林立する超高層ビル群、そして大ターミナル周辺のビジネス街。そこの1日あたりの人口変動はすさまじい。というのもその地区には基本的にヒトは住んでいない。真夜中から朝にかけてはひとっこひとり見られない光景を目にすることができる。
この光景は日本の大都市独自の光景かどうかはよくわからないのだが、映画のなかでも、例えば、リドリー・スコット監督「ブラックレイン」では、大阪が舞台となっているがそこでは朝の飲み屋街や阪急梅田駅付近のコンコースが映し出されていたが、まだ始発電車がでる前の時間帯だろうか、昼間のゴミゴミした人の往来を忘れてしまうかのような誰もいない「人工物」に囲まれた状況。一見それは人と人工物の相関関係の矛盾を暴露する光景でもあるのだが、逆にそれがより「自然」らしさを演出しているというおかしな感覚になってしまう(日野啓三も「都市という新しい自然」というようなこと言っていた気がした)。
わたしの場合、そんな誰もいない光景を東京で見たことがある。朝、誰もいないビジネス街、近年は東京も再開発として超高層ビルが丸の内や日本橋付近のビジネス街にも建てられるようになり(昔は皇居の景観とか何とかでいろいろ問題がおこったそうだが、現状の詳細はわたしはよくわからない)上を見上げないといけないぐらい視野が上まで伸びている。そこは日本の大手大企業の本社ばかりが集中する地区で何か荘厳さと偉容さも感じられる(何か日本の官僚主義と独占資本を象徴しているという変な錯覚に陥ってしまっているだけなのだろうか)。夏の朝の3、4時くらいというのは東の空がほのかに赤く染まり始めるころで、アスファルトの地面にも天然の明かりがともされるころである。あと1、2時間もすれば人が集い始めるこの場所、一日のうちで垣間見れる貴重な時間帯である。わたしはこんな光景になぜが惹かれてしまう。人工物のなかで誰もいない、つまり無の状態のなかにいるというのは、人という阻害要因がいるなかでは決して膨らまないことがたくさん浮かび上がってくる。なにか想像力がいきなり増したかのような感覚になってしまう。たぶん実際にそうであろう。余分なモノがない状況下において、しかし田舎の山や海に囲まれた空間とは違い何か《鏡》の世界に入り込んでしまった錯覚のなかで視野が広がるという感覚。かつて、映画「ドラえもん」の「鉄人兵団」かなんとかというタイトルの映画で《鏡》の世界が場面になっていたが、わたしはその映画のストーリーよりも《鏡》の世界という発想の場面に強い印象を感じた記憶がある。有と無、何か禅の境地のようであるが、フランスの哲学者ベルクソンが次のような言葉を残している。
「《存在しない》ものと考えられた或る対象の観念のうちには、《存在する》ものと考えられたこの同じ対象の観念のうちにおけるよりも、いっそう少ないどころか、いっそう多くのものがある。なぜなら、《存在しない》対象の観念は、必然的に、《存在する》対象の観念であり、さらに、全体としての現実的実在によるこの対象の排除という表象がそこに加わっているからである。
(中略)
われわれが無という観念のうちにすべての事物の消滅という観念を見ようとするならば、この観念は、事故崩壊的な観念となり、たんなる語にすぎなくなる。反対に、無という観念が真に一つの観念であるならば、われわれはそこに全体という観念におけると同じほどの実質を見いだす。」
ベルクソン、松浪信三郎・高橋允昭訳『ベルクソン全集 第四巻』1966年、白水社「存在と無」 pp.324-337
無というものがひとつの状態として認識されるならば、そこには包括的なレベルでの実質を発見することができるのである。たしかに、変な対象としての何かを設定するよりも個の「想像」でどこまででも「創造」できるのだろう。
写真家の中野正貴の作品に『TOKYO NOBODY』というのがあるが、それはまさに「誰もいない東京」を撮ったものである。誰か絶対いるはずの世界一の街・東京に誰もいないことなんてありうるのかと摩訶不思議な体験を見ているヒトは感じてしまわずにはいられない。これはなにも強制的に人を移動させてそこで撮ったものではなく、まさに一瞬を収めたものなのである。
しかし、これは何か特別な現象というわけではない。ただわれわれが気づいていないだけの姿なのである。
この光景は日本の大都市独自の光景かどうかはよくわからないのだが、映画のなかでも、例えば、リドリー・スコット監督「ブラックレイン」では、大阪が舞台となっているがそこでは朝の飲み屋街や阪急梅田駅付近のコンコースが映し出されていたが、まだ始発電車がでる前の時間帯だろうか、昼間のゴミゴミした人の往来を忘れてしまうかのような誰もいない「人工物」に囲まれた状況。一見それは人と人工物の相関関係の矛盾を暴露する光景でもあるのだが、逆にそれがより「自然」らしさを演出しているというおかしな感覚になってしまう(日野啓三も「都市という新しい自然」というようなこと言っていた気がした)。
わたしの場合、そんな誰もいない光景を東京で見たことがある。朝、誰もいないビジネス街、近年は東京も再開発として超高層ビルが丸の内や日本橋付近のビジネス街にも建てられるようになり(昔は皇居の景観とか何とかでいろいろ問題がおこったそうだが、現状の詳細はわたしはよくわからない)上を見上げないといけないぐらい視野が上まで伸びている。そこは日本の大手大企業の本社ばかりが集中する地区で何か荘厳さと偉容さも感じられる(何か日本の官僚主義と独占資本を象徴しているという変な錯覚に陥ってしまっているだけなのだろうか)。夏の朝の3、4時くらいというのは東の空がほのかに赤く染まり始めるころで、アスファルトの地面にも天然の明かりがともされるころである。あと1、2時間もすれば人が集い始めるこの場所、一日のうちで垣間見れる貴重な時間帯である。わたしはこんな光景になぜが惹かれてしまう。人工物のなかで誰もいない、つまり無の状態のなかにいるというのは、人という阻害要因がいるなかでは決して膨らまないことがたくさん浮かび上がってくる。なにか想像力がいきなり増したかのような感覚になってしまう。たぶん実際にそうであろう。余分なモノがない状況下において、しかし田舎の山や海に囲まれた空間とは違い何か《鏡》の世界に入り込んでしまった錯覚のなかで視野が広がるという感覚。かつて、映画「ドラえもん」の「鉄人兵団」かなんとかというタイトルの映画で《鏡》の世界が場面になっていたが、わたしはその映画のストーリーよりも《鏡》の世界という発想の場面に強い印象を感じた記憶がある。有と無、何か禅の境地のようであるが、フランスの哲学者ベルクソンが次のような言葉を残している。
「《存在しない》ものと考えられた或る対象の観念のうちには、《存在する》ものと考えられたこの同じ対象の観念のうちにおけるよりも、いっそう少ないどころか、いっそう多くのものがある。なぜなら、《存在しない》対象の観念は、必然的に、《存在する》対象の観念であり、さらに、全体としての現実的実在によるこの対象の排除という表象がそこに加わっているからである。
(中略)
われわれが無という観念のうちにすべての事物の消滅という観念を見ようとするならば、この観念は、事故崩壊的な観念となり、たんなる語にすぎなくなる。反対に、無という観念が真に一つの観念であるならば、われわれはそこに全体という観念におけると同じほどの実質を見いだす。」
ベルクソン、松浪信三郎・高橋允昭訳『ベルクソン全集 第四巻』1966年、白水社「存在と無」 pp.324-337
無というものがひとつの状態として認識されるならば、そこには包括的なレベルでの実質を発見することができるのである。たしかに、変な対象としての何かを設定するよりも個の「想像」でどこまででも「創造」できるのだろう。
写真家の中野正貴の作品に『TOKYO NOBODY』というのがあるが、それはまさに「誰もいない東京」を撮ったものである。誰か絶対いるはずの世界一の街・東京に誰もいないことなんてありうるのかと摩訶不思議な体験を見ているヒトは感じてしまわずにはいられない。これはなにも強制的に人を移動させてそこで撮ったものではなく、まさに一瞬を収めたものなのである。
しかし、これは何か特別な現象というわけではない。ただわれわれが気づいていないだけの姿なのである。