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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

CAUTION

2005-05-05 21:58:17 | D
 最近、このブログに当サイトにふさわしくないコメントを寄せてくる人がいます。見つけ次第削除するようにしますが、宣伝のためならやめましょう。

カテゴリーの新設

2005-04-23 23:41:04 | D
 カテゴリーマークを新設しました。文章の整理のためです。既存の文章に関しては「D」で統一されてしまってます。区分はこれ以降とします。

未来型テレビについて

2005-04-18 20:53:35 | D
 最近日本でもM&Aが表面化してきたため世間ではなにかと騒がしくなっているようだ。結局、あのF社とL社は和解という形で上手くことを収めようという結論に達した。しかし、このことはこれからが見物であって我々も目が離せなくなってくる(というか興味があってもなくても必然的に注目してしまう。なぜなら自分たちにとっても身近なテレビにかかわる問題だからである)。L社のHさんは「テレビとネットの融合」ということを盛んに口にしているが、それを一般的に普及させることはそれほど難しいことではない。なぜならこのIT技術に関して最近は一般大衆が個人でもことを進められるようになってきてそれがいつのまにか拡大してくるという事実もありうるからである。そこに歯止めをかけるものがあるのなら(実際はないとこまるのだが)政治機関による法的政策であろう。リテラシーの問題、モラルの問題などなどいろいろな難関をクリアしていかなければならない。そこでこれらの機会に不慣れな連中がその政策にかかわるととんでもない方向へ進み歪んだものとなってしまかねない。またそれにともなう既存のシンプルなテレビ、またはメディアの存続についてもこれからは現実味を帯びてくることになる。なにかと世界の先端を進む日本であるが日本は世界の先陣をきって進めていったことはほとんどない。後発国である。そういいう意味で日本いは先手をきって(もう遅れているか?)進めてもらいたい。

about writing in english

2005-04-18 20:33:12 | D
on the top page of my site, "the languages in this site will be written in japanese and english" it is written like this. but i have forgot writing so. surely its because of my poor english and not being used to writing in english. so sometimes let me written in english about this article. no, i will write in english.

つれづれについて

2005-04-13 13:04:10 | D
 『広辞苑』によると「徒然」とは①つくづくと物思いにふけること、②なすこともなくものさびしいさま。することもなく退屈なさま(③は省略)とある。この言葉を一番耳にするものといえば兼好法師の『徒然草』だ。中学校のころから読まされ「とぜんそう」とは読まないようにと言われた記憶もあるだろう。「つれづれなるままに」という冒頭で始まり、彼の日々感じることを表現豊かに記され日本古典三大随筆ともうたわれるほどの名著である。彼の感覚なら上の①の意味をより意識して書いたものだろうが、文脈から判断すると②の意味も含蓄しているといえよう。
 さて自分の意見から言ってしまえばこのようなのほほんとした文章は嫌いだ。文章の内容よりもそこから伝わってくる彼の生活もっといってしまえば人生に何か嫌気みたいなものを感じずにはいられない。彼は隠遁生活を送っていたが、その中でこの作品を仕上げた。いくら現世的生活がいやになり越境者というかたちで姿を消したとはいえどもいったい何して過ごしてたんだろうと不思議に思ってしまう。学術的(特に文学的)には彼を哲学的に扱ったりすることで何か聖人的人格を備えていたかのような人物として彼の思想が現代社会にも通じるところがあるとかなんとかと結論づけられることが多い。しかしよく考えてほしい。彼は世捨て人だ。本格的に仏の道に入るのなら分かるけど彼は今でいう半分ホームレスの生活をしていた(言い過ぎではあるが)。現在の人間からしてみればいわゆる喧噪的な都会生活から身を消し田舎の中で自然と触れ合いながら日々物思いにふけり1日1日を自分の好きなペースで生きていく(彼らにとってはマイペース。また最近では老後に都会生活から田舎生活に身を移し余生を楽しむとかいう人たちも増えているという)。「えー仕事(人生)してますなあ」と言いたいぐらい。逆に彼に対して羨ましさ感じてしまうくらい。そんなふうで彼の人生を考えていくといくら作品の中で物思いにふけっていいことを言っていても「お前こそ好き勝手に世を捨てて出て行きやがったくせに、何が○○は醜いものだとか何とか言ってるんだ」と言いたくなってしまうのだ。しかし彼は文章能力がたけていたので後世の世には超有名人となってしまっているではないか。世の中才能で人の見られ方は変ってしまう。「徒然」は、そのような意味で外部に何かを発しない限りいい意味では捉えられないという結論が導かれる。しかしつれづれということが言える人は実際には暇なのである。現在はそれが「余暇」という言葉で「趣味」という形で表現されるが、世の中趣味をもつ時間がないほど一生懸命に何かをしている(生活しているという意味で)、もしくは趣味なんか持たなくても楽しくその人にとって有意義な生活を送っている人もいる。そのことを考えればやはり「つれづれ」をしている人は「えー生活送ってますなー」と皮肉めいてしか言えない気もするのである。

2005-04-11 11:14:28 | D
 最近は卒論のこともあってネットや紙媒体の資料をさがしているところだ。ただ最近改めて感じることは本は高いということ。学術書は一冊数千円、時には万単位の値がつく。高校のときの某先生が漫画の1ページよりも辞書の1ページのほうが安い(ただ辞書と漫画の紙質を考慮すれば数値は変わってくるかもしれない)とかいって比較していたが、仮に300ページの学術書が3000円で売られていたとすると1ページあたりどれくらいの価値があるのか。単純計算で10円。ちなみに200ページ500円の漫画なら2.5円、2000ページ4000円なら2円。後者ふたつの4、5倍近く高いのである。単純計算といえども学術書はやはり高い。それほど学術書の価値が高いということであろう。しかし不思議に思うのは本の価値ってどのように決められるのであろうか。一桁十桁がきれいに0でおさまっている値段はなかなか見当たらない。2150円とかいうように中途半端な値段に設定されている。俺は法律上のことはよくわからないので深く突っ込まないが、ここで言っておきたいのは値段を設定するときに本の著者の学術的価値観がしっかり繁栄されているかどうかということだ。この人のこの考えの本は1ページあたり○円とかいうふうには決めないにせよどのようにまたどんなスペシャリストが価値を決定しているのか、また彼らの判断は本当に著者に反映されているのだろうか。その辺がふと頭の中をよぎったので記しておきたい。

平安神宮、神戸港

2005-04-05 21:16:36 | D
 平安神宮は団体観光客でいっぱいだった。その年齢層は想像の通り。神戸は10年で表面的にはみごとに復活したように感じます。