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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

映画「ロスト・イン・トランスレーション」(lost in translation)

2005-06-19 16:46:53 | D的つれづれ
 本作は、ソフィア・コッポラ監督、ビル・マーレー、スカーレット・ヨハンソン主演。2004年のアカデミー脚本賞かなにかを受賞している。アメリカの大物俳優でありながらも家族との関係に悩みを抱えている中年男性と写真家の夫がいながらも夫婦の絆、愛に何か違和感そして孤独感を持ちながら自分の将来について思い悩む若い女性が偶然にも東京で出会う。彼は仕事で彼女は夫の仕事の付き添いとして東京にやってきた。出会いは、日本でも最高級ホテルとして知られている「パーク・ハ○アット東京」のバー。ふたりは見知らぬ他人でありながらふとしたことでお互いが抱える悩みを感じながら気が合うようになる。歌舞伎町での飲み屋、高級寿司屋、しゃぶしゃぶ屋、カラオケ屋、ゲームセンターなど日本の〈伝統〉文化とはいいきれない現代文化と接触していくことでお互い自分の内面と向き合い克服していこうとする。この映画自体静かな作品であるが、場面には新宿、渋谷という喧噪としたカオスの街と都会の中の寺院や京都の寺社という凛とした静寂な空間を織り込まれることで、彼らの心的ストレスを発散・解消する空間と日本文化を媒介にすることで自分自身と向き合う厳粛な心的空間を生み出している。そして彼らは日本の東京での短い生活によって己の葛藤に打ち勝とうと未来を見つめることができたのである。
 わたし自身、この作品は非常に好きな一本だ。映画の主題もそうなのだが、社会学をやっているわたしにとっては都市空間そのものの映像を通じての描写、そして都市という存在が人間の心理とどう係わっていくのか(都市でも人に「癒し」をもたらすのか)などということを深く考えさせられるものとなる(80年代には東京論が流行ったことなどで、都市をサブカルチャー的に捉える基盤ができあがった)。また、外国人から見た日本人、日本社会の描写というのも非常に面白いものである。「あれは違うだろ」「あんなふうに寡黙じゃないよ」などと批判してしまいがちな場面もないわけではないが、それはもしかしたら自分たちが普段気づいていない一面を彼らは誇張しながらもしっかりと感じとっているのかもしれない。
※本作は監督のソフィア・コッポラ自身の監督になるまでの半人生を描いている。彼女は名監督・フランシス・F・コッポラの娘でもあり、彼の代表作「ゴッドファーザー partⅢ」で(実際は生まれてすぐのときにも出演している)マイケルの娘役として出演している。ただこの作品で悪評されたため俳優業からは遠ざかり、写真家と結婚し自らも写真家を目指そうとするが自分の才能のなさに気づいて結局それもあきらめることになり夫とも離婚した。本作ではその時のソフィアを描いたものでらるが、それから彼女は自ら勤めた監督作品が高評したことで若手の監督としての自分を見つけることになった。やはりカエルの子はカエルなんでしょうかね。彼女の作品はどれも面白いので観ていただきたい。

平泉歴史遺産(the historic heritages in HIRAIZUMI)

2005-06-18 10:45:03 | D的つれづれ
 平泉へは2003年に学部の友人2人と一緒に行きました。パンフレットは奥州藤原氏の栄華を偲ぶことができる代表的遺産、毛○寺(mouotsu-ji)と中○寺のものです。毛○寺は2代藤原基衡(motohira)が建立し、京都・平○院を真似たといわれるお堂がありました。残念ながら現在は過去の火災などによって庭園を残すのみ(復元で本堂などは再建されています)となっています。規模が大きいこともあって何か整備された庭の廃墟のような印象ももってしまいます。これが栄枯盛衰なんだと身にしみて感じてしまいました。
 次に中○寺ですが、この寺は日本史の教科書にも出てくるため非常に有名な寺として知られています。メインは何と言っても金色堂なんですが、うわさ以上に見る価値がある作品(遺産)であると思います。現在は本物の金色堂の周りを鉄筋コンクリートのお堂で覆っています(かつては木造のお堂が覆っていたそうですが)。金ぴかの建物、そして螺鈿、透かし彫り金具、漆の蒔絵が施されており、めったに美しいと感じない(ただただ有名で壮大であるとか古いという理由のみ)わたしですがこれには感じずにはいられませんでした。本尊の下の須弥壇の中には藤原3代(清衡、基衡、秀衡)のミイラと4代泰衡の首級が安置されているそうです。
 これらの寺院のほかにも義経終焉の地といわれる(高館)や無量光院跡などもスポットしてあてられますが、この地はかつて松尾バナナが詠んだように「兵どもが夢の跡」が今でも感じられる土地でした。
※わたしが行ったときは残雪があり、中○寺のお堂まで行くまでに一苦労しました。簡単いけると思っていらっしゃる方もいると思いますが、とんでもございません。あそこは山にあるんです。山のふもとから800~1000mは上らないといけません。しかもその坂がけっこう急なんです。まちがってもサンダルやヒールのついた靴では行かないようにしましょう。

青○院門跡(SHOREN-IN temple, kyoto)

2005-06-16 21:20:54 | D的つれづれ
 前々から日本古寺紀行の記事を書くつもりだったのがなかなか書けず今日やっと書くことができました。写真は京都東山にある青○院門跡のパンフレットです。この寺は二度ほど行きました(知恩院の北にあります)。
 当院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつとして知られ、現在天台宗の京都にある5つの門跡寺院を五ヶ室のうちのひとつです(といってもわたしは知りませんでした)。予備知識として知っていたのは何と言っても国宝不動明王二童子画像(青不動:青・黄・赤・白・黒のうちの最上位の不動)と庭園です。この不動明王、実は年一回かそこらの特別公開だそうです。実際、わたしは特別公開期間に行ったのですが、何と公開時間も限定されており15時まで公開されていたのをわたしは10分遅れで拝観したので結局レプリカしか観れませんでした。実際暗い堂の中での公開なのでぼんやりとしか観えないのですが…。しかしいつかは観たいと思ってます。
 次に庭園のことですが、この庭園規模は小さいのですが、当代名高い文化人によって設計されており名園といえると思います。さすが皇室に関係深いだけあり、由緒あって趣き深い庭園です。関係者として、時期は各人ずれていますが、相阿弥、小堀遠州などです。庭の各箇所によって作者が違います。
 正直、わたしは趣き深いとか癒されるという表現はどんなものであっても使わないのでこの庭園に対してもそうとはわたし自身言いがたいのですが、堂の縁側に座りながらぼーっと庭を眺めてるのが一番の至福のときとそこからはっと目が覚めたときに感じます。かつてJR○海の「そうだ○都行こう」というフレーズのシリーズ広告でこの庭園が採り上げられたことがありました。わたしもそれを見てぜひ行ってみたいと思って行ったのがきっかけでした。そこは茶室もあり、一服500円くらいで庭園を眺めながら至福のひと時をすごせるそうです(宣伝文句による。わたしはそういうのは苦手なのでしませんでした)。二回目に拝観したとき、ひとりの若者の外国人男性が庭を静かに眺めながめていました。彼は一体あの庭をどんなふうに観ていたのでしょうか。外国人が享受する特有の日本文化を感じていたのでしょうか、それとも彼独自の感覚的直感からいまここにある特殊性を見て取ったのでしょうか。それはわたしにはわかりません。大事なのことは、「観光」として宣伝される文句に縛られないで自分がそこでどう感じとったのかということではないでしょうか。そのことは、その出来事が過去になったときにでもよき独特の想い出(もしかしたら好印象はもてなかったかもしれないが)として甦ってくるのだ。
 ぜひ一度行ってみてください。お勧めコースは希望があれば紹介します。

映画「ブラザーフッド」(brotherhood)

2005-06-12 12:56:02 | D的つれづれ
 チャン・ドンゴン、ウォン・ビン主演の大ヒット作。時代は朝鮮戦争期。タイトルどおり兄弟愛(愛情の意味)を戦争(家族を崩壊させるもの)を通じて描いている。これは解説はいらない。ぜひ観てみることをお勧めする。ただ主演ふたりの顔が男前過ぎて、他の脇役との大きな差異がですぎてしまっている。ちょっと気になるところだが、まあ気にしない気にしない。

映画「太陽」(the sun)

2005-06-10 23:48:46 | D的つれづれ
 この映画は日本では未公開である。もしかしたら未公開のままに終わるのかもしれない(ビデオでは推奨作品としてレンタルされるのを期待はしているのだが)。ではどこでこの映画を観たかというと、今年2月に開催されたベルリン映画祭で観た。映画祭に来たからには何か見ていかねばと思ってプログラムを見ていたら「HIROHITO」という文字が目に付いたのでこれにしよっとと即断してしまった。主演は舞台俳優のイッセー尾形と桃井かおり、監督はロシア人のアレクサンドル・ソクーロフ。終戦直前期から「人間宣言」までの天皇裕仁(昭和天皇)自身の心理的苦悩を描いた作品である。日本人という特権もありほとんど字幕なしで鑑賞できたので話の筋は読み取ることができた(正直、日本語であるということがわかっていたからこそこの映画を選んだともいえるのかもしれない。英語はマスターしてないので)。天皇の心理を描いた映画作品は、わたしの知る限り本作が初めてだと思うのだが、舞台の中で彼はひたすら自分の人間性について悩む。彼の思うその人間性とは、日本国民と日本国家に対する責任感とそこから来る重圧に耐えようとする神であって神でないような存在としての人間、つまり本作では彼は終戦前から現人神としての自分の神格性を疑いながらもなお人間とはいえない(人間とは何かを問い続けながらなお人間性を見出せえない)居場所の定まらない己そのもののことをいう。その悩みを奥底に閉じ込めながら、GHQそして日本と向き合っていく。最後に登場した皇后(桃井)が彼にとっての精神の女神であったのだ。自分の離れ離れになっていた家族に癒しを求めるかのように。
 その映画館にいた日本人は見たかかぎりわたしひとりだったように思うが、西洋人に囲まれて日本の天皇の映画を観る。なんだか不思議な感覚になった。日本でも、新聞などでは、日本を描いた作品として一般に知らせることになったが、結局それ以降その作品関連のコメントはなくなった。確かに非常に物議を醸し出す作品ではある。しかし、今だからこそこの作品を公開すべきではないかと思う。

映画「隠し剣鬼の爪」

2005-06-09 21:28:05 | D的つれづれ
 原作藤沢周平、山田洋次監督「隠し剣鬼の爪」を観た。同監督前作「たそがれ清兵衛」にづづく、時代劇ニューマンドラマだ。美化された侍像を覆し、侍精神の苦悩、家族を描いた前作と比べて、今作品は身分差を越えた恋愛を話の中心にすえながら、夫婦、家族、友情、そして共同体にいる限り己に降りかかってくる試練を描いた作品となっている。前作との共通点は幾つかみうけられることから、両作を同時代に生きたそれぞれの人生を全うしようとした人間物語であり、また両作それぞれで描ききれなかった点を両作それぞれが補っている。「ある侍の物語、またある侍の物語」というふうに両方続けて観ることをお薦めしたい。
 ただ気になったのは、農民出身の松たか子演じる女の顔がきれいすぎるのはなぜだろうか。いらぬ心配だが、いつも主演の女性は身分にあまり関係なくきれいになっているのはわざとなのか、それともメイクが間違っているからなのだろうか。                                                 

鉄腕アトム(astro boy)

2005-06-07 21:06:53 | D的つれづれ
 漫画「鉄腕アトム」の中でも最高傑作(一番人気のストーリーいう意味)といわれる「地上最大のロボット」というのを読んだ。このストーリーは、現在浦沢直樹(「YAWARA」「MONSTER」「20世紀少年」など)によってリメイクされている「プルートウ」の原話となったものだ。この「プルートウ」のほうは、わたしはほとんど読んでないので分からないが、とりあえず原話を読まないわけにはいかなかったので読んでみた。
 「プルートウ」のようにシリアスでサスペンス要素というのはまったくなく、読者の対称年齢も広いためストーリー的には分かりやすいものだった。ただ今日話題にされている「ロボット倫理」「人間とロボットの関係」についてを40年以上も前に考えられていたことは注目に値する。ぜひ一読をおススメしたい。わたしが買ったのは秋田書店から出版されている「鉄腕アトム③」だが、ほかにも出版されている。ただ鉄腕アトムのロボット倫理もすごいが、チェコのカレル・チャペック作『ロボット』(原題は『R・U・R ― ロッスムのユニバーサルロボット』。ロボットという言葉を作った人)もぜひ読んでいただきたい。よく見てみると、ロボット映画(最近ではウィル・スミス主演『アイ・ロボット』など)の内容と類似している。それを1920年に予期したのは驚かされる。いずれにしても、面白い作品なので読んでいただきたい。

名古屋のブランド街(the district of boutique in nagoya)

2005-06-05 20:03:48 | D的つれづれ
 わたしは名古屋に住んでいるが、近年名古屋も都心部―栄、名駅―の再開発などが盛んになってきたようだ。2007年には、名駅地区に名古屋一高いビルができるなど超高層ビル建築が活性化してきそうである。名古屋は現在、経済的にも景気が好いとされ消費動向も順調のようである。その影響かどうかは詳しくはわからないが、名古屋はブランド品消費の多い地域としても有名である。名古屋のデパートの代表格である松○屋に入っているイタリアブランドの「G●CCI」は、全国の同販売店の中で売り上げ一位ということをどこかで聞いたことがある(定かではないが)。特に栄地区は、ここ数年で、松○屋新南館がオープンし、今春には三○の新館(ラ○ック)がオープンするなど、デパートの大型化が進んでいる。ただ中には今春オープンした「サンシャ○ン栄」は、一等地にありながら年齢層を限定したりまた中途半端な規模の観覧車をビルの中に埋め込んだり(大阪梅田地区のビルのパクリとも言われてる。規模も大阪の半分程度)と、非常に中途半端な施設である(この中途半端なところが名古屋の特徴とも言えるのだが)。今秋にも栄にはまた複合施設ができるというがまたたいしたことなさそうであることは予想できてしまうのだが。
 ところが、このように今景気がよくかつ次々に新施設が作られている名古屋には、「ブランド街」と呼べる地区がないことに気づく。「ブランド街」というのは、海外でいうと、パリのシャンゼリゼ通りやフォーブルサントノレ通り、ローマならコンドッティ通り、ミラノならモンテナポレオーレ通り、などがある。日本ではどうか。東京と神戸には有名なブランド街があることで知られているが、東京の銀座(並木通り)、表参道・青山、丸の内、そして神戸は旧居留地区だろう。それらの地区には共通点があるか考えてみよう。まず、治安は好くなくてはならない。一般的に中流階級(日本ではそういう感覚はないが)以上の人がやってくる場所であるため、そこの治安と環境はしっかり保たれていなければ人は寄り付かない。そしてどの地区だけは、車やバスなどが入り込めないとか、ある程度規制されているようにされていることだ。それに併行して、道路の幅がそれほど広くなく、つまり人が歩道から歩道へ容易に渡れるくらいがよいということになる。まとめると、人が集まる地区であり、治安が好いオフィス街(丸の内など)や文化観光地区(表参道で言えば、美術館などが近接しているし、ローマならスペイン階段がある)周辺で、交通が混雑していない人が主体となって行動できる地区がブランド街として好条件であるといえる。
 では、名古屋の場合どうか。現在、ブティックや百貨店(本当は百貨店出店のブランド店はブランド街とは言えないが)が集まるのは栄地区で、正確に言うと、大津通りをメインストリートにして南はパル○から北は桜通り交差点ぐらいまでだろう。その中には、パル○、松○屋、三○、丸○のデパートがあり、その通りの東側ほとんどを占めている。また、外国系高級ブランドの専門店はというと、「Max●ara」「pr●da」「T●FFANY&CO」[EMPORIO AR●ANI」「CO●CH」「LOUIS VU●TTON」「VA●ENTINO(今あるか知らない)」、他に「Paul Sm●th」「COMME des G●RCONS」(今あるかどうか知らない)、さらに大衆ブランドなら「n●ke」「addi●as」「G●P」「OP●QUE」「Z●RA」などだ。アパレル関係のみを列挙したが、実は大津通りは片側2車線で横断歩道ではいつもたくさんの人が溜まってしまう。また、通りの西側にはまだ何十年も昔の小さな店なども残っており(それがいけないとかは言ってない)、また店を閉めてほったらかしにされた廃墟みたいなビルも残っているため見た目もよろしくない。その通りの界隈(錦一丁目か)の地区には、ロフ○の入った複合施設もあり、近年新しい店が多数出店している。その地区の道路幅は申し分ないのだが、さすがに名古屋とあってか車は多い。また飲み屋と風俗店が混在しているためそこには高級ブランドは進出してこない。つまり、名古屋には、メインの通りを離れたところには巨大資本は集まらない地区が多いのである(一般的ビジネス街ましてや文化地区とは到底言えない)。ということは、結局今の大津通りを中心に北へ延びていくか、広小路通り、錦通り(ここは錦三丁目(名古屋の歌舞伎町)につながるため難しいと思うが)沿いに延伸していくかだ。
 ただ、ここでわたしは名古屋にもブランド街が絶対にほしいとは言ってはいない。ただ、名古屋が都市計画として「ルネサンス計画」(つまりヨーロッパの街並みのように、全体的に都市景観を促進し、人と街とが共生できる過ごしやすいマチを目指しているらしい)とやらを進めている(実際進めているのだろうか)そうだが、今のままではその実現は難しいということを言いたいだけだ。そして国際性を目指していると謳うのなら、とにかく国内での観光的知名度を上げるべきだろう(ただ、名古屋はそれがヘタ)。中途半端なもの(例えば、今春オープンした金○地区の「アス○ル金山」は仮設だそうだ。外見はプレハブ小屋みたいだし)を作るより、目玉が欲しい。それをいかに実現させていくかが名古屋の課題なのだろう。
※写真は神戸の旧居留地(2005.4)

読書苦手(i am not good at reading...)

2005-06-01 00:34:27 | D的つれづれ
 最近改めて思うことなのだが、自分はつくづく読書が苦手だ。特に哲学系とかはいろんな理屈をこねくり回している。まあそれはそこに出てくる言葉がもともと日本にはなかったものであることも一理あると思うが、自分はどうも読むのが時間がかってしようがない。イライラして結局結論部分をさがして大雑把に自分の中で納得してしまっている。理系分野や経済学などの社会科学系分野の本は論理性が明白で(もっとも論理がないとやっていけないので)非常に自分にとっては好都合だ。結局何が言いたいのかがだいたいどの辺を読んだらいいのか分かってしまう。
 しかし、そういう文章が好きだといっておきながら、自分は明らかに現代思想と格闘している人間だ。専攻自体、今は表象文化を中心に現代日本の社会・文化を研究している。なんでこんなところを自分は入り込んでしまったのか。それは今となっては(前からもそうだったが)不思議だが、今考えてみると結局自分の目指していたところであったのかもしれない。この分野が面白いと思うところは、社会は思想(言葉)によって構築されているというところだ。分かりやすく言えば、マルクス(『共産党宣言』『資本論』など)にせよヒトラー(ファシズムのバイブル『わが闘争』)にせよ日本の北一輝(国家社会主義者、『国体論及び純正社会主義』『日本改造法案大綱』)にせよ、これまで世界はある人によって説かれた思想によって影響されいつのまにか囚われてしまってきたことだ。そこがメディアというもののすごいところなのである。マルクスが19世紀半ばでマルクス主義を唱えて以来、世界は今でも何らかの形で影響を受けてしまっている。そして大きな対戦を二つ(冷戦を含めて三つ)も引き起こしてきた。世界は単純な出来事から方向が一転してしまうと複雑系理論やカオス理論では言われているが、まさにそのことが証明しているようだ。つまり、自分は言葉一つの持つ力(いい意味でも悪い意味でも)に惹かれてこの世界に入ったのかもしれない。ただそれに挑もうとしている以上、自分は常にその言葉の暴力の構図とそれを避けようとする二つのベクトルを見ていかなければならない。
 とにかくその苦手をいいふうに切り替えながら克服していかなければと思っている。