最近、ブログの手抜き工事がひどいように感じる。本論も大学2年ぐらいのころに授業で書いたレポートの全文である。結構手抜きしており考察がすきだらけのところがありますが、暇がある時に読んでいただけたら幸いである。
Ⅰ. はじめに
1986年,この年はベトナムにとって歴史上大きな変革期のうちのひとつである。改革開放政策であるドイモイ〈刷新〉政策が開始されたのである。中国小平による改革開放路線,ソ連ゴルバチョフによるペレストロイカに通じる,内部からの社会主義の改革路線であり,始まってから18年が経とうとしているが,この間,ベトナム政府は経済政策を中心に,政治・文化政策も行ってきた。その結果,産業の発展に大きく貢献したことは今日の国際社会でのベトナムの位置を見れば明らかである。特に政治面,経済面における変化は数値などで表に出るために分かりやすい。しかし,〈思想文化〉面ではどうだろうか。実際,政府の文化政策により大きく変化してきている。
思想文化という面は国家の基盤となるため,政治面,経済面よりも目立たないところがあり,政策を実施している側にとっても重要視されなくなるという可能性もある。しかし,この文化面は,グローバリゼーションの拡大が進む今日において,自国のアイデンティティの保持,そして国民の教育政策などにおいて注目されるべき重要ポイントである。ベトナムに関して言えば,民族独立・統一を目指した戦時体制から,経済発展を目標とする「脱戦時体制(社会主義市場経済)」への動きが文化政策として試みられ,今後もベトナム社会の秩序などを考える上ではなしでは考えられない政策(視点)である。その政策の背景には,外的内的の両要因もあったことだろう。そこで今回は,それらの両要因を文化という視点で捉えながら,文化政策の概要を見ていき,そこからグローバリゼーション下におけるベトナムの多文化主義傾向と意義について人類学的視点から考えていくことにしたい。
Ⅱ. ドイモイ政策の歴史とその概要
そもそも政策には文化政策自体必要なのだろうか。その必要性は,各国で理由は違うにせよ,ベトナムのような多民族国家で,国全体が十分に発展してない以上,文化政策は少なからず必要となってくるだろう。そこで,文化政策の具体的政策を見る前に,ドイモイ政策が開始されるまでの歴史と政策全体の概要についてまとめ,そこから文化政策の必要性の一理由を示しておきたい。
まず,ドイモイ政策とベトナム共産党(以下共産党)とは切っても切り離せない関係にあることを念頭に入れておきたい。米国との戦争の末,1975年に南ベトナムは解放され,南北統一達成を果たした。しかし,その後の最大の課題は経済再建であった。その頃から社会主義体制の問題が表面化され,民主化運動の気風が東欧や中国でも見られるようになってきたこともあり,86年,共産党政府は市場経済を導入することにした。それがドイモイ〈刷新〉政策1)である。
ドイモイの目標は,市場経済に則り,国家管理のもとで人民を豊かにし,文化的で強い国家を建設することであるとされ,具体的政策として,企業の自主的裁量権の拡大,農業請負制の導入,海外資本の投資など大胆な対外開放政策,そして共産党党内の民主化推進など様々な改革を試みてきた。その成果は徐々に実り,2002年の実質経済成長率は7%2)となり,これまでの政策が成功していることを裏付けている。
ソ連のペレストロイカは政治政策から始め,それを重視しすぎたため失敗したといわれている。その点,ベトナムは中国と同様に,マルクス主義的に言えば,社会の下部構造である経済から改革を始めたことは正解であったといえる。政治的にも安定し,生活水準も向上し,民主的な雰囲気も芽生えてきている3)。
しかし,ベトナムは中国と同様,ソ連が崩壊した後も,これまで通り社会主義を掲げる共産党一党支配の国である。このことを考慮すると,必然的にひとつの問題にぶつかることになる。それは,社会主義体制と市場経済体制の並立は矛盾があるということである。
平等で安定した暮らしを保障するというというマルクス・レーニン主義的意味での社会主義制度を取っている限り,所得の格差,雇用問題,党や企業内での汚職蔓延などの市場経済から生じる問題は大きな衝撃となる。それが降りかかってくるのが一般国民であり,彼らを支持基盤とする共産党にとって大きな打撃となるのは必至である。実際,社会福祉制度の整備は遅れているのが現実である。
かつて中国政府は,その問題を少しでも緩和させようと市場経済化に対応した政治改革を構想しようとした。一時は失敗したものの,江沢民により改革は本格化し,現在まで少しずつ成果がでてきている4)。そのことを考えれば,ベトナムも中国の政策を比較・研究するなど,新たな方針(法治機能の充実など)を打出していく必要はある。
また独裁は,強い国家,強い指導力への渇望にも支えられる。それは,国際環境が厳しいほど国内の団結が求められ,民主の要求が愛国の叫びに転じやすいからにほかならない。したがって,ベトナムの民主化の進展が「持続可能」であるかどうかは,法治の実現とナショナリズムの度合いにも左右されるであろうが,その意味でも文化政策は,国家の一要素である国民にどう向き合っていくかが今後の焦点となっていくことを考えれば,法治国家体制確立に必要不可欠な政策となってくるといえよう5)。
Ⅲ. 文化政策の概要と問題点
文化政策の内容について様々な意見を比較しながらまとめていきたいが,時間と関連資料の数量の都合上により,今井昭夫(2002)の論文を参考にみていきたい。
a. ドイモイ以前の文化政策
共産党の指導による文化政策は,ドイモイ開始前の1943年に制定された「文化大綱(De Cuong ve Van Hoa)」にまで遡る。この大綱が長年,共産党(制定時はインドシナ共産党)の文化政策の基本方針となっていた。同大綱は,全体は5部から構成されており,主に思想・学術・芸術の領域についての基本方針を策定したものであり,内容自体マルクス・レーニン主義の思想が大いに反映されているものとなっていた。作成年代のことを考えると,当時は欧米,日本の帝国主義政策が東南アジア諸地域にも及んできており太平洋戦争の真最中でもあった。その点から考えると,「新民主主義文化」のための革命闘争推進が重要な意味をもってくる。
45年の八月革命によって,ベトナム民主共和国が建国された後,この「文化大綱」を広めようとしたのだが,当時マルクス主義を理解する人が少なく,あまり広まらなかった。そのドイモイ路線を採択するまでの間に幾度か内容の変更がなされてきたが6),結局,共産党指導の下での社会主義的側面が強調される政策がドイモイ以前の文化政策の特徴であった。
b. ドイモイ開始期の文化政策-第一の変革-
そして,1986年12月の第6回共産党大会において改革開放政策であるドイモイ政策が採択されたことで,文化政策についても変革されることとなった。しかし,ドイモイ開始期には,文化政策に関しては,「文化、芸術はやむことなく党性と人民性を向上させなければならない」とされ従来の政策と大きな違いは見られなかった。しかしながら,ドイモイ路線をとった理由が,戦時から平時への転換と,さらには社会主義的市場経済への転換ということを考えれば,ドイモイ開始以降の価値観の変化は,必然的にその後の文化政策にも影響を及ぼすことになる。その価値観の変化の影響でドイモイ開始期の文化政策についても問題が指摘されるようになった。それは,第1に共産党の文化指導とその規制緩和の問題であり,第2に経済発展と文化とのかかわりの問題性についてであった。
前章でも指摘したように,社会主義体制を取る以上,文化に対する共産党・国家の指導・管理と創作の自由の問題が浮上してくるのは避けられない。以前の政策における硬直性・閉塞状況を刷新し,市場経済下においてでてきた政治的経済的汚職を打破するためにも,文化面での規制緩和が図られるようになってきた。1987年11月28日に,「文学・芸術・文化の指導を新しい歩みに発展させる」政治局5号決議が出されたことに始まり,その後,民主主義的側面の強化と教条的政策の変更が図られるようになり,一時は文学者・科学者の創作の自由が拡大され,政治に対する建設的批判も許容されるようになり,最初の画期的展開となった。この結果,1987年~89年にかけて,「ハノイの春」と呼ばれるほど文芸活動は大きな変革をみた。日常的現実の批判,そして個人の心理や個人の問題も描かれるようになった。文化部門の幹部が刷新の方向を支援・擁護したことにも変革の大きな後押しとなったようである。
c. 第二の変革-経済と文化-
しかしながら,東欧の民主化運動が活発化し始めると,共産党は再び思想の引き締めに転じるようになり,91年のソ連・東欧社会主義圏崩壊後もさらに強化されるかたちで,党の指導・管理はより細かくなり,表現・情報公開などのメディア部門の自由性は失われ,限定的改革に終わった。
ところが,90年代に入ると,経済の発展を第一の目的としたドイモイにも新たな問題が表面化してきた。市場経済に基づく社会主義を目指す中で,経済発展と社会進歩のつりあいの関係の問題がユネスコのシンポジウムを通じて浮上してきた。つまり,経済発展を進めれば進めるほど社会的・環境的コストが増大し,現代化と社会進歩の両立が困難になってくる可能性が現実問題として考えられ始めたのである。ベトナム政府は,ユネスコで議論された,文化を経済発展の中に組み入れるという手段で問題解決をはかろうという考え方に大きな影響を受け,第二の改革に乗り出すこととなった。
そこで,経済発展の原動力としての文化や,経済発展に伴うマイナス面を調節するものとしての文化の役割がクローズアップされるようになった。公式的には,91年国会でのヴォー・ヴァン・キエット首相の演説において,「文化は発展の鍵であり,発展の原動力である」との認識が示され,経済と文化の相互作用性が強調されるようになった。そして,93年(1月14日)の共産党決議以降は,「文化は社会の精神的基礎であり,経済・社会の発展を促進する原動力であるとともに社会主義の目標」という認識が明確化された。その認識の中で,経済と伝統文化との関連で,「儒教文化圏経済発展論」の議論も盛んに行われ,また,経済と文化の調節により,グローバル化に対する民族的・国民的アイデンティティを保持するための「民族文化」防衛を中心課題にすえ,民族文化遺産の保存対策などが活発化されるようになった。
d. 第三の変革-愛国主義-
そして,この「民族的・国民的アイデンティティ」という言葉が登場してくる中で,さらに国民国家としての文化政策の議論が活発化してくるようになった。近代化・工業化へ向けての精神的価値や人間モデルの育成が重視される一方で,民主的ドイモイ政策の中で新たな「愛国主義(パトリオティズム)」をどのように定着させていくかが大きな問題となったのである。その政策には,「すべてを豊かな民,強い国,公平で文明的な社会のために」という社会主義的スローガンを基に,市場経済化のひずみと貧富の格差拡大,政治的経済的腐敗・汚職の深刻化に伴う人民の反発を克服するために,共産党が社会主義への方向性を堅持し,国民経済の主導的役割を保ち,愛国心を呼び覚ましていく,という党の指導者層の情熱的感情が感じられる。しかし一方で,社会主義的市場経済に内在する矛盾拡大による国民の不満に対する党指導層の危機感もうかがわれる。そして,この問題は現在でも大きな問題となっており,今後の改善に期待がかかる。
e. 問題点
以上がドイモイ下における文化政策の概要を三つの変革からみてみたが,今井は最後に次のような問題提示をしている。1つ目に,ドイモイ下でのベトナム文化の多様性が拡大され許容される傾向にあり,外部からの宗教の影響を回避するために少数民族の伝統が強調されるなど,「多様性の中の統一」をスローガンに文化の多様性の容認がなされる一方,政治的多元性は認められていないことから,党指導による統一への力が反作用的に働いていることである。「愛国主義」という一種の制約に国民を縛ることで,党の力が揺るぎないものにされていっている。2つ目には,21世紀に入った今日,グローバル化が進展する中で東・東南アジアの地域文化の中でのベトナムが強調されるようになった一方で,共産党によって「国際プロレタリア主義」が強調されるような状況も依然として存在していることである。特に前者の多文化主義に関する問題は,今後の世界情勢と国民国家論に照らし合わせて考えてみると,避けては通れない問題である。そこで次章では,ベトナム特有の社会情勢を考慮に踏まえた上で,国民国家と多文化主義の関係,そしてそれに伴う「愛国主義」について人類学的視点から考えてみたい。
Ⅳ. 国民国家と多文化主義-その問題点と今後の課題-
a. イデオロギー問題
前章で,ドイモイの文化政策は新たな「愛国主義」というひとつのテーゼに行き着き,それが現在進行形の議論であることをみた。この言葉自体,しばしば個人(国民)と国家の関係において議論されるものであり,自由と平等を謳う近代国家においての一産物というかたちで,過去,本元の欧米,そして明治期の日本において「愛国心」という名のもとで「国民国家」を形成してきた。ましてやかつて「帝国」という政治形態をとっていた国家にとっては,多民族をひとつの枠にはめ込む手段として,国家的イデオロギーを上から築いていったという歴史が存在する。しかし,冷戦が終結し,ソ連をはじめとする社会主義が崩壊した今日,超高度の資本主義が拡大し,世界の一元化が進む中で,かつての国民国家としての境界存在が不明確になろうとしている。そのような中で,90年代からかつての国民国家の存続が叫ばれる一方で,これを契機に新たな「国民国家」の意識(ポスト国民国家論)が芽生え始めた。ベトナム自身も,8000万人近くの人口の中に,約60もの民族を抱えている多民族国家であり,これからの国際社会と国内政治を両立させていく上で以上の問題は大きな壁となっていくことだろう。
しかし,ベトナムには,ドイモイ以前から続いているベトナム民族解放運動からドイモイ政策における現在までに,歴史的遺産としての国民国家のイデオロギーが築き上げられ内在しているはずである。ここでイデオロギーについて少し考えてみたいのだが,そもそもイデオロギーとは「社会基盤(経済的状況)に決定された社会認識の枠組みや制度」を指す言葉とされてきたが,果たして全てがそうであるのか。従来のマルクス主義の経済決定論的な限界性は,人類学や社会学でも大きな取り上げられており再検討がなさせてきているが,その「マルクス」の読み直しはこのイデオロギーを考える上で重要な視点である。「イデオロギー装置論」7)にあるように,社会基盤がイデオロギーを生み出すだけでなく,逆にイデオロギーが経済基盤や社会構造を決定していくという重層的決定は現実的に考えられることである。ベトナムにおいて,これまでに築き上げられてきたイデオロギー,つまりここで言うのは,政府の政策として創られたイデオロギーではなく,国民の生活基盤において形成されてきたイデオロギーのことであり,それが少しずつながらベトナムの社会に影響を与えていく可能性は,外部からの影響(グローバリゼーションなど)のもと今後強まっていくと考えられる。政府自身は,前章でも述べたように,その国民の意識がどの方向へ向かうか(民主主義に走ることなど)に危機感を感じているのである。
国家の政治体制を「支配者-被支配者」という構造で考えるならば,その両者の釣り合いが国家の存続,または共産党の支配正当性ということに少なからず影響してくるはずである。そのためにも政府は,このドイモイ政策を中途半端な形で進めていくわけにはいかない。
b. 国民国家とグローバリゼーション
先にグローバリゼーションという外部からの影響について触れたが,仮にこのグローバリゼーションが(西洋的)文明に変わるものではなく,文明化の最終段階として出現したものなら,ベトナムなどの旧植民地国家にとって第二の植民地主義,つまりポストコロニアル時代の新植民地主義ともいえる。グローバリゼーションという西洋資本主義の仕組みが一種のイデオロギーという形で蔓延している。
その意味ではアントニオ・ネグリのいう「帝国」8)の領域に入ってしまっているのである。そのような状況下において,少なからずの対抗は存在するが,このグローバリゼーション自体,コンピュータウイルスのように目に見えない蔓延性をもつものであるため,かつての解放戦争のように実践行動をするわけにはいかず,どう肯定しようと否定しようと,すでに浸透が拡大してきている。その意味では,その社会の中で,問われる文化やアイデンティティの意味も変化せざるをえない。
多様性の中での民族的統一を目指すという国民国家のイデオロギー形成の中で,社会と生活の流動性とそれに伴うアイデンティティの重層化は必然的に生じるものである。世界システムの中で国家システムの一環として形成される国民国家は,国境によって国を閉ざす一方で,世界との交流を余儀なくされている。国民性や国民文化論によって代表される国民統合のイデオロギーは,そうした地域や国民の多様性の実態を覆い隠す役割を果たしているといえる。よって,グローバル化を押し進めているのは,資本主義だけではなく国民国家のシステム自体がからんでいるのである。
c. 国民国家と多文化主義
国民国家の形成自体がグローバル化の国内浸透は避けられないとするならば,多文化主義の問題をどう捉えていくべきなのだろうか。
多文化主義は,ひとつの理念であると同時に歴史的事実である。多文化主義の語は一般に,ある単一の社会や集団の中に複数の文化が共存している状態を示すとともに,そのような多文化共存の状態を望ましいと考え,積極的に共存の推進を図ろうとする,政策や思想的立場をさすものとされている。当初は,文化的多元主義(cultural pluralism)という語が用いられており,この語は主としてヨーロッパ系の移民間の平等や文化的多様性の主張であったが,後に先住民や黒人や非ヨーロッパ系の住民,あるいは性差別やあらゆる身体的社会的差別に苦しむ人々の権利擁護や文化的多様性の主張までを意味する語として多文化主義(multiculturalism)という語が用いられるようになった。カナダ(71年)やオーストラリア(73年)では国是として多文化主義政策が採用された。
多文化主義は,一言語‐一文化‐一民族(国民)といった古典的な国民統合の理念に対立する構造である。ではなぜカナダやオーストリアは国民国家の概念と対立する多文化主義を採用したのだろうか。実際,両国では多文化主義をめぐって矛盾と混乱をもたらされ,国家の秩序を乱し破壊する国民統合の撹乱者として,保守主義者などから非難の声があがった。多文化主義は国家の解体と国家の時代の終焉を予告するものであるとして,『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンチントンはその例として挙げられるだろう。確かに,上記の古典的な国民統合の理念から考えてみると,多文化主義は秩序を乱す存在となるだろう。しかし逆に,多文化主義側から考えてみるとどうだろうか。多文化主義は,古典的な原理ではもはや維持不可能で,機能不全に陥った国民国家を再生させるために創出された,国民統合の新しい形態であるという考え方をするならば,国民国家理念が問題視されることになる。いずれの側に立っても,多文化主義が国民国家の危機を示していることには変わりはない。
国民統合はこれまで,人種的,民族的,文化的,言語的,宗教的,階級的,社会的,性的など,あらゆる差異が利用されて行われてきた。国民国家のこのような差別的抑圧的構造が現に機能しているからこそ,多文化主義は人種的・民族的な問題を越えて,性差や階級,同性愛者や障害者,マイノリティーの問題などのあらゆる差別の問題に広がっていったのである。しかし国民統合に排除の構造があることで,多文化主義が出てきたとすれば,多文化主義に将来の望みが十分あると考えるのは少し楽観的だろう。カナダやEUのような超国家において,多文化主義は,世界経済のために,国家的文化政策に取って代わるものとされるかもしれない。多文化主義政策をグローバリゼーションの一環として,つまりすべてを規範から逸脱したものとして,差異を必然的に均質化する効果を利用して,グローバリゼーションの文化政策が多文化主義となることは十分にありうるからである。
しかし,このことをベトナムにそのまま当てはめることはどういうことを意味するのだろうか。共産党一党体制により社会主義と市場経済という大きな対立構造を両立させている限りでは,上記の意味での多文化主義を持ち込むことは不可能である。そのことは資本主義経済の方向へ進むことになるからである。では,文化の多様性を認めていく中でベトナムという国家を発展させていくには,どういう方針を取るべきだろうか。共産党がさらなる政治的多元性を進めていけばよいのであるが,それでは党の存続が危ぶまれるため簡単には進めるわけにはいかないだろう。では逆に多文化主義についての発想を変えてみるとどうなるだろうか。国民国家の論理を逆転し,国民の多様性が国民のアイデンティティを保証し,国家の統一と「安定感」をもたらすという,新しい時代の到来を予想させる論理も考えられるが,難しいところである。
※一度に掲載できる文字数の関係上、「まとめ」以降は、註、参考文献とともにコメント欄を見ていただきたい。
Ⅰ. はじめに
1986年,この年はベトナムにとって歴史上大きな変革期のうちのひとつである。改革開放政策であるドイモイ〈刷新〉政策が開始されたのである。中国小平による改革開放路線,ソ連ゴルバチョフによるペレストロイカに通じる,内部からの社会主義の改革路線であり,始まってから18年が経とうとしているが,この間,ベトナム政府は経済政策を中心に,政治・文化政策も行ってきた。その結果,産業の発展に大きく貢献したことは今日の国際社会でのベトナムの位置を見れば明らかである。特に政治面,経済面における変化は数値などで表に出るために分かりやすい。しかし,〈思想文化〉面ではどうだろうか。実際,政府の文化政策により大きく変化してきている。
思想文化という面は国家の基盤となるため,政治面,経済面よりも目立たないところがあり,政策を実施している側にとっても重要視されなくなるという可能性もある。しかし,この文化面は,グローバリゼーションの拡大が進む今日において,自国のアイデンティティの保持,そして国民の教育政策などにおいて注目されるべき重要ポイントである。ベトナムに関して言えば,民族独立・統一を目指した戦時体制から,経済発展を目標とする「脱戦時体制(社会主義市場経済)」への動きが文化政策として試みられ,今後もベトナム社会の秩序などを考える上ではなしでは考えられない政策(視点)である。その政策の背景には,外的内的の両要因もあったことだろう。そこで今回は,それらの両要因を文化という視点で捉えながら,文化政策の概要を見ていき,そこからグローバリゼーション下におけるベトナムの多文化主義傾向と意義について人類学的視点から考えていくことにしたい。
Ⅱ. ドイモイ政策の歴史とその概要
そもそも政策には文化政策自体必要なのだろうか。その必要性は,各国で理由は違うにせよ,ベトナムのような多民族国家で,国全体が十分に発展してない以上,文化政策は少なからず必要となってくるだろう。そこで,文化政策の具体的政策を見る前に,ドイモイ政策が開始されるまでの歴史と政策全体の概要についてまとめ,そこから文化政策の必要性の一理由を示しておきたい。
まず,ドイモイ政策とベトナム共産党(以下共産党)とは切っても切り離せない関係にあることを念頭に入れておきたい。米国との戦争の末,1975年に南ベトナムは解放され,南北統一達成を果たした。しかし,その後の最大の課題は経済再建であった。その頃から社会主義体制の問題が表面化され,民主化運動の気風が東欧や中国でも見られるようになってきたこともあり,86年,共産党政府は市場経済を導入することにした。それがドイモイ〈刷新〉政策1)である。
ドイモイの目標は,市場経済に則り,国家管理のもとで人民を豊かにし,文化的で強い国家を建設することであるとされ,具体的政策として,企業の自主的裁量権の拡大,農業請負制の導入,海外資本の投資など大胆な対外開放政策,そして共産党党内の民主化推進など様々な改革を試みてきた。その成果は徐々に実り,2002年の実質経済成長率は7%2)となり,これまでの政策が成功していることを裏付けている。
ソ連のペレストロイカは政治政策から始め,それを重視しすぎたため失敗したといわれている。その点,ベトナムは中国と同様に,マルクス主義的に言えば,社会の下部構造である経済から改革を始めたことは正解であったといえる。政治的にも安定し,生活水準も向上し,民主的な雰囲気も芽生えてきている3)。
しかし,ベトナムは中国と同様,ソ連が崩壊した後も,これまで通り社会主義を掲げる共産党一党支配の国である。このことを考慮すると,必然的にひとつの問題にぶつかることになる。それは,社会主義体制と市場経済体制の並立は矛盾があるということである。
平等で安定した暮らしを保障するというというマルクス・レーニン主義的意味での社会主義制度を取っている限り,所得の格差,雇用問題,党や企業内での汚職蔓延などの市場経済から生じる問題は大きな衝撃となる。それが降りかかってくるのが一般国民であり,彼らを支持基盤とする共産党にとって大きな打撃となるのは必至である。実際,社会福祉制度の整備は遅れているのが現実である。
かつて中国政府は,その問題を少しでも緩和させようと市場経済化に対応した政治改革を構想しようとした。一時は失敗したものの,江沢民により改革は本格化し,現在まで少しずつ成果がでてきている4)。そのことを考えれば,ベトナムも中国の政策を比較・研究するなど,新たな方針(法治機能の充実など)を打出していく必要はある。
また独裁は,強い国家,強い指導力への渇望にも支えられる。それは,国際環境が厳しいほど国内の団結が求められ,民主の要求が愛国の叫びに転じやすいからにほかならない。したがって,ベトナムの民主化の進展が「持続可能」であるかどうかは,法治の実現とナショナリズムの度合いにも左右されるであろうが,その意味でも文化政策は,国家の一要素である国民にどう向き合っていくかが今後の焦点となっていくことを考えれば,法治国家体制確立に必要不可欠な政策となってくるといえよう5)。
Ⅲ. 文化政策の概要と問題点
文化政策の内容について様々な意見を比較しながらまとめていきたいが,時間と関連資料の数量の都合上により,今井昭夫(2002)の論文を参考にみていきたい。
a. ドイモイ以前の文化政策
共産党の指導による文化政策は,ドイモイ開始前の1943年に制定された「文化大綱(De Cuong ve Van Hoa)」にまで遡る。この大綱が長年,共産党(制定時はインドシナ共産党)の文化政策の基本方針となっていた。同大綱は,全体は5部から構成されており,主に思想・学術・芸術の領域についての基本方針を策定したものであり,内容自体マルクス・レーニン主義の思想が大いに反映されているものとなっていた。作成年代のことを考えると,当時は欧米,日本の帝国主義政策が東南アジア諸地域にも及んできており太平洋戦争の真最中でもあった。その点から考えると,「新民主主義文化」のための革命闘争推進が重要な意味をもってくる。
45年の八月革命によって,ベトナム民主共和国が建国された後,この「文化大綱」を広めようとしたのだが,当時マルクス主義を理解する人が少なく,あまり広まらなかった。そのドイモイ路線を採択するまでの間に幾度か内容の変更がなされてきたが6),結局,共産党指導の下での社会主義的側面が強調される政策がドイモイ以前の文化政策の特徴であった。
b. ドイモイ開始期の文化政策-第一の変革-
そして,1986年12月の第6回共産党大会において改革開放政策であるドイモイ政策が採択されたことで,文化政策についても変革されることとなった。しかし,ドイモイ開始期には,文化政策に関しては,「文化、芸術はやむことなく党性と人民性を向上させなければならない」とされ従来の政策と大きな違いは見られなかった。しかしながら,ドイモイ路線をとった理由が,戦時から平時への転換と,さらには社会主義的市場経済への転換ということを考えれば,ドイモイ開始以降の価値観の変化は,必然的にその後の文化政策にも影響を及ぼすことになる。その価値観の変化の影響でドイモイ開始期の文化政策についても問題が指摘されるようになった。それは,第1に共産党の文化指導とその規制緩和の問題であり,第2に経済発展と文化とのかかわりの問題性についてであった。
前章でも指摘したように,社会主義体制を取る以上,文化に対する共産党・国家の指導・管理と創作の自由の問題が浮上してくるのは避けられない。以前の政策における硬直性・閉塞状況を刷新し,市場経済下においてでてきた政治的経済的汚職を打破するためにも,文化面での規制緩和が図られるようになってきた。1987年11月28日に,「文学・芸術・文化の指導を新しい歩みに発展させる」政治局5号決議が出されたことに始まり,その後,民主主義的側面の強化と教条的政策の変更が図られるようになり,一時は文学者・科学者の創作の自由が拡大され,政治に対する建設的批判も許容されるようになり,最初の画期的展開となった。この結果,1987年~89年にかけて,「ハノイの春」と呼ばれるほど文芸活動は大きな変革をみた。日常的現実の批判,そして個人の心理や個人の問題も描かれるようになった。文化部門の幹部が刷新の方向を支援・擁護したことにも変革の大きな後押しとなったようである。
c. 第二の変革-経済と文化-
しかしながら,東欧の民主化運動が活発化し始めると,共産党は再び思想の引き締めに転じるようになり,91年のソ連・東欧社会主義圏崩壊後もさらに強化されるかたちで,党の指導・管理はより細かくなり,表現・情報公開などのメディア部門の自由性は失われ,限定的改革に終わった。
ところが,90年代に入ると,経済の発展を第一の目的としたドイモイにも新たな問題が表面化してきた。市場経済に基づく社会主義を目指す中で,経済発展と社会進歩のつりあいの関係の問題がユネスコのシンポジウムを通じて浮上してきた。つまり,経済発展を進めれば進めるほど社会的・環境的コストが増大し,現代化と社会進歩の両立が困難になってくる可能性が現実問題として考えられ始めたのである。ベトナム政府は,ユネスコで議論された,文化を経済発展の中に組み入れるという手段で問題解決をはかろうという考え方に大きな影響を受け,第二の改革に乗り出すこととなった。
そこで,経済発展の原動力としての文化や,経済発展に伴うマイナス面を調節するものとしての文化の役割がクローズアップされるようになった。公式的には,91年国会でのヴォー・ヴァン・キエット首相の演説において,「文化は発展の鍵であり,発展の原動力である」との認識が示され,経済と文化の相互作用性が強調されるようになった。そして,93年(1月14日)の共産党決議以降は,「文化は社会の精神的基礎であり,経済・社会の発展を促進する原動力であるとともに社会主義の目標」という認識が明確化された。その認識の中で,経済と伝統文化との関連で,「儒教文化圏経済発展論」の議論も盛んに行われ,また,経済と文化の調節により,グローバル化に対する民族的・国民的アイデンティティを保持するための「民族文化」防衛を中心課題にすえ,民族文化遺産の保存対策などが活発化されるようになった。
d. 第三の変革-愛国主義-
そして,この「民族的・国民的アイデンティティ」という言葉が登場してくる中で,さらに国民国家としての文化政策の議論が活発化してくるようになった。近代化・工業化へ向けての精神的価値や人間モデルの育成が重視される一方で,民主的ドイモイ政策の中で新たな「愛国主義(パトリオティズム)」をどのように定着させていくかが大きな問題となったのである。その政策には,「すべてを豊かな民,強い国,公平で文明的な社会のために」という社会主義的スローガンを基に,市場経済化のひずみと貧富の格差拡大,政治的経済的腐敗・汚職の深刻化に伴う人民の反発を克服するために,共産党が社会主義への方向性を堅持し,国民経済の主導的役割を保ち,愛国心を呼び覚ましていく,という党の指導者層の情熱的感情が感じられる。しかし一方で,社会主義的市場経済に内在する矛盾拡大による国民の不満に対する党指導層の危機感もうかがわれる。そして,この問題は現在でも大きな問題となっており,今後の改善に期待がかかる。
e. 問題点
以上がドイモイ下における文化政策の概要を三つの変革からみてみたが,今井は最後に次のような問題提示をしている。1つ目に,ドイモイ下でのベトナム文化の多様性が拡大され許容される傾向にあり,外部からの宗教の影響を回避するために少数民族の伝統が強調されるなど,「多様性の中の統一」をスローガンに文化の多様性の容認がなされる一方,政治的多元性は認められていないことから,党指導による統一への力が反作用的に働いていることである。「愛国主義」という一種の制約に国民を縛ることで,党の力が揺るぎないものにされていっている。2つ目には,21世紀に入った今日,グローバル化が進展する中で東・東南アジアの地域文化の中でのベトナムが強調されるようになった一方で,共産党によって「国際プロレタリア主義」が強調されるような状況も依然として存在していることである。特に前者の多文化主義に関する問題は,今後の世界情勢と国民国家論に照らし合わせて考えてみると,避けては通れない問題である。そこで次章では,ベトナム特有の社会情勢を考慮に踏まえた上で,国民国家と多文化主義の関係,そしてそれに伴う「愛国主義」について人類学的視点から考えてみたい。
Ⅳ. 国民国家と多文化主義-その問題点と今後の課題-
a. イデオロギー問題
前章で,ドイモイの文化政策は新たな「愛国主義」というひとつのテーゼに行き着き,それが現在進行形の議論であることをみた。この言葉自体,しばしば個人(国民)と国家の関係において議論されるものであり,自由と平等を謳う近代国家においての一産物というかたちで,過去,本元の欧米,そして明治期の日本において「愛国心」という名のもとで「国民国家」を形成してきた。ましてやかつて「帝国」という政治形態をとっていた国家にとっては,多民族をひとつの枠にはめ込む手段として,国家的イデオロギーを上から築いていったという歴史が存在する。しかし,冷戦が終結し,ソ連をはじめとする社会主義が崩壊した今日,超高度の資本主義が拡大し,世界の一元化が進む中で,かつての国民国家としての境界存在が不明確になろうとしている。そのような中で,90年代からかつての国民国家の存続が叫ばれる一方で,これを契機に新たな「国民国家」の意識(ポスト国民国家論)が芽生え始めた。ベトナム自身も,8000万人近くの人口の中に,約60もの民族を抱えている多民族国家であり,これからの国際社会と国内政治を両立させていく上で以上の問題は大きな壁となっていくことだろう。
しかし,ベトナムには,ドイモイ以前から続いているベトナム民族解放運動からドイモイ政策における現在までに,歴史的遺産としての国民国家のイデオロギーが築き上げられ内在しているはずである。ここでイデオロギーについて少し考えてみたいのだが,そもそもイデオロギーとは「社会基盤(経済的状況)に決定された社会認識の枠組みや制度」を指す言葉とされてきたが,果たして全てがそうであるのか。従来のマルクス主義の経済決定論的な限界性は,人類学や社会学でも大きな取り上げられており再検討がなさせてきているが,その「マルクス」の読み直しはこのイデオロギーを考える上で重要な視点である。「イデオロギー装置論」7)にあるように,社会基盤がイデオロギーを生み出すだけでなく,逆にイデオロギーが経済基盤や社会構造を決定していくという重層的決定は現実的に考えられることである。ベトナムにおいて,これまでに築き上げられてきたイデオロギー,つまりここで言うのは,政府の政策として創られたイデオロギーではなく,国民の生活基盤において形成されてきたイデオロギーのことであり,それが少しずつながらベトナムの社会に影響を与えていく可能性は,外部からの影響(グローバリゼーションなど)のもと今後強まっていくと考えられる。政府自身は,前章でも述べたように,その国民の意識がどの方向へ向かうか(民主主義に走ることなど)に危機感を感じているのである。
国家の政治体制を「支配者-被支配者」という構造で考えるならば,その両者の釣り合いが国家の存続,または共産党の支配正当性ということに少なからず影響してくるはずである。そのためにも政府は,このドイモイ政策を中途半端な形で進めていくわけにはいかない。
b. 国民国家とグローバリゼーション
先にグローバリゼーションという外部からの影響について触れたが,仮にこのグローバリゼーションが(西洋的)文明に変わるものではなく,文明化の最終段階として出現したものなら,ベトナムなどの旧植民地国家にとって第二の植民地主義,つまりポストコロニアル時代の新植民地主義ともいえる。グローバリゼーションという西洋資本主義の仕組みが一種のイデオロギーという形で蔓延している。
その意味ではアントニオ・ネグリのいう「帝国」8)の領域に入ってしまっているのである。そのような状況下において,少なからずの対抗は存在するが,このグローバリゼーション自体,コンピュータウイルスのように目に見えない蔓延性をもつものであるため,かつての解放戦争のように実践行動をするわけにはいかず,どう肯定しようと否定しようと,すでに浸透が拡大してきている。その意味では,その社会の中で,問われる文化やアイデンティティの意味も変化せざるをえない。
多様性の中での民族的統一を目指すという国民国家のイデオロギー形成の中で,社会と生活の流動性とそれに伴うアイデンティティの重層化は必然的に生じるものである。世界システムの中で国家システムの一環として形成される国民国家は,国境によって国を閉ざす一方で,世界との交流を余儀なくされている。国民性や国民文化論によって代表される国民統合のイデオロギーは,そうした地域や国民の多様性の実態を覆い隠す役割を果たしているといえる。よって,グローバル化を押し進めているのは,資本主義だけではなく国民国家のシステム自体がからんでいるのである。
c. 国民国家と多文化主義
国民国家の形成自体がグローバル化の国内浸透は避けられないとするならば,多文化主義の問題をどう捉えていくべきなのだろうか。
多文化主義は,ひとつの理念であると同時に歴史的事実である。多文化主義の語は一般に,ある単一の社会や集団の中に複数の文化が共存している状態を示すとともに,そのような多文化共存の状態を望ましいと考え,積極的に共存の推進を図ろうとする,政策や思想的立場をさすものとされている。当初は,文化的多元主義(cultural pluralism)という語が用いられており,この語は主としてヨーロッパ系の移民間の平等や文化的多様性の主張であったが,後に先住民や黒人や非ヨーロッパ系の住民,あるいは性差別やあらゆる身体的社会的差別に苦しむ人々の権利擁護や文化的多様性の主張までを意味する語として多文化主義(multiculturalism)という語が用いられるようになった。カナダ(71年)やオーストラリア(73年)では国是として多文化主義政策が採用された。
多文化主義は,一言語‐一文化‐一民族(国民)といった古典的な国民統合の理念に対立する構造である。ではなぜカナダやオーストリアは国民国家の概念と対立する多文化主義を採用したのだろうか。実際,両国では多文化主義をめぐって矛盾と混乱をもたらされ,国家の秩序を乱し破壊する国民統合の撹乱者として,保守主義者などから非難の声があがった。多文化主義は国家の解体と国家の時代の終焉を予告するものであるとして,『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンチントンはその例として挙げられるだろう。確かに,上記の古典的な国民統合の理念から考えてみると,多文化主義は秩序を乱す存在となるだろう。しかし逆に,多文化主義側から考えてみるとどうだろうか。多文化主義は,古典的な原理ではもはや維持不可能で,機能不全に陥った国民国家を再生させるために創出された,国民統合の新しい形態であるという考え方をするならば,国民国家理念が問題視されることになる。いずれの側に立っても,多文化主義が国民国家の危機を示していることには変わりはない。
国民統合はこれまで,人種的,民族的,文化的,言語的,宗教的,階級的,社会的,性的など,あらゆる差異が利用されて行われてきた。国民国家のこのような差別的抑圧的構造が現に機能しているからこそ,多文化主義は人種的・民族的な問題を越えて,性差や階級,同性愛者や障害者,マイノリティーの問題などのあらゆる差別の問題に広がっていったのである。しかし国民統合に排除の構造があることで,多文化主義が出てきたとすれば,多文化主義に将来の望みが十分あると考えるのは少し楽観的だろう。カナダやEUのような超国家において,多文化主義は,世界経済のために,国家的文化政策に取って代わるものとされるかもしれない。多文化主義政策をグローバリゼーションの一環として,つまりすべてを規範から逸脱したものとして,差異を必然的に均質化する効果を利用して,グローバリゼーションの文化政策が多文化主義となることは十分にありうるからである。
しかし,このことをベトナムにそのまま当てはめることはどういうことを意味するのだろうか。共産党一党体制により社会主義と市場経済という大きな対立構造を両立させている限りでは,上記の意味での多文化主義を持ち込むことは不可能である。そのことは資本主義経済の方向へ進むことになるからである。では,文化の多様性を認めていく中でベトナムという国家を発展させていくには,どういう方針を取るべきだろうか。共産党がさらなる政治的多元性を進めていけばよいのであるが,それでは党の存続が危ぶまれるため簡単には進めるわけにはいかないだろう。では逆に多文化主義についての発想を変えてみるとどうなるだろうか。国民国家の論理を逆転し,国民の多様性が国民のアイデンティティを保証し,国家の統一と「安定感」をもたらすという,新しい時代の到来を予想させる論理も考えられるが,難しいところである。
※一度に掲載できる文字数の関係上、「まとめ」以降は、註、参考文献とともにコメント欄を見ていただきたい。