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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

『最終戦争論』(世界最終戦争論)(about the last war of the world)

2005-06-13 16:10:08 | D的思想
 石原莞爾著『最終戦争論』を読んだ。かつては「世界最終戦論」(高校の日本史の教科書にはこう載ってたような気がするが)として知られていたものだ。内容は、タイトル通り日本対アメリカによる最終戦争を世界は迎え、それが終わったときに世界から戦争がなくなり平和な社会が訪れるという彼の主張だ。ただ彼はその戦争は第一次大戦から50年以内に起こるとし、戦争兵器の技術が未熟なうちには起こすべきではないと主張している(つまり中途半端なことはしたくないため)。時期としては1960、70年代ごろとなろうか。だが実際には太平洋戦争が1941年に起こったため石原の予想は覆された。本書はここでわたしが下手な説明を参考にするより実際に読んでみたほうがいいだろう(短いので)。
 石原以外の人の著作も読んでみることをお勧めする。戦争に直接かかわった人たちの心境を垣間見ることができるはずだ。「国体明徴声明」を出した岡田啓介の著書(名前忘れた)、松岡洋右の『興亜の大業』、政府から出した『国体の本義』(文部省)・「国防の本義と其の強化の提唱」(陸軍省)、国家社会主義者北一輝『国体論及び純正社会主義』「日本改造法案大綱」や大川周明『支那革命史(?)』など、あと無政府主義・国粋主義関連の本も面白い。海外の人のなら、レーニンの『帝国主義論』(文章的には上手くない気がする)、溥儀(ラストエンペラー)『わが半生』、毛沢東の『実践論』(「語録」とかも読んだ気がする)とか、あとなんといってもアドルフ・ヒトラー『わが闘争』(ドイツでは未だに発禁本だというが。これを読むと彼の言説がいかに魔力をもったものかがわかるだろう。長いけど・・・)。
 日本は変った国で、世界中のあらゆる本を読めます。政治的な出版差し止めはいまではほとんどない。だからわたしたちはこのことを上手く使わないとだめなのだろう。

研究対象と関心事(why i am studying about it)

2005-06-12 01:07:45 | D的思想
 ときどき、自分がなぜこの学問領域に入り込んだのか、もしくなぜ今これを研究しようとしているのかなどと考えてしまうことがある。このことは大学に入ってから起こった心的現象ではなく前々から経験していた感覚である。ましてやわたし自身が(人)文系(文理区別すること自体、わたしの思考選択(進路選択を含めて)範囲を大きく狭めることとなった悪習だ、とわたしは思っているが)に所属しているためこの気持ちはとくに大きいのかもしれない(まあ理系の人もそう思うヒトは多々いることだろう)。
 なぜこの学問領域を選んだのかはまだいいにしろ、なぜこんなことを研究対象に選んで論文に書こうとしているのか。わたしはときどきふと感じてしまう。そんなことの理由は問い詰めたって仕様がないのだが、もしこのことを自分にではなく他人を対象にして考えると何か面白いひらめきが得られるかもしれない。つまり、この人はなぜこんなことをテーマに書いているのか、なぜこんなふうに話を結びつけるのか、などと考えると面白い。この面白さというのは、他人の心理(素性、バックグラウンド)を読み取ることがある程度可能となると考えるからである。人それぞれには個性があって(いくら没個性かといわれていようが)、そのことは当然その人の行動(生活実体)、発言、文章、文字などに出てくる。文章も小説のみならず評論、論文などにも出てくる。論文などを読んでると、その人がなぜこのことを中心に主張しているのかとかこの人の性格、育った環境などが浮かび上がってくる。これらのことは人から言われれば確かにそうだと納得する人もいるだろうが、そのことを真剣に捉えようとしている人は少ないのではないだろうか。逆に言えば、そういう個性を含意させない作品は無価値であるといえる。実際、そういう作品が大量生産されてひとつのビジネスになっているところが世の中の面白いところなのだが。論文も客観的に論理的に書けと言われるが、それは完全に没個性化して書けとは言ってはいない(こういう作品自体、その没個性化表現そのものが個性表現ともいえるかもしれないが)。そこに各人独特の味わいを出せてかつツボを押さえてこそ名著と呼ばれるのである。
 まあわたし自身も個性は大切にしたいと考えているが、それを上手く醸し出しているかどうかと言ったら曖昧なところだろう。
※ブログの5月9日付けの「小説家について」を関連記事として挙げておく。

古墳の名前(about the names of antient tombs themselves)

2005-06-06 22:43:26 | D的思想
 わたしたちは小学校の歴史の授業から古墳について多少とも学んできている。特に「前方後円墳」という種類の古墳には相当な愛着のような念があるかのように、つまり古墳といえば前方後円墳を第一に思い浮かべてしまうかのように教科書でも写真入りで解説している。
まあそれはいいとして、前方後円墳という言葉とその形はイメージできても、その言葉の内容をしっかり吟味した人はなかなかいないのではないだろうか(自分の思い込みかもしれないが)。内容といっても、みなさんの真っ先にイメージするであろう「前方後円墳」と言葉から解釈した前方後円墳とはちょっとイメージ形成にずれがあるのではないか、ということだ。つまり「前方後円墳」は、方墳と円墳を合体させた形のニュータイプの古墳になるわけだが、その古墳はどっちが前で後かということになると、字面をそのまま解釈すると前が方墳で後ろが円墳ということになる。
ところでみなさんは、二次元、三次元のものを鳥瞰的に見た場合、基本的に前といわれている方向のものは紙の上か下のどちら側に置くのでしょうか(右側、左側に置くという人もあるかもしれませんが)。わたしに関しては、上側を前方として置いてしまう。地図に関しても、北半球国家の地図は北が上に南を下においているのはなぜだろうか、と思った人もいるだろう。話に戻ろう。わたしの置き方に従えば、この古墳は上が方墳であり、下が円墳となる。あれ?わたしは前方後円墳といえば、上に円墳を置き下に方墳を置いた古墳をイメージする(昔、テストでひっかりそうになったことがある)。わたしは他の人がどうイメージしているかは知らないが、教科書などの写真の掲載から見てみると、わたしの置き方と同じように、上が円墳、下が方墳となっているものが全部といっていいくらいである。ということは、この「前方後円墳」を視点に考えれば、わたしがイメージする古墳は「前円後方墳」ということになる。だが、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)の入口(鳥居が立っている場所。何というがわからない)は方墳側にあったはず。ただ遺体を安置する石室は円墳側にある(?)。ということは、ヒトはケツの部分に安置されるということになる(?)という疑問は個人的にだが残る。まあ、しかしやはり「前方後円墳」で正しいことになるのだろうか。
  ではなぜこの古墳をめぐってのイメージに差異が生じたのだろうか。考古学者・歴史学者が史料をもとに命名したが(わたしは考古学専攻ではないのでよくわかわない)その命名に責任感を全くもたずに名づけたため意味があやふやになってしまったのか。それとも、教科書などに写真で掲載されるときに、見栄えがいいのかそれとも編集者が何も考えずに載せてしまったのが知らないが、「前円後方墳」として載せてしまい、それがそのままずっとその形式に則ってしまったのか。いろんな想像はできるが、仮に前者なら、それは日本の学術界の杜撰さにあきれかえるほかない。後者の場合、わたしはこれは充分にありうることだと思うのだが、いかにメディアというものがわれわれ一般人にイメージ形成に大きな影響力をもつのかということを感じてしまわずにはおれない。何気ないメディアの発信によって人々のイメージはできあがってしまう。うーむ、それならこの「前方後円墳」に限らず、他の事物についても類似点が見つかるかもしれない。そして、歴史学の新たな視点になるかもしれないのだ(実際、ポストモダンの理論ではそういう見直しを問題にしようとしている試みもある)。
 まあいずれにしてもわたしの頭には「前円後方墳」のイメージしかない。ただわたしだけがおかしいのかもしれないが。

神とは・・・(what do you think of god or "KAMI"?)

2005-06-03 21:33:36 | D的思想
 たまたま名古屋大学理学部のホームページを見ていたら(何でかは自分でもよくわからないが)、三田一郎という人の個人サイトの中にキリスト教関係の内容が書かれており講義(キリスト教概論の授業で、臨時に物理学をキリスト教の神観念から講義したそうだ)に対する学生の意見が掲載されてあったので、「理学部素粒子論/キリスト教=?」という変な数式が頭をよぎり(笑)その興味からちょっとのぞいてみた。読んでみると非常に面白い(?)。その人の意見(講義内容)をそのまま自分の思考回路に埋め込み(言い換えれば洗脳されたと言ってもよいかもしれない)、その思考論理から訳のわからない感想を書いてしまっている。普段、こんなことを書くはずないのにこんなことを書いている。その先生の話がよほど上手かったのか。それとも、学生の思考が受動オンリーモードで機能してしまっているのか。とにかくその内容を一部抜粋しておいた。完全なものを見たい人は三田一郎ホームページここを参照されたい。

1. 私は、今日の講義を聞く前は、物理学の世界の宗教の世界は考え方も物の見方も価値観も全く違って、共通点などないと思っていました。だから、三田先生はどのような話をされるのだろうと思っていました。私がこの講義を聴いて感じたことは、現在の世界は全てのことは形があって、目に見えて理由があって例えば今日の講義のビックバンのことでも、たくさんの研究などで定義が作られていて、あいまいなものは、ほとんど許されてもらえない。私は、そういう現在の世界の考え方は、少しおもしろみがないと思ってしまう。全てをはっきりさせることは、全ても○か×、YESかNOで決め付けているように思える。その点で三田先生のように、物理というはっきりとした明確な分野に宗教、神といった分野を取り入れてお話してくださったのは、たいへん、新しい考え方だと思いました。

2. 今回、三田先生の話をお聞きしてとても興味深く感銘を受けた。「化学・物理」と「宗教」この2つは全く正反対であり、水と油みたいな関係であると認識していましたが、この2つを結びつけた話はとても新鮮だった。特にビックバンは、ただの迷信であり、一つの説にすぎないと思っていましたが、この話の中でビックバンについての話はとても納得させられた。しかし、これはキリスト教を信仰し、神を信じている人にとっては、通じる話であって、神がいないと信じている人にとっては、全くおかしな話と思われるだろう。自分は神をあまり信じていないのだが、今回の話をお聞きし、少し自分で深く考えてみようと思わさせられました。有難うございました。

3. インスピーレーションは、神が授けてくださるというのを聞いて、本当にそのとおりだなあと思いました。すごく困っていたりした時とか、一瞬のひらめきが人生に大きな影響をあたえてくれると思いました。誰に対してもめぐみの雨は降る。でも、それは私たちの受け皿によって受ける量が決まるというのに感動し、三田先生の心の模型を見てなるほどと思いました。心がちぢこまっていては、水は吸収できないなあと思いました。心を白く、広く、何でも吸収して神があたえてくれるめぐみの雨を受けとめたいと思いました。科学は神の思想を理解する学問だというのに、なるほどと思いました。

4. 僕は「神」はいないと思う。いるのなら人間を既に滅亡させていると思う。理由は人は他の生き物を殺すだけで土に還らない。生態系を崩し、地球に悪影響を与えることしかない。話にも出ていたが、科学と宗教を同じにするのはおかしいと思う。神に近づこうとするというのがよく分からない。人が生まれて、死に無に戻る存在であり天国や地獄などはない。科学を理解する研究するには素晴らしいことであるが、神を理解すること、追求することにはならないと思う。

5. 今回、物理学から神の神秘を分析したことで、魂が神によって送り込まれたという可能性が私の中で強まりました。また、人間が何億年も前の原子によって構造されているということには驚きましたが、実感は湧きません。地球の温度や大きさ太陽との関係の微調整によって、人間は存在できるか否かが決まっている。そういった不思議も神の力によってなされているのかと思うと神の偉大な力を感じさせられます。しかし、神の存在というのは私達が信じなければ、そのような説は成り立ちません。私は神の存在を信じているので神による神秘や世界がつくられたことは信じている方なのですが、中で強まりました。今回、物理学的にビックバンなどを説明されたことで神の力ではないとも説明がつくことに、神を信じている人にとっては物理学的にそういったことを証明されるのは嫌なことなのではないかと思いました。

6. 物理とキリスト教なんて結びつけて考えることはできなかった。しかし、宇宙の前では私たちはちっぽけなちりにすぎない。その中で、私たちは精一杯生きている。神の前では無限に広がる宇宙でさえ、ただの星、銀河なのかもしれない。神はダレがつくったのかと質問した人がいたが、もし、それがわかったところで、私たちの神に対する気持ち、存在がかわるわけではない。神はわからないからこそ、その姿を追いつづけるのであるから。

7. 私たちが存在できる温度は-195℃~100℃であったり、地球の大きさが微調整されなかったら、人間は200kgをこえたら危ないとか、地球の半径が倍になったら重力が8倍になるとか人間はなかなかでデリケートというか難しい生き物なんだなあと思った。そんな人間を創った神は本当にすばらしいと思った。神は宇宙を創るように人間を創られたと言われてるけれど、神は宇宙や地球に私たちが存在するにあたって生じる障害をすべて知ったうえで、それに適応できるものを創ったのか、ふと疑問に思った。この講義を受けて、今まで考えもしなかった科学と神との密接な関係を知り、神の偉大さが改めてわかった気がします。神の愛はいつでも同じように降り注がれていて、本当に私たち人間は神に感謝すべきであると思いました。神は誰が創ったのかという質問がでていて、その答えはまだわからないらしいけど、私は、神は誰かに創られたものではと思った。ちゃんとした根拠はないんだけれど、神が天地を創造されたのだから、もし、神を創ったものがあるとしたら、神ではなくてその神を創ったものが天地創造をするんじゃないかなあと思いました。神について、まだまだなぞが残っていると改めて感じました。

8. この講義を聞くまでは、物理の学者なのに、神の存在を信じてるなんて、変わっているなあとばかり思っていました。しかし、実際、科学では説明できないことが、この世の中にはあふれていて、それを説明するには、科学の力が及ばないとなれば「神」によるものであるという以外、説明がつかない。「神」ならばこの世の何事においてできないことはないとされているからです。この世は、神によって創られたと聖書に書かれているが、実際神がこの世界をつくる場面はどんな場面であるか、とても不思議に思うことがあります。何もないところに突然宇宙ができたり、規模を小さくすれば、地球や海や山などが突然できるなんて、全く想像がつきません。「神」ならば、何でもできると言ってしまえば、そこで終わってしまうけれど、それでは、なかなか納得することが難しいです。しかし、そう考える以外、やはり説明できないのです。ビックバンからこの世界はでき上がったという説も、やはり「神」の存在を無視できません。この世のすべては、「神」があってこそなのでしょうか。

9.「科学者から見た神の神秘について」全く物理について考えたことはなかったけど、確かに物理法則ができていなかったら、神は天地を創造することすらなかったのだと思う。物理と神の関係は結びつかなかった。でも物理法則を生み出したのは、誰か、全ての始まりは誰によるものなのかを考え出すとよく分からなくなってきた。もっと、難しいおはなしかと思っていたら、分かりやすくって物理への理解がちょっと進んだ。でも、結局言いたいところは、キリスト教概論で学んでることと同じで神は私たちとは全く別もので、同じと考えてしまうから、神にはなんでそんなことができるのか?とかいう疑問に達して答えが見つからない。それは私たち人間とは全く違って、すごい力を持っているからなんだと、物理の観点から神を見て、あらためてそう思った。

10. 始めに科学とキリスト教をどうやって結びつけるのかとても不思議に思ったが予想以上に興味深く、とても楽しむことができた。私は物理に関しての知識はほとんどなく、またあまり興味のもてる分野ではないが、我々が住む地球、さらに宇宙のつくりと神の創造した宇宙とのつながりはとてもおもしろかった。特にビックバンや地球の細部のつくりなどは科学的にも解明できていないところもあるようだが、そのような未知のところを神の存在が補っているのだと思う。確かに神が宇宙、地球を創造し、人間をつくっていなければ、我々の存在はないのであり、もちろん、宇宙について研究がなされることも無かったであろう。そのような観点からも神に感謝し、我々の住んでいる地球上だけではなく宇宙にも神の力は大きく影響しているといえると思う。ただひとつ不思議に思うことはなぜ神は地球にだけ生命(ヒト)を作ったのかということだ。これはただ科学的に解明されていないだけかもしれないが、宇宙全体として見るならば、他の惑星にも生命を存在させれば、もっと宇宙のことがよくわかるだろうにと思う。我々は生活の中でちょっとした疑問などは神の存在によって埋めることができると思う。

11.(……)わたくしは一介の法学部の学生であり、物理学の知識は皆無に等しい(一応、高校時代に少し学習したが)。それゆえに、純然たる科学的なアプローチは不可能なので、ご了承していただきたい。結論からいうと、私は先生の講演会での意見には賛同しかねる。まずそもそも、物理学を含めた自然科学という学問は、自然の法則性を明らかにすることを目的としており、神や宗教について考察することが目的ではない。ましてその思想を学ぶ学問ではない。それらは、哲学・神学等の扱うところである。さらに、「現在私たちが持つ宇宙の知識で無限が理解できるか」とスライドにあるが、これは矛盾しているのではなかろうか。気持ちは理解できないわけではない。しかし先にビッグバン宇宙論の説明のスライドで「宇宙は膨張している」とあるが、無限であれば膨張する余地などないはずである。確かに我々は無限を理解できないが、この宇宙は有限である。次に「わたしたちの存在の不思議」というスライドがいくつかあるが、わたしたちの存在は不思議でも何でもないと思う。原子に働く力の強さがちょうどバランスがとれていたり、地球の大きさがちょうど良かったりするのはわかる。しかし、それのどこが「神秘」や「不思議」であるのか。ちょうど良い環境だから、はじめて我々人間が存在し、講演会を開いたりレポートを書いたりして、神について考えることができるのである。つまり「神秘」や「不思議」といった概念は、人間の個性的な主観の問題であり、信じている人間の目には、どんなことでも、「神の奇跡」と映ってしまう。
しかし、これらの問題はまだいい。最も納得し得ないのは「モーツァルトとアインシュタインのどちらがより偉大な天才か」という問いである。いうまでもなく、モーツァルトは音楽家であり、アインシュタインは物理学者であるが、こういった全く異質のものを比べることに何の意味があるのか。「サッカー選手とバレーボール選手とでは、どちらがボールを操る技術に秀でているのか」というに等しい。ルールも、目的も、方法も全く異なるものをはかりにかけるがごとき、けだし愚問である。さらに「物理学の数学的構造はモーツァルトの音楽よりも美しい」とあるが、「美しい」といった概念は主観的なものである。個人的な経験で恐縮だが、高校時代、数学や物理教師の「どう、美しいね、この公式」という言葉に、私は一度たりとも共感を覚えた記憶がない。私が思うに、先生の意見は万人の共感を得るものではない。畢意、科学では神は見出しえない。そういうことを目的としていないのだから、当然である。個人的に信仰するのは、自由だが、信仰の領域にとどまる以上、論理的に説明し得るものではない。かなり否定的な内容になってしまったので、正直心配である。だが、非論理的なことを書いたつもりはない。(……)
※誤字については極力訂正したつもりである。また本論に関係しないと思われることは省略してある。

 とりあえず目に付いたものだけは赤字にしておいたが、面倒くさかったのと手が疲れたのでやめたが、重要箇所は他にもあるはずである。個人的に、まず、11さんの書き方(この人はそれなりに書いている)、どこかで見たような気がする。気のせいかもしれないが。話を元に戻すと、すごい考えの持ち主ばかりだ。神を信じるどうのこうのの前に、日本語がおかしい。それとこんなにみなさん神の虜になってるなんて……、まず神を信じるかどうか問われたときこんな11人中7、8人も信じてると表現してること自体わたしには信じられない。この信じられないにはもう1つ意味が含まれており、なぜあたかも信じてるかのごとく「書いてしまっている」のか、ということだ。要するに、最初にも書いたが何も自分の思考で考えてないということになる。わたしはかつて「本当の」(あえて使っているが)キリスト教に入っている人と話したことがあるが、彼自身も自分にとっての神が何なのかについて考えたことがなかったような雰囲気をかもしだしていた(なんでそんなことで洗礼をうけたのだろうか)。上記のコメントを読んだわたしの率直な感想は、神観念について何も考えてないということを嘆くことよりも、自分がその先生の意見(その意見が正当かどうかは別にせよ)をどう受け止めたかの感想の幼稚さと、相手の言葉に完全にのせられてしまっていることに驚嘆したのである。他人の言葉を見ることは面白いことだと思うが、これらの人がこんなにもいること自体何か驚きを隠せなかった。
※参考に友達のブログ「たねむの国際私法的生活:説得」を挙げておきます。 

オタクとポストモダン("OTAKU" and postmodern)

2005-06-03 21:02:42 | D的思想
 今日の大学院の授業では、東浩紀著『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』を読んでディスカッションした。この本の読書についてはある院生の方から提案されて読んだものだ。東浩紀は若手だが哲学・表象文化論者の若手として有望視されている。まあその話はいいとして、正直今回の授業はなんだかよくわからない方向に進展してしまった……。それぞれが自らの主観と今回の論題と吟味しながら進めて(解釈しようと)いないためか、なんだかなんかの溜り場での話しみたいになってしまった。特殊性も高かったためかもしれないが。
 タイトルにもあるように「動物化」とはどういう意味なのか。「動物」と対極にある言葉が「人間」であるが、では動物と人間の違いはなにか。それは動物はただ「欲求」だけをし、それに対して人間は「欲望」をする。欲求とは「欠乏-充足」という一方的回路のみをたどる。例えば、ある腹減ったから何か食いたいと思って、何かを捕らえてもしくは見つけてそれを食べる。そして、満腹感を味わう。ただそこで満足したらそれ以上の欲求は拡大しない。それと比べて、人間の欲望とは、「欲求-充足」だけにおさまらない(満足しない)。他者志向は永続していく。ではオタクはどうかというと、彼らは感情的な満足を効率よく他者なしに充足させるものとして、自分の好む萌え要素を自分の好む物語で演出してくれる作品を消費している。ロリコン的、あるいは同性愛的なものが好まれているが(オタクにも種類はいろいろあると思うが、この萌え要素を含んだアニメオタクについて述べられている)、それを自らの主体的=人間的なセクシャリティとは切り離し、動物的な欲求で消費しているのである。かれらのその思考は、本書では、シュミラークルの水準での動物化とデータベースの水準での擬似的で形骸化した人間性が解離的に共存、つまりオタクたちも孤独に萌え要素を欲求しつつ、その深層にあるシステムへの欲望のため他人と情報を交換しているのだ。ポストモダンでは、以前のように深層に「大きな物語」(共感)がないため、生きる意味への渇望を社交性を通じては満たすことができないのである。つまり、本書ではオタクを通じてこのポストモダンにおける動物的思考システムを見てきたが、実際問題、消費社会を繰り広げる今日の社会システムの中で、われわれの世界にもその兆しを見せているということを示唆している(現に、今日データベースをもとに世界を構築しているインターネットを日常的にも利用しており、ネットを介在した新たな問題に直面していることは確かである)。つまり、学問的にはオタクの思考を考えざるを得なくなっていることを言っているのである。
 社会学者の大澤真幸の主張を援用すると、日本では1945~70年までの「理想の時代」(大きな物語が機能)と70~95年までの「虚構の時代」(大きな物語がフェイクとしてしか機能しない)、そして95年以降を「動物化の時代」とされている(95年はオウム事件が起こった年でもあり、この事件は既存の世界観が変化していることを明示するものであった。また阪神大震災では近代都市の偶発的崩壊を現実化した形で目撃した年でもあった)。だがいくらその動物化した人間が増えるといっても、それを単純にオタク人間と決め付けるわけにはいかないはずだ。確かに今日の若者を中心として、思考回路が変化いているということは旧世代の人間と比較すれば違うことは明白である。よって最近の若者の考えは理解できないというのも仕方のないことである。ただ、経済的に見れば「萌え系業界」は今後兆単位規模を市場を生み出すと予想されている。しかし、それが拡大するからといって、短絡的に極度の動物的人間(オタク)がマイノリティ世界から変革をとげると予想するとはまったくいえない。市場経済においては、その萌え系市場に目をつけた人がそれを拡大させていくという段階を踏んでいるからである(つまりオタクだけでここまで規模を大きくしてきたわけではない)。また、いくらデータベース的消費が拡大するといってもそれを当然好まない人も減るわけではない。デジタル化が進めば進むほどアナログ派も根強く残存(強調されつつある)していく。現に今日のレトロブームというのはその兆しを見せているひとつではないだろうか。
 ではわれわれはどういう選択肢をとっていくのだろうか。オタク人間がマジョリティ化するとはわたしには思えない、むしろなってほしくはない。かといって、ネットを媒介としたデータベース型の情報化社会に加わっていくことは無視できるわけではない。その共存をいかにしていくかが今後試されるときなのであろう。
※動物と人間を対比して述べたが、その境界の線引きは学者のあいだでも揺れている。東の見解からいくと、今日のブルセラ女子高生は動物であるが、社会学者の宮台真司(首都大学東京)は人間として捉えている。いずれにしても極度の動物(的人間)は新人類であることにはかわりはない。問題はその新人類が今後どう社会と係わっていくのかということだ。
※「オタク」という動物化傾向はひとつの「逃走」(浅田彰)形体なのだろうか。つまり、ドゥールーズ(『千のプラトー』)のいう「ノマド的生活」を送る遊牧民のような組織体の外部に生きる存在のことなのだろうか。中島梓の『コミュニケーション症候群』は参考になります。それによるとその症候群は現代社会にはびこる病気という。オタクのみにあてはまることではないということだ(オタクは見かけは普通に見えるが、役に立たない殻(個を確立する自我)をもったカニという)。

写真効果(the effect of photography)

2005-06-02 23:18:47 | D的思想
 この写真は、世界史を習ったことがある人なら判ると思いますが、あのプロセインのフリードリッヒ大王が建てたサンスーシ宮殿です。今年の2月に行ったときに撮りました。冬です。そして気温はマイナスでした。当然あの有名は階段の壁に青々と生い茂っているはずのブドウかなんかのツル植物はツル部分しか残ってません。葉っぱは全部枯れて落ちています。時期が悪いとこんなもんです。普通、われわれが目にするサンスーシの写真とは、春か夏ぐらいの快晴のときに新緑の階段とロココ様式の黄色い外壁の宮殿のコントラストが美しく描かれているのだろう。世界史の図表やガイドブックに載っているサンスーシはまさにその写真です。しかし、現実はこんなもんです。冬の兼六園のほうがまだはるかにいいって感じです(冬の兼六園は写真でもちゃんと出されるほど有名な景色です)。宮殿も案外小さかったし。またサンスーシ宮殿には新宮殿というのがあって、これは知らない人が多いのではないでしょうか。
 それは別にして、話を元に戻すと、要するにわれわれはメディアの写真に頭の中の対象物のイメージが「いいイメージ」として固定化されてしまっているということです。当然歴史的にも観光的にも有名な場所とされるところのイメージはなおさらそういうふうになってしまうでしょう。また大雑把な私見になるのですが、四季折々に景色の美しさをもつ(それ自体日本人の自身に植え付けられたイメージなのでしょうか)日本の小規模な建築地域とは違って、ヨーロッパの建物は大規模すぎるのかそれとも非木造だからなのかどうかはしりませんが、冬の宮殿は惨めに感じてしまう。それを無理に自然と人工物の共存のためかつて「廃墟建築(人口的に半壊状態や古く見せたりするなどして、かつ植物を覆い尽くさせるなどの自然の力を表現しようとする建築様式)」が流行ったのでしょうか(実際はほかにも流行った理由はありますが)。とにかく冬の兼六園と比べてみても、藁か何かでできた「雪囲い」ひとつにしてみても何か邪魔に感じてしまいます。
 私が行って見たときに感じたことは、寒くて雪が降ってて景色はいまひとつで、トイレにめちゃくちゃ行きたかった、ということです。実際、宮殿のトイレをかりました。それが想い出といっちゃ想い出でしょうか。そのトイレも当然有料でしたし、そこにいた「トイレ掃除役兼管理員」の人は男なのか女なのか判りませんでした。

「アンパンマン」の世界(the world of "ANPANMAN")

2005-05-31 00:20:54 | D的思想
 たまたまテレビのリモコンのチャンネルボタンを押して番組を切り替えていたら、画面にアニメ「アンパンマン」が映っていた。ふと、子供の頃の自分が真剣に観ていたのを思い出した。「アンパンマン」は長寿アニメとしては、「サザエさん」「ドラえもん」と並んで有名でありヒーローものの主人公のアニメとしてはアニメ界のトップであろう。
 「アンパンマン」のストーリーはある一定の流れがあることは視聴者となって者は気がつくはずである。脇役とも呼べるキャラが毎回登場し、悪の象徴・ばいきんまんが兵器マシンを爆走させ村の人たちやその脇役を苦しめる。その脇役はその事前にあることをきっかけにアンパンマンと出会っており、そのつながりをもってばいきんまんに立ち向かう。最初はばいきんまんの強さにとまどってしまい、弱点でもある顔に水がかかってしまい力が出せなくなる。そのとき脇役キャラたちがジャムおじさんのところにアンパンマンの状態を伝えに走りに走り、ジャムとバタコはアンパンマン号に乗ってアンパンマンのところに向かう。ばいきんまんは、顔がぬれて力が出ないアンパンマンの最後を願い(?)ながら最後のとどめをさそうとするところ、アンパンマン号到着で誰かによって投げられた出来立ての顔は見事にアンパンマンに新装備される。こうして「勇気リンリンパワー全快」となったアンパンマンは必殺技・アンパンチでばいきんまんに一撃を食らわし、ばいきんまんは「バイバイきーん」といって遠く彼方に吹っ飛んで消えていく。その話が毎回続く。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」といった大衆娯楽時代劇ならぬ大衆(?)娯楽アニメの構図を持っている。
 ここで考えたいのは、アンパンマンとばいきんまんの相互関係についてである。仮にアンパンマンが正義の味方としたら、ばいきんまんは悪の立場にいることになるが、本当にばいきんまんは悪の存在なのだろうか。逆に、本当にアンパンマンは正義の味方であって「愛と勇気だけが友達」なのだろうか。アンパンマンにとって正義の味方という存在になるためには、ばいきんまんの存在が不可欠である。彼さえいなければアンパンマンはただの力の「強い」宇宙人である。実際、アンパンマンはばいきんまんを憎んでなんかいないし、ばいきんまん自身も、仲よく楽しそうにしている人たちをいじめるのが好きな寂しがりやであり、アンパンマンの彼らのヒーロー的存在になっているのに嫉妬しながら彼を仮想の憎き存在としてシンボライズしいつもみんなに危害を及ぼそうと試みている。ということは、ばいきんまんもアンパンマン自体を嫌ってなんかいないということにもなる。この構造をモデル化して考えてみると、善と悪という二元論で考えたとき、善は悪があるからこそ「善」でいられるのであって、言い換えれば「善」と呼ばれる立場にいる存在は、相手を「悪の枢軸」と決め付ける(レッテルを貼り付ける)ことによって自らの存在意義を確認するのである。アニメの中で、ばいきんまん自身が自分は悪の存在と言ったかどうか、わたしは覚えてもいない(たぶん言ってないと思うのだが)。アンパンマン自身も自分を正義の味方とは言ったのかどうか(歌の歌詞や他人はそう言っているが)定かではない。つまりいつの間にかわれわれ視聴者には主人公が正義の味方であることが前提として植えつけられていることにもなる。もちろんその植え付けには、そのアニメが子供向けでしつけ・教育上の問題でそうなっているという建前や、主体を善と捉えてその周縁に悪を置く方法はかつてから見られる(性悪説はその反対だが、それは、後天的に人間は規範によって善に向かわせることを歴史的にも無意識的にも行われるという道徳が前提となっているという言い換えにもなる)。要するにアンパンマンはばいきんまんあっての正義の味方「アンパンマン」であるということだ。
 原作者のやなせたかしが言っていたことだが(正確には覚えていない)、「アンパンマンとばいきんまんは相互にお互いの存在意義を補填しあいながら、片方は正義の味方、スーパーヒーローとして、もう片方は悪の枢軸として均衡関係になっている」とし、また「仮にばいきんまんがいなくなれば、アンパンマンは自分の存在を対立構造的に示す存在がいなくなったことで「ファッショ」に陥る可能性がある」とも言っている。かつてのファッショは暴力(強大な言論を含めた権力)によって「独裁」を可能にしようとしたが、それは失敗に終わった。初め市民は「ヒトラー」をドイツ国家を救いわれわれを救済してくれる「カリスマ的存在」(ウェーバー的に)と認めていた。そして第三帝国を築き、民族統一、世界の盟主をめざし対外戦争を起こしたとき、その存在は「正義の味方」から「われわれ国民にとっての悪の根源」となったのである。よって、特に政治的場面において一元論は不可能であることは歴史的にも認められている。しかし西欧形而上学の世界では同一化言い換えれば同質性が基本原則であった。その歴史的結果としての資本主義社会も人やモノが一元化として捉えられている。だからといって多元論になると今度はまとまりがなく合理性がきかなくなる。ただ現状の一元性を打破し見直していくきっかけとしての多元性(多様性)は期待されるところだが、今日の現状としてはそれが通るかどうかの見極めの時期に来ていることは世界の誰もが知っている。

歴史の教科書(about the text book of history)

2005-05-29 21:20:38 | D的思想
 最近自分の本棚が、エントロピー増大の法則に基づいてごちゃごちゃになってきたので、たまには整理でもするかと思って手をつけかけたところ、ふと高校時代に使った歴史の教科書―日本史、世界史―に目がいった。パラパラと中を覗いて眺めるだけのつもりが、いつのまにかかつて日本史の論述試験のために一生懸命引いた赤線に懐かしさを覚えながら読み込んでしまっていた。論述問題はわたしにとって非常に得意な問題で、ただ暗記するのが多い受験勉強に対する個人的鬱憤を解消してくれる救いの科目だった。物事を記述するためには、その出来事の時代的(歴史的)背景、出来事自体の内容、そしてそれが与えた影響、結果を頭の中で図式として整理しておかなければたちまち頭の中がカオスの世界になってしまう。受験用語で言うならば、5W1H1Rを意識しろということになるだろう。その訓練もあって大学のレポートなどは非常にやりやすい、というか当然でしょという流れで何ら抵抗なく対処できた。
 そのことはいいとして、今日わたしはその教科書を眺めるうちにある違和感のようなものを感じた。当時は、与えられた教科書の内容は絶対(本当にそう信じていたわけではないが、専門家のように記述内容如何でごちゃごちゃ議論するようなことはしないほうが無難だった)で、その内容を共通の認識であるかのように振るわなければならず(テストでもそれが基本)、自分も無理な批判は避けていた。しかし、今の視点から当時のことを客観的に見てみると、それをあたかも本当の「歴史」であるようにせっせと難しい聞き慣れない単語を覚え、流れをつかもうと努力してきた。まあ立花隆的に言えば、インプットをしっかりとミスのないように繰り返してきたのである。個人が自分の思考回路の中でミキサーをかけてアウトプットすると、受験界からは失敗だとみなされる構造ができあがっている。その現実の歴史「研究」の意義と受験「勉強」の意味には大きな矛盾が生じている。そのことが今日改めて目に見えた形になったのである。
 この矛盾を解消する方法は2つある。1つは教育システムを改革していく方法である。矛盾をなくすため高校までの「歴史」を大学の基準にあわせることである。しかし、実際問題それは難しい。それに慣れるまでの時間が厖大になることは目に見えているが、日本の歴史教育に関してはそれを各学校の方針、教師の方針でまかせることはできないからである。なにしろその学校、教師がそういうことを知らないに等しいからである。それに教科書というある思想の方向付けがないと受験システムが崩壊するからだ。つまりこの方法は案にもならない。つまりいくら「あたらしい歴史教科書」がでようともそれを受験テキストとしては使わないのである。
 2つ目は、受験に見切りをつけることである。受験システムに則って「歴史」を勉強する限り受験教科書がバイブルになることは必至だ。よってもしそれがどうしても嫌だというのなら「歴史」受験はあきらめて代わりの教科をしっかりやることだ。歴史は別のところで好きにふけってもらうのがいい。しかし、これも実行は難しい。こんなことしてまで歴史を研究する人なんていないからだ。自分に思索する自信と知識がない限りヒトは最初に何かに従う。受験生なら文科省認可の教科書に従うのである。
 とまあ、へんな理屈をこねくりまわしたが、要するに一番いい方法は、その教科書をひとつの認識の方法という形で捉え、こういう出来事があったんだ→こういう流れがちゃんと上手くつながって今があるんだ→こういう考え方、捉え方があるんだ、というふうに上手くその場を利用していくしかない。忘れてならないのは、「他の考え方にはどんなものがあるのかなあ」という関心を持つことだ。それを忘れてしまう、もしくは考えもしなかった人は、ましてや歴史学専攻になんかはならないほうがよっぽど身のためだ。

ノーネクタイ・ノー上着(no-tie and no-jacket)

2005-05-25 11:44:52 | D的思想
 「ノーネクタイ・ノー上着」が、6月から国会と省庁で励行されるそうだ。一時は反対意見も出てごちゃごちゃしていたが、結局実施されることになった。昨日の記者会見で細田官房長官は水色のシャツで「お披露目」をしていた。デパートで1万円だして買ったそうだが……。なんだがダサい。ただのオッサンだ。本会議以外ではこの服装は認められるそうだ。ここで幾つかの疑問が生じてくる。
 一つ目に、女性は一体どんな格好をしてこいというのか。ただ私がそれに関連する記事を読んでなかったのかもしれないが、基本的に女性の服装は男性よりもある程度の自由は認められてきた。ブラウスにカーデガンというふうになるのか。
 二つ目に、これは励行というのであって義務ではないということに着目すると、なんだがこの格好で通さなくてはならないという変な価値観がでがちになる。中にはいくら暑いからといってジャケットを羽織りたいとか言う人もいることだろう(つまりそのままっていうこと。ただその人はオシャレという意味で着ている)。それを逆に無理に脱げとは言えないだろうし、言うものなら天下の官僚が情けない。
 三つ目に、このことでオシャレができるのではと期待する官僚がいるそうだが、実際それはどうだろうかと感じてしまう。官僚の格好は日本のダサさを象徴している。ドブネズミ色の味のないスーツに、渋さも品もないネクタイ。そしてハゲた頭。ときどき外国映画がそれを描写しているのを見ることがある。要するにファッションに関して全て中途半端なのだ。まあ彼らにはその感覚すらなかったのだから。
 要するに、私が言いたいのは、無理にノータイを励行しなくても、「今年から冷房温度を上げることになります(ほぼ義務的に)が、それに対して決して文句は言えませんのでそれなりの格好をしてくることを勧めます」とか言ってくれたほうが逆に彼らの真のダサさを暴露することになって面白そうだし、服装にまで半義務化するほどトンチンカンな発想をしなくてもすむのだからいいのではないだろうか。
 最近は「男もオシャレを」という文句が雑誌などではよく見かけるようになりそれに呼応してか変な真似をしようとする日本人が増えてきているように見えるが、要するに人に言われてオシャレをと言うようでは決してダンディにはならない。それを克服するためにはある程度の個人主義(個性を磨く)ということが進まないかぎり無理である。「自分はダサいなあ」と思ったらそれはオシャレの仲間入りといえるかもしれないが、日本人の場合、「自分はダサいなあ、けどまあいいや。他の人もそうしてることだし」となってしまうのだ。

なぜマックは受け入れられるのか(why we enjoy MacDonald)

2005-05-23 12:04:36 | D的思想
 先回は「マクドナルド化」について述べたが、今回は、あれほど健康的にも悪影響を及ぼすといわれているマックは廃れないのかということを考えてみたい(マックに対する裁判はかなり多い。日本では聞いたことはないがアメリカなどでは多いらしい。また映画「Super Size Me」のなかでは一日3食マックで生活していくとどうなるかをドキュメンタリーとして描いている)。
 マックを代表するファーストフードの対概念としてスローフードというものがある。また最近では「自然(系)食品」とか銘打って盛んに宣伝されているのを耳にする。まあ近年は「遺伝子組み換えの素材ではない」ものを使用している、とかなんとか言っているが、正直これから先人類が生活していくには遺伝子組み換えの技術がなくてはやっていけないだろう。その話は別にして、みなさんは最近盛んに宣伝される「健康エ○ナ」という油や「ノンオイルドレッシング」とかどう思われるだろうか。「脂肪がつきにくい」とかいう宣伝文句で人気を得ている(?)が、あれは分子構造をなんか変化させてるとかいうから本当は「油」ではないのでは。またあれは、消費者が「脂肪撃退」という文句に惹かれて買わされているのであって、おいしいから買っているのではないということだ(実際、おいしい油なんて口の貧しい一般人がわかるわけないし)。ノンオイルドレッシングだってそうだ、あれ本当においしいのだろうか。まあ年寄りとかなら油くどくないのでいいかもしれないが。いろんな野菜を化学調味料なしで食べて野菜そのままの味を味わうっていうけど、正直野菜そのままを味わうって言われると食べたがる人は本当にいるんだろうか。要するにおいしくないのだ。逆に言えばマックがあれだけ消費されるのは「おいしい」からなんです。モスバーガーはさらにうまいことにファーストフードのおいしさに「自然」というトレンディなものを融合させて成功している。これは商売上手なやり方だ。人々の心をつかんでいる。話を戻すと、マックがおいしい秘訣というのは「油」にあるのだ。家庭科の授業で三大栄養素のうち脂肪がおいしさのもとだということを習ったはずだ。油がないとうまみが生かせないんです。逆に「日本料理」が油をほとんど使わないのにおいしいというのは油至上主義の他国の料理から見ると不思議に思えてしようがないはずだ。しかし彼らが日本食がおいしいと言っているのはほんとうに「おいしい」という意味より「健康的」であるということからであろう。そこに料理に対する両者の見解の不一致がある。
 よっていくら「自然食品」とかいってなんらかの「抵抗」をみせたところでマックは絶滅できない。人間の嗜好には勝てないんです。だから病院食はまずいのだ。みなさんは本当においしい料理は何だと思うだろうか。それは腹減ったときに食べる食事だ。そんなときは理屈抜きになんでもいいから「食わせてくれ」と感じてしまうはずだ。「わたしは肥満症だから食べられないの」と言っている暇はない。そんなときに病院食なんてだしたらショック死するかもしれない(ありえないけど)。要するに食は人間にとって至上の問題なのだ。食べたいときに食べられる、部活の帰りに食べられるなど。マックの戦略の上手さはそこにもあるのだ。