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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

講演会

2005-11-15 11:50:03 | D的つれづれ
 日曜日に愛知芸術文化センターで名古屋大学主催の公開シンポジウムに参加してきた。ゲストがすごかったので行ってみることにしたのだが、なかなか高度な話でよかった。門外漢の人にとっては何の話か分からないと思う…。H.ハルートゥーニアンや吉見俊哉、司会者の坪井秀人ら。シンポジウム参加者もこれまた専門家も多く来ておりなかなか緊張感のあるものだった。名古屋でビッグな講演会が開かれることは少ないのでなかなか貴重な時間であったと思う。

卒論について(about my paper)

2005-11-12 11:37:57 | D的つれづれ
 最近忙しいこともあって、なかなかブログに学術的なことも書けなくなってしまった。なんとか再開したいものである。
 卒論も手を抜きたくないので本を読み続けの毎日だが、自分の論理が組み立てることは面白いなあと実感しながら頑張れている。まあこんながんばりはあたりまえのことだが。修正、削除を試みながらやっても細かな部分まで検討し、また各節との関連性を踏まえて書こうとするとやはり組み立てが難しくなってくる。予定としては、400字原稿用紙300枚以上だとしているが、どうなるかまだ未定というところだ。流れはできているのであとはどうつなげていくかが課題なのである。
 やってきてわかることは、自分の苦手な部分が出てくるとそこがどうしても物足りなさを感じてしまう。うーん、なんとか少しずつ克服していかねば。

自分にとっての目玉スポットか(the spot is good for me?)

2005-11-09 11:12:39 | D的つれづれ
 レジャー施設や大規模再開発によってできた建物が話題を呼ぶようになってきている。雑誌や新聞などでも目玉スポットやお店特集として紹介されているが、思うのは、それらの全ての施設がすべて自分とって観光などとして行きたいとは思わない。例えば、数年前に再開発事業としてできた東京の「六本木ヒルズ」は複数の大規模棟からなる複合施設として話題を集め、高級ブティックや日本初登場の店、高級ホテルなどが注目された。昔、知人が今度そこへ遊びに行くと言ってたのだが、その人はそこにある美術館やある店を見てみたいということで興味があったそうだ。そのあとで感想を聞いてはいないのだが、珍しいもの好きな自分にとっては一度は行ってみたいと思っていて実際に今年の3月に行ってみた。ところが、わたしにとっては見たいものが別にあるわけではなかった。ぶらぶらと回りながら面白そうなところに入ってみるという具合のものであった。そのため正直、歩き疲れただけであんまり面白くなかったというのが正直な感想だ。自分には目的がそこにはなかったからである。何か買うためにきたわけでもなかった。またひとりで来たのがそもそも間違いだった。男同士で来てもたぶんすることはないだろう。
 観光化を目的にした施設というのはかならず来客者の年齢、性別層などを考慮して作られる。ましてや六本木の近隣には青山、麻布などもある。階層もそれなりに意識されているに違いない。つまり、それに合わない人たちがそこに来てもすることはない。もちろんはじめから興味がなければなおさらのことである。そういうひとつの観光施設によって、さらに地区ごとの特性が分類化され固定化されてしまう可能性も十分強い。ただ誰かがある場所に別のニーズを呼び込むために新たなものを作り出すという意図は随所で見られるのだが。それが定着するというのも正直難しいものがあるように思われる。なぜなら人のつぼを押さえたことをしなければ誰も認めないからである。

退屈・・・(its boring)

2005-11-05 19:38:35 | D的つれづれ
 最近論文のことをしているだけで、何かかわったことがないので何か燃えることがない。まあ論文は筋をまとめて考察していると難しいけれど面白く真剣にできるのだが、大学の友達は何をしているのか。というのも、自分の周りの人は9割以上が大学院へ進学するというのでシュウカツ組の話をあまり聞かないので聞く面白みも感じない。まあこの時期は自分で自分の気持ちを高めていくしかないのかもしれない。
 ただ仲のいい人に会ったときは、バカ話や真剣な話の両方ができるので楽しく過ごしている。それだけでも気分が楽になる。感謝感謝。

どちらがいいのだろうか(which is better?)

2005-10-30 22:37:31 | D的つれづれ
 いきなりちょっと下品なことを言うかもしれない。
 もし、ペットボトルに入った「水道水」(それなりに飲めると判断していただきたい。東京の水道水でもいいかもしれない。)と、トイレの手洗いの蛇口から出る最高級の天然水、あなたならどちらを選ぶだろうか。そのふたつしかないという条件であると想定していただきたい。
 なやむ選択である。

歴史の見方(how to see history)

2005-10-27 02:08:12 | D的つれづれ
 われわれが学校の授業で習う歴史の授業は基本的に古い時代から新しい時代というかたちで習っていく。教科書もそういう流れで書いてあるからそれはしょうがない。一般概説書にしてもそれは同じで編年体的に記述されている。
 記述に関してはここでは別においておいて、問題は学ぶ側にとってみれば古いほうから新しいほうへと習うことが唯一の相応しい学習方法といえるかどうかだ。わたしは受験勉強のとき、はじめはなんのきっかけでこうなったのかはよく覚えていないのだが、後ろから教科書を追って復習していたことがある。もちろんその流ればかりをやるのではなく、古から新、新から古という両方の流れを交互に進めていった。そうしたところ、新しい時代から古い時代へ遡るというかたちでやることによって新しい視点が開け、つまり普段われわれは古いほうから新しいほうにしか進めないような感覚が身体化されてしまっているからかもしれないが、自分で問いを設定しながら(この場合、試験に出てくる設問を考えるということだが)歴史の流れを部門的にもカバーできるようになっていた。
 今に至ってはそんな受験用の歴史は第一に重視することではなくなっているが、いろんな歴史学の本を読んでいるとき、受験のときのその考え方(方法)は今でも役に立っているように思える。何かが起こったから次に何が起こったではなく、何かが起こった背景には何があったか、という問いを自らの内に自然と発することができるようになったことで社会的背景の複雑かつ重層的であることがわかり、自分の頭のなかでその複数の背景を批判検討する分析思考を身につけていたのではないかと今になって感じることである。
 もちろんそうしたわたしの方法が正しいとは限ったことではないが、あのときの経験は今の自分の思考回路のなかにしっかりと身についている。

サブカルを研究?(about studying of sub-culture)

2005-10-23 19:40:38 | D的つれづれ
 サブカル関連本はたくさん書店に並んでいる。サブカル研究も盛んになってきている。ただサブカルを研究するのはいいのだが、何のためにサブカルを研究するのかを認識していない人がいるという危ない領域でもある。
 サブカルチャーという言葉にサブがあること自体、一般的なカルチャー、いわゆるハイカルチャーと差異化されていることを意味する。サブカルの呼称の歴史的背景を見ればわかることだが、下級階級のたしなみ、文化というかたちで二項化されている。つまり、サブカルをやるにもハイカルを見なければならないし、逆にハイカルをやるにもサブカルを見なければならない。
 要するにサブカルをやるにしても自分の研究することに責任をもたなくてはならないのである。サブカル研究を特別扱いにして(括弧でくくって)向き合うことはできないのである。

弱さと強さ(weak and strong)

2005-10-18 11:19:34 | D的つれづれ
 人は誰しもが弱さをもっている。しかし、人によってその自分の弱さをそとにわざと出してしまう人とそうでない人もいることも確かである。
 弱さをそとに出してしまう人とそうでない人、つまりあえて自分の弱さを隠して見せないようにする人、彼らの考えは人さまざまであろう。けっして自分を弱いと思ってほしくないし、何が何でも自分の欠点と感じているところを見せたくないという気持ちもあるかもしれない。逆に、見せてしまう人は、自分の弱さに気づいてくれてそれをかばってくれそうな人を意識的か無意識的かは問わないが探しているのかもしれないし、性格として何も考えずに弱さとして他人に映ってしまうのかもしれない。
 ここからは自論になるのだが、男に関してはむしろ自分の弱さは見せてはいけない。もちろんその弱さを知っている人気づいている人はいるかもしれないが、公けの舞台ではそれを人目にさらすことはしないようにすることが何かポリシーであるようにわたしは思う。弱さを隠すこと自体、それは弱さとはならずむしろ強さとなって現れるものだからである。ただ私的なところではそれをはきださないとやっていけないのであるが。そんな空間をつくりだすこともひとつの強さかもしれない。

あると邪魔なもの

2005-10-17 14:43:01 | D的つれづれ
 国家試験の監督官のバイトをした。主任監督官と監督補助のふたりでペアを組んで一教室の監督をする。自分の仕事をうまく機能させるにはふたりの要するに意気投合が多少とも必要になってくる。はっきり言って、2時間以上もほとんど何もすることがない退屈な仕事なので意気投合というようなかっこいい表現があうのかどうかわからない。ただそんなたいしたことをしないはずなのにそれでも上手くことは進まないのはいらいらしてしょうがない。
 時々教室内を受験生のカンニングはないかなどのチェックをするためにぐるぐる見て廻るのだが、わたしとペアを組んだ奴(はっきりそう言わせてもらう)はわたしが指示しないかぎり自分から動こうとはしない。受験票や解答用紙回収の際も、受験番号、住所などの書き忘れなどがないかチェックするのは当然なのにそれもしないで持ってくるという始末。結局最後の解答用紙回収のさいに点検せずにもってきたためひとりの受験生をおじゃんにしてしまった(とはいうものの、その受験生も何回もこちらが注意しているのにそれを怠ったのは自業自得である)。
 また今回は初めての経験があったのだが、ある受験生が気持ち悪さに倒れた。わたしが駆けつけたとき彼は前の席でぼーっと突っ立ったままでこちらのほうを見ていた。わたしは彼にすぐ事務局のほうに知らせるように言ったのだが、それは彼の行動の鈍感さに嫌気がさしていたためでもあり口調が強まってしまった。彼は、若し大切な人がぶっ倒れたらそのときどうしているのだろうか。余計な心配をしてしまう。とはいうものの、何とかその受験生も元気を取り戻せたのでよかったのだが。
 はっきり言って、今回の仕事は自分でやったほうがまだ効率よかったのかもしれない。時として少人数でやったほうが効率が上がるときがある。自分と合わないような人とペアを組んだときが最悪なときだ。集団で行動するとき、チーム編成を間違えると最悪になったという経験は多くの人がもっているかもしれない。またその集団におけるリーダーは複数のときもあるかもしれないが、そんなたくさんはいらない。寡頭制の原理というのが、ひとりリーダーをあてて側にひとりの有能なサブをおいておく。あとは縦と横のつながりの編成を構成していけばいいだけだ(世の中そんな簡単にはいかないことは承知であるが)。ただ無理に合わないような人を側においておく必要はない。むしろ何も毒気にもならない人のほうがましなのだ。ときにそのような人間をもみ手にすり手の人間と呼ぶことがある。