ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

主体と神話から見る「著作権」

2018年04月25日 | 文学・歴史・美術および書評
ターナー展からの流れで「サブライム」の話をしました。
サブライムに関する考察は一応、この記事でラスト。


本日、少し拡大してみます。
最近何かと問題の「著作権」です。

「二次創作」「一次創作」と、今厄介な問題を起こす「著作権」の問題

その「誰が作ったか」「オリジナルは」「主体は」という、
これに「サブライム」は、深く関わっているのです。


まず、神様に創られてない我々

批評家ノースロップ・フライは「世俗の聖典」の中で
創造主が知的であるという神話を持つ国では、大宇宙と人体との類比が用いられ
星や太陽「天」は「脳」に喩えられ、その反対のものとして、「地」は人体の下半身である排泄器官や生殖器に喩えられると語っています。

まず聖書では、創造主は自分に似せてアダム、男を創った。
何かを創り出すのは動物にはできない。人間だから、脳があるからできること。
この考えが支配的な西洋では、「頭を使う人間の男性」が常に上位です。
全ての動物をコントロールできる、最上位の恵まれた存在が人間です。

そこでは、「作品」とは神が人間を創ったのと同様の行為なんだから、きちんとした意図、目的を持って作られねばなりません。
「神は漫然と暇つぶしにテキトーに勢いで人間を創られた」では、有り難み無いですし、それじゃあ人間なんかゴミです…
そこは聖書では、神は人を愛すべきものとして創ったんだとされてます。

己の内に「神」を感じ、神の為せる業のように、唯一無二の天才性を発揮し、その作品によって愛をもたらし、人々を導く、
とでも言いますですか…
だから常に「芸術は何のためにあるか」論争が起きる。
19世紀末になると、グローバル化が進み、もう少し考えも多様化してきますが。


では一方、日本はどうか。
日本神話では、実は人間はいつ誕生したのかよくわからないのです。

国がどうやってできたかはあるし、神と言ってもヤハウェのように一人ではないし。
気がつくともういたんではないかと思います。
単独で名前もある「アダム」に対して、我々は「人々」というモブです。


仏教ではどうか。宗派によって違うようです。
一神教に近いものから、多神教、地方に行くと「神仏習合」もあるのですが
大雑把に言うとやはり一神教ではありません。

「創作」と結びつけられるものの手がかりとなる創造神話は無く、
なら母体のインド神話ということになると思いますが、インド神話でもちょっと具体的に浮かばない。


「誰が創ったのか明記していない」「しかし国造り物語はある」


聖書世界では、「誰が創ったか」は常に大事な事です。
「民間伝承」では作品にはなりません。
ですから、(さして中身が無くても)デュシャンみたいに便器にサインしたって「作品」になります。
作者名と著作権さえあれば、あとは各自「意図は最初からあるもの」として読み取ろうとします。
(マグリットはこれを逆手に取ったりしています)
あとは批評家が「意図は何か」とか探ったりするので、「意図は既存の価値の破壊」とかなんとか言ってればOK。

「平家物語」の作者は諸説あるものの
そこの精神、内容と世界が大事なのであって、作者個人名は我々にとってさして問題にならない。(研究者には大事な課題ですが)
万葉集には作者不明が多くあり、更にそれを後にアレンジした作品まで出る。

もし、日本の神社というものが、「絶対であり、手を加え作り替えたり、移動させてはならないもの」
であるなら、「分祀」「遷宮」なんてできませんし、最初から大理石かなんかで作るんじゃないですかね。

江戸春画には作者不詳のものも多くありますが
それはやはり、西洋の作品ー作者と受容のシステムや考え方自体、異なってるからだと思います。


ともかく、我々はこの国ならではの特性を持つゆえもあって、西洋とは違う独特な考えかた、文化を持ってきた。
そうすると創造主=「主体」という考え方が、少し様相を異にしてしまうのではなかろうかと思うのです。





「日本らしい」が難しい理由

サッカーのハリルホジッチ監督、縦パスサッカーをやりたかったけど
「それは日本人に合わなかった」と反発された。
しかし、サッカーのルールに従った合理性を追求すれば
サッカーの生まれた国々の理屈でやるのが一番理にかなっているんでは。
でも、なかなかそうはできないジレンマ、これがずっとあるのですね。

それはサッカーだけの話ではなく
創作においても言えること。
海外の絵の投稿サイトで「作者名のサインが無いともよっとする」と言われるのも
日本では作者名は「売名してからネームバリューとして使うもので、さして有名で無いなら
モブ的個人に名はいらぬ(むしろ奪う)」のも
そういうところかもしれません。

日本で「著作権」の問題をスムーズに運ぶには
それこそ、サッカーで言うなら「縦パス」サッカーを心から納得し、個人技、1対1、全員が神に選ばれた天才
これをやらないと難しい。
しかし、モブである我々にとって「名」を持つ特別な個人は、「人」ではなく「神」ですから
下手すると足を引っ張り合うのだと思います。



では
もし仮に聖書のサブライムーサブジェクトという考えを一旦外して
この国らしい考え方をするならどうなるの?ということです。
パスサッカー、やりましょうよ。


そうすると、
「原作」をお創りになった、天才個人の名が重要なのではなく
「元ネタ」に値する中身部分
これを「回す」、共有するものになります。

それは2次創作の考えにつながります。


しかし、この問題をなかなかクリアにできないのは
上で述べた神話的な特性の違いに加え
長い間、西洋を支配していただろう聖書精神と「資本主義」が
あまりにも深く結びついてきたからだとも思います。


世界的に見れば、日本文化はあまりにもローカルです。
これをクリアにしていくとなると
2次創作はある条件下でしか、正論となるのは難しいことになります。

同人誌においては
コミケが「頒布目的ではなく、参加者にお客様はおらず、コミュニティである」と、米沢さんの時代には
繰り返し「アピール(参加案内)」に書いてあったのですが
企業が入り、出版社ルートと別な「販路」を開拓したことで
この問題は余計にグレーの色を濃くしたまま保留になっていきました。

ですが、アート全体で見れば
日本のサブカルを支えてきた小規模のサークルの集まりとその表現活動というのは
決して禁止すべきものでは無いと思います。


もしも問題が「作品」の性質の問題ではなく、経済の問題にあるのであれば
原作者にとって経済的なデメリットは皆無、になれば良いだけなんですけどね。


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