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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「最後の冒険家」

2018-05-29 15:43:05 | 独学

 166. 最後の冒険家   (石川直樹著  2008年11月)

 本書は、第6回開高健ノンフェクション賞受賞作です。


 『 冒険家・神田道夫とはじめて出会ったのは、2003年夏の暑い日、東京・青山のとある喫茶店である。当時ぼくは26歳で、まだ大学院の学生だった。どうして神田がぼくに会おうとしているのか、その理由はあらかじめ知人から聞いていた。

 54歳だった神田は、翌年に実行を計画している熱気球による太平洋横断遠征のパートナーを探しており、共通の知人を介してぼくに連絡をくれたのだった。

そのときはまだ大平洋横断もなにも、気球がどういうもので、神田がどのような計画をたてているかもまったくわからなかった。

 ただ、神田は冒険や探検の世界では有名だったし、気球に無知なぼくも名前くらいは聞いたことがあったので、単純にどんな人か会ってみたい気持ちだけはあった。

 神田は先に到着していて、4人がけのテーブルに一人で座っていた。ネクタイにジャケットを羽織っていたので、仕事帰りなのだろう。どちらかというと小柄で、痩せても太ってもいるわけではなく、一見するとどこにでもいそうなお父さんである。

 豪放だけどちょっとだらしない冒険家タイプでもなかったし、ゴーグル焼けの黒い顔から目だけぎらぎらさせているような登山家タイプでもない。

 今まで出会ってきた数々の旅人とはあきらかに異なるタイプで、このような機会がなければ、日常生活でぼくと彼が言葉を交わすことなどなかっただろう。

 お互い名前を名乗って挨拶した後、「お会いできて嬉しいです」とぼくは言った。決して社交辞令ではなく、彼に会えてぼくは本当にうれしかった。

 神田はヒマラヤの8000メートル峰、ナンガパルバットを熱気球で飛び越えた功績によって2000年度の植村直巳冒険賞を受賞している。噂は空の世界と縁がなかった自分のところにもと届いてきており、そのような人物に会えて嬉しくないわけがなかった。

 神田はぼくに名刺を2枚差し出した。彼が勤めている埼玉県川島町役場の名刺と個人の名刺があり、個人の名刺には「日本熱気球飛行技術研究会会長」とある。

 不思議な肩書だと思った。一般的に想像できる冒険家らしい堂々とした態度はなく、どちらかといえば謙虚で実直な印象だった。しかし、無口という雰囲気ではなかった。

 彼はカバンをまさぐりながら、自分の冒険の履歴が年表になっている雑誌記事のコピーを取り出すと、一気に話し始めた。人ははじめて会えば世間話や雑談からはじまり、どこでお互いに知ったかなどを話したりするものだが、彼の場合は一切そういうことがなかった。

 単刀直入である。余計なことは喋らない。声は大きいがいくぶん伏し目がちで、ほとんど目を合わせようとしなかった。

 喫茶店のテーブルの上には、過去の冒険に関する新聞記事や資料のコピーがうずたかく積み上げられていく。彼はいわゆる冒険譚として、身振り手ぶりを交えて大袈裟に語ったり、ことさら苦労を強調するようなタイプではない。

 事実だけを自分の言葉で語る。それもシンプルな言葉だから、どんなに大変だったか、あるいは大変でなかったか、それさえもわからない。 

もしかしたら話す相手が冒険家と呼ばれたこともあるぼくだから、そういう説明をしたのかもしれないと思う。 これまでの遠征について一通り簡単な説明を聞くと、ぼくは「すごいですね」と言った。

 それぞれの記録がどれだけ大変なことなのか、まったく実感をもって理解できたわけではなかったが、おそらく驚異的な実績なのだろうし、何よりその勢いのある喋りぶりに圧倒されて、そうとしか言えなかった。 』


 『 そんなぼくの様子を見てとったのか、彼は口調をゆるめて言った。「わたしもね、気球に乗り始める前は川下りなんかをやっていたんですよ。自分でイカダをつくったりしてね」

 彼のはじめての冒険は、高校三年の夏に地元の埼玉で敢行した荒川下りだった。たった一人で秩父から大宮までを安手のゴムボートで下ったという。いわゆるラフティングの先駆けである。

 21歳のときには、激流で知られる熊本の球磨川を下り、その帰り道、ちょうど開催されていた大阪万博に立ち寄って「月の石」を見学した。日本の三大急流をやっつけようと、今度は山形県の最上川をくだった。

 最終的には山梨県の富士川を下って冒険は一段落するはずだったのに、テレビのドキュメンタリー番組でニュージーランドの最高峰マウントクックを飛び越える熱気球の勇姿を見ると、「これだ!」とばかりに彼は空の世界へと身を投げ出すことになる。

 しかも、気球をはじめてから徐々にステップアップして冒険旅行へと踏み出していったのではなく、彼にはまず誰もやったことがない冒険をしたいという気持ちが先んじていた。

 未知の冒険という意味で川下りに限界がある一方、まだ日本ではそれほど身近な乗り物ではなかった気球による空の冒険は、限りなく開拓しがいのある分野だった。

 激流下りも気球も、自然が生み出す”流れ”を利用するという点では共通している。自転車や登山のような体力勝負ではなく、水や風も流れを読んでそこに身を委ねなければならない。

 川でのラフティングと空を飛ぶ気球、どちらの冒険も理論的に攻めるというよりは、その場その場の読みと直感がより重要視される。

 神田は綿密で合理的な計算に基づいて何かを達成するというよりは、研ぎすまされた身体感覚で厳しい現場を状況に応じて巧みに乗り越えていくタイプだった。川下りから気球への進路変更は、神田のその後の人生を決定づけることになる。

 神田が本格的に気球をはじめた1977年は、ぼくが生まれた年でもある。当時は植村直巳が日本人初のエベレスト登頂を果たしており、1978年にはその植村が世界初の犬ぞり単独行による北極点到達を成功させている。

 まだ地理的な探検や冒険がかろうじて可能で、遠征の成功が多くの人々から最大級の賛辞をもってうけいてられる、そんな最後の時代でもあった。

 あとになってぼくは神田から、植村直巳の講演会に出かけた話を聞いた。「想像していたより小柄で、全然ふつうの人だったよ」と、その時の印象を彼は語るが、彼だって「全然ふつうの人」である。

 若き神田道夫は、時代の空気にも後押しされて、気球による冒険の世界を全力で駆け抜けていくことになったのだ。原点である川下りについて話し終えると彼はしばし無言になり、ここからが本題とばかりに、喋るスピードをまた少しだけ落とした。

 彼は資料の方ばかり見ていて、なぜかぼくを正視しようとはしない。しかし、彼が真剣そのものであることは、その力のこもった話しぶりから強く伝わってきた。 』


 『 「太平洋横断計画について話します」 どこかあらたまってそう言うと、彼は計画の詳細について話し始めた。高度一万メートル付近を流れる偏西風、つまりジェット気流に乗って、時速150~200キロで東に向かい、約60時間で北米大陸の”どこか”へ到達する。

 離陸日は1月から2月末までのジェット気流が最も強くて安定する時期の一日をねらい、成功すれば世界では2番目、そして日本初の快挙であるという。

 過去、太平洋横断を熱気球によって成功させたのは、1991年2月、ヴァージングループの会長を務めるイギリス人のリチャード・ブランソンとスウェーデンの気球製作者であるパー・リンドストランドによる一例のみだった。

 ヴァージングループは、ヴァージンアトランティック航空をはじめとする32社以上の関連会社をもち、年間8兆円もの売上高を誇る巨大企業である。

 ブランソンらはその遠征に数億円を投じ、気密ゴンドラと最新鋭の機器に囲まれて、ゴージャスな冒険に興じた。

 密閉されて室内の気温を調節できる気密ゴンドラのなかではTシャツで過ごすことが可能で、しかも高性能な自動操縦装置なども使っており、肉体を酷使する従来の冒険と彼らの遠征は趣が異なっていた。

 ちなみにブランソンらは1986年にスピードボートによる大西洋最短横断記録、翌1987年には熱気球による大西洋横断にも成功している。

 一方、神田は少ない予算のなかで自ら球皮の生地を選び、知人と協力してミシンで縫い合わせながら気球を制作し、しかもゴンドラはビルの屋上などにある貯水タンクを改造して作るという。

 貯水タンクは気密式でないから、結局は生身の身体を高度1万メートルにさらしながら飛行することになる。たとえ素人でも、それを聞いただけで、この遠征がただごとではないことが容易に想像できた。

 ジェット気流の流れがいい日に離陸しなければいけないので、あらかじめ出発日を決めておくことはできない。1月から2月にかけて60日間におよぶ待期期間が必要となるために、急に出発が決定してもすぐに応じられる人間を神田は副操縦士に選ぶ必要があった。

 大学院に通っていたとはいえ、会社員などではないし、いつもふらふらと旅の途上にある自分は、お金はなくても時間はある。

 僕はそれまでに南大平洋の離島に住む古老から伝統航海術を学び、カヌーで旅をしたこともあったし、北極から南極までを人力で縦断する国際プロジェクトへの参加、七大陸それぞれの最高峰に登頂するなど、いわゆる「冒険」と呼ばれるような行為を数多く行なってきた。

 加えて、ヒマラヤにおける高所登山や極地遠征の経験をもち、日常会話程度なら英語が話せて、探検や冒険の世界についてもある程度は理解している――神田はそのあたりのことを考えてぼくに声をかけてくれたのだろう。

 しかし、ぼくは気球に乗った経験が一切ない。出発まで1年を切っている状態で、このような大遠征に自分は参加する資格があるのだろうか。

 海外遠征の苦労や8000メートルという高所の恐怖は、エベレスト登山などでイヤというほど味わっている。こういった計画に生半可な気持ちで関われないことは自分自身が一番よくわかっているつもりだった。

 だが、神田は強い口調で言った。「今からはじめればライセンスは十分に取れるし、気球の技術なんてどうにでもなる。今回の遠征で何より大切なのは極地での経験で、石川さんはそれを十分に満たしているから」

 ライセンスというのは気球を操縦する資格のことだ。これがなければパイロットとは呼べない。当初は話を聞くだけだったのに、いつのまにか神田の言葉に心を動かされつつある自分がいた。(この話にのってみようか……)

 過去に経験したさまざまな旅が思い出される。登山にしても川下りにしても最初は何一つわからなかった。経験を積み、装備を徐々に買い揃え、ある程度の時間をそのフィールドで過ごすことによって、人はそれぞれの場所で身軽になれる。

 神田についていけば気球を自在に乗りこなして、空を自由に飛べるようになれるかもしれない。なにより神田には人を信頼させるだけの純粋さと揺るぎない気持ちがあって、ぼくはそのあたりに惹かれはじめていた。

 まだまだ曖昧なこと、不安なこと、わからないことがいくつもあったが、ぼくはその場で返事をした。 「もし自分でも参加できるのなら、やらせてください」 返事をしてしまったといってもいい。

 神田は顔を上げて表情を変えずに肯いた。その瞬間、ぼくの新しい旅がはじまった。都市を歩き、大地を走り、山を登り、川を下り、海を渡る旅をこれまで繰り返してきたが、自分のなかのに残る最後のフィールド、空へとぼくは神田とともに乗り出すことになったのだ。 』


 ここで、神田の過去のヒマラヤ超えの話に飛びます。


 『 富士山越えから11年、神田は情熱をひとときも失わずに世界最高峰へと登り詰めようとしていた。

 この計画が画期的な挑戦であるとして、日本のテレビ局TBSがメインスポンサーにつき、かかった費用を含めて、それまでの神田の人生の中で最も大掛かりな遠征となる。

 遠征隊はまず陸路でネパールから中国の友誼大橋を渡り、チベットに入った。離陸地を標高4300メートルのヤレ村に決め、郊外の河川敷にテントを張っておよそ1ヵ月を天候待ちに費やすことになる。

 テレビ局の人たちが中国から多くの人を雇っていたため、ベースキャンプはさながら登山隊のテント村のようだった。

 計画では、チベットの中国国境に近いこのベースキャンプから離陸し、チョーオュー、エベレスト、マカルーなど世界に名だたるヒマラヤジャイアンツをこえながら東に向い、ネパールとシッキムの間あたりに降りることになっている。

 神田と市吉の他に、番組制作のためテレビカメラマンの斉藤も同乗することになった。

 神田と市吉の師弟コンビが飛ぶ以前に、海外の3チームがエベレスト越えに挑戦しており、また二人が飛ぶわずか1週間ほど前にもイギリス隊によって試みられていたが、どれも失敗に終わっている。

 エベレストという山は登るにしても飛ぶにしても、やはりそう簡単な山ではないのだ。1ヵ月におよぶ天候待ちの末、上空の風速や風向きを予測し、二人は出発を決断する。

 一度は高度1万メートルの上空まで上がることに成功した。神田はエベレストを目にしてその圧倒的な姿に興奮し、指差しながら叫んだのをよく覚えているという。

 「あの山だ! あの山だ!」 うまくいけば3時間から4時間ほどでエベレストを超えられる予定だったが、上空には想定していたような強い風は吹いていなかった。

 機体のトラブルなどは一切ない代わりに、風の弱さが二人を苦しめることになった。この風を予測できなかったことが、彼らの最大の致命傷となる。

 上空でこれは難しいと判断し、わずか1時間の飛行で降りる決断を下したまではよかったのだが、そこから先に起こる惨事まで誰が予想できただろうか。

 結果からいえば、神田と市吉という最強タッグをしてもエベレストは越えられなかった。二人はエベレスト超えに失敗し、ヒマラヤの山腹に激突して辛くも一命をとりとめることになる。

 飛行をあきらめた彼らが降りようと画策したのはエベレストの手前にある名もなき山の中腹、高度5000~6000メートルの氷河の上だった。

 接地するまでは静かに下降していたのだが、接地したと同時に球皮がよこにあった岩壁にぶつかって大きく裂け、一気に浮力がなくなって、ゴンドラが転倒をはじめたのだった。

 降りたところは、上から見たら平らだったが、実は傾斜の激しい谷間の雪渓のなかで、とても着陸できるような場所ではなかった。ゴンドラは500メートルほど岩と氷の上を転がり続け、なんとか止まった。

 止まっているのが奇跡的な状態である。球皮がバーナーに巻きついてしまい、ゴンドラもあちこちが破損していて、どうやっても修理不能というひどい状況だった。

 市吉は「一瞬ガーンとぶつかったのは覚えている」と言う。そのとき彼は足を骨折し、すぐにゴンドラから出られなかった。なんとかゴンドラから自力で脱出した神田とカメラマンの斉藤が戻ってきて、市吉を雪の上へと引っ張り出し、ようやく事態を理解する。

 ぶつかった瞬間から引っ張り出されるまでの記憶がなくなっていたことから、市吉は軽い脳震盪を起こしていたのだろう。カメラマンの斉藤は無事だったが、神田もぶつかったときに肋骨を折っていた。

 市吉の足は普段と逆向きに曲り、誰が見ても足が折れている状態で、身動き一つとれなかった。重傷である。ゴンドラについているバーナーにはまだ種火がついていることに気づき、無事だった斉藤がそれを消そうとするのだが、間違えて彼はメインバーナーを焚いてしまう。

 それにより、ゴンドラと球皮が炎上することになった。3人は身体を引きずりながら、なんとかその場を離れたが、ゴンドラの中にはパスポートも書類も財布も酸素ボンベもすべて入っていた。

 おまけにプロパンガスも装着されていたから、やがてそのプロパンガスに引火して爆発まで引き起こし、彼らはすべてを失った。3人はそれを遠くからぼんやりと眺めているほか、為す術がなかった。身体以外のあらゆるもの、本当にすべてが燃えてしまったのだ。

 市吉はチョコレートをポケットに入れており、それで空腹をしのぐことになった。神田のポケットには小さなトランシーバーが入っており、それで上空を飛んでいた追跡用飛行機に「着陸して気球は大破したが、命に関わる怪我じゃない」という連絡を入れる。

 歩けない市吉に付き添う形で斉藤はその場に居残り、神田はそこから谷伝いに一人歩いベースキャンプへ救助を求めに行くことになった。二人は神田が無傷だと思っていたが、後から肋骨が折れていたことを知る。

 地図をもっていたとはいえ、5000~6000メートル地点からそんな状態でベースキャンプまで歩いた神田の忍耐力は超人的である。神田は趣味で1年に1回程度、仲間と登山を楽しんでいた。

 ただ、それも夏山を歩く程度で、本格的な登山の経験はもちろんない。着陸した谷は雪に覆われていた状態ではなかったものの、アイゼンもつけてない軽登山靴で、よくベースキャンプまで無事にたどり着けたものだと思う。

 神田が必死の思いでベースキャンプに到着したときには、すでに状況はおおむね把握され、救助の対策が練られていた。上空で追跡していた飛行機からも情報が入っていたし、市吉が怪我をして動けないこともわかっていたので、どうやったら彼らを救出できるかその検討がはじまってた。

 そのときのベースキャンプには、日本屈指の登山家、大蔵喜福氏と医師の清水久信氏が待機していた。大蔵はチョーオユー(標高8201メートル)無酸素登頂をはじめ、ヒマラヤの8000メートル峰をいくつも登っており、経験の質に関しては、ベースキャンプの誰よりも優れていた。

 また、清水は京大の山岳部出身で、自身も登山家であることから高所に関しては随一の知識をもっていた(この翌年、清水は京大の梅里雪山へ向かう登山隊に同行し、雪崩で亡くなった。17人という大量遭難だった)。

 大蔵と清水は、山の素人である神田と市吉をサポートするために、日本からお目付け役として遠征隊に招聘されていたのだ。そして、偶然にもこの直前に学習院大学の登山隊が近隣のシシャパンマ山に登頂していた。

 エヴェレストとシシャパンマは距離的にも近く、ベースを同じ場所に張る登山隊もいるほどである。学習院大学の登山隊は、登山を終えた後、すぐ近くに大蔵がいることを知って、挨拶をするためにたまたま気球遠征のベースキャンプにやってきたのだった。

 神田と市吉が飛んだのは、学習院の登山隊が訪ねてきた次の日である。二人の失敗を知ったベースキャンプの人々は救助に向かおうと試みたが、大蔵や清水以外はまったく山に不慣れな人員ばかりで、少しの距離を登るだけでも精一杯という具合だった。

 そこで、思い出されたのが、昨日出会った学習院大学の登山隊である。帰途についた学習院大学の登山隊を里から急遽呼び戻し、救助を手伝ってもらうことになった。

 彼らは8000メートル峰に登ったばかりで、高所順応も完璧なうえに、屈強な山男ばかりだった。こうして期せずして心強い救援隊がベースキャンプに集結したのだった。

 大蔵や学習院の登山隊、そしてそのまわりにいたシェルパたちの助けもあり、市吉は木の枝や山道具によって作られた応急担架で担がれ、ヘリコプターが着陸できる一番高いところまで下りることができた。

 市吉は肋骨が肺に刺さって、肺気腫をおこしており、あと少しでも救助の時間が遅れてたら助からなかっただろう。そして市吉はすぐにネパールの首都カトマンズの病院に収容され、なんとかことなきをえるのである。

 神田はエベレスト超えに失敗したが、その後も再び挑戦したいという気持ちはずっとくすぶり続けていた。しかし、この失敗の翌年、イギリス隊のアンディー・エルソンがエベレスト超えに成功してしまう。

 二番煎じはつまらないということで、神田は世界第2位の高峰、標高8611メートルのK2超えを思いつくのだった。 』


 『 神田と市吉のエベレスト超えに、一人の青年がボランティアスタッフとして同行していた。青年の名は竹澤廣介。大学のとき趣味で気球をやっていたことをきっかけに、彼は大学を卒業して製薬会社に就職した後も気球の世界へとどまり続けた。

 会社員として働いていた竹澤だったが、神田と市吉によるエべレスト遠征の話を小耳にはさみ、ついてはクルーを募集しているというのを聞きつけて、地上の雑用係として遠征に参加させてほしいと申し出たのだった。

 竹澤は神田と年齢が一回り違う。神田とはじめて出会ったときの竹澤はまだ28歳だった。その後、神田とともに数々の冒険飛行をおこなうことになる竹澤の出発点はこのエベレストだった。

 このときから、竹澤と神田の親交もはじまる。単なる親交ではなく、その後の神田の大きな遠征には地上サポート隊として、あるいは同乗者として必ず隣に竹澤がいた。

 竹澤はいつも威勢がいい。顔は日焼けで赤茶けていて、髪はぼさぼさだ。見かけには無頓着だが、誰ともフランクにつきあい、隠し事をしたりせず常にオープンなので、話しているとつい心を許してしまう。

 数々の遠征をこなしてきた竹澤には、ぼく自身、貴重なアドバイスを多くもらっており、頼れる兄貴分といった存在なのだ。「俺さあ、キャラクター的にはお友達タイプなんだよ。あんまり強権を発動できない性格っていうかさ。何かを命令したりとかが苦手なんだよね」

 そういう竹澤とチームを組めば、どんなことに関しても彼はとことんまでつきあってくれただろう。神田は突撃タイプだったから、コンビとしてはよかったのかもしれない。

 神田は1990年のエベレスト超えに失敗した後、1993年に中国から熊本へ渡る東シナ海超えの単独飛行に成功している。このときも竹澤はサポート隊として同行している。

 1994年にオーストラリアで長距離世界記録を神田が達成したときも竹澤は地上でサポートした。そして、1997年、それまで地上での雑用や連絡係に徹していた彼が、対空時間の世界記録へ挑戦するカナダ遠征ではじめて副操縦士として神田と同乗することになった。

 彼らが滞空記録更新をねらうにあったて重要なのは、場所の選定だった。神田はそれ以前にオーストラリアで長距離飛行記録を更新している。滞空時間と長距離飛行の記録は異なるものだが、技術的な部分での基本は変わらない。

 ならば、慣れているオーストラリアで滞空時間のほうも更新しようということになり、はじめはカナダではなく、オーストラリアで計画を実行に移すつもりだった。

 ちなみにオーストラリアでは市吉らのグループも滞空時間の記録を作っており、日本人にとってなじみのあるフィールドだったのだ。

 市吉と大岩のペアが作った滞空時間記録はおおよそ41時間29分である。しかし、それは体積によってクラス分けされる気球の中では中量級の記録で、大きさに限定されない熱気球そのものの滞空時間というわけではなかった。

 小さいものから大きなものまで含めた熱気球の滞空記録は、前述したリチャード・ブランソンとパー・リンドストランドによる世界初の太平洋横断記録の際に作られた46時間である。

 九州の都城を離陸しカナダ北西部のイエローナイフに着陸したブランソンたちの詳細なデータを見た神田と竹澤は、ブランソンのようにお金をかけず、自分たちがもっている中量級の気球で、しかもクラスなど関係なしに彼らの記録を破れる可能性があると判断した。

 記録更新をねらうには場所のほかに時期も慎重に選ばなければならない。熱気球は球皮内の空気を外気温より暖めることによって空を飛ぶ。

 だから単純に飛ぶだけなら季節を問わないが、記録を更新するために最適な季節としては、夏よりも気温が低く、大気が安定する冬を選ぶ必要がある。

 慣れているオーストラリアは真冬でもそんなに寒くならないが、冬の寒さが厳しいカナダなら長いフライトにも適しているのではないか。それが神田と竹澤の一致した考えだった。

 アメリカやカナダやオーストラリアの気球乗りが有利なのは、自分の家の裏庭から飛んで世界記録などを出せてしまうことだ。国土の小さな日本では、それは不可能に近い。ただし、太平洋横断に関してだけは、条件が違った。

 冬のカナダで滞空時間記録更新をねらうことを決めると、二人はすぐに計画を実行に移した。 』


 『 神田の年表をみると、オーストラリアで94年に長距離記録更新をおこなってから、97年滞空記録への挑戦までに3年間あいているが、この期間、血気盛んな彼らが何もしていなかったわけではない。

 滞空時間の記録更新に執心し、毎年のようにカナダに通っていたのだ。95年にカナダへの下見旅行をおこない、翌96年に二人ははじめての挑戦をおこなった。

 しかし、このときはカナダを離陸したものの気球はアラスカ方面に流されていき、高度を上げてなんとか方向を変えようと試みるも、うまくいかなかった。

 その結果、一昼夜かけて23時間ほど飛んだあげく、ほとんどカナダを横断するに等しい距離を移動して、やむなく東の果てのケベックで着陸した。このときは飛行速度も速く、滞空時間時間更新には達しなかった。

 二人は帰国すると、もろもろの準備や手配を仕切り直し、同じ年に2度目の挑戦をおこなった。しかし、今度は天気が悪くてまったくフライトができずに、失敗する。

 3度目は天候も計画自体もまずまずうまくいっていたのだが、途中で気球が裂けるというハプニングに見舞われている。燃料も荷物も満載の重い状態で飛びはじめるため、最初はなかなか気球の動きがとりづらい。

 そんななか、シェアウィンドと呼ばれる異なった方向の風の境目で起こる乱気流に遭遇してしまったのだ。バーナーの炎はあらぬ方向になびきはじめ、コントロールできないままに球皮に炎が燃え移ってしまった。

 結局、球皮の下の部分を焼いてしまうという事態に至る。球皮そのものは少し焼けて穴があくぐらいでは平気な構造をしているので、このくらいならこらえられると思ってのも束の間、焼けた部分から球皮が一気にさけはじめたのだ。

 神田と竹澤が使っていた気球は、既製品である。大きくもなければ、特別な艤装をしているわけでもない。しかし、その代りに球皮の裏側にアルミを蒸着し、太陽熱を利用して球皮内の温度を保持する”二重構造”という工夫がなされている。

 二重構造の気球とそうではない気球とでは熱効率がまったく違うのだ。非常に大ざっぱにいえば、二重構造の気球は普通の気球の半分の燃料で同じ距離を飛べる。つまり、軽い燃料でより遠くまで飛べると言い換えることができる。

 そして二重構造にした分、重くなるので軽量化をはかろうと、通常なら球皮を縦横に補強しているロードテープの横まわりのものを設計段階から省いてしまっていた。

 その軽量化の策によって、予想しない事態を引き起こされた。球皮の縦方向の裂けがとまらなくなり、見る見るうちにやぶれていたのだ。

 横のロードテープさえあれば、裂けは一部で止まったはずだが、それがないために天上方向に向かって裂け目は広がっていく。一歩判断が遅れていたら墜落していた。しかし、すぐさま着陸態勢をとり、なんとかカナダの雪原に不時着できた。

 不時着した直後に撮影された写真をぼくは見せてもらったが、それはまさに墜落としか思えない惨状である。球皮はぐちゃぐちゃになり、バーナーは妙な位置にねじまがり、ゴンドラは横倒しになって中の荷物はすべて雪上にぶちまけられている。

 しかし、これでよく二人は無傷でいられたものだと思う。写真には、倒れたゴンドラの前に、見たこともないような情けない顔をしてたたずんでいる竹澤の姿が写っていた。

 この不時着を目撃した地元の住民がすぐに各方面へ通報し、消防隊員がやってきたという。「おまえたち大丈夫か?」 「いや、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすいません!」 竹澤は明るい性格をしていて、いつもこんな調子だ。

 ただし、不時着直後、失敗を記録するためにお互い交互に写真を撮り、神田バージョンと竹澤バージョンの写真が2枚残されているが、」どちらも当然のことながら表情に明るさのかけらもない。

 このような失敗を受けて、もう遠征もこれまでかと思われたが、彼らは記録更新のためにすでに3度も挑戦をおこなっている。ここであきらめるわけにはいかなかった。 』


 『 神田も竹澤もとことん前向きなタイプである。そして、3度の挑戦によって経験値も蓄えられ、そこで起こったあらゆる事態に対応できる余裕もできた。

 カナダは他の国と違って気球のディーラーもあちこちにいる気球大国である。彼らは裂けた気球をすぐさま近くのディーラーにもっていき、球皮を縫い直す修理を施してもらった。

 単に元道りに直すだけでなく、球皮が裂けるのを防止する横まわりのロードテープも付け直した。この間、およそ1週間。気球が直ったのに、日本に帰ることなど二人にはできるはずがなく、修理したばかりの気球で最後の1フライトを飛ぶことを決心した。執念の賭けである。

 幸い天候もよく、上空で二人はほとんど寝ずに過ごしていた。世の中には2日間ほどの徹夜をこなす人は山ほどいるだろうが、ほとんど身動きできない畳1畳ほどのせまいゴンドラの中での2日間空を見続けるという行為は、想像するほど簡単なことではない。

 2日目には、平原の上を飛んでいるはずなのに、神田は山のような崖を見て、竹澤は高層ビルなどを見るようになる。そのたびに彼らは急にバーナーを焚いて高度を上げ、地上から「何やってんいるんだ!」と怒りの連絡が入った。二人は幻覚症状に襲われていたのだった。

 「”やっやぜ、飛びたてた” という気持ちもあるし、興奮しているからなんとか起きていられたよ。嫌なことをやっているわけじゃないしさ」 竹澤はそう言うが、その苦しみは想像にあまりある。

 わずかでも眠ってしまえば、バーナーを焚くことができず地上に落ちてしまうため、彼らは常に緊張していた。「眠らなかったのは、お互い信用してなかったからだよ」 竹澤はあっけらかんと言う。

 どちらかに寸分の甘えでもあれば、二人は共に眠ってしまったかもしれない。しかし、お互いそうしたあまえや寄りかかりあいを拒否し、自己責任をつらねけば結果的に遠征は成功する。それは二人の暗黙の了解だったのだろう。

 「そろそろ落ち着いてきたから ”じゃちょっと休んでいいよ”って、ゴンドラの中で少しの時間休むわけ。でも高度計とかピーピー鳴りはじめると、”え、焚かないでいいの?”となる。お互いにそういう感じなんだ。

 一応、言葉では”そっちに任せるよ”とか言うんだけど、完璧に寝ているていう感じには絶対にならない」 このとき二人は高度1000メートル前後を維持していた。そこから外れるとアラームが鳴るわけだ。

 50時間もゴンドラの中にいると雑談の一つもありそうなものなのだが、彼らは余計なことはほとんど喋らず、それぞれ与えられた役割に没頭していた。4度目のチャレンジをふいにするわけにはいかないという気概だけが彼らを支えていた。

 高度を維持して飛行を続けることは、単純作業にも思えるが暇をもてあましているわけではない。定期的にバーナーを焚き、高度や位置を計測器で常に把握しながら、天候や着陸地点のことも頭にいれておかねばならない。

 風を読み損ねて海に出てしまったり、高層ビルが乱立する都市の上空にでも流されてしまったら、命の危険にさえでたきてしまう。

 カナダ・アルバータ州カルガリーを離陸した彼らは50時間38分ものあいだ飛行を続け、アメリカ合衆国・モンタナ州ジョーダンの牧場に着陸した。

 着陸直後の記念写真は、先回の不時着後の様子に比べると格段に美しかった。空にボンベを全部捨て、他の機材は着陸に備えてすべてしっかり固定してある。

 モンタナ州ジョーダンにはカナダと違って雪がなく、牧場の地面にゴンドラのすり跡がわずかに残っただけで、何事もなかったかのような見事なランデイングだったことがうかがえる。

 そして、牧場の地主である女性が近寄ってきて、笑顔で写真に収まっていた。滞空記録更新のことを話すと地主の女性は誇らしげに二人を抱きしめてくれたという。 』


 その後、神田は、この本の著者の石川直樹と二人で大平洋横断の遠征を行ない、太平洋に不時着し、九死に一生を得た後、二度目の太平洋横断を単独で行い、太平洋に遭難し、帰らぬ人となった。 (第165回) 


ブックハンター「大谷翔平が花巻東野球部1年時に立てた目標達成表」

2018-05-22 19:06:05 | 独学

 165. 大谷翔平が花巻東高校野球部1年の時に立てた目標達成表   大谷翔平作成

 目標達成表は、小さいものは、正方形を縦を三等分し、横を三等分し、九つの正方形に分割されます。この中央に目標を書きます、

 まわりの八つに目標を達成するための要素を書き込みます。

 大谷の書いた目標達成表は、その八つの要素の一つを九つの中央に書き、それを八つのサブ要素に分割します。従って、9x9=81の表になります。

 では、目標達成表を中央の九つのマス目から見ていきます。


  1.   ドラフト1位8球団     (中央の9つのマス目の中央)

  1.1   体づくり     (左上から時計回りに)

  1.2   コントロール

  1.3   キレ

  1.4   メンタル

  1.5   スピード160Km/h

  1.6   人間性

  1.7   運

  1.8   変化球


  1.1   体づくり        (左上の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.1.1   体のケア

  1.1.2   サブリメントをのむ

  1.1.3   FSQ90Kg

  1.1.4   柔軟性

  1.1.5   RSQ130Kg

  1.1.6   スタミナ

  1.1.7   可動域

  1.1.8   食事夜7杯朝3杯


  1.2   コントロール      (中央上の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.2.1   インステップ改善

  1.2.2   体幹強化

  1.2.3   軸をぶらさない

  1.2.4   リリースポイントの安定

  1.2.5   不安をなくす

  1,2.6   下肢の強化

  1.2.7   体を開かない

  1.2.8   メンタルコントロールをする


  1.3   キレ          (右上の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.3.1   角度をつける

  1.3.2   上からボールをたたく

  1.3.4   力まない

  1.3.5   下半身主導

  1.3.6   ボールを前でリリース

  1.3.7   回転数アップ

  1.3.8   可動域


  1.4   メンタル        (左中の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.4.1   はっきりとした目標、目的を持つ

  1.4.2   一喜一憂しない

  1.4.3   頭は冷静に心は熱く

  1.4.4   ピンチに強い

  1.4.5   雰囲気に流されない

  1.4.6   波をつくらない

  1.4.7   勝利への執念

  1.4.8   仲間を思いやる


  1.5   スピード160Km/h   (右中の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.5.1   軸でまわる

  1.5.2   下肢の強化

  1.5.3   体重増加

  1.5.4   体幹の強化

  1.5.5   肩周りの強化

  1.5.6   可動域

  1.5.7   ライナーキャッチボール

  1.5.8   ピッチングを増す


  1.6   人間性       (左下の9つのマス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.6.1   感性

  1.6.2   愛される人間

  1.6.3   計画性

  1.6.4   思いやり

  1.6.5   感謝

  1.6.6   礼儀

  1.6.7   信頼される人間

  1.6.8   継続力


  1.7   運        (中央下の9つのマス目の中央)(要素サブ要素に分割)

  1.7.1   あいさつ

  1.7.2   ゴミ拾い

  1.7.3   部屋そうじ

  1.7.4   道具を大切に使う

  1.7.5   審判さんへの態度

  1.7.6   プラス思考

  1.7.7   応援される人間になる

  1.7.8   本を読む


  1.8   変化球      (右下の9つのナス目の中央)(要素をサブ要素に分割)

  1.8.1   カウント ボールを増やす

  1.8.2   フォーク完成

  1.8.3   スライダーのキレ

  1.8.4   遅く落差のあるカーブ

  1.8.5   左打者への決め球

  1.8.6   ストレートと同じフォームで投げる

  1.8.7   ストライクからボールに投げる

  1.8.8   奥行きをイメージ


 私も目標を達成するための様々な本を見てきましたが、このように完成度が高く、明確な目標完成表は初めて見ました。

 現在メジャーリーグで活躍している大谷を見る時、目標を完成できないのは、その目標への道筋を明確にできないからだという意味がある意味、納得できます。

 大谷が高校1年でこれを書けたのは、その素質と指導した2人の指導者によると思います。その一人は、大谷のお父さんです。かってはノンプロの野球選手でしたが、野球の研究者です。もう一人は、花巻東の佐々木監督です。

 日本ハムのスカウト山田正雄によると、大谷は素直だけど実はとても頑固、謙虚だけど大変な自信家だそうです。

 日本ハムのトレナーの話では、大谷は自ら助言を求め、「うんうん」と素直に聞くけれども、そのまま実行するのは3割で、残り7割は今の自分に必要な方法にアレンジしている。

 多くの野球選手は高校や大学で厳しい指導者に遣らされ,怒られるうちに、好きだった野球が嫌いになっているケースが多いが、大谷は強制されず、好きでやってきた。

 だから素直に自分で選択し、自ら考え、工夫して自ら挑戦する。

 スポーツライター佐々木淳によると、大谷は、小学校の3年から5年まで、野球の監督だった父親と「野球ノート」をつけていた。毎日試合での課題を書かせ、父親がそれに返答する、言わば野球の「交換日記」です。

 父親は「書くこと」を重視していました。言葉を書き付けさせ、頭に入力する習慣をつける。彼の考える力の原点はそこにあるのかもしれません。

 また、花巻東高校野球部の佐々木監督も、目標達成表を書かせるくらい、書くこと、目標を書かせ、それを分解し、要素を書かせ、その分解した要素をさらに考えさせ、分解しサブ要素に落とし込んで、書かせました。

 私たちも、あらゆることに目標を定め、大谷の目標達成表に学んで、応用できると思います。 (第164回


ブックハンター「グーグル検索だけでお金持ちになる方法」

2018-05-05 11:03:07 | 独学

 164. グーグル検索だけでお金持ちになる方法  (午堂登紀雄著 2015年8月)

 本書を読む時の考慮すべき点

 (1) グーグル検索によって、善意の情報だけではなく、悪意の情報が混在しているので、整合性や裏をとって、自分の頭で考え、取捨選択をおこなうことは重要です。

 (2) 一般にお金儲け本で、億の資産を得るまえに、数千万の種銭があったり、授業料として、一千万の損失を経験している等、まったく余裕のない状態からでは、ハードルは高くなります。

 (3) 著者がすでに米国公認会計士の資格があって、グーグル検索で利益を得なくても、そこそこの収入を得る手段を持っている、失敗しても、自分の居場所が確保されていることは大切なことです。

 (4) グーグル検索で、15歳で膵臓癌の検査方法を開発した、ジャック・アンドレイカ君のように、誰でもが、グーグル検索で、医学に貢献できるわけではありません、個人の能力の限界は存在しますが、すさまじい努力をしたことも確かです。

 (5) 著者は2013年に1ドル90円の時、円をドルに両替し、アメリカの不動産を購入し、2015年には、1ドル120円になって、さらに買った不動産が値上がりし、利益を得ましたが、逆もまた真なりで、大きな損失も発生します。

 (6) 誰もがお金持ちになれるわけではありませんが、ノーベル賞も、お金持ちも、グーグル検索と努力と工夫次第で道は開けるのではないでしょうか。

 余計な話をしてしまいました。では、読んでいきましょう。


 『 「15歳の少年が、Google 検索と Wikipedia を駆使し、難病の膵臓ガンを早期発見する画期的な方法を発明した」という話をご存じでしょうか。

 2013年のことですが、かなり話題になったので覚えている人も多いと思います。それは、ざっと次のような内容でした。

  アメリカ・メリーランド州に住むジャック・アンドレイカ君は13歳のとき、親しい人を膵臓ガンで亡くした。

 悲しみに暮れたジャック少年は、それをきっかけに Google 検索と Wikipedia、そしてオープンな学術サイト Public Library Science などで膵臓ガンのことを調べはじめる。 

 そして、膵臓ガンの検査は800ドル(約10万円)もかかるのに、精度が低くて30%以上の見落としがあることを知る。彼は「もっといい方法があるはずだ」と信じ、さらに検索を続けた。

 膵臓ガンを発見するには、血液中のごく少量のタンパク質の発生量の変化を調べなければならないのだが、ジャック少年は、膵臓ガンに特有なタンパク質8000種をリスト化した資料をネット上で見つける。

 彼は「この中のどれかが膵臓ガンを見つけるバイオマーカー(目印)になる」と考え、その一つひとつを検索して調べることにした。

 そんな気の遠くなるような作業を続け、4000種ほどの検証を終えたころ、ようやく目印となるタンパク質を見つけた。

 そこから先は実際の検証実験が必要なため、彼は膵臓ガンを研究する200人の研究者を調べ、検証を依頼するメールを出した。

 そのうちの199人からは断られたが、一人だけ「私のところで手助けできるかもしれない」という返事をくれた研究者がいた。

 その研究者のおかげで、ジョンズ・ホプキンス大学に検証の場を得たジャック少年は、試行錯誤の末、16歳になる直前、ついに安価で精度の高い膵臓ガンの発見法を開発した。

 この方法を使えば、費用3セント(約4円)の一つの小さい検査紙で、わずか5分でテストができるという。従来の方法と比べると、168倍速く、2万6000分の1以下の費用、400倍の精度で検査できることになる。

 この方法は、膵臓ガンだけでなく、ほかのガンやHIVなどの検査にも転用が可能とされている。彼はインテルが設立する Gordon E. Moore Award を受賞し、7万5千ドル(約900万円)を獲得。

 ———という話です。このジャック・アンドレイカ君は後日、世界中の注目を集めるプレゼンイベント「TED(Technology Entertainment Design)カンファレンス」に登壇してプレゼンを行っています。

 (キーワード「ジャック・アンドレイカ」で検索するとその動画はすぐみつかります)。そのプレゼンの中で、彼は次のように語っていたのが印象的でした。

 Through the Internet, anything is possible. (ネットがすべてを可能にします) そして彼は最後にこう締めくくります。

 「僕の場合には、インターネットに対してまったく新しい見方をしたのがすべてでした。ネットはもっと別の使い方ができて、皆さんのふざけた顔の写真をアップロードする以上に、使い方によっては世界を変えていけるかもしれないと、気づきました」

 「もし、膵臓ガンが何かさえも知らなかった15歳の子が、新しい膵臓ガンの検査法を発見できたとしたら、皆さんなら何ができるか想像してみてください」

 このエピソードとTEDのスピーチから、私が確信したことが2つあります。1つは、「検索でなんでもできる」ということが証明されたこと。

 私は数年前までは、ネットの情報をあまり信用していませんでしたが、いまでは「ネットは使い方次第で、自分の世界を変えることもできる」という考えに変わりました。

 あらゆる情報がネット上で公開される時代になり、誰でもいつでも簡単に、人類の叡智にアクセスできるようになったからです。それらの情報が世界を駆け巡るのも一瞬で、最新の情報もリアルタイムで得ることができます。

 とはいえ、ネット情報を完全に信用するということではありません。誰かが発信する情報は、基本的にはすべてがポジショントーク。

 皆がそれぞれの立場や好き嫌い、価値観、思い込みや先入観に基づいて公開していますから、検証もせず鵜呑みにすると、賢い人に搾取されてしまう。つまり「情報弱者」となりかねないのです。

 知識も情報も、しょせんは「考えるための材料」にすぎません。ネットによってなんでもできるかどうかは、それを使う側のリテラシーに大きく依存します。

 先のジャック少年もおそらく、ネット情報を鵜呑みにしたわけではなく、複数の情報ソースにあたって比較するなど、正しい(と思われる)情報を選り分けて活用したからこそ、世紀の発見をすることができたのではないか、と私は受け止めています。

 もう一つは、「調べるだけで終わりではなく、それに基づいて行動を起こせば、かなり高い確率で実現させられる」ということ。多くの人は、「調べて満足して終わり」がちです。

 でも、それでは自分の環境も人生も、何も変わらない。知っているだけでアウトプットに反映されない知識は、そもそもなにも知らないと同じ。

 重要なのは、「それを実現するためにはどうすればいいかを考え」 「そのための行動を起こす」ことです。ジャック少年が調べたことを検証するため、実際に200人もの研究者にメールを送ったように。

 当たり前のことではありますが、「検索したあとの行動」こそが、物事を実現する力になるのです。

 本書では、「検索すれば未来は開ける」というテーマで、ジャック少年が医療の発見に活用した方法を、私たちの生活を豊かにするために使おうと提案しています。

 つまり、「ネット検索し」 「それを基に考え」 「行動する」ことで、自らをお金持ちに導こうというものです。そのコンセプトに基づき、PART1では、「人生を変えるための検索」を、PART2では、「検索を駆使して実行するマネープラン」を、紹介する構成になっています。

 お金を増やす方法として、私はこれまで「国内・海外の不動産投資」 「FX」 「商品先物取引」や、「起業」などが多かったですが、これらの方法論の根底には「相手の力を利用して稼ぐ」という考えがあります。

 それは、国や企業がつくった仕組みにうまく乗る、あるいはそのひずみを捉えて利益を得るということ。いわば「弱者の兵法」的なマネー戦略です。

 インターネット、そしてグーグルに代表される「検索エンジン」は、その仕組みやひずみを見つけ、弱者が這い上がるための”強力な武器”となり得ます。

 その武器は、世界中でベストセラーとなったトマ・ピケティ教授の経済書「21世紀の資本」の中で述べられている「経済格差は拡大し、富は財産を持つ上位1%に集中していく」という理論すら覆す力を、個人に与えてくれます。

 「検索」を駆使すれば、やり方次第で誰でも経済的にハッピーな人生を切り開くことができるのです。 』 (以上序より)


 『 以前の私は、ネットサーフィンはただ時間を奪うだけの暇つぶし行為だと思っていましたが、最近は考え方が変わりました。もちろん、なんの目的もなくゴシップネタを追いかけるだけでは、単なるタイムイーターです。

 しかし、「生き方」 「仕事」 「マネー」などに関してネットサーフィンをすることは、未知の世界を知るきっかけになります。

 調べたいことや目的がはっきりしていれば、関連情報を次々にサーフしていくことで、新たな検索キーワードが浮かんでくる。それをまた検索して、どんどん広げていく。

 すると、自分が思いもよらなかった情報やキーワードに辿り着くことがある。そしてそれが、自分の生活がよりよくさせてくれるきっかけになることがあるのです。 』


 『 3・11の原発事故直後、私の頭には「海外移住」 「永住権取得」というキーワードが思い浮かびました。

 仕事や家があるという理由で身動きが取れず、放射能に怯えつつも、やむを得ずそこで子育てをしている人のことをニュースで見たときです。

 私はそのニュースを見ながら、「住む場所を選べないのは一つのリスクだ」と、住居地分散の必要性を感じました。

 そこで、すぐにそのキーワードでネット検索し、その結果、東南アジアがよさそうだと考えました。続いて、東南アジアのフリーツアーを検索。「4ヵ国周遊で食事付き」が一人7万円で出ているのを発見し、すぐに予約しました。

 さらに、現地の不動産エージェントを検索します。

 たとえば「シンガポール+不動産」 「シンガポール+永住権取得」というキーワードを入れると、現地で不動産業あるいは移住支援ビジネスを営んでいる日本人エージェントのブログやホームページがヒットします。

 それら数社にアポイントを入れ、家族一緒に見て回りました。

 最終的に私はマレーシアで家を買ったのですが、そこに至るプロセスを「日本脱出」という本にして出版したところ、5万部を超えるベストセラーとなりました。

 印税という副収入を得ただけでなく、これをきっかけにアジア不動産投資セミナーや視察ツアーを主催し、雑誌の取材を受けるようになり、関連の仕事も広がっていったのです。

 一つのアクションから連鎖反応的にアクションを起こし、次々と収益に変える。つまり「すべての行動を収益化する」。

 私はこれを自分の行動指針とし、常に念頭に置いて検索しています。こんなことができるのもすべてインターネットのおかげです。ネットがなければ、こんな稼ぎ方はできなかたでしょう。 』


 『 本書で紹介する方法論の根拠にあるのは、「相手の力を利用して稼ぐ」という発想です。ここでいう”相手”は国家や企業。目指すのは彼らの巨大な力を利用して利益を上げる、合気道のようなマネー戦略です。

 相手の力を利用して稼ぐとは、たとえば次のようなことです。

 さかのぼること2013年初頭、私は1ドル90円台のときに円を米ドルに両替し、アメリカの不動産を購入しました。そしてこの原稿を書いている2015年7月現在、為替レートは1ドル120円前後をつけています。

 もちろんこれは現時点でのスナップショットにすぎないとはいえ、為替変動だけでも25%も資産が増えていることになります。

 増えたというのは、あくまで円に戻すことを前提にした表現ですが、円に戻さない場合でも25%のバーゲンプライスで不動産を買えたといえるでしょう。

 さらに、米国経済の復調により不動産価格が上昇しており、私の物件も10%以上値上がりし(あくまでも評価上)、家賃も毎年アップし利回りも改善しています。

 これはまぐれではありません。私が特別な予知能力を持っていたわけでもありません。チャンスは誰にも平等にあったのです。この時期、同じようにして利益を上げてヒトはたくさんいました。

 では、このマネー戦略のどこが”相手”の力を利用しているといえるのか。

 覚えているでしょうか。2012年に自民党が政権を奪取する以前から、安倍晋三自民党総裁は「金融緩和によるデフレ脱却・インフレ誘導」の必要性を声高に主張していました。

 安倍氏が選挙前からこうした政策を掲げていたというニュースは、日本国民であればほとんどの人がなんらかの形で耳にしていたでしょう。

 また、民主党が解散総選挙を決めたとき、自民党が勝利しそうだということも、かなり早い段階から報じられていました。ならば、選挙のあと何が起こるかを予測するのは、そう難しいことではありません。

 仮に安倍氏が発言した「金融緩和」の意味がわからなくても、「金融緩和ってなんだろうか?」と検索すればすぐに調べられます。そうやって知識を得ると、次はこんな疑問が湧きます。「それで、何がどう変わるのか?」と。

 疑問が湧けば、たとえば「金融緩和+影響」とか「金融緩和+効果」というキーワードの組み合わせで検索してみます。すると、「円安になる」 「資産インフレになり、株や不動産の価格が上る」という記事や解説が見つかります。

 検索結果を下にスクロールしていくと、日本の金融緩和だけではなく、アメリカの金融緩和のニュースなども出てきます。すると、「QE3の縮小」とか「金融緩和の出口を検索」などといったキーワードが出てくるので、これも調べてみる。

 これらを総合的に判断すれば、米ドルは円に対して強くなり、逆に円はドルに対して弱くなる――つまり、「円安・ドル高になりそうだ」ということがわかります。

 であれば、手持ちの円を米ドルに両替しておくことが有利なのででは? と判断することは、そう難しくありません。

 また、検索の途中で「今後は株や不動産に資産が集まる(=値が上がる)」という評論家やアナリストのコメントなどもでてきます。

 その関連ニュースを見てみると、米国ではシェールガスの影響によりエネルギー情勢が変化していること、失業率が低下して経済に復活基調が見られることがわかります。

 そのから、一度は暴落した不動産にも再びお金が集まり、価格が上がっていく可能性が高いと予測できます。

 選挙で勝った政党が日本を動かす。その政党を動かすのは首相。つまり、自民党総裁の安倍氏が「やる」と宣言した政策は現実となる可能性が高くなる。ならば、私たちはその安倍氏の力を利用すればいい。

 というわけで私は、自民党の圧勝を確認するとすぐにアメリカの不動産エージェントを検索し、アポイントを取りました。そして翌1月にはカルフォルニアに飛び、投資物件を購入するに至った――というわけです。

 そこには特別な情報源も、特別な頭のよさや知識も不要。一般的な公開情報だけでも、ある程度の対応策は検索で見つけられるということがおわかりいただけると思います。

 もちろん将来どうなるかはわかりません。再びリーマンショックのような金融恐慌や景気のリッセションという局面がやってくる可能性もあるでしょう。

 そうなれば不動産価格は下落に円高という状況になり、結果的には成功ではなかった、ということになるかもしれません。

 それでも、政府、与党の動きに対して興味関心を持ってキーワードを探し、検索してみるという行為は、ときとして大きな ”差” を生むだろうと私は考えています。 』 (第163回) 


ブックハンター「日本はトランプ大統領に命運を託せるのか?」

2018-04-27 15:25:14 | 独学

 163. 日本はトランプ大統領に命運を託せるのか?   (佐藤優著 文芸春秋2018年5月号)

 本文は、「ベストセラーで読む日本の近現代史」の第五十六回の中で、「炎と怒り」マイケル・ウォルフ著を紹介分析しています。佐藤優は、元外務省主任分析官で、現在は、作家です。


 『 この連載では、過去のベストセラーをヒントに日本の近現代史を読み解いてきた。

 本書は最近刊行されたばかりの邦訳書だが、日本の近現代史の一部である「現在進行形の歴史」を見極める上で極めて重要だという意味で、敢えて取り上げたいと思う。

 原題は、Fire and Fury  :  Inside the Trump White House で、邦訳には「トランプ政権の内幕」という副題が付いている。原書は、今年一月五日に刊行された。

 当初の出版予定日は一月九日だったが、米国のドナルド・トランプ大統領が「出版を差し止める」と言い出したために発売日を早めた。

 トランプ氏の発言が宣伝となり、初刷りは十五万部だったが百万部を追加増刷した。二月に日本語訳が上梓されたが、帯には「全米170万部突破」と記されている。

 トランプ大統領の特徴は、訳がわからないことだ。北朝鮮に対しては武力行使を含むあらゆる可能性を排除しないと述べていながら、急遽、米朝首脳会談に合意した。

 また、TPP(環大平洋経済連携協定)に関しても、離脱を宣言したが、最近になって参加可能性を表明した。自由貿易に舵を切ったのかと思うと、鉄鋼に関する関税導入のような保護主義を主張する。

 また、人事異動についても、きわめて恣意的だ。三月二二日夕、自身のツイッターで、トランプ政権の外交・安全保障を取り仕切るマクマスター大統領補佐官を四月九日付けで解任し、後任にジョン・ボルトン元国連大使をあてることを明らかにした。

 新たに就任するボルトン氏は、ブッシュ政権時に国務次官や国連大使を歴任、新保守主義(ネオコン)の中心人物だった。北朝鮮にたいしても武力行使を辞さない強硬派として知られている。

 トランプ氏は3月13日に外交トップのティラーソン国務長官を解任し、自身に近いポンペオ中央情報局(CIA)長官を起用すると発表したばかり。米朝首脳会談に合意しつつも北朝鮮との戦争も辞さないという人物に国家安全保障を担当させる。

 トランプ氏はどのような外交戦略を考えているのだろうか。本書を読むと、トランプ氏は何も考えていないし、そもそも外交安全保障政策を理解する能力に欠如しているという現実が浮き彫りになる。 』


 『 最大の問題点は、トランプ氏もその側近も大統領選挙に出馬した目的が、当選ではなく、売名にあったことだ。 《 トランプは勝つはずではなかった。というより、敗北こそが勝利だった。

 負けても、トランプは世界一有名な男になるだろう―――”いんちきヒラリー”に迫害された殉教者として。

 娘のイヴァンカと娘婿のジャレッドは、富豪の無名の子どもという立場から、世界で活躍するセレブリティ、トランプ・ブランドの顔へと華麗なる変身を遂げるだろう。

 スティーブ・バノンは、ティーパーティー運動の事実上のリーダーになるだろう。 敗北は彼ら全員の利益になるはずだった。 だが、その晩八時過ぎ、予想もしていなかった結果が確定的になった。

 本当にトランプは勝つかもしれない。トランプ・ジュニアが友人に語ったところでは、DJT(ジュニアは父親をそう呼んでいた)は幽霊を見たような顔をしていたという。

 トランプから敗北を固く約束されていたメラニアは涙していた―――もちろん、うれし涙などではなかった 》

 若い頃、ヌードモデルをしていた事実を大衆紙に暴露されて当惑したメラニア夫人を、トランプ氏は、絶対に当選することはないので安心しろとなだめたという。

 メラニア夫人は、トランプ氏の当選でスキャンダル報道にまみれることを恐れたのだった。しかし、その恐れは杞憂で済んだ。メラニア夫人よりもはるかにスケールの大きいスキャンダルをトランプ氏自身が次々と引き起こしたからだ。

 当然、側近たちもトランプ氏を馬鹿にしている。本書によれば、スティーブ・ムニューシン財務長官とラインス・プリーバは「間抜け」と言い、ゲイリー・コーンは「はっきりいって馬鹿」、H・R・マクスターは「うすのろ」と言った。

 それにもかかわらず、トランプ氏のさまざまな愚行を側近は諫めない。

 この点については、前大統領首席戦略官兼上級顧問のスティーヴ・バノン氏(一七年八月に辞任した後も良好な関係を維持していたが「炎と怒り」のインタビューに応じたことがトランプ氏の逆鱗に触れ、絶交状態になった)の分析が本質を突いている。

 《 ただひたすら「呆れてものがいえない」と繰り返すメディアは、どうして、事実は違うということを明らかにするだけではトランプを葬り去れないのかを理解できずにいた。バノンの見解はこうだった。

 (一) トランプはけっして変わらない、(二) トランプを無理に変えようとすれば、彼のスタイルが制約されることになる、(三) いずれにしてもトランプの支持者は気にしない、

 (四) いずれにしても、メディアがトランプに好意をよせることはない、(五) メディアに迎合するより、メディアと敵対したほうがいい、

 (六) 情報の正確性や信憑性の擁護者であるというメディアの主張自体がいんちきである、 (七) トランプ革命とは、型にはまった思い込みや専門的意見への反撃である。

 それなら、トランプの態度を矯正したり抑えつけたりするよりも、そのまま受け入れたほうがよい。

 問題は、言うことはころころ変わるのに(「そういう頭の構造の人なんですよ」と内輪の人間は弁明している)、トランプ本人はメディアから受け入れられることを切望していたという点だ。

 しかし、トランプが事実を正しく述べることはけっしてないだろうし、そのくせ自分の間違いをけっして認めないので、メディアから認められるはずはなかった。

 次善の策として、トランプはメディアからの非難に対して強硬に反論するしかなかった 》

 一言で言えば、トランプ氏は幼児的な全能感を克服できていない人物だ。だから、正面から諫めても逆効果で、阿(おもね)りながら歪曲された情報を入れることによって操作した方がいいと側近たちは考えているのだ。 』


 『 あちこちで話題になっている評判の書であるが、トランプ政権と米国のインテリジェンス・コミュニティーの関係に関する考察が秀逸だ。

 《 当時、よくクシュナーのもとを訪れるようになっていた賢者の一人がヘンリー・キッシンジャーだった。かって、リチャード・ニクソンに対して官僚と情報機関が反乱をおこしたとき、キッシンジャーはその一部始終を最前列で見ていた。

 彼はクシュナーに、新政権が直面する恐れのある、さまざまな災いを講釈してみせた。”闇の国家”(ディープ・ステイト)とは、情報網による政府の陰謀を指す左翼と右翼の概念で、いまではトランプ陣営の専門用語になった。

 トランプは”闇の国家”という凶暴なクマをつついてしまったというわけだ。”闇の国家”のメンバーには、次のような名前が挙げられていた。

 CIA長官ジョン・ブレナン、国家情報長官ジェームズ・クラッパー、退任間近の国家安全担当保障問題担当大統領補佐官スーザン・ライス、さらにライスの側近にしてオバマのお気に入りだったペン・ローズ。

 そして、次のようなシナリオが描かれた―――。

 情報界の手先は、トランプの無分別な行動やいかがわしい取引に関する由々しき証拠に通じており、トランプの名前を傷つけ、辱(はずかし)め、破滅させるために戦略的に情報をリークし、トランプのホワイトハウスを機能不全に陥れせるつもりだ。

 トランプは選挙期間中を通じてずっと、当選後はいっそう強硬に、アメリカの情報機関は役立たずの嘘つきだと批判していたからだ。

 つまり、CIA、FBI、NSC(国家安全保障会議)をはじめとする一七の情報機関をまとめて敵に回していたのである(もっとも、トランプは「何も考えずに言っていた」と側近の一人には言っている)。

 保守本流の見解とは相反するトランプの数多くの発言のなかでも、これはとりわけ大きな問題をはらんでいた。アメリカの情報機関に対する批判は、トランプ自身とロシアの関係にまつわるいわれのない情報を流したことまで、多岐にわたっていた。 》

 共和党、民主党にかかわらず、米国大統領は、CIA(米中央情報局)やNSA(国家安全保障局)などインテリジェンス・コミュニティーとの関係には細心の配慮を払ってきた。

 インテリジェンス情報が、国益にとって不可欠であるとともに敵に回したら大統領を失脚させる情報戦を展開する力をインテリジェンス・コミュニティーは持っているという認識があるからだ。

 これに対してトランプ大統領は、情報機関をいわば「使用人」と見ている。こういうメンタリティーは、ロシアのエリツィン元大統領や田中真紀子元外相に通じるものだ。

 トランプ政権下の米国は、ポピュリズムとインテリジェンス機関の暗闘が繰り広げられている場でもあるのだ。 』 (第162回)


ブックハンター「ウナギのふしぎ」

2018-04-08 14:41:44 | 独学

  162. ウナギのふしぎ   (リチャード・シュヴァイド著 梶山あゆみ訳 2005年6月)

 CONSIDER  THE  EEL  by Richard  Schweid  Ⓒ2002

 本書は、ヨーロッパウナギ(大西洋ウナギ)についての話です。ウナギは、ヨーロッパ(大西洋)ウナギと日本(太平洋)ウナギに大きくわかれます。

 アメリカ、ヨーロッパのウナギは、大西洋のサルガッソー海域(バミューダ諸島の西)で生れる、とされている。一方、日本(太平洋)ウナギは、マリアナ諸島西方海域の水深150~180メートルで、産卵していると推定されている。

  今回が紹介します一つ目の目的は、アメリカ、ヨーロッパのウナギについて歴史、文化についてです。二つ目は、欧米のウナギ文化と日本のウナギ文化を翻訳において、どのように対応するか。

 さらに、翻訳において、未解明なウナギの生態について世界中で、研究しているため、翻訳している間にも、時間経過のために、新しい知見で情報がぬりかえられていることです。

  ウナギは、深海と海、河口、川、沼などを経験して、一生を終え、人工的には、完全養殖が為されてない、大切な、不思議な魚類です。地球の海の深さの平均値は、約三千メートルであることは、あまり知られてないかもしれません。

 ここでは、”目次”、”はじめに”、”訳者あとがきの”の三つを紹介致します。


 『 目次  はじめに   第1章 ウナギは謎だらけの生き物  第2章 減りゆくウナギと空飛ぶウナギ  第3章 ヨーロッパの鰻食文化とウナギ研究の歴史  

 第4章 イギリスの鰻食文化とウナギ研究の歴史  第5章 アメリカの鰻食文化とウナギをとりまく自然  第6章 ウナギ漁と養殖の歴史  謝辞 訳者あとがき 』


 では、”はじめに”を読んでいきます。

 『 一九九八年六月のある朝、私ははじめて聞いた。ウナギというものが、じつに不思議な一生を送っていることを。ヨーロッパとアメリカの川や湖に住むウナギは、すべてサルガッソー海で生れる。

 サルガッソー海は、約五二〇万平方キロメートルにもわたる広大な海域で、大西洋のまんなかあたりに広がっている。海面は見渡すかぎりの海藻に覆われ、人はほとんど寄りつかないところだ。

 ウナギの幼生はここで生れ、海流に運ばれて、未来の住みかとなるアメリカやカナダの川へ、あるいはヨーロッパの川へと流れつく。幼生はとても小さく、柳の葉のような形をしている。

 川にたどり着くまで北米ならおよそ一年、ヨーロッパなら場所によっては三年がかりの旅だ。川に入ると自分から進んで餌を探すようになり、しだいに私たちの知っているウナギへと姿形を変えていく。

 ウナギは川や湖の水底で暮らし、なかには二〇年も住みつくものがいる。やがて時が来ると、川を下って海にでる。そして、生まれた場所に帰るため、数千キロもの旅に備えてふたたび変身する。

 消化管は萎縮する。深い海を泳いでゆくあいだはもう何も食べず、それまでに蓄えたエネルギーだけを使っていくからだ。目は大きくなり、海の薄暗く青いひかりのなかでもよく見えるようになる。

 くすんだ緑色を帯びた腹は、銀白色に変わる。長い道中、敵をかわしながらひたすら前へと進み、ついにサルガッソー海に戻ると、子供をつくって一生を終える。

 こういったことをすべて、スペインのとある小さな町で知った。教えてくれたウナギ漁師は話をしながら、獲ったばかりの一匹をさばき、オリーブオイルで焼いてから皿に乗せて出してくれた。

 焼きたてのパンと一緒に食べてみる。うまい。たちまちウナギのとりこになった。もちろん、これは始まりにすぎない。知れば知るほど、ウナギが素晴らしい特徴を備えているのがわかってきた――生き物としても食材としても。

 そのふたつの面で、ウナギは何千年ものあいだ人々の心を捕えてきたのである。ウナギはこってりとした脂っこい魚で、脂質とタンパク質を豊富に含み、古代ギリシャ人の食卓を飾った。

 一七世紀には、アメリカ北東部に渡った入植者たちの腹を満たして最初の一年を乗り切らせた。人類にとって重要な栄養源のひとつであり、今も世界中でさかんに食べられ、いろいろな料理のしかたがある。

 アメリカでは人気がなくなったものの、世界全体では年間数億ドルもの金額がウナギに消えている。ウナギといっても、南米のアマゾン川などにいる悪名高いデンキウナギのことではない。

 海に暮らす凶暴なウツボも関係ない。どちらも、北米やヨーロッパの淡水に住むウナギとは種類が違う。ウナギの一生は多くの謎に包まれているのに、一見すると平凡そのものだ。

 水の底で泥にもぐっているウナギほど、おもしろみに欠けるものがあるだろうか。なんともつまらない生活を送っているとしか思えないのだ。

 食べて、泳いで、休むだけ。ところが、そのささやかな水底の泥に落ちつくために、数千キロの彼方からはるばる大西洋を越えてきて、いつかまた来た道を戻って死んでいく。

 ウナギは飼育された状態ではけっして子供をつくらない。自然のなかに生きているものも、アメリカやヨーロッパのウナギであればサルガッソー海でしか卵を産まない。』


 『 あれこれ情報を集めるうち、何度か本物のウナギをじっくり眺める機会があった。見るたびに、その動きの美しさ、しなやかさにため息をついた。滑るように泳ぐ姿は、いつまで眺めていても飽きることがない。

 だんだんとウィリアム・ルーツの気持ちがわかるようになった。イギリスの医者であり博物学者でもあったルーツは一八三二年にこう書いている。

 「若いウナギを観察していると、波打つように身をくねらせて泳ぐ姿がじつに美しい。素晴らしいのは動きだけではない。彼らの生涯はすべてに大いなる価値があり、ねばり強く観察するだけの値打ちがある。」

 調べてみると、ウナギ業界には世界にいくつかの中心地があって、それぞれが密接にかかわりあいながら動いている。まさにグローバルな消費経済の縮図だ。

 ただし、ニューヨーク、パリ、東京といった大都市は出てこない。世界のウナギ市場をつないでいるのは小さな村や町である。アメリカならノースカロライナ州のアラパホー、スペインではアギナガ、北アイルランドではトゥームブリッジ。

 こうした土地では、ウナギは人目につかない生き物でもなければただの手軽な食べ物でもない。地域の経済を支え、住民の生活とじかに結びついている。

 野生動物の肉はとうの昔に量が減って、大勢の人間を養えるレベルをはるかに下回ってしまった。だが、魚は広大な海におびただしい数が暮らしているので、尽きる心配はないかに思えていた。

 その数が著しく減ってきたのは、二十世紀の後半からにすぎない。いろいろな国旗を掲げた「海に浮かぶ掃除機」が手当たりしだいに吸いあげて売りはじめると、魚は短期間で激減、場合によっては姿を消してしまった。

 水産資源は減るいっぽうである。この分では、いずれ食卓にのぼる魚がすべて養殖ものになるだろう。

 養殖の魚は、たとえ遺伝子が天然ものとまったく同じでも、あるいは遺伝子が組み換えられていようとも、自然の中で餌を獲って生きていた魚とはどうしたって同じ味とはいかない。

 それでも、養殖の魚が売り買いされる量はどの地域でも増えている。こうした流れが急速に進めば、世界で消費される魚の大部分が養殖ものという時代がほんの数十年でやってくる。

 天然の魚はめったにお目にかかれない高価な食材になって、「放し飼い」や「有機」と同じように高級志向の消費者向けになるかもしれない。もうすぐ先進国では、漁だけで暮らしていくのが難しくなるだろう。すでに小規模農家の生活が立ちゆかなくなっているのと同じだ。

 今でも魚を捕って生計を立てている人たちの多くは、こんな状態になったのは政府が悪いという。口出しばかりして、自分たちの知恵や技術を信じてくれないからだと。

 たしかに、漁期を厳しく制限する,捕る量に上限を設ける、免許制にするといった仕組みのせいで、漁師の仕事は台無しにされてきた。

 もっとも、利益のために乱獲をしたり環境を破壊したりすることのほうが、政府の資源保護対策よりはるかに大きな影響を与えていそうではある。

 いずれにしても、人間が漁で日々の糧を得られないような世界は、なんとも味気ないではないか。ウナギの稚魚をつかまえて、売り物になる大きさにまで育てることはできる。

 だが、ウナギは飼育された状態では卵を産まないので、次の世代を増やすことはできない。ウナギに子孫をつくらせるのは、今でも自然の仕事である。

 サケからとうもろこしまで、私たちが好んで食べているたいていのものは、その染色体が数えられ、徹底的に調べられ、遺伝子がいじられている時代である。それなのに、ウナギの生態や習性にかんしてはいまだにわからないことが多い。

 よい題材にめぐりあったときはいつもそうだが、ウナギについても、調べれば調べるほど新たな発見があった。しまいには、すべてを語りつくすなどどれだけ時間があってもできそうにない気がしてきた。

 人生とはそんなものである。いろいろなことが手のひらからこぼれ落ちていく。本書で伝えきれなかったことのために、魚類学者のジョージ・ブラウン・グッドの言葉を引いてお詫びに代えたい。

 グッドは、一八八四年にアメリカ東海岸の漁業を解説した全八巻の著書を出版した。まさに不朽の名作であり、同じような本は今に至るまで書かれてない。序文でグッドはこんなことをいっている。

 グッドですらこう感じたのなら、私がどれだけ切実にそう思うことか――「漁業がきわめて重要な産業であり、しかも絶え間なく変化している。

 数日や数週間どこかの土地を訪ねた程度では、どれほど優秀な専門家であろうとけっして満足のゆくように描きつくすことはできない。

 したがって、われわれは本書の目的にかなういちばん重要な事柄のみを選ぶしかなかった。取りあげなかったものの興味深い話題がたたあったことを、理解していただければ幸いである」 心をこめて、右に同じ。 』


 以上がはじめに”です。最後に”訳者あとがき”を読んでいきます。


 『 「ウナギのふしぎ」というタイトルに、首を傾げた読者がいるか知れない。何の不思議があるのだろう。ウナギはぬるぬるしていて蒲焼になるおいしい魚である。子供でも知っている、と。

 だが、私たちが知っているのは、ウナギの姿形と蒲焼の味だけではないだろうか。私たちのほとんどは、ウナギがどんな一生を送っているのかも、世界各地で広くウナギが食べられてきたことも、知らないのではないか。

 蒲焼が大好きな日本人も、ウナギなんてまっぴらごめんのアメリカ人も、じつはウナギをよく知らないことにかけては五十歩百歩といっていい。

 しかも、よく知るはずの研究者でさえ、いまだにそのすべてを解明しきれてないという。まさに、「これほど長いあいだ研究され、これほどたくさん食べられてきたのに、ここまで謎が多い生き物はほかに例を見ない」のである。

 そんなウナギの知られざる生態と、欧米を中心としたウナギ文化をわかりやすく紹介したのが、本書である。そもそも、ウナギを食べない国であるアメリカの作家がこの本を書いたというのがおもしろい。

 著者のリチャード・シュヴァイドはジャーナリストで、前作ではゴキブリの驚異の生態をとりあげた。

 ウナギ好きの日本人としては、ゴキブリとウナギが同列かと思うとあまり嬉しくないが、アメリカ人にすればどちらも嫌われものに変わりはない。

 その嫌われものが、本当はすごいやつであることを読者に伝えたいというのが、前作と本書に共通する著者のテーマのようだ。実際、ウナギのすごさには舌を巻く。

 ウナギは川で生れて川で育つと思っていた読者は多いだろう。それが数千キロの海の彼方で生まれ、何か月も何年もかけて泳いできて、いつかまた生まれた故郷に帰るというのだから、そのスケールの大きさに圧倒される。

 そのうえ、目玉が大きくなるとか、きりもみ回転するとか、水から出ても平気とか、次から次へと不思議をつきつけられる。

 本書の終わりで「ウナギは別の星からきたエイリアンに思えてくる」という研究者の言葉を読んだとき、大きく肯いたのは私だけではないはずだ。

 本書のもうひとつの魅力が世界の鰻食文化である。現代だけでなく、古代のヨーロッパや中世・近世のイギリス、植民地時代のアメリカなど、過去の鰻食文化についての記述や引用も豊富で、どれも非常に興味深い。

 登場するウナギ料理も多彩だ。どうにも味の想像ができないものもあれば、おおいに食欲を刺激されるものもある。かってアメリカの食卓を飾ったという <ウナギの一夜干しの炭火焼きバター乗せ> などは、なかなかおいしそうではないか。

 とはいえ、ウナギはやっぱり蒲焼がいちばん、と信じて疑わない方も多いだろう。そう、世界のウナギもおもしろいが、ウナギといえばなんといっても日本だ。

 ということで、欧米の事例が中心の本書ではとりあげられなかった日本の情報や、最近の研究成果について、以下で少々補ってみたい。 』


 『 まずはおなじみの蒲焼の話から。蒲焼が現在のようなスタイルになったのは一八世紀の後半からである。もちろん、日本人はそれよりはるか昔からウナギを食べてきた。

 縄文時代の遺跡からウナギの骨が出土しているし、八世紀の「万葉集」にはウナギを詠んだ大伴家持の歌が二首載っている。ただし、「かばやき」という言葉と調理法が文献に登場するのは室町時代になってからである。

 ウナギを開かずに筒切りにして、縦に一本串を刺して焼き、酢味噌などをつけて食べていた。串に刺した姿が蒲(がま)の穂に似ていることが、「蒲焼」の語源だという説もある。

 江戸中期に濃口醤油がつくられるようになって、醤油ベースのタレをつける現在の調理法が生まれ、一般に広まった。蒲焼を土用の丑の日に食べる習慣は、一八世紀の平賀源内から始まったとの説が有力だ。

 鰻屋に頼まれた源内が「本日土用の丑の日」と看板を書いたところ、有名な先生の揮毫(きごう)なのだから丑の日にウナギを食べると体にいいのだろうと、大評判をよんだという。

 なんだそれだけの理由か、と馬鹿にしてはいけない。ウナギには、不足すると疲れやすくなるビタミンB1が豊富なので、夏バテ防止として食べるのは理にかなっている。

 ただ、夏がウナギの旬かといえばさにあらず。養殖ものはさておき天然物は、秋から冬にかけて産卵のために川を下るウナギがいちばん脂が乗っておいしいらしい。

 いずれにせよ、ウナギが日本の食文化に欠かせない魚なのは間違いない。だが、本書でも指摘されてるように、ウナギは世界中で数を減らしている。

 日本でも天然ウナギの漁獲量は大幅に落ち込んで、二〇〇三年にはわずか六〇〇トンになった。日本で年に十数万トンも食べられているウナギのほとんどは養殖ものである。

 その養殖ウナギも、シラスウナギの減少に伴って国内の生産量は減り、蒲焼を輸入に頼る割合が高まってきた。このままでは食卓から国産ウナギは消えるのではないか、ニホンウナギは絶滅するのではないかと、危惧する声もあがっている。

 こうした危機の高まりを受けて、一九九八年にはアジアのウナギ研究者が集まって連絡会を立ち上げ、さまざまな議論や提言をおこなっている。

 また、環境の保全、稚魚の放流など、ウナギ保護のための取組みが国レベルや地方レベルで進められている。

 本書でもみたとおり、世界のウナギビジネスは連動しているのだから、日本でウナギが増えれば、めぐりめぐって世界のウナギ資源にも好ましい影響を及ぼすだろう。いろいろな施策が功を奏するのを願うばかりだ。

 天然うなぎを増やすのと並んで研究の焦点となっているのが、卵からの完全養殖を実現することである。本書にもあるように、ウナギは養殖の状態では卵を産まないため、天然のシラスウナギを捕ってきてそれを大きく育てるしかない。

 シラスウナギの捕獲量に左右されずに、養殖ウナギを安定して供給するには、人工授精させた卵から成魚を育てられればいいが、そこまでは至っていないのが現状である。いや、現状だった。

 じつは、本書刊行後の二〇〇三年七月、三重県の水産総合センター養殖研究所が、人工孵化させたレプトケファルスを世界ではじめてシラスウナギに変態させるのに成功したと発表した。

 しかも、変態したシラスウナギのうちで最も大きなものは、発表当時で二〇センチあまりに成長していた。

 同研究所で人工孵化の研究を担当した田中秀樹さんにうかがったところ、この二〇センチのウナギは残念ながら三ヵ月後に水槽から飛びだして死んでしまったとのこと。

 だが、その後も次々と人工孵化ウナギは育っていて、二〇〇五年の五月現在、一番大きなものはなんと五五センチに達し、四〇センチ以上に育ったウナギも八尾いるそうだ。文句なく立派な成魚である。

 研究所ではこれらのウナギを親候補として育て、人工孵化二代目の誕生を目指しているという。実用化にはまだまだ時間がかかるだろうが、これで卵からの完全養殖が夢ではなくなった。

 なお、最近の研究からは、本書の説明とは異なる知見も得られているので、二点だけ捕捉したい。

 ひとつは、「天然のレプトケファルスが餌を食べて消化しているのか、それとも皮膚からじかに栄養を取りいれているのかはっきりしない」という記述についてだ。じつは近年、前者が正しいことが確認されている。

 人工孵化させたレプトセファルスが進んで餌を獲る行動が観察されているうえ、ウナギなどの養殖技術を開発している愛知県のいらご研究所のウェブサイトによれば、天然のレプトケファルスの消化管から動物プランクトンの一部が見つかっているのだ。

 もうひとつは、「雄は淡水の海水の混じりあう水域に固まっていることが多い」「一度も淡水に入っていかない雄もいる」「川のはるか上流に暮らすウナギはほぼすべてが雄」という一連の記述についてである。

 たしかに最近、ウナギには三つの種類があるのがわかってきた。海で生まれて川をさかのぼる「川ウナギ」、河口域に留まって川をのぼらない「河口ウナギ」、一生を海で過ごす「海ウナギ」である。

 著者の記述では、河口ウナギが圧倒的に雄であるかのように思えるが、一概にそうとはいえない。東京大学海洋研究所のウェブサイトのデータでは、河口ウナギは雄雌がほぼ同比率、海ウナギは雌のほうが多く、川ウナギは雄のほうが多い。

 はるか上流にいるのは雌ばかりという点についても、海外の研究ではそのような報告が見られるが、日本ではかならずしも当てはまらないようだ。

 東大海洋研空所は、ニホンウナギの産卵場をつきとめる研究で中心的な役割を果たしてきた。

 同研究所の塚本勝巳教授のグループは、産卵場とみられる海域を何度も調査した結果、「産卵場はマリアナ諸島西方海域の海山、時刻は新月の夜」という仮説をとなえている。

 海山とは文字どおり海のなかにそびえる山のことで、塚本教授たちが注目している海山は富士山級の高さをもつ。「新月」のほうは、本書にも出てきた「耳石」を調べてたどり着いた結論だ。

 産卵海域で多数のレプトケファルスを捕え、耳石に刻まれた日周輪を数えて逆算したところ、誕生日が新月の日にほぼ一致したのである。

 餌も食べずに数千キロの距離を泳いできた雄と雌が、海山で出会い、暗い新月の夜に卵を産む。なんとも想像力を掻き立てられる光景ではないか。この仮説を検証するため、今も調査が続けられている。

 さて、今年も暑い夏がやって来る。このところ日本のウナギ消費量は、二〇〇〇年の約一六万トンをピークに減少傾向にあり、二〇〇三年には約一二万トンとなった。

 二〇〇五年も新年早々、シラスウナギの不漁で国産ウナギは高値が危ぶまれるとの記事が新聞載った。それでも、世界一ウナギを愛する日本人はたくさんの蒲焼を食べるだろう。そこで読者にお願い。

 鰻屋に行ったら、焼けるのを待ちながら「ウナギっていうのはねぇ」とお連れの方に蘊蓄を傾け、蒲焼が出てきたら、このウナギは二〇〇〇キロの彼方の海山のそばで新月の夜に生まれたのかと思いを馳せてほしい。

 スーパーで買った中国産の蒲焼なら、そのウナギはサルガッソー海で生まれてヨーロッパの川にたどり着き、そこから空路中国に運ばれ成長して、蒲焼となって日本に来たのだ。

 秋に食べる天然ウナギならきっと最後の長旅に出発するところを捕えられたものだろう。そうして、ウナギの壮大な旅を思い、不思議な一生を思い、万感をこめて……パクリ、とおいしく頬張っていただきたい。 』 (第161回)


ブックハンター「笑う子規」

2018-03-28 08:58:04 | 独学

 161. 笑う子規  (正岡子規箸 天野祐吉編 南伸坊絵 2011年9月)

 ”はじめに”より

 『 俳句はおかしみの文芸です。だいたい、俳句の「俳」は、「おどけ」とか「たわむれ」という意味ですね。あちらの言葉でいう「ユーモア」に近いものだと思います。

 柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺 

 子規さんのこの句を成り立たせているのも、おかしみの感情です。「柿をたべる」ことと「鐘が鳴る」ことの間には、なんの必然的な関係もないし、気分の上の関連ない。

 つまり、二つのことの間には、はっきりした裂け目が、ズレがあります。

 もともとおかしみというのは、裂け目やズレの間からシューッと噴き出てくるものだとぼくは思っているのですが、この場合にも、そんなズレからくるおかしみが、ぼくらの気持ちをなごませてくれていると思うのです。

 これは ”うふふの宗匠”坪内稔典さんに教えてもらったことですが、漱石さんの句に「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」というのがあって、これは子規さんの法隆寺より数ヵ月前につくられた句だそうですが、この二つに関する限りは子規さんのほうがいいですね、とおっしゃていました。

 ズレとか、意外性から生まれる面白さの違いですね。

 ところで、漱石さんの俳句にもユーモラスなものがいっぱいあってぼくは大好きなのですが、それにくらべると子規さんにはまじめな句が多いと思っている人がけっこういるんじゃないでしょうか。

 重い病と戦いながら三四歳という若さで亡くなった彼のイメージが、そう思わせているのかもしれません。でも、それは誤解です。

 凄まじい痛みにさいなまれながらも、彼の想像力が生んだ世界には、生き生きとした生気があった。そこから生まれる明るさがあった、とぼくは思っています。

 そう、ぼくの中にいる子規さんは、「明るい子規さん」「笑う子規さん」なんですね。

 そんな子規さんの二万四千ほどある俳句の中でも、とくにおかしみの強い句、笑える句を選んで、南伸坊さんと一緒に自由に遊ばせてもらったのが、この本です。

 俳句にとくにつよいわけでもない二人が、楽しみながらつくった本ですから、まじめな子規研究にはいっさい役に立たないことはお約束しておきます。

 というわけで、それぞれの句につけた短文も、いわゆる句解ではまったくありません。それぞれの句から思い浮かんだあれこれを、勝手に書き付けたものです。

 子規さんが怒るんじゃないかという心配もありますが、あのノボさんのことです、わははと笑って、一緒に遊んでくれるだろうと思っています。 』


 では、新年の句から見ていきます。

 『 ◎ 初夢の 思いしことを 見ざりける

 人間というのは都合の好い生きもので、日頃の所業を棚に上げ、初夢はめでたいやつをぜひひとつ、なんて都合のいいことを神頼みする。が、そうは問屋がおろさない、反対にひどい夢を見たりするもんだ。するとこんどは「夢は逆夢」なんて勝手に解釈する始末で。

 ◎ めでたさも 一茶位(くらい)や 雑煮餅

 一茶はうまいね。「めでたさも 中くらいなり おらが春」なんて。ことしの正月は、そのもじりでお茶を濁すか。


 ◎ 蒲団(ふとん)から 首出せば年の 明けて居る

 ひょいと蒲団から顔を出したら年が明けていたなんて、落語の八っつあんみたいに粋だろ? ほんとは蒲団から出られない病人なんだけど、ここは正月らしく、粋に気取らせてくれよ。

 ◎ 雑煮くうて よき初夢を 忘れけり

 いい初夢を見たのに、雑煮と一緒に夢も胃袋に流しこんでしまった。ま、釣り落とした魚は大きいっていうが、たいした夢じゃなかったんだろうよ、きっと。


 ◎ 弘法は 何と書きしぞ 筆始(ふではじめ)

 書き初めか。弘法はなんて書いたんだろうな。「初日の出?」ばかな。「初日の出?」なんだ、そりゃ? 「弘法も筆の誤り?」正月早々、馬鹿言ってんじゃないよ。

 ◎ 銭湯に 善き衣(きぬ)着たり 松の内

 松の内は、銭湯へ行くにもしゃれた着物を着たりして。歩き方まで、ちょっと松の内しているね。


 ◎ 正月の 人あつまりし 落語かな

 やっぱり正月は笑いだな。漱石や真之も落語が好きで、連れ立ってよく寄席へ行ったもんだ。わしらのユーモアの師匠だよ、落語は。

 ◎ 初芝居 見て来て晴着 いまだ脱がず

 役者にとって初芝居なら、こっちにとっても初芝居。「よっ! 成田屋!」なんて、家に帰っても晴着のままで見得をきったりして。 』


 次に、春の句から

 『 ◎ 春風や 象引いて行く 町の中

 象がのっしのっしと町をのし歩く。そんな風景には、春風がよく似合う。徳川時代から日本人の人気者だった。

 ◎ ひとに貸して 我に傘なし 春の雨

 いいんだよ。女の人に傘貸して、自分は春雨に濡れて行く。春の雨は濡れて濡れて行くのが粋なんだ。粋って、つらいのさ。


 ◎ 蝶々や 順礼の子の おくれがち

 菜の花畑の向こうを大きな菅笠が一つ、ゆっくり進む。と思ったら、もう一つ、小さな菅笠が遅れがちについて行く。小さな菅笠は、きっと蝶と遊びながら歩いているんだろう。

 ◎ 人を見ん 桜は酒の 肴(さかな)なり

 花見は花を見に行くんじゃない、人を見に行くんだ。「花盛り くどかば落ちん 人ばかり」ほら、また一句できたぞな。


 ◎ 門しめに 出て聞いて居る 蛙かな

 夕暮れに蛙の声に耳を傾けている門番の男。ケロケロケ ケケロケロケロ ケケケロケ 松山城の堀の蛙は五七五で鳴くという噂があるが、ほんとかね。

 ◎ 大仏の うつらうつらと 春日哉

 大仏の目がトロンとしている。と思っていたら、大仏がうつらうつらと……、ほら、眠った。(誰が?)


 次は、夏の句から

 『 ◎ 夕立や 並んでさわぐ 馬の尻

 馬は繊細な神経の生き物で、夕立にも心さわぐ。何頭も並んで繋がれた馬が夕立に遭うと、まるで尻ふりダンスをしているようだ。それにしても、なぜバケツは馬穴なんだろう。

 ◎ 夕立や 蛙の面に 三粒程

 一粒じゃ寂しい。五粒じゃ五月蠅い。三粒がよろしいようで。


 ◎ 五女ありて 後の男や 初幟(のぼり)

 五人女の子が続くと、たいていの者はあきらめる。が、わしの尊敬する人物はあきらめずに精を出した。その執念が実って、めでたく男の子が授かったんだ。陸羯南という大先達さ。

 ◎ 雷を さそう昼寝の 鼾(いびき)哉

 これもわしの知り合いだが、この男と旅をしたときには、夜中に宿の者が勘違いして、部屋の雨戸を閉めにきたよ。


 ◎ 行水や 美人住みける 裏長屋

 落語の「妾馬」じゃないが、昔から美人は裏長屋に住んでるもんだ。ま、そうでない場合もあるけどな。

 ◎ えらい人に なったそうなと 夕涼

 「秋山さんとこの兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」


 ◎ 念仏や 蚊にさされたる 足の裏

 つらいのだ、これは。足がしびれているから、うかつに動けない。立ったりしてみろ。ばったり倒れて、即往生だ。

 ◎ 蠅(はえ)憎し 打つ気になれば よりつかず

 不思議なもので、蠅叩きを手に持ったとたんに、あんなにうるさかった蠅が近づかなくなる。気配でわかるのだ、きっと。』


 ここからは、秋の句です。

 『 ◎ 話しながら 枝豆をくう あせり哉

 あれはね、食べ出したらとまらない、あとひき豆だね。話が佳境に入れば入るほど、食べる速度が上がっていく。相手も速いからねえ、あせるねえ。なんだろうね、あのあせりは。

 ◎ 一日は 何をしたやら 秋の暮

 秋の日はつるべ落とし。それにしてもきょう一日、いったい何をしていたんだろう。いいねえ、こんな一日も。


 ◎ 山門を ぎいと鎖(とざ)すや 秋の暮

 音だよ。静けさを表すのは風景じゃない、音だ。蛙が池に飛び込む音。山門を閉める音。「ぎい」が主役だね。それ以外は何も聞こえない静けさ。

 ◎ 何笑う 声ぞ夜長の 台所

 夜の台所から聞えてくる笑い声。女たちのくったくのない笑いが、小さなしあわせの空気を運んでくる。


 ◎ 渋柿は 馬鹿の薬に なるまいか

 渋柿の渋さは尋常ではない。馬鹿につける薬はないというが、渋柿はどうだろう。弟子の露月をからかった句だが、まず、自分からためしてみるか。

 ◎ 行く秋に しがみついたる 木の葉哉

 葉にも生への執着があるのか。枝から地面への旅をいやがる風情が、痛ましくもあり、おかしくもあり。』


 最後は冬の句です。

 『 ◎ 貧乏は 妾(めかけ)も置かず 湯婆(たんぽ)かな

 かみさんはどうした。あまりの貧乏にあきれて出ていった。いまに湯婆も出て行っちまうぞ。

 ◎ いもあらば いも焼こうもの 古火桶

 芋でもあれば焼くのに芋も無い。火鉢の灰に思わず火箸で「芋」と書いてしまったぞ。


 ◎ お長屋の 老人会や 鯨汁

 十二月十三日の煤払のあとには、鯨汁を食べるのが江戸時代からの習わしだ。夏の鰻、冬の鯨、年寄りに活力を。

 ◎ 冬の部に 河豚(ふぐ)の句多き 句集哉

 そんなにみんな、河豚を食べてるのかね。それともなかなか口に入らぬから句に入れてるのかな。


 ◎ 面白や かさなりあうて 雪の傘

 雪の中を傘がかさなりあって。番傘にも蛇の目にも、ほら、雪が模様をつくっている。

 ◎ 占いの ついにあたらで 歳暮れぬ

 占いなどはしょせん当たらぬ。そうは思っていても、これほど外れるとやはりばかばかしい。さて、来年の運勢は。


 ◎ いそがしく 時計の動く 師走哉

 時計まで、師走はいそがしそうだ。商人がいそがしいのはわかるけど、わしらまで何かに追い立てられているようで。別にしめきり原稿もないのにな。

 ◎ 人間を 笑うが如し 年の暮

 わはははははは、馬鹿だね、人間ってやつは。あははははははは。そうですね、あなたもわたしも、わははははははは。あははははははは。』


 子規は、漱石、秋山兄弟と友達であった。(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)

 編者の天野祐吉(1933~2013年)は、中学、高校を松山で過ごす。コラムリストで、広告批評を創刊、子規記念館の館長を務めた。

 正岡子規は、江戸の俳句を現代によみがえらせた。俳句は、松尾芭蕉が開祖であるが、蕪村は、絵描きとしては評価されても、俳句は評価されていなかった。小林一茶にいたっては、まったく評価されなかった。

 一茶を世に出したのは、子規の功績です。明治時代は、西洋文明を吸収することに夢中で、俳句は江戸の古くさい文化で、あまり評価されていなかった。

 浮世絵さえも日本では忘れ去られようとされた時代で、富国強兵のためには、西洋の科学技術を学ぶ必要があり、俳句などに目を向ける人はいなかったのではと、考えられます。(第160回)


ブックハンター「レット・イッ・ビー再発見」

2018-03-24 22:04:40 | 独学

 160. レット・イッ・ビー再発見  (五十嵐玲二談 2018年3月)

 私は、現在71歳で、若い時に挫折したケーナを今回習うにあたって、良く吹けないケーナで、吹きやすい曲はないものかと、レット・イッ・ビーが意外とケーナに相性が好いという新しい発見をしました。

 そこで今回、Let It Be について、私が再発見をしたことを書きます。私は、どれもほんの少ししかできませんが、チェロとギターとケーナと歌(声)の四つをちょっとづつ楽しんでいます。(チェロとの相性は、イエスタデイがよいと感じてます)

 ビートルズの音楽は、2018年の現代に於いては、クラッシックの音楽です。もっとも現代においては、クラッシック、ジャズ、ポピュラー、歌謡曲、フォークソング、民族音楽などのジャンルは、無くなりつつあります。

 チェロの曲をギターで演奏したり、サックスで演奏したり、オーケストラの楽曲を歌(声)ったりとさまざまで、ピアノ、ヴァイオリン、サックス、尺八などの楽器によるジャンルも無くなりつつあります。

 ビートルズは、1962年にレコードレビューして、1970年に解散しています。20世紀を代表する音楽グループの活動期間が、十年に満たなかったことに、あらためて驚きました。

 そして、この Let It Be が、ビートルズの300曲以上の楽曲の中で、最も親しまれている曲のひとつで、最後の曲だと聞いてさらに驚かされました。

 1969年、ビートルズが解散の危機に陥った時、ポール・マッカートニーは、暗闇の中にいた。ある日、ポールの亡き母であるメアリーが、夢に現れ、彼にこうささやいた。

 「あるがままに、あるがままに、受け入れるのです」その言葉により伝説の曲(Let It Be)が生まれた。では、歌詞を読んでいきましょう。(以下の訳は、YouTube より)


   Let It Be    1970 The Beatles    word and music by John Lennon and Paul McCartny


  When I find myself in time of Trouble     Mother Mary comes me

 (僕が悩んでいると 亡き母メアリーが現れ)

 Speaking words of wisdom    Let it be

 (知恵ある言葉をかけてくれた 「あるがままに受け入れなさい」)

 And in my hour of darkness    She is standing right in front of me

 (そして僕が暗闇の中にいる時、 彼女はぼくの前に立ち)

 Speaking words of wisdom     Let it be

 (知恵ある言葉をかけてくれた  「あるがままに生きなさい」)

 Let it be   Let it be     Let it be   Let it be

 (あるがままに、あるがままに  あるがままに、あるがままに)

 Whisper words of wisdom    Let it be

 (知恵ある言葉をささやいた  「あるがままに」)


 And when the broken hearted   People living in the world agree

 (心がボロボロに傷ついたとき  みんな声をそろえて言うんだ)

 There will be an answer    Let it be

 (答えはきっと見つかるから  「あるがままに」)

 For though they may be parted     There is still a chance that they will see

 (たとえ離れ離れになっても  また会えるチャンスがあるかもしれない)

 There will be answer    Let it be

 Let it be  Let it be     Let it be  Let it be

 Yaeh, There will be an answer    Let it be


 Let it be  Let it be     Let it be  Let it be

  Whisper words of wisdom    Let it be    (以上2番まで、3番、4番と続きます)


 メンバー四人のうち、ジョン・レノンは、1980年12月40歳でなくなり、ジョージ・ハリスンは2001年11月58歳でなくなり、ビートルズが復活することは、ありませんが音楽は永遠にうたわれるでしょう。 (第159回)


ブックハンター「不死身の特攻兵について」

2018-03-18 15:57:09 | 独学

 159. 不死身の特攻兵について  (鴻上尚史著 文芸春秋2018年三月号)

 これを紹介しますのは、全ての組織に於いて、上司や上官の命令には、基本的には従うべきですが、自己の信念に沿わない時に、たとえ処罰を受けたとしても、従えない究極の場面は、一生に一度か二度あるかもしれません。その時の参考になればと考え、紹介いたします。

 

 『 九回特攻に出撃して、九回生きて帰って来た佐々木友次さんについての本「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(講談社現代新書)を去年上梓しました。ありがたいことに好評で、版を重ねています。

 もともと、佐々木さんのことを知ったのは二〇〇九年、ある本の短い描写からでした。

 陸軍第一回の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」の一員だった二一歳の佐々木さんは、出撃のたびに、「特攻」せず、爆弾を落として生還しました。そのたびに、上官は「次は必ず死んでこい!」と叫びました。

 二度、大本営は軍神として発表しました。新聞で大々的に報道され、天皇にも上奏されていたので、生きていては困るのです。

 それでも、佐々木さんは生きて帰りました。一度は大型船に爆弾を命中させ、もう一度は楊陸艇に至近爆発の被害を与えました。

 それでも、上官は体当たりを求めました。爆弾を命中させたら、その後体当たりをしろとさえ言いました。けれど、二一歳の佐々木さんは上官の命令に従わず、九回出撃し、九回生還したのです。

 こんな日本人がいたことに僕は衝撃を受けました。今までの「特攻」の常識を覆すような存在でした。けれど。二〇〇九年、佐々木さんの存在は遠い歴史の彼方だと思っていました。

 ですが、佐々木さんは生きていました。僕は二〇一五年、それから六年後さまざまな偶然を経て、札幌の病院でお会いします。

 佐々木さんは目が不自由になっていましたが、意識ははっきりしていて、第一回の出撃の日にちまで正確に記憶してました。僕は五回お会いして、四回、計五時間近くインタビューをお願いすることができました。

 佐々木さんは小柄な人でした。身長は一六〇センチ足らず。この人が、九回も上官の命令を無視して生還したのかと思うと、その秘密をどうしても知りたくなりました。

 初期の特攻隊は、ベテランのパイロットが選ばれました。国民の戦意昂揚や時局打開のために、どうしても特攻を成功させる必要があったからです。

 けれど、ベテランパイロットであればあるほど「爆弾を命中させるのではなく、体当たりしろ」という命令は技術の否定であり、パイロットのプライドを傷つけるものでした。

 彼らは、毎日、激しい急降下爆撃の訓練を積んでいました。だからこそ、爆弾を命中させたいと思っていたのに、上層部はただ一回だけの体当たりを命令したのです。

 佐々木さんも、万朶隊の隊長である岩本益臣大尉も反発しました。けれど、多くのベテランパイロットは、命令に従うしかありませんでした。

 それが軍隊です。けれど、佐々木さんは生きていたのです。どうしてそんなことができたのか、なぜ途中で上官の命令に自暴自棄にならなかったのか。

 なぜ二一歳という若さで死刑にも相当する軍規違反を続けられたのか。僕は何度もベッドの佐々木さんに聞きました。「特攻隊」を調べていけば、そこには「日本」が浮かび上がります。

 初期はまだしも、後期、沖縄戦になると特攻の成功率は著しく低下します。けれど、誰もやめようとは言いだしませんでした。却って、精神主義的に美化が進みました。

 実態とかけはなれた美化に、当事者である特攻隊員は苦悩します。本書が五万部を突破した頃から、あきらかに読まないまま批判する言葉がネットに出てきました。

 ツイッターでは直接、暴言を投げかけられました。読めば、僕は特攻隊をムダ死になどとは一行も書いていないことが分かります。それは日本人が忘れてはならない厳粛な死なのです。

 けれど、「特攻隊を冒涜するな」とか「アジア解放戦争の意味が分かってない」と言われます。そんな文章を見ながら、やっかいな時代に僕達は生きていると思います。

 読んだ上で批判するなら分かります。けれど、予断とイメージだけで対立していくのは、不毛なことだと悲しくなるのです。それは、特攻隊の時代の精神主義とまったく同じです。

 実証的なデータで効果を分析するのではなく、ただ観念で断定していくことなのです。ネットでさまざまな中傷を受けながら、それでも僕は佐々木友次さんの存在を日本人に伝えなければいけないとあらためて思います。

 そのためには、「読まないままの批判」にも負けず、発進を続けようと思っているのです。 』


 私が、「不死身の特攻兵」を読んで、感心したのは、佐々木友次さんの父親(藤吉)さんの話です。

 『 藤吉は、日露戦争の時、旅順の203高地を攻撃する白襷(たすき)隊の一員だった。夜間、白い襷を肩からかけて、高地の斜面を登り、敵陣地を強襲しようという部隊だった。

 だが、白い襷は、夜の闇の中でかえって目標になった。ロシア軍の機関銃は白い襷を目標に銃弾を浴びせた。決死隊の白襷隊は全滅に近い悲劇に会った。父の藤吉は、この激戦の中で生き残った。

 その時に一つの信念が生まれたそれは「人間は、容易なことで死ぬものでない」ということだった。日露戦争が終わって、藤吉は無事に故郷の当別村に帰って来た。 』

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」のなかで、203高地の話を読みましたが、父と息子が揃って、大変な窮地の中を生きて帰って来たことは、運の強さは無論ですが、その精神力は私たちも学ぶ何かがあるように感じました。(第158回)

 


ブックハンター「どこに行ってしまったの !? アジアのゾウたち」

2018-01-28 09:45:26 | 独学

 156. どこに行ってしまったの !? アジアのゾウたち  (新村洋子著 2017年9月)

 私がこの本を紹介しますのは、森(熱帯雨林)が地球をつくり、ゾウが森(熱帯雨林)をつくってきたからです。現在地球上には、三種類のゾウがいます。

 アジアゾウ、アフリカゾウ、マルミミゾウです。マルミミゾウは、アフリカのアフリカゾウの居住範囲の中心部にすむ、小型のゾウです。アフリカの森(熱帯雨林)の植物は、マルミミゾウによって散布されたものが、多数あるそうです。

 ゾウは草食動物なので、頂点捕食者ではありませんが、食べる植物の量とその排出されるフンの量、その賢さからいって、森(熱帯雨林)の頂点に位置する動物です。

 ゾウの食事によって、森(熱帯雨林)の代謝が維持されます。森(熱帯雨林)は、地球の肺とも言われています。

 地球は、今、森(熱帯雨林)からゾウが消え、地球から、熱帯雨林やサンゴ礁や、マングローブの森が消え、地球の生物環境が消える方へ、私たちは歩いています。

 この本での話は、二頭のアジアゾウのお話ですが、そこには私たちの未来を教えてくれているように感じられます。


 『 「あ、ここならよい写真が撮れそう」、と車を止めてもらいました。急いでシャターを切っていると、ファインダーの中に突然、ゾウが飛び込んできました。「あっ、ゾウだ」

 少女たちの背後にあった農園をゾウが横切ったのでした。あわてた私はドライバーのコンさんに「カメラバッグを取ってきて」と叫びましたが、間に合いません。

 手持ちの短いレンズで3枚撮っただけでゾウは視界から消えました。望遠レンズで撮れたらと悔しい思いをしました。

 私は近くにいた女性に「いま、ゾウがいましたよね。どこへ行ったのでしょうか」と聞いたら、「そうですか、山へ帰ったんじゃないですか」 「えっ、山ってどこですか?」

 突然、目の前に現れさっと姿を消したゾウの姿がまぶたにこびりついていました。女性は「近くにゾウ使いの親方の家があるから、そこへ行って聞いてごらんなさい」と言って家を教えてくれました。

 親方の家に行きましたが、家には誰もいませんでした。ドライバーのコンさんが車でゾウが消えたあたりをあちこち探し回ってくれましたが、とうとう人家が消え、森に続く草原に出ましたが見つけることができませんでした。 』


 『 最初からコンさんは知っていたかどうかわかりませんが、気がつくと車はヨックドン国立公園のゲート前にいました。事務所でゾウがいるかと聞くと職員の方が、ゾウを見たければ明日の朝早くいらっしゃい、と案内してくれました。っ

 早朝、ゾウに会えると期待してヨックドン国立公園のゲートをくぐりました。ヨックドン国立公園の門から管理事務所までの道は未舗装でごつごつしていました。

 雨水が溜まってできたと思われる水溜まりでは牛が一頭悠々と水浴びをしていました。私はこの素朴さが大変気に入りました。

 職員の出迎えを受け、ゾウ使いのイマさんを紹介されました。公園でのゾウ探しは、イマさんのバイクの後ろに乗ってするというのです。イマさんは30歳代後半くらいの少数民族の男性で、国立公園の職員とのことでした。

 ヨックドン国立公園の美しい熱帯の森を15キロは進んだでしょうか、突然、頭上に青空が見える場所に出ました。少数民族の村人が国立公園になる前から耕作している田んぼで、ちょうど稲刈りの終わったときでした。

 ゾウ使いのイマさんが「ここで待っていてください」と言い残して森の中に消えました。待つこと30分、イマさんがゾウの背に乗って現れました。2頭の子ゾウを連れていました。大人のゾウの名前はイクーンでした。

 このとき出会った2頭の子ゾウとは、その後長くつき合う縁で結ばれていますが、だいぶあとになってからこの子ゾウの名前が、トンガン(銀くん)、トンカム(金くん)ということを知りました。

 私が近づいて子ゾウに触ろうとすると、「それ以上近づかないで」と止められました。子ゾウは野生のままなのでなにをするか予想がつかず、危険だからというのです。

 その日はそれだけでしたが、子ゾウは私をジッと見つめていました。子ゾウの目には私の姿がやきついたようです。それからというもの、私を警戒する様子は見られませんでした。 』


  『 2頭の子ゾウが生まれたのはヨックドンの森ではありません。ヨックドンの森から400キロほど離れたピントゥアン省にあるタイリン山だと聞きました。「百聞は一見にしかず」です。

 私は子ゾウたちが生まれたその山の森へ行ってみたくなりました。私がその森へ行きたいと言うと、ゾウ使いのイマさんや国立公園の職員の方が「そこへ行ってももうゾウはいませんよ」と言います。

 「ゾウはいなくても行きたいです」 「もう森はないですよ」 「森はなくても行きたいです」という押し問答でした。

 とにかく、山の森で何が起こったか、2頭の子ゾウがヨックドン国立公園にきた理由を知るためには現地へ行くしかないと思ったのです。

 翌日、コンさんの運転で公園のガイドに同行してもらってタイリン山に向かいました。朝の8時にヨックドン国立公園を出発して7時間、約400キロの道のりを車を走らせて午後3時にタイリン山のふもとに着きました。

 タイリン山の周辺には人家はなく、見晴らしのよい丘陵地でした。一面がキャッサバとバナナで、よく手入れされた畑になっていました。

 ベトナム戦争で家や職場を失った人びとがこの山に移住して開拓した土地でした。畑ではキャッサバの収穫作業をしていました。

 森だった痕跡を探し回ると、直径40センチ以上はある切り株が至る所に残っていました。森を焼き払ったあとに残った灰が切り株の周りに残っていました。

 さらに森があったことを証明するものがありました。1メートルほどの川幅でしたが、いまさっき、森の中から流れ出たようにきれいに澄んだ小川でした。

 突然、目の前に巨大な岩が現れました。「あ、これぞゾウがすんでいた森の痕跡だ」と一瞬思いました。大岩をとりかこむように数本の大木が残っていました。この巨岩だけは取り除くことができなかったようでした。

 私の目の前に現れました。この巨岩をはさんで山に住む野生のゾウとゾウ使いが操るゾウが戦って、山のゾウが負けて公園に連行されるシーンでした。山のゾウと人間に飼いならされたゾウの物語がくり広げられました。

 でも、あとになってイマさんに聞いたら「そんなことはしていないよ。麻酔銃で眠らされたゾウたちをトラックまで運ぶ仕事をしただけだよ」と一言で否定されていまいました。

 山の森を見たことで、山の森のゾウが消えてしまった状況がおぼろげに見えてきました。 』


 『 私がヨックドン国立公園を訪れた前年の2001年のことです。タイリン山では野生のゾウたちが畑に現れ、畑を守ろうとした村人と衝突する事件がありました。

 それも8月と10月の2回にわたって起こったのです。その事件で、村人21人が死亡するという痛ましい事故になりました。ゾウの事情からすると森の木が切り倒され、畑にかわってすみ処を失ったことが原因のようでした。

 この事件を知ったダクラック省政府は野生ゾウを捕獲して、まだ野生ゾウが生息しているヨックドン国立公園に移住させる決定を下しました。

 この捕獲作業には、8人のマレーシアからの技術者、ベトナム人の作業員22人、ヨックドン国立公園の家ゾウ(使役ゾウ)3頭、ゾウ使い3人が動員されました。

 山で発見されたゾウ9頭、1頭は隣の山に逃げ、2頭が麻酔銃の事故が原因で死亡、6頭が捕獲されトラックで約400キロ離れたヨックドン国立公園に移送されました。

 この6頭のその後ですが、4頭はすぐヨックドンの森の奥深く姿を消しましたが、2頭の子ゾウは群れから離れ、村人の畑に迷い出てしまいました。

 私の想像ですが、麻酔銃が原因で死亡した2頭が子ゾウたちの母親だったのではないかと思っています。

 2頭の子ゾウは、森から出て村人の畑でトウモロコシを食べているところを村人に発見されました。村人から知らせを受けてイマさんが迎えに行き、2頭はヨックドン国立公園に戻りました。

 2頭の子ゾウをどうするかダクラック省政府の方針が決まらず、その間にゾウ使いさんたちがひそかにトンガンとトムカムと名づけてかわいがっていたのです。

 子ゾウは、2頭ともオスゾウです。いつ密漁者に牙を狙われて殺されてしまうかわかりません。

 しかし、密漁の恐れがあるからといって、野生ゾウを保護下におくにはクリアしなければならないさまざまな難問があります。そんな悲しい物語が進行しているときに、私はトンガンとトムカムに出会ったのでした。 』


 『 トンガンとトムカムの話を聞くと、無性に野生ゾウたちに会いたいという気持ちがつのりました。

 ハノイ動物園の園長チュック氏に相談したところ、私が熱帯雨林での過酷なキャンプに耐えられるかどうかチェックした上で、ヨックドン国立公園ユン園長から野生ゾウ探しの許可を得てくださいました。

 2004年3月、ヨックドンの森の中に入って、野生ゾウに会いに行くことになりました。国立公園の職員の方たちが装備を整えてくださいました。

 イムさんはまだ積み込むものがあるからと先に出発し、5キロほど離れた分岐点で合流することになりました。私は分岐点まで歩いていきましたが、イムさんとブンカムは現れませんでした。

 なにか突発的なことが起きたのだろうと思い、決められていた野営地までおよそ16キロを歩き通しました。道は小型自動車が通れる整備された道でしたが、途中森林管理の農民3人の自転車隊に会った以外は誰にも会いませんでした。 

 途中、中小の川は干上がり、林は完全に枯れていました。農民に分担管理させている林は、焼き払ったのか自然発火なのか、すっかり落葉はなくなっていて、灰の下からピンクや黄色のフヨウに似た花が咲いていました。

 森林地帯を抜けて疎林地帯に出ると直射日光が肌を刺し、汗と砂ぼこりで化粧が流れ、顔はひどいことになりました。やっとの思いで野営地にたどり着きました。

 行く手はセレポック川の支流、ダッケン川で遮られています。乾季でありながら葉をつけた高木の下は涼しく、生き返る思いでした。私が冷たい水を飲んでいる間にブンカムに乗ったイムさんが到着しました。 』


 『 イムさんは休むまもなくブンカムの背から荷物を下ろしはじめ、2人の男性が手伝いました。

 イムさんはブンカムを水場へ連れていき背中から足までくまなく洗い、自分も一緒に腰まで浸かって水浴びをしていましたが、面倒見のよさには感服しました。ブンカムは、もうすぐ35歳になるメスゾウです。

 村のどのゾウ使いにも馴れない暴れゾウで、飼い主が6人も代わり、10歳のときイムさんのところにやってきましたが、イムさんが調教に成功して以降は、ゾウ使いなら誰でも乗れるようになったということでした。

 イムさんのゾウの扱い方を観察していると、手鉤が他の人のものとは違っています。手鉤は人それぞれ形が少しずつ違いますが、共通しているのは手鉤の先が尖っていて、その鋭い先でゾウの急所を突き、言うことを聞かせるのです。

 でも、イムさんの手鉤の先にはピンポン球くらいの鉄の玉がついていました。ですから、手鉤の先が皮膚に突き刺さることはありません。イムさんは手鉤さえもたずにゾウに乗っていることもありました。

 その鉄の玉がついた手鉤は私の家にあります。イムさんから「また、作るからあげる」と記念にいただいたものです。

 平日のイムさんの献身的とも言えるブンカムに対する世話ぶりを見ていると、ゾウはゾウ使いの愛情に応えているのだと感じ入りました。

 私たちがおやつで一服していてもイムさんは加わりません。かいがいしくブンカムの寝場所作りをしていました。私たちが夕飯を食べはじめる頃、イムさんは両手に葉っぱをたくさん抱えて現れました。

 夕飯のメニューを知っていたのでしょう。その木の葉で塩コショウして焼いた豚肉を包むと見事な香りを発し、豚肉の臭み抜きハーブとなりました。

 熱帯の森が闇に覆われ、指先さえみえない漆黒の闇になりましたが、焚き火は燃え続け、不安はありませんでした。天窓から見上げた天空にはすばらしい星空がありました。

 朝、大変な騒々しさで目を覚ましました。さまざまな鳥の声が熱帯の森から聞こえてきました。姿は見えず、鳥についてのなんの知識もない私は、ただひたすら鳴き声を片仮名で書きとりました。

 30種類ほど書きつけて根がつきました。ヨックドン国立公園のユン園長にお聞きしたらヨックドンの森では最大351種の鳥が確認されたが、いまはだいぶ減っているという話でした。 』


 この後、ブンカムに乗って、野生のゾウを探しにいくのですが、今回はここまでに致します。ゾウが生きるには、森が必要ですが、人間と共存するためには、ゾウ使いがいなくてはならないようです。

 ゾウや馬にかえて、ブルドーザーによって森林伐採をおこなうと、伐採した樹木だけではなく、森林を破壊することになる多くの事例を私たちは見てきました。

 豊かな森には、三百数十種もの鳥類が生存し、それらの支える何百種類の樹木、さらには昆虫の生物多様性の豊かな熱帯雨林は、アジアから、地球から、消えないことを祈ってペンをおきます。(第155回) 


ブックハンター「OPSとチーム得点の相関係数」

2018-01-20 16:05:39 | 独学

 155. OPSとチーム得点の相関係数  (佐藤健太郎著 文芸春秋2017年10月)

 これは「数字の科学」14に書かれていたものです。これを紹介しますのは、私が野球に詳しいわけでもなく、数学に詳しいわけでもありません。

 この考え方は、実用性と応用性に富む考え方なので、紹介したいと思いました。

 現実の様々な事象に於いては、数学的に美しく割り切れるものは、少ないのですが、複数の事象をある数式にしたものが、ある範囲において、相関関係があり、実用性がある可能性は、残されていると考えます。

 では、「数字の科学」を読んでいきましょう。(OPS :on-base plus slugging 出塁率+長打率)

 

 『 プロ野球に於いては、ペナントレースの行方と並び、最多勝や首位打者といった個人のタイトルにも注目が集まる。これらは永遠の記録として残るし、契約にも大きく影響するから、選手たちも必死になる。

 しかし、これらは選手の評価基準としてどの程度妥当なものなのだろうか? 先発投手の勝ち星は、味方打線や救援投手の実力に大きく左右される。

 打率には、長打力や四球による出塁が反映されてないから、打者の能力のごく一部しか表していないともいえる。

 こうしたことから、米国では統計学的手法による選手の実力数値化の試みが行われてきた。その結果編み出された指標の一つがOPSで、長打率と出塁率を足し合わせて算出する。

 この両者は性質の違う数値なので、本来は合計すべきではない。湿度六十%と降水確率三十%という数字を足し合わせるようなものだ。

 ところがこのOPSという数値は、チームの得点数と極めてよく関連することがわかっている。二つのデータの関連性は相関係数という数字で表され、これが一に近いほど関連性が高い。

 解析してみると、打率とチーム得点の相関係数は0.七七六にすぎないが、OPSとのそれは0.九四一にも達する。試合に勝ちたいなら打率ではなく、OPSの高い打者を並べるべきということになる。

 OPSは0.八を超えれば一流、0.九以上なら球界を代表する打者とみなされる。本稿執筆時点で0.九を超えているのはエルドレッド、鈴木誠也、柳田悠岐、秋山翔吾ら九名。

 ちなみに王貞治はOPSが一.二を超えた年が五度あるというから、いかに傑出した打者だったか知れる。米国では、OPSを重視したチームづくりが成功して以来、データ分析が飛躍的に進歩した。

 今や、全ての投球や打球の軌道が正確に計測されており、野手の守備能力はもちろん、捕手がきわどい球をうまく捕球してストライクに見せる技量までが精密に数字ではじき出され、査定に生かされている。

 打率や勝ち星はファンの間では受け入れられているが、能力評価の際にはもはやあまり重視されなくなった。

 現代社会では、視聴率や内閣支持率といった数字が大々的に発表され、多くの人々が振り回される。しかしこれらわかりやすい数字は一体何を表し、どの程度実態を捉えたものか。考え直す余地は、大いにありそうだ。(第154回)