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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「親子で学ぶ英語図鑑(上)」

2016-01-24 12:44:12 | 独学

 103.  親子で学ぶ英語図鑑(上)  (キャロル・ヴォーダマン著 リービン・リザーズ訳 2014年10月発行)

     Help Yours Kids with English  by  Carol Verderman    Copyright©2013

 本書のサブタイトルは、”基礎からわかるビジュアルガイド” とありますように、イギリスに於いて親子が一緒に楽しく英語(国語)を 学び直すために編集されたものです。このため、英語の全体像についてのイメージが把握できる構成になっていると考え、取り上げました。

 本書は、四つの章から構成されてます。 第1章 文法 (garammer) 、 第2章 句読法 (punctuation) 、第3章 スペリング (spelling) 、第4章 コミュニケーション技能 (communication skills) です。

 無論、主要部分は、第1章の 文法 ですが、第2章の句読法(句読点)も正確にその機能を理解するのと、してないのでは大きな差を生じます。

 第3章のスペリングは、発音と並んで正しく把握していないと、記憶する単語の数が増大するに従って、似通った単語同士が干渉し合って、前に進まなくなります。(私はその見本です(笑))

 第4章のコミュニケーション技能は、言語のそもそもの目的が、コミュニケーションのための道具ですので、手紙を書いたり、議論をしたり、台本を書いたり、スピーチ原稿を書いたりできなければ、言語を道具として十分に活用して、いないことになります。

 次に本書の各章ごとに、見出しの部分を見ていき、本書の全体の構成を見ることによって、英語の全体像に、一歩だけ近づけると思います。

 

 『 第1章 文法 

 1. 文法の目的 (The purpose of grammar) 

 言語の組み立て方〔仕組み〕を文法といいます。単語は言語を組み立てる要素です。文法は、単語をどのように組み合わせれば適切な語句や節や文になるかを決定する一連の規則です。

 2. 品詞 (Parts of speech) 

 単語は言語を構成する単位ですが、意味が通じる順番に並べなければなりません。品詞は、特定の単語がどう使われるかを示すものです。

 3. 名詞 (Nouns) 

 名詞は人・動物・事物を名づけるための品詞です。文はふつう、最低1つの名詞か代名詞を含みます。名詞は単数形か複数形のどちらかで表され、普通名詞と固有名詞の2つのグループに大別されます。

 4. 複数形 (Plurals) 

 複数形とは、2つ以上の物を指すときに名詞がとる形のことです。ほとんどの名詞は、単数形(singular form) と複数形(plural form) で形がことなります。

 5. 形容詞 (Adjecives) 

 形容詞は、名詞や代名詞を修飾〔説明〕したり描写したりする単語や語句です。

 6. 比較級と最上級 (Comparatives and superlatives) 

 形容詞は、名詞や代名詞を”比較する”のに使います。ほとんどの比較級は語尾が -er になり、最上級は語尾が -eat になります。

 7. 冠詞 (Articles) 

 冠詞には2種類あります。定冠詞 (the) と不定冠詞 (a) です。

 8. 限定詞 (Determiners) 

 限定詞は常に名詞の前に置かれ、名詞の内容を明確にします。これは日本の学校文法では、扱わない品詞分類です。指示限定詞(that)、所有限定詞(my)、数量詞(much)などです。

 9. 代名詞 (Pronouns) 

 代名詞は”名詞の代り”を意味し、名詞の代用となる単語です。

 10. 数と性別 (Number and gender) 

 代名詞や限定詞は、それぞれが指す名詞に合わせなければなりません。英語では、対象となる人間が3人称単数の場合、男性か女性かによって人称代名詞を使い分けます。 』

 

 『 11. 動詞 (Verbs) 

 ほとんどの動詞は動作動詞です。動詞は文中で最も重要な単語です。動詞がないと、文の意味が通りません。動詞は人や事物の動作や状態を表します。

 12. 副詞 (Adverbs) 

 副詞は動詞、形容詞、他の副詞を修飾します。adverb という単語は本来、”動詞に加える”を意味し、これが副詞の主な働きです。副詞は、何かがいかに、いつ、どこで、どのくらいの頻度で、どんな度合いで起こるかなどの情報を提供します。

 13. 単純時制 (Simple tenses) 

 動詞の時制は、動作が行われる”時”を示します。他のたいていの品詞とは違って、動詞は形を変えます。それらの異なる形を時制といい、1人称、2人称、3人称によって行われた動作の”時”を表します。

 14. 完了時制と進行時制 (Perfect and continuous tenses) 

 これらの時制は、ある行為が続いているのか終わったのかなど、時の経過について詳しく説明するものです。

 15. 助動詞 (Auxiliary verbs) 

 本書では、本動詞を助ける動詞を特に助動詞と呼びます。基本的な助動詞〔第一助動詞〕は、be と have と do です。その他の助動詞〔法助動詞〕は can , could , may , might , must , ought , shall , should , will , would です。

 16. 不規則動詞 (Irregular verbs) 

 動詞の中には、不規則な活用変化をするものもあります。不規則動詞は、重要な動詞なので不規則に変化し、主なものは、75~100個くらいです。

 17. 動詞の一致 (Verbagreement) 

 動詞の”数”は、主語の”数”で決まります。名詞や代名詞のように、動詞にも単数動詞や複数動詞がありますが、動詞は主語に一致させなければなりません。すなわち isと are 、have と has のことです。

 18. 態と法 (Voices and moods) 

 英語の文は、いろいろな”態”と”法”で表現されます。動詞は2通の態で使うことができます、それは、能動態と受動態です。法とは、直接法、命令法、仮定法の3つです。

 19. 句動詞 (Phrasal verbs) 

 すでにある動詞に副詞や前置詞が付くと、新たな動詞になります。句動詞とは、(動詞+副詞)、(動詞+前置詞)、(動詞+副詞+前置詞)の組み合わせです。例として、get up、look out ……です。

 20. 接続詞 (Conjunctions) 

 接続詞は単語や句や節を結びつけます。接続詞は文中の2つ以上の部分を連結するのに使います。各部分を同時に連結したり(and)、従属接続詞 (because) を使って主節と従属節を連結したりします。 』

 

 『 21. 前置詞 (Prepositions) 

 前置詞は、文中の名詞、代名詞をほかの単語と結びつけます。前置詞は決して単独では使いません。前置詞は、名詞や代名詞と文の他の部分との関係を示す単語です。

 22. 間投詞 (Interjections) 

 間投詞は、感情を表すために単独で使われる単語や語句です。例えば、ouch(痛み)、eek, ooh, really〈驚き)、mmm, yeah〈喜び)、oh no(落胆)、help(パニック)、aha〈理解)……です。

 23. 句 (Phrases) 

 句とは、文の一部を構成する語群のことです。句は動詞を含まず、形容詞、副詞、名詞、前置詞の働きをし、それぞれ、形容詞句、名詞句、副詞句、前置詞句となります。

 24. 節 (Clauses) 

 節は文の主要な要素です。節とは、主語と動詞を含む語群のことです。節には、主節、従属節、関係詞節、副詞節があります。

 25. 文 (Sentences) 

 単純なものから複雑なものまで、文にはいろいろな種類があります。文は、単文、平叙文、疑問文、命令文、感嘆文などの種類があります。

 26. 重文 (Compound sentences) 

 重文とは、主節が2つ以上ある文のことです。接続詞、;(セミコロン)、:(コロン)を使う方法があります。主な接続詞としては、and、for、or、yet、so、but、nor の7つがあります。

 27. 複文 (Complex sentences) 

 複文は、少なくとも1つの従属節を含む文です。主節だけを含む重文とは違って、複文は1つの主節と1つ以上の従属節からできています。

 28. 節の正しい用法 (Using clauses correctly) 

 文がいくつかの節を含むときは、正しい意味になるように、節を一定の順番に並べなければなりません。従属節は主節と結びついたときにだけ意味を持つ節ですが、主節はそれだけで完全に意味が通らなければなりません。

 29. 修飾語句の扱い方 (Managing modifiers)

 修飾語句とは、他の単語、語句、語を説明する単語や語句や節のことです。修飾語句を正しく使うと、生き生きとした魅力的な文になります。しかし、修飾語句を文中の間違った場所に置くと、文全体の意味が変わってしまいます。

 副詞の位置の誤り : 1語の修飾語として、副詞のonly、almost、just、nearly がよく使われます。これらはふつう、修飾する語の直前に置きます。違う場所に置くと、別のものになります。

 I just asked Maria to lunch. (つい最近マリアに話しかけランチに誘った) I asked just Maria to lunch. (マリアだけをランチに誘った)

 I almost ate a whole pie. (パイを丸ごと食べたかったが、少しも食べなかった) I ate almost a whole pie. (パイをほとんど丸ごと食べた)

 形容詞や前置詞でもできるだけ修飾する語の近くに置くべきです。 Jim found a silver woman's bracelet. (ここに置くと、silver woman になる) Jim found a woman's silver bracelet. (ここに置くと、女性の銀製のブレスレットの意味になる)

 30. 誤用しやすい単語 (Commonly misused words) 

 よく起こる文法ミスがいろいろあります。話すとき文法的に間違えるのはよくあることですが、書くときに同じように間違えると、文の意味に影響が出てきます。例えば、that か which か?  may か might か?  can か may か?  whether か if か? ……などです。

 31. 否定語 (Negatives) 

 否定語を使うと、肯定文が否定文になります。ふつうは、助動詞の後に not を加えます。 』

 

 『 32. 関係詞節 (Relative clauses) 

 関係詞節は、形容詞節になって名詞を修飾します。関係詞節は who, whom, whose, that, which の関係代名詞を使って、文に情報を付け足します。

 33. イディオム、類似表現、比喩表現 (Idioms, analogies and figures of speech) 

 ある種の工夫をすれば、話し言葉や書き言葉がもっとおもしろく、もっと説得力のあるものになります。比喩表現は、ある点を強調したり、受け手が何かを視覚化したりするのを助けるなど、さまざまな効果を生み出します。

 34. 口語表現と俗語 (Colloquialisms and slang) 

 口語表現と俗語は、ふだんのくだけた話し言葉の一種です。

 35. 直接話法と間接話法 (Direct and indirect speech) 

 せりふの伝え方には、2つの方法があります。ある人の発言を、引用符でくくってそのまま文中で再生する場合を”直接話法”といいます。一方、ある人の発言を、そのままではなく引用符も使わずに伝える場合を”間接話法”といいます。 』

 

 『 第2章  句読法

 36. 句読法って何? (What is punctuation?)

 句読法とは、内容理解を助けるために文章中で使われる符号の使い方のことです。言いたい内容を明確に伝えるためには、単語だけでは不十分です。単語と単語の関係、文の中断、さらに感情を表現するためには、句読法の符号の助けが必要です。

 37. 終了符と省略記号 ”。” (Full stops and ellipses)

 終止符は文が終わったことを表し、省略記号は文や単語が省略されていることを表します。文の省略の例として I thought … 、単語の省略の例として Washington, D.C. などです。

 38. コンマ (Commas)

 コンマは文中の要素を区切るために使われます。コンマは単語や語句や節を区切るために使われます。前置きの句 例として、Once upon a time, there was a garden. 直接話法 例として、Grandma asked, "Can we find more of these flowers?" 呼びかけ の例として、Let's eat Grandma.

 39. セミコロン (Semi-colons)

 セミコロン ( ; ) は、内容的に関連性の強い文や語句を結びつけます。2つの主節を結びつけるセミコロンは、どちらの節も比重が同じで、関連性も強いことを示しています。

 例として、May was warm; it was pleasant. などです。副詞が接続詞として働いて節と節を結びつけるとき、例として、June was hot; however, some cities were rainy. などです。

 40. コロン (Colons)

 コロン ( : ) は文を部分に分けるだけでなく、その部分同士が密接に関連しているころを示します。コロンは、説明、協調、リスト、引用、タイトルとして、使います。

 説明の例として、They know her secret: she is obsessed with socks. 強調の例として、She thinks about one thing: socks.

 41. アポストロフィ (Apostrophes)

 アポストロフィ ( ' ) は、名詞を所有格にしたり、短縮形で省略された文字の代用にするときに使います。文字の省略の例として、it is = it's  、I am = I'm 、I have = I've 、cannot = can't 、所有格の表し方の例として、grapes' seeds(ぶどうの種) 、women's story などです。

 42. ハイフン (Hyphens)

 ハイフンは、単語と単語、あるいは単語内の部分を結合したり分離したりするために使われます。明確さの例として、big-hair society (巨大髪型の、愛好会)、動詞の名詞化の例として、a get-together (会合)などです。

 接頭辞の例として、re-formed (再結成された)、self-service (セルフサービスの)、数字を買い表す例として、twenty-four 、複合修飾語として、hair-loss issues (抜け毛の問題)などです。

 43. 引用符 (Inverted commas)

 引用符 ( “ )は、間接話法や引用文などで使う符号です。引用符は、いつも対で使います。直接話法の例として、“Do pandas eat meat?“  one visitor asked.

 44. 疑問符 (Question marks)

 疑問符(?)は、尋ねる文がそこで終るという合図です。直接疑問文(direct question)では、主語の前に助動詞がきます、例として、When did you last see your cat ? 。

  埋め込み疑問文(embedded question)の語順は平叙文と同じく、主語+動詞になります、例として、Do you know where the cat is ? (where 以下の部分)。

 付加疑問文(tag question)は、平叙文の末尾に加える疑問文です、例として、You don't think I'm responsible, do you? (do you ? の部分)。

  修辞疑問文(rehtorical qusetion)は、言いたいことを強調するためにだけ使う疑問文です、例として、Do I look like a cat thief ? (私は猫泥棒にみえるだろうか(→ いや、そんなはずはない)) 』

 

 『 45. カッコとダッシュ (Brackets and dashes)

 カッコとダッシュは、文中で「強い中断」を表すものです。中断のためのカッコ、例として、The driver bought a new watch. (His old one had stopped working.)  中断のためのダッシュ、例として、It was a long wait - the longest I'd ever had. 「長く持ったー今までで一番長く」

 46. 箇条書き (Bullet points)

 箇条書きにすれば、読み手を文章のキーポイントに注目させることができます。箇条書きにするときの句読法

 Remember to bring these items:

   ・ a water pistol

   ・ a unicycle

   ・ roller sketes.    (最終行は、ピリオド)

 47. 数、日付、時 (Numbers, datea and time)

 Between 1.30 and 11 p.m  (アメリカ英語では、Between 1:30 and 11:00 p.m. と表記する)

 Between half past one and eleven o'clock.  (単語で表した時刻)

 48. その他の句読法 (Other punctuation)

 使用頻度がそれほど多くない句読点として、スラッシュ [/] は、ネットアドレスに使われます、又は選択肢を表す。

 アットマーク(単価記号) ("at"sign) [@]  は、メールアドレスに使われ、個人ユーザー名とホストドメイン名を区切ります。 アンパサンド (ampersand) [&]  は、and を表し、企業名、組織名に使われます。

 アスタリスク(星印) (asterisk) [*]  は、ページの下に追加情報があることを示します。 ナンバー記号 (hash) [#]  は、pound sign、number sign ともいい、number の代りに使えます。

 49. イタリック体 (Italics)

 単語や語句を周囲の語句と区別したいとき、文字をイタリック体にします。タイトルや外国語であることを示したり、強調したりする時に使われます。 』

 

 『 第3章 スペリング

 50. なぜつづり方を学ぶの? (Why learn to spell?)

 スペリング〔つづり方〕は、読み書きのどちらにも大切です。 文字 : 英語のアルファベットには、26文字あり、小文字と大文字で書かれます。 意味 : 多くの英単語はラテン語やギリシャ語に由来します。これらの語根 ( root ) を知って意味を理解しておけば、文字をつづるのに役立ちます。

 単語のはじめと終わり : 単語に別の要素が加わって、新しい単語になるものもあります。この追加分を接頭語、接尾語と呼び、単語の意味を変化させます。

 例として、redevelopment 語根は、develop 開発する、re 接頭語は、再(ふたたび)、ment 接尾語を付けると動詞が名詞になり、〔再開発〕の意味になる。

 51. アルファベット順 (Alphabetical oder)

 辞書は、単語をアルファベット順に並べてそれぞれの定義をまとめたものです。この方法で並べているのは、単語を探したり、つづりや定義を調べたりするのを容易にするためです。

 52. 母音 (Vowel sounds)

 英語のアルファベットには5つの母音字 A、E、I、O、U が含まれます。それぞれの母音字は短音または長音で発音されます。2文字の母音として、aw 〔オー〕、oi 〔オィ〕、ow 〔アゥ〕、oo 〔ウ〕短音、oo 〔ウー〕長音 があります。

 53. 子音 (Consonant sounds)

 英語には、アルファベット全体から5つの母音を除いた21個の子音があります。2文字で1子音は、ch、ng、sh、th(無声音)、th(有声音)、zh などです、

 子音の連続は、単語の最初か最後によく現れます。 bl : block、br : bread、cl : clam、cr : cracker、ct : perfect、dr : drink、fl : floor、fr : fruit、ft : sift、gl : glaze、gr : grapefruit、lb : bulb、ld : mild、lf : self、lk : milk、lm : elm、ln : kiln、

 lp : pulp、lt : malt、mp : chomp、nd : grind、nk : drink、nt : mint、pl : plum、pr : pretzel、pt : adapt、sc : scallop、sch : school、scr : scrape、sk : skeleton、sk : whisk、sl : slither、sm : smoke、sn : snack、sp : spaghetti、

 sp : crisp、sph : sphere、spl : splatter、spr : sprinkle、squ : squid、st : steak、st : toast、str : strawberry、sw : sweet 、tr : trout、tw : twin  以上です。

 54. 音節 (Syllables)

 単語は音節ごとに分割すれば、発音したり正しくつづったりするときに役立ちます。どんな英単語も1つ以上の音節でできています。単語を音節ごとに理解すれば、複雑な単語も単純化され、記憶しやすくなります。単語の分割法には、はっきりした決まりがあります。

  ① 長母音+子音字の例として sa-ving。 ② 2文字以上で1音、1文字だけの音節の例として phys-i-o-ther-a-py。

  ③  短母音+子音字の例として mod-est 。 ④ 接頭辞と接尾語の例として re-han-dle。 ⑤ 同じ子音字、異なる母音の例として im-me-di-ate-ly 。

 単語の強勢(アクセント)の規則  

 ① 多くの英単語では、最初の音節に強勢ががある dam-age。 ② 接頭辞や接尾語を含む単語はふつう、語根に強勢がある in-ter-rup-tion、この場合は、rup です。

 ③ de-, re-, in-, po-, a- で始まる単語はふつう、その部分に強勢はない pro-gres-sive、この場合は、gres です。 ④ 最後の音節に長母音があるときは、その音節に強勢があることが多い sus-tain、この場合は、tain です。

 ⑤ 途中に同じ子音字が並んでいるときは、その直前に強勢がある mid-dle、この場合は、mid です。 ⑥ 接尾辞が、-tion, -ity, -ic, -ical, -ian, -ial, -ious のときは、ふつう直前の音節に強勢がある im-i-ta-tion、この場合は、ta です。

 ⑦ 接尾辞が -ate のときは、ふつうその2つ前の音節に強勢がある o-rig-i-nate、この場合は、rig です。 ⑧ ①~⑦の規則にあてはまらない3音節以上の単語は、ふつう最初の2音節のどちらかに強勢がある sym-pho-ny この場合は、sym です。 』

 

 『 55. 形態素 (Morphemes)

 形態素とは、単語の〔意味を持つ最小の単位〕のことです。すべての単語は少なくとも1つの形態素からできています。形態素を理解すれば、正しいつづりを書くのに役立ちます。

 形態素には、自由形態素 (free morphemes) と拘束形態素 (bound morphemes) があります。自由形態素は、単独で単語になり、拘束形態素は、自由形態素と結びついて使われます。

 ① 自由形態素に -s  という拘束形態素を加えると、cup / cups 複数形になる。 ② 自由形態素に 's を加えると、swimmer / swimmer's 所有を表す。

 ③ 自由形態素に -ier を加えると、hungry / hungrier 比較級になる。 ④ 自由形態素に -est を加えると、long / longest 最上級になる。 

 ⑤ 接尾辞(拘束形態素) -ness をつけると、bright / brightness 形容詞を名詞に変える。 ⑥ 接尾辞 -ion をつけると、act / action 動詞を名詞に変える。

 ⑦ 接尾辞 -ful をつけると、spite / spiteful 名詞を形容詞に変える。(悪意→悪意のある) ⑧ 接頭辞 un- をつけると、help / unhelpful 意味を反対にする。(役立つ→役立たない)

 56. 変則的な英語を理解する (Understanding English irregularities)

 英語は、多くの言語によって形成されてきました。英語の土台はラテン語とギリシャ語ですが、他の外国語も取り込みながら発展し続けています。

 ラテン語の影響 cominitiare → commence (始まる)の起源、superbus → superb (優れた)の起源、verbatim → verbatim (逐語的な)そのまま今も使われている。

 ギリシャ語の影響 skeleton → skeleton (骨格)同じ、pharmakon → pharmacy (薬学)の起源、deinos and saurus ギリシャ語では 〔恐ろしい〕 と 〔トカゲ〕 これが結びついて、dinosaur (恐竜)の起源。

 古英語の影響 aepl → apple (リンゴ)を表す、lang → long (長い)を表す、helm → helmet (ヘルメット)を表します。

 フランス語の影響 parler → parliament フランス語は(話す)を意味し、英語は議会を意味する、recrue → recruit フランス語は、未熟な兵士を指し、英語は新兵の起源。

 57. 語根 (Roots)

 語根は単語の一部で、接頭辞や接尾辞がなくても意味を持つものです。語根は英単語そのものや英単語の一部で、たいていはラテン語やギリシャ語に由来します。語根がうまく見極められるようになれば、語彙をつづったり増したりするのに役立ちます。

 myth 語根は、〔物語〕を意味し、-ology 接尾辞は〔~の研究〕を表し、mythology 〔神話集〕の意味。 re- + form 〔形〕の意味で、reform 〔改善する〕の意味。

 gen 〔誕生〕を意味し、-etic という接尾辞は、〔~に関係した〕を表し、genetic は、〔遺伝学の〕意味。 lingu 〔言語〕を意味し、-ist 接尾辞は、〔行為する人〕を表し、linguist は〔言語学者〕の意味。

 58. 接頭辞と接尾辞 (Prefixes suffixs)

  接頭辞は、語根の前に付いて語根の意味を変えたり新しい単語を作ったりします。 ab- ~から離れて abnormal、 al- すべての almost、 anti- 反する antisocial、 com-, con- 共に community、

  ex- 外へ export、 im-, in- 中に income、 non- ~でない nonsense、 out- 他より優れて outstanding、re- 再び reapply、sub- 下の subway など46個が表になってます。

 接尾辞は、語根の後に付いて、語根の意味や品詞を変えます。 -dom 存在する状態 freedom、-en ~になる brighten、 -ful ~に満ちた cheerful、 -ic ~の特徴を持つ historic、 -ist ~する人 artist、

  -ty ~という性質 society、 -ly 副詞 friendly、 -ment ~という状況 enterainment、 -ness という状態 happiness、 -sion ~という状態 intrusion など51個が表になってます。 』

 

 本当は、見出しだけに済ましてすでに、終了している文字数ですが、多少内容を書かないと、意味がありませんし、途中で終ると、当初の目的であります、英語の全体像の意味がありませんので、英語図鑑(前)、(後)に分けます。 (第102回)


ブックハンター「下流老人とブラック企業を解決せよ」

2016-01-20 20:12:10 | 独学

 102. 下流老人とブラック企業を解決せよ  (藤田孝典、今野晴貴 対談 文芸春秋 2015年12月号)

 藤田孝典:NPO法人 ほっとプラス代表理事 「下流老人」(朝日新書)の著者

 今野晴貴:NPO法人 POSSE代表理事 「ブラック企業」(文春新書)の著者

 『 藤田 : いまは現役時代に公務員や会社員として働いていた人でも、本当にあっけなく「下流老人」になっています。相談に来られる方は、これまで貧困とは無縁だった”普通の人”ばかりで、一様に「自分がこんな状態になるなんて」と口にします。

 本人や家族の病気による高額な医療費、熟年離婚、介護費用の負担、子どもの失業など想定外の要素が重なると、今の社会では一気に転落してしまうんです。

 私は毎年三百人ほどの相談を受けてきた経験から言えば、年収四百万円以下の家庭だと年金支給額も限られ、貯蓄も多くないことから、高齢期にギリギリの生活を強いられる危険性があります。

 「下流老人」を読んだ現役世帯からも、老後を心配して「非正規雇用なんですがどうしたらいいか」 「いまの状況だと老後の年金はいくらか」といった相談が週に何件も舞い込んできます。

 試算をしてみると「厚生年金を入れても八万円」といったケースが多くて一様に驚かれます。自覚がないだけで、すでにみなさん下流に片足を突っ込んでいるんです。

 今野 : 一方で、同書の「下流」という言葉に、一部の福祉関係者からは批判の声も挙がったそうですね。「下流」という用法は階層を生んで差別を助長すると。

 藤田 : 私だって「上流」 「下流」といった区別は好きではないんですよ。ただ、あえて刺激的な言葉を使ったのは、日本人の”一億総中流”意識に強い問題意識を持っているからなんです。

 内閣府の調査では、日本人の実に九割が「自分は中流」だと答えているんですが、貧困支援をしている現場の感覚からはかけ離れているんです。

 いまは「中流」だと意識している国民の少なくない人々が、日本の社会保障制度の中では、近い将来に下流化する崖っぷちにいる状態なんです。「下流老人」では、その現実を伝えたかったのです。

 今野 : 当事者意識が希薄ですよね。穴に落ちている人がいても、「自分だけは落ちないだろう」 「自分には関係ない」と、根拠のない自信をもっているんですよね。

 藤田 : 私が相談を受けていた七十代のある男性は、長女が中学校でいじめを受けて不登校になった。それから三十年間、実家でひきこもり状態になり、うつ病も患っています。

 年金は夫婦合わせて月額十七万円ですが、娘さんの生活費や治療費がかさみ、自宅を売り払って貯金を切り崩しながら暮らしています。

 実家に住み続ける子どもが、ブラック企業に勤めている、メンタルケアが必要などの理由で、親の経済力に寄りかかり、結局は共倒れになってしまう状態を”檻のない監獄”とよんでます。家族の存在が想定外のリスクと化しているのです。

 今野 : 一昔前なら、社会にも会社にも余裕があって、立ち直るチャンスもあったのでしょうね。

 藤田 : いまは「中の上」だと思っている家庭でも簡単に転落してしまいます。本書でも紹介しましたが、五十代半ばの男性は、若年性認知症を発症して勤めていた地方銀行を早期退職しました。

 現役時代は年収千二百万円あったそうですが、夫婦関係に亀裂が入って妻と離婚。財産や年金は分割され、いまは月額十二万円の年金を受け取って暮らしている。

 現役時代の所得が高くても、年金支給額が半分になってしまえば、生活保護基準に該当するレベル。彼は家賃滞納でアパートも追い出され、私たちが保護したときには、埼玉県の公園で生活していました。

 身なりはボロボロで、意志疎通も満足にできない状態でした。下流老人は本人の意思とは関係なくなるものですが、老後を迎えるにあたっての自己防衛策もいくつかあります。

 例えば、年金や介護、生活保護といった制度を理解すること、地域や社会との接点を増やすことを実践すべきですね。

 今野 : 僕が相談を受けた、ワタミの介護現場は壮絶でした。老人介護施設で職員一人が最大で五十人ぐらいを受け持ち、ずっと家にもかえれない状態が続く。

 本当は禁止されているんですが、入居者がいない空き部屋に泊まって連勤する。そんな中、ムードメーカーだった主任が泡を吹いて廊下で倒れてしまい、本部に連絡すると 「泡を吹いただけか。そのまま働かせろ」 との指示が出て、救急車すら呼んでもらえない。やがて主任は口数が少なくなり、ある日姿を消したそうです。

 藤田 : もともと「福祉」と「労働」は別の分野なはずが、これだけ労働現場が劣化してくると、多くの人がそれに耐えきれず生活保護に流れてきますし、隣接した構造になっています。

 今野 : いま、介護現場に限らず、うつ病などメンタルヘルスの問題も大きい。常勤で働いていた人が病気や怪我になった場合、傷病手当金が支払われます。

 その内訳を全国健康保険協会が発表していますが、精神疾患が右肩上がりに急増している。特に二十代、三十代では半分近くを精神疾患が占めています。

 藤田 : その社会的コストは膨大です。精神疾患になった結果、自尊心が傷付き、社会復帰の失敗を繰り返した人へのサポートはとても難しい。本人の自尊感情をふたたび高めて 「大丈夫ですよ」 と自信をつけてもらう寄り添い型の支援が必要になりますが、一人を週五日働ける状態まで復帰させるには多くの時間とお金がかかります。

 今野 : ブラック企業を野放しにしておけば、うつ病になったり自殺したりする国民も増える。当然、医療費は増加して、税収は減ってしまいます。ブラック企業自身は若者を使い捨てにするだけで済みますが、国家としては大きな損失なんです。

 僕は「国滅びてブラック企業あり」と警告を鳴らしてきました。ですから、ブラック企業を取り締まって、一人ひとりが社会復帰しやすいように社会保障を整備した方が国益にもかなっていると思います。

藤田 : その通りです。本来「経済対策」と「社会保障」は車の両輪で、どちらも社会を推進されるエンジンの役割を果たしています。それこそ、放っておけば、十分な収入を得ていないブラック企業社員こそ後に下流老人化する可能性が高いんです。

 高齢者や非正規労働者も消費するわけですし、その人たちが再生産を行えないと企業経済も回らない。安倍政権が気にしている国内の個人消費が落ち込むのは当り前です。 』

 

 『 今野 : 僕たちも貧困や労働の問題を扱っているというだけで、いまだに「貧困対策より、経済成長の方が先だ」と批判されたりしますね。

 藤田 : 社会保障を先行投資としてとらえる視点が必要だと思うんです。将来の負の資産を減らして、働ける人、納税者を増やそうという発想です。このままでは国家財政も破綻してしまいますから。福祉政策は、決して経済成長と相反する動きではありません。

 今野 : 持続可能な社会の仕組みを作るということですね。

 藤田 : 少子高齢化が進めば、社会を維持できるはずはありません。フランスやオランダではすでに五十年前に舵を切っていて、教育と住宅に徹底的に投資をして、ゼロ成長、マイナス成長になっても子どもを産んで育てる仕組みができている。

 教育費は無償化されて、公営住宅が普及しているので現金収入が少なくても生活していけるのです。公営住宅であれば、家賃は月五千円から一万円程度。民間賃貸住宅への家賃補助制度もあります。

 極端な事例では、マクドナルドの店員として働く月収十二、三万円の非正規労働者でもなんとかなる。低収入を補う生活インフラを早急に整備すべきなんです。

 今野 : 東京では、月額の手取り十五万でも家族なら生活は厳しい。

 藤田 : 六万円、八万円もする家賃はとても負担できません。日本にも公営住宅はありますが、応募要件を満たしても、首都圏では当選倍率が三十倍から、ときには八百倍というケースまでありました。

 私たちの活動では、衣食住の中でも住宅を重視していて、理解ある大家さんからアパートを借り上げたり、生活困窮者に物件を紹介しています。

 というのも、職探しをするためにも、まずは履歴書に書く住所が必要だからです。”貧困ビジネス”と呼ばれる悪質な業者の餌食になってしまう可能性もあります。劣悪な住環境に押し込み、粗食を与え、入居者の生活保護費をピンはねする手口です。

 今野 : 住まいを失うと、一気に「下流」へと転落してしまいます。ブラック企業で働く若者が、なかなか辞められない一因でもあります。蓄えがなく、当座の給料すら出なくなると、職と同時に住む場所までなくなってしまうのです。

 藤田 : 安倍政権が「一億総活躍社会」を目指すのであれば、それ相応の土俵を作る必要があります。活躍することを望んでない人はいない。

 そのためには、住宅政策などでボトムアップを図って、いま活躍できていない人に最低限の暮らしを保証してほしい。それが中間層にとっても 「下に落ちても、あれぐらいの生活はできるんだな」 という安心感につながります。 』

 

 『 今野 : 住宅や教育などの最低限の生活保障があれば、仕事としては一日八時間の単純労働でも、それ以外の時間は自由になって、ボランティアや地域コミュニティ、スポーツなどクリエイティブな活動に身を置くことができる。どれも間接的に日本の国力を高めて、社会に貢献することにつながります。

 藤田 : 本当に声が挙がらないんですね。私たちが支援した方の中には、所持金がなくなって青森県から歩いてきた男性がいましたけど(笑)、そこまでバイタリティのある方は圧倒的に少数です。みなさん、「中流」だった自分が生活保護を受けることに後ろめたさを感じて、極言状態まで我慢するんですね。

 今野 : 自殺者が多いのも、声高に主張するより、「自分が悪い」と考えるほうが気が楽になるのかもしれません。

 藤田 : 年間約二万五千人が自殺で亡くなっているといいますが、これは遺書が発見されたケース。遺書がない場合や自殺未遂者まで含めると、支援の現場の感覚では年間何十万人もいると感じる。社会が崩れつつあることを如実に表しています。

 今野 : いま、安保法制に反対している「SEALDs」の活動で、改めて民主主義のあり方に注目が集まっています。ただ、ちょっと思うところもある。もっと身近な生活で改善を求めるべき点にも目を向けてほしいです。

 国会前で「安保法制は憲法九条違反だ」と勇ましくデモをやって会社に戻ると、目の前で労働基準法違反のサービス残業がまかり通っているじゃないかと(笑)

 藤田 : 同じ憲法でも「健康で文化的な最低限度の生活」を定めた憲法二十五条の方がよほど重要ではないかと思いますよ。現実に貧困問題があるわけですから。

 今野 : 政治の役割も重要ですが、国民一人ひとりの意識も改める必要があります。僕たちも現場の支援活動に携わりつつ、政策提言をふくめて情報発信を続けていきたいですね。 』

 

 私たちはこれらの問題に対して、どうすれば良いのだろうか。私が信じる格言に ”物は置場所、人には居場所”です。(居場所とは住む所と職場(社会的役割))

 この住居という問題の中に、東京の港区の中で5千円の家賃の住宅は、要求として無理はあるが、私の住んでいる北海道であれば、国民の権利として、国が保証することは、それほど難しい問題ではないと思います。

 次に、仕事ですが、教育(再教育)、医療、農業、健康回復施設、ひきこもり回復の研究所、介護研究所、リハビリ訓練センター、難民問題研究所(実験所)、砂漠化緑化研究所(実験所)、栽培植物試験センター(実験所)、……の職場を実績のある団体(企業、大学)が用意し、その分の税金を免除する等の政策を行なってはどうでしょうか。

 税金免除するということは : 税金を集めて、それを再配分して、何かを行っても、公務員だけ増えて、効率が非常に悪い。それよりも税金を納める人が、考えてその責任で(公表する)雇用を創造する方が、効率が数倍良いのではないでしょうか。

 国会議員や自治体の長は、A4判一枚のレポートをこれらの問題に対して、公表すること、政党がそれを妨げるのなら、政党など無用の長物である。何の具体的な提案すらできない、人間を私たちが選んでいるであれば、それは民主主義に対する冒涜ではないでしょうか。(第101回) 


ブックハンター「岳飛伝 十四」

2016-01-17 15:05:22 | 独学

 101. 岳飛伝(十四)激撞(げきとう)の章  (北方謙三著 2015年8月)

 本書は、水滸伝全19巻、楊令伝15巻の続編として書かれている岳飛伝14巻目の一部です。読者の皆さんは、水滸伝も楊令伝も読まれてないと思います。

 本来であれば、水滸伝、楊令伝 、岳飛伝のあらすじと登場人物についての解説をしてから、これからの部分を読んでもらうべきですが、これらの事をすべて省略して、北方謙三の中国時代小説の面白さが伝わるかどうかの試みです。まず侯真(こうしん)が王貴(おうき)に報告する場面から始まります。

 

 『 「北に行って、王清は働ける?」  「本人が、やる気があるなら……。逃げているのだ。生き抜こうという気はあるだろう。能力は、そこは王貴殿の兄弟さ。体術の腕も立つ。なにしろ、子午山で、あの燕青(えんせい)殿のそばにいたのだからな」

 「燕青殿は、あんたの師でもあるだろう」  「武松(ぶしょう)殿と燕青殿さ。この二人とした旅は、俺の躰に、まだしみついているよ」  「楊令殿を、捜す旅か」

 「そうだよ。あの時、なぜみんな楊令殿を求めたのだろうか」  「誰も、頭領になりたくなかったからだ、と俺は李俊(りしゅん)殿に聞いたな」  「そう言ってしまえば、それだけのことだが」

 侯真が、瓢(ふくべ)の酒を一度呷(あお)った。こうして、酒を持ち歩くようになったのは、いつのころなのか。

 「ひとつだけ確かめておくが、王貴殿の、王清に対する気持ちは、どれくらいなのだ。やはり、兄弟の情か」

 「兄弟であることは、確かだ。幼いころ、一緒に育った。俺は、王清より、すべてのことで勝っていた。しかし、あいつは本気をだしていないことも、どこかで気づいていたよ。兄弟としての情はあっても薄いのかもしれん。梁山泊(りょうざんぱく)に背をむけようとばかりするあいつが、ゆるせなかったのかもしれん」

 「いまは?」  「あのころ、俺が絶対だと思っていた梁山泊は、もうないのだ。いや、ひとりひとりの心にある、ということだな。宣凱(せんがい)や俺が、まずそう思い定めようとしている。張朔(ちょうさく)は、海で生きるつもりのようだしな。王清も、生きたいように生きればいいのだ、梁山泊聚義庁にいる俺と兄弟であることで、いささかつらい思いをさせるかもしれないが」

 「わかった。張朔の心づもりは、十三湊で瓊英(けいえい)殿の代りをさせよう、というところにあると思う。五郎は、日本に置いておくと、殺されるかもしれんし」

 「それでいい、そこに生きる道があるのなら」 侯真がかすかに頷いた。 午(ひる)を知らせる鉦が、打たれている。 王貴は、崔蘭(さいらん)が持たせた料理を、卓に出した。

 「このところ、酒を飲む姿しか見ていない、侯真殿。一緒に食わないか。食っている姿も、見てみたいよ」  「奥方の料理か」  侯真は、瓢を一度呷ると、饅頭を二つに割り、煮込んだ肉を挟んで食い始めた。

 「ところで、調べはついたのか、侯真殿?」  「なんの?」  「胡土児(コトジ)さ。兀朮(ウジュ)の養子の」  「俺がそれを調べていると?」 「北へ行く回数が多い。このところ、侯真殿だけでなく、金主まで調べはじめているようだ」

 「そうか。はっきりするまで、誰にも言わないつもりだったが、まわりからわかってきてしまうものか」 侯真は、饅頭を食ってしまい、指を舐めた。

 「楊令殿の息子だ。間違いない、と俺は思っている」  聚義庁に入ってくる情報には、金軍のものも少なくない。胡土児という男が、いきなり兀朮のそばに現われ、しかも養子だった。その過程ははっきりしないが、自然ではなかった。なんらかの理由で、兀朮は胡土児を養子にしたのだ。

 「楊令殿の息子が、梁山泊と闘っているのか。皮肉なものだ」  「胡土児は、知らんよ。なにか感じているかもしれないが。関係ありそうな人間は、みんな死んでいる。ただ、会寧府の北の村で、一緒に遊んでいたやつなどはいるのだ」

 宣凱と王貴が、胡土児のことを楊令の息子かもしれないと思いはじめたのは、謎に包まれる必要もない人間が、謎に包まれ、しかも武将ではなく、兀朮のそばに居続けているからだった。そして、年齢が、楊令が北にいた時と符合した。

 「胡土児は、兀朮が父親だと思い定めている。いろいろ感づいても、気にしていないと思う。自分の血に、負けるような男ではないな」  「会ったのか?」  「爪のかたちが、そっくりだった。楊令殿と」  「息子だとしても、いまさらどうしようもないな」

 「兀朮の方にも、息子に対する感情があるような気がする」  「吹毛剣(すいもうけん)を」  「どこにある?」 

 「聚義庁に保管されている。それだけは、胡土児に届けるべきでないかな。正直に言うと、やがてあの剣は、聚義庁の重荷になりかねない、という気がするのだ」

 「なんとなく、わかるような気もするが」  「誰が、なんと言って届ければいいのかな」  「戦の前が、いいだろうな」  「そうかな」

 「春の戦について、羅辰(らしん)と話してみた。兀朮の、金主に対する愛情も、あるとしか思えないのだ。金主と胡土児は、複雑な関係になりそうだぞ」

 「俺は、南から北上してくる秦容(しんよう)殿の軍を、どう援護するか、その策を講じなければならん、この役は、統括だな」

 「王貴殿も、統括と呼ばれている。知らないわけではあるまい」 頭領ではない、という意味での統括だった。何人いてもいいのだ。

 「それにしても、北でも南でも、戦か」  「一度、中華を底の底からかき回す。濁るだけ濁らせて、宣凱と俺は眼を凝らすのさ」

 「死人が、多く出るだろうな」  「これまでに死んだ人間の数と較べると、わずかなものだと思う、侯真殿」

 「俺が、酔って独り言を呟いているようになったら、任務からははずしてくれ」  「いまの任務からは。致死軍よりいくらかつらい任務を、宣凱と俺は、智恵を搾って考えるよ」

 侯真が、ちょっと首を振った。それから、昼食の礼を言って出て行った。やるべきことは、いくらでもあった。隣り同士の部屋にいるのに、宣凱に会えたのは、夕方になってからだった。

 王清のことを伝えた時は、宣凱は黙って聞いていた。しかし吹毛剣を胡土児に届ける話になると、色をなした。

 「なぜ、私なのだ?」  「それは、統括だからだ」  「おまえも、統括と呼ばれているではないか」  「先任の統括ではないか。おまえ以外に、この役を果たせる人間はいない」

 「待てよ、王貴」  「俺は、おまえの要請で、聚義庁に入ることを肯(がえ)んじたのだ。悩んだが、ほかならぬおまえの要請だ。俺はそれについて、文句は言わなかった」

 「おまえでなく、張朔に要請すべきだった」  「やつは、いつも海の上だ。それに、やつも俺と同じことを言っただろうと思う」 宣凱は、しばらく黙りこんでいた。

 「それにしても、いまこの時に、楊令殿の息子か」  「めぐり合わせを、なぜなどと考えるなよ、宣凱。いつかはっきりするだろう、と俺たちは思っていた。しかし、すでにはっきりしていると、心のどこかで感じていたさ」

 「そうだな」  「おまえ、楊令殿が好きだったろうが。少なくとも、俺より親しく接してきたはずだ。やはり適任だ。俺も一緒に行きたいが、二人して聚義庁を空けるわけにはいかん」

 「私が、やらなければならないのか」  「いやなら、吹毛剣はおまえが持っていろ」  「酷いことを言うなよ、王貴」

 「ほかに、言いようはない」  「嵌(は)めたな、侯真殿と二人で」  「ひとつだけ、逃れる方法があるぞ、宣凱。おまえと同じくらい、適任の人がいる」

 「史進殿か?」  「あの人に頼む度胸があるなら、おまえ、頼んでみろ」  「鉄棒で、殴られるな。そして、口からはらわたを飛び出させる。私の、そういう姿を、おまえは見たいのか?」

 「ほんとうの話、適任は史進殿だろう」  「私もそう思う」  「二人で、頼みに行こうか」  「おう。おまえはやはり、私の友だ」

 呼延凌(こえんりょう)にまず話を通して、できれば一緒に行って貰う。王貴は、一瞬だけそう考えた。呼延凌に蹴り倒されそうだ、と思った。呼延凌の拳は、不意に飛んできて、避けきれないのだという。王貴は、これまでに一度も打たれたことがなかった。

 さまざまのことを、冷静に話し合って決めてきた。二人だけで、時には七、八人で、多い時は十数人で。曖昧な意見は許さなかった。

 曖昧なものが膨らんで、手に負えないほど大きくなるかもしれないからだ。可能なかぎり、曖昧さを排除して、すべてをわかりやすくしておく。

 宣凱も王貴も、死力を尽くしていた。その先にあるのは、死や不名誉かもしれないが、いま、確かに誰よりも生きている。しかし、史進にものを頼むなどということになると、若造にもどってしまう。

 「ほんとうに、一緒に行ってくれるな、王貴」  「ああ」 外は、暗くなっていた。聚義庁の明かりも、まだ消えない。 』

 

 『 全身に、粟がたった。なにか、とてつもないものが近づいてくる。そんな気がした。胡土児は馬上で、剣の柄(つか)に手をやった。しかし、抜かねばならないような、害意は感じられない。

 騎馬隊である。その姿が、次第にはっきりしてきた。血に塗(まみ)れている。そう思った。部下たちも、縛られたように硬くなっている。

 赤い色の正体が、見えた。赤騎兵である。なぜだ、とは考えなかった。ただ、赤騎兵が近づいてくる、と思っただけだ。開封府(かいほうふ)から、それほど大きく外れていない東の原野だ。胡土児の隊の野営地は、四里ほど西だった。

 赤騎兵が、ずらりと並んだ。二百騎。胡土児の隊と同じだった。二騎が、前へ出てくる。九紋竜史進(くもんりゅうししん)。じわりと、全身に汗が出てきた。胡土児は部下を制して、一騎だけで前に出た。

 史進についているもう一騎は、具足をつけておらず、侯真という名の男であることはわかった。史進の横では、消えてしまいそうに見える。史進と、むかい合う格好になった。じっと見つめてくる史進の眼を、胡土児はなんとか見返していた。

 「戦に来たのではない」 史進の声は、低く落ち着いていた。 「赤騎兵を伴っているが、あいつらは俺自身のようなものでな。なにをやっても、離れることがないのだ」

 動いている赤騎兵しか、見たことはなかった。それも、信じられないような速さで駆ける、赤騎兵だ。赤い塊は、戦場では巨大なけもののように思えた。血に塗られた、いるはずのないけもの。

 「胡土児。おまえとは、戦場でしか見(まみ)えることはない、と思っていた。こんなふうに会うのも、悪くない。俺は、いまそう思っている」

 「俺は、はじめて史進殿を見て、はじめてその声を聞きました」  「戦場で、会っている」  「あれは、史進殿であって、史進殿ではありません」

 「どういうことだ?」  「こわくないのです。とても緊張していますが、恐怖はありません」 史進が、声をあげて笑った。 「眼の前にいるのは、ただの老いぼれか」

 「史進殿です。いま見えているのが、史進殿です」  「胡土児、おまえはつまらんことを言うな」  「申し訳ありません」  「話が、できるか?」  「もう、話しています」

 「ほんとうに、つまらんことを言う。部下だったら、蹴り倒しているぞ」  「俺は部下ではありませんが、一度ぐらい、蹴り倒されたいという気もします」

 「話だ、胡土児」  「わかりました。俺の野営地に来られますか。そこなら幕舎がありますし、焼けた鹿の肉などもお出しできるのですが」

 「腹は減っているが、めしを食いに来たわけではない」  「話ですね。ここでよろしいでしょうか?」  「腰を降ろすと、気持ちのよさそうな草だ」 

 史進が、身軽に馬から降りた。胡土児も、慌てて降りた。草の上に腰を降ろし、史進は横を指さした。並んで座る、という恰好になった。

 「梁山泊の若造どもは、度胸がない。呼延凌までだ」  「戦場では、度胸の塊のように見えます」 

 「つまらん話だが、年寄りの俺に持ち込んできた」 胡土児は、ただ頷いた。史進と並んで、腰を降ろしているのだ。

 「剣を、ひと振り届けに来た」  「頂戴いたします」  「おい、少しは驚け。理由ぐらい訊け」

 「いつか、誰かが、剣を届けに来る。その時は黙って受け取れと、といわれました」  「誰に?」

 「金軍総師にです。いや、父に」  「兀朮殿が、そう言ったか」

 そう言った。そんなことがあるのかと思ったが、ほんとうに届けられたようだ。それも、九紋竜史進によって。

 史進が、黙って袋に入れられた剣を差し出した。頭を下げ、胡土児はそれを受け取った。強い気配のようなものが、一瞬、剣から伝わってきた。

 胡土児は、それをいま見ていいものかどうか、迷っていた。しかし、手だけは動いている。気づくと、袋から剣を出し、鞘を払っていた。

 拵(こしら)えなどには、眼はむかなかった。鈍く白い刃(やいば)の光が、不意に胡土児を縛りつけた。吸いこまれているのだろうか。撥ね返されているのだろうか。剣が、じっと自分を見つめている、と胡土児は思った。

 「吹毛剣という」 史進の声が、遠くから聞こえたような気がした。

 「英傑の血を受けた者に、返すだけだ」 ようやく、意志の通りに、手が動いた。鞘に納め、袋に入れた。

 「会えてよかった、胡土児」  「行ってしまわれるのですか、史進殿」 

 「おまえは、なにも言わずに受け取った。それでいい」 史進が立ちあがり、胡土児も立った。

 馬にむかって歩いていく史進の背を、胡土児は黙って見つめていた。赤騎兵が、一斉に馬首を回した。史進と、赤騎兵が駆け去っていく。侯真ひとりがぽつりと残っていた。瓢を持ち、酒を飲んでいる。

 「飲まなきゃ、いられないな。俺は、滑稽としか言い様がない役回りだった」 侯真が、また瓢を呷った。

 「その剣の謂(いわれ)について、説明しなければならないので、強引についてきた。あの人は、俺などはじめからいないように、ただ駆けていたよ。あの人は、言葉が少ない。俺が、説明しなければならないだろう、と思ったのだ」

 「語ってくれた。実にさまざまなことを。雄弁な人だった」

 「まったくだ。この歳になっても、俺は言葉がないと落ち着けない。落ち着ける人間がいるのだということが、痛いようにわかったよ」

 胡土児は、袋に入った剣を、脇に抱えるように持っていた。もう、気配らしいものはなにも伝えてこない。

 「俺も、消えるよ、胡土児殿」  「見送ろう、風になることはないぞ、侯真殿」 侯真は、馬のところまでゆっくりと歩き、胡土児を見て一度笑うと、駆け去った。

 調練の予定は、あと二日残っていた。何事もなかったようにそれをこなし、胡土児は部下を率いて、開封府郊外の軍営に戻った。沙歇(さけつ)に、帰還の報告をした。軍営は、いつもと変わりはない。

 袋に入った剣を持ち、本営に行ったのは陽が落ちてからだった。営舎に入る時、胡土児は海東青鶻(かいとうせいこつ)の旗を仰ぎ見た。階(きざはし)に足をかけると、衛兵が直立した。

 「入ります」 声をかけ、胡土児はじっと立って待った。入れ、としばらくして返答があった。

 兀朮は、具足を脱いでいた。卓には、開封府周辺の地図が、拡げられている。そこで戦がある、とでもいうような感じだ。

 「九紋竜史進に会ったそうだな。赤騎兵が、遠くからだが、目撃されている」  「俺に、会いに来られました」

 「その剣が、届けられたのか」  「はい」  「おまえに、言い渡すことがある」

 兀朮は、一度、眼を閉じた。そうすると、ひどく歳をとっているように見える。胡土児は床に眼を落とした。

 「北に行き、耶律越里(やりつえつり)の指揮下に入れ」 これから、梁山泊との戦だった。北に行くということは、その戦からはずれるということだ。

 「納得できなくても、行け」 耶律越里は、病だった。長い病で、快方にむかってはまた悪化する、ということをくり返していた。そのたびに、少しずつどこかが冒されている、と斜律里(しゃりつり)の書簡にはあった。実際の指揮官は、斜律里だろう。

 「耶律越里は、冬を越せまい」  「どうしても、ここにいてはならないのですか?」

 「これは、軍令だ。いや、俺の頼みだ」  「父上、俺は父上の息子です」

 「そうだ。北へ行っても、それは変わらぬ。終生、変わることはない」  「父上とともに、戦をすることは許されないのでしょうか?」

 「俺の息子であると同時に、幻王楊令の血を受けている。それが、おまえだ」

 「完顔成(かんがんせい)殿が、俺をよく見に来られました。弟を訪ねるふりをして、俺を見に来られていたのだと思います」

 「おまえは、自分の血に気づいていた、というのか?」

 「なにか、不思議だっただけです。ほかの子供には見むきもせず、俺だけをそばに呼んで、いろいろと話されました」

 「おまえの躰に流れる血を与えた男に、会ったことがあるだろう。虎より弱い人間が、なぜ虎に勝てるのか、幼いおまえに教えようとした男だ」

 「俺の躰にその男の血がながれていたとしても、俺の心には、父上の血が流れています。戦人である、兀朮の血が」

 「俺も、そう思っている」  「そばにいさせてください、父上」

 「ならぬ、吹毛剣で、梁山泊の人間を斬ってはならぬのだ。それをやれば、おまえは人でさえなくなる」

 「望むところです」  「俺は俺の息子に、人でいて欲しいな」 兀朮の眼から、水が流れ落ちてきた。涙だとは、思わなかった。ただの水だ。

 「父上、お願いします。北の戦線は、斜律里の指揮で、十分に維持できます」

 「おまえが、斜律里のために剣をひと振り用意すると言った時から、こういう日が来るだろうと思っていた。剣とは、まことに厄介なものでな」

 「この剣は、捨てます」

 「できるか、おまえにそれが。宋建国の英雄、楊業(ようぎょう)が、自らの命をかけて、打った剣だ。一緒に打った鍛冶は、打ち終わった時に死んだと言うぞ」

 「捨てられます。思えばただの剣にすぎません。この場で、叩き折ることもできます」

 「俺の片脚を落とした剣だ。岳飛(がくひ)の右腕を落とした剣でもある。それをおまえは、叩き折ると言うのか?」

 「この剣がなければ、父上は俺を、息子のままでいさせてくださいます」

 「この剣があろうとなかろうと、おまえは俺の息子だ。それは忘れるな。おまえが息子と思える自分が、俺はいとおしいほどだ」

 「ならば、せめて戦の時だけでも、そばにいさせてください」

 「ならぬ。これは、父と子の約定だ。破れば、父子(おやこ)の縁が切れるぞ」

 「俺にわかる理由を言ってください」  「陛下だ」 兀朮は、また眼を閉じた。

 「というより、俺の甥だな。あれは、俺に息子がいることを、許しておらん。虎坊党(こぼうとう)を遣って、おまえの動静を調べあげている。史進の赤騎兵がおまえのところに行くのを見ていたのも、虎坊党の者たちだ」

 「俺には、なにほどのこともありませんが」

 「剣で、殺しに来ると思うか。弓矢で狙うと思うか。毒もある。もっと陰惨な、謀略もある。俺はいま、そういう思いから烏禄(ウロク)を守るだけで、精一杯だ」

 「俺が、海陵王を斬ります、この剣で。そして、この地に新しい国を建てればいいのです」

 「そうやってできた国は、そうやって潰れる。俺の親父は、遼(りょう)という国を相手に、女真(じょしん)族を率いて闘ったのだ。そうして、国を建てた。これは大事なことなのだ。海陵王を斬ることは、俺の親父をおまえの祖父を斬ることと同じだ」

 「わかりません」

 「俺も、海陵王については、わからないことがしばしばある。俺にかわいがられたいと思いながら、俺を憎んでもいる。そして、そういう自分を持て余してもいるのだろう」 兀朮が言っていることは、理解していた。しかし、頭でだけだ。

 「明日、北へ発て、胡土児」  「そんなに」

 「しばらくは、会寧府より南に来ることを禁じる。軍令よりも重いぞ。父として、禁じているのだ」 兀朮は、決めていた。胡土児がこの剣を手にした時、そうしようと決めていたのだろう。決めたことを、覆したことはない。

 「俺の身勝手で、おまえの人生をかき回してしまった。それでも、おまえは、俺の息子だ」

 「父上は、俺の誇りです」  「行け、胡土児。三年は、会寧府から南へ来るな」 兀朮は、一度も吹毛剣を見ようとはしなかった。外に出ると、沙歇が立っていた。

 「総師は、俺が絶対に死なせん」  「沙歇殿は、すべて御存知だったのですか?」

 「おまえを北にやる、と総師が決められた。おまえの隊の代りに、手足のように動く二百騎の隊を、調練された。本気なのだと思っただけで、おまえが北へ行く理由はしらない」

 「父を、よろしくお願いします、沙歇殿。三年経ったら、帰ってくるつもりです」 並んで、歩いていた。自分の営舎のところで、沙歇は止まった。胡土児はむき合って一度頭を下げ、それから自分の営舎に向かった。

 早朝に、出発した。 ただの出撃というかたちで、見送るものはいない」 』 (第100回)

 


ブックハンター「クリエイティブ資本論」

2016-01-08 14:47:14 | 独学

 100. クリエイティブ資本論  (リチャード・フロリダ著 井口典夫訳 2008年2月)

 The Rise of the Creative Class   by  Richard Florida   Copyright © 2002

 本書は、原題からは、副題の「新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭」の方が近いと考えられます。著者は、現代は都市が経済、文化、科学・技術をリードし、その都市をクリエイティブ・クラスがリードしている。従って、クリエイティブな人材が、国家の社会資本であるとして、「クリエイティブ資本論」というタイトルになっていると考えられます。

 

 『 リチャード・フロリダは、いま世界で最も注目されている都市経済学者の一人である。フロリダの主張は、従来の細分化された学問領域にとらわれることなく、都市経済学・経済成長論から文化論・社会学・政治学にまで踏み込んで展開される。

 人のクリエイティビティを最高の資源・財として真正面から捉え、それが自由闊達に発揮されるように経済・社会全体を再構築すれば、都市・地域や国はもちろんのこと、地球全体の富も最大になるであろうということを、さまざまな事例・データ等に基づいて論じている点に特徴がある。

 背景にあるのはライフスタイルや生き方の変化である。生活できることが当たり前となり、その分、人生に何かしらの意義を求めたいとする人々の増大が引き起こしている変化である。

 自分自身のアイデンティティを確立しようとする、内発的なエネルギーから生み出される変化とも解釈できる。それが仕事に取り組む姿勢、時間や余暇の使い方、日常生活の過ごし方、コミニュティのあり方に大きな影響を与えているのである。

 フロリダの主張は、停滞する都市・地域はもちろんのこと、ネットバブルの崩壊やテロの脅威の前に逡巡していた欧米先進諸国が立ち上がる際の指針の一つとなり、各方面から好評をもって迎えられた。 』 (「訳者のあとがき」より)

 

 『 私たちには輝かしい未来がある。私たちが発展させてきた経済・社会制度は、人々のクリエイティビティを引き出し、それをこれまで以上に活用できるようにした。

 結果として私たちの生活水準は向上し、より人間らしい持続可能な経済が構築され、人々の生活をより満ち足りたものにする貴重な機会が生み出されている。

 しかし、こうした見通しが実現する保証はなく、実現するのと同じくらいたやすく、実現しない可能性がある。いまアメリカは、まさにその状態にある。私たちがもたらした変化はまだ完成してない。

 この時代の大きなジレンマは、素晴らしい可能性を生み出しながらも、一方でそれを実現するための経済・社会制度が十分に行き渡っていないことになのである。だれかがそれを用意してくれるわけではない。

 クリエイティブな可能性を最大限に引き出すことと、その見返りが与えられることでこの変化は完成するが、それを行うのは私たち自身であり、私たち全員に委ねられていることなのである。

 クリエイティビティは究極の経済資源である。新しい考えや物事をよりよく進める方法を生み出す力は、やがて生産性を向上させ、生活水準を向上させる。

 農業の時代から工業の時代への大変化は、当然のことながら天然資源や労働力によって引き起こされたものであり、最終的にはデトロイトやピッツバーグに巨大な産業拠点を生むこととなった。

 いま起きている変化は、さらに大きな変化に発展する可能性がある。というのも、以前の変化は物理的に投入するものを土地・人員から原材料・労働力へと置き換えるものであったが、今度の変化は人の知性や知識、クリエイティビティといった無限の資源に基づいているからである。 

 本書が主張しているのは、場所はいまも重要な経済的・社会的な構成要素であるということだ。人に仕事を、仕事に人を結びつけるのは場所である。

 人と仕事を結びつけるのに役立つ「厚みのある」流動的な労働市場を提供するのも場所であり、「結婚市場」を形成し、生涯の伴侶を見つけられるようにするのも場所である。

 経済成長が企業・雇用・技術から生まれるとする従来の理解は完全ではない。技術が重要であることについては私もまったく同意見であるが、他の要因も大きく関与している。

 私が提唱する成長に必要な「三つのT」の第一の要素として、技術(technorogy)がある。技術はイノベーションやハイテク産業の集中度によって測定することができる。

 第二のTは才能(talent)である。ここでいう才能とは、経済成長理論で通常使われているような「人的資本」(高等教育を修了した資格を持つ人口の比率)を指しているのではなく、実際にクリエイティブな仕事に就いている人口の比率で測定したクリエイティブ資本のことである。

 第三のTは寛容(tolerance)である。開かれた寛容性の高い場所はさまざまな種類の人を引き寄せ、新しい考えを生み出すという強さを持っている。

 人間の歴史の大半において、富は肥沃な土地や原材料など、その場所の天然資源の恵みによってもたらされていた。しかし今日の重要な資源はクリエイティブな人材であり、それは流動性が非常に高い。

 この資源を呼び込み育成し、動かす能力が、競争力の重要な側面となっている。その際、寛容性と開放性は重要な要素である。 』 (ペーパーバック版の序文)より

 

 『 クリエイティブ・クラスの際立った特徴は、「意義のある新しい形態をつくり出す」仕事に従事していることである。私はクリエイティブ・クラスを二つの構成要素から成るものと定義している。

 まず中核となる「スーパー・クリエイティブ・コア」には科学者、技術者、大学教授、詩人、小説家、芸術家、エンタテイナー、俳優、デザイナー、建築家のほかに、現代社会の思潮をリードする人、たとえばノンフィクション作家、編集者、文化人、シンクタンク研究員、アナリスト、オピニオンリーダーなどを含む。

 またソフトウエアのプログラマーないし技術者、映画作成者などの職業にもクリエイティブなプロセスがあろう。私の定義で最上位のクリエイティブな仕事とは、すぐに社会や実用に転換ができるような、幅広く役立つ新しい形式やデザインを生み出すことである。

 たとえば広く製造、販売、使用できる製品設計や、さまざまに応用可能な原理や戦略の考案、繰り返し演奏される音楽の作曲などである。クリエイティブ・クラスの中核をなす人々は正規の仕事としてこれを行い、報酬を得ている。

 仕事には問題解決のほかに問題発見も含まれるかもしれない。このスーパー・クリエイティブ・コアを中心に、そのまわりに「クリエイティブ・プロフェショナル」が位置している。

 ハイテク、金融、法律、医療、企業経営など、さまざまな知識集約型産業で働く人々である。特定の問題解決のための複雑な知識体系を武器に問題解決に当たるが、それには通常、高等教育が必要であり、そのために高度な人的資源を必要とする。

 この種の仕事に就く人が広く実用的な方法や製品を考案することのあるかもしれないが、基本的な職務ではない。クリエイティブ・プロフェショナルに正式に要求されるのは、自分の裁量で考えることである。

 彼らは標準的なやり方を独自に応用したり組み合わせて状況に当てはめ、判断力を駆使し、時には過激で新しいことを試すことさえあるかもしれない。

 医師、弁護士、経営者などのクリエイティブ・クラスは、多くのさまざまな事例に対処しながらこうした仕事を行っている。仕事を通じて新しい技術、治療計画、経営方法の試行や改良に携わり、時には自分で開発することもあるかもしれない。

 このように自分でつくり出す仕事を続けていれば、クリエイティブ・クラスからスーパー・クリエイティブ・コアの仲間入りをすることもあるだろう。転換可能で汎用性の高い新しい形式を生み出すことが、現在のスーパー・クリエイティブ・コアの基本機能であるからだ。

 同様のことが、増え続ける専門技術者にも当てはまる。彼らは複雑な知識体系を応用して物理的な材料を扱っており、十分に創造的なやり方で問題解決に当たっていると言える。

 たとえば医学では、緊急救命士は「現場の診断をもとに処置を行い」、超音波技師や放射線技師は「生物学、薬理学、疾病過程に関する知識から診断上有益な情報を導き出す」が、どれもかつては医者にのみ許されていた領域である。

 また単一クーロン抗体の生成など、一部の生物医学分野においても、各人が難解な基礎知識を頼りに自分なりの判断力を働かせて、同じ製法や手順を踏んでも、同じ結果が得られるとは限らない。

 こうした個別性が生じることは、図らずもクリエイティブな仕事の一つの特徴なのである。しかし労働者ならだれでもクリエイティブ・クラスに仲間入りできるわけではない。事態は逆方向に進んでおり、仕事は単純労働化し、マニュアルに規定されている 』 (第4章 クリエイティブ・クラス)より

 

 『 余暇の過ごし方の変化にはさまざまな要素が関係しており、しかも理解が難しい。クリエイティブ・クラスに属するある男性は、なぜアクティブなレクレーションを好むのかという質問に対して、「単位時間当たりのエンタテイメント性が高いから」と簡潔に答え、続けて自分考えを説明してくれた。

 ハイキングや散歩といった、昔から行われているレクレーションでも、たえず体を動かしていることになるので、目の前の景色はさまざまに変化し、いままで見えなかったものが見えるようになる。

 風景や店頭のショーウィンドウを眺めるため、あるいは通りで出会った人と話をするために話をするために立ち止まってみたり、一緒に歩きながら会話に熱中したり、一人で歩いてぼんやりと考え事をすることもできる。

 ロッククライミングのようなエクストリーム・スポーツにも、同じような効用がある。こちらはもっとハードだ。身体面でも精神面でも、登ることに常に集中しなくてはならない。上達してくれば、より難易度の高い新しい岩場に挑戦することができ、選択の幅、可能性が広がる。

 ロッククライミングで要求される精神集中は過酷だが、その分、仕事からの完全な解放をもたらしてくれる。クリエイティブ・クラスに好まれるアウトドア活動は、アドベンチャー志向のものが多い。

 登山、ハイキングまたはそれに類するスポーツの本質は、毎日仕事に追われる現実とは違った別世界に入り込み、過酷なタスクをクリアーしながらその世界を探検し、経験することにある。

 私が選んだスポーツは、幅の狭いタイヤのロードバイクでツーリングするという伝統的な形式のサイクリングである。そこでもう一度考えてみると、サイクリングの持つクリエイティブ精神に訴える一面に、答えがあるような気がしてくる。

 サイクリングは多面的である。ある程度まとまった距離を走るならば、激しい運動、挑戦、解放、探検、自然との対話が一度に行える。ペダルを漕ぐことに集中している時、一定のリズムと流れのなかに身を委ね、頭の中にあったものをすべて忘れる。 』 (第10章 経験の追求)より

 

 『 場所は、だんだんと私たちにとって重要なアイデンティティとなってきている。昔、企業が経済を動かしていた頃は、多くの人が自分たちの会社を模範として、自分たちのアイデンティティを見つけていた。

 あるいは自分が育った町に住み続け、家族や昔からの友人と強い絆を結ぶことができた。不安定で常に変化を遂げるポストモダンな世界においては、「アイデンティティの力」は決定的な特徴となっている。

 「どこに住み、何をしているか」の組み合わせが、「どこに勤めているか」に代り、アイデンティティの主要な要素になっている。四〇年前だったら、「ゼネラルモーターズに勤めています」 「IBMで働いています」が、今日は、「私はソフトウエア開発者で、オースチンに住んでいます」と答えるいうことで自らのアイデンティティを語るだろう。

 一〇年前は、「どちらにお勤めですか」と聞いただろうが、いまは「どこにお住まいですか」である。会社が支配していた生活が終焉し、新しい序列がつくられつつある。場所がステータスシンボルとして重要になりつつある。

 私が調査した多くのクリエイティブ・クラスは、自分たちのコミュニティに関わりたいと思っていると言う。それはどちらかといえば「社会をよくしたい」といった気持ちの表れではなく、その場所で自分のアイデンティティを積極的に確立したいという欲求と、アイデンティティを反映し、確認できる場所の構築に積極的に貢献したいという気持ちの両方が反映されたものである。

 たとえばピッツバーグでは、建築から都市計画、グラフィックデザインからハイテク技術までのクリエイティブ分野の若者たちが、「グランド・ゼロ」と名づけた自由な集まりをつくっている。

 このグループは、二〇〇〇年の初めの頃、クリエイティブ・クラスの若者たちの感心とライフスタイルの実態を知るために私が開催した、一連のブレーンストーミング・セッションから生まれたものだ。

 グループの初期の運動は、中心市街地の商業地域を、ありふれたショッピングモールにしようとする再開発計画に反対するものであったが、そのすぐ後に、クリエイティブな環境と都市のアイデンティティに注目するようになった。

 初期の「マニフェスト」はクリエイティビティと場所、そしてアイデンティティの結びつきについて語っている。ここにその全文を載せておこう。

 〈 クリエイティブな友人へ

 話し合い、行動を起こす時がやってきた。私たち、この街の物や文化をつくる者たちは、お互いに結びつき、参加する必要がある。私たちは皆、ピッツバーグを、消費者、スポーツファン、起業家にとって、よりよい場所にするためにはどうすればよいか、聞く準備はできている。

 車で来て買い物をしていく郊外の若い消費者を取り込むための計画を聞こう。私たちのことではない。私たちはすでにここにいる。食べる物、ストーリー、写真、音楽、ビデオゲーム、絵画、建築物、パフォーマンス、コミュニティ、何であれ、活発に作り出している。

 私たちはこの街の文化をつくっているのだ。何がピッツバーグを独自でおもしろく、そして老若男女にアピールするかを知っている。私たちはこの場所らしさを維持し、そしてそれをもっと高めたいと思っている。

 ここにある物を破壊して取り去るのではなく、利用したい。撤去や立て直しを促進する代わりに、文化を内部から湧き出させるような都市憲章を切望する。私たちはあらゆるメディアを通じ、積極的に私たちの意見を聞いてもらおう。私たちの都市をよりよくするために。

私たちは、私たちがやり遂げることを通じて、感心、討論、議論、論争、そして地域のプライドさえも喚起していく。そして公共政策をつくる人々に、若いクリエーターたちの意見を大きな声ではっきりと聞かせたい。〉 』

 

 『 クリエイティブ・クラスが住む場所を決定する要因のすべてをひとくくりにする言葉として、私がつくり出したのが「場所の質」という言葉である。「生活の質」というコンセプトに対比して使っているものだ。

 これは場所を定義し、それを魅力的にするユニークな特徴を表している。一般的に、場所の性質として三つの面を思い浮かべることができる。

 ・ 何があるか――建築物と自然が融合しており、クリエイティブな生活が求めるには最適な環境。

 ・ だれがいるのか――さまざまな種類の人々がいて、だれもがそのコミュニティに入って生活できるよう、互いに影響し合い提供し合う役割を果たしている。

 ・ 何が起こっているのか――ストリートライフの活気、カフェ文化、芸術、音楽、アウトドアでの活動。それらすべてがアクティブで刺激的な活動である

 都市がもたらす場所の質は、相互に関係する経験の集合として把握できる。そのうちの多くは、ストリート文化のようにダイナミックで一般参加型のものである。だれもが単なる観客以上のことができる。そのシーンの一部になることができるのだ。

 また、その経験を変えることもできる。つまり組み合わせを選び、集中の度合いを望みどおりに変え、単にその経験を消費するのではなく、つくり出すことに関わるのである。

クリエイティブ・クラスの多くの人たちも、自分たちのコミュニティの質の形成に関わりたいと思っている。二〇〇一年の秋、プロビデンスで商業地区再生計画の専門家グループを相手に講演した時、三十代の専門家が言ったことはその本質をうまくとらえていた。

 「友人と私がプロビデンスに来たのは、ここにはすでに私たちが好む本物があったからです。古くから住民、歴史的建築物、そして混じり合う民族です」。

 それから彼は、街のリーダーたちにこの特質を再生計画の基本にしてほしい、そうすることで彼や彼の仲間が積極的に力を貸すこと訴えた。

 彼は、クリエイティブ・クラスの人々は、自分にとってやりがいがあり未来をつくる手助けができる場所を、彼と同じように探し求めているのだと言った。そして「私たちは完成されていない場所がほしいのです」とうまくまとめた。

 場所の質は、自動的に生じるものではない。むしろコミュニティのさまざまな面を一つにまとめる作業を含む、ダイナミックなものである。 』 (第12章 場所の力)より

 

 『 経済成長の鍵はクリエイティブ・クラスを惹きつける力にあるのではなく、その潜在的な能力を新しいアイデアやハイテク産業、地域振興といったクリエイティブ経済の成果に転換することにある。

 潜在的な能力を正しく測定するため、私はクリエイティビティ・インデックスと呼ぶ新しい測定指標を生み出した。それは次の四つの要因、すなわち、①労働力におけるクリエイティブ・クラスの人口比率、②一人当たりの特許件数で測るイノベーション、③ミルケン研究所の有名なハイテク都市指数、④ゲイ指数で測る多様性指数の4つから成る。

 クリエイティブ・インデックスは、ある地域のクリエイティビティの潜在可能性を計測するうえで、ただ単にクリエイティブ・クラスの人口比率で比較するよりもよい方法だと考えられる。

 なぜならば、この指標はクリエイティブ・クラスの集中度と、経済のイノベーションの結果とを共に反映するものだからだ。

 クリエイティブ・インデックスは私がある地域のクリエイティブ経済全体での位置を知るうえで基準としている指標であり、地域の長期的な潜在能力を知るバロメーターとして用いているものである。

 また私は、クリエイティブ・インデックスの高い地域をクリエイティブ・センターと呼んでいる。クリエイティブ・インデックスによって、以下のようなことがわかっている。

 ・ サンフランシスコ・ベイエリアは、疑いなくクリエイティビティにおけるアメリカのリーダーである。広いサンフランシスコ・ベイエリアに含まれる主要地域をここに見れば、どれもクリエイティブ・クラスの上位一〇地域にランクインしている。シリコンバレー(第一位)、サンフランシスコ(第二位)、バークレー=オークランド地域(第七位)といった具合だ。

 ・ 他の勝ち組にボストン、ニューヨーク、ワシントンDCといった伝統的な東海岸の地域が入る一方、オースチン、シアトル、サンディエゴ、ローリー=ダーラムのような歴史の浅い地域もはいる。テキサス州からは三つの地域、オースチン、ダラス、ヒューストンが上位一〇地域にランクインしている。中西部の二つの都市、ミネアポリスとシカゴも非常に健闘している。

 ・ 大都市はクリエイティビティを生み出したり獲得したりするのに明らかに有利である。全米で二〇あるクリエイティブ・センターは、三つを除けばすべて人口一〇〇万以上の大都市である。これはおそらく、大都市ならば豊富な選択肢を提供できるためであろう。

 ・ ただし、大都市がクリエイティビティを独占しているわけではない。いくつかのやや規模の劣る地域、サンタフェ、マディソン、アルバニーは高いクリエイティビティ・インデックスを誇る。サンタバーバラ、メルボーン、デイモン、ボイシもかなりよくやってる。

 ・ 大都市圏の一部である都市、アナーバー、ボルダーなども重要なクリエイティブ・センターである。これらの都市には、大きな研究大学がある。

 ・ クリエイティビティは有名なハイテク産業の拠点、文化拠点に限られたものではない。デモイン、ボイシ、アルバニー、ゲインズビル、ポートランド(メイン州)やアレンタウン(ペンシルバニア州)も、クリエイティビティ・インデックスでは上位にある。これらの地域は一般的にはハイテク産業の拠点とは見られていない。これらの地域の経済的な将来性は意外に明るいかもしれない。

 ・ クリエイティブ経済への移行のなかで、多くの地域が取り残されている。このグループにはバッファロー、グランドラビッズ、ミシガンのような古い工業地域が含まれており、またノーフォーク、ラスベガス、ルイビル、オクラホマシティ、ニューオリンズ、グリーンズバラのようなサンベルトにある都市も不安定な位置にいる。この新しい階層地図での負け組は、南部や中西部の小都市や地域であり、取り残され完全に後塵を拝している。 』 (第13章 クリエイティビティの地図)より

 

 『 人々と経済活動を都市部に連れ戻したのには、複数の要因が関わっている。第一に、犯罪発生率の低下で都市部がより安全になったことだ。ニューヨーク市では、最も屈強な住民さえもかっては歩くのを恐れた区域を、いまではカップルが散策している。

 また、より清潔にもなっている。人々は、もはやかつての工業都市の煤煙、廃棄物にさらされることはない。ピッツバーグでは、人々は都心の公園でピクニックをし、かって列車が通っていた軌道を、インラインスケートやサイクリングで風を切り、かって汚染されていた川で水上スキーを楽しんでいる。

 第二に、クリエイティブなライフスタイルやそれに見合う新たな快適さを求めるうえで、都市はうってつけの場所になっていることだ。快適な生活空間が、人々を惹きつけ、地域の経済成長を刺激するうえで果たす役割については、すでに述べてきた。都心の再生は、クリエイティブ・クラスを惹きつけるのと同じライフスタイル要素に関係していることがわかった。

 第三に、都市が人々の大移動の恩恵を受けているという点だ。夫婦として生活する人が減少し、長い期間独身で過ごすひとが多くなることで、都市は独身の人々のライフスタイルの拠点であると同時に、出会いの場としても機能するようになっている。あるいは、諸外国からの移民を受け入れてきたという都市の歴史的役割からも、恩恵を受けている。

 第四に、都市がクリエイティブティとイノベーションの促進者としての役割を取り戻していることだ。ハイテク産業およびその他のクリエイティブな試みは、ニューヨーク、シカゴ、ボストンなどで見捨てられていた市街地の中で芽生え続けている。

 「都市の重層的な特質、専門店、都市生活、娯楽、そしてビジネスと文化活動の広範な融合に接することができる」点から、多くのハイテク企業が都市的な環境を好んでいることを見出した。

 第五はマイナス要因であり、現在の一連の都市再生が、古くからの住人と、新たに引っ越してくる裕福な人々との間に、深刻な対立を引き起こしている点である。都市再生では、強制撤去によって、高級化を進める都市がますます増えている。こうした場所は、最富裕層を除き、だれの手にも届かないものとなってしまっている。 』 

 

 『 大学はクリエイティブ経済の主要な機関なのであり、大学が果たす多面的な役割は、まだあまり理解されていない。大学は単にスピンオフ企業を生み出す研究プロジェクトを量産するために存在しているのではない。

 地域の経済成長に効果的に貢献するには、大学はクリエイティブな場所の三つのT、すなわち技術、才能、寛容性を相互関連させる役割を果たさなければならないのだ。

 ・ 技術――大学は、ソフトウエアからバイオテクノロジーに至るまでの先端研究拠点であり、新たな技術と、そこから派生してできる会社にとって重要な情報源となる。

 ・ 才能――大学は、驚くほど効率的に才能ある人々を惹きつけ、その効果は真に魅力的なものである。著名な研究者を惹きつけることにより、次に大学院生を惹きつけ、会社を生み出す。ごく一般の企業も、定期的に人員を補充するために、大学の近くに拠点を置くようになっている。

 ・ 寛容性――大学は、クリエイティブ・クラスを惹きつけ、抱えておくのに役立つような進歩的、開放的、そして寛容な空気をつくり出すことも一役買っている。オースチンやアイオワシティなど多くの大学街は、常にゲイやその他のアウトサイダーの居場所であり続けてきたのである。 

 しかし、これは大学単独で行えるものではない。周辺のコミュニティには、大学の生み出すイノベーションと技術を吸収し発展させる能力を持ち、クリエイティブ・クラスが求める幅の広いライフスタイルに合わせた快適な生活空間と場所の質を提供することが求められる。

 したがって、大学はハイテク企業の生成と成長にとって、必要条件ではあるが、十分条件ではない。経済学者であるマイケル・フォガーティは、大学発の特許情報の流れには、一貫したパターンがあることを見つけた。

 知的財産はデトロイトやクリーブランドといった古い工業地帯の大学から、ボストン圏、サンフランシスコ・ベイエリア、そしてニューヨークといったハイテク産業の拠点へと移動しているのである。

 新しい知識は多くの場所で生じているが、こく少数の人々しかそうしたアイデアを吸収し生かすことができないのだ。知的財産を経済的財産に変換するには、アイデアを吸収し発展させるクリエイティブなコミュニティが、社会的な構造として組み込まれていなければならないのである。

 大学もこの社会的な構造の一部にすぎない。大学が惹きつけた才能をとどめる場所の質と経済基盤の両方を整備するのは、コミュニティの責任である。

 スタンフォード大学単独で、シリコンバレーを一大ハイテク拠点にしたわけではない。地域の経済界とベンチャー投資家が、この種の経済が必要とする社会基盤を提供したのである。

 スタンフォード大学に隣接するパロアルトは、新興企業、ベンチャー投資家、ハイテクサービスの提供業者に、事務所スペースなどさまざまな施設を提供するハブとして機能している。

 同じことがボストンにも当てはまる。MIT周辺のケンドールスクエアは、放棄された工場や倉庫で荒廃していたが、それらの建築物の改装によって刷新されていった。いまでは新興企業、ベンチャー投資家ファンド、レストラン、地ビールメーカー、カフェ、ホテルがそこにある。

 つい最近、オースチンの地域指導者はインキュベーション施設とベンチャーキャピタルだけでなく、アウトドアの娯楽環境やクリエイティブな人々の求める質の高い場所を創造するために、積極果敢な措置を行っている。

 フィラデルフィア、プロビデンス、ニューヘブンなどでは、大学と地域のリーダーが、このような質の高い場所を積極的に大学の内外につくり出そうとしている。 』 (第16章 クリエイティブなコミュニティの構築)より  (第99回)

  


ブックハンター「ナマズ博士放浪記」

2015-12-21 08:38:49 | 独学

 99. ナマズ博士放浪記  (松坂 實 著 1994年4月)

 本書は、今から35年前に、ナマズとナマズが生息するアマゾンでの釣りと旅の話です。私がこの本を紹介するのは、ナマズの釣りマニアで共感したからではなく、アマゾン河とアマゾンの熱帯雨林とそこで生きる人々について、生き生きと描かれているからです。

 私は緑の地球に於いて、最も大切なものは、何かと問われれば、川(河)と熱帯雨林と答えます。熱帯雨林は、生命の宝庫としての重要性は無論ですが、森林の木の葉によって、光合成によって炭酸ガスと水から、酸素と糖を生成します。

 熱帯雨林の木の葉から、水が蒸発し、1グラム当たり、540カロリーの熱を奪って、地球を冷却しています。川(河)は、昆虫、魚、両生類、爬虫類、哺乳類の生息する膨大な生態系です。人も川辺で生活の糧を得てきました。文明さえも大河の流域で生まれてきました。

 川は森と海を繋いでいます。ウナギなどは、深海から海から川へ、森へと旅をします。サケ、マスは川から海へ、海から産卵のために川に昇ります。その川がダムによって分断されるとき、川は衰退します。

 私達は、熱帯雨林と健康な川(河)が、失われたとき、はじめてその重要性に気付くのではないでしょうか。わずか三五年前の旅のお話ですが、そのアマゾンの主でもある、大ナマズを釣ることは、今となっては、夢でしょう。ではナマズ釣りの旅に元気を出して、出発しましょう。

 

 『 私は再び、秘境パンタナルの湿原をブチ抜くクヤバ河の上を小船に乗って遡っていた。はじめてアマゾンに来たとき、この地で黄金の魚”ドラド”を必死の思いで釣り上げた。そしてそのとき現地の人に、ここには全身金色に輝くナマズがいる、と聞いたのだ。

 そんなことウソだと思うのがあたりまえ。でも、ウソと思っても行ってみたいのが夢なのだ。日本に帰ってからも夢を見続けた。そして夢の続きを見たくて再びやって来た。

 蛇行するたびに、ジャングルに消えんとする真っ赤な太陽が見えては消え、消えては見える。ジャングルシルエットが、真っ赤な空をバックにクッキリと浮かぶ。

 よし、ここがポイントだ。船は船首をザザーッと砂場に突っ込み、止まる。私は今から見る、一年がかりの夢の続きを思うとき、全身の血がフツフツと動き燃えあがってくる。筋肉がピクピクと痙攣するのを感じるのだ。

 さっそく、用意した”現地式釣り具”を手に取り、釣りの用意だ。現地式釣り具は、70号か80号という太いナイロン糸の先に、10センチもある大きな釣り針をつける。ハリスはピラニアに噛み切られないような、針金でできている。

 重いオモリを一個つけ、餌には30センチもあるタライラ―という魚を背がけでつける。糸を頭上でグルグルとまわし、「エイヤー」と投げるのである。黄金のナマズ”ジャウーペーバー”のいると思われるポイントへ投げ込むのだ。

 あとは運を天にまかせて満天の星でも眺め、乱舞するホタルを見てロマンチックな気分に浸ていればよいのだ。漆黒の世界が訪れた。背後に迫るジャングルの城壁は、巨大な悪魔のような威圧感をもって迫ってくるが、川の水面は満天の星を映してキラキラとダイヤモンドのように輝く。

 ナマズ釣りは夜釣りが主だ。川の流れしか聞こえぬはずの奥地だが、暗闇の中で耳を澄ますと、リーンとかジーとか虫の声らしいものが聞こえたり、ときにはボーとかくクワクワとかいう鳥の声が聞こえたり、バシャンという魚の飛び跳ねる音や、

ジャワジャワというワニの餌をあさる音、ザワザワ、ゴソゴソという正体不明の音、そして心臓が一瞬止まる、ウーという猛獣の声らしきものも混じる。パンタナルの夜は休みなく生き続けているのだ。

 単純な作業の繰り返しの中、音と星の移動だけが私の心をなごませる。夢を追い、私は夢の続きを見ているのだ。果たして夢の結末、黄金のナマズは目の前に現れてくれるのだろうか?

 一日目、二日目、三日目と、長く楽しい果てなき夢の結末を迎えることなく過ぎてゆく。私はナマズの魚信を待つ間、糸を木に結び、岸辺の小魚を採集したりして長い時を過ごしていた。 』

 

 『 そのとき、糸がピーンと張り、何かがヒットした。急いで糸を手に取り、グイグイとかなり急いで手もとに引く。相当激しい引きだ。大物だ。すこし退屈していた私は一気に活気づいて、「来いよナマズよ!」 「来たかナマズ!」 と叫びながら糸を引く。

 ところが相手が突然グイグイと強く引くときは一瞬負けてしまい、糸が沖へスルスルと引っ張られるほど強い。しかし私は満身の力をこめて引き寄せる。体重八五キロの私に魚が勝てるわけがない。確実に手もとに近づいてくる。

 そろそろ上がると思ったときだ。水面に巨大な円形の影が浮いてきた。一瞬ドキッとしてブルッと震えがきた。何だこれは? 私は一瞬糸を引く手を止めた。その瞬間この巨大な円形の物体は、棒状の尾を水面に突き立てバシャと身をねじった。

 ブツンと鈍い音がして、私は後ろにもんどりうってひっくり返った。しばらく何が起こったかわからずに茫然としていた。何かやばい怪物だ。一瞬恐怖におののき、私は急いで身を起こして身構えた。

 しかしそこには何事もなかったような暗闇と静寂だけがあった。わずかに、今の出来事を証明するように水面に波紋が乱れていたのと、糸が手もとでダラリとぶら下がっていただけだ。

 しばらくして私はこの巨大な怪物の正体がわかった。”エイ”なのである。アマゾンに棲む巨大な淡水エイなのだ。オレンジに縁どられた黒いスポットのある、直径二メートルもありそうな巨大な奴なのだ。

 サメでさえも釣り上げることができる太い糸を簡単にブッちぎったスゴイ奴だ。砂場はアマゾン淡水エイの棲息地でもある。日中はめったに浅場に来ないが、夜は安眠の場を求めて浅場に集まる。

 アマゾンではピラニア以上に恐れられているのがエイだ。エイの尾にある毒針は、人間の足を一発でブチ抜く。刺されれば二、三日は激痛に襲われ、後遺症が残ることもある。

 河口から遥か何千キロも上流にこんな巨大なエイが棲んでいるくらいだから、アマゾンとかバンタナルは、それ自体が得体の知れなぬ怪物だ。(バンタナル:南米大陸のほぼ中央部に位置する世界最大級の熱帯性湿地) 』

 

 『 黄金のナマズ釣りも一晩中やっていると退屈しそうだが、そんなことはない。こんな巨大なエイが釣れて驚かされたり、ピンタードという一メートル以上のナマズや、六〇センチもある巨大なピラニアが釣れたりと、結構忙しいものである。

 ときには猛烈な引きで、暗闇の中に水しぶきがバシャバシャと上がる超大物に驚くことがある。ナマズだと思って引いてくると、突然目の前に二メートルもある巨大なワニが現れ、あわてて糸を捨てて逃げだしたこともあった。

 四日目、五日目とがんばってもいっこうに黄金のナマズはほほえんでくれない。このポイントに来る前に何ヵ所かナマズを釣り歩いた。もう、ここも移動して次のポイントを探すか……、そんなあきらめの気持ちを持ちはじめたのは七日目頃であった。

 ここに棲む黄金のナマズは、何百匹、何千匹に一匹の珍種で、数は極めてすくなく、よほどの幸運がなければ無理だ。やはり、幻の黄金ナマズは私の夢なのだ。永遠に私に夢を与えてくれるものなのだ。

 ここまでよくがんばってきた。いつの日か再び私はやって来るだろう。明日は移動しよう。今晩が最後だ。たき火の火が赤々と燃え、興奮して汗びしょりの体をさらに熱くする。

 満天の星に雲のように見える天の川。星はいまにも降りそうだ。夜の十二時頃には頭上にいつのまにか大きく丸い月が輝いている。水面はよりいっそう明るくなり、キラキラと輝く。

 対岸のジャングルがシルエットとなってぼんやりと見える。夜明けまではまだすこし時間がある。疲れたな……。全身がけだるく感じ、目もトロンとしてきた。夢から目覚めるときのように脳の記憶が失われていく瞬間だ。

 そのときだ、グッグッグッと糸が引かれる感触。なすがままに糸を持つ。何かがヒットしたようだ。しかしけだるく、全身がおねむになる寸前の、いちばん気持ちのよいときだ。

 どうでもいいや、どうせピラニアだろう、そう思いつつグイと糸を引く。相手もグイと弱々しく引き返す。グイ、グイ、グイ、半分面倒臭そうに糸を引く。ピラニアではなさそうだが大物でもないようだ。

 感触を楽しむような気分で引いてくると、”バシャン!” という音をたてて水面に一匹の魚がジャンプした。脳天をブッ叩かれたような衝撃が全身を貫いた。思わず水の中に二、三歩バシャ、バシャと入り込み、再びグイと引っ張った。

 全身に衝撃が走り、エネルギーが爆発した。金色だった。今の魚は金色だった。私は一気に糸をたぐり寄せる。飛んだ、キラッ。星あかりと月あかりを受けて黄金色に輝く魚だ。

 私は相手の抵抗をまったく無視するように、渾身の力でグイグイと引き寄せる。そして、浅瀬に来てバシャン、バシャンと跳ねる魚を見て叫びをあげた。「やった!ナマズだ、黄金のナマズだ‼」

 ジャウーペーバー……私はついに見たのだ、ついに釣ったのだ。全身金色のナマズだ、頭から尾まで金色だ。見よこの輝きを、夢は本物だった。

 私は陸に揚げた黄金のナマズのまわりを小踊りしながらまわった。手を叩いた、笑った、泣いた。やはりいたのだ、伝説の黄金のナマズは。美しい、美しすぎる。私は肌をさわり、目を見、口に手を入れ、黄金のナマズをなでまわす。

 私の人生で最もすばらしい笑顔のはずだ。午前三時のパンタナルの一角は燦然と輝いている。夜の明けるまで、私の興奮はおさまることはなかった。あゝ信じることのすばらしさ。夜明けだ。私は興奮さめやらぬまま眠りにおちた。そして再び、新しい夢を見るだろう。 』 (第1章 「黄金の郷の黄金のナマズ」より)

 

 『 突然 目の前がひらけて、巨大なうねりが見えた。アマゾン河最大の支流、リオ・マディラ河をせき止めんかのように横たわる巨大な滝、「チオトニオの滝」が目に飛び込んでくる。

 全長三キロメートルもある巨大な滝だ。対岸はボリビヤか、遠く遥か彼方に真っ黒な城壁となってジャングルが見える。これは大きい滝だ。落差こそないがとにかく広い。

 激流となって流れ落ちる水は唸り、悶え、怒り、砕け、ゴーッという轟音は腹の底に重く響く。こんなところに魚がいるのだろうか。まして、こんな激流の中をナマズが遡るのだろうか……。

 私は以前、この滝を膨大な数のナマズが上流に遡るという話を聞いていた。川をのぼる魚は、サケの仲間やウナギなどがよく知られている。だが滝をのぼる魚は、世界広しといえどもそんなに多くはないだろう。

 ましてやナマズが滝をのぼるなんて……、なかなか信じられないことだった。信じられないが、それを自分で確かめなければ反論できない。私は、マラリア銀座と呼ばれるポルト・ベーリョからレンタカーを飛ばして再びやって来たのだ。

 前回は無念の涙で引き返したチオトニオ、今度は絶対にナマズの滝のぼりを見せてくれ。今回は前回に比べ、水がかなり引いている。期待できるぞ。いっときも無駄にできない。ナマズはわれわれを待ってはくれない。

 滝をのぼるナマズの集団は一定期間をおいてやって来る。何百キロの何千キロも集団で移動するナマズたちは確実にやって来るのだ。漁師に聞くと、リオ・マディラの中流をナマズの一群が通過したとのこと。

 そろそろ、小グループがこの滝つぼに集合しだしたという。無数のナマズたちは長旅の疲れをここで休め、激流が気をゆるめる瞬間を待って一斉に遡りはじめるのだ。

 強靭な体をもった勇気あるナマズ軍団は今も激流に挑戦している。いつ滝をのぼりはじめるかわからないが、その瞬間を待つのだ。岸辺にあった漁師らしき家に行き、小さな船外機つきの舟をチャーター、滝つぼへと向かうことにした。

 舟は、ゴウゴウと渦巻く流れに必死に抵抗しながら、滝つぼにある巨大な岩場へ接岸した。船頭によれば、ここが最もナマズが遡りやすい場所なのだそうだ。滝つぼに落下してくる激流は、ときには激しく、ときにはすこし静かになる。

 ふと、足もとの水面に目を落とす。ナマズだ、ナマズがたくさんいる。それも一匹、二匹ではない、重なり合うようにいる。何だろう、バルバードか、ジャウーペラドか。灰色の奴、黒い奴、縞のある奴……、無数に集結しているのだ。

 大きなものは二メートル近いものもいる。小さいものは四〇センチくらいだろうか。なぜこんなにたくさんのナマズが集まっているのだろうか。みんな聞いたとおり滝をのぼるのだろうか。しかしこの激流を遡れるのだろうか。

 私は岩場の上に立って、ジィーッとナマズ軍団を見続けた。ナマズたちがほんとうに滝をのぼるとしたら、その理由は何なのだろう。この広い大河を悠々と泳いでいればよいではないか、なぜこんなに苦労をしてまで遡るのだろう。

 わざわざ滝をのぼらなくとも食べるものはたくさんあるはずだ。本能がそうさせるのか、それとも上流へ上流へと安全な産卵場所を求めての旅なのだろうか。

 アマゾン上流のペルーやコロンビアではしばしば大型ナマズの稚魚が大量に捕えられ、日本に輸入されることがある。これらを考えると、ナマズは上流に向かい何らかの生態的行為を起こすのかもしれない。

 ナマズの仲間は容姿に似ず子煩悩なのである。産みっぱなしでどこかえ行ってしまう他の魚たちに比べて、大切に卵を守り、子を守るものが多いのである。 』

 

 『 「あっ」。怒涛の合い間を縫うように、一匹が遡りはじめた。グイグイと波の間を力強く遡りはじめた。激しい波しぶきに見え隠れしながら確実に遡る。

 ドドーン、大きな波が全身を襲う。一瞬見えなくなる。どこ行った⁉ あっ、流されていく。しかし続いてまた灰色のナマズが一匹、挑戦してきた。ドドーン。巨大な波が襲う。襲う。消えた。また流された?

 いや今度は、わずかに露出した岩場に生えた水草の間に身をひそめている。巨大な波が通り過ぎたあと、再び力強く上流に向かう。頭と体をクネクネと力強く動かし、尾は激しく水を叩く。

 巨大な水しぶきの中に、ナマズの小さな水しぶきが、キラキラと光り散る。「がんばるのだ」 私は思わず声援を送っていた。もうすこしだ。次の怒涛が来た。「もうすこしだ、ここで負けるな」

 ゴーッ、バシャン、ゴーッ。あっ流された。水の中でクルクルとまわって流されていく。私は、”自然”との激しい闘いに感動せずにはいられなかった。滝つぼのナマズがどんどん増えてきた。

 ナマズは力強く波の中に身を突っ込む。グイグイのぼった。「のぼったぞ、立派‼ 立派‼」 ほめたたえられたナマズの姿がスーッと消えてゆく。よかったな、元気な子を産むんだぞ。私は消え去った後ろ姿に声援を送った。

 一匹、二匹のトライが次々とはじまる。今度は三匹が編隊になって挑戦してきた。一匹は左に切れて流されたが、あとの二匹は無事にのぼりきる。遡るナマズの数がどんどん増えていく。

 何十匹ものナマズが一斉にのぼりはじめた。実にすばらしい光景だ。小さな奴、大きな奴、みんなが滝という巨大な障害に向かって挑戦する。人生と同じだ。巨大な障害を乗り切る奴、押し流される奴……、人生の縮図だ。

 しかし、ここでは一方で”自然”と”人間”の激しい闘いもあるのだ。生命を賭けた闘いが。一斉にナマズ軍団が滝をのぼりはじめた頃、先ほどから長い棒を持って見ていた、私と同じ岩場にいる男たちが、身構えだした。

 彼らは岩場の上から魚を捕ろうとしているのである。三メートルほどの棒の先に大きな釣りがついている。それにはロープが結んであり、手もとで持てるようになっている。

 ドドーンと大きな怒涛が足もとで砕け散っていくと、一瞬滝つぼの岩が数メートル露出する。水の勢いが弱くなったその瞬間をみはからって、一斉にサオを持って岩の上を走りだす。

 と同時に、ナマズも岩陰から一斉にアタックをはじめた。渾身の力をふりしぼって遡りはじめた健気なナマズめがけて、サオがさし出される。グイッ、バシャン。ナマズにかかった。血の混じったしぶきが水面を飛ぶ。

 釣が棒から外れる。バシャバシャン。ロープの先を持った漁師は素早く身を反転させると、岩づたいに急いで戻って来る。ドドーン、次の大きな波が後ろから襲って来る。

 一秒でも遅れれば、怒涛のような波が人間もろとも滝つぼに押し流されてしまうだろう。実に見事な早業である(ちょっとナマズがかわいそうになるが)。

 ロープの先で暴れるナマズ、全身灰色でこれはスポット(点)がない。ヒゲがたいへん長いものが一対と、あと二対は下アゴにある。特に一番長いヒゲには皮状のヒラヒラがついている――こんなヒゲははじめて見た。 』

 

 『 またたく間に六十センチ以上もある大物が数十匹も捕えられる。なかには全身銀色に輝く美しいナマズもいる。滝つぼではあいかわらず銀色と灰色の乱舞が続く。

 すると後方に巨大な黒い影。漁師は岩場から投網を投げる。ここの漁師は投網に十五メートルほどのロープを結んでおり、一〇メートルの高さから見事に開いた投網を投げることができる。

 パッと開いた投網はその集団めがけて落下し、ザッパーン!と鉛のオモリが水しぶきを上げる。滝つぼに沈み流される投網。漁師は岩づたいにロープを持って移動する。

 そして足場のよいところに来ると思い切り引き上げる――ズッシリと重そうだ。二人がかりで引っ張ると、黒い魚が網の中で大暴れして岩にゴツン、ゴツンとぶつかる。

 網から出てきたのは、巨大な体、「黒い弾丸」の異名を持つ、ジャウーというナマズである。一メートルはあるキングサイズだ。こんな奴までが滝をのぼろうと、ここに集結していたのか。

 全身のエネルギーを使って遡るナマズを、命がけで捕える漁師。そこには自然と人間の激しい闘いがある。魚にとっては受難であるが、人間にとっても生命を賭けた仕事なのだ。どちらも負けるなと叫びたくなる。

 最盛期には何人いても捕りきれないほどのナマズがこの滝をのぼる。遡上する期間は一年のうち三ヵ月間だけだ。その間に多いときでトラック一台分のナマズを一日で捕ることもあるという。

 いったい何万匹のナマズがこの滝をのぼるのか、とても想像できない。三ヵ月間で一年分のお金を稼ぐのだ。岩場をトントンと走り抜ける人間の早業とグイグイと必死にもがき遡るナマズ。

 そこには自然のすばらしいリズムがあるのだ。一対一の男の闘いが、ドラマが演じられているのだ。ナマズの滝のぼりという雄大な自然のドラマは私を感動させずにはおかなかった。 』 (第2章 「ナマズの滝のぼり」より)

 

 『 ここ一〇年ほど。アマゾンに年二回ほど一~二ヵ月滞在し、転々と移動していてまず第一に感じることは、ナマズがすくなくなっていることと奥地へ奥地へと移っていることである。

 流域に人口が増え、汚染されていることも原因のひとつであるが、金を掘るときに多量の土砂を川に流すことや、金を採るために多量の水銀を使用していることも大きい。

 それと日本でも報道されているが、森林伐採と森林を燃やす問題もある。木を伐ったり焼いたりした後は、単純な放牧地となったり、巨大なプランテーションになったりするわけだが、一度消滅したジャングルは永久に戻ってこないのである。

 そして最大の原因の一つである鉱物資源の開発には、日本の企業が大きくかかわっているし、私たち日本人も多くの恩恵を受けていることを知ってほしい。

 アマゾンなんて遠い国の無縁なところと思っている人がほとんどだろうが、アマゾン破壊の大きな原因の一つが日本企業との合弁会社なのである。宇宙から地球上の人工物でよく見えるのが万里の長城とアマゾン横断道路(トランス・アマゾニカ)である。

 何千キロメートルにおよぶ道路が先住民族のインディオを追い払うように、ジャングルの中を延々とのびる。その道路の両側へ人が入り込み燃やし、貧相な畑をつくる。

 そして、世界一、二といわれる巨大ダムができ、東京都がすっぽり収まるくらいのジャングルを水没させる。そこに住むインディオや動物はさらに奥地へと逃げなければならない。逃げられるものはまだ幸せだ。そのまま水底に消えたものも多い。

 人の住むこともないところ(インディオは別。もともと彼らの土地)に巨大なダムをつくり、どこで電気を使うのか? 答えはその数年後にわかる。世界最大のアルミ工場ができる。

 御存知のとおり、アルミ精製には膨大な電力を必要とする。このアルミ工場も日本資本が大きなウエートを占めている。その後、世界最大の鉄鉱脈が見つかったニュースが流れる(最初からわかっていた?)。

そして世界最大の埋蔵量を持つ鉄鉱石の採掘が始まる。製鉄には膨大な電力と木材(炭)を必要とする。この炭をとるためにジャングルはまた消える。この巨大プロジェクトにも日本資本が参加している。

 アルミ、鉄、木材が姿を変えて多量に日本に輸入されてくるのである。アマゾン横断道路も巨大ダムも巨大プロジェクトもすべて、日本企業の資本参加か世界銀行の融資である。

 御存知、世界銀行のお金は、アメリカと日本がほとんど出しているのである。私はこのままではいけない、日本人が二一世紀を迎える子供たちになにかを残さなければいけない。

 そんな思いから「ピララーラ基金」という、アマゾンの空と緑と水と魚を守る運動をはじめた。この運動を始めてみて、さらに日本人が見えてきた。一部の人以外はまったく無関心なのである。

 いつも熱帯魚という生きものに接しているアクアリスト、ショップ、カメラマン、メーカー、ライター、ほとんどが無関心なのである。友人と思っていた人も無関心なのがわかった。

 お金を寄付してくれというつもりはないが、応援してあげようという声すらかけてこないのである。もう少し地球的視野でものを見る人がいないかと思う。

 私は「ピララーラ基金」を草の根運動で広げ、ジャングルをたくさん買い、そこにアマゾン自然学校をつくり、個性を求める子供、若者の自由な遊び場を提供したいと思っている。 』 (「あとがき」より) (第98回)


ブックハンター「得手に帆あげて」

2015-12-08 10:28:19 | 独学

 98.  得手に帆あげて  (本田宗一郎著 昭和五二年六月発行)

 著者の本田宗一郎(1906(明治39)年11月~1991(平成3)年8月)は、松下幸之助(松下電器)、井深大(ソニー)とならぶ、ホンダの創業者である。本書は昭和52年の本ですが、自分の能力をのばして何かを成し遂げるための哲学は、今日でも通用するものです。

 本書にもありますが、小学校2年生の宗一郎少年は、1914年(大正3年)の秋に浜松歩兵連隊に苦労の末に見た飛行機を自分の手でつくる夢を見て、原動機付自転車、オートバイ、自動車、F1レースへの参加、本田賞の創設と生前に実現しました。

宗一郎少年が夢見て、百年後の2015年12月にホンダジェットの認証がとれるというニュースが 入っています。松下幸之助は、技術者から、経営の神様となり、井深大は、技術者から、研究者となりました。

 しかし、本田宗一郎は、生涯にわたり、技術者であり、少年の心をもっていた気がいたします。常に自分に率直であり、生涯経営者としての面は専務の藤沢が受け持っていたと言われています。

 

 『 人間には勉強が一生ついてまわる。学ぶ心は常に意欲的に保たなければならない。学ぶことは、前進することである。向上することである。だから勉強というものには、これがそうだという唯一絶対のやり方は無いと思う。

 あるのは、それがどれだけの効果が上がるかという「能率の差」だけである。なぜかといえば、勉強は生きるための一つの方法論である。たとえていえば、生活を向上させる合理化のアイデアを得ることと同じだ、と私は思う。

 勉強は個性に合ったやり方でやれば能率が上がる。学校で先生に教えてもらうことも、その人の個性によっては努力の割に効果の上がらぬ場合だってある。

 成績を気にして、コンプレックスを持つほど、バカなことはない。彼も人ならオレも人である。どだいそんなに差のあるものではない。勉強の機会はどこにもあるし、親切な教師はうんといる。

 私は小学校のときから勉強は嫌いだった。家が鍛冶屋だったせいか、小さいときから機械いじりが好きで、学校に行くようになっても理科だけは好きだったが、ほかはてんでダメだった。

 ことに国語とか習字とかいったものは、逃げ廻ったことさえ記憶する。だから成績が悪かったのはいうまでもない。

 ところで、このような私も生来の好きな機械いじりを一生の仕事にしようと、東京の「アート商会」へ小僧に入り、そこを振り出しに現在に至っている。 

 しかし、ここまでくるには、失敗に失敗を重ね血の出るような思いで仕事に取り組んだこともあった。これも勉強だと私は考えている。学校での勉強嫌いの私には、基礎知識がなかったから、こうした方法でそれを学ばなければならなかった。 』

 

 『 私には、結局その方が個性に合っていたのだろう。学んだことは何一つ無駄になったものはない。例えば浜松で「東海精機株式会社」の看板をかかげ、ピストン・リングの製作を始めたときのことである。

 ピストン・リングというのは、わかりやすく説明することはむずかしいが、要約すれば爆発ガスがもれないような役目をする小さな輪で、エンジンのカナメともいえる大切な部分である。

 その当時、すでに理研などでも大量生産していたが、まだ日本ではそれほど研究がすすんでいなかったので、民間で製造しているところはあまりなかった。それだけに困難な仕事であったわけだ。

 しかし、結果は私の敗北に終わった。思うようなピストン・リングができない。くる日もくる日も失敗の連続だった。このときくらい学校時代に勉強をほったらかしにして、遊びに夢中になっていたことを悔いたことはなかった。

 学問は学問、そして、商売は商売と割り切っている人もいる。たしかにそういうこともいえるだろう。しかし、学問が根底にない商売は、一種の投機事業みたいなものでしかなく、真の商売を味わうのは不可能だといえないだろうか。

 私のようなものが、こんなことを口にするのは、いかにも厚顔千万ないい分かもしれないが、しかし、骨身にこたえるほど自分の基礎の弱さを後悔した体験が、強く私にそのことを悟らせたのであった。

 つまり「泥田からアゼ道へのぼることはできても、大道にのぼることはできない」というわけで、私は大きな仕事をやるには、やはり技術の基礎がなければいけないと思い知らされたのである。

 そこで私は当時の浜松工業専門学校、現在の静岡大学工学部の藤井先生をたずねた。「どうして早く持ってこなかったのですか」と、すぐに専門の田代先生に紹介してくれた。

 田代先生が私の製作したピストン・リングを分析し、「これはシリコンというものが足りません」ズバリ原因を解明してくれた。私は敬服してしまった。考えてみれば、そんな初歩的な基礎も知らずにピストン・リングを作ろうと考えていたのだから、我ながらあきれてしまう。

 でも私は自分の不明を知ったとき、やはりこれは根本的に基礎からやるべきだと、はっきりハラを決めた。そして早速、浜工の校長に依頼して、とにかく聴講生の一人に加えてもらうことになったのである。 』

 

 『 五十人の従業員をかかえた会社社長兼二十九歳の老学生が、ここに誕生したわけだ。お陰で、私はいっそう多忙な日々が繰り返されるようになった。

 学校から帰ってくると、私は仕事ととっ組み、夜中の二時三時まで研究を重ね、一日も怠らなかった。このような事情から専門学校に通い出しただけに、私は真剣そのものだった。

 だが、私の入学は、自分で一定の目標を持ち、たずさわる仕事を持った上での入学であったから、授業の中の講義はすべて仕事へ直結させて耳に入れたかったし、目標にそった課目を勉強させてもらいたかった。

 ところがここでの勉強は、一般教養課目とか、教練とか、私にとってはどうでもよいような勉強が多すぎた。きのう聞けば明日役立つような物理、応用科学などの科目はその割に少なかった。

 これは、私のように「腹がへったから、飯を食ったら、すぐふくれた」式に、効果をあせる方が無理なのかもしれないが、とにかくじれったかったので、私は不必要だと思った学課にはいっさい出席せず、その科目の試験には全然応じなかった。

 私としてみれば、ただ立派なピストン・リングを作ることだけが唯一の目的のようなものだったから、試験などには少しもこだわらなかった。落第もなけりゃ進級もない。学校から見れば前代未聞の学生だったに違いない。

 ともかく二、三年は学校へ通って講義を聴いていたように思う。もっとも三年通えば、普通なら卒業だ。私は退学の通知を貰った。若干の不満はあったが、私もその処分を納得した。しかし、その後も一年ぐらいは、学校へ顔を出して講義だけは聴いていた。

 月謝は納めなかったが、学校は何もいわなかった。浜松工専も、この型破りの学生にはさぞ迷惑したに違いない。しかし私にしてみれば、自分なりに懸命の勉強であった。そして九ヵ月目に、宿願のピストン・リングの製作に成功していたのである。 』

 

 『 それでもこの浜松工専時代は、それまでの私には皆無といってよかった技術の理論を、ある程度身につけることができ、当面の必要をみたしてくれた。同時にそれは後年大いに役立った。

 それはなぜかといえば、何か一つのものを見たり聞いたりしたときに、それを正しく判断するための力となり、次のものを考える基礎となったわけだ。「大きく飛躍するには、やはりしっかりした基礎がなければダメだ」ということは真実である。

 現在の学生諸君とは時代も違うし、学科の構成や勉強の内容なども変わってきていると思う。だが、私が後年痛感したような、基礎理論を身につけるということは、今も昔も変わらないはずである。

 これは学生時代のうちはわからない。社会に出てから切実に感じるものだ。ことに将来技術者を目指している若い人には、とくにこのことを強調しておきたい。

 昔から、「見たり、聞いたり、試したり」という言葉がある。これは物事を覚えるたとえに使われる言葉と思うが、「百聞は一見にしかず」の方が効果的だ。しかし、私はこの中で最後の「試したり」が一番大切だと思っている。

 つまり、私の場合は「なすことによって学ぶ」という実践的勉強法が、一番力になり、身にもついたというわけである。私は、工員のくせに、勉強などする必要はない」という人に対して、いつもこう話すのである。 』  (ここまで、「なすことによって学ぶ」より) 

 

 『 「刀鍛冶の正宗の時代には、特定の縦にも横にも広い天才がいれば、それで仕事ができた。次の産業革命後のフォード(アメリカの自動車王)の時代には、仕事をバラバラに解体して、それを一つの流れにして作り上げるようになった。

 それが現在ではどうであろうか。製品が年々型を変えて市場に放出されるために、同じ流れの作業でありながら、個人は一つの技能をマスターした瞬間には、もう次の来るべき技能を予想しなければならなくなり、ついでに他の関連部署の仕事まで、ことごとく知っておく必要に迫らせてきた。

 言葉をかえていえば、自分に高度の知識と技能を植えつけると同時に、隣の部署の仕事をも理解できなくてはならないということである。したがってやはり勉強が大切であるといえるだろう」

 殊にこれからは、技能者であると同時に経営者の才腕をそなえた人でなければ、事業を進展させることは不可能の時代に向かいつつある。生産と販売とのいずれが主体になるべきかといえば、その重さはまさに伯仲しているからである。 』

 

 『 私が小学校二年のとき、私の胸を沸き立たせる事件が起こった。大正 三年(1914年)の秋だったと記憶している。私の家から約二〇キロほど離れた浜松歩兵連隊に、飛行機がきて、飛んで見せるという噂を聞いた。

 そこで何とかしてその飛行機というものを見たくてしょうがなかった。絵で見ただけではどうしても承知できなかったのである。そこで私はあれこれと作戦を練った。

 親父にせがんだところで、どのみち許してもらえそうもないと悟った私は、家族の目を盗んでそっと「金二銭也」をせしめ、まず必要な資金を確保した。あとは決行あるのみ、というわけである。

 学校はサボることにした。あとは親父やお袋、祖母の目からいかに盗塁するか、ということだけだった。その日は、私は何食わぬ顔で自転車を持ち出し一気に浜松に向かってペダルを踏みだした。

 小学校二年生の私には、まだ自転車のサドルにちゃんと尻をつけて乗ることはできない。いわゆる「三角乗り」というやつで、横から片方の足を三角に突っ込み、苦しい姿勢でペダルを踏む、あの乗り方しかできなかった。

 だが、私はもう夢中だった。連隊に到着したときは、もう憧れの飛行機が間もなく見られるというので、私の胸は、まったくいいようのない嬉しさで一杯だった。

 それはナイルス・スミスという、グライダーに簡単なエンジンをつけたような、まことにチャチな飛行機であったが、さて入場となると、練兵場には塀がめぐらされていて入場料を取っている。

 もちろん入場料を取られることは予想していたが、「二銭あれば、大丈夫」と考えてきたのは大きな誤算で、大金(十銭ぐらいだったと記憶している)が必要だった。

 その瞬間、私の小さな胸は絶望にふさがれてしまった。しかし、私はあきらめなかった。ふと目についた松の木に登って、見たい一念を遂げることにした。私は周囲に気を配り、松の木に登った。

 下から見つけられないように、枝を折って体を遮へいした。実際には、見つかってもどうということはなかったのだが、子ども心にも万全を期したわけである。

 こうして、やや遠望ではあったが、私はナイルス・スミスの飛行振りに感激するとともに、魅せられていたガソリンの匂いを満喫したのであった。帰途、私の踏む三角乗りのペダルの足は軽かった。

 スミス号の飛行士が、ハンチングのツバを後ろに廻して飛行眼鏡をかけていた勇姿を思い出した。これがまた非常に男らしく見えたのだ。

 ペダルを踏みながら。私はいつの間にか学帽を後ろ向きにかぶっていた。そうして飛行機にも負けないスピードをペダルに托して、私は疲れも知らず風を切って田舎道を突っ走った。 』

 

 『 家にはいったとたんに、親父の怒声に見舞われたことはいうまでもない。でもその親父の怒声も、私の弁明を聞くと、にわかにおだやかになった。「お前、ほんとうに飛行機をみてきたのか……」

 親父自身ひどく感激してしまったからであろう。そのときから、私はどうしても飛行士がかぶっていたような、鳥打帽子が欲しくてたまらない。遂に親父に鳥打帽子をせがみ倒して、自分の所有物にすると、今度は飛行眼鏡が欲しくなった。

 だがこればかりは田舎のことだけに、どうしても手に入れることができない。やむなく生来の器用さを生かして、ボール紙製の眼鏡で我慢することにした。

 それで一切の準備が完了した。私は鳥打帽のひさしを後ろに廻し、ボール紙の飛行眼鏡をかけて、朝に夕にちょっとした飛行士気取りで、得意になって歩き廻った。

 遂には竹製のプロペラを自転車の前に取りつけて、まさに天空をかける心地で、自転車を縦横に乗り廻したものであった。

 そのような私だっただけに、四年生頃、青白い煙を尻からふき出しながら悪魔のように村を通過してゆく自動車の出現には、完全に魅了された。

 「まるで金魚のフンだ」と笑われながらも、自転車でその後を追った。そして、ガソリンの匂いをかぎ、気が遠くなるような歓喜にとらわれたものである。

 その頃から私の抱いた最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思いきりすっ飛ばしてみたい、ということであった。

 その念願が達成できるのは、いつのことか予想もつかなかったが、いつかはその時が来ると信じて疑わなかった。そして小学校高等科を間もなく卒業という頃、「輪業の世界」という雑誌を読みふけったいると、ふと広告欄が目についた。

 東京の「アート商会」という自動車修理工場で、デッチ小僧の募集広告を出していたのである。「よし、アート商会の小僧になって、自動車の勉強をしよう……」と。私は胸をおどらせて決心を固めた。 』

 

 『 私は高等科を終えると、ただちに親父にともなわれて上京することになった。たった一つの柳行李をかついで、燃えるような希望を持て余す思いで、浜松から汽車に乗った。そのときの姿は今でも目に焼きついている。

 しかし現実は、私が空想していたものとはまったくかけ離れた、みじめなものであった。あれほど憧れていた自動車には触れることさえ許されず、私に与えられる仕事といえば、明けても暮れても主人の子どもの守りをすることだけ。

 そして私の手に握らされるものは、スパナでもなくハンマーでもなく、すり切れた雑巾とバケツだけであった。燃えるような夢を抱いて上京した私にとって、これは余りにも残酷な現実であった。

 「見ろよ、お前の背中にはいつも地図がかいてあるじゃねえか」と毎日、兄弟子達にひやかされる屈辱に、歯をくいしばって耐えた。しかし、二ヵ月たち三ヵ月たつと、こと志と違う現実に、すっかり失望した私は「国へ帰ろう」と、何度か行李をまとめた。

 しかし、今考えると、そのとき私をアート商会に留まらせていたものは、やはり両親への誓いであった。もしも、私が辛抱し切れないからといって故郷に帰れば、両親は困惑のあまり、私の意気地なさを怒るに違いない、という考えであった。

 物事は考えようだ。毎日こうして好きな自動車を眺めたり、その機械の組み立てをのぞき、機械の構造を見ることができるだけでも、幸せではないか。こうした日々を繰り返しているうちに、半年ほど過ぎてしまった。

 そんなある日、大雪の降ったひどく寒い日であった。珍しく主人が、私を呼びつけた。「おい小僧、きょうは滅法忙しいので、お前も手伝え、そこの作業着を着て……」というのだ。

 私は思わずとび上がりたい衝動にかられた。待ちに待った「晴れ着」を着る日が、とうとうやってきたのだ。私は側にかけてあった作業着にとびつくと、すばやく腕を通した。

 それからそっと鏡の前に立ち、自分の晴れ姿に見入った。それは兄弟子たちがさんざん着古した、油のしみで真っ黒に汚れたものであったが、私には頬ずりしたいほどの晴れ着であった。 』

 

 『 どう見てもダブダブの借り着といった感じで、さぞ珍妙な姿だったろう。しかし、私は得意だった。「おい、何をぐずぐずしてやがんだ。早くきて手伝わんか……」

 どなる兄弟子の声に我にかえって鏡の前を離れた。とんで行くと、雪の中を走り、まだしずくがポタポタと垂れている自動車の下へ潜り込まされた。

 アンダーカバーを修理するのである。仕事としては実にたわいないことであったが、その時の私は無我夢中であった。「おい、小僧なかなかやるな……」と主人が側へきていった。

 そのときから、私もいくらか主人に認められたのだろう、嫌な子守りの仕事は次第に遠のき、自動車の修理が多くなった。こうして、一年半ほどは夢のように過ぎてしまった。

 その年の九月一日(大正十二年:一九二三年)、もう間もなく昼食になる頃のことであった。突然遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、グラグラと大地が揺れだし、建物がきしみ、立って歩くこともできない大地震となった。

 関東大震災である。地震とともに、私は何を考えたのか、電話の側へとんで行くと、ドライバーで電話機をとりはずしていた。私にしてみれば、電話というものが珍しいばかりでなく、非常に高価なものと聞いていたからであった。

 しかしこの行為はどうも私の失敗だったようだ。「電話機だけでは、何にもならん」と主人に笑われた。「電話が高いのは、電話機そのものではなくて、権利が高いのだ」

 私は何となく不満だったが、そういうものかと、赤くなる思いでうなずくしかなかった。この電話というやつが、また私達田舎者にとっては、恐ろしいそんざい存在であった。電話のベルが聞こえると、びくっとしたものだ。

 誰かが受話器をはずすまで落ちつけなかった。というのは、電話に出れば必ず失敗するか、田舎弁を笑われるかするのがオチだったからである。

 地震と同時に、方々から火の手が上がり、アート商会にも廻ってきた。修理工場だから、あずかっている自動車を焼いたら大変である。「自動車を出せ、運転できる者は一台ずつ運転して自動車を安全な場所へ運べ!」と主人の怒鳴る声が聞こえた。

 私は内心しめたと小躍りする思いで、修理中の自動車にとび乗って路地へ出たが、そこは避難民でごった返している。その群集の間を縫って、ぐらぐら揺れる路上を、私はとにかく自動車を運転して行ったのである。

 自動車を運転しているのだという感激のほかには、私は何も感じなかった。まさに私の人生にとっては、歴史的感激だったといえる。運転そのものはまったく危っかしいものであったが、あの時の歓喜は二度と味わえないものであった。 』

 

 『 震災で、アート商会も焼け出された。私達は主人一家と共に、神田駅に近いガード下に移転した。その隣がどこかの食料品会社の倉庫だったので、私達は毎日その倉庫へ出かけ、焼け残りの缶詰類を持ってきて、飽きるほど食べたものであった。

 しかしこの震災を境に、私も一人前に近い修理工になれたようなものである。それというのも、震災後、芝浦のある工場でたくさんの自動車が焼けたまま放ってあったのを、主人が見つけてきた。

 「とにかくこれを、動くようになおすのだ」 十五、六人いた修理工達も、震災ではほとんど田舎へ帰っていたときだったので、私と兄弟子の二人でインチキ車の修理にかかった。今考えると、修理の方も大変インチキだった。

 スプリングにしても、何で焼を入れるのかわからない。シャーシにしても焼けているし、塗装だけはニューのようにやれというわけで、とにかく自動車の体裁を整えることに一生懸命であった。

 それで組み立ててみると、立派にエンジンがかかった。自分ながら不思議に思うほどであった。すると主人がそれをどこかへ運転して行って、高く売りつけてくる。

 この仕事で一番困ったのは、やはりスポークであった。当時自動車のスポークはみんな木製であったから、焼けてしまってはどうしょうもない。木製スポークといえば、車大工でさえ作れなかったのだから、私達が苦労したのは当然である。

 しかし、ともかくそれが成功したのだから、私達の歓びはちょっと言葉では表現できないほどのものであった。その翌年、私は数え年の一八歳になっていた。すっかり一人前の修理工になっていた。

 夏のことであった。不意に主人が、私に盛岡へ出張してくれという。「仕事は消防自動車の修理だが、たいしたことはない。お前の腕なら、もう十分やれる」 私は喜んでこの役目を引き受けた。

 生まれてはじめて見る東北地方である。上野から十数時間汽車に揺られて、盛岡へ到着すると、「なんだ小僧じゃないか……」 とがっかりした表情で迎えられた。私は内心不服だったが、一八歳では反駁のしようもなかった。

 したがって、旅館の女中達からも小僧扱いを受け、女中部屋の隣室に押し込まれる始末であった。翌朝、早速仕事にかかった。消防自動車を次々と分解していくと、「小僧さん、そんなに分解しちまって、組立てができるかね」とまた小僧扱いにする。

 私は心の中で歯を食いしばりながら、クソッ今に見ていろと無言の抵抗を続けていた。やがて、分解から組立てを終わり、試運転してみると、見事に動き出した。 「おお動いたぞ。水が出る!」 まるで奇跡が起こったような騒ぎになった。

 私は内心ざまァ見ろといいたいところであった。その日の夕方、仕事を終えて旅館に帰ると、早速床ノ間つきの一等室に案内された。夕食には酒まで一本つけてくれた。立派な一人前の修理工に昇格したわけだ。 』

 

 『 帰京すると、主人もひどく喜んでくれた。その月末、私ははじめて金五円也の給料らしい金を貰った。このようなことから、私の技術も、主人から高く買われるようになり、徴兵検査まで精一杯奉公を続けた。

 徴兵検査で甲種合格をまぬがれると、さらに一年間、お礼奉公としてアート商会で働いた。この六年間で私は自動車の構造はもちろんのこと、その修理のコツも呑み込んだし、自動車の運転も習得した。

 自分で運転し、大都会のアスファルトを自由に走れるようになり、私の最初の希望はまずかなえられたことになる。いよいよ年季も明け、私は二十二歳の春浜松へ帰郷し、主人から分けて戴いた「アート商会浜松支店」を開店、店主として独立した。

 「アート商会浜松支店」と看板はなかなか立派であるが、実質はささやかな、修理工場ともいえないような、貧弱な自動車修理場であった。修理工も「店主」でもある私一人、しかし父は私の開店を心から祝ってくれ、家屋敷と米一俵を贈ってくれた。

 開店当初は、店主兼修理工である私が、あまりにも若僧だったせいか、客もなかなかつかなかった、とにかく一通りのことは何でもできたので、次第に見直されるようになった。

 お陰で、その年の暮には「金八十円也」の純益を上げることができた。まだ二十二歳という若僧だっただけに、大いに気を良くしたのはいうまでもない。

 当時浜松には、他に二、三軒しか修理工場がなかったせいか、私は次第に余裕を持つようになった。余裕が出てくると子どものときからの性分で、変わった機械に魅力を感じてくる。

 そこであれこれとモーター(エンジン)の研究を始め、自製のモーターまでできるようになった。そしてモーターボートを製作し、若い工員を連れて浜名湖で乗り廻すのが、私の楽しみの一つになった。前後を通じ、六、七隻のモーターボートを作ったような気がする。

 私の工場は、数年たたないうちに工員もどんどん増え、五十名程になった。しかしそのうちに、特別の理由はなかったが、「修理工場などというものは、いくら伸展したところでタカが知れている」という妙な考えにとりつかれるようになった。

 いくら修理技術がすぐれているからといって、東京からわざわざ頼みに来るわけでもなし、ましてや自動車王国といわれるアメリカから依頼がくるはずもない。そこで、私はこう考えた。

 「所詮、修理は経験を積めば、誰にでもできる仕事だ、だから、これに一生を費やすのは、何かもの足りない。この世に生を受けた以上、どうせやるなら、自分の手で何かを生みだそう。 』

 

 『 工夫し、考案し、そして社会に役立つものを製作すべきだ。他人さまの製作した物を修理するという仕事より、その方が私の性に合っているような気がする。

 だとしたら自分のこの手で何か作ってみよう。ここから更に一歩前進してみようじゃないか……」 やろうと一度決心したら、向うみずで、せっかちな私である。

 決意した通り、五十名程に発展していた修理工場をあっさり投げ出して、今度はピストン・リングの製造工場に転換してしまった。同時に「アート商会」の看板を降ろして「東海精機株式会社」の看板を掲げた。

 しかし、ピストン・リングに切り換えるまでには、重役の間に相当の反対者がいて、「そんな勝手な真似は、たとえ社長でも許せない」と、どうしても承知してくれない。

 決心したとなると、まっしぐらに突き進みたい私の性格が、この暗礁ですっかり参ってしまったのか、私はひどい顔面神経痛にかかった。その治療だと称し、私はあちこちの温泉にいりびったったり、医者だ、注射だと二ヵ月以上も仕事から離れた生活を余儀なくされた。

 そのうち、仲に立って反対重役達を説得してくれる人があって、ようやく転換に踏み切ることになった。するとどうだろう。それまで苦しみ抜いてきた顔面神経痛が、けろりと直ってしまった。この突然の変化には、自分ながら驚くほかなかった。

 病気快癒となると、私はもうじっとしていられなかった。翌日から新しい仕事に全情熱を傾注し始めた。しかし、まったく思うようなピストン・リングが、なぜかできないのだ。

 仕方がないので、とうとう鋳物屋を訪れ、指導を頼み込んだ。ところが、「お前らのような十年者に、できてたまるか……」 と大変な剣幕で、まったく相手にしてくれないのである。

 私は歯をくいしばって、鋳物の研究と取り組む日が続いた。しかし、その努力は一向に実りそうもなかった。私の貯えも底をつき、妻のものまで質屋に運んだこともあった。

 「今ここで挫折したら、皆が飢え死にするしかない」 私は、自分を励まし続けた。こういう中にあって、どうにか物になりそうなピストン・リングを作ることに成功したのは、忘れもしない昭和一二年十一月二十日であった。

 ピストン・リングを製作し始めて、九ヵ月の歳月が流れていた。この時代の生活との苦闘こそ、後年の私の背骨となったと思っている。 』 (「栄光への道」より)

 

 この後に、最初の「なすことによって学ぶ」の浜松工業専門学校での学びに続きます。2015年12月9日にちょうど、宗一郎少年が夢見たホンダジェットの認証が届いたとニュースが入ってきました。

 HondaJet Receives Type Certification From Federal Aviation Administration

GREENSBORO, N.C. - Dec. 9, 2015 - The HondaJet received type certification from the United States Federal Aviation Administration (FAA) on Tuesday. Honda Aircraft Company and the FAA made the announcement today at the Honda Aircraft headquarters in Greensboro, North Carolina.

 certification : 認証、 Federal Aviation Administration : 連邦航空局、  Honda Aircraft Company : ホンダエアクラフト株式会社、 announncemennt : 公表、headquarter : 本部を置く、 Greensboro, North Carolina : ノースカロライナ州のグリーンズボロ 


 今回、本田宗一郎がスーパーカブ(原動機付自転車)、オートバイ、自動車、F1レース自動車、ホンダジェットと実現しましたが。

 私がなぜ宗一郎少年が、ここまで、実現できたかを、私なりに考えてみました。宗一郎の父親が、鍛冶屋であったことにそのルーツがあるように思いました。

 日本の刀鍛冶、及び鍛冶屋のレベルは、種子島に鉄砲が伝来した時、これを見て、鉄砲をつくったのは、世界で、日本の刀鍛冶、鍛冶屋だけでした。

 さらに宗一郎少年は、オートバイや自動車の心臓部は、そのエンジンにあることを見抜きエンジンについて研究してます。 そして、そのエンジンの中でも、重要な部品である、ピストンリングを徹底的に研究して、開発に成功します。

 この宗一郎少年のDNAが、ホンダジェットの開発の中に流れているのではと考えました。  (第97回)  


ブックハンター「男の生き方四〇選」

2015-11-27 08:29:52 | 独学

 97.  男の生き方四〇選  (城山三郎編 1995年3月)

 本書は、昭和三五年五月より、昭和六四年四月までに「文藝春秋」に掲載されたものの中から、城山三郎が40編を選び出したものです。ここではその中から、山崎種二著の「”ケチ種”かく戦えり」(1966(昭和41)年9月記)を紹介いたします。

 山崎種二(1893~1983年)は、伝説の相場師で、山種証券の創業者で、山種美術館の設立者。お金について、働くことについて、投資についての考え方は、現在でも十分に通じるものです。

 

 『 私が群馬県の田舎から、文字通り裸一貫で東京に出てきて、五十五年の歳月が流れようとしている。この永い間、私は相場という冷徹な生き物を相手に戦ってきた。私のことを人呼んで”相場の神様”とか、”兜町の常勝将軍”とかいう。

 そういうことばには、何か特別の神話のような雰囲気があり、私には天賦の不可思議な才能のようなものがあったかのように感じて、いささか面はゆいのである。しかし、私はごく当たり前のことを当たり前にやったにすぎない。

 相場という生き物は、冷ややかなものだ。それに対する私も冷静でなくてはならない。ソロバンを瞬時たりとも忘れず、冷徹に行動する。私の五十五年間は、これに尽きるだろう。

 ”相場の神様”がほめる言葉であるなら、私には、もうひとつの別名がある。”山種という男は冷血漢である”とか、”ケチ種”というのがそれである。しかり、私は、見栄や感情で、一銭の金も使いたくない。

 金を貯めるというのはいかにも難しい。だが、お金の使い方というのは、それにもましてむずかしいものである。「使い方がむずかしいというのは、出すのが嫌いな金持ちのいうことだ」と人はいうかもしれない。だが決してそうではない。

 金を貯めるほどの人は、貯める困難を知っているだけに、金に感謝する気持ちから、よりよい使い方に苦しむのである。安田善次郎は生前、大変なケチだと心ない人々からいわれていた。これは、生きた金を使おうという翁の心が凡庸な人々には分からなかっただけの話である。

 かって、浅野総一郎氏が川崎海岸の埋め立てをして、大東京港と大工業地帯を造るという、当時とすれば大風呂敷的計画をたて、安田翁に出資を求めたとき、翁は老体を押して三日間、その地帯を踏査し、採算ありと見るや敢然として資金を提供した。

 当時としては、この計画は全く雲を掴むようなもので、この計画に資金を出すというのは、単なるケチにできることではない。安田翁の手腕なら、もっと廻転の早い割のいい投資はいくらでもころがっていたはずである。

 恐らく、浅野総一郎氏の夢に、「国家の福祉」を見たが故に、安田翁は喜んで投資されたのだと思う。だから、朝日平吾に、些細な寄付金のことで刺殺されたときの、その瞬間の無念さは、私にはよく分かるような気がする。

 自慢めいて恐縮だが、私も郷里に道路や橋を造ったり、学校を開いたり、十数年前から育英資金なども設けて、郷里の青年を世に送り出している。そして七月七日には、私の永年の夢だった美術館も開いた。

 博物館法による財団の運営で、文部大臣の認可も受けたものである。現在ある美術品の評価は約五億円、それに運営費が三億円、勝負で稼いだ金を、この美術館にそっくり返したことになる。

 冷たい相場を相手に暮らしてきた私の人生は、たしかに冷ややかだったかも知れない。人からそういわれ続けてきたが、最後に暖かい仕事が出来、美術館という暖かい逃げこみ場所が出来た。

 とはいっても、隠居などする気は、私にはさらさらない。暖かい仕事ができたのをふり出しに、再び勝負をという意志は、私の中から一向に消えそうにないのである。 』

 

 『 私の郷里は群馬県高崎の在で、私の家は農業ながら、苗字帯刀を許された家であったが、私が生まれたころは、家運が傾いて小農になってしまっていた。

 私は子供の時から体が大きく、九歳のとき九文の足袋をはいてたほどである。それで、十一歳の頃から米作や養蚕を手伝い、十二歳からは大人に混って道普請をやったりした。

 この私の大足は、その後の私の人生に、はかり知れない幸運をもたらしてくれた。私が高等小学校を卒業した十六のとき、米は非常な不作で、その上、父の兄たちに金をせびられ、抵当に入れた田畑が高利貸しに差押えをくうなど、私の家はますます苦しくなった。

 その頃、父の従兄にあたる山崎繁次郎という人が深川で回米問屋をやっていた。この人は時事新報の全国長者番付の五十万以上の金持にもあげられたほどで、私はこの人を頼って上京した。

 家を出るとき、私の全財産は八十六銭、これで汽車賃を払って、懐はほとんどカラであった。明治四十一年のことである。奉公生活は、当時の私にとっては天国の生活だった。

 田舎では、盆、正月、秋祭りのときしか、米の飯も魚も食べられない。その魚も塩辛い鮭とかいわし位のものである。ところが奉公では、朝から米の飯が食べられ、昼には煮魚までつくのである。

 労働にしても、田植え、麦打ち、田の草とりなどにくらべたら、俵かつぎなどは何でもなかった。奉公していた頃の東京の人口は、約二百六十、七十万人。深川には三百万俵の米が入り、東京の台所の七割をまかなっていた。

 当時の米の包装は、一重俵で五斗入りなどがあり、倉へ入れるときなど、米がこぼれやすい。私が倉庫番をやらされたとき、八百俵から千俵入る倉が二十一,二あったが、そのこぼれた米はちょっとした量になった。

 私は主人に許可を得て鶏を飼った。二十羽や二十五羽の飼料は、このこぼれ米で充分まかなえたからである。私はまた倉庫にパチンコをかけてネズミをとった。当時はペストが流行していたので、予防のためネズミを交番にもっていくと、一匹で二銭もらえた。

 卵は一個一銭である。私はこうして集めた金で、こっそり相場を張った。私の一八歳の頃のことである。朋輩はこういう私をみて、”しわんぼ”とか、”ケチ”とかいった。しかし私は馬耳東風であった。

 食い盛りのことである。私とて、饅頭の一つも食べたい。しかし、金をそういう風に使っては、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……これが私のささやかな”資本蓄積”のはじめである。 』

 

 『 山崎繁次郎商店は回米問屋だから、扱う商品は勿論米である。私はこの米というものを徹底的に研究した。昔は新穀がとれると、正米市場の控室に、各県からの米を少々箱に入れ、各問屋の中僧、小僧たちが集まって目の色を変えて、産地のあてっこをする。そのたびに、私は一等をとった。

 全国から集まってくる、何の変哲もない米粒を、ひとつひとつこれは何県、これはどこの産と見分けるのは容易な業ではない。私は寝食を忘れて米の研究に没頭した。

 はじめは皆目見当がつかない。しかし、だんだん判るようになると、米の方から私に呼びかけてくるようになる。最後には、黙って座ればピタリと当たるようになった。

 のちに私は、二四歳の若さで俵米品評会の審査委員に抜擢された。これは、深川でも異例中の異例といわれたものである。大正三年、私は甲種合格で砲兵として近衛連隊に入営した。当時の砲兵の在営期間は三年、衛生兵は特別に二年であった。

 そこで私は衛生兵になり、二年で帰ろうと思い立った。しかし、それには模範兵でなければならない。入営後の第一期検閲で、私は野砲の照準手として中隊一の成績を上げた。

 そのコツは私にすれば簡単である。深川の正米市場で売り方をしていた頃、多い日には一万三千俵から一万五千俵も売れることがあったが、それを帳面につけずに頭の中で覚えるほどの暗記力があった。

 これを応用して、中隊長が右へいくら、左へいくらというのを計算してすぐに答えを出すので、照準は一番の成績をえることができたのである。これで私は衛生兵になれた。

 衛生兵になってからは、外出日を利用して米相場を張った。よく立寄る大福屋を通じて知り合いの米屋へ連絡を頼み、売り買いを指定するのである。しかし当時の成績は余り芳しいものではなかった。

 大正六年、除隊になると私は再び山繁商店に帰り、市場部長として全国の米を捌くことになった。その年の九月最大の台風が東京を襲い、大津波(高波)で下町が水浸しになった。

 深川の米倉に寝泊りしていた者が、枕元まで水がきて目が覚めたというほど浸水は早かった。そのため、どの倉も下から三俵の線までは水浸しになってしまったのである。

 九月は米の端境期で、東京にある六十五万俵の三分の一が濡れ米になってしまったのである。濡れ米は放っておくと全部腐ってしまう。そこで、腐らせぬために、深川の堀に俵を渡し、片っぱしから引き揚げて蒸気で乾燥した。(濡れ米を空気に触れさせないめに、水の中に、一時的に保存した) この米は、オコシの原料として大阪へ売った。

 大正七、八年は第一次大戦のブームの時である。私は米でも株でも相場を当て、三万円(今の金で約一千万円)の金を掴んだ。そこで始めて、私は以前から気にとめていた娘の親に会い、直談判のような形で、婚約した。

 相手の荻原家というのは、衆議院議員をやったこともある名家であったが、娘の母親は、私を認めてくれて正式に縁談が成立した。ところが結婚式の三日前、有名な鈴弁殺しの事件が起こり、外米汚職事件にまで発展し、私もそのとばっちりを受け、生まれて初めてブタ箱にぶちこまれてしまった。

 その時の担当官が正力松太郎氏である。婚礼の前日、無罪放免になったが、花嫁の実家では婚約解消説までとび出すしまつだった。あれやこれやの挙句、やっと式を芝の紅葉館で挙げたが、私は全部一人でやり、下足番までもやった。

 「花婿はどこだ」 「玄関で下足番をやっている」という次第であった。ここまではよかった。ところが結婚後の一ヵ月目の大正九年三月十日、相場は大暴落し、米も株も大損して、三万円の財産はあっという間に消えてしまったのである。 』

 

 『 明けて十年、まだ見通しはお先まっくらであった。その上、八月から土砂降りが続き、米は大凶作の様相を呈してきた。そこで起こったのが、石井定七さん(当時の大相場師)の米の買い占めである。

 石井さんは買い続け、東京で二百万俵、現在の金にすれば、二百四、五十億円にもなる大思惑を張ったのである。私は回米問屋の支配人である。商売は米を買い集めて売ることだ。

 私は石井さんの買い占めに対して、実米を売るために全国から米を買い集めた。東京市場にきたこともない兵庫米、広島米まで集めた。石井さんの買い占めは結局失敗に終わり、石井さんには、莫大な借金と”借金王”の名前が残った。

 私たちの店は、石井さんの買い占めに、実米をソロバンで売り、石井さんが今度は買い占めた米を処分するとき委託をうけて売るという往復の商売ができたので、開店以来の数量景気になった。

 九年の大暴落で無一文になった私は、一二年頃までに、再び三万円の金を貯めることができた。関東大震災後、山繁は廃業したので、私は資本金三万円で独立した。三〇歳のときである。

 独立の翌年、米は相当の高値を出したが、私は買より売りの方が得意なので、成績は芳しいものではなく、赤字経営だった。

 ところが大正末期、大阪の買い方の主力が、かっての石井定七さんのような米の思惑買いをやったとき、売れぬまま古米になって米十万俵があるという情報を掴んだ。私は誰も見向きもしないこの古米に目をつけた。

 私は変名で大阪にいき、堂島の倉庫を全部調べた。よく見ると何度もサシ(俵にさしこんで穀類を見分ける道具)を入れてあるので虫がつき、味噌、醤油の原料にしかならぬ米である。

 しかし、匂いの方は大丈夫ではないかと考え、倉庫を念入りに調べてみると、思った通りである。私はこの米全部を買い占めた。この米を東京に運びこむと、絶対に米はこないと安心していた買い占め派は、十万俵の米がきたので投げ始め、相場は大暴落した。

 私はその前に、ちゃんと清算市場へ売りをつないでいたので、生まれて始めて三十数万円(現在の金で一億円)のお金を掴んだ。この勝利で、ヤマタネの名は挙がり、新聞にも書かれるようになった。

 昭和三年、高垣甚之助の買い占め事件、七年の”黒頭巾の買い占め”が起こった。しかし、どちらも失敗に終り、私たち売り方が勝利を握った。昭和八年は大豊作であった。政府は米の暴落を防ぐため、どしどし米を買い上げた。

 当時、農業倉庫は少なかったのに、政府は入れ物も考えずに買い上げる。私は「米をどこに入れるか考えて下さい」といったが、「そんなのは業者で考えろ」という。そこで私は倉庫に目をつけた。

 倉庫さえ確保しておけば、勝利は間違いない。私は、半年分の料金を前払いして、東京、横浜の空いている倉庫すべてを”借り占め”たのである。

 さて、新米がとれると全国から米が集まり、駅は米の山になった。 が、他の回米問屋は、倉庫がないので米を買うことができない。私は回米を買っては政府に売り、大変な利益を得た。

 その年の政府買い上げが全国で二千万俵、私はそのうちの二百万俵以上を売りこんだ。この年度は秋から春までに、五百万俵近い取扱いをし、私の利益は百万円を越えた。 』

 

 これから、山崎種二は株式の時代に入り、さらに成功をおさめ山種美術館の設立へと続きます。この回米問屋、米相場の時代に我々が学べる成功への知恵が語られていると思います。

 私は、以下のようにまとめてみました。

 (1) 自分の現状に感謝し、自分でできる事を喜びをもって行う。(田舎では、盆と正月しか、米の飯も魚も食べられなかった、昼には煮魚さえもついた。俵かつぎなど何でもなかった)

 (2) 金のたまごを生むガチョウを工夫した。(こぼれ米で鶏を飼って、たまごを生ませ、ネズミまでとった)

 (3) 米のありがたさ、お金の尊さを知り尽しており、それを生かすことを学んだ。(饅頭の一つも食べたい。しかし、一銭は一銭、五銭は五銭の働きしかしない。金が金を生むまで辛抱しよう……)

 (4) 回米問屋として、米作り、米の流通、米相場、さらには味噌、醤油への加工、オコシへの加工、濡れ米の生かし方、古米の生かし方……、米に関するあらゆる実践と知識をもって、米相場に臨んでいる。

 (5) 自分の目と足とソロバンで、米相場の中にある、バクチ的要素を徹底的に排除している。

 (6) 凡庸な人では、思いつかない仕掛けを考え、間髪を入れずに、着実に実行し、その成功体験を蓄積している。

 (7) 素人は相場に熱くなり、引きずり回され、ババを掴むが、山種は、相場は冷ややかなもので、それに対する自分は冷静でなくてはならないと語っている。(騰貴の末期は誰もが強気になるものである)

 私たちも、健康とお米とお金に感謝し、金のたまごを生むガチョウを工夫していきましょう。 (第96回)


ブックハンター「地球を救う森づくり(後)」 

2015-11-19 08:56:20 | 独学

 96. 地球を救う森づくり (後)  (宮崎林司著 平成16年5月)

 『 一九八九年七月、私は株式会社ビーボコーポレーションを設立しました。社名のもとになった「VIVO」とはスペイン語で「生き生き」という意味です。会社がテーマとする「自然と健康」を簡単に表す、的確な言葉だと思って命名しました。

 しかし、会社を興したものの、すぐに植林の夢を実現できたわけではありません。そのためには、会社を軌道に乗せる必要があります。

 当初は試行錯誤もありましたが、設立当初から取り組んできたアガリクス茸の量産・販売を軌道にのせることができ、設立十年目に植林事業への展望がひらけてきました。

 その間、私は自分のその後の行動を決める重要な人物と再会していました。かってインドネシアの合弁会社で働いていたときの社長、ルスタム・エフェンディ氏です。

 二十五年あまりにわたって、住友林業株式会社と木材生産や木材加工でパートナーシップを結んでいた合弁会社の社長だった人物です。

 ルスタム氏は一九九五年、自分の事業に集中するために住友林業との合弁を解消しました。そして長年の取り引きに対する感謝を表すために、日本にやって来たのです。

 私はすでに前の会社を退職していましたが、友人からルスタム氏が来日することを知らされ、しかも彼が会いたがっているということだったので、ホテルでお会いすることになりました。

 ルスタム氏はスブルの現場で仕事をしたときのことをよく覚えていてくれて、再会を大変に喜んでくれました。「今度、事情があって住友との合併の株式を売却して、ホテル事業に専念することになりました。ところで、あなたは今、何をしていますか?」

 私は一九八五年に父を肺ガンでなくし、その後、ガンに効果があるといわれながらも栽培困難な「アガリクス茸」というキノコに出会ったことを話しました。

 そんなに効果があるなら、量産してたくさんの困っている人に飲んでもらえるようにできないかと考え、栽培の気候に合いそうなフィリピン、ブラジル、中国でテスト栽培を行っているところだと伝えました。

 するとルスタム氏は、「それならぜひインドネシアでもやってください。そして製品になったら販売もやらせてほしい。とにかく、ずいぶん長いあいだインドネシアにきてないのだから、一度遊びに来なさい」と言ってくれました。

 こうして翌一九九六年春に、彼が経営するホテルのある東カリマンタン州のバリクパパン市に遊びに出かけました。二十二年ぶりのインドネシアはとても懐かしく、スブルでの思い出話に花が咲きました。

 そしていつか、話はインドネシアの森林資源がなくなりつつあるということにおよびました。インドネシアの国としても植林計画はあるのに、実際は紙・パルプの生産を目的としたもの以外はほとんど進んでいない。

 そのため原木が不足して、たくさんできた合板工場の多くは閉鎖せざるをえない状況にある、ということでした。彼はもともとタクイという地域の王様の子孫なので、この地域の豊かだった森林が、わずか数十年のあいだに見るも無残な光景に変わりはてたことに心を痛めていたのです。

 十五年前、彼は植林を進めるために、苗木を生産する合弁会社をフィンランドの会社と設立していました。しかし政府のかけ声ばかりで実際には植林は進まなかったので、いまは合弁を解消し、チークの植林用の苗木を栽培しているとのことでした。

 久々にインドネシアを訪れ、私はあらためて植林の必要性を強く感じさせられました。バリクパパン市には、ペット用に捕えられたり、山火事・焼き畑で森を追われたりしたオランウータンを森に戻してあげるためのリハビリ・センターがあります。

ルスタム氏は「見せたいものがある」と言って、私をその「ワナリセット・オランウータンリハビリ・センター」へ案内してくれました。スブルで森林伐採にたずさわっていたころ、ジープでの移動中に野生のオランウータンの親子に出会ったことがありました。

 ふつう動物は人間がクルマで近づけば逃げ出しますが、そのオランウータン親子は逃げ出さずにじっとして、何かを訴えるような眼差しでこちらを見つめていました。はじめてのオランウータンとの遭遇でした。森林開発の犠牲となったオランウータンがリハビリする姿に、私はあのときのことを鮮やかに思い出しました。 』

 

 『 行き場を失ったオランウータンを熱帯雨林の森に戻すために最初に立ち上がったのは、バリクパパン市のインターナショナル・スクールの生徒とその親たちでした。一九九一年、ワナリセット・オランウータンリハビリ・センターが設立されました。

 オランウータンは通常、生まれて八年間は母親とともに過ごし、森で生きていくためのさまざまな知恵を授かったのちに自立していきます。しかし、小さなころに母親を殺されて人間のペットになってしまったオランウータンは、森の中でどのように食べ物を探し出せばよいかを知りません。

 さらに、森の生活で基本となる木登りの習慣も身につけてないので、枝から枝へと移動することさえできないのです。これではペットの状態から救い出したとしても、森の中で生きていくことはできません。そこで野生にもどすためのリハビリが必要となり、まったくの、草の根運動から、この施設がスタートしました。

 私はルスタム氏からこの話を聞き、何もしていない自分に気づかされて寄付をすることにしました。オランウータンは熱帯雨林の破壊による被害者の象徴であり、それは私の彼らへの罪ほろぼしの気持ちだったのです。

 オランウータンは、カリマンタン島とスマトラ島にしか棲息しないアジア最大の人類猿で、熱帯雨林の象徴的な存在でもあります。森の哲人ともいわれる彼らの姿には、森林のもつ神秘的なものが宿っているようにも思えます。

 まなざしはどこまでも優しく、大自然のなかで共生することの知恵を生まれながらに備えているまさに森の哲人と呼ばれる動物です。そんなオランウータンを森から追いやってしまったのは誰なのか。

 私は心のなかには、森林開発と称して熱帯雨林の木々を伐採し、結果的に熱帯雨林破壊の原因をつくってしまたという思いが残っていました。この最初の訪問を契機に、私はセンターを訪れるため、毎年カリマン島へ行くことになりました。

 一九九九年一月、私はいつものように、オランウータンのリハビリセンターを訪問するためにバリクパパン市を訪れました。その前年までに、カリマンタン島では大規模な山火事に見舞われていました。

 空港からホテルへ向かう途中の車中でもその影響がわかり、「カリマンタンの山火事は本当に民家の近くまで迫っていたんだな」と感じていました。迎えてくれたルスタム氏は「とても長いあいだ燃えつづけて大変だった」と溜め息をついていました。

 そのときは私も「大変だったんだなぁ」という程度の気持ちでしたが、翌日郊外にあるオランウータンのリハビリセンターへの移動の車中では「ここも、ここも……こんなにも!」という驚きの連続でした。

 森林火災の生々しい爪あとがあちらこちらに出ていました。このカリマンタンの山火事については、当時日本でも大きく報道されました。

 ヘリコプターからの映像は惨状を生々しく伝え、新聞には煙がシンガポールやマレーシアまで広がり、気管支炎の患者が増えたとか、スマトラでは煙で視界を失った飛行機が墜落した、といった記事も出ていました。

 しかし、山火事のあとで森林がどうなったのかという報道はなく、はじめて目の当たりにした私は驚愕しました。大きな木が伐採された後とはいえ、細い木は森林と呼べる程度には生えていたのです。

 それがいまは、まるで白骨化したかのような木々の燃えたあとが延々と続くだけでした。その光景に、私の体がふるえるほど驚いたのです。

 九七年五月に始まった森林火災は、十一月まで続いたあといったん鎮火しましたが、九八年一月に再び燃えはじめ、その年の五月まで続いたのです。

 長期化の原因は、八年ぶりの異常気象(エルニーニョ)の影響で雨がほとんど降らず乾燥が続いたことにありました。そのうえ本来なら燃え移らない泥炭層に火が入ったため、鎮火が非常に困難だったようです。

 この大森林火災で燃えた森林は、カリマンタンだけで五百七十万ヘクタールにも及んだそうです。日本に帰ってそれが九州全土の大きさに匹敵すると知り、さらに驚きました。

 山火事はインドネシアで起こったことですが、その国だけに止まらず国境を越えて「地球的な問題」であることを再認識させられました。

 オランウータンのリハビリセンターに到着すると、山火事で森を追われたオランウータンであふれていました。通常の施設では追い付かず追加の二百頭分の仮小屋がつくられましたが、それでも満室状態でした。

 オランウータンの大きさもさまざま、傷ついたものもいたりで、センターは異様な雰囲気につつまれていました。 』

 

 『 帰国後も、自分なりに、何ができるかを考え続けました。その間、ルスタム氏とは山火事跡地の再生について、意見交換を繰り返していました。その中で、チーク苗とメランティ苗の寄付をしたらどうだろう、という提案をもらいました。

 それらの苗は組織培養によって人工的に育てられたもので、それは彼が長年の研究のすえ、数年前に量産化に成功したものでした。

 提案を受け入れた私は法律上、州政府には直接寄付を禁じられているので、寄付は東カリマンタン州で活動をしている財団を通して寄付を行うことにしました。

 成長性にすぐれた「チーク」は財団の十年後の収入源になるように、また地場の樹種「メランティ」は地域の森林再生のために、二種類の苗をセットに寄付することにしました。

 これが「ツーインワンシステム」によるWエコ、つまりエコロジーもエコノミーも同時に達成できるシステムの原形となったのです。一万本の苗木の寄付は当時の私にできる精一杯の行為でしたが、大きな傷跡の前では、それは大した量ではありません。

 もっとできれば……という思いでいっぱいでした。しかし、現地の受け止め方は違い、想像をこえる歓迎で迎えていただきました。バリクパパン市では、環境セミナーに集まってくれた人たちの前で、市長に寄付の苗を手渡しました。

 翌日は州政府のあるサマリンダ市まで小型飛行機で移動しましたが、その間に見えるものも、やはり延々と続く白骨化した立木の光景ばかりでした。小さなローカル空港に到着すると、州知事の専用バスが迎えにきてくていました。

 そして迎え入れられたのは、州知事室です。知事室での談笑のあと州庁舎の講堂に招かれ、林業関係、環境関係、地域の自治体の長などが居並ぶなか、苗木の引き渡しセレモニーが行われました。

 先の財団の総裁にまず苗木を手渡し、それが州知事に渡され、州知事が村長に手渡す、というものでした。セレモニーの内容については何も知らされていなかったので、最後まで驚きと戸惑いの連続でした。

 それまで誰も、山火事跡に植林をするための苗木を寄付したものがいなかったからです。知事や財団総裁の歓迎スピーチのあとに「ひとこと挨拶を」と指名されました。私はこんなことをしゃべっていました。

 「日本では古くから、子どもが誕生すると、家のまわりに「桐の木」を植える習慣があります。桐の木は成長が早く、生まれた子供と同じように成長していきます。

 そして子どもが成人して結婚するときに伐採して、嫁入りのタンスにしたり、木材として販売してお金をつくるのです。農家のみなさんに今お渡ししたチークはふつうのチークよりも成長が早い、とても良い木です。

 ぜひ、家のまわりに植えて、日本の昔の習慣にならって皆さんの子供さんたちのために育てていただきたい」 また、次のような話も付け加えました。

 「東カリマンタン島の熱帯雨林は、もちろんインドネシアのものであることに違いありません。しかし同時に、地球環境の安定のためになくてはならない存在なのです。そういう意味で、人類全体の森であるといえます。どうか、そのことを忘れないで、大切に育てていってください」

 このときのことは、地元の新聞やテレビで報道されました。後にインド大使館が二万本の寄付をしたり、フランスのホテルグループ「ノボテル」が寄付を始めるきっかけとなったとルスタム氏より聞きました。

 その翌年、植林ツアーと寄付のために訪れたとき、クタイ県の知事から、「宮崎さんが去年話した、家のまわりに子供たちのためにチークを植えることが、いま運動になりつつあるよ」と言われました。木を切ることだけでなく「植えること」への理解が広がっているようで、嬉しく思いました。 』

 

 『 「熱帯雨林の再生」とは、極めて重要で大きな問題です。しかし、私たち人類のできる事には限界があります。そんな中で何ができるか考えた結果は次の三点です。

 まず、一つ目は、現在残されている森にできるだけ人手を入れないで、自然に二次林を形成させ森に育ちそうな地域を維持していくことです。これは地元の自治体や中央の政府、公社そして国際協力が中心の分野です。

 国立公園や県立公園を保護林として指定し管理し保護していく方法です。インドネシア林業公社のひとつインフタニ社が展開している新しい試みがあります。

 バリクパパン市より約五八キロのところに保護林を設定して、エコツアーの人をうけいれています。ここでは、自然林のトレッキングをしながらそこに生える植物、樹木などを見ながら学ぶこともできます。

 そのコースの終点に樹高三〇メートルの所につり橋を作ってあり、樹から樹へと移動しながら熱帯雨林を空中から観察できる施設があります。この施設の維持費を確保するために、二〇〇一年より立木トラストともいうべき「里親木」制度があります。

 この制度は、自然林の樹木の里親になって、一本当たり年間百ドルを負担する制度です。自分のお気に入りの木を選んでその木の前に名前を書いた木の看板を建ててくれるというものです。

 二つ目は、この保護林内の樹木のなくなっているところに「メランティ―」の苗木を寄付して植林することです。これらの場所は焼き畑でもなく荒廃して粗な茂み=灌木林、二次林になっているところを「茂み」から「林」に林から「森」に育つように応援することです。

 そのためにはもともとその地場に生えている様々な樹種を過去の伐採で粗になった部分を補植して、森林の再生を支援してやることです。

 昨年からはボルネオ・オランウータン・リハビリセンターとは別に「オランウータンの森づくり」に苗木の寄付も始めました。この場所では、将来オランウータンが住めるような森にする計画で、実のなる樹種を中心に、いろいろな樹種を植林してゆく事業です。

 二次林のなかにできるだけ沢山の樹種で果物のなる樹を中心に植林して、オランウータンが住める森づくりをはじめています。

 三番目は、焼き畑跡地で収穫が十分採れなくなったので、農民が次の場所に移動してしまい放置されている草地です。この草地は、放置しておくと林や森に戻るには、千年単位の時間がかかると思われる地域です。

 この面積はどんどん増えているのです。このことをやめても生活できる方法を提案、開発しないかぎり熱帯の森林破壊は続きます。

 この地域の土地を有効に活用して、地元農民の現金収入機会に役に立ち、地域の森を回復できるシステムを構築することが、熱帯雨林再生の第一歩です。そのために生まれたのが、先に述べた「ゴールデンバイオチーク植林」と「ツーインワンシステム」です。 』

 

 『 「ゴールデンバイオチーク」とは、私が命名した組織培養法による植林用苗木の呼び名です。従来のチーク植林との違いは、まず丈夫で品質の良い木材を得るための苗の作り方にあります。

 この苗づくりは、従来の種子から育てる方法ではなくて、組織培養によります。組織培養という技術は、農業や園芸の分野では古くから使われてきた手法です。

 私のインドネシアのパートナーであるルスタム氏が一五年前にチークに着目し、インドネシアのチークの九〇%を管理しているブルフタニー林業公社との共同研究事業としてスタートしたのです。

 チークの種子は発芽率が低く、しかも優良な種子を確保することが、とても大変です。そして、苗の形質が一定でありません。組織培養法では、無菌の寒天培地で細胞組織を培養、増殖しますので、ウィルスのストレスがありません。

 ストレスに影響されないので成長が、種子から育てた苗木よりも二~三倍の成長をするのです。しかも、林業公社のチーク林の中でも成長性に優れ、材質的にも良質の遺伝子をもった組織を増やしたものなので、当然、植林後の成長、木材の収穫も良いものになります。

 ルスタム氏はその開発に十年あまりの歳月をかけ、やっとチーク苗の増殖に成功したのが五年前なのです。五年前といえば大きな山火事に出会って、私が初めてインドネシア東カリマンタン州に苗木を寄付した年です。

 その時にルスタム氏にすすめられてこの「チーク」の苗木を寄付しました。この時の苗は、一つはサマリンダのマハカム河上流の農家の土地で大きくなって今や直径二十センチ、高さ十四メートル余りになっていると報告を聞いています。

 もう一つはバリクパパン市に寄付し、市が郊外に植林したものは、昨年十月に見てきましたが、植林後一度火災に会ったそうですが、その影響もなくよく育っていて、直径十二センチ、高さ十メートルを超えてスクスクそろって伸びていました。

 ルスタムしから、チーク植林の魅力を熱心に聞かされ、寄付だけだなく事業としてやらないかとの話がありました。しかし、この時点で、そのチークが東カリマンタンで育つのか、本当に十年で直径三十センチを超えるほどに大きく育つのか疑問だらけでした。

 私自身が前の会社で、海外の植林事業について業務研究をしたときは、南米チリにおけるラジアータ松以外は事業としての採算性がない、という結論を出してました。 

 ですからインドネシアで紙パルプ用途以外の家具、建築用材の植林に事業性があるものはないと考えていました。そのために、なかなか決断しない私に世界の「チークネット」の会議が、インドネシアのジョクジャカルタで開催せれるので、ぜひ参加してみないかという誘いがありました。 』

 

 『 一つの樹種でこのような世界的な組織があること事態に「チーク」の価値の大きさを知ることができました。会議は予想をこえる大きな規模でした。

 会議では準備されたチークの苗木づくり、栽培技術、流通にいたる迄の詳細な情報を得ることができました。そして、何カ所かの組織培養苗を植林したところも見ることができました。

 最終的に決断したのは、チークネットの会議の進行役として、バンコックにあるFAO(国連食糧農業機関)極東事務所より来ていた森林官、樫尾昌秀氏の意見を聞くことができたからでした。

 忙しい合間を縫ってコーヒータイムに時間をいただいて、チークのこと、インドネシアのこと、ジャワ島以外での組織培養苗による植林の事業性など様々な観点からお話を伺いました。

 いろいろな国の森林事情に明るく、チークについても世界会議の進行役を務める彼の意見は貴重でした。最後に「自分はルスタム氏のいうチークの植林事業で十年を超えて、直径三十センチを超えた木を見ていないが、この事業プランについてどう思うか?」と質問しました。

 彼は、少しの間考えて「良いと思う、おもしろいじゃないですか」と言ってくれました。組織栽培によるチークの栽培は、ミヤンマーやタイでも行われていること、チークは植林後、初期の十五年間は直線的に成長するので、十年生を見ていないから不安というのはそんなに問題ではないと言ってくれました。

 ルスタム氏の話に一〇〇%乗り切れなかった自分が明確に「組織培養のチーク=ゴールデンバイオチークの植林事業を焼き畑跡地でやる」と決断した瞬間でした。

 この植林事業は、これまでの熱帯雨林地域の植林にない特徴があります。 1. 組織培養による優良な苗木である。 2. 組織培養法のために、ウィルスによるストレスが少ないので、種子苗の二~三倍の成長をする。 

 3. マイクロバ(菌根菌)の活用ににより、栄養吸収を高め、成長を促進させる。 

 (菌根菌とは、植物の根につく菌類のことです。菌根は消化酵素を分泌して植物の根の細かい繊維から栄養を吸収します。また植物の落ち葉を分解して、植物の根からの栄養の吸収を高めます。

 この共生関係は、肥沃でない土壌の地域での植物の成長には不可欠です。菌根菌は植物の根表面と皮質の細胞内の両方で活動します。)

 4. 熱帯雨林の高温多湿の環境は、雨期の期間が長いので他の地域に植えたチークよりも早く成長します。 5. 焼き畑跡地での植林なので、病害虫被害がすくない。

 6. 三年生以降になれば、火災に強い耐性の樹皮が形成されるので火事による被害が出にくい。  7. GPSで植林した木の正確な位置を表示して、管理し、確定のうえ「公正証書」を発行できる。

 8. 国際的に流通している評価の高い木材で、価格的にもたいへん安定している。 9. 従来のジャワ島でのチーク栽培に比べて三倍のスピードで成長する。

 10. 成長が早いが、木材の品質は維持されている。 11. 初期の二~四年のあいだは樹高方向に真っ直ぐ伸び、その後直径が太くなるので、木材として利用価値の高い形に成長する。

 12. このために初期に植林する単位面積あたりの本数がすくなくてすむので、林間で農作物が栽培でき、アグロフォレストリーができる。

 13. このために利回り七%程度の価値成長をします。このチークと地場の樹種で天然林再生に必要な苗木と組み合わせることによって、エコノミーとエコロジーが両立する道も開けます。 』 (第95回) 


ブックハンター「地球を救う森づくり(前)」

2015-11-11 08:59:15 | 独学

 95. 地球を救う森づくり (前)  (宮崎林司著 平成16年5月発行)

 本書は森づくりの本ですが、前半では、熱帯雨林の破壊がどのような手順で行われるのか、現地にいてその一端に携わった著者の話には、現地の人々だけでなく、我々日本の消費者の責任をも見えてきます。

 ここで私なりの熱帯雨林の定義について述べます。熱帯雨林は年間を通して強い太陽光のもとにあります。この強い太陽光に対抗するために、大量の雨と五層にもなる樹木をもちます。アジアにおいては、最も高いフタバガキの巨木は、60~70メートルの高さになります。

 この層から、順に低い層に、太陽光は利用され、地上の着くまでに、その太陽光は利用し尽くされます。このような植物層を形成するには、大量の水が必要となり、雲を形成するための山、海と森をつなぐための川が必要です。

 この多様な植物に、一つの植物種には、数種から数十種の昆虫が生息し、川には魚類が生息し、森には、木の葉、昆虫、果実、花蜜を基本食料として、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が、相互の共生と食物連鎖によって、頂点捕食者が形成されますが、捕食者の糞と死体は、菌類によって分解されて、森に還ります。

 すなわち、熱帯雨林全体を一つの系と捉えると、熱帯雨林自体が、代謝(物質循環)することによって、巨大な生命体として、エントロピーに逆走しています。これらの熱帯雨林も中心となる巨木を失う時、巨大な生命体としての熱帯雨林も失われます。

 

 『 新しい職場についてまもなく、私は初めての海外出張を命じられました。行先はインドネシアのセレベス島(スラウェシ島)です。千メートル級の山々が連なり、山林が複雑に入り組むこの島で、輸入する価値ある木材が十分にあるかどうかを調べるのが仕事でした。

 生まれてはじめての熱帯雨林のジャングル、そのうだるような暑さのなかで山ヒルに血を吸われながら、時にはボートを押しながら川をさかのぼり、道なき道を進みました。

 現地のガイドでさえ「フォレスト・ショック」というパニック状態におちいり、彼はとうとう帰ってしまいました。そんななかでもさらに奥地へ進みながら、約一週間の調査を進めていったのです。

 当時、熱帯雨林の調査といえば、ただひたすら根気よく、山を歩きながら測定するしかありませんでした。調査区域を幅二十メートルにしぼり、コンパスを見ながら、ひたすらまっすぐに歩いて商業木として該当するものを測定していくのです。

 人の意志を働かせないで平均的なデータをとるために、決めた調査区域から逸れないのが絶対条件です。行く手が谷であれ山であれ沼であっても、困難をよけて通ることはできません。

 このような地を這うような調査によって、山全体に商業木がどれだけ蓄積されているかを推計してゆく訳です。

 こうした熱帯雨林の調査結果、開発するに十分な木材があると判断したら、会社はその山で二十年間にわたって伐採できる林区権(森林開発権)をその相手から買い取ります。

 私が出張したインドネシアで、大規模な森林開発が行われるようになったのは、一九六七年の外資法改正以降です。その前年に大統領となったスハルト将軍が、インドネシアの解放経済を進めたのです。

 インドネシア政府は外国企業に対して、自国の熱帯雨林の開発を積極的にはたらきかけ、外貨をかせいでいきました。

 七十年代には日本をはじめ韓国、マレーシア、シンガポールなどから開発申請を行う企業が相次ぎ、インドネシアの熱帯雨林の広範囲で伐採事業が進められたのです。 』

 

 『 セレベス島での厳しい出張を経験した翌年、私は正式にインドネシアの駐在員としてカリマンタン島のスブルという所に赴任しました。赤道直下の電気も水道も来ないベースキャンプでの暮らしが始まりました。

 スブルは、熱帯雨林から木材を伐採・搬出するための最前線の基地です。私はそこのアシスタントマネージャーとして赴任しました。

 ところが、その二ヶ月後にやって来た新しいマネージャーが早々にサマリンダという町の支店長に異動となり、しかも新しいマネージャーが補充されることもなかったため、すべての問題が経験の浅い私にふりかかってきました。

 やがて本社から「お前がマネージャーをやるように」という辞令が降り、私は二八才の若さで百八十名のベースキャンプの責任者になってしまいました。

 私は現地スタッフに最低限の単語を少しずつ教わることから勉強を始め、半年かけて、なんとか問題なくインドネシア語でコミュニケーションができるようになりました。しかし言葉がわかるだけでは、仕事になりません。

 ベースキャンプでの仕事は多岐にわたりました。まず伐採しようとする山の調査から始まり、伐採のための効率的な道路建設の立案、インドネシア林業省の年間伐採許可取得、実際の道路建設と続き、ようやく伐採となります。

 切るのは直径六〇センチ以上の太い木です。切り倒して丸太にした木はトラクターで道路に運ばれ、そこでトレーラーに積み込まれ、マハカム川という川のログポイントまで運ばれます。

 ここで検品・計量を受けて官庁の許可をもらってから、丸太は筏に組まれカリュウのサマリンダという町まで曳航されていきます。ここまでが私の仕事でした。

 一連の作業は何班にも分かれて、雨の日以外、毎日続けられます。三人いた日本人の現場監督からは、安全で効率的な作業のための改善の提案が毎日のように、私のもとに持ち込まれてきました。

 彼らはみな四十代で、私よりずっと先輩にあたります。経験豊富な現場監督の提案は、生産効率や故障の割合などを数字で把握してみると、どれも的を射たものばかりでした。

 私は納得できる意見は尊重し、それに沿ってどんどん現場を改善していきました。最も大きな改善点は、労務管理についてでした。勤務状況をごまかしたり、会社のものを勝手に持ち帰るような従業員が多かったのです。

 私はマネージャーになってから半年で百八十名いた従業員の三分の二を入れ換え、まじめに働くものだけを集めました。

 また賃金制度も改めて「固定給プラス出来高払い」を導入し、まじめに働けば評価してもらえるが、不正直なことをすればクビになる、ということをキャンプ全体に浸透させてゆきました。

 総務の面でも、事務所内の机の配置をマネージャーである私がすべて見渡せるように変え、一人一人に報告させるようにして、個々の仕事のシステムを少しずつ改善してゆきました。

 相手を信頼して教え、育てていく。良い仕事をしたらほめて、それを給料に反映させていく、こうした改善によってベースキャンプは急速に生産性を上げることが出来ました。

 初年度に日本に送った原木は八万立方メートルで、これは前年の二倍にあたります。二年目にはさらに生産能力が上がり、十二万立方メートルになりました。

 マネージャーとしての二年間が過ぎたとき、東京から社長が視察にやって来て、「東京に戻るように」との辞令が伝えられました。 』

 

 『 六〇年代後半から始まった高度成長とともに、日本では住宅の建築ラッシュが起こり、木材需要が急激に高まりました。こうして七〇年代から八〇年代にかけて、日本は東南アジアの熱帯雨林から切り出した原木丸太を大量に輸入するようになります。

 一九七〇年から一九八〇年の間に日本がインドネシアから輸入した木材の総量は、約二億千三百七十三万立方メートル。これを森林面積に換算すれば約千二百万ヘクタール、実に日本国土の三分の一の広さになります。

 しかもマレーシアなどからの輸入もありましから、この時期いかにたくさんの熱帯雨林が日本の住宅のために切り出されたかが推測できるでしょう。そのまっただなかの時代に、私は森林開発の現場に深くかかわっていました。

 インドネシアのカリマン島スブルから東京本社 に戻った私は、営業管理の仕事をしながら、林区の売買の話があれば海外の森林調査へ出掛けていました。そのような日々を二年間過ごしたあとで、今度は、同じカリマン島でもマレーシアのサバ州へ赴任することになりました。

 このベースキャンプは数年前からスタートしていましたが、商業木の蓄積量が投資した額をはるかに下回り、事業としては失敗であることがわかっていました。

 そこで会社は、この林区から木材をできるだけ早く切り出してローンをできるだけ回収し、事業をたたむ計画を立てました。そのプロジェクトに、私が今度は山林現場の監督として参加したのです。

 赴任してしばらくたつと、伐採作業が以前よりも順調になり、木材搬出量が増えてきました。そんなある日、私はトレーラーの運転手と雑談していて、ふとその言葉を耳にしたのです。

 「毎日毎日、こんなに大量の木材を切って運んでいるけれども、いったい日本人はこれを何に使っているんだ。木を食べているのか?」それは会話のなかの単なる冗談の一つだったのでしょう。しかし、私にはなぜかグサリと胸に刺さりました。

 そう揶揄されても無理はありません。私たちは連日、四〇トントレーラーで何十台も原木を運ぶ作業を繰り返していたのです。それは毎日の仕事ですから何の疑いもない光景でしたが、言われてみれば「本当にそうだな」と納得するばかりでした。

 私には思いも寄らない、素朴な一言でした。それまで当たり前に行ってきた森林開発という自分の仕事に、はじめて疑問を抱くきっかけともなった、とても重いことば言葉でもありました。 』

 

 『 森林開発では、商業的に取り引きできるだけの大きな木を切ることが目的になります。これから大きくなる細い木まで、すべて取ってしまうことはありません。もし木を植えて育てる量と伐採の量のバランスがとれていれば、森林破壊が起こらないのです。

 七〇年代から八〇年代に日本をはじめとする外国資本が行った森林開発は、明らかに自然界のバランスを崩す乱伐だったことに間違いありません。インドネシアやマレーシアには大きな外貨をもたらしましたが、一方で熱帯雨林は劣化し、減少しつづけました。

 それがのちに環境破壊として、世界中から非難を浴びることになるわけです。しかしそれに拍車をかけたのが、インドネシアの農民たちが行った焼き畑と不法伐採でした。

 それまでは未開のジャングルで農業など不可能な土地でしたが、木材搬出のための道路が造られたために、耕作地を求める多くの農民が自由に山へ入ってくるようになりました。しかもそこには大木が切り倒されたあとで、もう少しの整備で農地とすることが可能だったのです。

 山に入った農民は、森林に残された細い木を切り倒して耕地をつくり、さらに下草を焼き払って、いわゆる「焼き畑農業」を行いました。そこで陸稲を育てたり、バナナやトウモロコシなどを栽培するのです。

 しかし、土壌はあまり豊かではありません。連作はきかず、せいぜい三~四年で作物が育たなくなってしまいます。すると農民たちは次の新しい耕作地を求めて移動し、また別の土地で木を切り倒し、焼き畑農業を行います。

 それが延々と繰り返され、森林破壊は加速度的に進んでいったのです。日本人の感覚では、国有林であるはずの山になぜ勝手に侵入して農業ができるのか、疑問に思えます。

 しかし、山を開墾して「ここはオレのものだ」と畑をつくることは、インドネシアでは古くから習慣的に行われてきたことでした。本来なら、畑をつくったら官庁に届け出て税金を納めて所有権をもらいますが、お金がかかるため正式な手続きを踏む農民はほとんどいません。

 国の法律ができる前に、農民たちの間には昔から続いてきた習慣による暗黙の「法律」が存在していたのです。カリマンタン島に昔から住んでいるダヤック族などは、集落をつくって比較的長期間そこに定住し、狩猟と、小規模の伝統的な循環型焼き畑を営みながら森と完全に共生して暮らしてきました。

 耕作地をむやみに拡大するのではなく、一定のサイクルで休ませながら焼き畑をまわして使うのです。しかし森林開発がエスカレートしてからは、こうした伝統的な焼き畑の習慣を持たない人々が、次々にカリマンタン島に流入してきました。

 政府の推奨した「住民移住計画」によって、人口密度の高いジャワ島やほかの島から、貧しい農民たちが移住してきたのです。

 彼らは政府から一定の土地をもらった移住者ですが、こうした循環型焼き畑の習慣がないため、数年で次々に新しい農地を開拓し、熱帯雨林の森を焼き払っていったのです。 』

 

 『 われわれが開発した山でも、農民たちがつくった焼き畑に度々ぶつかることがありました。しかし、「勝手に木を切って焼き畑にするな」とは言えないのです。

 特にほかの島から移住してきた人々は、ほとんどが貧しい農民で、未開の土地で必死に生活している人々でした。不法侵入者として排除することはできません。

 そもそも道路がなければ、このようなことは起きませんでした。したがってこの問題も、外国資本が行った森林開発がもとになっているのです。

 ただし根底には、インドネシアの人口問題や貧困問題もひそんでいます。環境問題には人間社会の複雑な要因がからんでいるので、解決も難しくなるのです。

 焼き畑農業ばかりではありません。森林破壊は、さらに違法伐採によっても進んでいきました。われわれが森林開発で伐採するのは、一ヘクタール内で四~五本という割合でした。

 残されたまだ成木とならない細い木を違法伐採して、現金収入を得る人々が後を絶たなかったのです。こうして熱帯雨林は、ところどころ完全な丸坊主の状態になり、そのままでは再生が難しいほどに破壊されてしまったのです。

 熱帯雨林の環境は地球環境にとって、とても大事ですが、地元の貧しい人々の生活をどう成り立たせていくかも重大な課題です。つまり環境を守るには、地元の人々の生活が成り立つような、経済的な裏付けが必ず必要になるのです。 』

 

 『 東京本社でのデスクワークのあいまに、私は海外のさまざまな森林調査にでかけて行きました。一つの案件に約一か月ほどかかるので、年間の三分の一は日本にいませんでした。

 こうした忙しい毎日のなかで、私は自然に対する見方が、しだいに変わってきたことに気づいていました。単純にそこに経済的な蓄積があるからという理由で、森林開発にGOサインを出すことができなくなっていました。

 会社の仕事の一方で、熱帯雨林は守らなければならないということを意識しはじめていました。それが決定的になったのが、一九八八年(昭和六三年)に起きたNGO「熱帯林行動ネットワーク」によるデモでした。

 「マレーシアのサラワク州の原住民の生活を守れ」というスローガンのもと、大きなチェーンソーの模型を持った大勢の人々が、ある商社に押しかけたのです。その商社は、前年の木材の輸入量で国内第一位となっていました。

 チェーンソーの模型には「森林破壊大賞」という皮肉な文字が躍っていました。サラワク州は、カリマンタン島マレーシア領の一帯で、インドネシアとの国境周辺にはカブアス・フル山脈などが広がる広大な山岳地帯があります。

 ここには太古の昔から、イバン族という山岳民族が森と共生しながら暮らしていました。ところが日本企業による森林開発が広がるにつれて、昔ながらの伝統的な森との共生生活ができなくなってしまったのです。

 この事実を知ったNGOが、南洋木材の輸入量が当時、日本一であった商社にデモで押し掛けたのです。このニュースを知った私は、強い衝撃を受けました。

 現地従業員の利益も考え、そこに昔から住む人たちも尊重する気持ちをもって、森林開発にあたっていた私にとって、そのデモの真の矛先が、自分自身であることを思いました。それが、大きなショックだったのです。

 ただし、そのころの私には、必ずしも自分たちが環境破壊の旗手であるわけではないのだ、という思いもありました。私たちんの伐採事業は、先にも述べましたように、胸の高さの直径が六〇センチ以上の太い木しか切らない「択伐」というやり方を守って進められました。

 そのような木は、一ヘクタールでせいぜい四~五本程度です。森林開発というと山を丸裸にしてしまうようなイメージがあるかもしれませんが、決してそのような乱伐をしていたわけではありません。

 そういう自負がありましたから、なぜ環境破壊の首謀者のように非難されなければならないのか、という思いもあったのです。しかし彼らの主張を聞いているうちに、環境破壊の大きな原因は、われわれが開発のために切り開いた道路のあることがわたってきました。

 この道路が焼き畑農業や違法伐採を推進する結果になったからです。われわれがつくった道路を使って侵入し、山を本当に丸裸にしてしまう人々を、先進国に生きるわれわれの論理で、簡単に非難することはできません。

 彼らの多くはほかの島から移住してきた農民で、いくつかの場所をローテーションでまわす伝統的な焼き畑の方法を知りません。そもそも、生態系における森の重要性を認識して、森を守らなければならないなどと理解している人は一人もいないのです。

 彼らは生き残るために、一生懸命に自然と闘っているのです。違法な伐採にも、経済的な背景があります。合板工場や製材工場への原木を確保できなければ工場は止まり、多くの従業員が路頭に迷うでしょう。

 われわれがつくった道路は、われわれが想像もできないような面からも、森林環境に変化をあたえていたのです。 』

 

 『 このような環境破壊は、熱帯雨林に存在する貴重な動植物の種を、地球上からものすごい勢いで消し去っているとも非難されました。熱帯雨林は陸地の七%に相当するほどの広さがあり、そこには地球上の生物の五〇~八〇%の生物が生息していると言われています。

 特に熱帯雨林は「生物の宝庫」です。そこには人類にとって食料や薬の原料になる貴重な野生生物種が数多く生息していると見られ、将来の研究成果が期待されています。

 熱帯雨林を破壊する行為は、そうした未知の生物種を絶滅に追いやることで、人類や地球の繁栄を妨害していると多くの学者が主張しています。それほど熱帯林、特に熱帯雨林での生物種の絶滅は急速なスピードで進んでいると指摘されました。

 こうしたさまざまな意見を聞いているうちに、私は自分たちが行ってきたことの重大さをはっきりと理解できるようになりました。気づかないところで、人間も含めた自然体系に大きな影響を与えてしまっていたのです。

 「このまま森林開発を続けていてはいけない。なんとか植林事業を展開できないだろうか」という私の思いは、これをきっかけに日ごとに強くなっていきました。

 もしわれわれの会社が環境破壊の元凶であるという抗議デモを受けたら、企業のイメージダウンは相当なものになります。そのダメージを回復するための広告宣伝費は、二十億や三十億では足りないでしょう。

 私は社長と会長に直接会って談判し、それだけのお金を植林事業に活用すべきであることを提案しましたが、「会社がもっと儲かって、余裕がでてきたらやりましょう」という結論でした。

 こうして私は、自分の人生を自分で切り開き、自分で納得して、心から誇れる仕事をなしとげるために、一八年間勤めた会社を辞め、「自然」と「健康」をテーマとする会社を興す決意をしたのです。 』

 

 ここまでを「地球を救う森づくり(前)」として、森づくりについては、後編へと続きます。

 私は、この前半の熱帯雨林の過去から、現在までの歴史がかなりの精度で記述されており、熱帯雨林のすごさとその「はかなさ」がよく記述されていると思います。

 これは、メソポタミア文明やエジプト文明が塩害によって、豊かな農地が小麦から大麦、そして不毛の地になるように、はかないものです。熱帯雨林は巨木を中心に多くの樹木によって、強烈な太陽光を何段もの葉の葉緑体によって、光合成をおこなって、地表を太陽熱から守っています。

 木の葉から水分として蒸発した水蒸気は、上空で雲となり山にぶつかり雨を降らせます。熱帯雨林は、酸素を供給するとともに、温度上昇をも抑えています。

 道路とチエンソーとトレーラー(木材を道路まで引っ張る)と火によって、あっという間に不毛の大地になりますが、元の熱帯雨林に戻すには大変な努力と資金を投下しても、少し近づけることしかできません。

 そして、これらを失った時、われわれは、はじめてその重要さに気づくのではないでしょうか。(第94回)

 


ブックハンター「銀座ミツバチ物語」

2015-11-01 19:15:39 | 独学

 94. 銀座ミツバチ物語  (田中淳夫著 2009年4月)

 『 ハチミツの味の違いをご存じですか。たとえば春先のソメイヨシノのハチミツは、桜の花の香そのものではなく、それを凝縮したような強い香りがする、サラッとしたハチミツです。

 ハチミツは「甘い」という認識しかないのが一般的でしょう。日本の養蜂は砂糖の代替品としてのハチミツを採るために行われていたという歴史があるので、それも仕方がないのですが。

 しかし、ドイツ、フランスなどヨーロッパのハチミツ先進国では違います。味はもちろん、香り、風味、糖度などによって、どんな料理に合うかなどが真剣に論じられたりもします。

 ドイツでは栗のハチミツは、その癖のあるビターな味わいが逆に珍重されています。ブルーチーズにかけ、発酵度の高い赤ワインと一緒に食すると最高のマリアージュ(融合)になると言われたりします。

 同様に癖が強く日本では人気のないソバのハチミツは、フランスではジンジャーブレッドというお菓子づくりに欠かせない材料として高い人気をほこるそうです。実はソバ焼酎に入れるととても合うんです。

 こうした季節の食材などと合わせた形でそれぞれのハチミツを楽しむ文化が、多分これからの日本でもはやることになるのでは、と私は思っています。しかも、同じ花のハチミツでも産地によって、また、その年の気候によって味が異なります。

 花の咲き具合が違うと、蜜も違ってくるんですね。この手の話、どこかで聞いたこと、ありませんか。私もはじめて聞いたときに思ったのですが、まるでワインの話を聞いているかのような錯覚を覚えました。

 そう、ハチミツは、知れば知るほど昔の日本のワイン事情と驚くほど似ています。ちょっと前の日本のワイン事情と言えば、赤なら肉料理に、白なら魚料理にと、いうぐらいの認識でした。

 今やそんな時代があったことが信じられないくらい、フランスのブルゴーニュのピノノワールとか、イタリアならトスカーナのカベルネソービニオンが…と、ワイン好きの方はとても詳しくなってます。 』

 

 『 2006年の春、沖縄からやって来た三箱のミツバチは、今が盛りのソメイヨシノの蜜をせっせと集めはじめていました。はじめての採蜜作業の日、藤原さんに勧められるままに、直接、巣のハチミツをなめてみたのです。

 シークワーサーの香りと、桜の香りが鼻腔の奥を刺激したあの瞬間。私はハチミツの魅力に取り付かれてしまったのです。ミツバチたちが沖縄でシークワーサーの花蜜を採っていたことが瞬間的にわかりました。

 同時に、ソメイヨシノの香りもわかりました。ハチミツが花の種類によって、明らかに違うことを確認した瞬間です。次の週、シークワーサーの蜜はしっかり搾ったために純粋なソメイヨシノのハチミツになったと思ったら、翌週は少し油っぽい菜の花に。

 それが終わると今度はユリノキのハチミツになりました。たくさんの花蜜が採れるユリノキが入ってくると採蜜作業も大忙しになります。この花は別名チューリップツリーと言われ、一つの花を何匹ものミツバチが同時に、しかも何度か蜜を吸ってもまだ大丈夫というほどの花蜜が出るからです。

 レンゲや菜の花などでは一匹のミツバチが花から花へと蜜を集め、ようやく蜜胃がいっぱいになるのですが、ユリノキだけはまったく別物。とたんに巣箱の中が上質のハチミツで充満し、週一回では間に合わず、週二回の採蜜をしなければあふれてしまいます。

 実は、このユリノキの存在が、銀座ハチミツプロジェクトのはじまるきっかけだったようです。「ようです」と他人行儀な言い方をあえてしたのは、当時、私も含め銀座ミツバチプロジェクトの面々は誰ひとりとして、そんなことはまったく認知していなかったからなのですが…。

 八年ほど前、藤原さんが皇居周辺を歩いていたとき、たまたま満開のユリノキの花を見つけたそうです。圧巻のユリノキの街路樹に、すぐさまこの周辺での養蜂を決意。場所を探そうとしたそうです。

 そして、永田町のとある政党のビルの屋上で、藤原さんは都心での養蜂を開始しました。もし、それがなければ、銀座ミツバチプロジェクトはあり得なかったのですから、ユリノキは、銀座ミツバチプロジェクトの生みの母かもしれません。

 内堀通りに立ち並ぶユリノキは、日比谷公園から国立劇場まで、ぐるりと皇居外周を囲みます。国内にこれだけ多くの立派なユリノキの街路樹はそうそうあるものではありません。

 ユリノキが終わると、次はマロニエ。マロニエの花蜜は赤い血のような花粉が入っているのですぐわかります。案の定そのころは、銀座マロニエ通りのマロニエの花が満開です。次は霞が関のトチノキ。

 採れる蜜は毎週のように変わります。ナツハギのハチミツはチョコレートのような香りがして驚き、ミカンのわかりやすい柑橘系の香りがしたときは、「いったいどこにミカンの木があるんだ?」と、これまたおおいに驚いたのを思い出します。ミカンの木はおそらく皇居のなかではないでしょうか。

 その後、梅雨から初夏にかけては、クローバーやラベンダーなど銀座周辺で咲いているさまざまな花蜜を求めて集蜜してきます。こうして毎週味や色、糖度、花の香りが劇的に変化します。

 まさに銀座の周りの環境を感じ、変化を感じる瞬間です。毎週採蜜をすることで毎年のサイクルから銀座周辺の環境が分かってきました。そして、ハチミツの味は、銀座の「今の環境」そのものを味わっていると気付いた時も興奮しました。 』

 

 『 ある日、高安氏の紹介で、東京はちみつクラブの浦島裕子さんと昼食をしているとき、「銀座でミツバチを飼えるスペースを探している養蜂家がいるんだけど」とそんな話が出たのです。

 「街でミツバチを飼うなんて、危ないんじゃないの」私が問うと、浦島さんは、「ミツバチは、直接花に向かい、人にはかまわないので大丈夫なのよ」三人でそんな会話をしていたのを思い出します。

話だけで納得したわけではなかったのですが、なぜか、「うちのビルの屋上を貸してあげてもいいよ」と軽くいちゃったんですね。その養蜂家、藤原誠太さんが岩手県で三代続く有名な養蜂家であり、数年前から永田町で養蜂の実績がありました。

 此の銀座で美味しいハチミツが採れるとしたらおもしろいかも、と思ってしまったんですね。「そのハチミツで何か食品を作って、銀座に来て食べてもらう。銀座で地産地消。もし実現したらこれは凄いことだよ」と、友人の高安知夫氏。

 私たちのちょっとした好奇心と遊び心を裏切るかのように、やってきた養蜂家は、次のように言ったのです。「田中さん高安さん。お二人とも生き物をあつかうのですから、途中でやめたなんて言わないで、しっかり学んでくださいね!」

 思いもかけない言葉。まさに鳩が豆鉄砲を食ったかのように、しばらくきょとんとして、「え? 何で? 私たちがミツバチを飼う? 飼うのは養蜂家のあなたでしょう…」 これがすべてのはじまり。これからはじまる騒ぎの序章でした。

 数箱しか置けない紙パルプ会館の屋上では、プロが業として行う養蜂はハナから成り立たないのです。藤原さんは、市民活動として養蜂を私たちに勧めてきたのです。

 もし仮に、プロの養蜂家が満足するような十分なスペースが紙パルプ会館の屋上にあれば、そこで藤原さんが何十箱かの巣箱を置いた業としての養蜂をしていたことでしょう。

 一度はお断りしたものの、藤原さんは諦めていなかったのです。当時、藤原さんにとって銀座は、ちょっと敷居の高く遠い存在に感じられる場所であったようですが、同時に、「もし銀座で養蜂ができたならその影響は計り知れない」と強く思っていたと言います。

 以下はミツバチの伝道師、藤原さんの言葉です。「ミツバチに興味を持ち、ミツバチに触れてくれた人が、しばらくすると精神状態がガラッと変わるということを私は何度も目の当たりにしてきました。

 話をしていて、この人たちなら大丈夫だと思ったので、多少強引に「私が直接教えますから、ぜひ、やりませんか」という話をしました。「何度、足を運んでもいいですから」とも言いました。

 不安はあって当たり前。でも、一度はじめてしまえば、必ず続けれれると思いまして(笑)」 とにかく一度、養蜂の現場をみてくれと、上京した藤原さんに世田谷区の東京農業大学進化生物学研究所の屋上に誘われたのが、はじめての養蜂現場体験でした。

 藤原さんは同大学の卒業生で、ミツバチ研究会のOBでもあるのです。巣箱を開けると無数のミツバチが飛び出したきました。防護服を着ていたからか、プロの藤原さんが一緒だったからかはわかりませんが。不思議とまったく怖いと思いませんでした。

 藤原さんに言われるまま、恐る恐る指を巣房に突っ込んで直接ハチミツをなめてみました。今まで認識していたハチミツとはまったく違い、花の香りがはっきりわかりました。

 さらに、藤原さんは、「手の甲でそっとミツバチを直接触ってみて。ミツバチの気持ちになって、脅かさないようゆっくり動かせば平気ですから」と、私の手を取り、枠に群がっているミツバチに手の甲を持っていきました。

 温かくふわっとしていて、猫を触っているような、不思議な感覚がしました。後に、銀座プロジェクトを取材に来られた作家、嵐山光三郎さんに同様の体験をしていただいたところ、「カシミアのマフラーのよう」という端的な表現をしていただきましたが、まさにその通り。

 ミツバチは子育てをしているとき、巣を三四度前後に保つため、羽の後ろの筋肉を振るわせて自ら発熱しているので温かいのです。ふと見上げると、隣のマンションではご近所の奥さんがふとんを取り込んでいるところでした。

 それを見て「こんな街中でも住民に迷惑をかけず養蜂ができるのか」と思いました。さらにミツバチの体温を感じたことと、そして何よりミツバチの伝道師の熱い思いに打たれました。

 「ミツバチは短い命の限り花蜜を集めるのが仕事です。人間にかまっている暇などないんですよ」 私と高安氏は、徐々にですが「銀座でミツバチ」をやってみる価値があるのではという気になっていったのです。 』

 

 『 その後、藤原さんが岩手から上京するたびに養蜂の勉強をさせていただき、いよいよ「銀座でミツバチ」が準備段階に入るのですが、この段階では「ダメならすぐにやめればいい」と思っていたのも事実です。

 万が一事故があれば、養蜂をやめるだけでなく、銀座から去らなければならなくなるかもしれないのですから。さらには、二人だけではとても無理であるため、仲間を誘わなくてはなりません。はたして、協力者が集まるだろうかという不安もありました。

 ところが、声をかけてみると、あっという間に仲間が集まり、「ぜひ取材させてください」というメディアも現れました。正直その反応の大きさに逆に驚かされました。 

 2006年の春に沖縄からきた三箱のミツバチは、巣箱から出ると、周りを俯瞰するように上空100メートルまで上昇します。その後、先発隊、会社でいえば営業開発さんが示した蜜源へまっしぐら。街並み、人並みなどには目もくれません。

 ミツバチはとても目がよく、形や色が認識できます。複眼で、紫外線まで見えるそうです。冬を耐え忍び、やっと訪れた春の暖かい空気の中に咲く満開のモノトーンの桜が、ミツバチたちにとっての天国だと思うと、花見も、以前とは違った感覚になってきました。

 もしかしたら、桜の花に囲まれてお気楽に酒を酌み交わしている私たちより、もっともっと、ミツバチたちは恍惚に浸っていつのかもしれません。いや、そうではく、厳しい冬の間に必死につなぎ止めた命を、ここぞとばかりに、燃焼させているのかもしれません。

 銀座三丁目の屋上から南の浜離宮まで1.2キロ。わずか五分で飛んでいける浜離宮のソメイヨシノは、銀ぱちたちにとって、春一番の蜜源です。ミツバチは満開のソメイヨシノの咲き誇る中を花から花へ飛び回ります。

 桜とミツバチは相性がよく、すでに受粉した花は「もう、ここへ来なくていいよ」とサインを出しているのだそうです。花蜜が欲しいミツバチと、受粉して実を結びたい植物。太古の昔から相思相愛の仲なんでしょうね。

 自然の摂理で、双方が効率よく生命の営みをまっとうできる仕組みになっているのです。 』

 

 『 二〇〇七年、五月二日の午前。会社でお客様と打ち合わせ中に電話かかかってきました。ゴールデンウイークの中日なら静かに打ち合わせできるからと、こちらの都合で来社いただいて打ち合わせをはじめたのですが、何度もしつこく隣の部屋の電話が鳴ります。

 ちょっと失礼と中座して電話を取ると、「田中さん、田中さん。田中さんところのミツバチ、分蜂しなかった?」いつもお世話になっている中央区の公園緑地課、宮本恭介課長からです。

 完全に田中さんのミツバチになっているのには苦笑するしかありません。なお、分蜂とは、最盛期にミツバチが増え手狭になった巣に、新女王蜂を残し、旧女王蜂が半分の働きバチを従えて新しく巣に適した場所を探しに出ることです。

 「今、みゆき通りで、ミツバチが分蜂していると連絡があり、区の職員が駆けつけているのだけど」冗談じゃない。「課長! 私たちは女王蜂の羽を切っているので、分蜂して飛んでいけませんよ。西洋ミツバチの性格は、そこがどんなに居心地が悪くても女王蜂を置いて逃げ出したりはしませんから。もしかしたらそれは日本ミツバチじゃないですか?」

 「そうかもしれない。いずれにしても明日からまたゴールデンウィークで多くの人が銀座に集まるから歩行者に危ないということで、今日中に駆除しなければならないんですよ。かわいそうだから田中さんのところで助けてあげない?」

 それでも私一人の力で助けるなんてまだ当時は無理でした。「かわいそうだとは思いますけど、今、お客さんと打ち合わせ中ですし…。とりあえず、藤原さんに確認してから、もう一度連絡させていただきます」と電話を切りました。

 藤原さんの携帯に連絡すると、即座に「わかりました! 私はタクシーですぐに道具を持って出掛けます。田中さんも至急現地に来てください」 「……」 たまたま東京に来ていた藤原さんはこちらの都合も聞かず、電話を切って飛び出してしまったようです。 

 とにかく、藤原さんに持ってこいと言われた巣箱を車に積んで、みゆき通りの現場に駆けつけました。すでに区の職員の皆さんと藤原さんが作業にとりかかっていました。

 「田中さん、早く作業服を着て! 巣箱を下から持っていてね。私が木の上から巣箱に一気にミツバチの塊を落とすからそのまま受け止めてください」

 網帽子をかぶり巣箱を頭の上に載せ、脚立の上に乗ります。何のことはない、ただの土台役。バサッ。バサッ。頭の上で音がしたかと思うと、藤原さんはすかさず蓋をし、今まで取り付いていたミツバチが戻らないよう、さまざまな作業を素早くこなしていきます。

 さすがにプロの作業。しかし、残ったミツバチが仲間のフェロモンを感じて巣箱に入っていくまで、頭の上の巣箱を載せた姿勢のまま「もうしばらく田中さんはその姿勢のままで待っていてください」とのこと。

 ふと、気付くとさらにたくさんの人が私を遠巻きに集まっており、しかも写真を撮っています。街路樹の目の前は某フイルムメーカーの常設写真展示会場で、全国から高級カメラを持った人々が集まっていたのです。

 「もういいでしょう」と藤原さんの声に救われたようにゆっくりと脚立を下りると、「どちらの養蜂場ですか?」と、大きなカメラの男性が聴いてきます。

 「プロじゃないんですよ。私たちは銀座のビルの屋上でミツバチを飼っている者で、先ほど中央区の公園緑地課から電話があり、駆除されたらかわいそうだからと助けに来ただけですよ。銀座は人にもミツバチにもやさしい街ですからね」とそぶいてみせました。

 すると、その男性に、「実は、私、読売新聞の写真部の記者です」と名刺を渡され、余計なこと言わなければよかった……。翌日、読売新聞朝刊に事の次第が掲載されていたとは、後に友人から知らされました。 』

 

 『 この出来事をきっかけに、中央区の公園緑地課から、私の携帯電話に直接電話が来るようになりなした。私をミツバチレスキュー隊とでも思っているのかと苦笑すると同時に、私はミツバチを救う資格があるのか、という迷いもありました。

 さらに紙パルプ会館屋上ではじめてミツバチが越冬した二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、たくさんのミツバチを死なせてしまったのです。西洋ミツバチと、前述のみゆき通りなどから救出した日本ミツバチを合わせると、10万匹以上になると思います。

 本当にかわいそうなことをしました。養蜂をはじめて二年目、未熟なところがあるのは当然だとしても、仕方ないとは言っていられません。幸い、ほとんどのコロニーで女王バチは生き抜いてくれましたが、もう少し、しっかりとした知識と技術があれば、こんなに死なせずに済んだものをと、残念でなりません。

 ミツバチは昆虫としては例外的に冬眠しない「温血動物」です。寒冷地域で冬を乗り切るには秋が深まるまで必死で集めたハチミツを燃料として吸い、羽の後ろの筋肉を振るわせ熱を発して巣内の温度を三四度前後に保ちます。

 子供がいない真冬は三〇度程度まで下がりますが、これ以下にはならないように必死に発熱して巣の中心にいる女王バチを守るのです。

 こうして厳しい冬をやり過ごしますが、マイナス二〇度にもなるような盛岡などの寒冷地では燃料が少ないと絶滅してしまうこともあるようです。ですから、冬になる前に、その地では何十キロもハチミツを貯めておかないといけないのです。

 常に熱を発し温度を保っていますが、燃料が足りなくなると、薄皮が一枚ずつはがされるように、外側のミツバチから死んでいきます。こうして、なんとか最後まで中心部の女王バチを守っているのです。 』

 

 『 ミツバチは日の出と同時に営業活動をはじめます。まず営業開発の銀ばちが、燃料のハチミツを満杯に吸って「本日の蜜源」を探しに飛び立ちます。巣箱からスパイラルな軌道を描きながら一気に上昇します。

 地上一〇〇メートルから眺める銀座の景色はどんなものなのでしょうか。飛行可能範囲を見渡して、卓越した臭覚と視覚を使って蜜源を探しはじめます。

 上空に到達すると、吹く風のなかに花の香りを触覚で感じ、目ぼしい蜜源を確認すると、蜜と花粉を持ち帰り待機している営業本体に場所を知らせます。それが、「8の字」ダンスです。

 整然とした社会生活を営むために不可欠なこの8のダンスを発見した研究者は一九七三年にノーベル生理学・医学書を授与されています。

 昆虫の脳を研究している玉川大学の佐々木正巳先生のお話によると、8の字ダンスで、巣箱からの方向、距離、花蜜の量、花の種類までわかるのだそうです。

 8の字ダンスで情報を得た営業はそれに従い、まず往復分のハチミツ(燃料)を吸って飛んで行きますが、蜜源を確かめた後は蜜源までの片道分だけのハチミツを吸って飛んで行くのだそうです。

 片道で燃料がなくなりタンク(蜜胃)は空っぽ。その分たくさんの花蜜を集めることができるというわけ。感心するくらい理にかなっています。たかが小さい昆虫と思ったらとんでもない。なかなか「やるじゃん!」と思いませんか。どうやら結構賢い連中のようです。

 片道五分の浜離宮(1.2キロ)、片道七分の皇居(1.5キロ)なら、一日、一〇往復から二〇往復。春から夏にかけ、毎週採蜜作業をすることで、自然のサイクルや銀座周辺の環境がわかってきました。

 銀座が自然環境や生態系と共生できる大きな可能性が見えてきたのです。 』

 

 銀座ミツバチプロジェクトは、ハチミツの生産を核として、それを使っての銀座のスイーツ、カクテル、教会のロウソクへと、さらに、メダカの学校、日本熊森林教会へとつながっていきます。そして、銀座と里山との交流と発展していきます。

 銀座周辺は、皇居、浜離宮、日比谷公園、ユリノキ、マロニエなどの街路樹と蜜源植物が豊富で、日本ミツバチまで分蜂し、銀座は商業の街ですが、それを支える一流の職人の街で、日本と世界の人々を惹きつける包容力と魅力のある町だと感じました。(第93回)