ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

明治の天才画家、青木繁が生きづらかった理由

2019年10月25日 | 文学・歴史・美術および書評
明治時代以降の、いや厳密に言えば
それは「市民革命後」の世界の命題になってしまったかもしれませんが

芸術家というのは民主主義によって貧困に陥ったと言えてしまう。


天才画家、青木繁について。

明治15年、久留米市生まれ。
漱石にも絶賛された天才ですが
貧苦の果てに若くして亡くなった。

まず、青木を苦しめたものの1つに
日本独特の「家父長制」というのがあることを考慮すべきと思います。
日本はこの家父長制と士族というのが、維新で失われたはずが
「家」のシステムは根強く残りました。
理由の1つに、政府が徴兵する時に長男は家を継ぐので兵役免除したとか
そういうのもあると思います。
もちろん江戸時代以前の慣習と常識を
そう簡単には捨てられないのが大きいでしょうが。


青木繁は元士族の家に長男として生まれました。
父は厳しい人で、当然ながら夢である画業を許してくれることもなく
才能を褒めるなんてこともなかった。
姉もまた、明治の女性らしくキツい性格だったようです。
家族がまんま、江戸時代の士族のプライドでできている。

繁の父は維新後に事業を立ち上げたらしいのですが
失敗して借金を作った。
ちょうど、繁が美大を出てそこそこ成功していた時だったのですが
そこに、久留米の実家から毒姉がやってきまして。

「あんた長男なんだから家のために働くのが筋でしょう」

「知るか」って追い返すことはできず、責任感も強い繁。
成功と言っても、友人とシェアハウスに住んでおり
とてもじゃないが食わせていくことまではできない。

これをですね…毒姉がこれでもかというほど罵ったのです。
クズだの無能だの。「そんな絵なんかいくらになるんだ!絵なんてとっととおやめ」

献身的に尽くした弟がいたゴッホと大違いです。

でも繁、画業だけは手放したくない。
天才の繁から絵を奪ってしまうと何も残らない。
働きながら描いた画家もいるっちゃあいますが
そんなに器用な天才って、少ないかもなあ逆に。

趣味でやってくなんて絶対にできない、死んだって描いてたい彼。

プライドは高い理想家、つまり
世渡りは下手。
営業が苦手ならパトロンがいる(汗)。


なんとか絵を売って、あるいは挿絵の仕事をしたらどうかと
友人たちが気をまわしてくれましたが
繁、「完璧主義」です。
そんなぬるい仕事をする自分が許せない。
でも、貧乏な自分も許せない。情けない…。

当時は日露戦争後で、景気はそうは悪い方でなかったと思うし
せめて毒づかないで理解してくれる姉とかならよかったんですが…
藤田嗣治の恋人なんか、絵を売り込みに行ってくれましたよ;

余談ですが、マルセル・デュシャンも生活できなくて
お父さんに生活費をもらっていました。
パウル・クレーは「主夫」で子育てしながら描いてましたね。

しかし、繁のあの煩悶と放浪は
おそらく貧乏より辛かったと思われます。
否定とプレッシャー。重力が重すぎて飛べない。


さらに
その辛さをセックスで紛らわす…
すると
今度は恋人の福田たねが妊娠してしまう。


「逃げよう」

繁は毒姉を東京に残し、たねと逃亡します。
相当追い詰められた中、男の子を出産(後の福田蘭堂)

しかし、今度は父親が病気ということで
その看病のために借金までして家に帰ります。久留米で一年間の介護。
でもそれでまたブランクができてしまう。
父が死ぬと、家はますます重くのしかかりました。

スランプ脱出のため多く制作し、白馬会にも応募しますが、絵はことごとく落選。
時代の方もじわじわ、ニーズを変えていきました。

美術市場トレンド、世相、日露戦争以降の日本はどんどん戦争大好き国家になり
だんだんと、青木繁の追った「美」を理解しなくなっていったのかも。
いやそれとも…
プレッシャーが彼からイマジネーションを奪ったのかも。

この毒姉らは繁が病気で亡くなる時まで、一度も優しいことはなかったらしいです。



さて
美術はその昔は
「アーティスト」でなく「アルティザン」のものでした。
「芸術」アートは模倣の意味でした。
「自己」表現というよりは、宗教画や宮廷画家としてやって行ってたわけ。
(各国、それでも画家の雇用事情はひどかったりですが)

市民革命が起きると、まず画題が変化します。
それまで貴族の肖像画を受注生産してた貴族がいなくなる。
元宮廷画家がその後も受注できた時代はよかったですが
写真にとって代わられ
宗教画…もニーチェ以降は「神は死んだ」ですからね…
何を描いたら良いのやらです。

そうすると、啓蒙と革命の後の画家は
風景画とか静物やらざるを得ないかなあ。
…エロはニーズあるから売れたけど、すぐ禁止してくるし。




明治の日本はどういう風に西洋美術と向き合えばよかったのか?

今、表現の自由を挟んで
「オタク」と「アート」が対立していますが
これってちょっと、明治の日本画壇と西洋画壇に似たところもあるなと感じています。


青木繁を苦しめたのは、実は貧困と別なものの気がしました。
高すぎるプライドは、実はコンプレックスの裏返しで
ライバルの坂本繁二郎と常に自分を比較していたからかも。

例えば狩野派のようにグループ経営で
皇族などから受注したものを生産する工房なら経済的には困らない。
でも、それはいつも
芸術とは何かという部分で微妙になる。
ならば個性的表現をして、画廊に売り込む?

サザビーズオークションにかけられるとか。自分が目指す高い理想を誰か受け止めないといけないが、じゃあ誰がなぜ、それを買うのか…と。


プライドと周囲の無理解とプレッシャー及び責任感(生真面目)
画家にとってマイナス要素オンパレだなあ。

才能という花の種が落ちた場所が
波の荒い砂地であったとしか、言いようがないです。



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