ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

ターナーと「崇高」と男のロマン

2018年04月18日 | 文学・歴史・美術および書評
ターナー展!

行った感想書きたかったんですが、先週土曜に行ってからず〜っとわからないんで
考えたまま今日。


何がわからないって
「崇高」です。
崇高て何だ?サブライムって何なのよ〜


この「崇高」て概念、西洋絵画にやたら滅多ら登場いたします。
どこに登場するかというと、多分…
プロティスタント系、ユダヤ系、そんなとこですかね。
ニコラ・プッサンから20世紀のアメリカ美術まで「崇高」は美の一つであるとされます。

ターナーは、風景画に置いて「崇高」を求めた人です。
はあ。

それでも私には「崇高」はようわからんので
直感?ですが
まず、構図がね。「空」面積が広いのよ、ターナー。
展覧会の表紙絵のこれとか、水平ライン(アイレベル)が下の方にある。



真ん中か上の場合でも



構図は「ふかん図」
つまり、上から目線なんです。


ターナーって
「自然が好き」「だけど、文化が発展するのは素晴らしいと思ってる」
18世紀、ブルジョワジーの台頭、産業革命の中で
失われる自然に複雑な思いも持ち、その偉大さに感服しながら
労働者らもちゃんと見ている、テクノロジーを拒絶しはしない。

と、ここまで来て「あ〜!!!」わかったなんで私の頭でわからないのかが!てとこです。

つまりこれ「男のロマン」だわ!
男ってやつあ〜だと思います。
メカ好きだけど山とか自然好き

そしてもう1つなんとなくわかってしまったのが、
日本人の場合はそのサブライム、崇高さを
どっか「母なる大地」だの「母なる海」だのやりがち…?
宗教的なものはやっぱりあると思います。
キリスト教圏は、自然信仰とは一線を画していて
常に自然に抱かれる感ではないのでしょう。


「崇高」に当たるようなものを感じたことがない、なんてわけではないです。
誰だってそうと思いますが
熊野古道だの富士登山だの、すごいなあ〜ってあると思います。

ただ、それをわざわざ「かなわない人間」と「絶対的な神」に分けて対比てことは
そもそも「かなわない」てのはどこかで「敵いたい」と思ってんでないですか?
「バベルの塔」じゃないけれど。

日本人はそういうのには最初っからしめ縄つけてるから。
「この岩は神様」てなってるから!
神が別にいて岩をお創りになったんでなく、岩自体が神、山自体が神なんだよ。

ということは、「神がお創りになったとされるこの美は、自分ら芸術家にはかなわない」
とか思っているからではないの?
う〜んなぜかしっくりこない。



でもそんな「上から目線」ではまず無かったんだろう、若かりし頃のターナーの思い、憧れ
逃避ではない、まだ健全だったロマンへの旅
そういうものにも触れました。

いやいや、本当はそういう「崇高」ロマン、持ってなきゃなあ

世俗の波に巻かれて転覆寸前になるよりはいいのかも。



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