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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

今日のアンソロジー(4)(the anthology for today)

2005-08-12 10:11:07 | D的つれづれ
   水清ければ魚棲まず
「何某、当時倹約を細かに仕る由申し候へども、宜しからざる事なり。水至つて清ければ魚棲まずと云ふことあり。藻がらなどのあるゆえ、其の蔭に魚は隠れて、成長するなり。少々は、見のがし聞きのがしある故に、下々は安穏なるなり。人の身持なども、此の心得あるべき事なり」
                山本常朝・田代陣基、神子侃編訳『葉隠』「聞書第一 教訓」(1964、徳間書店:p.69)

※汚いのは当然だがきれいすぎるのもだめだということ。きれいにしすぎると返って逆効果をもたらすということである。このことは単に物理的に不純物がなくてきれいという意味以外にも当てはまるものであろう。

   視野が狭ければ、ある物も見えない
「物をこまかに心を付候はば、天地の間の物、いずれとて、かわりあるべしともおもはす。かわりたりと見るは、見のすぼき故也。
 一樹の枝葉しけりたるにかくされて、富士の山、我目に見えざるかごとし。富士の山いかでか一樹にかくされん。只我目のちいさき故に、一樹わが目を遮る故に、富士は見えぬなり。しかるに一樹が富士を隠すと思うべし。我見のすぼき故なり」      沢庵宗彭、池田諭訳『不動智神妙録』(1970、徳間書店:p.156)

※人は基本的に自分を平均だと思っている。ということは自分が見識がなく(視野が狭く)てもそれを自分のせいにはしない。言い換えれば、自分で己を省みることことはないということである。世の中は物事の発想の転換によって視野が大きく変化する。枝が邪魔で見えないと思えば、なにもその場所にこだわらずとも少し位置を変えればいいだけのこと。そちらのほうが無駄な動きはまったくない。

映画「誰も知らない」(nobody knows)

2005-08-09 10:22:22 | D的つれづれ
 是枝裕和監督、柳楽優弥主演。柳楽はカンヌ映画祭で主演男優賞を受賞している。それぞれ父親が違う4人の子どもと母親ひとりとで暮らしており、子ども大勢の母子家庭を隠すために長男以外は家から出させないようにしている。ある日、母親は「好きな人ができた」ということを長男(柳楽)に告げこれでまともな生活ができると暗示しながらも、結局それを相手に告げられず自分だけが逃げ出し消えてゆく。そこから子どもたちだけの“誰も知らない”生活が始まるのである。
 正直、この話が実話にもとづくということもあってか、わたしとっては非常に違和感のあるぎこちない作品に感じてしまう。この表現がふさわしいのかどうかはわからないが、ときどき目をそらしたくなるような場面に遭遇してしまう。何か自分がその映画の一子役にでもなったかのようにそのバーチャルな世界のなかでの生活をイメージしてしまう。彼らは、戦争時に生きているわけでもなく貧困街に住んでるわけでもないのだが、普通の都会での暮らしであるからこそなおさら彼らの生き方がわたしの胸を打ち抜くのである。
 作品の背景がどうであれ印象(後味)のよい映画とは何か。それは食べ物がうまそうかそうでないかということだ。豪華なフランス料理とかが印象がよいというわけではない。シンプルな食べ物でも関係ない。それは小説でも当てはまることかもしれないが、例えば、ジブリ映画「ラピュタ」で、シータとパズーが追ってから逃げて洞窟の中で朝食をとる場面があるのだが、そのときのメニューは目玉焼きにパン、それとりんごか何かだったと思うのだが、彼らがパンの上に目玉焼きをのせて美味しそうにペロッと食べる姿は彼らの気持ちの緩んだ和やかなひと時をうまく表現しており何気ない食べ物ではあるが何だか知らないが美味しそうであった。それに比べて本作ではどうか。わたしには特に食事の姿が観ていられなくなってしまった。食べ物の内容のせいだけではなく、彼らの生活とその食事が二重に重なって見えてしまうからである。小さな子どもたちだけで食卓を囲んでカップそばだけを食べる姿、そばの残り汁とご飯を混ぜて書き込む姿、することなくて食べるものもろくにないため紙を食べる姿…。ただ可哀想とは表現できないところにわたしのこらえきれない気持ちがある。
 彼らの気持ちに同情とかそんな気持ちよりも、半分子育て放棄で逃げ出した「母親」、無責任な「母親」、あとのことを考えず子供を4人も作った「母親」、子どものことよりも自分だけの幸せを追い求める「母親」。彼女を「母親」と呼ぶ必要があるのかどうか。何だか息の苦しくなる作品だった。

世界陸上(world championship of track and field)

2005-08-08 10:39:49 | D的つれづれ
 6日からヘルシンキで始まった陸上世界選手権を限られた時間ではあるが観ている。もともと陸上は好きで1991年の東京大会の時から観ており、記憶ははっきりと残っている(あの時はカール・ルイスの最盛期であって100mと走り幅跳びの記憶は特に鮮明だ)。96年のアトランタ五輪や97年以降の世界陸上も夜中まで真剣に観ていた。
 カール・ルイスやマイケル・ジョンソン(200m、400mの世界記録保持者)が引退し、そのあとにモーリス・グリーンが登場したが彼ももう30を越えている。最近ではスーパースターが不在であるためわたしとしては少し残念である。
 まあその話はいいとして、ここで書きたいのはその世界陸上のテレビ放送についてである。TBSが放送しているのだが、97年アテネ大会以降この放送スタイルを通している。レポーターに織○裕二と中○美穂を起用し、現地の放送解説とテレビ視聴者の媒介的存在として番組を盛り上げようとしている。たしかに彼らを置くことによって陸上に素人の視聴者には陸上に対する親しみをもたせ受けをよくするのかもしれない。確かにそれができたからこそ彼らも5大会連続で番組起用されているのだ。ただそれなりに陸上をかじったことがある人にとっては何だか邪魔なだけなのである。彼らを移す時間があるのなら(レース一本ごとに彼らに画面が切り替わっている)現地の状況や見所や過去の名選手の歴史だけを流してくれればよいと思ってしまう。陸上をやっている若者にとっては超一流の選手の練習方法、調整方法を画面から学ぶことだってできるかもしれないし。それに陸上に素人のタレントが勝手に盛り上がって「あーですよ、こーですよ」と説明されても何だか違和感が残ってしまう。それに彼らが時に優勝した選手と中継でトークすることもあるのだが、「わたしは前からずっとあなたを注目していました」とか「97年に僕たちがあなたと出会ってから~」(96年以前、つまり起用される前は無関心だった)などと言われても、相手にとってみれば「わたしの何をこんなド素人が知ってるのよ」と思ってしまうだろう(まあ放送というのはそんなものかもしれないのだが、陸上関係者の視聴者が彼らのトークを聞いているとなんだかそう感じてしまう)。
 そして一番気になることが、今回の見どころコーナーで有力選手が紹介されるのだが、彼らにはキャッチコピーがつけられている。例えば、「鉄仮面」「格闘王」「ハードルなぎたおし男」「刺客」などなど、なぜわざわざこんな名前をつけなきゃいけないのだろうか。さらには、今季有力選手のみを取り上げて紹介するものだから、実際に番組みていると「あの人もでてるじゃん」とそこで初めて知ることが多い。また基本的にそこでの紹介が「○○vs△△」というかたちになっており「勝つのはどっちだ!」という結びで終わることが多い。そもそもナレーションの声もゲーム感覚で捉えられそうで困惑してしまう。そして司会がそれにさらにあおりをかけるのでその構図が体系化される。特に今大会はその傾向が非常に強いように思える。やはりスーパースターがいないからこうでもしないと宣伝にならないからなのだろうか。よくわからない。そもそも陸上競技は1対1での勝負事ではない。何か陸上の本質と醍醐味を忘れさせてしまうような放送は何とかしていただきたいものだが、逆にこのようなことを毎回繰り返していくと、そもそも何が陸上の醍醐味かも忘れてしまう。もしかしたら、世界三大スポーツ際(サッカー・ワールドカップ、オリンピック、)の一つと呼ばれるまでになった世界陸上のメディア放送によって、少しずつその姿も変容してしまっているのかもしれない(以前と比較してみればわかることである)。

ホモ・ルーデンス(homo ludens)

2005-08-07 11:41:11 | D的つれづれ
 「われわれ人間は、理性を信奉していたある世紀がとかく思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えないことが明らかになったとき、われわれの種族である人類の名称として「ホモ・サピエンス」と並べて、作る人すなわち「ホモ・ファベル」という呼び名が持ち出された。しかしこれは、前者よりさらに不適切なものであった。ものを作る動物も少なくないからである。作るについて言いうることは、また遊ぶということについても同じであって、じつに多くの遊ぶ動物がいる。それにもかかわらず私は、「ホモ・ルーデンス」すなわち遊ぶ人という言葉も、ものを作る機能とまったく同じような、ある本質的機能を示した言葉であり、「ホモ・ファベル」と並んで一つの位置を占めるに値するものである」
             ホイジンガ、高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』「まえがき―序説」(1973、中央公論社:p.11)

 最近、あるビジネス雑誌を眺めていたら「忙しいビジネスマンライフ」のための本の紹介として本書が紹介されていた。近年、ビジネスマンの中でも仕事と遊びの両立ということが盛んに言われるようになってきているが、オフデイをいかに過ごすかということについて「オシャレ」で「遊び心」を目指そうなどという文句が近年多数発行されてきている「(中年男のための)男性誌」などで載せられている。ファッションに関しても、かっこいいオッサンを目指した服装特集がなされ、小物類のこだわり一品などの特集も頻繁になされるようになり、経済的に見ればある程度金銭的に余裕のある中高年をねらった新ビジネスであり、消費の面から見れば、高級志向と個性重視のこだわりというのが定着し始めそれが現状となってきていることを示しているようにも思える。
 「遊び」という感覚それ自体、日本のビジネス界には当てはまらなかったというのが過去の出来事(会社が帰りに居酒屋でドンちゃん騒ぎとか会社ぐるみでの旅行などを言っているのではない)になりつつあるなかで、サラリーマンはいかに限られた時間と金銭のなかで余暇をすごしていくのかが重要視され始めていると楽観的に捉えるべきなのか、それとも一時の流行(短期間のという意味)に過ぎないのか。しかし、あと10年もすれば国内の人口の減少が顕著になり今日のような大量消費が日常となっていること自体が成立しないようになっているであろう(そうならないと困るのだが)況下において、われわれはいかなる消費スタイルを確立していくのだろうか。その迫ってくる先のことを予言するかのように、この「遊び心」と「シンプル生活」の流行はわれわれに何かを示唆してくれているようにも思う。

「遊びという魔圏からは、人間精神はただ至高の存在へ視線を向けたときにだけ、釈放されるのである。ものごとを論理的に考えぬくというだけでは、そこに達するのにとうてい不十分である。人間の思惟が精神のあらゆる宝を眺めわたし、その能力の達成した輝かしい偉業を検討してみるならば、いかなる真面目な判断の底にも、なお一抹の未決の問題点があるのを見いだすだろう。どれほど断乎とした判断の言葉にしても、彼自身の意識の奥では、これが絶対に究極的なものではありえないとわかっているのである。この判断が揺らぎはじめるその一点で、絶対の真面目さというものを信ずる感情は屈し去るのだ。「すべて空なり」という、古い諺にとりかわって、「すべて遊びなり」という、おそらくはやや肯定的な響きのする結語が、湧き上がってくる」(p.430)(前掲載書)

素朴な疑問(a simple question)

2005-08-05 09:57:11 | D的つれづれ
 昔、小学生のころ水族館に行ったときに、私と同じくらいの年の子が魚を見ながら「あの魚おいしそうだなあ」とつぶやいていた。だが、私はいくらマグロやイワシが大水槽を悠々と泳いでいたとしても「おいしそう」には見えなかった。たぶん私の感想をもつほうが多数派だとは思うのだが、同じ魚で魚屋や料亭の水槽に泳いでいる魚は美味しそうに思えてくるのに水族館の魚は美味しそうに見えないのはなぜだろうか。
 人は行く場所に意味づけをおこなっていて(例えば、水族館は魚を鑑賞するところで、魚屋では食事用の魚を買うところと無意識のうちに設定している)、その範疇を越えたところの意味設定はおこなわないのだろう。だから水族館で魚を食べたいという感想をもつことは普通(大人の感覚なのか)なら考えられない。しかし、その範疇は自らの経験や外部からの知識移入によって自らに内部化させるのだろうが、その経験が少ないとか欠如しているならそんな感想をもってもおかしくないのではないだろうか。もしかしたら水族館にあるレストランとかで魚料理をださないのはそんな理由があるからと考えるのはいきすぎだろうか。

旅行ガイドブック(travel guide book)

2005-08-02 10:55:32 | D的つれづれ
 日本のガイドブックの特徴は何か。みなさんも本屋なり自分の家にあるものなりで複数冊見ていただければわかる。一冊のガイドブックの大部分をしめるのが食事、宿泊施設、土産である。例えば、「イタリア」のガイドブックを見てみよう。目次だけ見てもわかるのだが、目に付く言葉を挙げれば、「ヴァカンス」「グルメ」「カフェ&バール」「ショッピング」「ブランド」「アウトレット」まああとは「世界遺産」である。文化遺産紹介といっても「見逃せない必見スポット」というふうに宣伝されているし、モデルコースの一部として登録されてしまっているかたちである。
 つまり、肝心な歴史文化の紹介が本全体の20~30%ぐらいしかしめていないのである。なぜ日本人はそんなにも店の紹介ばかりを載せるのだろうか。こんなにも免税店の紹介を載せたガイドブックも世界では珍しいのではないだろうか。まあ確かに近年では「日本人」と「ブランド」(衣服に限らずなんでもブランド化してしまう)という関係は切っても切り離せないという関係が構築されてしまっている。これをどうのこうのというつもりはないのだが、言いたいことは旅行雑誌にそれほど大部分を占めてまで載せているという状態にひとつの疑問を抱かざるをえないのである。旅行雑誌というより各国グルメ雑誌と化しているガイドブック、以前海外言ったときにたまたま話した外国人に笑われた。
 世界で有名なガイドブックに『lonely planet』(?)というのがあるが、この本を見てみると日本のガイドブックを比較ができて面白い。というのもその本にはその国の歴史、文化、そして名所名跡のこと細かい説明がなされていてある意味教科書を読んでいる感じのする本である。もちろんそれに不慣れなわたしとしても違和感を感じてしまうのは否めないし、またそういう種類のガイドブックが良いとか悪いとかいう評価もくだせない。ただあくまでも旅行というのは異文化地域に乗り出していくということであるため、少なくとも相手に対して興味があることを示すためでもよいからもう少し気を使っても良いのではないかと思ってしまう。もし日本が英語をバリバリ使う国でガイドブックも英語が主流であるならば、向こうの人もその本に興味を抱いてしまうだろう。日本語で書かれていることがある意味救いなのかもしれない。異文化に行く前に事前に予習も必要といわれるが、そんな硬いことを建前にしなくとも形の上でもなんとかしてもらいたいものである。ただ流行にはさからえないという必然性から考えるとなんともいたし方がないのだが…。

今日のアンソロジー(3)(the anthology for today)

2005-07-31 11:15:21 | D的つれづれ
「私は、かくも多彩な出品内容をふくむ、またその多彩さの故に、教育的見地からすれば途方に暮れさせるようなこの見事な展覧会の光栄ある分析に際して、あらゆる種類の衒学ぶりを廃して臨みたいと思う。アトリエの特殊用語で語り、作家をだしにして自己自身を見せびらかそうとする人々には事欠かないだろうから。博識というものは、私には、大抵の場合、子供っぽいものでもあり、その本性上さほど説得的ではないように思えるのである。構図のシンメトリーとか平衡について、色調の釣り合いについて、暖色や寒色等々について気のきいた議論をすること位は、私にとっていとたやすいことだ。しかしなんたる空しいことだろう!私はむしろ情緒と道徳と快楽との名において語りたい。衒学的ではなくて知識のある若干の人々が、この私の無学を良き趣味と見てとってくれることを私は希望している」(pp.96-97)

「イタリアではレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの子孫を、ドイツでは、アルブレヒト・デューラーの精神を、スペインの部ではスルバランとベラスケスの魂を発見しようという先入見をもってこの万国博覧会を訪れる人たちは、無用の驚きを準備してゆくことになろう。いかなる法則によって芸術的生命力が移動させられ、またおそらく学識も、私は持たない。私は、歴史にきわめてひんぱんに現われる一つの事実を指摘するだけに満足する。私たちは、若干の平凡なことをくり返し言わなければならない世紀、ギリシャ、ローマの失敗を越えたところにいると信ずる、高慢な世紀に生きているのである」(p.100)
          福永武彦編集『ボードレール全集Ⅳ』(人文書院、1964)、「1855年の万国博覧会、美術」

Dのつぶやき(what i am thinking about)

2005-07-30 00:33:05 | D的つれづれ
・日本で難民保護対策が進まなかったり、国際化が進まない理由。人権擁護団体とかがいろんなことをごちゃごちゃ言っていたり(ここで彼らを非難しているわけではない)、まして一般人が誰の受け売りかは知らないが人権擁護、人種差別反対と叫んでいるが、たぶんそれは他国でそれを運動にまで盛り上げるのとでは意味が違うような気がする。というのも、本当に(人種)差別をなくしたいのなら、あなた本当に彼らの住んでいる同じアパートに住めますか、と言いたくなる。もし隣に日本と遠縁といわれるアフリカや中東出身の人が引っ越してきたのならあなたはどう思いますか?最初から少しでもためらいがあるのならそこでもうフィルターをかけてしまっていることになるはずだ。人間は少なからず偏見意識をもっている。そのことを周知の上でコミュニケートしていくのならかまわないのだが…。

・最近プライベートメッセージなどでわたしのブログ内容が難しいと言ってくる人(知人)がいる(感想をもらえることはうれしいことではあるが)。抽象度も高く詩的表現も混じっているため分かりづらいらしい。ということでここでいいわけをさせていただく。
 わたしの専攻のことも関連してくるかもしれないが、彼らは要するにもう少し新聞の社説調でわかりやすく書けと言っているのだが、こう内容のことを論理明白に書いても正直なにも面白くはないだろう。かつてわたしは「いかに思索しうるか」というタイトルの記事で「あーでもない、こーでもない」と自分の頭の中でも葛藤を繰り返して書くということを主張したが、わたしは始めから明白な答えを用意し目的に添った論説をするつもりはない。そういう書き方は確かに読み手にとっては非常に論理明白で分かりやすいことだろう。しかし、人文科学においてその書き方の最大の欠点は、論理が通っているため(通っているようにみえるためかもしれない)読者がその主張論理をさもこれが答えだというように勝手に決め付けて信じ込んでしまうということである。外交戦略や経済政策などの論文は論理明白性が要求されるが、とくに社会の無意識部分を扱おうとしている目的文章に対してそれは逆にまったくやる意味がなくなってしまう。社会学の面白さは、われわれが普段気づかないものを何らかの表現媒体によって一時的に表に出させるということである。

映画「天と地」(heaven and earth)

2005-07-28 00:30:42 | D的つれづれ
 本作はオリバー・ストーン監督による「プラトーン」,「7月4日に生まれて」に続くベトナム戦争映画三部作のラストということになっているが,前2作とは趣向が違いベトナム人女性を主人公にした,つまりベトナム側の視点から描いた作品ということになっている。
 内容自体は実話らしいが,どこまで忠実に映画化したのかは定かではない。O・ストーンは本作をベトナム人への謝罪の意味を込めて映画化したか,それともアメリカ側を批判しているつもりなのだろうか。ベトナムの人達に「アメリカ人にしては少しは我々の気持ちが解ってくれるようになったじゃないか」などとでも思って欲しかったのだろうか。そういうことも一理考えられるかもしれないが私はそうは思わない。なぜならこの映画は,アメリカ側からではなく,かつ女性の視点という,政治的立場に立たない一般人という立場から描かれた作品だからである。どういうことか。つまり,一農村に住む一女性,ましてや若い女性は家庭を切り盛りするなど一般民衆の代表的存在(男性は外に出て行くこともあるため多少の政治的つながりはある)とも言える。彼女らにとっては世界の政治的問題など全くの無縁である。ところがいつの間にか自分もその脅威にさらされるという,ある意味戦争の脅威,そして戦争の起こる背景とその意味,さらには宗教の意味深さを我々全視聴者側に訴えかけようとしているのではないだろうか。
 普通に生活する人達にとって,ましてや言い方は悪いかもしれないが,発展途上のベトナムの農村の人達にとって,社会主義と自由主義の闘争は無意味であり無関係である。それでも強い者によって世の中が流れ、結局は弱い者は翻弄されていくしかない。そんな状況下において,女性(我々)はどう生きるのか。彼女らにとって体を鬻ぐ事は決して汚いとは言い切れないし生きる為にはやむを得ない事情だってある。このことは戦前と終戦直後の日本の状況にも似ている。
 そしてもう一つ,この映画が訴えかけていることがある。それは宗教下に生きる我々の人生である。「儒教」,「仏教」をベースとした考え方(祖先を大事にするとか先祖伝来の土地を守るとか)と「キリスト教」のそれとの根本的な違い。宗教が我々の前に立ちはだかると「我々人間はみんな同じじゃないか」という綺麗ごとはどうしても言えなくなる。正しいのは自分達,他の考えは異教徒。異教徒はつぶさなくてはならない。大げさに聞こえるかもしれないが,実際,有史以来人間はこの変な信奉をもとに数々の争いをしてきた嫌いはある。その考えを拡大したのがこの主義間争いなのである。よって「みんな同じ」という建前的本音を言う前に,どうしても宗教の違い,文化的風土の違いは考えざるを得ない。人間同士の理解を深める上でこのことが大きな障害となることを考えなくてはならないのである。
この映画には白人の傲慢さ(こう表現していいものかどうかは読者の判断にまかせるとして)が白人の手によって強く描かれており,ある意味新鮮な気持ちを感じさせるかもしれない。しかし,それ以上の問題がこの映画には潜んでいる。我々にとって宗教とは何か,また最近政治的場面で叫ばれるようになった「悪」とは何か。我々が宗教(主義)を盾にして互いに言い争っているうちはそのことは解決できないだろう。しかし,その盾をなくさなくてはならないという綺麗ごとを言っていられないところが人間界の一つの醜さでもあり必然であるのかもしれない。

今日のアンソロジー(2)(the anthology for today)

2005-07-25 11:00:38 | D的つれづれ
・この蝶が当時ひらひら舞っていた大気には、それ以来数十年というもの、私がもはや一度も耳にしたこともなければ口に出したこともないひとつの言葉が、今日ではその隅々にまで浸透しているのである。子供のときに物を呼んださまざまな名が大人には耳慣れぬものに聞こえる、その謎めいた響きを、この言葉は損なわずに保持してきた。長いあいだ口にされなかったことで、それらの名は、いまでは輝かしいものになっている。「蝶を追う」(p.491)

・チョコレートの甘美さとは、とりどりの色たちが、私の舌のうえでというよりも、私の心のなかで溶けていこうとしたときの、あの甘美さにほかならなかった。つまり、私がこの甘いお菓子の誘惑に負ける以前に、色に感応する高次の感覚が、私の内部で、味覚という低次の感覚をひととびに飛び負かし、私をうっとりさせていたのだった。「色」(p.580)
※つまり、ここでの色と日本語の「色」、何かかぶっているような気がしないでもない。色で殺すのであろう。

 W・ベンヤミン、浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション3』、「1900年頃のベルリンの幼年時代」(1997、筑摩書房)