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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

誰もいない大都会(no one soul is not seen in a big city)

2005-07-24 10:39:48 | D的つれづれ
 林立する超高層ビル群、そして大ターミナル周辺のビジネス街。そこの1日あたりの人口変動はすさまじい。というのもその地区には基本的にヒトは住んでいない。真夜中から朝にかけてはひとっこひとり見られない光景を目にすることができる。
 この光景は日本の大都市独自の光景かどうかはよくわからないのだが、映画のなかでも、例えば、リドリー・スコット監督「ブラックレイン」では、大阪が舞台となっているがそこでは朝の飲み屋街や阪急梅田駅付近のコンコースが映し出されていたが、まだ始発電車がでる前の時間帯だろうか、昼間のゴミゴミした人の往来を忘れてしまうかのような誰もいない「人工物」に囲まれた状況。一見それは人と人工物の相関関係の矛盾を暴露する光景でもあるのだが、逆にそれがより「自然」らしさを演出しているというおかしな感覚になってしまう(日野啓三も「都市という新しい自然」というようなこと言っていた気がした)。
 わたしの場合、そんな誰もいない光景を東京で見たことがある。朝、誰もいないビジネス街、近年は東京も再開発として超高層ビルが丸の内や日本橋付近のビジネス街にも建てられるようになり(昔は皇居の景観とか何とかでいろいろ問題がおこったそうだが、現状の詳細はわたしはよくわからない)上を見上げないといけないぐらい視野が上まで伸びている。そこは日本の大手大企業の本社ばかりが集中する地区で何か荘厳さと偉容さも感じられる(何か日本の官僚主義と独占資本を象徴しているという変な錯覚に陥ってしまっているだけなのだろうか)。夏の朝の3、4時くらいというのは東の空がほのかに赤く染まり始めるころで、アスファルトの地面にも天然の明かりがともされるころである。あと1、2時間もすれば人が集い始めるこの場所、一日のうちで垣間見れる貴重な時間帯である。わたしはこんな光景になぜが惹かれてしまう。人工物のなかで誰もいない、つまり無の状態のなかにいるというのは、人という阻害要因がいるなかでは決して膨らまないことがたくさん浮かび上がってくる。なにか想像力がいきなり増したかのような感覚になってしまう。たぶん実際にそうであろう。余分なモノがない状況下において、しかし田舎の山や海に囲まれた空間とは違い何か《鏡》の世界に入り込んでしまった錯覚のなかで視野が広がるという感覚。かつて、映画「ドラえもん」の「鉄人兵団」かなんとかというタイトルの映画で《鏡》の世界が場面になっていたが、わたしはその映画のストーリーよりも《鏡》の世界という発想の場面に強い印象を感じた記憶がある。有と無、何か禅の境地のようであるが、フランスの哲学者ベルクソンが次のような言葉を残している。

 「《存在しない》ものと考えられた或る対象の観念のうちには、《存在する》ものと考えられたこの同じ対象の観念のうちにおけるよりも、いっそう少ないどころか、いっそう多くのものがある。なぜなら、《存在しない》対象の観念は、必然的に、《存在する》対象の観念であり、さらに、全体としての現実的実在によるこの対象の排除という表象がそこに加わっているからである。
    (中略)
 われわれが無という観念のうちにすべての事物の消滅という観念を見ようとするならば、この観念は、事故崩壊的な観念となり、たんなる語にすぎなくなる。反対に、無という観念が真に一つの観念であるならば、われわれはそこに全体という観念におけると同じほどの実質を見いだす。」
   ベルクソン、松浪信三郎・高橋允昭訳『ベルクソン全集 第四巻』1966年、白水社「存在と無」 pp.324-337

 無というものがひとつの状態として認識されるならば、そこには包括的なレベルでの実質を発見することができるのである。たしかに、変な対象としての何かを設定するよりも個の「想像」でどこまででも「創造」できるのだろう。
 写真家の中野正貴の作品に『TOKYO NOBODY』というのがあるが、それはまさに「誰もいない東京」を撮ったものである。誰か絶対いるはずの世界一の街・東京に誰もいないことなんてありうるのかと摩訶不思議な体験を見ているヒトは感じてしまわずにはいられない。これはなにも強制的に人を移動させてそこで撮ったものではなく、まさに一瞬を収めたものなのである。
 しかし、これは何か特別な現象というわけではない。ただわれわれが気づいていないだけの姿なのである。

懐かしの廃線駅( a good memory station's ruin)

2005-07-22 10:43:59 | D的つれづれ
 写真は、名○旧瀬戸線の大津橋駅跡です。わたしが通ってた高校の近くでもあります。タイトルの「懐かし」というのは生まれていないわたしにとっては合わない言葉なのですがまあ気にしない気にしない。右の橋をまっすぐ行くと官庁街の市役所や県庁の前にでます。かつてはそこへ行く人たちの主要ターミナルだったそうです。今は草ボーボーなの堀の底がどうなっているのかは判らないのですが、以前見たときは本当にさら地でした。ただこの駅へ下りていくための階段が当時の様子を垣間見ることができます。一応名○の私有地になっているらしいのですが、いまさら変な整備を進めるよりもこのままにしておいた方がなんだか面白みがあり歴史も感じられていいような気がします。
 わたし自身、鉄道好きということもあって特に鉄道廃線跡というのはすごく惹かれます。鉄道自体近代化の産物で人の輸送手段として用いられるわけですが、廃線跡を見ると現役時の人々でにぎわう光景を思い浮かべてしまいます。ましてやここは大都会の真ん中の廃線跡ですからなおさらその魅力がましてきます。鉄道ブームや廃線ブームというのは長く続いていますが、たぶんその趣味はなくならないだろうし、そうなってしまう場合もうブームとは言えないでしょう。最近は廃墟ブームもあって女性の間でもそういうのを見るようになってきているそうですが、日常生活に触れた近代遺産として「ひそかに」残っていてほしいものです。

美術展示会(a small exhibition of fine art)

2005-07-20 10:18:52 | D的つれづれ
 月曜日のことなのだが、待ち合わせ時間までまだ時間もあったのでどうやって時間をつぶそうと考えていたところ、入場無料で美術展示会がやっていたので除いてみることにした。展示会で即売もしていたので金持ちらしき人がほとんどだった。なにせ入場したときに学生といったら驚かれたので。向こうにとっては絵を見せることよりも商売のことに重点をおいていたようだ。値札をみると10万円単位から100万円単位くらいでまあまあの作品だった。絵を眺めていると係りの人が「絵に興味があるの?(学生だということがわかるとこんな口になってしまうのはなぜだろう)」とか「絵は今まで買ったことはあるの?」とか。わたしは「お金がないので買えませんけど」と言ったら、「今回は何か買うつもりはない?」と訊いてきた。わたしは「申し訳ありませんがそのつもりはありません」と答えた。そしたらその係の人はわたしからは離れていった。お金がなくて買う意思がないというのは完全に無視されるらしい。まあ調子にのって金があるような素振りをしていると向こうはどんどん調子にのってくるので今回の対応は正しかったのだろう。
 観覧者のなかには絵の知識(つまり見る目)がまったくなさそうなだらしない格好をしたただ金持ちというだけの若者とかもいたが、こういう人がまさにターゲットなのである。美術全集とかを持ち出してきて係員は説明をしていた(というよりも商売していた)。またその説明する係員も本当に専門知識を備えているのかどうかも怪しかった。それなりの説明内容とマニュアルさえ頭に叩き込めば商売はできるのだが、さすがにク○スティーズやサ○ビーズのような超一流のプロとは比較もできないだろう(比べる対象自体がマズいのだが)。
 ただわたしは思ったのだが、今回のそこにいた係員は商売があまりうまくなかった。売り手のプロなら、いろんな点から説得を試みるはずだが周りの人の説明を聞いていても時間をかけすぎのようにも感じられ心理作戦にもなっていない。かつてわたしは別の展示会のようなところにいったことがあるがそこの人はすごかった。どうすごかったかはここでは書かないが、これなら相手の思うつぼではまってしまうしまう人はイチコロだろう。買う意思のないわたしにとってはうっとうしいの一言なのだが、その商売の仕方に驚きと変な感心をもってしまったのは否定できない。

今日のアンソロジー(1)(the anthology for today)

2005-07-19 20:33:01 | D的つれづれ
・あるひとつの文章に対応する事実(いいかえれば、あるひとつの文章の翻訳である事実)は、まさにその文章を繰りかえすことなしには、記述することができない。この場合に、言語の限界があらわれる(……)。(1931:p.33)

・人間の一生をみたしているのは、なんとちっぽけな考えなんだろう!
 ちょうどそれは、一生のあいだ、同じひとつのちっぽけな国を旅することしかできないのに、その国以外には世界はないと思うことに似ている!
 人びとは、奇妙なパースペクティヴ(あるいは投影)のもとで、すべてをながめる。たえず旅行しれいるその国が、巨大なものに思われてくる。まわりをとりかこんでいる国ぐには、みんな、細長い辺境にみえてくる。
 深いところへ降りてゆくには、遠くへ旅する必要はない。じっさい、わざわざそのために、親しい土地をはなれたり、慣れた環境をすてたりする必要はない。(1946:pp.133-134)  

・ナンセンスなことをいうのを、恐れる必要はまったくない。ただしきみは,自分のいうナンセンスには注意するべきではある。(1947:p.151)
           (L・ヴィトゲンシュタイン、丘澤静也訳『反哲学的断章』1981、青土社)

ここはどこだ(where is here?)

2005-07-13 11:08:47 | D的つれづれ
 この微妙なアングルからのショット、ここはいったいどこかと思う人もいることだろう。ここはドイツ・ベルリンにある連邦議会議事堂(The Reichstag)の屋上テラス(?)から真下に向かって撮ったものである。下のほうに会議場の席が見えるのだが、ここでは屋根から会議の様子などを実際に見ることができるように設計されている。この建物はもともと帝国時代の旧議事堂だったのをイギリスの建築家ノーマン・フォスターにより近未来的なイメージと融合させ屋根にガラス張りのドームを築いた。当初は物議を醸し出したそうだが、今ではベルリンを代表する観光名所となっている。わたしは夜に行ったのだが、それでも行列ができるほど並んでおりあの寒い中(氷点下)を長い時間かけて待っていたのを覚えている。最初の入り口でセキュリティチェックを受けそれから屋上部分までエレベータで上がっていきそのドーム部分を自由に見て回るという単純な観光なのだが、見学者はとても興味深くじっくり雰囲気を味わっていた。なにせ若者がかなり多い。その理由はよくわらないが、建築デザインといい宣伝効果もあるのだろうか、行ったかいは十分あったと思う。

哲学の道

2005-07-12 11:00:13 | D的つれづれ
 京都東山に「哲学の道」というのがある。南禅寺(もしくは永観堂だったっけ)から銀閣寺まで通じている全長2kmくらいの小道である。その間には法然院とか庭で有名な寺院があり軽いハイキングロードにも使えそうな道でもある。またその道はかつて哲学者西田幾多郎が思索にふけったところでもあることからそう名づけられたそうだ。わたしはこの道はかつて2回ほど通ったことがあるのだが、道の舗装状態からもスニーカーがベストであろう。観光客がヒールの高いのをはいて歩いていたがそれは足がかわいそうというよりもむしろ靴がかわいそうである。またたいして長い距離ではないのでゆっくり誰かと話をしながらでも歩くのがよいだろう(連れが男女を問わずいないなら早足で歩きましょう)。東山地区は京都でももっとも観光スポットが集中している場所でこの哲学の道を使えば南の清水寺から北の銀閣寺まで一日コースとして使える。寺院名を挙げておけば、清水寺、八坂の塔、高台寺、長楽寺(?)、知恩院、青蓮院、南禅寺、永観堂、法然院、銀閣寺など。ぜひ利用していただきたい。

もう7月

2005-07-01 23:59:03 | D的つれづれ
 最近記事が本当にくだらん私事の内容になってしまっている気がする。まあいそがしくて疲れてるのと気がむかないということだろう。というかもう7月になってしまった。今年も折り返し地点を過ぎたということだ。そしてもうすぐ前期がおわり夏休み。早いもんだなあ。そういえば、小中学生のころは7月になると夏休みまであと何日かと待ち遠しくて待ち遠しくてしようがなかった。いまから思えば何が待ち遠しかったのかよくわからないのだが、子供にとっては学校と休みの区別が明白にできており長期の休みというのはすべてから解放される喜びを感じるのであろう。いまではその区別が曖昧になり、休みであって休みでないような感覚を覚えたりする。そのために夏休みだろうが冬休みだろうが、昔ほど喜びを感じるものではないし、喜びといっても何かから解放されることの喜びのほうが強い。安らぎを求めてる感覚に近いだろう。そう考えてみると自分も大人になったのかと感じてしまうのである。

Dの近況について

2005-06-30 17:25:25 | D的つれづれ
 最近、論文の序章を書いたのだが(序章といってもA4用紙(1600字)7枚である)、ひさしぶり頭をフル回転させたのだろうか(ということは普段は頭を使っていないということになるのだが・・・)、なんだが寝てる間も思考をしているらしく、目が覚めたときでもなんかそれまでずっと何かを考えてたかのように頭に血が通ってる。それは梅雨のせいもあってじめじめしていてねぐるしいために熟睡できていないということもあろう。まあ明日からバーゲンということもあって気分を回復していきたいのだが。

バーゲン(bargain sale)

2005-06-29 09:49:52 | D的つれづれ
 7月1日ごろからいよいよ半期に一度のバーゲンセールが始まる。自分にとってこの時期はけっこう楽しみな時期なんです。この時期というのは学校のテストがある時期なのだがそんなことおかまいなし。去年のこの時期はちょっと腹立つことがあってテストはなんとか乗りきらなあかんと思って勉強に集中しようと無意味に心がけようとしたが、それはすぐに敗れた。午前中都心のデパートで買い物してから午後テストということもあった。わたしは服選びにかける時間が人よりも長いためそこに滞在してしまう時間も長くなってしまう。まあ慎重に慎重をかさねなければと思ってるだけのことなんだが。またわたしは服一枚当たりの単価が高いのを選んでしまう。それなりの値段のものはそれなりに自分に自信をもたせるし長持ちもする。その点で服選びに慎重になってしまうのだろう。
 あと服選びでこだわっていることといえば、わたしは柄モノよりも無地の服のほうが好きなんです。無地はけっこう選ぶのが難しい。というのも服合わせがシンプルになってしまうので色で勝負することになるため安物すぎると色がどんどん落ちてみっともなくなってしまう。だから黒とかグレーのTシャツはできるかぎり質のいいものを選びたい。また最近思い始めたのだが、服の生地の種類、色、縫製はレディースのほうが豊富だ。それでユニセックスモノやボタンのついてないシャツとかならメンズよりもレディースのほうがいいのではないかと思うようになってきた。そのため男ひとりでそこにはあまり行きたくないので誰か女性をつれていかねばならないという手間がかかってしまうのだが。しかし、結局今までレディースは買ってない。やっぱり型が違う。まあ仕様がないか。

映画「アカルイミライ」

2005-06-27 18:06:47 | D的つれづれ
 黒沢清監督、オダギリジョー・浅野忠信・藤竜也出演。カンヌ映画祭にも出品されたそうである。
 わたしたちにとって「アカルイミライ」とは何か。本編でその答えは明示されていない。それへ向けての一指針を提示しようとしているにすぎない。オダギリ演じる雄二と彼の親友で浅野演じる守、自分をもてあまし、ふらふらした生活を送る雄二に対して、守は指で「進め」と「待て」を示す合図を送るが、その合図が本編での最大のキーワードとなる。心的に前進か停滞かという外部からの合図というのは、融通のきかないやる気の起こらない彼らにとっては一見意味のなさそうなことであるが、先ばかりを空回りして覗くだけで現実をみようとしない彼らのこころに何か新鮮味を感じさせるものであった。それまで何も見えてなかった(現実を通じて先を見ようとしてこなかった)彼らの心に、はっきりとはしないが何かすっきりするものであり心が晴れるかのような「希望」をもつための土台を与えたのである。
 それが「アカルイミライ」につながるかどうかわからない。しかし、何もないところからそんな希望は生まれやしない。今の人にはそれが欠けているのである。そして、それを与える余裕すらもない大人たちももう疲れきって何も見えなくなってしまっているのだ。