羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その1)
はじめに
土佐和紙は千年余りの歴史があり、江戸時代の
土佐七色紙(黄紙・浅黄紙・桃色紙・柿色紙・
紫色紙・萌黄色紙・朱善寺紙)を山内一豊が
徳川将軍家へ献上し御用紙となってから普及。
明治初期には吉井源太の手による極薄紙の
土佐典具帖紙により、謄写版原紙として全国へ、
またタイプ原紙として世界へと拡がり
日本の産業革命の一翼を担うまでに栄えた。
明治より大正・昭和初期へと連綿と、川上から
三椏等の原料の集積地、紙の産地として
上方との交易により栄え、大きな富を得ている。
その富は上方の影響を受けながらも、
土佐の風土から特徴のある商家群として、
椙本神社周辺より形成されました。
この町並みが町民の誇りとなり、いの町の
厚みのある町づくりのシンボルに。
また、現在を生活しながら、過去の風土と歴史
を未来に繋いでいくことが使命だと思います。
町並みの変遷と構成
長宗我部時代には商業集落はないが、
明治5年の記録では「七丁ヶ芝(大国町・西町・
若宮町・幸町)」=(芝町ともいう)が
いの町の市街地に生れている。
野中兼山の時代、仁淀川の治水用堤防建設から
八田堰・鎌田堰に着工し伊野側にも築かれた。
これらの条件から七丁ヶ芝の岸辺が河港となり、
集落を形成したもようである。
明治20年四国新道の開通に伴い、
繁栄の中心は、次第に問屋坂に移っていった。
伊野の伝統的建造物群は、江戸末期河港の
椙本神社前の七丁ヶ芝の岸辺に移転して以降、
新道の開通や電車の開通、製紙業の繁栄に伴い、
明治末期までに形成されていった。