Il Volo Infinito

映画ブログ『黄金色の日々』別館 イタリアのテノールトリオ IL VOLOの部屋 他にミュージカル部多少

エリザベート ウィーン版2005年DVD~忠実なる捕獲者

2017年12月01日 | ステージ

欧州人の声帯はどうなっておるのか。

マテはハンガリー、マヤさんはオランダ人。もはや人種どうでもいいが、とにかく喉が強い。
十数年ぶりに聞き直したエリザベートの曲は高低音域がかなり広かった。
地声の迫力に押されっぱなし。
そしてドイツ語の強い響きと共に繰り出される喧嘩腰の説得力

コーラス、オペラ並みで聞きほれる。オケのレベルは言うまでもない。冒頭ヅカ版と東宝版は、各キャラクターがエリザベートへの想いを短いソロで歌うのだが、ウィーン版は群舞とコーラスだけになっている。そのなかで対峙するルキーニとトート。

EIisabeth 1
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プレスリーさん…

ルキーニ役のセルカン・カヤの切れっぷりもすごい。「ア~モ~レ!!」

衣装と舞台装置も素晴らしい。あの橋のようなものは、ルキーニがトートから渡されてエリザベートを射すヤスリの形状とか!
夫フランツ皇帝、姑ゾフィー、息子ルドルフ皇太子、父や母。サブキャラに交じり片羽をつけているのがトートダンサーズ。
死の手下、もしくは影どもが片翼とは。有名な舞台監督の手によるそうで、ほんと画期的だ。
ダンスも死者達の動きということで不気味。しかしこの動きは激しいダンスより難しそうだ。

なにせヅカ版も東宝版も忘却の彼方なのだが、ずっと華麗だった気がする。まあ当然だが。
ウィーン版は“朽ちゆくものの腐臭”が濃く立ち昇る。ゆがんだ斜陽の世界が現された舞台装置。
ハプスブルク家の落陽はヨーロッパであればこそ感じ取れるものがある。
このミュージカルは英語圏では上演されてないらしいが、なんか「色」が違うんだよね。アジア他での上演は別としても。

さて、マテトート。
野獣とか肉食系とか言われているけど、本物そのままの野生動物みたいだ。
エリザベートやルドルフのうなじをなめんばかりにするシーンは確かにフェロモンむんむんだが。 
むしろサバンナのチータが、捕獲したものの頸動脈をガブリとやっているのを見るときに感じるエロス。歯むき出しだし。
日本の通念では「死」は忍び寄るものであり、美しい見方をすれば誘惑されるものであるけど、ゲルマンな演出から見る「死」は、おのれを強く保っていなければ襲い掛かるものであるかのようだ。
それでいて、エリザベートが拒否する限り彼は噛みつき引きずり込むことはできない。身を投げ出すのを待つ捕獲者。

惚れた弱みだけでなく、死という動きのないものであるはずのトートが、生命力に満ち溢れたエリザベートを愛することにより強い動きの力を得る。
トートはエリザベートの鏡であるというのも、マテが言ってた「西洋には、死は千の顔を持つという言葉がある」というのも同じことで、結局はトートは見る者の望む形で現れる。エリザベートが自我を強くすれば、トートもそれに対応する。

Elisabeth - Der Letzte Tanz


日本語訳付き

舞台上で破廉恥行為をかます閣下…。

Elisabeth - Wenn Ich Tanzen Will


さしで勝負感がすごい。
生きることに目覚めたのよと言うエリザベートと、すぐに憎むようになると言うトート。互いに一歩も引かず。
皇后陛下が巨大舞台装置押してくるゲルマン演出。
マダームを誘惑するジゴロっぽいトートですが、日本でこんなあたま引っ掴んで双方噛みつかんばかりに歌ったら、夢見るファンが泡を吹く。

日本語訳付き


Elisabeth 2005 Wiem / Ich will dir nur sagen


かの有名な肖像画のドレスと共に、三つ巴シーン。
フランツ皇帝が唯一自分の意志で選んだ妻エリザベート。すれ違いや諍いを経て、ひと時の歩み寄りを示すここは第一部のクライマックス。トートの誘惑も、夫の歩み寄りも、彼女の〈私の人生は私のもの〉という宣言を崩せない。トート閣下も額縁の中から、何か訴えかけておりますが、聞いてねえよ彼女。
マヤ・ハクフォートの真骨頂。メゾ・ソプラノの声の幅は鍛錬のたまものだとしても楽々に聞こえて素晴らしい。マテトートに一歩も譲らない押し出しも(笑)

日本語訳付き

初演以来このミュージカルを十数年ぶりに見たが、歳を取ったせいかエリザベートのことがわかりやすくなった。
滅私の精神が根底にある日本では、いかに個人主義になった現代であっても彼女ほどの抵抗は我儘に感じやすい。結婚したてのうら若き頃は同情できても、姑ゾフィーが亡くなり夫フランツが彼女に歩み寄ってからも宮廷から逃げ続け、何より息子ルドルフも顧みなくなる後半生は理解しにくい。

でも、この本場ウィーンバージョンを見るとなんとなくわかるものがある。みんな強い。姑も宮廷女性も物柔らかさがない。本物の宮廷もこうだったのなら、これだけの強い締め付けに反抗するには徹底して戦うほかはなかったろう。生まれながらのエゴイストだったわけじゃなく、皇室に入る自覚も訓練も受けずに恋に恋して飛び込んだ少女が、自分でいるために頑なになっていく過程。美貌が使えるとしたのは、最初は姑達宮廷側の皇妃慣らし作戦だった。それが彼女自身が唯一つの武器だと自覚した時から保ことだけに固執し、それも無理な年齢に差し掛かってからは顔を隠し旅から旅へ。

いつも自由を求めていたというけれど、自由とは“逃げ出すこと”と設定してしまったがために、姑が亡くなり最も地位の高い身分になっても、彼女は宮廷に帰らない。
王家の窮屈さ、政治のしがらみはあったにせよ、籠はすでに壊したのに逃げ続けるエリザベート。
若く美しいままでいられない自分自身から、死なせた子供たちの影から。
立ち止まらず本当の自分自身を認められないままに、自由を求めるために逃げ出す檻を自ら作り続けた。

同じくハプスブルク家の出身だったマリー・アントワネットも、16番目の娘で甘やかされて育った。シシィと呼ばれたエリザベートも、姉がフランツ・ヨーゼフのお妃候補として厳しく教育されていた下で、自由人の父に似た彼女はお転婆に気ままに育つ。
方やフランス、方やドイツに嫁いで宮廷作法の締め付けに合い、そこから逃げ出そうともがいた。
アントワネットはドレスや賭博、離宮にお気に入りだけを引き連れて籠り、シシィは美容と旅に生涯を費やす。
その美容法で有名なのがミルク風呂だが、裏を返せばやんごとなき女性一人が毎日牛乳風呂に入ったからって、庶民にミルクが行き渡らぬはずはない。それほど国自体が死に体だったわけだ。

ヨーゼフ皇帝が自由奔放なシシィに一目惚れをしたのは、自分の中の願望を彼女に見たに他ならない。それまで逆らったことのなかった母親の静止も効かず、結婚する。無邪気な16歳の少女は初恋を永遠に続く運命と信じ、責任について深く考えもせず彼の元へ。
もしヨーゼフが、親同士のもくろみ通り従順な長女と結婚していたら歴史は変わったのだろうか。
たぶん変わらない。舞台でもサラッとあかされるが、ハプスブルク家の末期の王族たちの多くが悲惨な死を遂げている。エリザベートの従兄弟や妹も狂ったり殺されたりしているのだ。
歴史のはざまに、強い印象を残し終焉を告げる存在として選ばれたのが彼女達なんだろう。
しかしウィーンの退廃に満ちたカフェの様子は、パリの熱血青年たちが集うカフェ(レ・ミゼ)と全然違う。そこはフランスさすがのラテン。
グランテールもここなら別に浮かないだろう(笑) ウィーンすなわちデカダンの都。

身勝手でエゴイストで思い込みの激しい女性。
けれど戻る道を知らぬ孤独な女性。
その人に寄り添い、手を伸ばし、けれども本人の意思がなければ連れていけないトート。
“死”は突然襲い掛かるものと上に書いたけれど、本人が真実それを選ばなければ与えられないともしている。常に自己の選択を迫られる西洋社会らしい観念だな。日本版ではたぶん、見守り、誘惑し、最後には迎えに来る美しい死の形が前面に出されてるのかなと。
ウィーン版の、えげつないこの世なんぞさっさと見捨てておれと来い! みたいなマテトートのゴリ押しぶりは、強固なエリザベートの投影なんだよね。
おいしゃ(マテ言)に化けてエリザベートを診察した後、化けの皮を脱いで椅子をドン!とやるところがおっかない。ビクッとした(笑)


ルドルフ。一緒にDVDを見た友人が、『闇が広がる』のシーンが萌えねえ!と叫んでいた(笑) 何でこの人なんだよと。
東宝では若手の登竜門であり、若い美形がやるというルドルフだが、元々は30過ぎで亡くなる史実に忠実に、俳優もそのあたりの年齢だったらしい。それが今は、逆輸入で向こうでも若いキャストに。
私はウィーン版の彼でも全然気にならなかったな。美青年スキーではないので。


Elisabeth 14


女装閣下腕力に物言わす

トートとダンサーズの衣装は、このミュージカルには出てこないがルドルフと心中したマリー・ヴェッツェラを現しているとか。なるほど。ルドルフにはトートは女性に見えるとも取れるし、恋人と死に向かうという“愛と死”のテーマを見せているともとれるね。
しかしパンチなルドルフさん、割と重量ありそうなのに振り回してるよ女装閣下…。

日本語訳付き


Elisabeth - Boote in der Nacht


ルドルフの死に、絶望と後悔からトートに連れて行くように叫ぶエリザベート。拒否するトート。
その後の皇帝夫妻のデュエットが美しい。昔はぴんと来なかったこの歌。歳取ると分かるわ。
なんという究極のすれ違いソング。
価値観をすり合わせるのは困難だけど、孤独を囲う男女がそこから出るには、ただ互いを少しでも見ること。
なのに自分の想いを歌うだけで、互いを見ていない二人。
皇室だろうが、一般人だろうが、夫婦のあり方は同じく難しいものだね。

日本語訳付き


クライマックス。ハプスブルクの終焉をフランツ皇帝の夢の中で、エリザベート、トート、ルキーニとそろい踏みで見せる“悪夢”は、傾斜ステージが素晴らしく効果的で、マテがとち狂っていて凄かった。野獣どころか狂獣だった。
そのあとにラブラブしいエリザベートとトートのデュエットで幕を下ろすが、ここは日本版も違和感ないだろうね。むしろ真骨頂?


2012年7月初稿

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