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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

まっとうな受験(about taking entrance exams)

2005-08-28 10:29:36 | D的つれづれ
 わたしはバイトで個別指導をしているということは前にも書いたが、昨日のバイトである高校3年生の生徒(わたしの生徒ではない)と話していたら彼はこうつぶやいていた。「最近ふと思うときがあるんですけど、仮に今年の受験で受かった場合、来年の今頃はいったい何してるんだろうかと考えてしまうことがあります。今は受験、受験とそれなりの目標があって燃えているんですけど、まだ大学の実体というものがいまいちつかめてないですし、大学生になったらいったい何してるんだろうかと不安にもなったりします」と。彼自身は、県内有数の進学校に通っており勉強意欲もあって毎日自習にも来ているらしいのだが、最近同じ事をひたすら繰り返していることの価値というものに疑問をいだきはじめているようであった。
 この時期というのは受験生にとって「天王山」といわれているぐらい重要な時期と世間では言われている。基礎を固め来学期の応用力養成のための最終段階ともいわれているくらいである。一応わたしもそのことには批判するつもりもなく実際に生徒にもそのことを言い聞かせている。まあそんなことはいいとして、彼自身理系であるため、数学と化学を中心に問題演習を繰り返している。文系ではやらない、数Ⅲ・Cと化学Ⅱもあるため範囲的にも膨大である。そのためにもこの時期の基礎固めは重要である。またこの時期は精神的にもマイりはじめる時期でもある。この2ヶ月のうちにマーク、記述模試そして大学別の個別模試も行われる。また塾の夏期講習もあるため受験生は超ハードなスケジュールをこなしていかなければならない(正直、聞くだけでもかわいそうに思う)。
 高校時代のある先生が、「夏休みは600h!」と繰り返し叫んでいたが、「そんな一日平均15時間もやる奴なんてどこにいる。はっきり言って狂ってる」と心のなかでつぶやいていたのを憶えている。受験生ながら他の受験生を可哀想な奴だと思っていたわたしはどうみても正当な受験生ではなかった。世間から見れば、そんな受験生は「敗者」となる。わたし自身、先の生徒がつぶやいたことは高校生になってまもなく思うようになった。感じることは誰しもあることであると思うのだが、それを深く考えたらもうおしまいである。ところがわたしはそこにはまり込んだ。人には言わなかったが、なんだか心にしこりを残したまま一応は勉強もしていた。ただ具体的な目標がこの受験システムにそったものではなかったため気力的にも何か集中できなかったし落ち着かないまま本番を迎えてしまったのである。
 ただわたし自身敗者なったと思ったことはない。世間からみた敗者を自分でも感じたくはなかったので、自分なりに将来のことも踏まえた上で自分の関心事を深く追求しいろいろな進路選択も考えた。自分自身、仮にどんな一流大学・企業へいったとしてもそこの共同体に深く染まっていくつもりはない。というかできない。自分の所属を確立したうえで自分のペースで進めつながりを広めていくやり方のほうが性に合っている。その意識さえしっかりもっていればそれなりの環境があればやっていけると思った。興味のあることを追い求めたいというのが本音だった。そして文系自体(理系のほうはよくわからないが)大学に入ってしまえば誰でもやっていけるという状態でありサラリーマンになるつもりのないわたしにとっては温泉につかった学部時代を送りたくはなかった。そんなこともあって自分で勝手に楽しんできた。
 わたしは、その生徒には上記のわたしの受験体験を話はしたが最後に忠告だけはしといた。「確かに受験生はだれでもこの問題にぶち当たるかもしれんけど、自分のことを深く見つめ考えもしないでその疑問を膨らましていくのだったら敗者になるから気持ちを振り切って今のまま続かなかんよ。それは個人の問題だから自分でしっかり考えなね。」と。まあ彼の気持ちがどう変わっていくのかが今後楽しみなところなのだが、そんな会話を現役の受験生と話するのもいいものである。

「問題」です(a question or a problem)

2005-08-26 21:54:20 | D的つれづれ
問い:次の文章はある文学作品の冒頭と中間部分からの引用であり、文章中の( )のなかにはその小説のタイトルになる言葉が入る。この( )に当てはまる言葉を写真を参考にして答えよ。

 うとうととして眼がさめると女はいつのまにか、隣の爺さんと話を始めている。この爺さんはたしかに前の前の駅から乗った田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、駆け込んで来て、いきなり肌を脱いだと思ったら背中にお灸の痕が一杯あったので、( )の記憶に残っている。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣りに腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。

 ふと眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向こう側が高い崖の木立で、その後ろが派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向うから横に光を透してくる。女はこの夕日に向いて立っていた。

 答えはここでは言わないが、この種の問題、よく大学入試で見かける問題である。特に私立大学はこういう問題を好む傾向にある。まあ日本を代表する著名な文学者の作品を知っておくというのは教養の意味としてはそれなりの価値がある。それを偶然知っているだけで会話が弾むこともありコミュニケーションが活発化することもありうるからだ。ただ引用部分から作品を答えさせようとすること自体、正直いきすぎとも思ってしまう。まあクイズ問題としてなら成立しうるが、日本人ならこれくらいの作品を読んでないとだめだと言う文学研究者らが作成する入試問題自体狂っていると思わないだろうか。だれがこんな定義を決めたんだと怒るような人も私を含めていることだろう。
わたし自身、著名な文学者名とその作品名を知るというは批判するつもりもないし、また何を覚えようが個人の勝手なので冒頭部分を知っていようがいまいがそれ自体を非難するつもりはさらさらない。ただわたしが危惧するのは、そういう「○○して当然だろう」という前提で専門オタクの研究者が問題を作成して、結局それが入試の演習問題として普遍化しているということ自体おかしいというのである。入試制度の変革とかなんとかいって大学院大学を目指そうとしているというのにも拘わらず、入試問題が固定化、バイブル化していること(赤本とかがはやること)自体が矛盾を感じざるをえない。そういう点があることが、日本の入試、特に学部入試までの入試自体が、受験生に入るためだけに勝手に燃えさせてそれがすぐにさめさせてしまうようなシステムを蔓延化させてしまっている元凶のひとつであることをしめしているのである。誰がこんな入試システムを作ったのか、専門バカの問題作成者か、受験生か、それともその背後にある今日の社会なのか、それは誰も知るよしもない。
 それにしてもこの池汚いよなあ。浄化されてない気がする…。

多文化都市・東京(multicultural city, tokyo)

2005-08-24 12:04:37 | D的つれづれ
 先日東京へ行ってきたのだが、一泊だったのでどこに泊まってもよかったのだが、結局ユースホステルに泊まることにした。
 ユースホステルには面白い人がいるものだ。今年の3月にも利用したのだが、そこにいた人がまだいたということ。その人はもう何ヶ月も泊まっているという感じであるが、一泊3000円で寝床とシャワーとキッチンが確保されているとはいうものの、月で90000円かかることになる。それならマンスリーマンションやドミトリーで契約したほうが効率的ではないかとも思ってしまう。また、ユースには何回も利用している人がおり、久しぶりに出会うとそこで会話が弾むということもある。こんなこともあってわたしはユースに泊まることは結構好きである。わたし自身常連ということではないのだが、常連でなくともユース生活を楽しむこともできる。特に東京に関しては地方からの観光客も多く、また外国人もバックパッカーや家族で泊まりにくる人もいる。そこで出会った人との会話もまた楽しい。このユースではないのだが、これまでもユースで出会いおしゃべりを楽しんだ外国人や日本人も多くいる。時には一緒に観光をしたこともある。こういうことはいろんな地域から訪れる人が多い都市のユースは旅好き人好きにとっては大いに利用価値がある。
 今回もわたしの隣にいた男性と話をしたのだが、専門性のある深いところまで話が出来て楽しくまた勉強にもなった。その方は、社会人一年目で今回は東京で働く大学時代の友人と会うために来たそうである。某有名国立大学経済学部出身だそうだが、そのためか友人の方も官僚や大手企業に勤めている人が多いそうである。話はわたしの専攻分野である社会学についてが大部分であったが、その方も非常に興味深くまた鋭い質問をしてくださるのでこちらも非常に深いところまで説明することになった。時に専門性のある話をすることは面白い。またお互いの家族、友人、対人観についても色々話すことになった。見知らぬ他人ではあるが、時に信頼できそうな人にお互いの気持ちを話すことで気持ちが楽になることもある。思いがけない返答が返ってくることもあるからだ。その方も身体的精神的に悩みがあるそうなのだが、その人も「東京はいろんな人と出会えるから面白い」とおっしゃっていた。この場をおかりして貴重な時間を共有できたことに感謝の気持ちを表したいと思う。ぜひ気持ちを新たにして前向きに頑張っていただきたい。

飛行機(planes)

2005-08-21 11:29:20 | D的つれづれ
 写真は開港前の中部国際空港の様子です。名古屋空港から出発したときに上空から撮りました。飛行機がいない空港というのも珍しい光景でめったに出会えるものではありません。
 わたしは、飛行機が離陸するときのあの興奮がなんともたまらない。目指す目的が楽しいものであるからかもしれない。かならず戻ってくるという前提に基づいているためこの感覚がもてるのだろう。エンジンがかかり、機体全体に振動が伝わり一気に加速する。背中のシートに引き付けられていく感触とGが少しずつ大きくなっていくときの興奮、そして宙に浮いた瞬間に感じる自分が宙を浮いて飛んでいる錯覚。その興奮の一方で、エンジン故障などで爆発してしまわないかという変な不安。その両者のスリリングがまたいい(わたしが勝手に楽しんでいることなのだが)。
 正直なところ、飛行機の離陸に限らず、乗り物の出発というのはわたしにとって一番好きな瞬間である。船が陸から離れる瞬間、電車がゆっくりと動き出す瞬間など。その人の目的が楽しいことであれ少々つらいことであれ、そこで何か気持ちを切り替えなくてはならない瞬間であり、次の場所での期待が一番膨らむ瞬間でもある。それが緊張であれ郷愁であれ、とにかく気持ちが一番高まることには変わらない。
 今日は久しぶりに東海道新幹線にのります。新幹線のゆっくりと動き始める刹那はわたしの最も好きな瞬間である。これで誰かに見送ってもらえたら言うことないのだが…。そんな気持ちをこれからも大切にしたいと思っている。

顔のバライエティー(several kinds of faces)

2005-08-19 23:46:03 | D的つれづれ
 よく「○○ちゃん、芸能人の誰々に似ている」とか「あなたの顔を芸能人に例えるとするならば誰に似ていると思いますか」などいう表現を耳にすることがあるだろう。よく考えるとちょっと変な表現であることに誰しもが気づくはずである。心が捻じ曲がった人は「彼が彼女(芸能人や俳優のこと)が俺の顔に似たんだ」と言い返す人もいるかもしれないが、まあ一理当たっていることだ。芸能人も常に不変のメンバーで構成されているわけでもない。世代が変われば好みも変わる。つまり人気のでるかでないかも時代に左右されることが多い。そして、芸能人の数といったってたかが知れている。ましてや著名な人物となればさらにせばまる。顔の種類は人の数だけ違うのだから、芸能人や俳優の数知れた顔、そして特徴が著しくもない単調な種類の顔の枠内で例えようとするほうが正直おかしい。中には、諸事情により誰の顔に例えてよいものか困惑してしまう人もいることだろう。
 先に世代によっても挙げる有名な芸能人も違ってくるといったが、例えば、「石原裕次郎に似ている」というならまだ多くの人が分かる(そんな簡単に似ている人が見つかるわけがないのだが)のだが、ところが「わたしは市川雷蔵に似てるとよくいわれました」と老齢の人がいったとしても、聞き手が若ければそれが誰でどんな顔をしているのかさえ分からない始末である。また当然逆の場合も考えられる。ところが、超マイナーな人物を挙げたりましてや近所の誰々と挙げるわけにはいかない。広い範囲の人に知れた人では例えのメンバーに入らないのである。
 要するに、われわれは日常でテレビなどを通じてほぼ毎日見ており一番馴染みとなっていてお手入れや整形をほどこしてまともに出せる顔の持ち主である彼らを例えの総モデル集として扱わざるをえないのである。彼ら自身も誰かの手によって化粧や衣装を決められひとつの「個」を決められてしまっている人間である。芸名というのは彼らのアイデンティティを表すひとつの手段のようになっている。そして、われわれは、テレビや映画や雑誌などに載っている彼らを理想の人物のサンプル集として日々是鍛錬して改造している。よって限られた数(種類)だけの顔の類似品が複数できあがっていく。時代によってその顔モデルは変化していくのだが、それを伝える媒介者(メディア)がなくならないもしくは記事内容を変えない限りそれの複製は再生産されてゆく。よって、周りを見ればみんな同じ顔に見えてしまうというウソのように思えて本当であるこの事態というのはまさにそのことなのである。

今日のアンソロジー(5)(the anthology for today)

2005-08-18 19:57:53 | D的つれづれ
 武士が戦いを放棄し、平和時に、その身分を保持しなければならなくなった政治社会的現実、と、例えば、私が書いただけでも、当時の武士は政治社会的現実などという言葉を全然知らなかったという事実を、読者に忘れさせるに足るであろう。この言葉を濫用している現代人には、現実は言わば、自由な批判に屈し、現状維持も革新も革命も応諾するといった姿に映ずる傾向があるが、当時の武士たちには、もちろん、そんな心理傾向は無縁であって、彼らは、ただ退引(のっぴ)きならぬ世の転換をそのまま受け納れて、これに黙して処した。これは、原理的には簡明なことで、行動人から知識人への転向であったが、各自の経験からすれば、彼らの胸中にあった戦国の主従の契りという不文の行動の掟の意識化を、生活の必要から強いられたという複雑な大変緊張した経験であったはずである。これはまた、彼らの知識なり教養なりは、現代の知識人や教養人のほとんど考えにくい責任感と自身とに貫かれていたと考えてよいと思われる。彼らに言葉を供給したのは儒学であった。
             小林秀雄「忠臣蔵Ⅱ」(1961:pp79-81)『日本の文学43 小林秀雄』(中央公論社)

 ある人が、誰でも言いのだが、特に著名な人物によってしゃべられたことというのは周りのものはそれを素直に聞き入れる。疑いという言葉はそこには存在しない。しかし、われわれは他人がしゃべったことというのは意外にすんなりと鵜呑みにしてしまう可能性があるのである。特に著名人によって新語が作られた時にはそれがなおさら強い。そんなときわれわれはそれまでの認識なんて始めからなかったかのようにその新概念に対して讃美するのである。そしてそこからそれに対する新しい認識の一歩が築かれたことになる。

家庭教師で(about teaching subjects for entrance exam)

2005-08-17 23:27:15 | D的つれづれ
 今日、家庭教師で、といってもあるオフィスに集まって教えるといういわゆる個別指導なのだが、中学生に歴史を教えた。今日教えた範囲は高校の区分で言うならば日本史の明治維新についてだった。「五箇条の御誓文」とか「五傍の掲示」、「版籍奉還」「廃藩置県」など何だか懐かしい言葉を振り返りながら指導を進めた。高校でやるほど量も多くないのでどんどん進んでいった(独断で生徒のことも考えず…)。教える際にどうしても気をつけてしまうのがテストを意識して指導していくことである。ここはよく出るから言葉と内容をしっかり見ておいたほうがいいよ、とか、こういう問題けっこうひっかかりやすいから気をつけてね、などなど。
 今回の範囲でも、「「五箇条の御誓文」と「五傍の掲示」の字がよく似ていてときどき混同してしまうから、内容としっかりと比較してみておかなくちゃならないよ。間違えないコツっていうのは必ず語句に使われている漢字とかから意味を推測できるようにしておくことだよ。御誓文って言葉なんて、そもそも御殿の「御」ってついてる時点でよほどエライ人に対して誓うってことでしょ。それに「掲示」って言葉なんて上から下に向けて告げたことに決まってるじゃない。だからこれは国民に対して掲示したことなんだね」などなど、もう打つのは疲れたのでこの辺にしておくが、とにかくテスト(受験)テクニックをしっかりしゃべっておかないと彼らに教えている意味がないような前提でしゃべってしまっている自分に気づくのである。歴史を学ぶ面白さというのは、「なぜだろう、なぜかしら」という疑問から自分で考えそして納得するということである種何か発見でもしたかのような喜びを感じることができるからである。実際、自然科学の分野にも当てはまることだろうと思うのだが、違うことは歴史的時間性が基盤にあるかないかである。まあただそんなことを一生徒にずっと考えさせていては中等教育機関の意味がなくなってしまうのでこだわる必要はないと思っている。それは正直なところ、学ぶ立場の者は始めから個人の嗜好によって考えようとするかしないかなんて決まっているようなものだし学ぶのも個人の自由である(今日の状況的にも)。ところが教える側というのは、ノルマというものを果たすべくいかにも機能的にしか話せなくなってしまうのである。それ以外のことを話しても彼らには受け入れる範疇から外れているためくだらんお金の無駄として教える側を排斥する(言いすぎだが)。
 歴史を教えていて、狭い野の範囲内のことを繰り返してしゃべっているだけだなとつくづく感じてしまう。わたしたち教える側はただ金欲しさに生徒に仕えている気がしてしまうことがある。

今日のつぶやき(today's mutter)

2005-08-16 11:16:18 | D的つれづれ
 わたしの祖母がわたしを叱りながらこんなことをよく言っている。

 「わたしは何も怒ってるわけではないんだよ。叱ると怒るを混同しちゃだめ」
 「他人は決してあなたを叱ってはくれないよ。叱ってくれるのは、あなたを愛している家族ぐらいなものだよ。それを勤めるのが親が役目ってもの」

 またある人は昔こんなことをわたしに言ってくれた。

 「Dは自我が強すぎるから、いい人作るんならお前を叱ってくれる人が一番いいよ。そんな人じゃない限りDに本気で向き合える人なんていそうにないからなあ(笑)」
 「もしそれを根にもつような人であればそれはただ怒ってるだけだからやめとけ」

 あの時、彼がなぜそんなことを言い出したのかは思い出せないが(なにせ高校1年のころだったので)、わたしにとって恋愛観以上に深い意味をもつものであった。

自分を困惑させるもの(what is confusing me)

2005-08-14 19:55:54 | D的つれづれ
 自分のまわりにたくさんの商品があって好きなものをもっていっていいよと言われた場合あなたはどうするだろうか。その商品は種類も数もたくさんありどれを選択していいのかまよってしまうくらいだ。こういう経験は今まで経験されたことがあるはずである。例えば、あまりにも大きいショッピングセンターや本屋に行ったとき種類も数も多すぎていったいどれを選んでいいのかまよってしまうだろう。それは自分にとっても余分なものが自分の心を惑わせるからである。これらの商品のいったいどこが違うのかを比べてしまって時間だけがどんどん過ぎてゆく。あれもいい、これもいいとついつい衝動買いしてしまうのは自分のまわりにあるモノが多すぎるからである。そして結局はこんなもの必要なかったと嘆いたり、もらったために損してしまったと感じてしまうのだ。
 しかし、ここで一度心を落ち着かせてみたい。自分は一体何に興味があって何が欲しくて、そして一番肝心なのが、何が必要なのかということを。つまり全体のモノが100であったとしたら自分が今本当に必要なものはせいぜい20、30だろう。欲張りすぎては手にかかえきれないしもしかしたら商品を入れる袋が破れてしまうかもしれない。そのためにもあらかじめ大まかにリストアップしてみてそれから絞っていけばいいのである。その方が目移りが減り気分的にも気軽に臨めるだろうし選ぶ時間もゆとりがもてるだろう。気もちろん今自分におかれた状況からある商品をしっかり選択見極めなければならないこともあるだろう。たしかに自分には都合が悪くないものが複数あるかもしれないが、結局自分が一番馴染みがあって使いやすいものを選びそれを定番化することもある。「やっぱりこれがないと何か生活リズムが崩れてしまう」という感覚は最後に選択するときに重要視すべきことなのである。もちろん初めて選ぶ商品であるならば、品質をしっかり見て考えるだろう。
 そのとき気をつけておきたいのがあせってはならないことである。後になってからあっちのほうが良かったと嘆くことがないように、始めにも述べたように周りの誘惑によって自分の気持ちを紛らわさないように落ち着いてのぞむ必要がある。
 まあ商品が人であるとするならば、わたし自身がその悩みの種となっているのかもしれないが(笑)。

熱い視線+今日の戯言(what those sight lines mean)

2005-08-13 12:16:19 | D的つれづれ
 社会学の分野で、「視線」という観点から権力問題とその身体化を扱ったようなフーコーなどの議論はあるのだが、人はただ単純に他者からの熱い視線(まなざし)によって己の身体がかなしばりあったかのようにその視線の集中に注目する(もしくはしてしまう)こと、言い換えれば自分が視線の的になるか自分が誰かを視線の的にするということがあるだろう。
 ここ数年、つまり大学生になってくらいからだろうか、わたしは向こうから歩いてやってくる異性と熱~い視線を長いあいだ交えることがたびたびある。10mくらいの距離からだろうか、その人はわたしの顔をもしくは目をじっとそれ以外の何物も見ていないかのようにわたしのほうをずっと眺めている、というよりも顔はこわばっていないのだが何かにとりつかれたかのようにわたしのほうに視線を注いでくる。時にはウィンクしていく人もいる(!?)。わたしのほうも、わざとらしく視線を逸らせては何か気前も悪く相手の視線のことが気になるのでじっと見返す。視線を一糸乱れることなく交わすその数秒間、緊張の糸が張りつめる。自分の鼓動が高まっていくのがわかる。その人の顔は常に無表情であるかのように、背の高いわたしの顔を見上げるように見つめ、時には(一緒に歩いていた友人曰く)通り過ぎたあとにもわたしのほうを見ている。わたしが気づいていないときにもわたしを見ている人が異性がいるらしいのである。
 中には、向こうから3、4人の集団で歩いてきた異性の人たちからそろってわたしの方をじっと視線を集めながら通り過ぎてゆく。俺の顔に何かついているのか、俺の顔ってそんなに特別なのか。まあわたしがかっこいいということは有りえないので(実際、そんなふうにもこちらを見ていないようなので)ここではそれを却下しておく。とまあ、わたしは様々な不安を抱えながらその人たちの「熱い」視線を勝手(無意識)に金縛りにかかりながら身体化させていってしまうのである。
 しかし、わたしはその人たちの決定的な共通項を弁証法的に発見した。端的に表現すれば、年齢は若く、肌も心もきれいで、身長も日本人の特徴をしめしているかのように低い。言い換えよう。年齢は少なくともわたしと12、13歳はズレており、肌は新陳代謝が非常に激しくぷるんぷるんした水饅頭(最高の天然水で作った)のようになめらか、心はほとんど世間の荒波にもまれておらず穢れがないため水洗便所(抗菌加工済みの)のようにきれいで、身長はほとんど110~130cmくらいの低身長である。言っておくが、わたしはトーテムポールのようなシンボルでもないしパプティノコンのような権力身体化装置的シンボルでもない。視線がまぶしすぎる。好い子は選ぶ人を間違ってはいけない。