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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

外国人観光客(tourists from abroad)

2005-09-19 11:40:56 | D的つれづれ
 わたしは、最近外国人観光客とよく会話をする機会が多いのだが、彼らは一般的に、われわれ日本人が主要な観光スポットと呼ばれる場所は当然のこと寄るのであるが、なにかそれ以外の、つまりガイドには載っていないものにも注目しているようである。
 例えば、新宿歌舞伎町をとっても、われわれが行く目的とはちがった目的でその場所を楽しんでいる。そこは日本最大の繁華街であり不夜城であるが、彼らにとってはあのネオンサインがなんともたまらないらしい。その光景は、外国映画のなかでもよく映されている光景である。たしかに、そうして改まってみてみると何だか奇妙な光景だ。
 また、築地市場の朝の競りを観るために朝早くから見学にいく外国人もいるらしい。つまり、われわれ日本人が注目もしないところ、ようするにすでに自分達の生活に身体化(慣習化)してしまっているため注目もしないところが外国人にとっては初めて見る独特な光景に映ってしまうのだろう。
 彼らと話していると面白い新たな視点が見えてくる。当然、われわれが海外で行けばまたその逆のことが起こりうるのと同じことであるが。
 こんな光景もひとつの日本の「伝統」文化のなんだろうとも思ってしまう。

運動会(sports festival)

2005-09-17 14:02:14 | D的つれづれ
 今日は地元のある小学校で運動会が行われている。まだ声変わりしていない子供たちの甲高い声とアナウンスの声・音楽が家まで一言一句聞こえてくる。なつかしいなあと自分の過去を振り返ってしまうのがこの運動会だ。自分は運動は得意な方だったので運動会は毎年楽しみにしていた(ただ小学校低学年でやるダンスとかは嫌いだった)。そんなこともあって運動会には思い出がたくさんある。徒競走やリレーで流れるあの音楽はなんとも言えないくらいにぴったりマッチしている定番曲だ。
 「まいえー、すすめ」とか「ぜんたーいとまれ」とかいう掛け声で入場・退場曲が流れる。毎回だらしがなくやっていると先生がごちゃごちゃうるさく目障りだったが、そこで流れる音楽は結構好きな方だった。わたしが小学生のころは「宇宙戦艦ヤ○ト」のテーマ曲とかが流れていたが、今日、家まで流れてくる曲を聴いていると「マツケンサンバ」とかが流れている。時代は変わったんだなあと感じてしまう。
 よく考えてみると、小中学校の運動会はマスゲームが大部分を占める。学年ごとにやるダンス、組体操、騎馬戦(集団戦みたいなもの)などが午前・午後の部と必ず組まれている。そういえば入場・退場行進、国歌斉唱など一糸乱れぬために何度も繰り返し練習しなければならない。そういうことは昔も今もあまり変わっていない。
 学校はイデオロギー装置とか規律身体化のための装置とか言われているが、日本の学校はまさにそれが強い。運動会はまさにそれが鑑賞化される。まあ見てる限りにおいては楽しいものだし、親から見てみれば我が子の様子を観る絶好の機会でもある。親子の絆を客観的ながらも確かめられる機会でもあるのだ。そういう機会が日本の学校行事にはたくさんあるからビデオカメラが発達したのではないだろうか(勝手な憶測ではあるが)。
 それにしても、運動会のときだけあんなに騒音とも呼べる音をふりまいているのに周りからは苦情がこないというのは、やはり共同体として運動会の存在と意味がある種認められていることの証とも呼べるだろう。

寺で(in a temple)

2005-09-16 11:01:42 | D的つれづれ
 用事で京都へ行った。時間ができたので東山を中心にぶらぶら歩いていて、建仁寺へよってみた。わたしは京都の主要な寺院はよったことがあるが、なぜか建仁寺だけは抜かしていた。この寺はあの有名な俵屋宗達の『風神雷神図屏風』がある(通常はレプリカ展示)ことで知られているが、京都五山のひとつとしても有名である。またそこは枯山水庭園としても立派なものがあり、わたしは方丈の縁側で庭をぼーっと姿勢を崩しながら眺めていた。
 何百年も風雨にさらされながらも今なお風情を保ち続けている建物の木材の感触はわたしは好きだ。素足でも長い間触れていられるにはやはり木が一番である。たたみの感触もまたいい。寺独特にただよう匂いと空気、時にこんなところに来てみるのもいいものである。
 最近は若い女性も古寺巡りをすることが多くなってきているそうだが、それは今日の「和」ブームとも拘わっているのだろうか。寺のよさがわかるわからないというのは、正直どうでもよいことである。拝観者の年齢層が多様化するなかで「寺のよさ」というのもまた多様化しているからだ。いままで行ったことのない雰囲気に直接触れることに価値があるからである。
 そういえば、わたしはまだ鞍馬のほうに行ったことがない。今度来たときはぜひ行きたいと思う。

他者なき世界(the world where there are no others)

2005-09-11 20:05:31 | D的つれづれ
 今日の社会は現実性のない他者なき社会であるという。少なくとも学術世界の議論の中ではそういう話題が主流となっている。
 欲求する「動物」、「不可能性」、「虚構以降」などなど、社会学者を中心とした多くの知識人たちがこれまで様々な事象からそのようなことを明らかにしてきたことは書店の本棚を覗いてみればわかることである。それらの主張の中では大抵決まったパターンに落ち着いているようだ。
 今日の現代思想は「近代批判」を目指すということになっているのだが、その傾向のあるパターンというのは、「今日われわれは……という社会で暮らしているが、いかに克服していくかが課題となるが、そのためには~していく必要があるのではないか(学術的にもそういう方向性を持ちながら分析していく必要がある)」というようなかたちで結びは決まってしまう。つまり、今はこれまではこうだったから、次はこうしなけれなならない(こうしたほうがいいのではないかという曖昧な結び)、と各研究者の言いたいことを最後にキメて終わりとなっているのである。
 しかし、思うのはその結びの形がきまり台詞となってしまい、むやみやたらな「近代批判」となってしまっている傾向は、その学問世界の中からでも批判がなされているところである。とりあえずその話は別にして、最初の「~していく必要がある」という解決策の結論のところに話を戻すとしよう。どうしてそもそも「~していく必要がある」という結論が主流とならなければならないのだろうかと考えることから始めたい。
 確かに、現実の状況を少しでも克服しようとする実践的思惑があることからもそういう結論も確かに必要であるし、戦略的な課題に直結するような議題であればその傾向は強くなることは必至であろう。ただ思想を扱う、つまり人間の個と社会の関係を捉えようとすることを主題とするのであればその結びだけでは不十分のような気がする。もちろん実践度の高いことでもそういう考えも必要である。
 近代社会が生み出してきた精神を採り上げるためにもその克服策を、という考えはいわゆる「近代」が始まってから行われている(「近代批判」)。そのなかで機能主義、構造主義、ポストモダンなどという思考意識の変遷はあったのではあるが、何かそれらは「次へのステップ」(未来)を目指すべく提案を試みてきた。つまり、ヘーゲルのいうアウフベーヘンという形でさらなる上を目指す思考があったのである。
 ただこういう考えをもつことも可能ではないだろうか。つまり、現状をしっかり受け容れた上で、それを克服するために新しい何かを見つけようとするのではなく、その現状を現状のまま受け入れ、その状況下のなかでの社会に慣れさせ適応していくための思索を試みていくことはできないものかということである。社会そのものを変えていくということを最終的に目指すのではなく、その社会を受け入れそのなかでミクロ的に克服を模索していく。そしてそれが積み重なることで社会の変化に兆しをもたらしていく。
 世の中には、何事も排除していく方向にもっていくことを考えがちだが、共存という方法も存在する。生物学用語には「すみわけ」という言葉があるが、「すみわけ」のように暗黙の「壁」を築いて区分するというのではなく、壁なしの世界のなかで多様がいかに共存していくかの模索の試みも必要ではないかということは今日の世界が一番よくそしてずっと前から知っている。学者も理屈ではわかっているのである。
 まあ、自分も自分が非難した表現を用いてしまっているようであるので、この文章は何の説得力ももたないが…。要するに、そうした傾向を何とか打開していくことのほうが重要なのであろう。

距離感(how far is there from here?)

2005-09-09 10:59:56 | D的つれづれ
 わたしと同じ町に住む知人とメールをしていて、その人がこうつぶやいた。「Dとメールとかしていると、同じ町に住んでいるにも拘わらず、なんだかすごく距離が離れている感じがする」と。言われてみて確かにそうだとわたしもうなずいてしまった。
 確かにわたしの家とその人の家との物理的距離はたいしたものではない。自転車でも15分くらいあれば行けてしまうほどの距離である。ではなぜこんな感覚をもってしまうのか。
 今回の話題のメールにせよ、旧メディアの代表格としての電話にせよ、これらは普通ならありえない空間どうしの接触を築き上げてきた。それ以前は、離れた(見えないくらいの距離の)空間どうしはリアルタイムでは接触するということは考えられなかった。あってもせいぜい手紙くらいだが、当然時差は生じる。
 空間どうしのリアルな接触はわたしたちに何をもたらしたのか。新たな空間接続手段。人間を主体に考えれば、ヴァーチャルな身体の移動が可能となり偽造空間での会話ができるようになったこと。そしてメールでさらに著しくなったように、話し言葉の活字化。それらからさまざまな意味で社会問題が生じてきたということは否めない。
 ただ知人がいったように「思ったより(実質的距離よりも)距離が遠く感じる」というのはどういうことか。リアルタイムなら何だか近くにいるような錯覚になるほうが普通ではないか。今のわたしの力ではなんともうまく説明しがたいのだが、その人の心理的問題(つまりわたしとどんな関係で話しているのかとか、その人の環境が最近変わったからなど)によって多少の錯覚が作用するのではないだろうか。ただ幾ら心理的なことが作用したからといって距離が遠く感じてしまう錯覚にとらわれるのは説明しきれない。もしかしたらメールや電話は、ある程度の距離があって「メールらしい、電話らしい」ものになるというイメージが刷り込まれてしまっているからだとも言えるかもしれない。

風景について(about scenery)

2005-09-08 11:21:06 | D的つれづれ
 かつてのどこかの記事で、ある決まったイメージ枠が与えられるとその共同体や個人の内部で正典化され固定化されてしまいそのイメージ枠を脱構築することは困難であると書いた。
 ここで風景について少し述べておきたいのだが、われわれが風景という概念、つまりその景色(景観)について芸術的価値を見出すという文化が、古来よりあったということはなかったということは知られている。美術史を通史的に眺めてみるとわかるようにある時期より前の時代の作品(作品といえるかどうか分からないが)には人物が対象の主体である。
 ということは、われわれはそれまで風景という概念はまったく見出せなかったのだろうかというとそういうわけではない。人間にはなにかに美しいとか価値を見出してきていた。ある景色をみて「きれいだなあ」とか感じてもいただろう。ただそこから芸術的価値、今の感覚で言えば、「なんだか絵に写真にしたい景色だなあ」とまで発想したかというとあやしいところである。
 中村良夫だっただろうか、彼は、風景というのは視覚的側面と触覚的側面(つまり、その場所の土の感触や空気のにおいなど身体でその場所性を感じるということ)の両側面をもって成り立つと言っている。ということは実際にそこに行かない限りその土地の風景というのを直接感じ取ったことにはならないということになる。いくら写真やハイビジョンテレビで映し出される映像を見ていて満喫していたとしてもそれはその風景を感得したことにはならない。だから実際に行ったときにそれまでの自分が予想していたイメージとの間に差異があると感じるのである。
 しかし、今日の社会では複製技術の産物によってわれわれはその知らない場所を少しでも味わったかのように満足している。問題は、この差異が生じてしまうことはどうしようもない。というよりそれを問題としたところで意味がいないのだが、その複製技術によってどうイメージが固定化されていくのかということに注目しなければならない。
 近年は旅行や異文化交流が普通に使われる時代になってきているが(ということは大衆化が浸透したということにもなる)、それにともなってホスト―ゲスト関係を仲介するメディア業界やホストになる側が、こぞって宣伝ということでイメージをオーディエンス側に植えつけようと必死になっている。当然今日において当事者となる人たちが自分達を悪いようには書かないため、そのイメージの選択肢も限定される。言葉はもちろんのこと写真や映像で見せようとする風景も固定化される。言葉には簡潔性が求められるため必要以上に伝えるためには困難もあり時には誇張したような言い出しも見受けられる。ただ今後改善の余地がありそうなものとしてはやはり後者の映像のほうにあると思われる。
 そんなことで最近はメディア・リテラシーとしてメディア表現が(地域主義の一環としても)重視されてきている。ここで最後に述べておきたいことは、最初の風景の生成のところでも多少述べたが、風景は、われわれがそこに芸術的価値を見出してから風景(画)が生まれたのではなく、なんらかの歴史的経緯により風景画が生まれたことでそこから風景の概念が生まれたということである。その風景自体にはそれを感じ取って枠にはめた作成者の主観性が混じっている。そのことを認識したとき、われわれはそこに感じ取れる作成者の感情(意図)を読み取っていき、そして自分達がどう表現していくかの過程においての参考としていかなければならない。
 

Dのつぶやき(2)(what i am thinking about)

2005-09-06 21:33:13 | D的つれづれ
 最近、忙しいのと体調もいまいちなので記事がだだくさになりがちですが、そろそろカムバックしていきたいと思います。

 わたしは、あまりいやほとんどカラオケは行かない(行っても歌わない)のだが、選択曲の中に「国歌」はあるのだろうか。誰か教えてください。
 一番雰囲気ぶち壊しそうな歌だからねえ…。

どちらを選ぶか(which should i take)

2005-09-04 22:44:57 | D的つれづれ
 非常に哲学的な疑問になるのだが、「○○は何か」という質問か、それとも「なぜ○○はここにある(いる)のか」という質問、どちらを選ぶだろうか。
 前者の "What is this?" という質問(疑問)それ自体は、そのものの性質を中心に問うているものであり、それは時間的空間的に見ても流動性があまりない。またそれが何かを問うたとしても、答えは当然さまざまであり、それが出された時点でせいぜいそれらの答えの是非について口論になるだけである。議論・検討にまではいかない。そしてその口論が終わってしまえばそれ(問い)はそこで終わってしまう。
 それに対して後者の問いはどうか。そのものがなぜ今ここにあるのか("Why is this here now?")、という問いは分かりやすく例に挙げて言えば、なぜ今この時期になって郵政民営化が問題となってくるのか、ということになってくる。このことを前者に当てはめてみると、郵政民営化とは何か、というふうになるのだろうか。この問いは確かに雑誌の「タイトル(表題)」としては簡潔でふさわしいものに感じてしまう(というか、われわれはこういう書き方のほうに慣れているからかもしれないが)。しかし、かりにタイトルが前者のような書き方であっても、内容が後者のような問いで進めていかないと各論の横断的な議論が進まず、簡単に言ってしまえば意見の羅列にすぎない。
 後者の意義というのは、時間的にも過去、現在、そして未来へつながる議論であり、空間的にも各論の意見交換が横断可能となり、話が非常に濃厚なものとなる可能性をもつ。前者がどちらかというと明確な答えを提出する雰囲気を持っているのに対して、後者の場合では各論が結論を取りながらも、それを明確なものとせず次の議論・検討につなげることが可能となる。
 ハイデガーが『存在と時間』のなかで論じていたことは、なにかそのようなことでもあったように思える。進行し続ける時間のなかで、いかに過去を顧みながら先を見据えていくのかという、後者に関係するこの問いは常に頭の片隅に残しておかなければならないだろう。

今日のアンソロジー(6)(the anthology for today)

2005-09-03 11:03:20 | D的つれづれ
 鈴木大拙は、彼の英文著書 "An Introduction to Zen Buddhism"(1934) の中で禅について次のような下りがある。以下の引用は、坂本弘訳『禅学への道』、第六章「禅の日常性」(2003、アートデイズ)を参考にした。

ゆったりと落ちついた物に動じない諸君自身の存在、これこそ道であり禅の真理である。自分が禅はすぐれて実際的であるという意味も此処にあるのだ。禅は直に生に訴える。魂、神、その他何であろうと、日常の生の流れを停めるものには何等言及するところがないのだ。禅の趣意は生をその流れのままに認得するにある。禅には別に突飛なものもない。手を挙げる、机の向側の本を取る、窓外のボール投げをしている少年たちの声を聞く、近くの木立の向うを流れて行く雲を眺める(……)。ともかくも禅というものが考えられるとすれば、それは即今この場に於て把握すべきものである。(p.87)

何かを待つこと(waiting for something)

2005-09-02 11:07:26 | D的つれづれ
 そのものに対して待ち焦がれる度合いが高いほど待つ時間が長く感じるものだ。その間を何とかして時間をつぶそうと考えてしまう。
 しかし、もっと嫌なのはそれがあるかないか分からないのに待ち続けるということである。それが人を最も不安にさせるからだ。