  home     ふるさとの軒端なつかし

 Taking  me  back.                  秋風吹けば 

 擬声語の「はたはた」を翻訳すると英語の二つの擬声語の flutter (はためく) と rusting (サラサラ音がする)になりなす。 leaves (葉っぱ) から l を取ると eaves (軒)になります。日本語の「懐かしさ」に一致する英語がないとよく言われます。もちろんそうではありません。これを英語にする幾つかの方法があります。ここでは taking me back というフレーズを選びました。過去の時間や場所にtakes you back、つまり運んでくれるものは、「懐かしさ」があるものです。


  ASAKUSA

 Nothing  isolates  me  more          浅草の夜のにぎわいに

 Then  slipping  in  and  out  of        まぎれ入り

 Merry  nighttime  crowds           まぎれ出で来しさびしき心


 浅草は啄木の時代、今よりはるかに娯楽の中心地でした。宮沢賢治でさえ、そこに行って劇や映画を見るのが大好きでして。群衆の中で啄木が感じる孤立感は明らかです。


  THE  TRAIN

 I  hear  a  distant  whistle.             遠くより

 It  lingers  in  the  air  before  vanishing    笛ながながとひびかせて

 Into  woods.                      汽車今とある森林に入る


 「ながなが」はここで lingers (いつまでも残る)として表現しています。 linger の語源は long (長い)や lengthen (長くする)と同じです。 vanish :見えなくなる


  SEEING  OFF  AT  THE  TRAIN  STATION

 My  wife  came  with  our  daughter  on  her  back.      子を負いて

 I  caught  sight  of  her  eyebrows                  雪の吹き入る停車場に

 Through  a  blanket  of  snow.                    われ見送りし妻の眉かな


 この短歌は大好きです。雪が激しく降っているのに、節子は娘をおんぶして駅まで啄木を見送ります。 blanker (毛布)は愛しあう人たちをかぶせるものなので、blanket of snow (雪一面)というたとえを選びました。(訳者は角巻で母と子が包まれている情景を想定してると思います)


  JAPANESE  ROSE

 Will  you  flower  again  this  year,  Japanese  rose     潮かおる北の浜辺の

 In  the  sand  dunes  of  the  northern  beach         砂山のかの浜薔薇よ

 Fragrant  with  the  tide?                      今年も咲けるや


 浜薔薇(はまなす)は英語で Japanese rose と呼ばれています。潮とバラの香りがこの短歌では美しく混ざっています。まるでその香りがするようです。frabrant : よい香りの、tide : 潮の干満 』


 ここで終る予定でしたが、紹介したい啄木の歌が、20首ほど残りましたので(後)とします。(第108回)

 


ブックハンター「マタギ」

2016-03-05 10:00:06 | 独学

 108. マタギ――矛盾なき労働と食文化  (田中康弘著 2009年4月)

 今回も「チェンジング・ブルー」と同じく、成毛真著の「面白い本」に紹介されていた一冊です。では、まず「面白い本」の話から始まります。

 『 「マタギ――矛盾なき労働と食文化」はカメラマンでもある著者が、いまや失われつつあるマタギの生態に迫ったフォト・ドキュメンタリーだ。読み進めるにつれ、マタギの生き様が日本人の忘れつつある生命観を呼び覚ます。

 かつて日本人は、自然を畏れ、敬いながら生きてきた。狩りの獲物にも、人間のための「食べ物」としてではなく、自然から「命をいただく」という姿勢をもって向かい、ありがたく供養してきた。その精神性がマタギの狩りには脈々と受け継がれているのだ。

 目を奪われるのは迫力の写真とともに綴られる「けぼかい」と呼ばれる熊の解体作業だ。まずマタギたちは熊の魂を鎮め、山の神に感謝するために祈る。そして高価で取引される毛皮を剥がし、全身を解体する。

 鮮やかに写し撮られた、自らの生を堂々と与えんとする皮膚のない熊の姿には威厳すら漂う。脂は「熊の脂」に、胆のうは「熊の胆」として薬になる。捨てる部分は一切ない。

 マタギはいまや一般人と同様に会社勤めをし、学校に通っているものの、その精神文化を受け継ぐため、熊狩りをいまも行っているという。熊はマタギにとって命をつなぐものであり、その狩りは人をつなぎ、さらには人が自然とつながる術なのである。 』 (面白い本 成毛真より)

 本書は、カメラマンである著者が、秋田県阿仁町で、ウサギ狩り、岩魚釣り、天然舞茸を追う、熊狩り、鍛冶屋西根正剛の袋ナガサ……と行動を共にした写真集であるから、写真だけを見ても、感動が伝わってきます。

 私はうすうす感じてましたが、一流の写真家は文章も上質です。このブックハンターでも、写真家の本をずいぶんと紹介してます。「面白い本」で成毛真は、「チェンジング・ブルー」に負けず劣らず、このように絶賛してます。

 

 『 私は廃村寸前の集落を取材したり、自給自足の生活を目指す人たちの写真を撮っていた。元々が九州の田舎人であり、大学も島根県の田舎大学農学部出身のカメラマンで、バブル経済が終わりを告げた1990年代初め、私の稼ぎは知れたものであった。

 そんなある日、暇だったので某雑誌の編集部に遊びにいった。「最近面白いことあった?」 いきなり仕事をくれとは言いにくい、これはそんな時の常套句である。

 「うーん、マタギの鍛冶屋さんの所に行ったけど」 マタギ? マタギて山猟師みたいなものだったかな。 マタギに対してはその程度の認識しかなかった。しかし ”マタギ” という言葉の響きは妙な力を持っていたようで、この日から私はマタギとの不思議な縁に導かれるのである。

 初めてマタギの里へ行く日がやって来た。ある雑誌にマタギの企画を持ち込み、それが採用されたのだ。旅費が出るこの取材は、仕事が少ないカメラマンにとっては大変有り難い話である。

 目指すは秋田県阿仁町(あにまち、現北秋田市)。田舎系自然系の取材をメインとしているカメラマンであるにもかかわらず、私はそれまで秋田県には行ったことがなかった。

 秋田初体験がマタギの取材である。東北自動車道を盛岡まで北上、そこから一般道で田沢湖を抜けて、国道105号線を真っ直ぐに阿仁を目指す。広葉樹の森がうっすらと色付き始めた10月初旬のことである。

 慣れない道に8時間以上かかってやっと阿仁町に入った。比立内(ひたちない)という集落が、今日の宿があるところだ。調べると、阿仁町にはこの比立内と根子(ねっこ)、そして打当(うつとう)というマタギの集落が三ヵ所あるようだ。

 泊まる所は集落の中程にある松橋旅館という宿で、玄関を入ると熊の剥製や敷き皮が沢山置いてある。さすがはマタギの集落だと感心していると、やはりここの主人はマタギだった。ずらりと並んだ熊達も全部自分で仕留めた獲物らしい。

 一泊二日というタイトなスケジュールで旅館の主人や役場の人、そしてマタギの鍛冶屋さんの取材をこなした。帰りの時間を考えると午後3時過ぎには阿仁を出なければならない。まさに駆け足の取材であった。

 この時の取材ではマタギについてはよく分からなかった。町中で会う人に話を聞くと「マタギ? マタギはもういね(いない)」と何回か言われたのだ。至る所に”マタギの里”という看板があふれているのに、そのマタギがいないとは一体どういう意味なのだろうか。

 マタギがいなければ、旅館の主人や鍛冶屋さんは一体何だというのだろうか。実に不思議な話である。マタギについてはよく分からない取材だったが、ただひとつ心に残る台詞があった。それは鍛冶屋さんの次の言葉だ。

 「マタギにとっては一日40キロなんて日帰りの距離っすべ」 一日40キロ! それも山での話である。山の中を40キロも歩き回るのはのは、精神的にも体力的にも驚異的だ。体力に自信のない私は、その一点だけでもう尊敬してしまう。

 しかし、マタギは何故そんなに山を歩くのだろう? 何故そんなに歩けるのだろう? 見たい、知りたい、一緒に山に入りたい。帰りの車の中で少しずつそんな気持ちが強くなっていくのであった。

 マタギと一緒に山に入りたい。そんな願いをかなえて叶えてくれたのは、印象深い言葉を言ったマタギの鍛冶屋である西根正剛(まさたけ)氏だ。彼は初めて阿仁を取材で訪れた時から快く迎えてくれた。

 「あの、また遊びに来てもいいですか? 出来れば山にも行きたいんですが……」 取材の帰り際、西根氏に恐る恐る伺った。「どうぞどうぞ、いつでも来てください」

 私はこの答えで、西根氏を勝手に山の師匠と決めつけたのである。そして、ここからマタギとの数々の冒険(私にとっては)が始まった。 』

 

 『 マタギは非常に特殊な狩猟集団だ。日本国中に山漁師は存在するが、実はマタギと呼ばれる人々は限られた地域にしかいない。北東北から長野県北部の雪深い山間部にマタギ集落は点在している。

 マタギは猟をするが、決して職業猟師ではない。マタギに限らず、現代日本国中に猟師を生業としている人は皆無に近いのである。これを初めて聞いたときには驚いた。

 てっきりマタギは狩猟を生業としていると思い込んだいたからだ。ところが、実際には狩猟法で猟期や獲物が限られているので、猟で生計を立てるのは極めて難しい。

 ではマタギ達は何を生業としているのか。ある人は旅館であり、ある人は工場勤めであり、またある人は公務員なのである。つまり我々と同じ、ごく普通の社会人という訳だ。もっとも私はごく普通の社会人とは言い難いが。

 古のマタギは、鳥も獣も山のすべての生き物を狩猟対象としたきた。今では狩猟対象外である特別天然記念物のニホンカモシカさえ、マタギにとっては有り難い山の恵みだった。

 昔のマタギが狙う獲物はというと熊、ウサギ、テン、キツネ、アナグマ、サル、カモ類やヤマドリなどである。しかし、毛皮の需要がほとんどなくなったテンや狐などは狙う人も少なくなり、今は熊、ウサギ、ヤマドリやカモ類が現在のマタギ達の獲物である。

 現在のマタギ達にとっても古のマタギ達にとっても、最大最高の獲物はなんといっても熊である。実際にマタギが狙う熊は、月の輪熊で、大物でも100キロほど、平均で60~80キロ前後である。 』

 

 『 いまは魚でも肉でも綺麗にパック詰めされている。それが命あるものだったとは、感じさせない妙な工夫が施され、単なる食材としてしか意識されない。食肉は特にそうだ。

 まず命を奪うことから始まり、血と脂の中で解体されていく行程がまったく隠されているのだ。果たしてこれは正しいことといえるのだろうか。私はそう思えない。

 他者の命を頂くことで人が生きていくという大切な行為は、狩猟の中にそのすべてを見ることが出来る。ぜひ見たい。それもマタギ最高の獲物である熊ですべてを確認したい。

 その為には、一緒に熊狩りに行く必要がある。しかし、阿仁地区猟友会はマスコミ関係や素人の参加を基本に認めていない。それは危険であると同時に、思想を異にする人々からの抗議が予想されるからだ。

 これには阿仁地区猟友会も頭を痛めている。私も一度真正面から猟友会に取材依頼をしたが、にべもなく断られた。そこで猟が無理なら解体の現場だけでも立ち会えないものか考えた。

 マタギは熊の解体の作業を ”けぼかい” と呼ぶ。ぜひ、けぼかいが見たい。猟に行くには体力的に保たないだろうし……。根性無しの代表である、私は。

 ある初冬の朝、それは西根師匠からの電話で始まった。「今朝、熊獲れたども、田中さんどうする?」 えっ! どうするもこうするもない。「もちろん、行きます!」 このひと言だけを伝え、電話を切る。

 電話を受けたのは朝の十時。昼に入っていた予定をすぐさま取り止め、大急ぎで荷物をまとめて車に放り込むと高速道路に飛び乗った。休息もろくに取らずひたすら走り、西根師匠の家に着いたのはぴったり午後六時。

 着いてみると、家の前に熊が万歳をするような格好で吊るしてあった。これは凄い、大迫力。その大きさには圧倒される。聞けば、体重100キロ超の雄の熊だという。

 西根師匠の家は道路に面しているので、これがまた目立つ。どんな看板よりも人目を引き付けるのは間違いない。実際、わざわざ車を止めて写真を撮る人が何人もいたらしい。

 大熊が獲れたことはあっという間に町中に知れ渡り、あちこちからお祝いのお酒が届いている。猟の仲間も仕事を早仕舞いして駆けつけて来るし、何か祭りの始まりみたいでそわそわする。 』


 『 本来は熊が獲れたら直ぐに解体するものである。しかし、私が前々から「けぼかいを見せてくれ」と頼んであったので待ってくれていたのだ。けぼかいで最初に行うのは、祈ることである。

 熊の魂を静め、この熊を授けてくれた山の神に感謝をする。仰向けの熊の頭を北に向け、御神酒を手向けて塩を盛る。 「あぶらうんけんそわか」 呪文を唱え、しばし祈る。

 この呪文はマタギが山に入る時に必ず唱えるものであり、また山中でも何か不吉な感じがすればすぐに口にする。儀式の間中、周りの者達は神妙な面持ちだ。

 これが済んでから初めて熊の肉体にナガサ(マタギ山刀)が入る。まず喉元から胸に掛けて一直線に、そして四肢の内側にも切り込みを入れる。ここから服を脱がすように丁寧に皮を剥がしていく。

 見ていて、この作業は非常に神経を使っているのが分かる。熊の胆と並んで、毛皮は換金性が高いので穴でも開けたら台無しだ。いくら手際のいいマタギでもこの作業は大変そうだ。

 特に冬眠前の熊なので皮の下にはかなりの脂肪を蓄えていて、これがぬる付いて時間がかかる原因となっているのだ。体をぐるっと回しながら全身の皮を剥ぎ取る。

 背中にはかなりの量の脂が付いている。背脂という物だろうか。脂は、背中のものも皮に付いたものも丁寧にこそぎ落していく。これは ”熊の脂” という立派な薬になる。

 丁寧に皮を剥がされた熊は、まるで人間のように両手(前足)を空中に突き出している。これがまた凄い筋肉だ。熊の力は人間を遥かに超えているそうだが、見れば納得である。

 皮を剥がれた頭部は、よく見ると意外に細い。熊の顔は丸いように見えて実は細面だったのか。すっかり皮を剥がし終えると、足首を外してから腹を裂いていく。

 喉元から骨盤まで断ち割るように切り終えると、今度は内臓を取り出す。仕留めてから解体までに時間がかかったせいで、腸内が発酵して風船のように膨らんでいる。内臓の中でも肝臓と胆のうは薬効があるから特別扱いだ。

 肝臓は薄くスライスしてあぶり焼してもいいし、乾燥することも出来る。内臓の中から肝臓は直ぐに取り出したが、胆のうがまだ見つからない。掻き分けるようにして探すと、縮こまった胆のうがやっとあった。

 「こりゃあ、小さいな。まあ冬眠前だからしょうがないべしゃ」 聞けば、上質の熊の胆は冬眠明けの熊から採れるものらしい。冬眠中に胆のうが大きくなり、胆汁をたっぷりと蓄える。

 だから春熊からは水を入れた風船のような胆のうが手に入り、立派な熊の胆のうができるのだ。今回は冬眠前の秋熊であるため、残念ながらしぼみきった胆のうしかなかった。

 すっかり内臓を取り出すと、熊の胴体にぽっかりと穴が開く。この腹腔に溜まる血をおたまで掬い取る。意外と少ない。この血液も昔は大事な商品だった。乾燥して粉末にした熊の血は婦人薬として重宝されてきた。

 脂、血液、骨、肝臓、胆のう、これらは大事な薬であり、重要な山里の収入源だったのである。内臓を処理し終えると、四肢を切り外して枝肉と胴体に分ける。そこからさらに肉だけの部分と骨付き肉とに分けるのだ。

 残っている肉をナガサで丁寧にこそぎ落すと、あばら骨がまるで開いた葉っぱのように見える。最後に残った太い骨は小振りの手斧でバンバンと断ち割っていく。こうして熊は赤肉、骨付き肉、内臓に姿を変えた。

 後にはべろーんと伸びた皮が血と脂に光っている。この上にたっぷりと塩を掛けてからくるくるっと丸めて、解体全行程は約二時間で終了した。

 以前、食肉加工工場で豚の処理を見たことがあるが、基本は同じ。処理場が分業制でオートメーション化された肉の工場なのに対して、マタギのけぼかいは家内制手工業である。 』


 『 けぼかいが済むと、次は肉の配分である。今回は巻狩りの末に手に入れた獲物ではない。西根師匠が見つけて仲間三人と追い、仕留めた熊だ。それでも独り占めしないのがマタギの作法である。

 巻狩りの時でも同じ決まりだ。勢子もブッパ(鉄砲打ち)も同量の肉を手にする。さらに参加できなかった仲間にも肉を分ける。これを ”マタギ勘定” という。

 100キロ超の熊からは、30キロ程度の肉が取れる。熊の胆や皮のように、換金性が高く分けられない物に関しては入札にかける。食べる分は完全に平等だ。

 ある時テレビ見ていたら、極北の狩猟民族が同じやり方で肉を分けていた。 「マタギ勘定だ!」 思わずテレビの前で叫んだ。マタギ勘定は狩猟民の素晴らしい知恵なのである。

 一部の人間だけが腹一杯食い、残りはカスをしゃぶっているといった状態で、狩りという危険な共同作業をやれるわけがない。だから、体調が悪く猟に参加出来なかった仲間にも同量の肉を届ける。

 明日はわが身である。相互扶助の精神が素晴らしい。これは小さな共同体を守っていく知恵なのだ。今は食うに困らない時代であるが、マタギ勘定はしっかり生きている。

 西根師匠は、均等に分けられた肉の塊をビニール袋に入れると「これは田中さんの分」と差し出してくれた。マタギ勘定の中に入れてもらえて最高にうれしい。 』


 『 マタギや山の民の生活に興味があるが、熊を殺して食べるのは許せないという人が結構いる。まず言っておくと、マタギは欧米のハンター達とは違う。欧米のスポーツハンティングは豊かな階層の遊びであり、ただ殺すのが目的である。

 人間より遥かに巨大だから殺して自慢する。珍しいから殺して自慢する。殺生それ自体を楽しむために、あらゆる生き物を狩りの対象にしてきたのだ。それらとマタギを同じハンターと考えることが間違っている。

 特に欧米の作り上げてきたシステムがいかに自然を痛めつけるものだったか。近代文明がいかに傍若無人に振舞ってきたか。エコロジーという考え方はつい最近出てきた話である。

 しかし、マタギや山の民は大昔からエコロジカルな生活をしてきた。そんな山の民の生活の一部である熊狩りを、山里の暮らしがなんたるかを知りもせず、また知ろうともせずに異を唱える人達がいる。

 可愛い熊を殺すとはけしからん、許せんと。そうした人々から自分たちの生活形態を守ろうとしたその結果、マタギ里の猟友会ではマスコミを排除する方向に動いたのである。

 しかし、これには賛成しかねる。積極的に宣伝する必要はないが、ことさらに隠す必要もないと思う。 「何故、熊を撃つのだ」 こう言われたら、きちんと主張すべきである。ただしその時に ”伝統” ”文化” のみを強調するのは間違っている。

 伝統や文化は時代の流れの中で生まれて変化し、場合によっては消えていくものなのだ。マタギという集団がその家族を認識する為の重要な行為が狩猟であり、アイデンティティーの一部なのである。

 そのことを抗議する人達にきちんと説明すべきだ。人間は決して一人では生きていけない。必ず何らかの集団に属している。その手段が結びつくための大事な結束材料が、マタギの場合は狩猟なのである。

 古来、日本人は自然を敬い恐れてきた。決して自然を征服しようなどと考えず、その力を上手く利用し、折り合いをつけようとしてきた。すべてのものに人知の及ばない力を感じ、神として敬った。

 山にも川にも海にも木にも石にも田にも畑にも便所にすら神をみていたのだ。ヨーロッパ文化圏の多くでは神はキリストだけであり、まして自然の中に神を感じることはない。

 彼らがよく高山などで神を見たなどという時の神もキリストのことであり、決して日本人の言う神的なものではない。元々彼らにとって自然は脅威以外の何物でもなく、出来れば徹底的に人間の都合のいいように変えてしまいたかった。

 森は悪魔の棲家であり、神々がいる場所ではない。とてつもなく巨大な鯨も海の悪魔として長く描かれ続けたではないか、脂を取ったら後は捨ててしまう彼らのやり方と、すべてを利用させてもらうと考えて鯨の魂をきちんと供養してきた日本人。

 動物は神が人間の為に作ったものだから、殺しても、その為に絶滅しようとも構わないと考えていた欧米文化。いったいどちらがエゴイストであったのかは歴然としている。 』 (第107回)


ブックハンター「チェンジング・ブルー」 〔後〕

2016-02-28 09:35:21 | 独学

  107. チェンジング・ブルー 〔後〕  (気候変動の謎に迫る) (大河内直彦著 2008年11月)

  

 『 第10章 地球最後の秘境へ

 10-1南極ノアイスコア研究の幕開け  10-2 地球最果ての地、ボストーク基地  10-3 大気の化石  10-4 埃っぽい氷河期  10-5 さらに古い氷を求めて  10-6 キリマンジャロの雪

 

 第10章の説明

 ボストーク基地とは、世界初の有人宇宙飛行船「ボストーク」の名前を取って付けられた、南極のもっとも「奥深い」場所にあるソ連の基地である。東南極氷床のほぼ中央部、南緯87度、東経106度、標高3488メートルの地に1957年に建設された。

 年平均気温がマイナス55℃、最低気温にいたっては、なんとマイナス91℃(地球上で観測されたもっとも低い気温)という、まさしく「極寒の地」である。ドライアイスの温度がマイナス79℃だから、大気中の二酸化炭素も凍りつく想像を絶する世界だ。

 このボストーク基地は、海岸から1400キロメートルも離れていて、南極にあるどの基地からももっとも遠い、孤絶の基地でもある。この「地球最果ての地」において、氷床コアがはじめて掘削されたのは1970年のことだ。

 キャンプ・センチュリーでのダンスガードの研究に刺激を受けたソ連の古気候学者たちは、ここで長さ950メートルのアイスコアの採取に成功した。そのコアの酸素同位体比は、わずか400メートルの深さに最終氷期にできたと考えられる氷が存在することを示していた。

 この結果によい感触を得たソ連の研究者たちは、1980年からさらに長いコアの掘削プロジェクトを開始した。そして1984年10月には、ボストーク3Gと呼ばれる深さ2202メートルに達する歴史的なアイスコアの採取に成功したのだ。

 南極とグリーンランドの気候のもっとも大きな違いは、南極は降水量がグリーンランドより格段に少ないことである。南極大陸では、一年間に平均100ミリメートルほどの降水量しかない(雪量に換算すると年30センチメートル)。

 極域は下降気流が卓越するため、降雪が少なく、非常に乾燥しているが、気温の低さが幸いし、年々わずかずつだが積りつづけている。

 ただし、積雪量が少ないことは、古気候の研究にとって諸刃の剣だ。最大の短所は、南極で掘削されたアイスコアは年層が薄くて見にくいことである。

 アイスコアの年代を知るには、氷床の流動モデル、火山灰層との対比、年層のカウントなど多くのテクニックを駆使し、総合的に判断する必要がある。

 年層が見にくいことは、南極のアイスコアの年代決定をグリーンランドのそれよりもはるかに難しく不確実なものにしている。それに対して、最大の長所は、短いコアでも長期間の記録が得られることだ。

 たとえば、グリーンランドでは三キロメートル以上の氷床を掘削しても、たかだか過去十三万年程度しかさかのぼれない。ところが、南極では、同じ長さがあれば過去五十万年以上、場所によっては100万年近くさかのぼれる。

 さまざまな「天水」(自然界の水)の酸素同位体比と水素同位体比を測定していたハーモン・クレイグは、両者の間にきれにな直線関係を見出していた。

 ボストーク3Gの過去一六万年にわたる水素同位体比の記録とは少々雰囲気がことなっている。氷期と間氷期が明瞭にわかる、メリハリの効いたパターンを示すのだ。

 氷期の最中に極端に温暖化したダンスガード・-オシュガー・イベントのような、短期間の気候変動も見られない。海底堆積物の酸素同位体比カーブに見られるゆったりとしたパターンに、より近いと言ってよいだろう。

 グリーンランドは気候変動に敏感な北大西洋の北方に位置している。そのため、アイスコアには、北大西洋の大きく振動する気候を強く反映した古気象の記録が刻まれている。

 それに対して、南極のアイスコアは、同じ氷床ながらも、その記録はより「バックグランド的」な気候を反映している。したがって、地球の平均的な姿を見るにはグリーンランドより南極大陸の方が適していると言えそうだ。

 雪の中に入り込んだ空気は、ついに締め固まって氷の中に閉じ込められる、その気泡の中に含まれる空気の組成は、当時の大気の化学組成に一致する。

 この気泡の化学組成が詳細に分析されるのは、微量ガスの分析技術の発展を待たねばならなかった。この二酸化炭素の濃度を精密に測定したのは、ベルリン大学のハンス・オシュガーのグループである。

 その結果最終氷期の大気は二酸化炭素濃度が200ppm程度であったことを明らかにした。間氷期の大気中の二酸化炭素濃度がおよそ280ppmだから、氷期には30パーセントも減少していたことになる。

 ボストーク・アイスコアの二酸化炭素記録で特に興味深い点は、その時間変動のパターンが、氷の酸素同位体比、すなわち南極の気温変動にそっくりのノコギリ刃状であることだ。

 さらに二酸化炭素だけでなく、もう一つの重要な温室効果ガスであるメタンの濃度も、そっくりな時間変化をしてきたことが明らかにされた。二酸化炭素は温室効果ガスのひとつだから、それが最終氷期から後氷期にかけて増加したということは、それにともなって「地球温暖化」が起きたことを示唆する。

 しかし、二酸化炭素が増加しはじめるタイミングは、氷床が融けはじめた1万九千年前よりも後だ。しかも、氷床の大規模な融解は、気候変動を引き起こす外力に対して時間差をもって応答する。

 気象モデルを用いた計算結果も、二酸化炭素の濃度が200ppmから280ppmへと増えたくらいでは、気温として1℃程度の上昇にしかならない。

 このようなことから研究者たちは、大気中の二酸化炭素やメタンの濃度変動は、気候変動の「原因」でなく、気候変動にともなって地球環境中の炭素のサイクルが変化したことによる「結果」だと考えている。つまり、因果関係が逆なのだ。

 1980年代初頭から現在にいたるまで、この事実を説明するために多くの学説が登場した。たとえば、氷期に陸化した大陸棚から流れ込んできたり、大気を経由して運ばれてくる栄養塩が増加することで、海洋における生物生産量が増加したという生物ポンプ説や、氷期に深層水循環が変化して、アルカリ度が上昇したというアルカリポンプ説がある。

 さらに、エアロゾル粒子の量が、氷期にはグリーンランドも南極もともに、1~2桁も大きかったことを示している。現在に比べて、氷期の大気は桁違いに埃ぽかったのだ。 』

  

 『 第11章 気候が変わるには数十年で十分だ

 11-1  短期間に起こった気候変動  11-2 ヤンガー・ドリアス・イベント  11-3 アガシ湖の決壊  11-4 ダンスガード-オシュガー・イベント  11-5 ハインリッヒ・イベント  11-6 短期間の気候変動の原因


 第11章の説明

 気候変動が、天文学的な時間スケールよりもずっと短い時間スケールで起こってきたことは、じつはずいぶん以前から地質学者には広く知られていた。氷河時代から間氷期にいたる途中に見いだされる「寒の戻り」ともいうべき、「ヤンガー・ドリアス・イベント」である。

 これは元来、かって存在したフェノスカンジア氷床の周辺で見出される変動で、氷床の一時的な拡大や縮小を反映した地域的な気候変動だろうと長い間考えられてきた。

 しかし研究が進むにつれて、北ヨーロッパ以外でもほとんど同じ時期に、「寒の戻り」のあったことが報告されるようになる。1980年代になると、それに輪をかけるように、「ダンスガード-オシュガー・イベント」と「ハインリッヒ・イベント」と呼ばれる二種類の短期間の気候変動が見出された。

 短期間の気候変動は、場所によっては数十年という時間スケールで起こったことがわかっている。ヤンガー・ドリアス・イベント(一万二千九百年前から一万一千五百年前)のヤンガーは(若い)であり、オールド・ドリアス(一万三千五百年前からの200年間)である。

 ドリアスとは(Dryas Octopetala)というバラ科の植物に由来する。(日本名:チョウノスケソウという高山植物)

 スカンジナビア半島で採取された湖沼堆積物の中の花粉分析によって、フェノスカンジア氷床が融解しはじめると、縮小していく氷床のまわりには、まず最初にチョウノスケソウなどツンドラに特徴的な植生が現れた。

 更に気候が温暖化するに従って、ツンドラからカラマツ、モミ、トウヒなどの針葉樹へと変わっていった。ヤンガー・ドリアス期が終わると100年もしない間で気候変動が起きている。

 ヤンガー・ドリアス・イベントは、深海コンべアベルトが停止したために始まったとする。それはアメリカからカナダにあった日本の国土より広かったアガシ湖が決壊して、メキシコ湾に流れ込み、この淡水でフタをされ、濃い塩分の海水が氷らないため、深海コンベアベルトが停止したとする。

 ダンスーオシュガー・イベントは、最終氷期5万年前から1万年前までの間に13回の数十年~百年という短期間で起こる温暖化が発生する。これは氷期にオフであったコンベヤーベルトが、ダンスーオシュガー・イベント時にオンになった。

 そうして北部北大西洋に南から温かい表層水が供給されるようになり、北部北大西洋付近が大きく温暖化したというわけだ。

 ハインリッヒ・イベントとは、五万年前から一万年前の間に5回発生した現象で海底に堆積物に、方解石や赤鉄鉱などの粒子が含まれ、それらはおもにハドソン湾付近の岩石に起源をもつことを示していた。

おもにローレンタイド氷床のハドソン湾付近にあった氷床の一部が何らかの原因で大量に北太西洋にもたらされたイベントと解釈してよい。 』 


 『 第12章 気候変動のクロニクル(chronicle :年代記)

 12-1 安定した気候へ  12-2 中世温暖期と小氷期  12-3 夏のない年  12-4 小氷期後から現在、そして未来へ


 第12章の説明

 過去1万年のグリーンランドのアイスコアの記録を注意深く見ると、8200年前の70年間は酸素同位体比で2パーミル近く、気温に換算すると3℃ほど低下している。この変動は、南極のアイスコアからは見出されていない。

 これは当時かなり小さくなっていたローレンタイド氷床によって堰き止められていた湖が決壊し、ハドソン湾を経由して北大西洋に流入して、北大西洋深層水の形成を一時期、減少させたというシナリオである。

 オハイオ州立大学のトンプソンのグループが、ペルー・アンデス氷帽の標高5670メートルの地点のアイスコアを採取している。その記録は西暦1500年頃から1880年頃までの、およそ400年近くにわたる期間、気候が寒冷化したことを示唆している。これを「小氷期」と呼ばれている。

 この最も寒かった17世紀中頃は、太陽の表面の黒点が顕著に減少した時代とよく一致していた。このことから、太陽活動が気候寒冷化の究極的な要因ではないかという説が、一部の研究者の間で囁かれてきた。

 しかし、最近人工衛星による太陽観測の結果からすると、黒点数の変化による変動は、およそ0.1%と非常に小さい。このことから現在では、太陽の放射エネルギーの減少が小氷期に直接結びついたとは考えられていない。

 中世温暖期から小氷期へといたる気候変動は、私たちが現在直面している温暖化とは逆の寒冷化である。気候変動のスケールとしても少々小さめのサイズだ。

 とはいえ、小氷期という気候変動が人間活動にどのような影響を及ぼしたのかを知ることは、今後の地球温暖化で引き起こされる人間活動への影響を予測するうえで参考にもなるだろう。

 ヨーロッパ北東部では、中世に比べて耕作地面積が大きく減少した。オランダ、イギリス、イタリアなどでは、小麦の値段が上昇し、ライムギの価格が大幅に上昇した。またフランスではワインの原料であるブドウの収穫が大きく遅れる年が幾度となく記録されている。

 ペストも14世紀半ば以降にしばしば猛威をふるい、ヨーロッパの人口の三分の一にも及ぶ人々が感染して亡くなった。日本でも、寛永(1641~42年)、享保(1732年)、天明1781~89年)、天保(1833~38年)の飢饉は特に大きく四大飢饉と呼ばれている。

 東北地方で数十万人もの餓死者が出たといわれる天明の大飢饉は、1783年の浅間山の噴火とともに同年のアイスランド・ラキ火山のにともなう気候の寒冷化も一因だったと考えられている。

 しかし、享保の大飢饉は西日本での長雨と冷夏が原因で、天保の大飢饉も、天候不順にともなうコメの不作が原因と考えられている。これらがヨーロッパで記録されている気候の寒冷化と、どのような関係にあるのかは定かではない。

 日本の場合、エルニーニョなど、太平洋特有の現象がもたらす影響が大きい可能性がある。

 1783年に起きたアイスランドのラキ火山の巨大噴火は、その中でももっとも規模の大きなもののひとつである。この噴火は八ヵ月にわたってつづき、噴火した大量の火山灰は偏西風に乗って運ばれて、遠く中東シリアでも視界がかすんだという記録が残っている。

 グリーランドのアイスコアには、この噴火にともなって硫酸イオンの濃度が桁違いに大きくなったことを示す。キラ火山の巨大噴火から30年あまり経った1815年、さらに激烈な火山噴火が起こった。

 今度は、インドネシアのジャワ島のジャカルタから東におよそ1000キロメートル離れたスンバワ島のタンボラ火山が、過去1000年間で最大規模ともいわれる爆発的な噴火を起こしたのだ。

 この噴火は、1500キロメートル離れたスマトラ島でも、大砲を撃つような爆発音が聞こえてという。もともと標高が4200メートルあったタンボラ山は、この噴火で上部1400メートル分が吹き飛んだ。

 放出された火山灰の総量は150立方キロメートルにも及び、タンボラ山周辺のあった町々は、あっという間に火山灰に埋もれてしまった。当時、スンバワ島で暮らしていた、およそ一万二千人の住民のうち、生き残ったのはわずかに二十六人だったという。

 さらに、崩壊した山体の一部が海に流れ込み、高さ数十メートルにもおよぶ津波が近隣の島々を襲った。インドネシアでは、この噴火により計10万人近くの人が亡くなったと推定される。

 タンボラ山の噴火にともなう被害は、貿易風に乗ってハンガリーやイタリアに黄色や茶色の雪を降らせた。タンボラ山が噴火した翌年の1816年は、ヨーロッパや北米東海岸では記録的な冷夏に見舞われ、「夏のない年」として語り継がれてきた。

 フランスではこの年、ブドウの収穫が実質上ゼロにまで落ち込み、ワイン生産者を直撃した。 』


 『 第13章 気候変動のからくり

 13-1 線形性と非線形の共存  13-2 ヒステリシス  13-3 気候の屋台骨 


 第13章の説明

 ミランコビッチ・フォーシングという天文学的な要素は、過去に氷床の量を変化させて重要な原因の一つであることは間違いない。太陽から地球に入射するエネルギーの総量や分布が変わることによって、地球の徐々に、かつ、その変化に見合った分だけ変化した。

 すなわち、気候は「線形的に」変化してきたわけである。しかし、この線形的なメカニズムだけでは、過去数万年を通してもっとも大規模な気候変動である、氷期から間氷期への大規模な気候のシフトを直接的には説明できない。

 気候システムを構成する個々のピースの研究は確実に進展してきたものの、気候学者がそれらを組み合わせて形作りつつある屋台骨は、まだ綻びだらけで、線形性と非線形性とを兼ね備えたヒステリシスといえども、研究の途中段階における作業仮説にすぎない。 』


 エネルギー革命(1960年)以前は、気候変動の問題は、基本的には寒冷化が主たる課題であった。しかし、エネルギ革命(1970年)以降の気候変動の課題は地球温暖化に代り、現に平均気温は上昇し、世界の山岳地帯の氷河は急速に減少した。

 現に、キリマンジャロの氷河は2015年頃に消え、ヒマラヤの山々には、本来夏でも雪が降って、氷河となって麓で融けるのであるが、氷河が急速に減少している。さらには、北極海はほとんど氷に覆われることなく、北極グマの生態系が崩れつつある。(深層水循環も弱まる)

 その原因として、

 (1) 空気中の二酸化炭素の急激な増加による、温室効果。

 (2) 石炭、石油の消費による廃熱、原子力発電による廃熱効果。

 (3) 熱帯雨林の急激な減少と山火事による、木の葉による、蒸発効果、葉緑体による光合成の減少。

 (4) 緑の地球の急激な砂漠化。

 これらの課題を克服しながら、気象変動への効果的な手順を模索することが必要なのではないでしょうか。 (第106回)

 


ブックハンター「チェンジング・ブルー」 〔前〕

2016-02-21 10:13:29 | 独学

 106. チェンジング・ブルー 〔前〕 (気候変動の謎に迫る) (大河内直彦著 2008年11月)


 「 本書は、長期的な気候変動のメカニズムとそれを解明した科学者たちの物語である。本書は全部で13章立て。前半は酸素同位体比による海水温の分析からミランコビッチ・サイクルまで。

 中盤は気候における深層水循環と循環停止のメカニズム、後半は気候変動における変化率の話が中心となる。最終章で著者は気候変動はヒステリシスで説明することができるため、問題を放置することは劇的に短期間で気候変動をもたらす可能性があると警告する。

 巻末の人名索引で紹介されている科学者は65名。注だけで37ページ、図版出典一覧は別立てで6ページもある。ちなみに本文は344ページである。

 このように紹介すると大変難しい本のように思えるが、じつは説明の手つきがしっかりしているので高校生でも充分に理解できるであろう。しかし、日本人がこのような本格的なサイエンス本を書けるとは思っていなかった。

 英訳されれば外国でも間違いなく売れる本だ。スムーズな章立て、快適なスピード感、語り口のうまさ、膨大で正確な知識、非センセーショナリズム(sensationalism:世間をあおる)、過不足ない図版、丁寧な注釈と索引、どれをとってもすばらしいのひと言だ。

 本書は科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識の積み重ねという美学を教えれくれる。この本に触発された若い読者の中から何人もの大科学者が生まれるに違いないとすら思える、日本では稀な、世界にも求められうる秀逸な科学読み物である。 」 (「面白い本」 成毛真著より)

 

 各章と小見出しを紹介しながら、私が本文を引用した多少の説明を加える、というかたちで紹介していきます。

 『 第1章 海をめざせ!

 1-1 海の中に降る雪  1-2 海の底を突き刺せ!  1-3 泥に刻まれた暗号

 

 第1章分の説明 

  海の平均の深さは、3,800メートルである。最も深いところは、フィリピンの西方1,500キロのマリアナ海溝の1万1千メートルである。そして、太陽が到達する水深は200メートルである。太陽光が到達するのは海洋の表層5%たらずで、その下の95%は暗黒の世界だ。 

 陸地から1000キロも離れた遠洋の海底には、植物プランクトンの遺骸であるマリンスノーが降り積もっている、その降り積もる速度は、5千年で、10センチである。 

 

 第2章 暗号の解読 

 2-1 古水温計を求めて  2-2 古海洋学事始め  2-3 酸素同位体温度計  2-4 同位体質量分析計の登場  2-5 エミリアーニの古水温計  2-6 海水温をめぐる論争

 

 第2章分の説明

 この堆積物の中に過去の水温の情報である有孔虫の炭酸カルシウム(CaCO3)を含む。この中の酸素の質量数は16であるが、中性子が1つ多いO17が0.038%、さらに中性子が2つ多いO18が0.2%含まれている。 

 海水に溶けているカルシウムイオンと炭酸イオンとで、炭酸カルシュウムを生成する。  Ca + CO3 = CaCO3 となる。この反応は25℃の温度の時より、0℃の温度の時のほうが、O18の濃度が3.5%高い。 

 この酸素同位体のわずかな違いを捉えると過去の水温が推定できる。エミリアーニは、質量分析計を用いて、過去の水温を測定した。

 質量分析計の原型を開発したのは、アルフレッド・ニーアで、その原理は、試料をイオン化して磁場の中を通すと重いものほど曲りにくいというものである。

 エミリアーニは、カリブ海の海底コアの深さを酸素同位体比をグラフにした。それは、酸素同位体比が時代とともに変動し、かって氷期と間氷期が何度もノコギリ状に繰り返されていたことを示していた。

 氷期に生息する有孔虫の酸素同位体比が、現在に比べおよそ2パーミル(0.2%のこと)重かったことを示し、氷期の水温が八℃低かったことを示していた。

 そして、氷期から間氷期にいたる温暖化は一万年程度の比較的短時間で起きていた。(エミリアーニは、太平洋や大西洋など10地点での結果も同様の変化を示した) 

 

  第3章 失われた巨大氷床を求めて

 3-1 消えた巨大氷床  3-2 アイソスタシー  3-3 上下する海面  3-4 洪水伝説

 

 第3章の説明

 もし世界地図や地球儀が手元にあれば、それを眺めてみよう。南極とグリーンランドだけが、白く塗りつぶされていることだろう。南極とグリーンランドは、大きな「氷床」(ひょうしょう)に覆われているからだ。

 グリーンランドでは最大3キロメートルの厚さをもった氷床が存在し、南極では、4キロメートルの厚さの氷床で覆われている。 ところが驚くべきことに、約10万年前から2万年前までつづいた最終氷河期には、もっと巨大な氷床があったことが、地質学者による詳細な陸上調査によって明らかにされた。

 最終氷河期に北米大陸北部に形成されたローレンタイド氷床と、ヨーロッパ北部に形成された北ヨーロッパ氷床、このうち西部をフェノスカンジア氷床、東部をバレンツ・カラ氷床と呼ぶ。

 かって北米や北欧に巨大な氷床が存在していたことを示唆する証拠は、思わぬところにもある。スカンジナビア半島付近における過去100年間の隆起を調べると、10メートルに及ぶ。

 それはかって、この地に乗っていた氷床が急に融けてなくなったため、その重さから解放された反動で隆起しているというものだ。このメカニズムは「アイソスタシー」(isostasy :地殻均衡説:地殻はマントルの浮力で支えられ、地殻の重さと浮力が釣り合っているという説) という概念で説明される。

 地殻の厚さは、30kmであるが、地球の半径は6400km弱でだから、0.5パーセントにも満たない、半径15センチメートルの地球儀で考えると、1ミリメートルにも満たない計算だ。

 最終氷期に3キロメートルもの厚さの氷床で覆われていたものが融けて、すでに350メートルも隆起し、現在も隆起中であり、後450メートル隆起してバランスする。

 上下する海面の記録は、海底深くにある死んだサンゴ礁によって、過去の海面変化を知ることができる。この結果、2万年前には、約150メートルも海面が低かったことが判明した。

 四大文明が栄えはじめた時代は、例外なく六,七千年前でそろっているというのは、少し妙な気がしないだろうか?さきに述べたように、最終氷河期の海面上昇が一段落したのが、およそ七千年前のことだ。

 それ以前は、100年につき約1メートル海面の上昇が続いた。メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明と大河川の河口の肥沃な大地に育まれた文明である。 』

 

 『 第4章 周期変動の謎

 4-1 気候変動のリズム  4-2 伸ぶ縮みする公転軌道  4-3 首振りする自転軸  4-3 グラグラする自転軸  4-4 ミラコビッチ・フォーシング  4-5 ミラコビッチ理論をめぐる闘い  4-6 気候変動のペースメーカー  4-7 未解決の問題

 

 第4章の説明

 過去100万年に氷期(11回)と間氷期(11回)ノコギリ状に入れ替わており、あるリズムを持っているように見える。現在は間氷期の始まりである。

 太陽から降り注ぐエネルギーは、地球を暖めている実質上の唯一のエネルギー源だ。そのエネルギーの総量と分布は、地球の公転軌道や自転軸の傾きのわずかに変化することこそが、気候変動の重要な原動力ではないかと、ミランコビッチは考えた。

 ミランコビッチ・フォーシングとは、太陽からの入射エネルギーの地理的分布と季節分布は、地球の自転と公転に関する三つの要素によって変化する。

 すなわち、離心率(公転軌道はわずかに楕円である)、歳差運動(コマの首振り)、自転軸の傾きのわずかな変化によって、太陽の入射エネルギーが低下した時期と氷河期は関係したとする考え。

 自転軸の傾きは一定ではなく、過去60万年についてみれば、22.1°から24.5°の間を変化してきた。

 

 第5章 気候の成り立ち

 5-1 太陽からのエネルギー  5-2 地球のエネルギーバランス 

 

 第5章の説明

 地球エネルギーバランスは、一年間に降り注ぐ太陽エネルギーの総量が、地球から宇宙空間へでていくエネルギーとバランスしている。抗体放射のエネルギーバランスで求めた地球の平均表面温度はー18℃である。

 しかし、実際の地球の平均温度は15℃で、30度ほどの差がある。その答えは、大気の温室効果が考慮されてないというものだ。

 

 第6章 悪役登場

 6-1 温室効果のからくり  6-2 先駆者アレニウス  6-3 二酸化炭素職人キーリング  6-4 二酸化炭素のゆくえ

 第6章の説明

 地球から放射する赤外線は4マイクロメートルから40マイクロメートルのもので、12マイクロメートル付近が最大である。その赤外線を吸収する性質を持っている大気の主要成分は、水蒸気、二酸化炭素、メタン、一酸化窒素、オゾンといった微量成分である。

 大気を暖める効果の大半を担っているのは、二酸化炭素ではなく実は水蒸気である。ただし、大気中の水蒸気は、人間の活動によって、ほとんど増加しない。

 二酸化炭素は、大気中に380PPMしか含まれていないが、波長15マイクロメートル付近の赤外線を効果的に吸収する。ちなみに1700年代の二酸化炭素は280PPMであった。(南極の氷の中の空気を分析した結果)

 

 第7章 放射性炭素の光と影

 7-1 マンハッタン計画  7-2 放射性炭素年代法の黎明期  7-3 落し穴 7-4 不運な研究者

 

 第7章の説明

 マンハッタン計画とは、一九四二年から一九四六年まで、原爆製造のための理論的および実験的研究と技術開発のプロジェクトで、その規模はのべ13万人以上と、現在の貨幣価値に換算して、2兆円以上といわれる。

 この計画によって、天然中にわずか1パーセント弱しか含まれていないウラン二三五を他のウラン同位体から分離・濃縮する技術は核分裂の連鎖反応を応用する原子爆弾の製造に欠かせないものだった。

そのため各種同位体を測定したり、分離する技術は大きく発展した。自然界の炭素は C12 が98.89%、C13 が1.11%(中性子が1つ多い)、C14 が百億分の1%(中性子が2つ多い)となっている。

 このうち C14 は、高度19~15kmの大気上層で、N14 (窒素原子)が高エネルギーの宇宙線によって、二次的に形成された中性子と反応して C14  が作られる。これは放射性核種であり、ベータ壊変によって時間とともに N14 戻る。

 この時、放出されるベータ線をガイガー・カウンタで測定できる。その精度は、1兆分に一の微量でも測定できる。C14 の半減期は5570年で、地球上で生きている生物炭素原子のうち C14 は平均15.3dpm/g である。すなわち、炭素1グラムにつき1分間におよそ15個の C14 原子が壊変する。

  生命活動を停止した時から半減は開始され、年代の明かな木材で、測定した結果そのことが証明された。さらにはC14の放射性同位元素とガイガーカウンタによって、植物の光合成を追跡することによって、光合成の反応プロセスのカルビン反応が解明された。 』 

 

 『 第8章 気候変動のスイッチ

 8-1 海洋深層を流れる大河  8-2 ストンメルと深層水循環  8-3 ブロッカーとコンベヤーベルト  8-4 最終氷期の深層水循環  8-5 オン・オフ・モデル

 

 第8章の説明

 冬になると、グリーンランド氷床から冷たく乾燥した風が海面から多量の熱を奪い去る。さらに海氷を形成し、海水から水だけを抜き取り、高塩分化して十分重くなった海水の塊は、数千メートル下の深海底へ雫のように「落下」していく。

 その重い海水の塊は、水深およそ二五〇〇メートルのグリーンランド海盆を満たし、そこからあふれ出て、アイスランドの東側を通って北大西洋海盆に流れ出し、南下し始める。

 このようにグリーランド沖と南極沖で海氷が作られる時の高濃度の塩分で低温の海水が、約千年の時を得て、北太平洋のベーリング海沖の表面に到達し、終点を迎える。その後、表層水となって、グリーンランド沖に到達する。これを深層水コンベアベルトと呼ぶ。

 このベーリング海沖で表面の到達した時、深海のミネラル分を豊富に含むため、急激に植物プランクトンを発生させ、此のプランクトンを求めて、ニシンなどの大群を成長させる。

 この深層水コンベアベルトは、ゆっくりした流れであるが、海水は熱容量が大きく量が多いため南北のエネルギー輸送に大きな役割をになっている。

 この流れが止まることによって、氷河期が始まるのではないかと考えたのが、オン・オフモデルである。

 

 第9章 もうひとつの探検

 9-1 ダンスガードの夢物語  9-2 白い大地、グリーンランド  9-3 氷の中の秘密基地  9-4 氷に残された気候の記録  9-5 流れる氷床  9-6 さらなる挑戦  9-7 決定版をめざして

 

 第9章の説明

 ウィリ・ダンスガードは高緯度地域で降る雪の酸素同位体比と気温が、年平均気温が高ければ、雪の酸素同位体は、O18が多く、気温が低ければ、O18が少なくなるという経験則を見出した。

 グリーンランドに於ける各地の年平均気温と降雨の年平均酸素同位体比は、1℃上がるごとに、0.7パーミル大きくなる。(O18で構成される水は通常のO16で構成される水より、10パーセント重いためと考えられる)

 このことから、ダンスガードはグリーランド氷床に残された記録から過去数百年の気象変動が復元できるかもしれないと考えた。

 アメリカとソ連が冷戦の真っ只中にあった一九五〇年代の終わり頃、グリーンランドの北西端近くにアメリカ軍の秘密の基地が氷床内部に建設された。

 基地の名は「キャンプ・センチュリー」といい、氷床の内部でありながら、とてつもない規模で、病院、教会、映画館まで持ち、移動式の原子力発電機によって、電力は供給されていた。

 氷床の構造に関する研究を行っていたが、アメリカ軍の寒冷地工学研究所のライルハンセンのグループは、その活動の一環として、この基地でアイスコアを掘削する技術開発を行っていた。

 そのアイスコアは、分析されることなく、アメリカの寒冷地工学研究所の冷蔵庫に保存されていた。そのことを知ったダンスガードは、所長のチェスター・ラングウェイに手紙を書き、アイスコアの酸素同位体比を分析させてもらえないかと申し出て、受け入れられた。

 コペンハーゲンに届いたそのサンプルの酸素同位体比の分析結果は、ダンスガードを大いに驚かせた。それは最終氷期と考えられる時代だけでなく、最終間氷期と呼ばれる、一つ前の暖かい時代まで記録していたのである。

 深さ1150メートル付近まで、時代でいうと一万年前くらいまでは、延々と安定した同位体比をもっており、その値はマイナス29パーミルという値で、現在のそれとほぼ同じである。

 ところがそれよりも深い部分になると、急に状況が変わりはじめる。酸素同位体比が急速に小さくなり、一万四五〇〇年前ごろと推定される深さ1200メートルあまりの部分では、マイナス43パーミル付近まで低下しているのだ。

 この14パーミルにおよぶ酸素同位体比の低下は、20℃以上の気温の低下に相当する。それ以外にも、このアイスコアからは興味深いシグナルをいくつも見出すことができる。

 氷期の記録の中には、気温に換算すると、七℃くらいの振れ幅をもつ、短い周期の「気候変動」が数多く見いだされる。このことは、グリーンランドにおいて氷期という時代が、単に寒いだけでなく、非常に不安定な気候をともなう時代だったことを示唆している。 』

 

 この後、10章から13章まで続きますが、それらは〔後〕として、二つに分けます。 (第105回)


ブックハンター「親子で学ぶ英語図鑑(下)」

2016-02-14 13:13:13 | 独学

  105.  親子で学ぶ英語図鑑(下)  (キャロル・ヴォーダマン著 リービン・リザーズ訳 2014年10月発行) 

     Help Yours Kids with English  by  Carol Verderman    Copyright©2013  

 本書は、小見出しを並べればいいのではと、軽い気持で始めましたが、最初のもくろみは狂いだし、(前)、(後)としましたが、(後)の方が、制限文字数を超えたために、さらに(上)、(中)、(下)の三部構成になってしまいました。

 これは、私自身が本書をよく理解してないことが、最大の原因ですが、最初に英語の全体像を探ると宣言していたために、途中で終らせることも出来ませんでした。

 でも、イギリスの親子でも、単語のつづりが誤りやすく、混乱する単語で、苦労しているために、不規則な単語のつづり(Irreguler word spelling)、例として、beautiful(美しい)など、紛らわしい単語(confusing word)、例として、device(装置)とdevise(考案する)などが紹介されてます。

このようにイギリス人にとっては国語ですが、私のような問題を生じて、それを1つ1つ克服する努力をしていることを知って、勇気をもらい、日本人である自分は漢字をもっと学ばねばと感じました。

 発音については、従来は紙の辞書の発音記号で読んでましたが、今は電子辞書で音声が得られるので、難解な発音記号から解放され、日本の英語のレベルも向上すると思います。

 

 『 第4章 コミュニケーション技能

 76. 効果的なコミュニケーション (Effective communication)

 「コミュニケートする」(communicate) とは、考えや情報を他人と交換することです。「効果的にコミュニケートする」とは、考えや情報を、それが意味するものを相手に正確に理解してもらうようにやりとりすることです。

 正しいメッセージを送るためには、調子 (tone) は、文章の目的によって、決めなければなりません。 効果的なコミュニケーションをするためには、ふさわしい言葉づかい (language) で書かなければなりません。

 レイアウト (layout) は、文字の大きさや色、文章の配置をそれぞれの形式に従います。 方法 (method)は、 eメール、手紙、はがきなど、の適切な手段を選ぶことです。

 77. 適切な単語を選ぶ (Picking the right words)

 文章の目的と受けてにふさわしい明快な単語が大切です。いつも同じ単語を使っていると、読み手は退屈してしまいます。

 例えば very (非常に):incredibly、truly、unusually、extremely、 nice (すてきな):pleasant、charming、agreeable、delightful、 lots of (多くの):countless、many、numerous、myriad などです。

 got (手に入れた):acquired、obtained、received、 great(すばらしい):wonderful、fabulous、fantastic、incredible、  then (その後):next、finally、later、 fun (楽しい):amusing、enjoyable、thrilling、entertaining などです。

 78. 関心を引く文を作る (Making sentences interesting)

 出来のよい文章とは、意味がわかるだけでなく、興味深く読める文で書かれているものです。

 例えば、単文と重文と複文を混ぜる、テンポ(pace)を変える、出だしを変える、詳細を加える、などです。

 79. 計画立案と情報収集 (Planning and research)

 優れた書き手は常に、頭の中でというよりはむしろ紙の上で作業計画を立てます。計画を練ればいろいろなアイデアが生まれ、それらをわかりやすく構造化することができます。さらに、書き忘れも避けられます。

 最初のメモ書き: 計画立案は関連するアイディアや単語や語句をすべてメモすることから始めます。これはメモを書きつけて視覚化する方法で、マインドマップ(mind map)と呼ばれます。

 書いた主題を全体的に把握するためには、情報を収集し、具体的例や引用や統計を手に入れることが大切です。そのとき情報源は書きとめます。

 計画を練る: 次の段階では、アイディアや調査結果を体系化し、段落を使って明確な構成にします。

 80. 段落分け (Paragraphing)

 段落は文章を体系化するのに使われます。エッセイや記事や手紙のような長い文章を書くときには、段落に分けて構成することが大切です。

 よい出だし : 第一段落では、文章の主題(何について書くか)を提示します。読みたくなるように、読み手の注意を惹きつけることも必要です。

 新しいアイディアは新しい段落で : 1つの段落内のすべての文は、お互いに関連していなければなりません。新しい論点には、新しい段落が必要です。

 主論文 (topic sentence) : 段落は主題文で始めると効果的です。これは、その段落の要旨を紹介する陳述(statement)のことです。そして、その段落の残りの部分で、主題文を展開したり、裏づけとなる証拠を示したりするのです。

 強い印象を残す : 結論部では、主題を要約し、その主題について最終判断を下します。最初の問題提起に答えるだけでなく、理想的には導入部で述べたすべての論点を押さえるべきです。

 81. ジャンル、目的、受け手 (Genre, purpose and audience)

 書き手は、誰に向かって何のために書いているかだけでなく、どんな種類の文章を書いているかをよく考える必要があります。表題の3要素は、表現形式や言葉づかいに影響を与えます。

 ジャンル(GENRE) : ノンフェクションの文章は、話の筋より事実に基づいた文章です。たとえば、新聞や雑誌の記事では最上部に見出しがあり、本文は段組みになります。一方、手紙では最上部には差出人の住所が盛り込まれます。

 目的 (PURPOSE) : 文章の目的とは、書く理由のことです。百科事典でパリについての記述は、読者に知識を与えることを前提にしてます。一方、パリ休暇の広告は、訪れてほしいと読み手を説得するのが目的です。

 受け手 (AUDIENCE) : ノンフェクション文章には常に、対象となる受け手がいます。大人、ティーンエージャー、子供、特定の興味や専門知識を持った人たちかもしれません。 』

 

 『 82. 文章を読んで説明する (Reading and commenting on texts)

 ある文章に関する設問に答えるときは、設問内容を理解し、文章中から適切な情報を見つけ出し、それを使って的確な解答を書かなければなりません。

 質問を理解する : 第一段階は、質問を読んで、何を聞いているかを理解することです。どんなに巧みに答えても、論点がずれてしまえば、不合格です。

 正確な情報 : 次の段階では、課題文を読んで、設問に関係する情報や文章の特色を見つけ出します。

 論拠を示す : 何かの文章について論じるときは、取り上げた論点ごとに論拠を示さなければなりません。

 83. レイアウトと表示機能 (Layout and presentational features)

 レイアウト〔割付け〕とは、文章をページ内に割り振る方法のことです。表示機能とは、図版(picture)や見出し(headline)や書体(font)や刷り色のような、文章を特徴づける個々の表現要素のことです。

 84. 情報を伝える書き方 (Writing to inform)

 リーフレット、百科事典、新聞記事、手紙といった情報伝達の文章は、ある主題についての「情報」を読み手に提供します。説明書(instruction)を使って何かやり方を教えるものもあります。

 85. 新聞記事 (Newspaper articles)

 新聞記者は読み手に情報と娯楽を提供するために、いくつかの技法を使います。刊行物のタイプや読者対象によって、記事の具体的な内容と文体が決まります。

 86. 手紙と e メール (Letters and e-mails)

 略式の手紙 : くだけた手紙は、友達や家族や年下の人など、差出人が知っている相手に出すものです。くだけた手紙はおしゃべり口調になりますが、それでも決まったレイアウトに従います。

 e メール : 友達や家族に出すe メールは、特定の規則に従う必要はありません。しかし、適切な言葉を使い、わかりやすい構成にすべきです。

 87. 影響を及ぼす書き方 (Writing to influence)

 反論したり説得したりする文章は、読み手に影響を与えることを狙っています。しかし、反論と説得には微妙に違いがあります。反論では、反対意見を受け入れつつ、それに対して十分筋の通った反論を加えるのがふつうです。説得する文章は、反論よりも一方的で、より感情に訴えるものです。

 88. 説明したり助言したりする書き方 (Writing to explain advise)

 説明や助言のための文章は、情報を伝える文書とまぎらわしいかもしれません。しかし、説明や助言には、情報だけでなく理由、感情、提案が含まれます。助言は権威を保ちながらも、友好的でなければなりません。共感のこもった肯定的な調子にすれば、読み手を励ますことができます。

 89. 分析したり論評したりする書き方 (Writing to analyse or review (米)analyze)

 分析も論評も、テーマを深く考察するものです。ただし、分析ではバランスのとれた判断をするのに対して、論評ではふつう、自説を主張して個人の信念を述べます。

 分析が客観的であるためには、三人称話法が用いられます、例えば、It is often argued…(よく言われることですが~)、It seems likely…(どうやら~のようです)、There is evidence to suggest…(~を示す証拠があります)、Many people believe…(多くの人は~を信じています)、It is sometimes stated…(時々言われることですが~)などです。 』

 

 『 90. 描写する書き方 (Writing to describe)

 物語から広告まで、多くの文書で描写技法(description)が利用されます。描写する文章では、特別な単語を使って読み手の脳裏に生き生きとしたイメージを浮びあがらせるようにします。

 比喩的な言い回し : 比喩表現(figurative language)は誇張法の一種です。より生き生きとした描写にするために、物事を対比させて類似点を示します。 

 直喩 (simile): 直喩は、as や like という単語を使って、あるものを別のもので例えることです。 隠喩 (metapher) : 隠喩は、あるものの特徴を別の単語や語句で表現するものです。  擬人法 (personnification): 物事や考えに人間の行為や感情を当てはめることを擬人法といいます。 

 91. 個人的な体験に基づく書き方 (Writing from personal experience) 

 自分の人生や個人的体験を伝えるとき、それは自伝体の文章といいます。自伝(autobiography)自体が1つのジャンルですが、スピーチ原稿やアドバイス集など別のタイプの文章でも使われ、それらに人間的な雰囲気をつけ加えます。

 最も古い記憶、困った出来事、特にうれしかった・悲しかった・恐ろしかった・誇らしかった瞬間などは、すばらしい主題です。時には、出来事を時系列に、書きだし、人生図(Life map)をつくって見たり、自分のテーマを視点として見るのも、一つの案です。

 92. 物語の書き方 (Writing a narrative)

 物語とは、いろいろな出来事を因果関係によって結びつけた話のことです。すべての物語には語り手、筋書(plot)、登場人物、場面設定が必要です。話によっては、登場人物同士の言葉のやりとりを表す対話部分も含まれます。

 誰の視点か? : 語り手とは、話を進める人のことです。語り手が作中人物で、その人の視点で出来事を語るなら、物語は一人称で書かれます。語り手がその話の外にいて、登場人物を he とか she とか they で指すときは、3人称で書かれます。

 93. ウェブ用の書き方 (Writing for the web)

 オンラインの読み手はふつう、特定の情報を探しています。あいまいなら、あるいは知りたいことが載っていなければ、そのサイト(website)から去ってしまいます。オンラインの書き手は、読み手の関心を持続させるために特別な技法を使います。

 キーワード : ウェブは巨大で、同じテーマのサイトが山ほどあります。ウェブの書き手は、利用者が検索エンジン(search engine)で調べる「キーワード」を盛り込んで、内容が簡単に見つかるようにすべきです。

 これを「検索エンジンの最適化」(SEO)といいます。つまり、見出しや小見出しを検索しやすいものにするのです。 SEO : Search Engine Optimization の略称です。より多くのウェブ利用者に読んでもらうために、そのサイトが目に触れる度合いを高める作業のことです。

 94. 台本の書き方 (Writing a script)

 ナレーションや演劇の台本は、声を出して読んだとき効果を発揮するように書くべきです。演劇の台本はストーリーを描きますが、書かれた物語とは違い、演じられるものです。演劇台本は劇場、テレビ、ラジオ、映画のために書かれます。 それぞれの表現方法は少し違いますが、共通の特徴があります。

 ト書き〔指示〕 (directions) : 台本にはト書きをいれて、舞台上の一人一人がどう行動するかを指示します。ト書きは、俳優がいつ登場し退場するか、どんな調子でせりふを言うかなどを示します。

 対話 (dialogue) : 対話とは、登場人物間の言葉のやりとりのことです。演劇では、対話と行動によって筋立てが展開していくため、せりふは起こっていることを観客に伝える働きをします。

 95. 改作 (Re-creations)

 改作に取りかかる最良の方法は、まず原作を読みこむことです。筋立てとなる出来事や主な登場人物など、原作の重要な要素を盛り込まなければなりません。さらに、その話が持っている気分や雰囲気のような点にも気を配ります。

 96. 点検と編集 (Checking and editing)

 どんな書き手でも、ミスをすることもあれば、より優れた着想を持っていることもあります。書き終えたあとは十分に時間をとって、誤りをチェックし、文章の質を高めることが大切です。

 最も重要な作業の一つは、つづりのミスをチェックすることです。手書きの文書で修正するときは、線で消して、その上に正しいつづりを書きます。

 注意すべき文法的なミスには、不完全な文、正しくない語順、動詞の数の一致ミスなどがあります。いろいろな句読点は、見た目は小さなものですが、正確に使わなければなりません。

 97. 話し言葉 (The spoken word)

 人の話しぶりは、出身地や話す相手といったさまざまな要素に影響されます。話し言葉を書いたり分析したりするときは、これらの要素をよく考えることが大切です。

 会話をしているとき、単語を省いたり不完全な文を使ったりすることがよくあります。haven't や couldn't のような短縮形は、書き言葉よりも話し言葉でよく使われます。言いやすく、会話の流れをスムースにするからです。

 98. ディベートとロールプレイ (Debates and role plays)

 ディベートとロールプレイは会話の一種ですが、どちらも前もって準備する会話です。ディベートは、ある主題をめぐる正式な話し合い、または討論のことです。 ロールプレイ〔役割演習〕とは、参加者がそれぞれの役割を演じる架空の筋書のことです。自分が持つ役柄の人間が特定の状況でどう行動するかを検討することです。

 99. スピーチ原稿の書き方 (Writing a speech)

 私たちがスピーチをする理由はさまざまですが、多いのは仕事や社交の場でのスピーチです。スピーチ原稿を書く技法は、ほかの文章の場合と似ていますが、スピーチ原稿は、声を出して読んだとき効果を発揮するものでなければなりません。

 優れたスピーチはたいてい短いものです。アブラハム・リンカーンのゲティスバーグでの演説(Gettysburg Address)は歴史上最も有名なスピーチの1つですが、3分もかかりませんでした。

 100. プレゼンテーションの技術 (Presentation skills)

 よく書かれたスピーチ原稿でも、発表の仕方がまずければ退屈なものになります。明快に話し、適切な声の調子や身振り、さらには子道具(prop)も使って聴衆を引き込むことが大切です。

 画像、グラフ、表などを使って、解かりやすく説明し、要点をまとめることも必要です。 以上でコミュニケーション技能は、終了です。 』

 

  最後に英語の全体像として、私のイメージを書きます。

 文字(letter)・アルファベット(alphabet) ……→ 単語(word) ……→ 文(sentence) ……→ 会話・物語 となります。 

最初の部分をもう少し分解しますと

 文字 → 音節(syllable) → 語根(root)・接頭辞(prefixes)・接尾辞(suffixes) → 単語 となります。

英語は基本的には表音文字ですので、英語を母国語としている人は、自然に初めての単語でも、音節(音節には、一つの母音が含まれます)で発音し、語根で意味を類推していると思います。

語根(root)・接頭辞(prefixes)・接尾辞(suffixes)の関係は、漢字の扁(へん)と旁(つくり)によって構成されていることに、似ています。次のステップを分解しますと

 単語 → 名詞・動詞・形容詞・副詞… → 句動詞・名詞句・副詞句… → 節(clauses) → 文 となります。

 単語は、文の中では品詞としての役割を受け持ちます。句動詞は、動詞に副詞、前置詞が付いて、一つの動作を表現します。節は主語と動詞を含む語群のことです。さらに最後の部分を分解しますと

 文 → 段落(文のまとまり) → 文体・構成・格調… → 会話(conversation)・詩(poem)・スピーチ(speech)・論文(article)・物語(story)・台本(script) となります。

 ここからさらに、名スピーチや名著への道は遥か彼方ですが、努力次第で誰にでも、そのチャンスはあるのではないでしょうか。 (第104回) 


ブックハンター「親子で学ぶ英語図鑑(中)」

2016-02-02 10:37:56 | 独学

104.  親子で学ぶ英語図鑑(中)  (キャロル・ヴォーダマン著 リービン・リザーズ訳 2014年10月発行)

     Help Yours Kids with English  by  Carol Verderman    Copyright©2013

 英語図鑑の(上)で58.まで来ましたが、後半は、第3章 スペリング (spelling)の途中から 、第4章 コミュニケーション技能 (communication skills) です。あと40項目ほど残りましたが、元気を出してお付き合いください。

 

 『 第3章 スペリング

 59. 文字の硬い音と軟らかい音 (Hard and soft letter sounds) 

 c や g の文字には、硬い音と軟らかい音があります。 硬い "c" 音[k]  cartoon、cow、crack、recall、uncle などです。 軟らかい "c" 音 [s]  cereal、circus、cyan、decent、pencil などです。 

 硬い "g" 音 [g]  galaxy、green、gullible、igloo、lagoon などです。 軟らかい "g" 音 [dg]  gene、ginger、gymnast、angel、allergy などです。 

 60. -e、-y で終る単語 (Words ending in -e or -y) 

 -e、-y で終る単語は、接尾辞が付くとつづりが変わることがよくあります。 単語が -e で終って、母音で始まる接尾辞が付くと -e が脱落すます。 globe + -al = global、 fame + -ous = famous などです。 

 単語が -e で終って、子音で始まる接尾辞が付くと -e が保存される。 spite + -ful = spiteful、 state + -ment = statement などです。 

 単語が(子音+y)で終る時、-ing 以外が付くと -y は i に変わる。 beauty + -ful = beautiful、 apply + -ance = appliance などです。 

 単語が(母音+y)で終る時、接尾辞が付いても -y は保存される。 annoy + -ed = annoyed、 play + -er = player などです。

  61. -tion、-sion、-ssion で終る単語 (Words ending in -tion, -sion, -ssion)

 -tion で終る単語

 -t で終る動詞は、t が並ぶのを避けるために、-ion だけを加える。 subtract + -ion = subtraction となります。

 -te で終る動詞では、e をとって -ion を加える。 complete + -ion = completion となります。

 最後の文字が脱落し、別の母音字が付くこともある。 realise + a + -tion = realisation となります。

 -sion で終る単語

 -se で終る動詞では、e をとり、s がすでにあるので、-ion を加える。 precise + -ion = precision となります。

 この接尾辞は動詞が -d、-i、-r、-s、-t で終るとき使われる。 extend + -sion = extension となります。

 62. -able、-ible で終る単語 (Words ending  in -able or -ible)

 接尾辞の -able も -ible も「~できる」の意味です。

 -able で終る単語 

 そのまま -able を付加する。 enjoy + -able = enjoyable

 -e で終る単語に付くと、-e は脱落する。 value + -able = valuable

 -y で終る単語に付くと、y が i に変わる。 rely + -able = reliable

 -ible で終る単語

 そのまま -ible を付加する。 vis + -ible = visible   (vis はラテン語の語根「見える」の意味)

 単語が母音字で終っているとき、それが脱落する。 response + -ible = responsible

 63. -le、-el、-al、-ol で終る単語 (Words ending in -le, -el, -al or -ol)

 似た音を持つ -le、-el、-al、-ol のような語尾は、きちんと区別してつづるのがやっかいです。

 -le で終る単語

 edible 、sample 、wrinkle 、dangle  は、b、k 上に伸びる文字 (stick) 、p、g 下に伸びる文字 (tail) の後に付くことが多い。

 -el、-al で終る単語

 語尾の -el、-al は、stick や tail のない文字の後に続くことが多い。 travel、camel、central、local などです。

 -al は、語根の意味を変えることがある。 person + -al = personal 、colony + -al = colonial (植民地の) などです。 』

 

 『 64. 子音字が1つの単語、重なる単語 (Single and double consonant words)

 (短母音 + 子音字) 

 depart、強勢が第2音節の part にあるのでpp とならない。 prepare 強勢が第2音節の pare にあるので pp とはならない。

 hammer 強勢が第1音節の ham にあるので mm になる。 valley 強勢が第1音節の val にあるので ll になる。

 二重の子音字と接尾辞

 -er のような母音で始まる接尾辞を、(短母音 + 子音字)で終る1音節動詞に付けると、最後の子音字は二重になる。 run + -er = runner となる。

 -ing のような母音で始まる接尾辞を、(短母音 + 子音字)で終る2音節以上の動詞に付けると、最後の子音字は二重になる。 begin + -ing = beginning となる。

 e、i、y で始まる接尾辞を c で終る動詞に付けるときは、最後の子音字は二重にならない。その代り、硬い "c" の音[k]を保存するために k の文字が加わる。 panic + -y = panicky 

 65. 「 c の後を除き、i は e の前 」という規則 (The "i before e except after c" rule)

 この規則は、ie とつづるか ei とつづるかを思い出すときに役立ちます。

 〔イー〕の音に、ie になる、 niece、belief、achieve、field。 この規則には例外も多い protein、seize、either、weird など。

 c の後が〔イー〕の音になるときは、ei になる、receive、receipt、deceit、ceillingなど。 例外として、ancient、species、policies など。

 〔エィ〕や〔アィ〕の音になるときは、ei になる、weight、height、feistyなど。 例外として、die、pie、lie、cried など。

 〔エ〕の音になるときは、ei になる、heifer、leisure。 例外として、friend など。

 66. 大文字 (Capital letters)

 大文字は、文のはじめ、人や場所の名称や曜日もような時を表す語句にも使われます。例えば、On that ……、San Francisco、River Nile、Africa、Saturday、Halloween、olivia などです。  』

 

 『 67. 黙字 (Silent letters)

 黙字とは、書かれても発音されない文字のことです。

 a 他の母音の前か後 aisle、cocoa、head など。

 b m の後 crumb、limb、thumb など。 t の前 debt、doubt、subtle など。

 c s の後 muscle、scent、scissors など。

 d n の前か後 Wednesday、handsome、landscape など。

 e 単語の終わり giraffe、humble、love など。

 g h の前 daughter、though、weigh など。 n の前 campaign、foreign、gnome など。

 h 単語のはじめ heir、honest、hour など。 ex の後 exhausting、exhibition、exhilarate など。 g の後 ghastly、ghost、ghoul など。 r の後 rhapsody、rhinoceros、rhyme など。 w の後 whale、wheel、whirlpool など。 

 k n の前 knee、knight、know など。

 l d の前 could、should、would など。 f の前 behalf、calf、half など。 m の前 almond、calm、palm など。

 n m の後 autumn、hymn、solemn など。

 p n の前 pneumatic、pneumoniia、pneumonic など。 s の前 psalm、psychiatry、psychic など。 t の前 pteranodon、pterodactyl、receipt など。

 t ch の前 catch、stretch、witch など。 s の後 castle、Christmas、listen など。

 u ほかの母音字があるとき building、court、guess など。

 w r の前 wreck、write、wrong など。 s か t が付くとき answer、sword、two など。  以上です。

 補助的な文字

 補助的な文字は黙字の一種で、あるかないかで単語の発音が変わります。

 a o の後 boat、coat、goat などです。

 b m の後 climb、comb、tomb などです。

 c t の前 indict などです。

 d g の前 badge、dodge、judge などです。

 e 単語の終わり hope、kite、site などです。

 g i と n の間 benign、design、sign などです。 i と m の間 paradigm などです。

 h c の後 ache などです。 i この1語だけ business です。

 l k の前 folk、talk、walk などです。 m の前 calm、palm などです。

 s i の後 aisle、island などです。 w h の前 who、whom、whose などです。 』

 

 『 68. 複合語 (Compound word)

 細かい情報を加える

 house + boat = housebort、 cheese + cake = cheesecake など。

 新しい意味になる

 fox + glove = foxglove (ジキタリス)、 pony + tail = ponytail など。

 69. 不規則な単語つづり (Irregular word spellings)

 どんな規則にも当てはまらないつづりもあります。

 again、because、country、disappear、enough、foreign、graffiti、height、jewel、knee、lawyer、mischievous、nuisance、ocean、people、rough、surprise、tongue、vicious、weird、yacht などですが、1つずつ身につけることが唯一の方法です。 』

 

 『 70. 同形同音異義語、異形同音異義語、同形異音異義語 (Homonyms, homophones and homographs)

 同形同音異義語は、つづりと発音が同じで意味が異なる単語です。 can、back、plane、bank、rose、long、letter、wave など。

 異形同音異義語は、発音が同じでつづりと意味が異なる語です。 read/reed、week/weak、pair/pear、knight/night、for/four、die/dye などです。

 同形異音異義語は、つづりは同じでも、発音と意味が異なる単語です。 reject、minute、tear、content、live、object、wind、bass、contract、produce、row、close、sow などです。

 71. 紛らわしい単語 (Confusing words)

 発音が似ている単語は、つづりを間違えることがよくあります。

 名詞と動詞の混同

 advice と advise、breath と breathe、ceiling と sealing、device と devise、drawer と draw、effect と affect、lesson と lessen、weight と wait などです。

 72. その他の紛らわしい単語 (Other confusing words)

 意味を混同したために、つづりを間違えることがよくあります。

 意味の混同

 adapt と adopt、conscience と conscious、disinterested と uninterested、distinct と distinctive、historic と historical,、regretful と regrettable などです。

 3つの紛らわしい単語

 though と through と thorough、quit と quiet と quite などです。

 73. 略語 (Abbreviations)

 短縮した形で書かれる単語や語句を略語といいます。よく使われる略語

 e.g. exempli gratia (Latin) ; for example 、 etc. et cetera (Latin) ; and the rest、 EU European union、 LED light-emitting diode、 p.m. post meridiem (Latin) ; after noon、 USA Unites States of America などです。 

 74. イギリス式つづりとアメリカ式つづり (British and American spellings)

 l の文字を重ねる カンセラー:counsellor (イギリス)と counseler (アメリカ)、旅行者:traveller (イギリス)と traveler (アメリカ) などです。

 -ise、-ize、-yse、-yze で終る単語

 分析する:analyse (イギリス)、analyze (アメリカ)、近代化する:modernise (イギリス)、modernize (アメリカ)、準備する:organise (イギリス)、organize (アメリカ)、それとわかる:recognise (イギリス)、recognize (アメリカ)、視覚化する:visualise (イギリス)、visualize (アメリカ) などです。

 -ce、-se で終る単語  防衛:defence (イギリス)、defense (アメリカ)、攻撃:offence (イギリス)、offense (アメリカ) などです。

 -re、-er で終る単語  中心:centre (イギリス)、center (アメリカ)、恐ろしい物:spectre (イギリス)、specter (アメリカ) などです。

 -our、-or で終る単語 

 ふるまい:behaviour (イギリス)、behavior (アメリカ)、色:colour (イギリス)、color (アメリカ)、ユーモア:humour (イギリス)、humor (アメリカ)、労働:labour (イギリス)、labor (アメリカ)、隣人:neighbour (イギリス)、neighbor (アメリカ)、精力:vigour (イギリス)、vigor (アメリカ) などです。

 75. イギリス式つづりとアメリカ式つづり(追加) (British and American spellings)

 異なる発音、異なる単語

 航空機:aeroplane (イギリス)、airplane (アメリカ)、アルミニウム:aluminium (イギリス)、aluminum (アメリカ)、歩道:pavement (イギリス)、sidewaik (アメリカ) などです。

 イギリス英語では、異なる意味を表すために、「発音が同じでつづりの異なる2語」を使うことがあります。

 storey :イギリス英語では「(建物の)階」、story :イギリス英語では「物語」。アメリカ英語では、story は両方の意味。

 enquire :イギリス英語では「情報を求める」、inquire :イギリス英語では「調査を実施する」。アメリカ英語では、inquire は両方の意味。

 metre :イギリス英語では長さの単位、「メートル」、meter :イギリス英語では測量用機器「メーター」を指す。アメリカ英語では、meter は両方の意味。

 tyre :イギリス英語では車輪のゴムの部分、「タイヤ」、tire :イギリス英語では「疲れる」。アメリカ英語では、tire は両方の意味。

 発音しない -e の保存と脱落

 確認:acknowledgement (イギリス)、acknowledgment (アメリカ)、高齢化:ageing (イギリス)、aging (アメリカ)、斧:axe (イギリス)、ax (アメリカ)、判断:judgement (イギリス)、judgment (アメリカ)、使用できる:useable (イギリス)、usable (アメリカ) などです。 』

 これで第3章のスペリングは、終了です。 (第103回)