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楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

心に響く!!名経営者の言葉No.072

2018-07-18 | 先人の知恵に学ぶ

 PHP『心に響く・名経営者の言葉』
        第4章 努力を忘れない・No.013

「人の助けも借りなければならないが

   自分がしっかりしていてこそ、
     他人の力も借りられるというものだ」
            土井正治  元住友化学工業社長(18941997

  土井正治は旧姓を武内といい、兵庫県武庫郡大庄村(現在の尼崎市)で生まれた。
生家は浄専寺という寺で、父は軍隊布教使となり日清戦争に参加。
 その際マラリアにかかり、正治が三歳のときに他界。
さらに母もその翌年に急逝してしまった。
 祖父母の家で育てられることになった正治は成績優秀で、小学校では常にトップの
成績だった。
 だが進学する気はなく、僧侶になる勉強をはじめていた。
一年後、京都に住んでいた叔父が「ウチから中学校へ通え」と勧めてくれたことから、
明治42(1909)年に平安中学(現在の平安高校) へ進学。
 そこでもトップとなり、旧制第三高校へと進んだ。最初は「将来は京都府知事になる」
と考えていたが、知事の上に内務大臣がいると知り、目標を「内務大臣になる」に変更。
 東京帝国大学法学部へ進学した。
帝大卒業後は内務省に入るつもりでいたが、同省の採用試験に合格しながら住友に
入社・大正9(1920年)理由は、後に住友商事の初代社長となる田路舜哉の影響だっ
た。同級で親友の田路が住友に入社すると聞き、それに倣ったのだという。
 正治と田路は住友でも机を並べて勤務することになり、おもに労働問題を担当。
後に発生した労働争議を円満に決着させ、頭角を現した。
 そして、大正11年に尼崎の名家として知られた土井家に養子入りした。
その後、田路とは別な進を歩み始めるが、昭和13(1938)年に住友金属に配属。
 別の工場ながらともに副所長となり、相談し合うことも多かったという。正治は昭和
17年に住友化学総務部長に就任し、昭和19年に日本染料と合併の際の交渉委員と
して活躍した。
 終戦後の財閥解体及び公職追放措置から免れたことから、正治は住友化学の社長
に就任。会社の再生と躍進に尽くした。

 仕事も生活も一人では成り立たない。
だからといって他人の助けばかり期待するのは間違っている。
 助けを求めるのは、自分の力ではどうしようもなくなったときだけ。
そこまで努力をすれば、どこからともなく助けの手が伸びてくるものである。  

逢茶喫茶(ほうさきっさ)逢飯喫飯(ほうはんきっぱん)

目の前のことに集中して、素直にしたがう。
お茶が出たらお茶を飲み、ご飯を出されたらご飯を食べる。
食べながら何かしたり、他人のものを欲しがったり、考えごとなどをしない。
                     :気持ちが楽になる禅の言葉より 


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