PHP『心に響く・名経営者の言葉』
第4章 努力を忘れない・No.013
「人の助けも借りなければならないが
自分がしっかりしていてこそ、
他人の力も借りられるというものだ」
土井正治 元住友化学工業社長(1894~1997)
土井正治は旧姓を武内といい、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)で生まれた。
生家は浄専寺という寺で、父は軍隊布教使となり日清戦争に参加。
その際マラリアにかかり、正治が三歳のときに他界。
さらに母もその翌年に急逝してしまった。
祖父母の家で育てられることになった正治は成績優秀で、小学校では常にトップの
成績だった。
だが進学する気はなく、僧侶になる勉強をはじめていた。
一年後、京都に住んでいた叔父が「ウチから中学校へ通え」と勧めてくれたことから、
明治42(1909)年に平安中学(現在の平安高校) へ進学。
そこでもトップとなり、旧制第三高校へと進んだ。最初は「将来は京都府知事になる」
と考えていたが、知事の上に内務大臣がいると知り、目標を「内務大臣になる」に変更。
東京帝国大学法学部へ進学した。
帝大卒業後は内務省に入るつもりでいたが、同省の採用試験に合格しながら住友に
入社・大正9(1920年)理由は、後に住友商事の初代社長となる田路舜哉の影響だっ
た。同級で親友の田路が住友に入社すると聞き、それに倣ったのだという。
正治と田路は住友でも机を並べて勤務することになり、おもに労働問題を担当。
後に発生した労働争議を円満に決着させ、頭角を現した。
そして、大正11年に尼崎の名家として知られた土井家に養子入りした。
その後、田路とは別な進を歩み始めるが、昭和13(1938)年に住友金属に配属。
別の工場ながらともに副所長となり、相談し合うことも多かったという。正治は昭和
17年に住友化学総務部長に就任し、昭和19年に日本染料と合併の際の交渉委員と
して活躍した。
終戦後の財閥解体及び公職追放措置から免れたことから、正治は住友化学の社長
に就任。会社の再生と躍進に尽くした。
仕事も生活も一人では成り立たない。
だからといって他人の助けばかり期待するのは間違っている。
助けを求めるのは、自分の力ではどうしようもなくなったときだけ。
そこまで努力をすれば、どこからともなく助けの手が伸びてくるものである。
逢茶喫茶(ほうさきっさ)逢飯喫飯(ほうはんきっぱん)
目の前のことに集中して、素直にしたがう。
お茶が出たらお茶を飲み、ご飯を出されたらご飯を食べる。
食べながら何かしたり、他人のものを欲しがったり、考えごとなどをしない。
:気持ちが楽になる禅の言葉より
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