goo blog サービス終了のお知らせ 

チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「五峰の鷹」

2018-11-19 13:54:03 | 独学

  177. 五峰の鷹   (安倍龍太郎著 2013年12月)

 私は始めて、安倍龍太郎の小説を読んだのですが、小説家は通常文系の作家によって書かれるため、科学技術的記述は、少ないものです。

 本書の肝の部分は、ポルトガルから伝来した鉄砲と弾薬を日本人の手によって、造られる話です。私も、鉄砲を日本人が見て、刀鍛冶の技術があったから、つくることができたと思っていました。

 鉄砲や弾薬を造るには、国外から調達しなければならない原材料や完成品とするために技術と技術者と富を集積することが、必要であったと書かれていました。

 さらには、著者は久留米高専(機械工学)の出身であることを知って納得しました。では、ほんの一部ですが読んで行きましょう。

 『 清十郎もそれにならった。いつの間にか酒を楽しむ余裕ができていた。「王烈、わしが嬉しいのは、自分の考えを初めて他人の口から聞いたからだ」 「さっきの火薬の話か」

 「そうだ。わしがポルトガルのならず者どもを種子島に連れていったのは、あの島を鉄砲と火薬の生産拠点にするためだった」

 王直(おうちょく)はマカオで知り合ったフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ダ・モッタ、アントニオ・ペイショットの三人を天文十一年(1542)八月に種子島に連れていった。

 倒産した商人や軍隊から脱走した野心家たちで、何とか起死回生の仕事はないものかと血眼になっていた。

 そこで三人に、ポルトガルの優れた鉄砲と弾薬を種子島の領主である種子島時堯(ときたか)に売らせようと、ジャンクに乗せて島に案内したのである。

 「種子島では昔から刀鍛冶が盛んだった。その技術を生かせば、鉄砲を作ることなど簡単だ。硫黄もとれるし木炭もあるので、硝石さえ持ち込めば火薬の生産もできる。しかも九州本土の間近にあるのだから、日本進出の足がかりにするにはもってこいだ」

 王直は種子島をたずねるたびに、ここを鉄砲と火薬の生産拠点にしたいと考えていたという。「それならどうして、ご自分で鉄砲を伝えなかったのですか」清十郎はそうたずねた。

 「できればわしもそうしたかったさ」 王直はゆでた豚足に目がないようで、骨を派手に床に投げ散らかしながら次々と平らげた。

 「だが我々は明国の法を破り、倭寇と呼ばれているならず者だ。長期的な信用を得ることができないし、公の場に立つこともできない」

 種子島を鉄砲や火薬の生産拠点にするには、種子島時堯ばかりか彼の主人である島津家の了解をえなければならない。ところが島津家は古くから琉球を通じて明国と交易しているので、明皇帝の要請があれば王直らを取り締まりに乗りだすおそれがあるというのである。

 「もし明国が時代遅れの海禁策を改め、我らの活動を支援してくれるなら、何万貫もの銀を皇帝に献上して国の発展につくすことができる」

 だが、明国の高官は誰もこのことを分かっていないし、世界の動きも見えていない。王直は腹立たしげにつぶやいて紹興酒をあおった。

 「それでポルトガル人を表に立てようとなされたのですか」「種子島時堯どのに近付くきっかけにしたかったのだ。彼らを連れていけば、新しもの好きの日本人はかならず飛びつく。

 鉄砲も西洋のものだと言った方が有難がる。わしは彼らを船で案内する役に徹し、様子を見ながら時堯どのに接近しようと思ったのさ」

 まるで処女のような奥ゆかしさだろうと、王直はお夏の尻をなでてからかった。結果的にこの戦略は成功した。王直はその後もマカオから何人ものポルトガル人を案内し、鉄砲の生産技術を種子島家の者たちに教え込ませた。

 そうして生産工場を作る際には時堯に資金を援助し、火薬の原料である硝石を安定的に供給する契約を結んだ。

 「水を飲む時には井戸を掘った者のことを忘れるな。そんな諺が舟山にある。鉄砲を日本に伝えたのはポルトガルの下司野郎どもだが、お膳立てをしたのはこの王直さまだ」

 「それにしては、あまり楽しそうでは在りませんね」「楽しいさ。豚足も酒も旨い」「八つ当たりでもするような飲み方ですよ。なあ三郎」「親父は常に哀しみを抱えている。俺には何故だか分らぬが」

 三郎は淋しそうに肩をすくめた。その仕種に王直に寄せる思いがにじみ出ていた。「わしは翼をもがれた蜂熊鷹(はちくま)だ。もし明国が海禁策を改めて後ろ盾になってくれるなら、干支がひと回りする間に日本を手に入れてみせる。その方法はさっき雛鳥が言った通りだ」

 種子島を鉄砲と火薬の大生産地にして、日本の有力大名に売りまくる。鉄砲がなければ戦争に勝てない時代がくるのだから、大名たちは先を争って買い求めるし、鉄砲の自主生産も始まるだろう。

 だが硝石だけは日本に産出しないのだから、その輸入経路を押さえておけば、大名たちは巨額の銭を払って買いに来るようになる。誰に売るかを決めることで戦の勝敗を左右し、これぞと見込んだ大名を天下の覇者に育て上げることもできる。

 「わしはその大名の上に立って日本国王になり、明国皇帝の僕になる。そうして世界の海へ乗り出していくのだ。あの南蛮人どものようにな」「それでは鉄砲十挺を売ることを、許してもらえるのですね」

 清十郎はこの時とばかり念を押した。「許すとも。ただし、自分で種子島まで買いに行け。お前が稼いだ銀五貫目を、元手として使うがよい」

 王直は硯箱を運ばせ、種子島時堯あての紹介状を書いた。風格のある堂々たる漢文の最後に、徽王(きおう)王直と署名して朱印を押した。

 東南アジア貿易圏を手中にした王直は、出身地の安徽省(あんきしょう)にちなんで徽王と称していたのである。翌日、清十郎は王直とともに五島の福江まで行き、小型のジャンクに乗りかえて種子島に向かった。

 いつものように三郎とお夏が供をしている。銀五貫目も木箱のまま積み込んである。これで何挺の鉄砲が買えるか見当もつかないが、清十郎は鉄砲伝来の島を目前にして期待に胸をおどらせていた。 』


 『 種子島は大隅半島の南東、およそ四十キロに位置している。南北は五十七キロ、東西はいちばん狭い所で約六キロの細長い島である。

 島全体が低くなだらかで、もっとも標高の高い所でも二百八十二メートルしかないので、海上からは平らかな台のように見える。

 清十郎らがこの島に船をつけたのは、天文十六年(一五四七)六月中頃。戦国時代史の転機となった鉄砲伝来から四年後のことだった。

 島の主要港は赤尾木(あかおぎ)、現在の西之表港である。ジャンクの水夫たちも三郎もこの島には何度も来ているので、水路も潮目も分かっている。西からの風に吹かれて港にやすやすと船をつけた。

 「やさしか島ね。五島とはだいぶちがう」お夏は平坦で緑豊かな島をそう評した。なだらかな海岸に寄せる波もおだやかで、岩場が多く人を寄せつけない厳しさがある五島とは雰囲気がちがっていた。

 「島の者たちはここを女島、隣の屋久島を男島と呼んでいる」 三郎がぼそりとつぶやいた。屋久島は二千メートルちかい山々が密集した険しい島である。平坦な種子島と並んでいるところは、夫婦が寄りそっているようだと、古くから言われてという。

 帆柱には王直の船であることを示す蜂熊鷹の旗を掲げている。朱色の地に黄金の鷹をえがいた旗は遠目にも分かる。それに気付いた種子島家の家臣たちが、船着場に迎えに出ていた。

 「三郎どの、よくお出で下された」 白いあごひげを生やした初老の武士が、うやうやしく頭を下げた。名を篠川儀太夫という。王直と硝石や鉛の取り引きをしている責任者だった。

 「世話になる。この男が時堯どのに会いたいそうだ」 三郎はいつものように無愛想だった。 「こちら様は、どにょうな」 「福江十郎と申します」 清十郎は変名を名乗り、王直の紹介状を差し出した。

 儀太夫は書状に目を通し、いぶかしげに清十郎を見やった。 「何か不審なことでも」 「いいえ、珍しい紹介の仕方をなさると思ったものですから」

 儀太夫はそう言ったが、書状を見ていない清十郎には何のことか分からなかった。種子島時堯の城は、港にほど近い高台にあった。城の側まで水路を引き入れ、物資を積んだ舟が入れるようにしている。

 二の丸の西隅に高々と見張り櫓(やぐら)を組み上げ、港に入る船の監視を厳重にしていた。時堯はあいにく接客中で、清十郎らは表御殿の対面所で待たされた。

 畳を敷き詰めた部屋には床の間があり、禅僧の手になるダルマの絵と青磁の壺がかざってある。京都の東山文化にならった設(しつら)えで、時堯の都へのあこがれがうかがえる。

 城の中でももっとも上等な部屋だった。 「時堯どのと会ったことがあるのか」 清十郎はもてなしの丁重さに驚いていた。 「親父の供をして何回か会った。この島は我らの力で立ち上がったようなものだ」 「時堯どのは、どんなお方だ」

 「まだお若い。お前とたいして変わらないほどだが、頭が良く決断が速い」 「気性は」 「おだやかで人なつっこい方だ。だが油断はできぬ」 「ポルトガル人を連れて来た時、三郎も一緒だったのか」

 「俺は十年前から親父の船に乗っている。どこへ行く時も離れたことはなかった」 ところが今はお前の相棒などをさせられている。三郎は腹立たしげに清十郎を見やり、この島との長い関わりを語った。

 初めて種子島に来たのは、天文九年(一五四〇)のことである。東南アジアから東シナ海へ進出し、五島の福江に拠点を持った王直は、宇久盛定(うくもりさだ)の紹介状をもって種子島時堯をたずねた。

 良質の硫黄を購入するためだが,時堯は王直が明国の海禁策を破っていることを理由に交易を拒否した。そこで王直は、二年後の天文十一年にポルトガル人三人を連れて再び種子島をたずねた。

 彼らを時堯との交易の仲立ちにしようと考えてのことだが、初めからそれを言えば乗船を拒否されるおそれがある。それを危惧した王直は、三人には舟山諸島にむかうと話して船に乗せ、途中で遭難したふりをして種子島の小浦(こうら)という港に船をつけた。

 西之島に着き時堯と対面した時も、王直は嵐にあって漂着したと言い通した。あくまで偶然をよそおいながら通訳をつとめ、時堯とポルトガル人が火縄銃を売買する仲介をしたのだった。

 最新式の火縄銃の威力を目の当たりにした時堯は、大金を投じて二挺を買い取った。自ら鉄砲を撃ち、この新兵器に魅了された頃を見計らって、王直はこの島で鉄砲を生産したらどうかと持ちかけた。

 ポルトガル人が作り方を指導し、当面の資金と軟鋼や真鍮(銅と亜鉛の合金)などの原材料は王直が提供する。そのかわり鉄砲の生産が軌道に乗ったなら、硝石と鉛は王直から購入するという条件だった。

 時堯はこれを受け容れ、領内から刀鍛冶や金物細工師を集めて鉄砲の作り方を学ばせた。刀鍛冶は銃身を。金物細工師には火挟みや引鉄(ひきがね)などのカラクリを、そして篠川小四郎ら家臣数人は火薬の調合法を担当した。


 日本人の器用さには定評がある。彼らは半年もしないうちに作り方を身につけたが、ひとつだけ大きな問題に直面した。銃身の後部を封じる尾栓(びせん)のネジの切り方が分からなかったのである。

 尾栓の雄ネジは何とかなったが、銃身の内側の雌ネジをどう切ったらいいか、皆目見当がつかなかった。三人のポルトガル人にもそこまでの知識はないので、鉄砲製造は大きく頓挫した。

 そこで王直は三人をマカオまで送り届けるついでに、ポルトガル人の鉄砲鍛冶を紹介してもらい、翌天文十二年(1543)に再び種子島をたずねた。

 この鍛冶屋はヨーロッパで開発された捻錐(タップ)を持っていて、刀鍛冶の棟梁だった八板金兵衛に使い方を教えたこうして鉄砲の製造が種子島で完全におこなえるようになった。

 五島三郎こと王烈はそのすべてに関わり、王直とともに重要な役割をはたしたのだった。

 半時ほど待った頃、時堯が儀太夫を従えて現れた。細面の精悍な顔立ちで、月代をそり髷を結い、豊かな口ひげをたくわえている。まだニ十歳の若者だが、種子島家第十四代当主としての威厳をそなえていた。

 「王どの、お久しゅうござる。五峰先生もお元気のようで何よりです」 三郎に気さくに声をかけ、王直の紹介状を拝見したと言った。

 「こちらが福江十郎です。鉄砲の買い付けに参りました」 三郎がめずらしく素直なのは、時堯に敬服しているからだった。

 「私より若いようだが、いくつになられますか」 「十六でございます」 「ほう。五峰先生はあなたを余程見込んでおられるようですね」 「紹介状にそのように記していただいたのでしょうか」

 「気に入らなければ切り捨ててくれと記しておられます。その程度の者をよこされたのかと思いましたが、あなたを見てそうではないと分かりました」

 絶対に気に入るという自信があるからこんなことが書けるのだと、時堯は真っ白な歯を見せて涼やかに笑った。「夏姫どののことも先生からうかがっております。姪御さんだそうですね」

 「はい、私の母は王直の妹です」 お夏が緊張して改まった言葉を使った。 「聞きしにまさる美しさだ。ゆっくり話をしていたいのですが、客を待たせていますので」

 時堯は丁重にわび、鉄砲のことは儀太夫に任せているので何なりとたずねてもらいたいと言って席を立った。 』(第176回)

ブックハンター「女が三割ならば若者も三割」

2018-11-17 09:31:50 | 独学

 176. 女が三割ならば若者も三割  (塩野七生著 文芸春秋12月号 日本人へ百八十六回)

 本文は、古代ローマ、現代のイタリア、日本の政治・文化・人間模様を観察し、日本人へ百八十六回の文章です。私が本文を紹介しますのは、その内容と展開の巧みさと、その中心にある人間の素質と勝負カンに対する洞察力の確かさを紹介するためです。

 『 落ちるところまで落ちないと目覚めないと言われるのは、イタリアでは橋にかぎらない。ジェノヴァでおこった陸橋の墜落以上にイタリア人にショックであったのは、今年行われたサッカーの世界選手権では出場さえ許されなかったことだった。

 予選で落ちてしまったからだが、サッカー人口イコール国の総人口とさえいわれるイタリアである。世界チャンピオン最多を誇るブラジルに次ぐイタリアなのに、大会開催中は終始観戦を強いられたのだから、イタリア人の気分が落ちるところまで落ちたのも当然である。

 これで始めてイタリア人は目覚める。少なくとも目覚める必要は感じたのだ。まず、監督を代えた。温厚で円満な人から激しい性格の人に。

 つまり、選手たちをなだめすかしながらイイ線にまでもっていける監督から、温厚でも円満でもないが勝ちをとることを最重要視する監督に代えたのである。

 ロベルト・マンチーニは現役時代から、メリハリの効いた試合ぶりで知られていた。一応はストライカーなのでゴールも決めるが、それよりも見事な目の醒めるように美しいパス。

 だから彼のアシストは、必ず得点に結びつく。今は辛口の解説者に転身しているヴァィアーリとのツートップでセリエAの連覇を成しとげたのではなかったか。

 私には、監督には二種類あるように思う。一つ目は、選手たちを育てながら一年を通してまあまあの成績を残す人。二つ目は、持ち駒を駆使することで勝ちを重ねていく人。

 マンチーニは、監督になってからの各国を渡り歩いての実績からも、明らかに第二種に属す。この派の監督の代表例はムリーニョ(現マンチェスターユナイテッドの監督)だが、この種の男に美男が多いのはなぜか、まではわからない。

 というわけで落ちるところまで落ちたイタリアのナショナルチームを率いることになったマンチーニだが、ベテランから若手に代替わりしたチームのスタートは苦戦の連続になった。

 その試合後に行われた記者会見でマンチーニの言葉が、私の関心を刺激したのである。

 「クラブチームの監督たちには、イタリア出身の若手により多くの出場の機会を与えてくれるように願いたい。彼らには、素質ならば十分にある。欠けているのは、勝負カンなのだ。この種のカンは、現場経験を積むことでしか習得できない。しかも、カンが衰えてくると素質まで低下してしまう」

 イタリアでのサッカーは完全な営利事業なので、観客動員のために世界中から有名選手を集める。私でさえも、クリスティアーノ・ロナウドがでるなら観に行くかと思うほど。

 おかげでこれからクラブチームの監督たちはすざましい重圧下に置かれていて、二度つづけて負けるやとたんに進退問題化する始末。この人たちだって若手にチャンスを与える気持は充分にあるのだが、それで敗れようものなら自分のクビがとびかねない。

 いきおい、レギュラーは外国からの有名選手に頼るようになり、イタリア人の若者はベンチに居つづけることになる。マンチーニは、彼ら監督だけでなく外国の有名選手を喜ぶ観客たちにも、むずかしい問題を突きつけたのであった。

 私の仮説だが、素質は先天的なところが多いかもしれなくても、カンとなると後天性が強くなると思っている。今のイタリアを見ていて心が痛むのは,この国の若者たちの失業率の高さである。

 彼らは、カンを磨く機会を得られないまま衰えていく。若年層に現場体験を積ませる効用は、サッカーにかぎったはなしではないのだ。これまでの私は、女性の登用を三割に上げるべきとする説は反対だった。

 逆差別になりかねない、と思っていたからだ。だが今では、これも有りだと思うようになった。制度化することによって女が三割は占めるようになると、各人の能力の有る無しがモロに出てくるからである。

 女だからできないなのではなくて、できる女とできない女の別しかないということもはっきりしてくる。その結果ガラスの天井などという、自らの無能を社会の責任に転化する言葉も消えてゆくだろう。

 この三割強制的登用システムは、女性だけでなく、四十五歳以下の若者にも広げるべきである。内閣も大臣の三割は女で別の三割は若者で、残りは従来どおりにベテラン世代で構成するとかして。

 一億総活躍は大変にけっこうなアイデアだが、一億というからには、女も若者も加わってのことでしょう。かけ声だけで終わらせないためには、政策は具体的でなければならない。

 となると、経験のない女や若者が失敗したらどうするのか、と言うかもしれない。なにしろ頭数をそろえるのが経験の多少よりも優先するのだから、失敗する人も出てくるだろう

 それによる実害を最小限に留めることこそが、年長世代の役割である。サッカーに例えれば、間違った方角にパスしてしまったボールを、時を置かずにベテランがフォローすることで失点にならないで済んだ、というケース。

 そして、この方式をつづけるうちに人材も淘汰されてくるだろうし、登用された女も若者も、自然に経験を積んでくるだろう。こうなって始めて、一億総活躍も現実になるのである。

 ただし、次の二つは忘れないでもらいたい。第一は、全員のためを考えていては一人のためにもならないという、人間性の真実。

 第二は、全員平等という立派な理念を守りたい一心こそがかえって、民主政の危機という名で、民主政からポピュリズムに堕す主因になっているという歴史の真実である。 』 (第175回)


ブックハンター「ウイルスは生きている」

2018-10-29 19:43:55 | 独学

 175. ウイルスは生きている  (中屋敷均著 2016年3月)

 本書を読むと、生命とは何か、進化とは何か、代謝とは何か、遺伝子とは何か、ウイルスとは何かを再構築する必要に迫られます。

 有機化合物の遼かな道(マイルドストーン)(五十嵐玲二談)で、糖化合物(多糖類)、脂肪酸、アミノ酸、タンパク質、酵素、ホルモン、DNA,RNA,葉緑体、ミトコンドリア、細胞、生命体へと続く道である。

 と書きましたが、DNAの前にウイルスがくるような気がします。ウイルスと遺伝子(DNA,RNA)との関係は非常に深いように思われます。

 地球の生態系に於いて、最も重要なものは、水(H₂O)です。次に重要なのは、タンパク質と多糖類です。タンパク質は22種類のアミノ酸から構成され、炭素(C)骨格に水素(-H)とアミノ基(-NH₂)とカルボキシル基(-COOH)で構成されます。

 多糖類は、デンプンやセルロースなどで、デンプンはD-グルコース(ブドウ糖)(C₆H₁₂O₆)が縮合されて出来たものです。従って有機化合物の主要な元素は、C,H,O,Nです。

 私たちは、ウイルスが代謝をしていないため、生物ではないと言われてきました。さらに病原菌の面だけで、多くの生物と共生している面は、知られていませんでした。

 ウイルスと樹木の花粉が、どことなく似てるように感じます。私の考えでは、ウイルスは、酵素やホルモンやDNAやクロロホルムのような生命体に限りなく近くにありますが、生命体ではないと思います。

 その理由は、どこかで線を引かなくてはならないから、そして主体ではなく、エネルギーを依存しているからです。本書は、講談社現代新書の740円の本ですが、難解な部分もありますが、名著です。前置きが長くなりましたが、では読んでいきましょう。


 『 アイオワ州立大学で免疫学を学んでいたストックホルム生まれのヨハン・フルティンは、博士論文で「スペイン風邪」を起こしたインフルエンザウイルスを同定し、それに対するワクチンを作るという、壮大なテーマに取り組んでいた。

 彼のアイディアは「スペイン風邪」で亡くなった人の亡骸(なきがら)からウイルスを分離して、それを利用してワクチンを作成するというものであったが、目をつけたのがアラスカの永久凍土に埋葬されている犠牲者であった。

 永久凍土が天然の冷蔵庫のようにウイルスを保存している可能性があると考えたのだ。1918年、アイオワ州立大学の研究チームの一員として彼は初めてブレビック・ミッションを訪れた。

 村の議会を通して村人たちの了解を得て、彼は1918年のパンデミックで亡くなった犠牲者の墓を掘り起こし、遺体から良好なサンプルを採取することに成功した。

 しかし残念なことに、いくら探してもそこには感染性を持った「生きた」ウイルスは見つからなかった。1951年当時の技術では感染性のあるウイルスが得られなければ、それ以上、研究を進展させることは難しく、彼の博士論文研究もとん挫した。

 そして失意の中、彼は研究を離れ、その後、医者として暮らしていくことになる。それから46年後の1997年、勤めていたサンフランシスコの病院をすでに退職していたフルティンは、「サイエンス」誌に掲載された米国陸軍病理研究所のジェフリー・トーンバーガーの論文を目にする。

 トーベンバーガーは、わずかな材料から遺伝子を増幅させるPCR法という技術を用いて「スペイン風邪」の原因となったインフルエンザウイルスの遺伝子の解析を行っていた。

 しかし、彼らは樹脂包埋されたサンプルを用いていたため、ウイルスの保存状態が悪くサンプル量も少量で、断片的な遺伝子情報しか得られていなかった。

 その論文を読んだフルティンは、46年前の自分の体験が役に立つのではないかと思い、すぐにトーベンバーカーに手紙を書いた。

 そこには過去に失敗した課題にもう一度挑戦したいこと、採取は自費でやつもりであること、検体が採取できたら米軍病理学研究所に寄贈すること等が述べられていた。

 トーベンバーカーから大変興味があるとの返事を受け取ると、一週間後にはフルティンはアラスカに旅立っていた。1997年8月、二度目のブレビック・ミッションへの訪問であった。

 初めて訪れた1951年当時26歳だったフルティンは、すでに72歳になっていた。46年前と同じように村議会の許可を得た後、村人たちの力を借りて掘削作業を開始した。

 4日間の掘削作業の後、彼はついに状態の良い30歳前後のルーシーと名付けられた女性の遺体を発見する。

 その肺から得られた検体を、複数の日に分けてUPS(米国の小口貨物会社)とフェデックス(国際航空貨物会社)と郵便とでトーベンバーカーに送ったという。万が一にもサンプルが失われないようにするためだった。

 その後、フルティンは遺体や墓を元通りに戻し、世話になったプレビッグ・ミッションの人々に謝礼を払い、厚くお礼を言とともに、新しい二つの十字架を作ってその共同墓地に立てた。

 すでに退職して研究から離れていた72歳のフルティンが、少額とは言えない私財を投じてアラスカの辺境の村まで飛び、墓堀りをする。

 8月とはいえ、北極圏のような地でカチコチに凍った永久凍土を融かしながら掘削する作業は、高齢のフルティンには大変な苦労があったろう。彼はその作業の期間、夜はブレビック・ミッションの学校の床にエアマットを敷いて寝ていたという。

 この止まないフルティンの情熱が、永久凍土の中に1918年から80年間ずっと眠っていた「スペイン風邪」の原因ウイルスを呼び覚まし真の姿に光を当てることになった。

 トーベンバーカーの元に届けられたルーシーの肺組織検体の状態は素晴らしく、約3週間後、その検体から1918年インフルエンザウイルスに由来する遺伝子情報が得られたことがフルティンに電話で伝えられた。

 そしてトーベンバーカーらは、その後、1918年のパンデミック(感染爆発)を引き起こしたインフルエンザウイルスの持っていた遺伝子情報の全容を解明していくことになる。

 1998年9月、フルティンは三度ブレビック・ミッションを訪れている。彼は用意した二枚の真鍮製の銘板には以下のような文言が書かれていた。

 「 下記七十二名のイヌピアト族がこの共同墓地に埋葬されている。この村人たちをあがめ、記憶することを乞う。彼らは、1918年十一月十五~二十日のわずか五日間に、インフルエンザ大流行によって生命を落とした。 」

 (「四千万人の殺したインフルエンザ—スペイン風邪の正体を追って」ピート・デイヴィス著 高橋健次訳) 』


 『 ブレビック・ミッションで得られたウイルスの遺伝子解析から明らかとなったのは、これがH1N1型というA型インフルエンザウイルスに分類されるということだった。

 現在知られているヒトに感染するA型インフルエンザには、H1N1型、H2N2型、H3N2型、H5N1型などがあるが、興味深いことに、その後の多くの遺伝子解析からヒトに感染するH1N1型のウイルスはすべて1918年のウイルスに由来することが示唆されている。

 これは何を意味するのだろうか? もし、「スペイン風邪」の発生前にH1N1型のインフルエンザがヒトの病原ウイルスとして存在していたのなら、その子孫ウイルスが、たとえ少数であっても現在どこかで見つかって良いはずである。

 それが見つからないとすれば、H1N1型のインフルエンザウイルスは「スペイン風邪」の発生の際に、初めてヒトに感染したという仮定も不自然ではない。

 実際トーベンバーカーらはブレビック・ミッションで得られた遺伝子解析から、この1918年の「スペイン風邪」が、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであったと結論づけた。

 H1N1型のインフルエンザウイルスは鳥に感染するインフルエンザウイルスに多く、そこからヒトに感染するようにウイルスが変異を生じたと考えたのだ。

 もしそうなら「スペイン風邪」が発生した当時の人々にとって、このH1N1型のウイルスは今までにない「新しい敵」であった可能性がある。

 近年、東京大学の河岡義裕らの研究により、「スペイン風邪」が異常に高い死亡率を示したのは、原因ウイルスが極度に強い自然免疫性を誘発する性質を持っていたことが理由であると明らかにされたが、あれほど広く大流行したのは、それがその当時の人類にとっての「新しい敵」であったことも一因であったろう。

 このようにウイルスが変異して新しい宿主への病原性を獲得することは、ホストジャンプと呼ばれている現象で、自然界で決して珍しいことではない。

 特に人類は生物進化の歴史でほぼ最後尾に登場しており、ヒトに感染するウイルスというのはその多くが他の動物からのホストジャンプによって病原体となったと考えられる。

 このホストジャンプは時に深刻な新興感染症を引き起こすが、最近、注目を集めた例を挙げれば、エボラ出血熱がある。その病原菌であるエボラウイルスはヒトに感染した場合には、致死率50~80%にも上るという恐怖の殺人ウイルスであるが、興味深い事に、天然の宿主であるコウモリの中では、特に目立った病気を起こさない。不思議な話である。 』


 『 そして、人類を恐怖のどん底に突き落としたあの「スペイン風邪」の毒性も、実はパンデミックの発生から数年で大きく低下したことが報告されている。

 現在ヒトに感染するH1N1型のインフルエンザは、前述したように当時の子孫ウイルスであるが、今はその型のインフルエンザが流行することがあっても、スペイン風邪のような悲劇は起こらない。

 もちろん免疫によるヒトの耐性が増加したという側面があることは否定できないが、ウイルスそれ自体の致死性も大幅に低下している。

 似たような現象は、ウサギ粘液腫ウイルスでも、インフルエンザウイルスでも、恐らくコウモリにおけるエボラウイルスでも、起きている。一体、何のために?

 その謎の答えは、ウイルスという病原体の性質にあると考えられている。ウイルスは生きた宿主の細胞の中でしか増殖できないため、宿主がいなくなれば、自分も存在できなくなる。

 理屈の上ではウイルスにとって宿主を殺してしまうメリットは極めて乏しく、積極的に宿主を殺すような「モンスター」は、いずれ自分の首を絞めることになるのだ。

 ホストジャンプを起こしたウイルスが、その初期に新しい宿主を殺してしまうのは、その宿主上でどのように振舞ったら良いのか分からない「憂えるモンスター」が自らの力を制御できず、暴れているに過ぎないという見方も出来ない訳ではない。

 もちろんそのようなウイルスを擬人化した見方は科学的には適切ではなく、実際には弱毒化により感染した宿主が行動する時間が長くなれば、新たな感染の機会がより増える、というウイルス側の適応進化が起こったと解釈されるべき現象だろう。

 また、ウイルスの毒性が低下するということが、長い目で見た場合には一般的であったとしても、短期的には強毒型へとウイルスが変異する例も多く知られており、それを理由にウイルスの脅威を軽く見ることも適切なことではない。

 ただ、我々が「ウイルス」と聞いた時に頭に浮かぶ、「災厄を招くもの」というイメージは、決してウイルスのすべてを表現したものではない。

 生命の歴史の中で、様々な宿主とのやり取りを続けてきたウイルスたちは「災厄を招くもの」という表現からはかけ離れた働きをしているものが実は少なくない。

 例えば、私の血液(B型)を妻(O型)に輸血すれば、私の赤血球はすぐさま激しい攻撃に晒される、しかし、半分は私の遺伝子を持っているお腹の中の子供は、たとえ血液型がB型であっても、攻撃の対象とはならず、すくすくと育っていく。

 そんな不思議なことを可能にしているのが、胎盤という組織なのである。この胎盤の不思議さの肝となるのが、胎盤の絨毛を取り囲むように存在する「合胞体性栄養膜」という特殊な膜構造である。

 今から15年ほど前、この「合胞体性栄養膜」の形成に非常に重要な役割を果たすシンシチンというたんぱく質が、ヒトのゲノムに潜むウイルスが持つ遺伝子に由来すると発表されたのだ。

 胎児を母体の中で育てるという戦略は、哺乳動物の繁栄を導いた進化上の鍵となる重要な変化であったが、それに深く関与するタンパク質が、何とウイルスに由来するものだったというのだ。

 すでに宿主と「一体化」しているウイルスの何と多いことか、我々はそのことを日頃、意識していない。 』


 『 ベイエリンクが活躍した19世紀後半から20世紀初頭は、近代的な微生物学が大きく花開いた時代であった。意外に思われるかも知れないが、それより以前、つまり今からわずか150年ほど前までは、病気がなぜ起こるかということが、きちんと解明されてませんでした。

 その状態に終止符を打ったのは、近代細菌学の父とも言われるロベルト・コッホである。1876年の彼はヒトの炭疽病の原因が細菌であることを初めて証明し、その後、結核菌(1882年)、コレラ菌(1883年)などの単離に次々と成功していく。

 これら一連の業績で、彼は揺るぎない名声を築き、1905年にはノーベル生理学・医学賞を受賞することになる。

 そのコッホが提唱した「感染症は病原性微生物(細菌)によって起きる」という考え方は、当時の最新の知見であり、医学、微生物学に従事した研究者の常識を支配していくことになる。

 実際、感染症の原因が細菌と特定できたことは医学の発展にも大きく寄与し、その原因となる細菌を取り除くための煮沸消毒・オートクレーブ(高圧蒸気減菌器のこと)などが確立されていくのもこの時期でる。

 そういった消毒法の一環として、当時シャンベラン濾過器と呼ばれる、陶器(素焼き)を濾過フィルターとして用いた装置が使われていた。

 素焼きには無数の細孔が開かれており液体は通り抜けるが、その細孔のサイズは平均0.2μmほどであるため、感染症の原因となる通常の細菌は細孔に捕獲され通り抜けることができない。

 従って、この濾過装置を用いることで、溶液中の病原性細菌を取り除くことができたのである。ウイルスの発見はこのシャンベラン濾過器の存在に端を発している。

 すなわちこのシャンベラン濾過器を通り抜けてくる「濾過性病原体」としてウイルスは発見されることになる。「濾過性病原体」の報告は1890年代に3グループが独立して行っている。

 1892年にTMV(タバコモザイクウイルスを用いて「濾過性病原体」を初めて記述したロシアのデェミトリー・イワノフスキー1898年にウシ口蹄疫病ウイルスを用いて同様の報告をしたドイツのフリードリヒ・レフスキーとポール・フロッシュ、そして同年にTMVを用いて実験を行ったベイエリンクの報告の三つである。

 ウイルスの発見者が誰だったかという点では今も議論があり、少し丁寧な解説書ではこの三つの業績が併記されることが多い。彼らはいずれも常識的な細菌より明らかにサイズの小さい病原体が存在することを報告した。

 その意味での違いはないが、問題はその実験結果の解釈である。イワノフスキーは、「濾過性病原体」の正体を、これまで知られている細菌よりサイズの小さい細菌か、細菌から分泌された毒素であると考えていた。

 彼の論文には濾過器の不良を疑う記述があり、「濾過性病原体」の正体はその不良ににより漏れてきた細菌と考えていたことが窺われる。さらに後年にはその「濾過性病原体」が人工培地で培養可能であったとも述べている。

 これらは彼が自分で見つけた「濾過性病原体」をあくまで培地で培養できる細菌の一種だと信じていたことを示している。

 ウシ口蹄疫病ウイルスを扱ったレフラーとフロッシュの論文では、より入念に「濾過性病原体」が解析された。その結果、通常の培地では培養できないことや毒素ではないこと。

 シャンベラン濾過器は通過するが、それより目の細かい北里フィルター(北里柴三郎が考案した物)では通過率が低下することから、微粒子性(corpuscular)であるといったことが報告されている。

 よりウイルスの姿に近づいた観察結果と言って良いと思う。しかし、彼らもまたその「濾過性病原体」を minurest organism (最小の生物)と表現し、細菌とはまったく違う新しいタイプの病原体という結論には至っていない。

 レフラーはコッホに師事した彼の愛弟子であり、偉大な師の提唱した「感染症は病原性微生物によって起きる」というドグマから完全に自由になることは、やはり難しかったのだろう。

 一方、ベイリンクは突き抜けていた。彼はその「濾過性病原体」の正体を contagium vivum fluidum (生命を持った感染性の液体)と記述し、微生物ではなく可溶性の「生きた」分子であると主張した。

 その記述は、時代を覆った常識や権威の雲を完全に突き抜けていた。しかし「生命を持った感染性の液体」とは何かという表現であろうか、彼はタバコモザイク病の原因となる病原体が、通常の細菌でないことを確信していた。

 「液体」とした彼の表現が、現在の科学的知見からしてどれほど正確かという問題はあるが、この常識の枠にとらわれない「踏み込みの深さ」がベイエリンクの真骨頂である。

 もちろんこの突飛にも思える新説を、彼は何の根拠もなく単なる想像で言い出したわけではない。ベイエリンクは、レフラーらが行った「濾過性病原体」が培地では培養できないという実験を、好気性・嫌気性条件の両方で行い、より綿密で確実な結論を得た。

 さらに細菌が動くことができない寒天の中でも、その病原体は広がり移動する「液体状」のものであることを示し、その存在を「ウイルス」と呼んだ。

 また、彼の観察結果の中で重要なことの一つは、この病原体が分裂や成長をしている細胞分裂の活発な若い植物組織では増殖するが、古い組織や感染植物の濾液中では、増殖しないことを見出していた点である。

 彼の発見したウイルスが、「普通の生物」とは大きく違った存在であることが一般に受け入れられて行くのには、さらに40年の時を要したのだった。 』


 『 「感染症は病原性細菌によって起きる」という状態に終止符を打ったのは、従来の微生物学者ではない新しい勢力だった。その新勢力とは、1930年前後にこの分野へと流入してくる生化学者たちだ。

 彼らは観察や培養などの伝統的な生物学における手法を用いる微生物学者とは違い、物質から生物にアプローチするという手法を採った。キーワードは、タンパク質である。

 生命現象におけるタンパク質の重要性が認識されるようになったのは、それより約100年まえの1833年にフランスのアンセルム・ペイアンとジーン・フランソワ・ペルソが生化学的な反応を促進する能力を持つ「酵素」を発見したことに端を発している。

 彼らは麦芽の抽出液中にデンプンの分解を促進する何らかの因子、すなわちジアスターゼ(アミラーゼ)という酵素活性、があることを発見したのだ。

 しかし、その酵素と呼ばれた因子の正体は長年の謎であり、加熱すると失活するという生物(生命)と似た性質を持っていたため、それが何かの物質によって起こるのか、何か目に見えない生命に由来する生気のようなものの作用なのか、両方の説が存在した。

 この問題は1926年にジェームズ・サムナーにより、酵素の正体がタンパク質であることが示され決着がつくのだが、その際のサムナーの用いたロジックは、タンパク質(ウレアーゼ)を結晶化させ、つまり他の物質の混入を排除して単一の物質として高度に純化した上で、そこに高い酵素活性があることを示すというものであった。

 サムナーの業績のインパクトは、これまでの生命活動に固有のものと思われていた生体物質の分解や合成といったことが、ただの物質に過ぎないタンパク質で行えることを示したという点であった。

 逆に言えば、タンパク質にはそういった生命活動の根幹となるような機能を担う性質があることが示されたことになる。そしてこれを機に、時代の注目は一気にタンパク質へと動いていく。

 このサムナーと同じロジックを用いて「濾過性病原体」の正体を突き止めようとしたのが、生化学者のウェンデル・スタンリーであった。当時彼はロックフェラー研究所にいたが、その同僚がタンパク質結晶化のスペシャリストであるジョン・ハワード・ノースロップだった。

 ノースロップは胃の消化酵素ペプシンの単離、結晶化に成功し、後にスタンリーと同時にノーベル化学賞を受賞することになるのだが、その彼の技術を身近で学ぶことのできたスタンリーは、大量調製が比較的容易なTMVを用いて結晶化に取り組み、そしてそれを成功させた。

 彼が得たTMVの結晶は10億倍に薄めても、なお感染性を示すという純度の高いものであった。

 植物の中で増殖し次々と植物に病気を起こしてゆくという「生命活動」としか思えないことを行なうTMVが鉱物やタンパク質のように結晶化する単純な物質であったという発見は、衝撃的なものであり、ウイルス学における偉大なマイルドストーンとなっている。

 この発見は、それまで自明のものと考えられていた生命と物質の境界を曖昧にしたことである。成長する、増殖する、進化するなどの属性は生物に特有なもので、生物と物質とは明確に区別できるという常識が大きく揺らいだ。

 ウイルスは純化するとただのタンパク質と核酸という分子になってしまう。しかし一方、生きた宿主の細胞に入るとあたかも生命体のように増殖し、進化する存在となる。今から約80年前にスタンリーらの発見によって投げかけられたこの問いが、本書の底流となるとテーマでもある。 』 (第174回)

 


ブックハンター「チェロと宮沢賢治」

2018-10-06 10:14:04 | 独学

 174. チェロと宮沢賢治  (横田庄一郎著 1998年7月)

 私が本書を読んだのは、「バッハとカザルスと賢治と私」という大それた文章を書くためでした。この文章の中心に据えられるのは、「バッハの無伴奏チェロ組曲」のはずでした。

 私は賢治が、「無伴奏チェロ組曲」を聞いていたかを調べるために本書を読み始めました。私は宮沢賢治が「チェロ弾きのゴーシェ」を書き、自身でもチェロを弾いていたことは、知っていました。

 無伴奏チェロ組曲は、バッハがケーテン時代の1720年ころ書かれてとされています。(カザルスによって広められるまで長い眠りについていた)

 一方カザルスは、1876年にカタルーニアのエル・ベンドレルに教会のオルガニストの子として生まれました。子供のころからピアノとオルガンを弾き、11歳ころチェロを弾き始めた。

 1890年カザルス13歳の時、父親とバルセロナで、楽譜を探しているとき、ほこりだらけの楽譜の山から「バッハの無伴奏チェロ組曲」を発見した。

 カザルスはその楽譜を家にもちかえり、組曲を通して弾いてみて、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感した。カザルスは12年間練習した後、ようやく公衆の前で披露し、この作品の独創性を広めた。(作曲されて、182年の歳月が流れていた)

 そして、レコーデングは1936~39年にかけて行われ、カザルスが63歳の時、レコードによって日本でも聴けるようになった。

 宮沢賢治は、1896年8月に岩手県花巻に生まれ、1933年9月(37歳)で亡くなっている。(生前賢治は、童話作家としても無名で、死後谷川徹三によって認められるようになった)

 従って、私のもくろみは、見事に外れ賢治は、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていないと考えられる。残念でしたが、賢治と私に三つの共通点があります。

 (1) 三十歳を過ぎてから独学でチェロを学ぼうとした。 (2) 持っていたチェロが、名古屋の鈴木ヴィオリン製のチェロである。 (3) 共に「チェロ弾きのゴーシェ」のように、美しい調べを奏でることは、なかった。

 余談が過ぎました。では「チェロと宮沢賢治」を読んでいきましょう。


 『 賢治のチェロの中に自筆の署名があるということは知られていた。しかも、そこには購入年とイニシャルが製造元のラベルの上に書いてあり、食い違うことの多い証言とはちがって、このうえない重要なデータなのである。(どこで買ったかは、不明)

 しかし、それは人の話だけであって、写真もなかった。宮沢賢治記念館にも問い合わせたが、やはり写真は撮っていなかった。たしかに狭いf字孔から筆を入れて書いてあるのだから、それを肉眼で見るのも大変だ。

 それでも私は自分の目で確かめてみたいという気持ちには変わりなかった。他人の話を聞くのと、実際に自分の目で見るのとはやはりちがう。

 もしかしてガラスのケースから出してくれれば、この目で見ることができ、写真も撮れるかもしれない。宮沢雄造館長に打診してみた。しかし、いままでは館外に出したことはあったが、これからは門外不出だという。

 途方に暮れてガラスの外からチェロを眺めていた。この箱の中には署名があるのに見ることができない。なんとも残念でf字孔を凝視して少し角度を変えたとき、光がこのラベルの上を通ってブルーの署名が見えたのである。

 はっ、と息をのんだ。それは傾いた午後の陽光の反射だったかもしれない。もう一度、角度を確かめてみると、やっぱり見える。取材にもドラマがあるのだ。

 記念館から懐中電灯を借りて光を補うと、さらにはっきり見える。これも賢治との出会いなのだろう。微妙に角度をずらしてゆくと、ラベルの全部を読み取ることができた。

 MANUFACTURED  BY      MASAKICHI  SUZUKI      NAGOYA  JAPAN    No.6

 このラベル(実際には3段に)の上に 「1926.K.M.」と、賢治のサインを入れたのである。チェロは胴にも厚みがあり、筆をf字孔から入れて書くのはかなり難しい。

 字のかすれや太さからすると、筆に何かを継ぎ足して書いたというよりも、賢治は水彩画を描いていたので柄が細くて長い絵筆を使ったように見える。

 さて、この目でたしかに捉えたものを、どう撮影するか。カメラマンの須永孝栄さんに相談した。紙にf字孔をハサミで切って、この細長い穴に懐中電灯を当てるだけです。 』


 『 賢治はチェロを勉強するために上京を決意する。1926年12月2日、みぞれが降る中を教え子沢里武治が、羅須地人協会から賢治のチェロをかついで花巻駅まで持って行った。

 賢治は、見送りの沢里に「しばらくセロを持って上京してくる。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強してくれ」と語った。

 駅の構内の寒いベンチに二人は腰掛けて、汽車を待った。賢治は「風邪をひくといけないから、もう帰ってください。おれは一人でいいんです」と愛弟子を再三帰そうとしたが、沢里は沢里でこんな寒い夜に先生を見捨てて先に帰ることはできることではないと思い、また二人で音楽の話をするのは大変楽しいことでもあったので、いっしょに時間まで待った。

 改札が始まると、沢里もホームに入って見送った。賢治は窓から顔を少し出して、「ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい」とねぎらい、沢里にしっかり勉強しろと何回もいったという。

 「今度はおれは真剣だ」「少なくとも三ヵ月は滞京する」「やらねばならない」と意気込んで上京した賢治のチェロの先生は、当時、結成されたばかりの新交響楽団(現NHK交響楽団)のトロンボーン奏者でチェロもたしなんだ大津三郎だった。

 新交響楽団は十月十五日に結成式をし、年が明けた一月十六日から第一回予約演奏会を開催する運びになっていた。

 しかし、十二月二十五日に大正天皇が崩御したことで、結局予約演奏会を一か月延期することになったが、翌一九二七年六月に荏原に練習場が完成するまで、数寄屋橋の近くにあった塚本商行に事務所を置き、その建物の二階を使って練習していたのである。

 賢治はここにオルガンを習いに行った。父親政次郎あて十二月十二日付けの手紙に次のように書いている。

 「 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎日少しづつ練習しておりました。今度こっちへ来て先生を見付けて悪い処を直して貰うつもりだったのです。

 新交響楽協会へ私はそれらのことを習いに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうとう弾きました。先生は全部それでいいといってひどくほめてくれました。」

 賢治がオルガンを習いに行っていた塚本商会はクラシック音楽、舞踊界のマネージメントをする一方、ピアノ、オルガンなどの楽器を販売し、社長の塚本嘉次郎が個人的に依頼した教師によってレッスンもしていた。

 このとき賢治を教えたのは誰かわかっていないが、このような塚本商行で、賢治と新交響楽団の接触があったと考えてもおかしくない。

 だが、そうであっても、父親の手紙には一言も触れていないチェロのレッスンは、新交響楽団のメンバーがいきなりやって来た青年に時間をさいてくれるほど、簡単なものではなかったろう。

 ともかくも大津三郎は引き受けてくれたのである。このときから四半世紀もたった戦後の一九五二年(昭和二十七年)、雑誌「音楽之友」一月号に大津散浪というペンネームで「私の生徒 宮沢賢治 三日間セロを教えた話」という手記を発表している。

 少し長くなるが、それ自体がおもしろく、後々関連する記述があるので、ここで全文掲げてみたい。

 「 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅いころだったが、私の記憶ははっきりしない。数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリー(芸術学校!)を経営していた。

 近衛さんを中心に新交響楽団を結成した私達が練習場の困って居たのを塚本氏の好意で、そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。

 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて。「三日間でセロの手ほどきをしてもらいたいという人が来ているが、どの先生もとてもできない相談だと云って、とりあってくれない。

 岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。なんとか三日間だけみてあげてくださいよ。」と口説かれた。

 当時私は新響でバストロムボーンを担当して、図書係を兼務した上、トロムボーンの休みの曲にはセロの末席に出るという多忙さで、住居と云えば、荏原郡調布村字嶺(現大田区千鳥町)と云って、当時は大層不便な所だったので一層条件が悪かった。

 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説き落とされて私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、塚本氏が「やっと承知して貰いました大津先生です」と云うと「宮沢と申します、大層無理なことをお願い致しまして……」と柔和そうな微笑をする。

 「どうも見当もつかないことですがね、やって見ましょう」微苦笑で答えて、扨(さて)、二人の相談で出来上がったレッスンの予定は、毎朝六時半から八時半までの二時間ずつ計六時間と云う型破りであった。

 神田あたりに宿をとっていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは中仲の努力だったようだが、三日共遅刻せずにやって来た。八時半に練習を終わって私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。

 第一日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日目にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。

 ずい分と乱暴な教え方だが、三日と限っての授業では外に良い思案も出なかった。三日目には、それでも三十分早くやめてたった三日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。

 その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロの方がよいように思いますので……」とのことだった。

 「詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります」と私が書架からとり出したのは、大正五、六年の「海軍」と云う画報の合本で、それには軍楽隊員時代の拙作が毎月一篇ずつ載っていたのである。

 今日の名声を持った宮沢賢治だったら、いくら人見知りをしない私でも、まさか自作の詩らしいものを見せる度胸は持たなかっただろうが、私はこの時詩人としての彼を全く知らなかったのだ。

 次々に読んで行った彼は「先生の詩の先生はどなたですか」と云う「別に先生はありません泣薫や夜雨が大好きな時代もありましたが、今では尾崎喜八さんのものが大好きです」と答えると、彼は小首をかしげ乍ら、大正五年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……」と云って私に示した一篇は――古い日記——と傍見出しをつけた舊作で南大平洋上の元日をうたった次のようなものであった。

 冴えた時鐘で目がさめた—午前四時―  釣床の中で耳をすますと  舷側で濤がおどりながら

 お正月お正月とさんざめく

 士官次室から陽気な話声がきこえる  今、艦橋から降りたばかりの〇〇中尉が  除夜の鐘ならぬ正午の鐘をうって

 艦内一の果報者と羨まれて居る (絶世の美人を女房にもてるげな) (中略)

 風涼しい上甲板の天幕の下で  天皇陛下の万歳を三唱し  大きな茶碗で乾杯したあとは

 金盥にもられたぶつかき氷が一等の御馳走だ  南緯三十三度のお正月はとにかく勝手が違う

 ——明日は Newzealand の島山が見える筈ー—

 といったもので、全くマドロスの手すさびにすぎないものだが、篇中の——と( )を指して、大正五、六年にはまだ使われて居なかったように思う、と云うのであった。

 当時、私の家は両隣に二、三町もある一軒家で割合に広い庭には一本のえにしだと何か二、三本植わていたのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。

 そして、えにしだの花は黄色ばかりだと思っていた私は、紅色の花もあることをその時彼から教わったのだ。

 ウェルナー教則本の第一と信時先生編のチェロ名曲集一巻を進呈して別れたのだったが数日して彼から届いた小包には、「注文の多い料理店」と渋い装禎の「春と修羅」第一集が入って居て、扉には 

 献大津三郎先生  宮沢賢治  と、大きな几帳面な字で記してあった。

 春と修羅を読んで行くうちに、私の生徒が誠に尊敬すべき詩才の持主であることを感ぜずには居られなかった。妹さんの臨終を書いた「永訣の朝」などは泪なしには読めず(あめゆじとてちてけんじゃ)という方言がいつまでも脳裏を離れない。 』


 『 「宮沢賢治の素顔」を書いた板谷栄紀さんは、遠野の料理店「一力」で沢里と酒杯を酌み交わす機会があった。そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。

 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンと伸ばして、「それは、なかなかのものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。

 二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてどうでしたか、と問いかけたのに対しは、「いや、それは無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里は声をひそめて打明けた。

 「実のところをいうと、ドレミファもあぶないというのが……」。ドレミファもあぶない——この話は、「セロ弾きのゴーシュ」で、金星音楽団が今度の町の音楽会に出す第六交響曲を練習していて、ゴーシュが楽長からしぼられるくだりを思いさせるではないか、少し原作を引用してみよう。

 「 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがな。」 みんなは気の毒さうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込んだりじぶんの楽器をはじいて見たりしてゐます。

 ゴーシェはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずゐぶん悪いのでした。練習が終わって、ドレミファのほかにもいろいろいわれたゴーシェは粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方を向いて、口をまげてぼろぼろ涙をこぼしました。

 それから二日目の晩に、そのゴーシェの町はずれの川ばたにある壊れた水車小屋の家に、くゎくこうが、「音楽を教わりたいのです」とやって来る。

 「音楽だと。おまえの歌は かくこう、かくこうというだけじゃあないか」と、少しやりとりがあって「何もおれの処へ来なくてもいいではないか」とゴーシェがいう。

 すると、くゎくこうは「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです」というではないか。「ドレミファもくそもあるか」とゴーシェはいったものの、結局は根負けする。

 「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」「うるさいなあ。そら三ぺんだけ弾いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」

 ゴーシェはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとくゎくこうはあわてて羽をばたばたしました。「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです。」

 ゴーシェは散々だ。楽長から「きみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ」といわれ、くゎくこうから「ちがいます。ちがいます。そんなんでないんです」と三度も繰り返して否定される。

 くゎくこうとゴーシェは、どちらが生徒か先生か。ゴーシェは手が痛くなるまで弾いて、「こら、いいかげんにしないか」といってやめる。

 しかし、くゎくこうは「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいやうだけれどもすこしちがふんです」と粘る。で、ゴーシェはもう一度だけ弾いてみせる。くゎくこうはまるで本気になって実に一生懸命叫ぶ。

 そのうちゴーシェは、はじめはむしゃくしゃしていたが、いつまでも続けて弾いているうちに、ふっと何だか鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかな、という気がしてくる。弾けば弾くほど、くゎくこうの方がいいような気がするのだった。

 最後はいきなりぴったりとやめつと、くゎくこうは恨めしそうにゴーシェを見て「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」という。

 もう一ぺんの願いにゴーシェはどんと床を踏み、「このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまふぞ」と追い出しにかかる。くゎくこうは硝子にぶつかり、くちばしの付け根から血を出してしまう。 』


 『 賢治が教壇に立った当時の花巻農学校の跡地は、現在、銀どろ公園になっており、花巻市文化会館が建っている。近くには賢治が眠る身照寺がある。

 生誕百年の十月十六日、この文化会館で米国の名チェロ奏者のヨーヨー・マがファミリーコンサートを開いた。ヨーヨー・マは英訳された何冊かの宮沢賢治を読んでいたという。

 プログラムはシューベルトのピアノ五重奏「ます」より、宮沢賢治生誕百年記念作品である「やまなし」、サン=サーンスの「白鳥」、エルガー「愛のあいさつ」、バッハのブランデンブルグ協奏曲第五番第三楽章といった内容で、語りや道化が舞台に登場する演出効果に富んだステージだった。

 アンコールにこたえ、舞台に登場したヨーヨー・マが持っていたのは賢治のチェロだった。この日、賢治記念館から貸し出されたもので、事前にヨーヨー・マは念入りにチェロを点検していた。

 「セロ弾きのゴーシェ」に出てくる「トロイメライ」が鳴りだした。約八百人の聴衆は驚き、胸を熱くし、聴きほれ、ため息をついた。涙を流す人もいた。

 聴衆の中には実弟清六さんの姿があった。「どうしても聴きたくて」と、わざわざ花巻まで聴きに来たチェリストの藤原真理さんもいた。ある女性は「賢治さんのチェロが、あんなにきれいな音を出すとは。

 いままでにも賢治さんのチェロを聴いたことはあったのですが、ヨーヨー・マが弾くと……」と、この時の感激を話す。賢治がチェロを弾くとき、心の中では、きっとこのように鳴っていたのだろう。

 そして、この花巻農学校跡の市民会館でヨーヨー・マが自分のチェロを弾いているとき、賢治はどこかで聞いていて、あの象のような目を細めて「ホーホー」といい、「こんなことは実に稀です」といったにちがいない。 』


 『 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」 「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ。」

 「今の前の小節から。はいっ。」 「ではすぐ今の次。はいっ。」 こんな調子で楽員に指示を飛ばし、いきなり足をどんと踏んで、「だめだ。まるでなってゐない。

 このへんは曲の心の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏まであと十日しかないんだよ」と怒鳴りだす楽長である。

 たっぷりしぼられたゴーシュは壁の方へ向いて口を曲げて涙をぼろぼろ流すのだが、こんな楽長の姿は徹底的に練習に打ち込む斉藤秀雄の練習風景を見事に活写しているのだという。

 近衛秀麿の指揮ぶりとは大分ちがうようだ。「そこ、ヴィオラもうちょっとお弾きくださいまし」「フリュートはもっとお吹きになってもいいんじゃないですか」といった調子が近衛流だそうだ。

 これではオルガンの練習のときに賢治が見ていて、あの金星音楽団の楽長のようには書けないだろう。この楽長の印象の強烈さといったら、ゴーシュが自分の水車小屋にやって来た動物たちに対し、楽長と同じ態度をとるほどである。

 楽長にどんと足を踏み鳴らされたゴーシュが、三毛猫やくゎくこうに対して、どんと足を踏み鳴らすのである。強烈な印象というんは伝播するものなのだろうか。

 賢治はここで、オーケストラ音楽における指揮者の存在をはっきり認識している。オーケストラにあって、ただひとり楽器をもたず、そのくせオーケストラに君臨しているのは指揮者である。

 ここに描かれている楽長の個性は公家の近衛より、強烈な斉藤秀雄こそふさわしい。ただし、斎藤がドイツ留学から帰国して、新交響楽団に入ったのは1927(昭和二年)九月だった。

 賢治がチェロを習いにいった1926年末には斉藤はいなかった。従って、斎藤の練習風景を見たのなら、賢治が伊豆大島にいった1928年六月の上京が注目される。

 そこで「嬉遊曲、鳴りやまず斉藤秀雄の生涯」を書いた中丸美絵さんは、賢治が三月上旬に上京したと仮定すると、田園交響曲の練習風景をみていたはずです。

 演奏までもうあと十日しかない、と「セロ弾きのゴーシュ」で楽長がいうのも練習日誌と一致します。 』(第173回)


ブックハンター「とことん調べる人だけが夢を実現できる」

2018-10-01 16:56:51 | 独学

 173. とことん調べる人だけが夢を実現できる (片喰正章(Katabami Masaaki)著 2016年5月)

 私が本書を紹介しますのは、本書の意図から少しはずれます。「選択の科学」シーナ・アイエンガー著 に於いて、人生は選択の集合として捉えことが、できるというようなことが書かれてまいした。

 そこで私は、選択をする前に、その問題(進むべき道)に対する選択肢をできるだけ多く考え、紙の上に書き出す。すなわち「選択肢を広げる」別の言葉で表現すると「自由度を高める」。

 「自由度を高める」ためには、その問題(進むべき道)について、どのようなアプローチ方法があるか、問題点は、それぞれの素晴らしい点と危険性を検討するために、徹底的に調査し尽くす。

 「可能な限り調べる」ことにより「選択肢を広げる」そして「選択する」

 このプロセスを常に踏むことによって、ほんの少し目標に近づきます。素人は、シンデレラのように一気に夢に近づくと考えるのは、誤りです。夢に近づいて、いるか遠のいているかは、だいぶ先に見えてくることです。

 一気に夢に近づける天才は、たまにいますが、凡人は、一歩一歩目標に近づけることを考え、一か八かの勝負をすれば、必ず破れます。

 私たちは、より確実に目標に少しでも近づけることを考え、時間をかけて樹木が成長するようにゆっくりと着実に、多くの選択を重ねて、目標に近づけるべきです。

 また、「戦略的思考とは何か」岡崎久彦著の中で、日本人に歴史的に不足しているのは、情報と戦略だとあります。

 

 では、読んでいきましょう、プロローグ(序章)から、読んでいきます。

 『 夢を実現できる人と、実現できない人の違いって、なんだろう? 才能? 努力? お金? 人脈? センス? 運? どれも大事だ。でも、いちばん大事なのは、「情報」だ。

 「情報」こそが、夢を実現できるかどうかを左右するカギになる。夢へと続く道は、まっすぐな一本道ではないからだ。夢へ近づく途中、その道は何回も分かれ道を迎える。

 間違った道を選べば遠回りになる。道によっては行き止まりだ。一度入り込んでしまうと抜けられない、泥沼にいたる道もあるかもしれない。

 どの道を行くか選ぶのに欠かせないのが、正しい情報。僕らはできる限り正しい情報を集め、それをもとに判断するしかない。

 「夢を実現した人」の代名詞とも言える、有名な経営者たち。彼らは、その価値を誰よりも知っているからこそ、情報を探し、活用してきた。

 たとえば、年商8兆円を超えるソフトバンクグループを一代で築いた、孫正義氏。彼は、アメリカに進出するさい、3100億円という大金で、IT系の展示運営会社と雑誌社を回収した。

 正しい情報を集めるために欠かせないと確信していたから。実際、そこから得た情報をもとに、まだベンチャーだったヤフーへの出資を決定。その後のヤフーの驚異的な成長は誰もが知るところだ。

 孫正義氏はこんな言葉を残している。「地図とコンパス」さえあれば、さっと宝を見つけて帰れる。この「地図とコンパス」にあたるのが、まさに情報だ。

 「情報」は、ときに人の生死を左右する。人類初の南極点到達を争ったノルウェーの探検家ロアール・アムンゼンと、イギリスの軍人ロバート・スコット。アムンゼンは、正しい情報をもとに徹底的に準備を行なった。

 その一つが寒さに強いエスキモー犬のソリ。アムンゼンの探検隊はその機動力を生かして、南極点に先に到達した。

 いっぽう、スコットは「犬は使えない」という思い込みから、馬ソリと機械式のソリをメインに出発したが、極寒の地ではどちらも早々に役に立たなくなった。

 移動手段、装備、食料などの準備で劣るスコットの部隊は、アムンゼンに遅れること34日、南極点到達するも、帰還中に遭難、全滅した。

 くり返す。「情報」大事だ。大事だからこそ、まずは「調べる習慣」をつけてほしい。自分の夢をかたちにする方法がわからないとき、「情報がない」とあきらめるんじゃなくて、まずは「調べる」。

じつは、僕自身が「調べる習慣」で人生を大きく変えた人間だ。僕は大学卒業後、お金も人脈もないまま、無謀にも起業した。会社の看板も後ろ盾もなかった。頼れるのは自分だけだった。

 誰よりも調べることで、取引先を開拓し、ビジネスに役立つ情報を集め、クライアントに提供して、大きな仕事をいただけるようになった。

 だから、情報が、夢や目標に近づくための大事な「チケット」だということは、僕がいちばん知っている。あなたは、まだ「情報」の重要性を疑っているかもしれない。けれど、そんな人にこそ本書を読んでほしい。

 夢を追う途中で、挫折しそうになることもあるかもしれない。自分の可能性を信じられないときがくるかもしれない。でも、調べよう。それも、とことん。

 「調べる習慣」を身に着け、「具体的な調べ方」を学び、とことん情報を探してみる。そうすれば、必ず、道は開ける。「情報」という武器を手にして、走り出そう。 (以上プロローグより) 』

 

 次に目次をみていきましょう。

 『 第1章 すべては「調べる習慣」から始まる

 01 「どうせ無理だよ」と言う前にまず調べよう 02 「できない理由」より「できる方法」に目を向ける 03 「わからないこと」をそのままにするのはやめよう 04 「疑り深い人」ほど夢を実現できる

 05 「調べる習慣」が効果を発揮する正しいサイクルとは? 06 「ロールモデル」を探して自分の夢を絞り込む 07 自分の「イヤなこと」をすべて吐き出してみる 08 夢を実現するための「チェックリスト」をつくれ!

 09 情報をいつ調べるのか? どのくらい時間をかけるのか? 10 集めた情報はどんな順番で見るのがベスト? 11 「複数のソース」にあたって思考のかたよりをなくす 12 「コピペ」の罠には十分気をつけろ!

 13 「誰が」「誰のために」出した情報かその「意図」を考える 14 「有料情報」の信者になるのはただの思考停止にすぎない 15 情報は「整理」よりも「検索」の時代になった

 16 再入手しやすい情報、しにくい情報の違いとは? 17 「情報」は「情報」を持つ人にさらに集まってくる 18 集めた情報は必ず「1か所」に集約する 19 単なる「情報コレクター」には絶対になるな!

 

 第2章 とことん「ウェブ」で情報を集める

 20 まずは「検索キーワード」のパターンをできる限り考える 21 最初の1ページの検索結果で満足してはいけない 22 「画像」や「動画」を「文字」とセットで検索するクセをつける 23 「まとめサイト」に期待しすぎるのは危険

 24 ウィキペディアは「本文」を読むな! 25 「アラート」を使って夢を忘れない環境をつくる 26 メルマガは夢実現の「イメトレ」ツール 27 日々のモチベーションを上げるSNSの使い方

 28 「ニュース検索」で夢の実現者のエピソードを知る 29 「一般人のブログ」でビジネスの具体的なターゲットを描く 30 「コメント欄」も貴重な「ソース」になる 31 本当に参考になる「レビュー」をどうやってみつけるか?

 32 プロ向けの「質問サイト」で専門家のアドバイスを受ける 33 「業界専門サイト」でディープな情報収集をする 34 「プレスリリース」には貴重な一次情報が眠っている

 35 「シンクタンク」のサイトで「お宝データ」を掘り当てろ! 36 本当にほしい調査結果は「ネットリサーチ」で自力で入手


 第3章 とことん「本・雑誌・新聞・テレビ」で調べる

 37 本の最後のページ「奧付」からチェックする 38 本を調べるときは「入門書→定番本→最新刊」の3冊を選ぶ 39 不得意な分野の情報「雑誌」と「図解本」から入る 40 できる限り「両極端な2冊」を読め!

 41 書店の「棚」自体がじつは情報の宝庫である 42 新聞・雑誌はあえて「広告」に注目せよ! 43 マニアックな情報は「専門誌」で丸ごと手に入れる 44 信頼性の高い「〇〇白書」を使いこなそう

 45 「専門図書館」でワクワクする情報にふれる 46 「テレビ」の情報価値をアップする視聴方法


 第4章 とことん「人」に情報を聞く

 47 「自分専用ガイド」を持てば調べれ悩みが一気に減る 48 一人に話を聞いただけで安心するな! 49 人に会う前から「情報収集」はスタートしている 50 人に聞くべき情報は「定義」「トレンド」「意見」「予測」

 51 3つのポイントでみるみる聞き上手になる 52 話しが途切れたときは自分から「仮説」をぶつけてみる 53 あえて「知っている情報」について聞き相手の情報量を見極める 54 「話を聞き終わった直後」が本当の情報収集タイム

 55 お酒の席で話を聞くときはここに注意する 56 多忙な相手に話を聞くときは「インスタントメッセンジャー」を活用 57 セミナーでは「情報」と「人のつながり」を手に入れろ! 58 「レアな人」と会える機会はなによりも優先する 』

 以上です。

 自分に合った情報の収集方法は自分で見つけなければ、自分の武器にはなりません。蛇足ですか、私は、漢字、カタカナ英語、略号等、まず電子辞典で調べます。なぜなら、日本語達人、英語の達人にしても、それぞれの辞典を一番ひいていると考えるからです。

 言葉の定義を明確にしないと知識が体系を成さないからです。カタカナ英語は、英語表記とその意味を確認します。次に自分が知りたい、疑問に思うことを、紙に書き出します。そして、インターネットや図書館で調べます。

 そして、調べたことを紙に書き出します。最後にエピローグ(終章)を読んで、終わりとします。(目次は、読まなくても、プロローグとエピローグを理解すれば、80パーセントは理解したと私は考えます)

 エピローグ(終章)を読んでいきます。

 『 「情報」の大切さ。「調べる習慣」の重要性。「具体的な調べ方」のさまざまな実例。この本に書いたことを、簡単にまとめると、この3点になる。

 でも、最後に、なにか言い忘れたことはないか?この場を借りて、改めて強調しておきたいことはないか? そうやって自問してみると、一つ大事なことを思い出した。

 「あきらめないこと。決して、あきらめないと、誓うこと。」

 現代は「効率化」の時代だ。僕もその恩恵を受けているし、否定する気はない。けれど、「効率化」もいきすぎると、弊害が出る

 「できるだけ最短の時間で結果を出したい」「一つのことに必要以上に時間をかけるのはコスパが悪い」そんなふうに考えて、時間や効率ばかり気にしていたら、あなたの抱ける夢のサイズはどんどん小さくなってしまう。

 僕は「とことん調べる人」だけが夢を実現できると言ってきた。ポイントは「とことん」だ。大きな夢を実現するのは、決して簡単なことではない。

 その途中で、何度も大きな困難が立ちはだかって、どう解決すればいいか、途方にくれるかもしれない。それでも「調べる」ことでしか、前にはすすめない。

 時間がかかってもいい。あきらめずに、とことん調べる。その熱意があってこそ、貴重な「情報」も見つかるし、まわりの人も動かすことができる。

 ミッキーマウスやディズニーランドを生み出したウォルト・ディズニー。誰もが一度はその夢のような世界観に魅了され、いまなおその意思が受け継がれ続けている。彼はこんな言葉を残している。

 「今、我々は夢がかなえられる世界に生きている。」

 どうか、あなたの夢をあきらめないでほしい。あらゆる手をつくして、とことん追求してほしい。自分自身の可能性を、自分で閉ざさないでほしい。

 失敗してもいい。恥をかいてもいい。夢と自分を信じ続ければ、僕らは何度でも調べることができる。悩んだら原点に回帰しよう。

 実現したい夢という原点が失われない限り、あなたには戻れる場所があるし、ふたたび立ち上がることができる。僕らはみな「人が生きる」という旅の途中。人生をとことん楽しもう。 』 (第172回)


ブックハンター「スモールハウス」

2018-08-08 10:37:35 | 独学

 171. スモールハウス   (高村友也著 平成24年9月)

 本書は、日本人が書いてますが、内容的には、米国の事例です。住む家の話ですが、自分が生きるために、一番大切なものは、何なのか! 生きるために必要な哲学やエコロジー(人間生活と自然環境の調和・共存を考える……)にも及びます。では、読んでいきましょう。

 

 『 実際にスモールハウスに住んでいる人の例を挙げながら、その魅力について語っていこうと思う。まずは、何と言っても、ジェイ・シェファー(Jay Shafer)。スモールハウスムーブメントというのは、誰か特定の人や団体が始めた運動ではない。

 でも、もしも、誰か一人、歴史的なターニングポイントになった人物を挙げるとすれば、間違いなくシェファーだ。彼が最初に「スモールハウス」という名のつくものを建てたのは、1999年。当時は、アイオワ大学で美術の教鞭をとっていた。

 理由はといえば、「たくさんの物や空間に気を配るのは面倒だ」という他愛もない理由だった。つまり、家に入れるものは少なくていいし、無用な空間を管理することも御免だ、ということ。

 大きさは10平米弱。10平米というのは、なんと、駐車場の白線に囲まれた車一台分のスペース、あれよりさらに小さい。彼は当時の心境を振り返って、こんな風に語っている。

 「僕は、自分の平穏な暮らしを支えてくれる家が欲しかったのであって、それを支えるために暮らしを捧げなければならないような家を欲しくはなかった。一方で、賃貸という考えは自分にはなかった。借り物じゃなくて、自分色に染めて使える、正真正銘の自分の家が欲しかったんだ。」

 スモールハウスの存在意義を、過不足なくドンピシャリで表したコメントだ。なんなら一生使える、自分の城が欲しい。でもお金はあまり払いたくない。じゃあどうするか? 小さいのを作ればいい。ついでに言うなら、空と緑に囲まれた、一戸建ての「家」が欲しかったんだと思う。

 つまり、彼は、一言で言うと「自分が欲しいから作った」ということになる。ところが、そのスモールハウスが、大勢の人々の生き方に影響を与え、「ムーブメント」と称されるまでに至る。おそらく、本人も、そんなことになるとは予想していなかったにちがいない。

 スモールハウスの構想を練っているとき、彼は、家族や恋人にさえ、決してそのことを言わなかった。その小さな家は、自分だけの楽しみであり、他言することに恥ずかしさすら感じ、他人の共感は得られないと思っていた。

 ところが、竣工して住み始めた翌2000年、彼の家は、「ナチュラル・ホーム」という雑誌の年間大賞を受賞、突如としてアメリカ中の注目を集めることとなった。 』


 『 セダー(ceder ,ceder wood 針葉樹の木材)の外壁、さび色の窓。それに、三角の屋根と、手前には椅子を置いてくつろげるかわいいポーチまでついていて、もうこれは、普通の木の家だ。

 ドアは、人ひとりやっと通れる大きさ。ドアなんて、誰かと肩を組んで通るためのものではないから、通れればそれでよし。必要にして十分。シェファーは自分の設計手法を「引き算方式」と呼んでいる。

 あれも欲しいこれも欲しいと、欲しいものを足し算して膨らませていくのではなく、まず最初に適当な家をイメージして、そこから不要な設備やスペースをできる限り削っていく。彼は引き算方式の設計について語る際、サン=テグジュペリ(フランスの作家でパイロット)の表現を借用している。

 「完璧なデザインというのは、それ以上加えるものがないときではなく、それ以上取り除くべきものがないときに、初めて達成される。」 おそらくドアの大きさも、引き算されたのだろう。

 ドアを開けると、目の前にはもう、部屋がある。普通の家だったら、玄関があったり、廊下があったり、階段があったりするはずだ。そういうものを全部引き算。通るためだけの空間にお金を払う必要はない。というか、そもそも、彼の家全体で、ちょっと広い家の玄関くらいの大きさしかないのだ。

 その「部屋」を、彼は「グレートルーム」と呼んでいる。カタカナにしてしまうとちょっとダサい名前だけど、英語だと洒落た響きなんだと思う(たぶん)。

 グレートルームというのは、要は、何でもできる万能の部屋。リビングであり、ダイニングであり、仕事部屋であり、客室でさえある。ソファーと椅子と両方あるので、普段くつろいでる時はソファーで、気合入れて仕事しようって時には椅子と机を使う。折りたたみのテーブルもあって、大人4人で食事したこともあるらしい。

 ひとつの空間をあらゆる用途に使うのは、家を小さくするための基本的な方法だと思う。たとえば、年に何度かしか使わないゲストルームであるとか、リビングとは別にダイニングを設けるとか、そういった、なくてもすむものはどんどん住宅から引き算していく。

 そうすると結局、残るのは、キッチン、バスルーム、ベットルームと、残りのすべての用途に用いる万能の部屋がひとつ。家族用の家ではそういうわけにはいかないかもしれないが、でも、参考になるところもあると思う。

 昔は、ただひとつの部屋が、普段は家族が屯(たむろ)するリビングであり、囲炉裏を暖めればキッチンになり、膳をならべればダイニングになり、座布団を敷けばゲストルームになり、裁縫道具を広げれば仕事部屋になり、布団を敷けばベットルームになった。 』

 

 『 さて、その万能のグレートルームの真ん中には、すごくコンパクトなガスストーブがある。そのストーブだけで、真冬でも家全体がポカポカ。ガス代は毎月せいぜい数百円ですむ。

 別荘のような使い方を考えている人の中には、薪ストーブにあこがれる人もいるかもしれないが、シェファーはいろいろ考えて、スモールハウスでは小さなガスストーブの使い勝手が良いと判断したようだ。

 暖まるのはガスのほうが早いし、薪がいつでも手に入るとは限らないし、あとは、どうしても煤煙で部屋が汚れてしまう。シェファーのガスストーブは、日本で主流のガス・石油ストーブと違って、ちゃんと排気管がついている。

 熱気を逃してしまうのでもったいないといえばもったいないが、熱より酸素のほうが大事だ。特に、スモールハウスのような狭い空間では、酸欠で脳細胞が死滅してしまう。

 欧米では、スモールハウスに限らず、家の中で煙突のない石油ストーブを使うことはあまり一般的ではないようだ。一番効率のいい暖房方法は、太陽光を直接採り入れることだという。

 外に面したガラス窓を全面に設置できるスモールハウスは、自然光の利用にうってつけだ。実際、シェファーの家も、北側以外、全面に窓を設置している。熱が逃げていくのも窓からだと言うから、一番賢いのは、二重ガラスにすることだ。

 光は入ってくるし、熱は逃げにくい。何より、窓が多いのは気分がいい。室内は、明るい松材で統一されている。隠し扉のような収納がいくつも備わっていて、無意味に存在している空間は一切ない。

 キッチンとグレートルームを分かつ仕切も、単なる壁ではなく、本棚と収納棚になっている。本棚には、美術や建築関係の本、収納棚には、調理用のスパイスや食器が並んでいる。

 キッチンはと言うと、2口のガスコンロに、流し、小さな冷蔵庫やオーブンが備え付けられている。電気は、1999年当時はソーラーパネルを使っていたらしいが、現在は普通に電線を引いている。

 最奥にはバスルーム。トイレは水を使わないコンポストトイレ、シャワーは天井にタンクを置いて自然落下させる原始的な仕組みだ。

 もっとも、シェファー自身が常に強調しているように、一般人がいささか抵抗感を覚えるであろうこれらの設備は、彼がたまたまそれを選んだということであって、別に、望むなら、ウォシュレットを完備したって、ジャグジー付きのバスタブを設えたってかまわない。

 ただ、シェファーは、上下水の配管の要らないこのミニマムな仕様がお気に入りだという。キッチンの上にはマンホールくらいの穴が開いていて、はしごをかけると、クイーンサイズベットのある居心地の良いスリーピングロフトへと誘ってくれる。

 ベットと言っても、要は、布団だ。英語でもフトン(futon)とか日本式(Japanese style)と言う。もう需要はないんじゃないかと思われていたジャパニーズ・フトンがこんなところで復活するとは。もちろん、彼らは畳んだりしない。敷きっ放し。

 ロフトは、10寸屋根(角度が45度の屋根)の屋根裏を丸々使った形になっていて、これがスモールハウスで非常によく見られる間取りだ。 なにしろ寝るのは、体が横には入りさえすれば寝られる。

 シェファーは昔、彼女と一緒にロフトで寝て、彼女が朝起きて屋根に頭をぶつけたなんて言っていたけど……。こんな屋根裏部屋というか、まさに屋根の裏側で寝たら、雨音が気になるんじゃないだろうか、」と心配する人がいるかもしれない。

 でも、スモールハウスに住む人たちは、「雨音を聞きながら寝ることができる」と、まるで特権であるかのように語っている。 』


 『 少し時系列が前後するけど、シェファーがスモールハウスを建てるまでのことを話そうと思う。彼は昔、いわゆるトレーラーハウスに住んでいた。エアストリームという、輪郭が滑らかで、シルバーの、よくアメリカ映画に出てくるタイプのトレーラーハウスだ。

 日本では、トレーラーハウスを目にすることはほとんどないから、トレーラーハウス暮らしと言うと、お金があるとかないとかいうよりも、ちょっと変わり者だと思われてしまう。

 しかし、アメリカのトレーラーハウス暮らしというのは、今も昔も、まさに貧困層の象徴だ。ただ、シェファー自身は、特にお金に困っていたわけでもないようだ。単に、そういうミニマムな暮らしが好きだったという。

 それは、彼の幼い頃からの憧れで、というのも、子供の頃に、家族数人で住むには大きすぎる家の、掃除やらペンキ塗りやらをやらされたらしい。

 遊んだり本を読んだりする時間がなくて、「自分は将来、もっと小さい家で自由に暮らそう」と密に企んでいた。それで、彼はトレーラーハウスで自由気ままな生活を送っていたんだけど、ひとつ問題があった。

 あんまり快適じゃなかったらしい。エアストリームというのはアルミで作られている。だから、結露が酷くて、断熱材を施したりしてみたけど、根本的な解決にはならなかった。

 初めて迎えた冬で、彼は、市販のキャンピングトレーラーは永住用にはできていない、と悟った。トレーラーにもよるかもしれないが、とにかく、こんなところにずっと住んではいられないと思った。

 でも、ミニマムな生活は続けたかった。それで彼は、一般の住宅と同じクオリティで、キャンピングトレーラーと同じくらいの小さい住宅を作れないだろうか、と考え始めた。

 それが、彼のスモールハウスの、ちょっと誇張して言うなら、スモールハウスムーブメントの、始まりだった。もっとも、彼はいわゆる建築士でもなければ、特別な大工経験があったわけでもない。

 美術をやっていたので、多少デザインの心得があったくらいだ。彼は、後に、スモールハウスに関するトークイベントで、「高校の頃、建築の授業をとったけど、評価はたしかCだったよ」と言って聴衆の笑いを誘っている。

 そんなわけで、当時の彼は建築規則すらおぼつかなかった。その建築規則の中に「家としての広さの最低基準」と言うのがあったらしい。彼が最初に設計した家は、その最低基準の三分の一しかなかったという。つまり、小さすぎたのだ。 』


 『 この「家の大きさの最低基準」というアメリカならではの規則、これに対する怒りが、むしろシェファーの創造力に火を点けたようだ。

 彼の取った解決策は、建築規則を回避するために、トレーラーの上にまともに家を建ててしまうという方法だった。つまり、いつでも動かせる車輪付きの家。

 だから、さっき紹介したシェアーのスモールハウスも、構造上、および法律上は、トレーラーハウスということになる。トレーラーハウスにも、いろいろ制約はあったが、何とかクリアーして、本当に建ててしまった。

 トレーラーベースの上に、木材を使って建築してしまったシェファーの行動を、「市民的不服従」と形容して賞賛する人たちもいる。

 市民的不服従というのは、自らの信念に反する法律や圧力に関して、それらの発動源である権力や政府を暴力や暴言によって攻撃することなく、淡々と拒否することをいう。

 独立のためにイギリスの綿製品を放棄したガンジーや、奴隷制度や戦争のために使われるような納税を拒否したソローなどが有名だ。ガンジーやソローは、信念を貫徹するために、時として法を犯さなければならないこともあり、牢屋に入れられたりした。

 しかし、シェファーは、うまく法制度を回避する抜け道を見つけて、「小さい家は建てるべからず」という圧力に対して、事実上の不服従をデモンストレートしてみせた。

 スモールハウスムーブメントがさらに広がりを見せれば、「家の大きさの最低基準」という法律のほうが歪なものに感じるようになる。彼の考えが常軌を逸していたのか、建築規則が理不尽だったのかは、時代が判断することになるだろう。 』

 

 『 シェファー本人も言っている通り、彼のアイデア自体に決定的な新しさがあったわけではない。小さく住むことはもちろんのこと、トレーラ―の上に住宅を構える方法も、実際には多くの人がやっていたことだ。

 では、なぜ彼の家がそんなに有名になったのか? それは、ずばり、その「家らしさ」だ。

 従来のトレーラーハウスというのは、小さいだけではなく、伝統的な「家屋」とは別の種類の、なんというか、箱と言うか、機械というか、とにかく、それを手に入れることは「家を構える」という感覚にはほど遠かった。

 一方、シェファーの家の、三角の屋根と木の質感には、見る者を安心させてくれる力がある。実際、彼の家は、その後星の数ほど作られることになるスモールハウスの原型となった。

 彼は、「シンプルに安く仕上げたかったら、どうして立方体の箱型にしなかったんだ」と問われ、こう答えている。

 「生活をシンプルにしようとするとき、最も難しのは、何が自分の幸せに結びつくかを見極めて、それ以外の余分なものから逃れることだ。僕は、勾配のある屋根と、陰を落とす庇が好きなんだ。それは幸せに結びつくものであって、余分なものじゃない。」 』


 『 シェファーは、趣味が昂じて、スモールハウスを専門に扱う、Tumbleweed Tiny House Company という会社を立ち上げている。

 一番小さいもので約6平米から、家庭用の50平米くらいのものまで、数十種類のスモールハウスを扱っている。もちろんオーダーメイドも可能だ。冒頭で紹介したタイプの家も商品として売られている。そのお値段役370万円。

 これは、受け取ったその日から住むことのできる完成品での値段で、デスクや収納はもちろんのこと、ガスヒーターや冷蔵庫、コンロや流し、温水器、公共の水道管に繋ぐことのできる給排水設備、市販の電力を使える電気設備まですべて整っている。

 材料と設計図、つまりキット価格は約160万円。この価格には諸々の手数料や会社としての儲けが含まれているから、シェファー自身が家を建てたときの材料費はだいたい100万円といったところだ。

 370万というのは、おそらく多くの社会人にとってはローンを組む必要すらなさそうな金額だが、単純に坪単価を計算すると、完成品では坪単価150万円になる。

 これは、かなり高級な家の数字だ。実際、経済的理由から安価な家を求めている一部の人たちにとっては、Tumbweed社の商品はまだ高価であるという批判もある。

 しかし、この数字にはいくつか理由がある。まず、家は狭ければ狭いほど坪単価は高くなる。これは仕方ない。坪単価を下げるためには、なるべく広い部屋をいくつも付け加えればいいのだから。

 つまり、スモールハウスには小さい空間に機能が凝縮されている、と解釈できる。そもそも「坪単価」という考え方自体が、非スモールハウス的だ。

 坪単価が高い何よりの理由は、シェファーが、そもそも節約を念頭にスモールハウスを作っているわけではないということである。むしろ、小さい分、お金をかけて贅沢に暮らすことができる、そういうスタンスだ。

 彼のモットーは、「量より質」だ。安くあげるために小さくするのではなく、普通の家と同じクオリティのものを、時にはもっと高級なものに使うために小さくする。これは、一般のトレーラーハウスの考え方とまったく逆だ。

 Tumbleweed 社の商品も、建材のクオリティを下げてコストダウンしようと思えばいくらでもできるが、それは彼が目指しているところではないらしい。

 たとえば、彼の家は、屋根を含めて全面ポリスチレンのフォーム材で断熱されていて、安物のトレーラーのように結露したりしない。

 あるいは、正面上部に掲げられたアーチ状の小さな窓、これひとつ5万円するという。いくらでもコストカットできる部分だが、美的観点から言って譲れないのだそうだ。

 スモールハウスムーブメントのひとつの新しさは、小さく住みつつ、しかしそのクオリティにまったく妥協せず、シンプルかつ贅沢に過ごす、という点だ。 』

 

 『 ダイアナ・ローレンス(Diana Lorence)は、カリフォルニアの森の中に建てた約13平米の家で、夫と二人で電気のない生活を営んでいる。

 立ち並ぶ大きな樫の木の間に、すっぽりと納まってしまうほどの小さい家だが、威厳のある黒い外壁と、その壁にうずまっている石造りの煙突が目を引く。

 森の中で、電気もないといえば、何百年も前の野生的な生活を思い浮かべるかもしれないが、彼女の木の家には、むしろ、モダンな商業ビルよりも理知的で、神社のように荘厳な空気が漂っている。

 夜は、暖炉やロウソクの灯りが部屋を照らす。静まり返った森の中で、時折、鳥が鳴き、コヨーテが遠吠えする。来客の多くが、彼女のスモールハウスに関して口を揃えて言う言葉は、「静寂」であるという。

 電子機器は使えないので、彼女にメールを送っても、返ってくるのは、彼女が自宅を離れてパソコンを使うことができるようになる数日後だ。

 反射的に、不便ではないかという思いがよぎるが、そんな懸念は、すぐに圧倒的な羨望と憧憬の感情で押し流されてしまう。

 彼女は、メディアやコミュニケーションツールという散弾銃によって、およそどうでもいい情報や用事を打ち込まれ身を切り刻まれることとは、ほとんど無縁なのだ。

 彼女は,その家を Innermost House と呼んでいる。Innermost という言葉は、「最も内部の、奥深いところにある。」というような意味だ。

 彼女は、森の中という位置的な意味ではなく、自分の内的な世界の最深部に触れることができる、という意味を込めてその言葉を使っている。あえて訳すとすれば「深遠住宅」ということになるだろうか。

 電気はなく、水も、本来果樹園を灌漑すべきパイプから引っ張ってきている。夏は木立の涼しさに任せ、冬は暖炉に薪をくべて過ごす。にもかかわらず、彼女は自分の暮らしが非常に贅沢であるという。

 「最も贅沢な暮らしというのは、自分が本当に好きなものと共に暮らすこと」彼女にとっての「本当に好きなもの」とは、スモールハウスの中で信頼できる人と交わされる、静かな会話だった。』


 『 所持品の一つひとつは、機能美の元に整えられている。ロウソクと薪、それに火を灯すためのマッチ、あるいは、調理用の鉄鍋、スプーンとフォークが2本ずつ、毎日使うものしかもっていない。

 家を構成する要素も、「必要の見極めと自由の極限」によって導き出され、それは必然的に、書斎がひとつ、スリーピングロフト、ポーチ、そして家の中心の据えられる暖炉なのだという。

 朝起きてから、どこに行って、どの道具を使って、何をすればいいのか、すべてきまっている。生活は極めて機械的かつ省力的に回っていて、生活のために頭が使われることはほとんどなさそうだ。

 おそらく彼女は、家にあるものすべてを空で言えるだろう。彼女は、それ以上何かを便利にしたり、あるいは、多様な調理器具を買い入れて食にバラエティを与えたりすることには、まったく興味がないようだ。

 そんなことによって増えるわずかな幸福は、信頼できる人との会話によって得られる幸福の足元にも及ばないと、彼女は知っているのだ。

 そうして、余計な物が寄り付かないスモールでシンプルな生活では、感覚が研ぎ済まされ、精神的な活動を助長してくれるのだという。

 「それはまるで、耳に手をかざしたり、目にレンズをあてているかのようです。すべての物事が拡大され、増幅され、強調されて感じられます」

 誰でも、何かに集中しようとするときは、余計な物事をシャットアウトする。彼女の場合、毎日、そして、家全体、生活全体から、余計な物事をシャットアウトしているのだ。

 ダイアナのスモールハウスの内部は、五つの部分から成っている。リビング、キッチン、バスルーム、書斎、以上がたった13平米の階下の間取りで、リビングを除いた三つの部屋の上部にスリーピングロフトがある。

 来客は、リビングの椅子に腰かけ、周囲を見回りながら、まったく狭く感じないことに驚く。来客もまた、彼女や、彼女の夫との会話を求めて、その家を訪れる。

 だから、余計な物が置いてある大きな家よりも、会話に専念でき、会話が広がりゆく家のほうが、ずっと広く感じるのだろう。内壁はすべて、漆喰の表現する自然な白で統一されている。

 本物の味を出すためには、本物の建材を使うのが彼女のやり方だ。もちろん、余計な柄や装飾は一切ない。リビングの東側には小さな暖炉があり、西側には本棚がある。

 暖炉は、煮炊き、暖房、照明のすべてを担っている。シャワーのための温水も、薪をくべて沸かす。彼女の家には、電気やガス、ソーラーパネルも含めて、薪以外の熱源が一切ない。

 本棚の本は、家に広がる世界が、外の世界との繋がりを保つように、注意深く厳選されている。そして、南北に対座する形で、二つの椅子が近すぎず遠すぎない距離を空けて置かれている。

 こうして、暖炉と本棚と二つの椅子で囲まれた空間が、その椅子に座る二人の会話のために整えられる。

 暖炉の火を見つめ、同様にして火を囲んだであろう太古の人々から連綿と続く、人類の記憶に思いを馳せながら、時として本棚の本の客観的な知識に伺いを立てつつ、対座する相手との会話を深めていくのだという。

 ローレンス夫妻は多くの時間をそこで過ごし、時としてゲストもそこで迎え、あらゆることについて言葉にし、理解を共有し合う。その空間に極まっているのは、ワーズワースが唱えた「質素な生活と高度の思索」だ。 』


 『 ダイアナが、家の細部にまでこだわって、「会話」を大切にするのにはわけがある。

 「私は子供の頃から、自分の内的な意識世界と、外的な世界との狭間で、ずっと沈黙の中にいました。周囲の人が理解しているように見えた外的な世界の意味を共有することもなければ、自分自身の理解を形作る力もないと感じていました。」

 彼女の戸惑いは、おそらく、こんなことだ。僕らは、世界をただぼんやりと眺めているだけではない。

 自分の感情や、身体感覚、科学的知識、経済の流れ、政治的イデオロギー、価値観、信仰、宗教などによって、さまざまな「意味」を外的な世界に読み込んでは、そこに世界像や文脈を描き、それを内的な意識の世界の中に取り入れつつ、日々生きている。

 そうした、内なる意識の世界と、外なる世界とを結んでくれる「意味」を共有して初めて、他人と関わり、意思疎通することもできる。

 それができなかった彼女は、周囲から置き去りにされ、その欠落した「意味」を手に入れる方法を探し求め、実に人生の半分を費やしてきたのだという。

 そんな中、彼女は、夫のマイケル・ロレンスと出会った。そして、マイケルと共に時間を過ごす中で、他人との間で紡ぎ出される「言葉」によって世界が意味付けられるで、初めて自分は周囲の世界と関係付けられる、そう確信した。

 かのヘレンケラーは、「ウォーター」という言葉を初めて知り、今自分が触れている個別的なウォーターではない、「ウォーター」という普遍的な存在を感じ、それによって他人と世界の意味を共有していけると気付いた。

 自分の内的世界から、外的な世界へ通ずる道が開けた瞬間だった。ダイアナがある日突然、「言葉」に開眼したのも、ヘレンケラーの体験とよく似ている。

 普通の人は、ごく自然に「言葉」と出会い、付かず離れずの一定の距離を保って、「言葉」と付き合っている。人生の途中まで「言葉」を受け入れなかったという、ダイアナの感性は、非常に独特なものだ。

 さらに、彼女は、単なる「言葉」ではなく、「会話」に重きを置いている。おそらく、単に音声や記号としての言葉があるだけではだめで、そこに、他人に対する信頼、あるいは「愛」と呼べるようなものが、伴っていなければならなかったのだろう。

 スモールハウスの中で精神を解放して交わされる問いと答えが、より深いレベルで人生を感じさせ、自分が何者かを見出し、世界を意味付けしてくれる。新たな会話のたびに、新たな人生、新たな自分、新たな世界が立ち現れる。

 だからこそ、彼女は、Innermost  House は Innermost Life そのものであり、家を人生と切り離して考えることは不可能であるという。その家は、人生のための単なる道具ではなく、人生そのものを意味付け、人生を確固たるものとして存在させてくれさえする場なのだ。』


 『 ダイアナは「生活をシンプルにするための二つの方法」と題して、こんなことを言っている。

 「ひとつは、自分にとってあまり重要でないものを意図的に消去していき、必要なもののみを残す方法。これは理性のなせる業です。いまひとつは、自分が本当に好きなもので生活を満たし、その他のものが自然に振り落とされていくのを待つ方法。これは愛のなせる業です。」

 ダイアナ自身は、二つの方法のうち、前者の意図的な方法ではなく、後者の自然な方法によってシンプルになるのが望ましいと考えているようだ。

 彼女は、家や生活を意図的にシンプルにしようと務めたことはないと言う。彼女の家がシンプルなのは、不要なものを意図的に削ぎ落としたからではなく、彼女が最も愛する「会話」を中心に、それに必要なものだけが自然に集まってきた結果だ。

 夫婦はその家を狭いとも広いとも感じたことはなく、互いの声が反響し、言葉が行き交うために、最も適切な大きさであると言う。

 ダイアナのような、「自分が本当に好きなもの」にしか見向きもしないような生き方は、たしかに理想的で、誰もが憧れるだろう。

 一方で、現実的な社会の中で、生活をシンプルにしようとすれば、自分を外側から客観視して、不要なものを、意図的に遠ざけ、手放す努力をしなければならないこともある。理由は以下のとおりだ。

 第一に、今の世の中は、スタートがシンプルではない。気付いたときには、すでに、物、情報、規則、責務、常識、外聞、人間関係などによってがんじがらめになっている。

 「自然に任せる」と言っても、自分にとっての「自然」が何なのか、ゴミの山を掻き分けていかなければ見えてこない。自分に素直になれ、直感を信じろと言われても、簡単な話ではない。

 その中でシンプルになるためには、やはり、ひとつひとつ自分に問いかけ、選別するような、理性が必要だ。

 第二に、「シンプル」という概念に関心が行くのは、主として、自分の生活がシンプルから遠ざかり、余計なものが目についてしまうときだ。その「余計なもの」を引き寄せ、集めてしまったのは、自分自身であるから、そのような自分自身から自然に枝葉を伸ばしていっても仕方がない。

 時には、自分のこれまでの人生の無価値を認め、部分的であろうとも過去を手放す必要がある。過去に引きずられないよう、自然的な感情よりも理性を優先して、自分の抱えているものを意図的に整理しなければならない場合がある。

 第三に、そもそも、「自分が本当に好きなもの」がよくわからなくなってしまうことこそが、いろいろな角度から物事を客観的に眺めようとする、人間の特性であるように思う。

 僕らは、物事を、自分中心に整理するだけではなく、もしも自分が別の価値観を持った存在だったら、ということを考えることができる。そこに「迷い」が生じる。

 他の動物は自分の好きなもの、欲しいものがわからなかったり、手放すべきかどうか迷ったりはしない。ある物を目の前にして、「これは必要だろうか?」と悩むのは、いかにも人間らしい。

 「迷わないこと」や「直感に従うこと」は、とかく、賛美されがちだが、人間の特有性は、むしろ、あれかこれか、立ち止まって考えてしまうことのほうにある。 』


 『 ダイアナが「自然的なもの」を強く求め、「意図的なもの」を遠ざけようとする傾向は、おそらく、彼女が前半生において、他人と世界の意味を共有することができず、沈黙していたことと、深く関係しているように思う。

 現代のアメリカや日本では、ありとあらゆるものが人の意図によってデザインされ、製造される。より便利に、より美しくなるよう、考えられ、計算され、形にされる。

 それらは、植物が芽を出し、葉を広げ、やがて花開くように、自らの力によって内側から形作られるものではない。その意図され、形骸化し、魂をなくしたらゆるものを、僕らは、生まれたときに、理由もなく無条件に与えられる。

 そこには意味はなく、形式だけである。そのことに対する戸惑いが、ダイアナの場合は「沈黙」として表れたのだろう。

 僕は、最初にダイアナの昔の話を知ったとき、周囲との意思疎通を拒否する、「共感」や「愛」に欠けた少女だったかと思った。しかし、まったく逆だった。

 彼女は、内に秘める愛のあまり、意図された世界についていけず、そこに「意味」を見出すことが出来なっかったのだ。

 やがて彼女は、夫と出会い、愛と信頼に溢れた言葉、つまり「会話」によって、世界と繋がる術を見出した。「会話」という命あるものの種を植え、それが成長してスモールハウスという実を結んだ。

 だからこそ、そのスモールハウスは、魂を失うことなく、生きたものであり続けて欲しいのだと思う。ダイアナが、今のスモールハウスに住み始めてから、すでに7年。

 しかし、彼女は簡単にその暮らしを手に入れたわけではなかった。彼女は、今の暮らしに辿り着くまで、20年間以上、夫と共に、家や町を幾度となく変えてきた。その数、なんと、20回にも及ぶ。すべて、小さい家だったという。

 僕は、その事実がどうにも腑に落ちなかった。というのも、20年間、夫がいて、「会話」もそこにあった。つまり、「自分が本当に好きなもの」はすでにそこにあった。

 ならば、あとは、前節で述べた「自然にシンプルになる」方法に委ねて、「会話」を中心に生活が作られるのを待てばいいはずだ。

 どうして20回にも及ぶ「やり直し」をしなければならなかったのか。僕は、その疑問をそのままぶつけてみた。すると、次のような答えが返ってきた。

 「まさに、排除したかったのは、「意図」そのものだったのです。」 「意図的に、意図的なものを排除してきたのですか」と問い返したら、「まさにその通りだ」という。

 つまり、「悟ろうとしているうちは、悟りは開けない」という、禅問答のようなものだ。ダイアナの家の本棚には、吉田兼好、鴨長明、柳崇悦といった、日本の古典的名著も並んでいる。

 特に、彼女は、崇悦が唱えた「自然的なものが作り出す美しさ」に思い入れがあり、人の「意図」が入り込むようなものは何であれ、真に美しくはならないと考えている。人の「意図」によってなされるものは、「デザイン」であって、デザインされたものからは魂が失われてしまう。

 崇悦によれば、工芸家は、何年もの間、「意図」を注ぎ込んで、より良い工芸品を作ろうと努力する。しかし、熟達の境地に達するのは、その「意図」がすべて消え去り、その手から自然に作品が紡ぎ出されるときだ。

 そのとき初めて、作られるものに魂が吹き込まれ、「生きたもの」になるのだという。崇悦はこれを「道」と呼んでいる。彼女は、彼女のスモールハウスから、「意図的なシンプル」によって整えられる「会話をすべき場所」という匂いが消えるまで、何度もやり直したのだ。

 安心して、「会話」という種が植えられ、それが自然に芽を出し、やがて花開くような、「生きた場所」を20年間探し続けてきた。場所を変え、家を変え続けてきた。

 そんたびに、忍び込んでくる「意図」を感じ、家が「デザインされたもの」になるのを感じ、「会話」がわずかに形骸化してしまうのを感じ、やがて原点に戻ってやり直すことを決意させられた。

 彼女にとっては、なくてはならない20年間だった。その旅路の終わりが、夫のマイケルと共に建てた、それまでで最も小さい家、つまり今のスモールハウスだった。

 「意図的なものと、自然的なものとの間で揺れ動く、あらゆる段階を経て、ついに、何かを意図することをやめました。そのとき初めて、この家が私たちの手から紡ぎ出されたのです。私たちの家は、もはや「意図」とは無関係です。」

 ダイアナのスモールハウスは、確かにシンプルだ。しかし、「シンプルです」と主張している様子もなければ、「シンプルにしよう」という気負いも感じられないし、「シンプルであるべきだ」という意識も見当たらない。

 それは、長い「道」を経て、シンプルを望む意図が、その気配を消すほどに、作品であるスモールハウスに刻み込まれたことを意味している。 』


 私が家屋について、重要な要素と思わるものは、立地、本人と家族の生き方、家屋の機能と落ち着きです。生物で、ツガイで子を育て、巣(居場所)を造るのは、鳥類と哺乳類です。

 鳥類は、小さい鳥ほど、丁寧な巣を造ります。鳥類はツガイでヒナを育てますので、脳の大きさに比して、非常に賢いと感じます。哺乳類で、最も大規模な居場所を造るのは、ビーバーです。ビーバーは、ダムまで造ります。

 人類は、寒さに従って、精巧な家屋を造ります。家屋は、家具や道具を伴って、人の居場所をつくりますが、一般に家屋は、くつろぐ場所であって、生産や食事や祈りの場でもあります。

 私たちは、大きく二つに分類できます。それは、都市に住むか、田舎に住むかの選択です。しかし状況によって、病気の時や文化インフラに接するには、都市を選択せざるを得ません。

 田舎に住むには、家族だけで生活するには、多くの労力を必要とします。自然の素敵な面と厳しい面(冬の厳しさ、夏の虫の発生)に上手に対応しなければ、なりません。

 画家のアトリエ、作家の書斎は、究極の棲み家のように感じます。(南川三治郎著の推理作家の書斎、巨匠のアトリエの写真と文)。

 最後に私の座右の銘「人には居場所、物は置き場所」家と家具と道具を整理し、メンテナンスし、使いこなし、知識と情報を整理し、知恵として、年を重ねても、人生を充実したものにしたいものです。(第170回) 


ブックハンター「投資の科学」

2018-07-28 13:47:00 | 独学

 170. 投資の科学  (マイケル・J・モーブッシン著 (2007年2月)

 MORE THEN YOU KNOW  by  Michael J.Mauboussin.   Copyright ©2006

   (Finding Financial Wisdom in Unconventional Places)     Unconventional:型にはまらない(ところ)


 『 じめじめと湿った森を散歩しているときに、ねばねばした変形菌を見かけることがある。この生物を分類することがそれほど難しいなどとは思いもよらないかもしれないが、実は変形菌には不思議な習性があり、何世紀にもわたって科学者を悩ませてきた。

 食料が豊富なときは、変形菌は独立した細胞組織として機能する。それらは動き、バクテリアを食べ、分化して再生する。しかし、食料が少なくなると、変形菌は集まり、何万もの細胞の塊を形成する。細胞は事実上個体としては動くのをやめ、集合体のように動きはじめる。

 これが、変形菌を分類するのが難しい理由であり、状況によって「単数」あるいは「複数」に変化するのである。

 (こうした変形菌の行動とは対照的に)投資の手法は状況を考慮することなく使われることが多い、これではうまくいくはずがない。ときとして、高く見える銘柄が安いこともあれば、安く見える銘柄が高いこともある。(その投資手法が成功するかどうかは)状況によるのである。 

 しかしながら、プロの投資家の大半はある特定の投資手法を使い、それに固執するように教育されている。

 やり方はきわめて単純だ。成長株(グロース株)戦略をとる投資家は、売上や利益を急速に増加させている企業の株を中心としたポートフォリオ(運用一覧)ばかりをもつことによりマーケットに勝とうし、企業価値(バリュー投資)についてはあまり考えない。

 割安株(バリュー株)戦略をとる投資家は、そこそこの利回りをもたらしてくれそうな割安株を集め、企業の成長にはあまり期待しない。

 資産運用を担当するファンドマネージャーの多くも、組織の規則やその他の制約を考慮しなければ、自分の投資手法を巧みに駆使することによってマーケットを打ち負かせると信じている。

 そして、彼らが信奉している投資手法はそれぞれに、ある投資行動が満足いく結果に結びつくという理論に基づいている。

 「理論」という言葉は、ときとして「理論上の」すなわち「実用的でない」と言ったイメージを想起させるため、投資家やファンドマネージャーの多くは、この言葉を好まない。

 しかし、もしも理論を「因果の偶然を説明するもの」と定義するなら、それはきわめて実用的な意味をもつ言葉である。有効な理論とは、ある一定の条件のなかで、ある行動や出来事がどのような結果をもたらすか、ということを推定するうえで役立つものである。

 問題なのは、投資理論のほとんどは、不十分な分類に基づいているため有効でないという点である。同じことが、経営理論についても言える。より具体的に言うなら、投資家は(たとえば「株価収益率が低い」といった)属性に基づいた分類を、状況に基づいた分類よりも重視している。

 したがって、属性重視から状況重視へと考え方を移行することができれば、投資家やファンドマネージャーは大きなメリットを享受できるはずだ。この点では、変形菌の行動を見習うべきだろう。 』


 『 ここ100年ほどの間にどのような変化が起きたのかを認識してもらうための、1896年5月にチャールズ・ダウが初めて指数に組み入れた工業株銘柄を眺めてほしい。

 アメリカン・コットン・オイル、  アメリカン・タバコ、  シカゴ・ガス、  ディスティリング・アンド・キャトル・フィーディング、 ゼネラル・エレクトリック(GE)、  ラクリード・ガス、  ノース・アメリカン、  テネシー・コール&アイアン、  USレーザー、  USラバー

 この中で、現存している会社はGEだけで、今では単なる電力会社を超えるコングロマリットとして知られている。

 これらの会社は当時の優良銘柄であり、商品(コモディティ:原油、天然ガス、金、プラチナ、大豆、トウモロコシ、コーヒー、食肉、牛乳、ゴムなどの世界的に幅広く取引されている商品の総称)を中心に発展を続ける米国経済を代表する企業であった。

 蒸留酒と家畜飼料の会社(ディスティリング・アンド・キャトル・フィーディング)や綿実油の会社(メリカン・コットン・オイル)が人気銘柄だったとは現在では想像できないが、未来の投資家も同じように、マイクロソフトやメルク(化学・医薬品メーカー)が人気銘柄になっている現代を振り返ってクスクス笑うかもしれない。

 過去100年間に起こった変化は、未来100年についてどんなヒントを与えてくれるだろうか? そう、2つだけ確かなことがある。一つは、遠い将来の予測は、まったく的外れに終わる可能性が高いこと。

 もう一つは、確実の予測できる唯一のことは、イノベーション(技術革新)が起こるということである。そこで、イノベーションをいかに捉え、いかに対処すべきかという点について検討する。

 投資家は、どの会社が競争に勝ち、どの会社が競争に負けるかを左右するメカニズムを知るために、イノベーションを理解する必要がある。しかし、注意すべき点もある。

 明日の成功企業が今日の優良企業とはまったく違う会社だとわかっていても、イノベーションをもたらすような変化は、とても小さく、そして少しずつ顕在化するものだ。

 よほど注意深く観察していなければ、少しずつ積み重なっていくイノベーションの効果を見逃してしまい、あなたは結局、昨日の優良企業と運命を共にすることになるだろう。

 ここでの主題の一つは、イノベーションは必然だということである。イノベーションは、現存する一つひとつのアイデアが組み替えられた結果として起こる。従って、より多くのアイデアが存在し、それらがより素早く組み替えられれば、よりハイペースで有益な解決法――イノベーション――が生み出される。

 頻繁に生じるイノベーションによって、あっという間に勝ち組と負け組が決まってしまうことも珍しくない。今日の企業は、常に勝ち残ろうとして活動しているが、いったん会社が負け組に転落すると、なかなか這い上がることができない。

 もう一つの主題は、人間は、変化に対応するのがひどく苦手であるという点だ。投資家は、現状の延長線上で株価を評価しようとする傾向が強い。たいてい、良い会社はずっと生き残り、悪い会社はいつまでたっても負け犬だと考えてしまう。

 企業経営者も同様で、現在の居心地のよいやり方に安住してしまい、そうした安易な経営姿勢が将来の敗北につながっていくのである。われわれは、変化にどう対処すべきなのだろうか?

 新しい産業が現れるとき、その産業にとって良い戦略と悪い戦略を選別するのはほぼ不可能である。このようなときにわれわれがよく目にするのは、多くの異なった戦略を試み、これが良いものかをマーケットに決めてもらうことである(興味深いことに、これは脳が発達する過程と似ている)。

 結果として魅力的な戦略が生き残るが、数多くの失敗した戦略のために多額のコストが費やされることにもなる。こうしたコストを好ましくないと考えるのではなく、優れたビジネスモデルを選び出すための不可欠なコストと割り切ったほうがよい。 』


 『 1903年12月17日、オーヴィル・ライトは人類の歴史を塗り替えた。エンジンを動力とする飛行機を制御し、地上120フィートで12秒間の安定飛行を成功させたのである。

 これを契機にライト兄弟はさまざまな航空事業を興し、長距離旅行の概念を変えた。ライト兄弟はどのようにして、世界を変えるような偉業を達成したのだろうか?

 彼らは神の啓示を受けたわけでもなく、まったく白紙の状態から始めたわけでもない。彼らが作った最初の飛行機は、当時すでに知られていたアイデアと技術を組み換えることによって完成したのである。

 経営学者のアンドリュー・バーガドンが言うように、すべてのイノベーションは過去からの飛躍であるとともに、過去の一部から構築されている。

 ライト兄弟が天才である所以は、軽量のガソリンエンジンとケーブルとプロペラ、そしてベルヌーイの法則を組み合わせれば、空飛ぶ奇妙な機械ができるのではないかと、ひらめいたことにあった。

 投資家はイノベーションの過程を正しく評価する必要があるが、それにはいくつかの理由がある。第一に、人類のあらゆる物質的な繁栄はイノベーションに依存しているということ。

 第二に、イノベーションは創造的破壊――新しい技術とビジネスが既存のものにとって代わる過程――を引き起こすこと。多くのイノベーションが頻繁に起これば、必然的に多くの勝ち組企業と負け組企業が現れることになる。 』


 『 経済学者のポール・レーマーは、次のような非常に単純な質問から物事を考え始めることがあるという。われわれは100年前や1000前よりも裕福なのだろうか?

 世界中のあらゆる原材料の埋蔵量――端的に言うと地球の物理的な量――は変わっていないので、われわれはより多くの人口で地球の量を分けなければならない。

 しかし、世界の一人当たりGDPは1000年前のおよそ30倍に増えており、しかもこの増加は主に過去150年の間に生じた。100年前は、原材料を支配下に置くことが富の源泉となっていたが、今日では、原材料を加工するアイデアや方法が、富を作り出す原動力となっている。

 チャーチルが60年前に正確に指摘したように、現代は知性によって支配されているのである。より具体的に言うと、レーマーは価値創造のプロセスを2つの部分――新しい指示(インストラクション)やアイデアや方式の発見と、それらの実行――に分けている。

 レーマーは、経済の大きな移り変わりを示すために、1900年のUSスチールと2000年のメルクを比較している。

 もしも1世紀前にUSスチールを訪れたならば、数多くの従業員が、いくつかのインストラクションに従って、鉄鉱石を運び、高炉に投入し、鉄鋼を形作る作業に従事する一方、ほんの一握りの従業員が新しいインストラクションの作成に取り組んでいる現場を見学できたはずだ。

 今日、メルクのような製薬会社を見学すると、まったく反対の状況に出くわすことになるだろう。ほとんどの従業員は、新しいインストラクションを作りだそうとしている。

もちろん、インストラクションを実行する従業員も存在するが、全体の一部でしかない。

 世界を形作るインストラクションは、富の形成において中心的な役割を果たし(皮肉なことに古典的な経済モデルでは脇役とみなされいた)、いくつかの重要な意味をもつ。

 第一は、経済学者が「競争材」と「非競争材」と呼ぶものの違いである。競争材とは、誰かが消費すると、ほかの誰かが消費できる量が減ってしまう商品です。

 非競争材は、ある一組のインストラクションのように、多くの人が一度に使用できる商品で、ソフトウエアがその典型である。

 第二は、イノベーションがアイデアの組み合わせによって成り立つのならば、イノベーションを形作るアイデアのブロックがより多く存在することによって、問題解決の機会もそれだけ多く存在するということである。

 このことは第三の意味を導く。つまり、より多くのアイデアのブロックがあれば、より多くのイノベーションが起き、経済全体の成長が加速するということである。 』


 『 われわれは、相互に関連しながらイノベーションに拍車をかけ続ける3つの要因――科学の進歩、情報貯蔵量、ムーアの法則によるコンピューターの処理能力の向上――に期待すべきである。なかでも、情報伝達における変化というイノベーションの側面に注目したい。

 ファン・エンリケスは、その挑発的な著書「未来の歴史(As the Future Catches You)」の中で、記号によるコミュニケーションの発展過程をたどっている。

 コミュニケーションの技術は、約5000年前にメソポタミア・エジプト文明がくさび形の文字および象形文字を使用したアルファベットを導入したことにより進歩した。この時代には、最初の数学的な表現による記号も登場した。

 この原始的なアルファベットは、われわれのコミュニケーション技術の発展にとって大きな一歩であった。しかし、読み書きできるのは社会のエリート層に限られ、まだまだ扱いにくいものであった。

 中国人が作り上げた漢字は、文字の標準化に大いに貢献した。この単純なコミュニケーション用の記号は、グーテンべルグがヨーロッパで印刷機を発明するおよそ500年前に、中国人が版木を使用して本を印刷することを可能にした。

 ギリシャ人は、数多くの音をわずか数文字で表現する方法を考案し、この文字体系が、今日多くの西洋言語で使用されている26文字のローマ字の基礎となった。

 われわれは、これらの文字を組み合わせることにより、ほとんどすべての概念を表すことができる。アルファベットは、人間の読み書き能力を劇的に向上させ、世界の生活水準を高めた。

 第二次世界大戦の直前になると、1と0で表現される別の言語が突然出現した。二進法、すなわちデジタル言語は、言葉や音楽からヒトゲノムのマップまで、あらゆる情報を記号化することを可能にした。

 デジタル言語は単純なので、情報をきわめて短時間に記号化し、伝達し、解読できる。そのうえ、元の情報を忠実に維持し、貯蔵するのが簡単である。

 このことは、イノベーションにとって何を意味するのだろうか? 柔軟なデジタル言語を使うことによって、今やわれわれは、アイデアのブロックをかってないほど容易に識別し、操作することができる。

 アイデアのブロックが急増していることを考え併せると、イノベーションのペースはますます加速すると結論づけることができる。

 たとえばヘルスケアのような分野では、デジタル化の技術と生物学の知識(ゲノムのマップ)と強力なコンピューターの組み合わせによって、次々に大きな変化が起こることが予想される。 』


 『 2000年の秋、私は第一線で活躍するファンドマネージャーたちを集めて小さな会合を開き、ファイナンスや戦略、ビジネスなど幅広い分野の専門家を招いて講演してもらった。

 彼らの話はどれもすばらしいものであったが、最も拍手喝采を浴びたのは、ロスアラモス国立研究所の科学者であるノーマン・ジョンソンだった。

 最初は気まずい雰囲気のなかで、彼は話し始めた。「私は、なぜ専門家が間違えるのかという私の専門分野について、ここで話をするように言われました。ファイナンスというテーマについては、ほとんど何も知りません」。

 名だたるファンドマネージャーたちが身を乗り出して、ジョンソンの言うことを聴きいったのはなぜろうか? 簡単に言えば、彼は、さまざまな’平均的’な人たちが集団で行動することによって、専門家よりも巧みに問題を解決できると主張したのである。

 アリやハチなどの社会的昆虫の振る舞いを示しながら、そのポイントを説明した。何よりも聴衆たちの興味を掻きたてたのは、昆虫たちの驚くべきパーフォーマンスであった。

 ジョンソンの話の大部分はマクロレベル、つまり集団がいかに問題を解決するかというものだった。これは、いかにマーケットの効率性が高まるかという理解に近い。

 私は、ここではミクロレベルの問題――つまり、個々の投資家が、集団としてどのように行動すれば、投資を成功させることができるかという点――に焦点を当てる。

 分析の対象は異なるが、意味するところは同じだ。多様な情報と多様な見通しが、投資のパフォーマンスを向上させるということである。

 個人の行動について考える前に、多様性がどのようにしてより良い答えに結びつくか、そして、多様性の欠如が非効率を生み出すのか、ということを明らかにしたい。

 ジョンソンは、平均的な個人よりも集団のほうがどうしてうまくいくのかを、迷路の実験を例に説明した。

 ・ まず、同じような能力を持った人たちに迷路を解いてもらう。彼らは、全体的な実験の目的については知らされておらず、目の前の迷路の答えをただ探し続ける。

 ・ 次に、もう一度、迷路を解いてもらう。最初の経験があるので、答えは少し改善する。

 ・ 最後に、各個人の答えを組み合わせて一つの経路を作成し、集団としての答えとする。

 個々の被験者が最初に探し出した経路はバラバラだったが、それらを集めてみると、多様な経験(迷った場所のバラツキ)、そして多様なパフォーマンス(経路の長さのバラツキ)が反映されていた。

そうした集合体は、標準的な人間にあらゆる情報が集積された状態とみなすことができる。こうして情報の多様性のおかげで、集団による解決方法は、平均的な個人が考えつく解決方法に比べてはるかに信頼性の高いものとなる。

 自然界でも、こうした集団的な解決能力は失われてはいない。ジョンソンが話の中で取り上げたアリの事例が、まさにそのことを示すものである。アリたちはどのように行動するのだろうか?

 働きアリは、ただ一つの目的をもって巣を離れ、食料を見つけたら巣に持ち帰る。そして、化学的な足跡を残し、その足跡に沿って行動する能力を持っている。

 最初に巣を離れるときは、まったくバラバラに行動する。いったん食料を見つけて巣に帰ってくる際には、足跡を残し、仲間たちがあとに続けるようにする。

 調査によれば、アリたちは、このプロセスによって、食料がある場所までの最短ルートを継続的に見つけられることがわかった。

 アリに集団的な能力があることを理解した研究者たちは、次に、アリに罠を仕掛けることにした。巣から同じ距離にある2つの場所にエサを置いてみたのだ。その結果、アリたちは1つのルートだけを用いて食料を持ち帰った。

 なぜだろうか? その理由は、化学的な足跡に従うという習性をもつため、1つのルートを進もうとするアリのほうが少しでも多ければ、ほかのアリたちをより強く誘引するため、アリの数がどんどん多くなってしまうのだ。

 こうしてアリたちは、一つの混乱したルートだけを利用する。驚くべきことに、自然界もこの問題に気づいたようだ。調査結果によれば、アリは定期的に主要なルートをはずれ、再びバラバラな方向へ歩き始める。

 アリたちは、既知の食糧源を搾取することと、次の食糧源を開拓することのバランスをとるようにプログラムされているのだ。ジョンソンはこの行動を「ワイルド・ヘア」と呼んだ。アリの遺伝子には多様性を追求する回路が備わっているのである。 』


 『 迷路やアリの事例は、資産運用という挑戦的な仕事とどんな関係があるのだろうか? 実は、大いに関係があるのだ。心理学者のホレイス・バーロウは、知性とは、何か新しい秩序を発見することにつながる推測をすることだと述べている。

 これは、問題を解くこと、議論のロジックを把握すること、適切なアナロジー(類推)を見つけ出すことも含む。では投資における知性とは、どのようなことだろうか?

 ノーマン・ジョンソンの主張は、投資家にとって非常に重要である。より完成されたシステムの中では、、専門家は役に立つ。規則に従った解決方法を提示してくれるからだ。

 しかし、システムが複雑になってくると、個人の集合体のほうが個人――それが専門家であっても――より上手に問題を解決する場合が多い。

 このことは、株式市場そのものが、たいていの場合、ほとんどの人間(投資家)よりもうまく機能していることを意味する。過去のデータがそれを実証している。株式市場のような複雑なシステムの中で専門家になるには2つの素養が不可欠であると、ジョンソンは言う。

 第一に、頭の中でシュミュレーションを行ない、さまざまな戦略を思いめぐらせ、最適な戦略を選択できなければならない。伝説的なファンドマネージャーであるジョージ・ソロスの逸話がその点に触れている。

 15年間にわたってソロスの元で働き、その仕事ぶりを間近で見てきたゴールドスタインは、ソロスのことを、自分の経験と能力とを結びつけ、世界全体のマネーとクレジットの流れを頭の中に描きながら、神がかり的な方法で売り買いする人物であると評した。

 「(ソロスは)全世界をマクロ的に把握している。あらゆる情報を用いて、それらのポイントを抽出し、どのように対処すべきかということについて、自分の考えを導き出す。チャートは見ているが、彼が処理している情報の大部分は言語的なものであり、統計的なものではない」。

 第二に、こうした思考方法を、さまざまソースからの情報と同居させなくてはならない。シュミュレーションの能力は生まれながらに備わっているものだが、多様な考えを追求できるかどうかは心がけ次第である。

 心理学者のドナルド・キャンベルは、このような思考方法について同じような言葉で表現している。創造的思考のプロセスとは「思考の多様性と選択的な記憶(blind variation and retention)」である。

 言い換えると、創造的な思考においては頭の中でさまざまな考えが思い浮かぶが、最終的には、目の前の目標を達成するうえで有益な考えだけが選択される、ということである。多様性は、ジョンソンの言う”弱いシグナル”を見つけ出すことを可能にする。

 弱いシグナルとは、主流となっているアイデアとはまったく異なる新しいアイデアの兆し(新しい技術や新しい変化など)かもしれないし、あるいは予期せぬソースから正しいタイミングでもたらされた正しい情報の一片かもしれない。

 実際、最近の研究によれば、ある組織の中で必要とされる知識の約70%は、(従来の学習という概念とは異なる)こうした思考方法によってもたらされるという。次の有益な考えがどこから来るかを知ることはたいへん難しい。

 とはいえ、多様な情報ソースに接することによって、有益な考えを見つける可能性が高まるのは確かなようである。 』


 『 メリルリンチ・インベストメント・マネジャーズのアーサー・ザイケル元会長は、よく知られた論文の中で、優れた投資パフォーマンスを達成するには、会社のキーパーソンが創造的な人物でなければならないと主張している。彼が言う創造的な人物の条件は次のようなものである。

 ・ 知的好奇心をもっていること

 ・ 考え方が柔軟で、新しい情報を受け入れられること

 ・ 問題を認識し、それらを明確かつ正確に定義できること

 ・ 情報をさまざまな方法で組み合わせ、解決方法を導き出せること

 ・ 権威主義ではなく異端であること

 ・ 現状に満足せず、強い意志をもち、高いモチベーションを保つこと

 ・ きわめて知性的であること

 ・ 目標第一主義であること

 多様性は、自然界やわれわれの頭の中で起きている多くのプロセスの燃料である。投資家があまりにも狭い情報ソースに基づいた取引方法に頼ろうとするなら、多様性の力を利用するチャンスを逃してしまうだろう。

 もちろん、多様性にもマイナスの面があり、闇雲にアイデアの多様性を追求するならば、役に立たないような大量の情報を頭の中で処理しなければならない。

 しかし、バランスのとれた多様性は、思慮深い投資家のパフォーマンスを高め、生活の向上をもたらすだろう。 』 (第69回) 


ブックハンター「キッチンと食の相反関係」

2018-07-04 18:39:04 | 独学

 169. キッチンと食の相反関係   (マイケル・ブース著 朝日新聞Globe2018年7月)

 The Man Who Eats the World [マイケル・ブースの世界を食べる28]

 『 私が最近考えた仮説の一つを、みなさんに話させてください。それは「キッチンにお金をつぎ込む国ほど、料理の質がいまひとつになる」ということだ。その心は次のようなものだ。

 世界を旅しながら見てきた、レストランなどのプロ向けのキッチンというより、ごく一般的な家庭のキッチンの中で、一番印象が薄かったのは、インドやベトナム、フランスといった国々のものだった。日本も含まれるだろう。

 狭かったり(少なくとも日本の都市では)、時には私の衛生基準を満たさなかったり(失礼、インド)、調理機器がそろわなかったり(ベトナム)、他の部屋と比べると付け足したような感じがしたり(フランスのほとんどの一般家庭のように)していた。

 でも、それがなんだ。こうした国々が生み出す食こそ、おいしさ、美しさ、魅力、いずれも間違いなく世界随一なのだから。こうした国々の料理を、広々としてピカピカの、調理機器が完備されたキッチンを誇る国々と比べてみるといい。

 例えば米国やカナダ。北米のキッチンはとにかく巨大、そこに並ぶ機器は初期の宇宙開発よりも高い計算能力を誇る。最近ではしばしば英国や北欧でもキッチンは手が込んでいて、手作りの戸棚やソファより大きい調理器具、キャデラックほどの大きさの冷蔵庫に何万ドルとかかけている。

 しかし、こうした国々の食べ物ときたらどうだろう。失礼のないように言うなら「料理の評価は最高というわけではないですね」、正直に言えば「米国ほどひどい食事の国があるだろうか」となる。

 キッチンについて考え出したのは、最近引っ越したばかりで、新居のキッチンがあまり気に入っていないから。我が家のキッチンで何を優先すべきかを見定め、どうデザインし直すか考えているところなのだ。

 一家の調理を任され、食についての物書きをしている身として、ことキッチンとなると、かなりのこだわりと偏愛ぶりを自負している。例えば、調理台にはあれこれ何も置かない。トースターやフードプロセッサーがホコリをかぶり、邪魔になるのは耐えられない。

 すべては食器棚にしまわれるべきだし、そうすることで不必要な器具の断捨離もできる。電動缶切りしかり、炊飯器しかり。大きなキッチンより小さなキッチンが好きだ。大小それぞれのキッチンで生活してきたが、食材や器具を集めてずっと歩き回るよりも、すべて手の届く範囲内にあるほうがよっぽどいい。

 以前、とても広いキッチンのアパートに住んでいたとき、夕食づくりではかなりくたびれたものだった。見晴らしはいいにこしたことはないが、ダイニングやリビングと隔てる壁がない「オープンキッチン」という概念は嫌いになりつつある。

 来客ととるに足らない会話を交わす必要がなく、一人で料理するほうが、私は断然好きだ。家中に臭いを充満させずに自由に魚を揚げられるし、誰かに見られることなく赤ワインを一杯余計に飲んだり、カキの殻をむくついでに、2,3個すすったりできる。

 それって、そんなに悪いことじゃないですよね? キッチンがどう見えるかを気にして時間と労力をかけすぎ、華美な冷蔵庫やオーブンにお金を使いすぎてしまったら、料理によくない影響がでないだろうか。

 いっそのことフランス人を見習って、キッチンが設置され、料理器機が備え付けられた当時のままにしておくべきか。見た目から、それは1978年といったところだが……。 』(訳・華原みなと)


 私の考えでは、インド、ベトナム、フランス、日本の共通点は、市場が成熟していて、新鮮な材料が庶民の手にとどくことだと思います。二番目には、庶民が得意とする調味料と調理器具、調理方法を持っていることも大きいと考えます。(第168回)


ブックハンター「世界経済の革命児 フィル・ナイト」

2018-06-29 04:46:37 | 独学

 168. 世界経済の革命児23 フィル・ナイト (大西康之 文芸春秋 2018年7月号)

 ナイキの創業者フィル・ナイト(Phil Knight) 「シューズ市場で自らの仮説を証明した男」のお話です。

 『 世界で最もブランド価値の高いアパレル・ブランドは、一人の若者の突拍子もない仮説から誕生した。

 「かってドイツの独壇場だったカメラ市場を日本メーカーが席巻した。ランニングシューズ市場でも同じことが起こる可能性があるのではないか」。

 一九六〇年代前半にこの論文を書いたのは、スタンフォード大学大学院で経営学を学んでいたフィル・ナイト。

 自分の仮説を実証するために彼が作った、日本製ランニングシューズの輸入販売会社「ブルーリボン」は、その後「Nike(ナイキ)」と名前をかえ、今や売上高三百四十三億ドル(三兆七千七百億円)の巨大企業になった。

 ナイトは大学の陸上部に所属していたからランニングシューズには詳しい。琴線に触れたのは日本のオニッカ(現アシックス)の製品だった。大学院を修了したナイトは、父親から金を借りて世界を巡るバックパッカーの旅に出る。

 機中で「How to Do Business with the Japanese (日本人と仕事をする方法)」という本を丸暗記したナイトは、神戸のオニッカ本社を訪れ「アメリカのランニングシューズ市場は十億ドル規模になる」 「自分はオレゴンにある「ブルーリボン・スポーツ」の代表だ」とハッタリをかました。

 ちょうど米国進出を計画していたオニッカは、ナイトを信用して代理店契約を結ぶ。その場で思いついた「ブルーリボン」という名前は、陸上競技で好成績を納めた選手に贈られる賞状のことだ。

 ナイトは父親の友人のアドバイスを受けて公認会計士の資格も取り、会計事務所のプライスウォーターハウスで働きながら、ブルーリボンを経営する。オニッカのランニングシューズは米国でも好評だった。

 当時、米国を含む世界のランニングシューズ市場ではドイツのアディダスが圧倒的シェアを持っていたが、オニッカはアディダスに引けを取らない人気を獲得したのだ。

 「ライカ」に代表されるドイツのカメラメーカーから、キャノン、ニコンの日本製がシェアを奪ったように。ナイトは自分が書いた論文の仮説の正しさを証明したことになる。

 しかしオニッカとの発注トラブルなどもあり、ナイトはパートナーを日本ゴム(現あさひシューズ)に変え、自社ブランドのシューズ生産に乗り出す。

 この時、事業資金を提供したのが日本の総合商社、日商岩井(現双日)ポートランド支店にいた営業担当の皇(すめらぎ)孝之だった。時は一九七〇年、ナイトは三十二歳、皇は二十八歳。 

 駆け出しの商社マンだった皇はブルーリボンに惚れこみ、独断で融資の返済請求を遅らせてベンチャー企業の資金繰りを助けた。

 シューズの横にあしらったマークがギリシャ神話の勝利の女神「Nike」の「Nike」(ニケ)が翼を広げたような形をしていたため、ブランド名を英語読みの「Nike」(ナイキ)にした。

 七一年に発売した「コルテッツ」は現在も販売されているナイキの代表的なモデル。日本では八〇年代、アイドルの田原俊彦がステージ衣装として履いたことで人気に火がついた。

だが、会社の規模拡大を急いだナイトは巨額の借り入れをするようになり、七五年、ついに小切手の不渡りを出す。従業員への給料も支払えなくなり、主力銀行のバンク・オブ・カルフォルニアはブルーリボンとの取引を停止して、「詐欺にあった」とFBIに通告した。

 ナイトのピンチを救ったのは、またも日商岩井だった。ブルーリボンの財務内容を調べた皇と上司は「再建可能」と判断。皇の上司はこう言った。「日商がブルーリボンの借金を全額返済します。 」(フィル・ナイト著「SHOE DOG くつにすべてを」より)

 日商岩井のリスクテイクによってナイトは収監を免れ、ナイキと社名を変えて世界的な大企業になった。 「日本製品がドイツの牙城を突き崩し、世界市場を席巻する」というナイトの仮説は一部が正しく、一部は間違っていた。

 アディダスの牙城を崩したのはオニッカからだったが、世界市場を席巻したのは米国ブランドのナイキ。アシックスの売上高は四千億円でナイキとは一桁違う。

 靴作りをオニッカから学んだナイトは、そこで足を止めずナイキという世界ブランドを築き上げた。オニッカは良い靴を作ることに専念しすぎた。ナイトの成功譚は、「ものづくり」も大事だが、それだけではグローバル競争に勝てないことを教えている。1 (第167回)


ブックハンター「ことばと暴力」

2018-06-20 08:57:01 | 独学

 167. ことばと暴力  (中村研一著 2017年3月)

 本書は、六百ページを超える本で、副題に”政治的なものとは何か”とあり、四部構成で、第一部 人間文化の問題性、第二部 ことばと暴力の臨界域 第三部 暴力の劇場 第四部 政治の言語的構成 です。

 重い本で、私も拾い読みをしただけです。学術書なので、全体で数十ページの注が存在します。この中から、テロリズムの章の一部を紹介いたします。

 テロリズム(terrorism)を辞書では、:政治目的のための暴力、恐怖政治 とありますが、この理解では、世界各国で発生している事象をは、うまく理解できるか疑問です。(私はたんなる暴力と理解していました)では、読んでいきましょう。


 『 テロリズムは、今、世界各地で頻発する。そして、起きるたびに流血と瓦礫を残し、見る人々に驚愕や衝撃を与え、そして生き延びた人々を「一体これは何なのだ」という問いのなかに置き去りにする。

 本章は犠牲者、そして生き延びた人々の視点に寄り添う視点からテロリズムの歴史と概念を検討したい。「テロリズム」を検討する以上、まずその定義から出発すべきである、と考えられよう。

ところが定義作業の前に難問が待ち受けている。テロリズム研究の始祖ウォルター・ラカーは、「テロリズムは予測不能で、パニックを引き起こし、憤怒を呼び起こす。……そして過去1世紀に限ってもテロリズムの特徴は大きく変わってしまった」という。

 テロリズムを定義する難しさにはいくつも理由がある。テロリズムを包括的に定義しようと試みると、「言葉の迷路」に迷い込み、取締り当局の間でさえ合意が難しい。

 なかでも、テロリズムと言う言葉が、歴史的に変化したことは重要である。「テロリズムterrorism」という語が誕生したとき、それはフランス革命期の恐怖政治を指した。史上初の「テロリズム」の用法は、史上前例のない大革命の過程で生じた。

 ロベスピエール派が革命政府を掌握し、〈革命裁判所〉と〈ギロチン〉による大量処刑が人々を震え上がらせた。そこに「恐怖政治(レジメ・ド・テラ 英訳 reign of terror )ということばが生まれ、その同義語として「テロリズム」が誕生した。

 「恐怖 terror」「テロリズム terrorism」の動詞形は「terrify」であり、意図的に恐怖させることを意味する。恐怖政治の指導者マクシミリアン・ロベスピエールは「平和時における人民政府の基盤が徳であるとすると、革命時における人民政府の基盤は徳と恐怖の結合である。

 徳なき恐怖は悪であり、恐怖なき徳は無力である。恐怖は、素早く冷酷で確固とした正義にほかならない」という有名な言葉を残している。

 テロリズムと言う言葉は、フランス革命で生まれ、ロシア革命後のロシア革命体制でフランス革命を離れ、第一次大戦後の小集団、小党派を主体とする暴力に、その後、民族独立運動、過激派集団による、非政府主体の過程で生ずる暴力をも指すようになる。

 そして規範との結びつきを失って、暴力による恐怖の巻き起こしに純化してゆく、これらと並行して、攻撃する標的も「敵」以外の人・場所・施設に拡散する傾向が進んだ。

 以下は、国際的に広く受け入れられているアレックス・シュミットの定義である。

 「テロリズムとは、暴力行使を繰り返し、不安定をかき立てる手法である。攻撃者には、非公然の個人や集団、または国家がなる。暴力行為の動機には、異常な、犯罪的な、または政治的なものがある。

 働きかけの対象は、暗殺にあっては暴力を向けた犠牲者自体であったが、テロリズムにあっては犠牲者ではない。犠牲者は、たまたま確率的に暴力を向けられ、また、働きかけの対象に与える効果を考慮して攻撃される。

 犠牲者は攻撃者のメッセージ発信器にされる。攻撃者から働きかけの対象に向けられた狙いは、威嚇、強制、政治宣伝に分けられ、それに応じて脅迫や暴力行使に基礎を置くコミュニケーション過程は三つに分類される。

 威嚇では戦慄させるため、強制では要求を突きつけるため、そして、宣伝では関心を引きつけるために、犠牲者に向けられた暴力が活用される。」 』


 次に9・11事件の一部を読んでいきます。

 『 9・11は、民間航空機という巨大な文明の利器をハイジャックし、人口が最も密集した巨大な建造物を標的として、ハイジャッカー自身が操縦して突入させた事件である。

 9・11事件とは、米国民間航空機の4便のハイジャックにはじまり、ニューヨーク・ワールド・トレード。センター(WTC)のツインタワー崩壊に至る2時間14分間の経緯の総称である。

 9・11事件の重要な攻撃者は、4人の「ハイジャック後のパイロット役」である。うち北タワーのアタ、南タワーのアルシュヒ、ペンタゴンのハンジュル、シャンクスビル墜落のジャラである。

 北タワーのパイロット役のモハメッド・アタ(エジプト33歳)は1968年9月生まれのカイロの弁護士の子。カイロ大学から建築学の、また留学先のハンブルグ工科大学から都市工学の学士号を取得した。

 構造設計を分析する専門知識をもち、建設現場を調査し、アルバイト先のハンブルグの設計事務所では設計図の製図係をしていた。アタは、巨大建造物の構造を分析する高い専門能力を持っていた。

 また、ツインタワーの構造設計技師が〈タワーは航空機が衝突しても倒壊しない〉と主張したことも知っていたに違いない。

 南タワーのパイロット役マルワン・アルシェヒ(アラブ首長国連邦33歳)は1978年5月生まれのイスラム教モスク礼拝進行役の子。高校卒業後、同国の軍人になり、半年後に軍奨学金でドイツに留学してボン大学に学籍を置き、後にハンブルクに移籍し、海洋工学を専攻した。

 アルシュヒは、ハンブルクでアタらと共同生活をし、アタに兄事していた。米国滞在中の1年以上、アルシェヒは、アタと一心同体の活動をし、ともに航空機免許を取得し、ボーイング767のシュミュレーション訓練を行い、ツインタワーの構造を精査し、航空機をどう突入させればタワーを倒壊させられるか検討していた。

 ペンタゴンのパイロット役のハニ・ハンジュルは、サウジアラビアの裕福な商人の子。1996年以降、パイロットになるべく米国に長期間滞在して、航空学校に通い、1999年4月、営業用多発航空機の免許を取得した。

 帰国後、彼は民間航空会社に就職活動をしたが、ことごとく失敗した。生きるヴィジョンを失ったハンジュルは、アルカイダのパイロット役にリクルートした。

 墜落機のパイロット役ジアド・ジャラ(レバノン26歳)は、1975年5月生まれで、ベイルートのキリスト教の学校に通った。その後ドイツのグライフスワルトのカレッジでドイツ語を学び、1997年9月、ハンブルクの応用科学大学に入学し航空工学を専攻した。

 アタ、アルシェヒ、ジャラらは「ハンブルグ集団」と呼ばれるが、そこには「航空機作戦」の標的である超高層ビルの専攻者アタと、武器とする民間航空機の専攻者ジャラが含まれていた。 』


 2001年9月11日朝、アメリカの空港は、いつもと変わらず、早朝便に乗る人々で混雑していた。東海岸の三つの空港では、中東出身の若者たち計19名が、米大陸横断の国内線4便のカウンターの列にいた。

 ボストンの空港では、ロサンジェルス行き、北タアー機①および南タワー機②の2便の受付カウンターのそれぞれに若者5名が並んだ。また、首都ワシントンの空港のロサンジェルス行き、ペンタゴン機③には、5名が、そしてニューヨークの空港では、サンフランシスコ行き、墜落機、④には4名が並んだ。

 その19名が、受付カウンターで航空会社のパスポート・チェックをクリアーして搭乗券を受け取り、保安検査場を抜け、各便に搭乗した。なお、ワシントン・ダラス空港の保安検査場で、③で搭乗しようとした5人の若者の中の3人、アルハミズとアルミフダルとモケドに警報が鳴った。

 うちアルハミズとアルミフダルとは、CIAがアルカイダ関係者としてマークしていたが、この事実を航空会社や保安検査官は知らされていない。

 ①~③は速やかに離陸した。④のみが空港の混乱から予定より離陸が遅れた。やがて①~④が水平飛行に移っていく。4便に分乗した19名の座席は、事前の指定通り、前方席であった。若者たちは、客室から操縦室に通じる扉の開く瞬間を待ち構えた。

 8時14分~19分頃、操縦室と客室の間の扉が開いた瞬間、①のハイジャックがはじまった。ハイジャック―はまず操縦室に侵入してパイロットたちを排除・殺戮した。次いで機内客室を制圧した。

 ハイジャッカーの一人モハメド・アタが操縦席につき、操縦機器を操作しはじめた。ハイジャッカーに航空機の操縦能力があり、航路を標的に向けて操縦できた点が、従来のハイジャックとは異なる。

 アタは①を通常の航路から外し、ニューヨークのWTCの超高層ツインタワーの北タワーに向けて南下した。 』


 『 小都市並みの人口が空中に密集するツインタワーに、この朝も通勤客が集まっていた。8時46分、ツインタワーのそびえるWTCから数ブロック北のニューヨーク連邦準備銀行ビル(15階建て)の屋上にいた者は、突然の爆音に振り返った。

 「なんとジェット機がこっちに向かってくる。北西の方向から南に向かって。……すぐ近くを飛んできた……飛行機の窓の向こう、乗客の姿が見えたくらいで、……急にエンジン音が大きくなった。……意図的にWTCに突っ込もうとしている……次の瞬間ジェット機がビルに突っ込んだ。

 まるでタワーがジェット機を吸い込んだようでした。……尾翼がずんずんビルの中に入り込んで、それから機体がまるごと消えた。と私たちビルが揺れはじめた。……一瞬、恐怖とショックで動けなくなりましたよ。たった今見たものが信じられなかった。」

 北タワー91階(衝突階に一階下)に居たジョージ・スレイは、窓の外を見た。

 「巨大なジェット機がこちらに向かって来るではありませんか。……機首、胴体下部、そして片方の翼が見えました。私のすぐ頭上、やや右側に迫っていたのです。……(衝突の瞬間)デスク横の壁が崩れ落ち、本棚や天井のタイルが私の上に落ちてきました。……私は椅子の下にもぐって両手で頭を覆いました。 』


 『 巨大な民間航空機が、それよりひと回りスケールの大きな超高層タワーに突入した。①の機体はボーイング767ERで、全長48.5m、全幅47.5m、全高16m、総重量130トンである。

 北タワーは幅・奥行きがともに63.4mの正方形、高さ417mで地上110階建てである。突入した機内には、乗員・乗客92名が、突入された北タワーの各階層には平均役90名のテナント関係者がいた。

 ボーイング767は、北タワーの北側面の中心線上、110階建ての96階に、ほぼ真正面から、機首を約10度下向きに衝突した。胴体部は槍で突いたように95~97階の3層階に入射した。

 主翼は右翼を25度あげて衝突し、93~99階までの6階層分の外周を斜めに切り裂きつつタワー内に突入した。左右のエンジン2基は94階と96階に巨大な穴をあけた。

 突入した巨大な機体の各部、積み込まれた貨物、内装の椅子等、そして乗員乗客は、タワーの外周枠に破砕されてばらばらになりながら「鉄の嵐」となった。 』


 『 ツインタワーの構造設計はフレーム・チューブ構造と呼ばれる。この構造の特徴は主柱・主壁に相当するものがないことである。一本のタワーを上から見ると「回の字」の形状である。

 外のフレーム(外周枠)と内のチューブ(芯柱コア)とが荷重を支え、風など横からの入力に抵抗する。外側は外周枠で、「回」の字の「大きな口の字」の一辺が63.4mの正方形である。

 北タワーの高さは417m、南タワーの高さは415mである。その側面には、長さ400以上の鉄板が59枚一定の隙間を置いて縦縞模様に並んでいる。

 したがって東西南北の4側面を、4x59の計236枚の鉄板が一定の隙間を置いて取り囲む超高層の鳥かごの形状である。あるいは太いチューブと形容できる。

 内側は中央部の芯柱コア部(エレベーターと機械室と3つの避難階段等を収容する)である。上から見ると「回」の字の「小さな口の字」で、長方形27mx41mであり、4辺上と内部とに計47本の鉄柱が配置されている。

 芯柱コア部は北タワー地上417mを、ロビー階から屋上まで貫く細長いチューブで、芯柱の役割を果たす。このフレーム・チューブ構造は、画期的な広さのオフイス面積がとれ、かつ、自重が軽い。そのため主任構造設計技師だったジョン・スキリングらは、高い名声を得た。

 芯柱コア部の47本の鉄柱と外周枠236枚の鉄板とが荷重を支える。荷重の約60%は、芯柱コア部の47本の鉄柱が支える。とくに長方形の4頂点に配置された4本の鉄柱が垂直荷重の12%を支える。

 外周枠の236枚の鉄板は荷重の約40%を支える。ツインタワーは海に突き出た灯台のように強い暴風を受ける。外周枠は、この水平の入力に対する抵抗を受け持ち、「風を柳と受け流す」柔構造に設計されている。

 1993年2月ラムジ・ヨセフがタワーの横倒しを企図したのに対し、構造設計技師たちが〈たとえ民間航空機が衝突しても倒壊しない〉と宣伝したのは、この構造が水平の入力に強い点を強調したものであり、たとえば236枚の鉄板の相当数が破壊されても倒壊にはつながらないと主張したのである。 』


 『 ①のWTC北タワー衝突(8時46分)の数分後の8時52分ごろ、②がハイジャックされた。アルシェヒが操縦席につき、ハイジャック機をWTCツインタワーのもう一方の南タワーに航路を向けた。

 ①はWTCに北から接近したが、②はそれと180度反対の南から接近する航路をとった。2機のハイジャック機は、16分半の間をおいて、南北に並ぶツインタワーのそれぞれを、南北正反対の方向から挟み撃ちにした。

 ②のコックピットの操縦席からアルシェヒは、自由の女神像の先に南タワーを視認した。そのすぐ向こうには噴煙を巻き上げる北タワーがあった。②の機内には、乗員9名・乗客56名がいた。

 9時02分59秒、陽光のもと異次元から現れたような黒い機影が突如視界に飛び込み、南タワーの南側面に吸い込まれて巨大な裂け目をつくりだし、その一部が反対側のタワー北北東の方向に突き抜けた。その間0.6秒

 次の一瞬、オレンジと黒の巨大な火の玉がタワーの裂け目から噴出し、次いであたかも白煙かのように見える諸物体が噴出した。

 ジェット燃料は約5分間猛烈な勢いで燃え、また可燃物に火をつけ、衝突階層前後とそれより上層階に火災を発生させた。 』


 『 1機ではなく2機であった。ツインタワーの双方向に、しかも正反対の方向から突入した。その間わずか16分半。1機目の突入は人々に驚きであった。もしも1機目だけならば〈事故かもしれない〉と解釈できた。

 しかし2機目の突入は、〈事故でない〉と教えた。〈攻撃する意図に基ずいた巨大な暴力〉である、と。見た人は誰も、こう考えるしかない事態が起こっていた。

 攻撃者の観点からは、ツインタワーの双方に2機を相次ぎ突入させたことは、「言説では言語」(ノンディスカーシブ)による意図表明であった。これは攻撃である、と。

 個人が操作可能な最も巨大な物体である民間航空機を武器にして、その運動エネルギーとジェット燃料を、乗員・乗客もろとも、ツインタワーに突入させて倒壊させる、と。

 そのありさまを、全米・全世界に見せつける、と。これを攻撃とともに死ぬ行為を通じて実現する、と意図表明したのである。

 2機が相次いで攻撃したことは、2機目の突入を見ろと強制した。1機目の突入結果、WTC周辺では数百の視線がツインタワーを注視し、また、全米各社のテレビカメラがツインタワーにフォーカスしていた。

 そのなかで2機目が衝突した。これが2機目の突入を「見せる暴力」にし、「暴力劇場」をつくりだした。1機目の突入は2機目のそれを見せる機能を果たした。

 ツインタワーから大通りを隔てた歩道にいた港湾区警察WTC分署長アンソニー・ウィティカーは、「轟音を聴き、同時に空気が吸い込むような大きな音がして、それから、ドーン!ときました……巨大な火の玉がビルから噴き出し、私の横顔に熱波が感じられました」という。

 注目すべきは、ヴェテラン警官ウィティカーが、恐怖心が湧かないように、意識してツインタワーの方向を見ないようにしていた点である。しかし、大部分の人々は噴煙を巻き上げる北タワーに視線を吸い寄せられ、2機目が突入する光景を見せつけられた。

 大通りを隔てた歩道上で見上げていた大量の人々は、「オーノー!」の悲鳴をあげた。そして、人々は恐怖にかられて、WTCから遠ざかる方向に走り出し、物陰に隠れようとした。

 テレビカメラも同様にツインタワーにフォーカスしており、その結果、南タワー突入を全米の画面に同時に中継した。テレビで中継を見ていた視聴者も、言葉にできない驚愕・恐怖に凍り付いた。

 衝突の瞬間を映し出すテレビカメラは、爆発音と悲鳴を伴って激しく揺れ、テレビの同時中継レポーターも「オーマイゴット」と叫んだ。この録画を見て、世界中の何億人もが航空機衝突に驚愕・恐怖する。

 見せつけられたのは、航空機の突入シーン、火の玉が噴出するシーン、諸物体が散乱するシーン、瓦礫を撒き散らすシーン、人々が高層階から階下にジャンプするシーン、散乱する遺体と血の海であった。 』 (第166回)