たまたま名古屋大学理学部のホームページを見ていたら(何でかは自分でもよくわからないが)、三田一郎という人の個人サイトの中にキリスト教関係の内容が書かれており講義(キリスト教概論の授業で、臨時に物理学をキリスト教の神観念から講義したそうだ)に対する学生の意見が掲載されてあったので、「理学部素粒子論/キリスト教=?」という変な数式が頭をよぎり(笑)その興味からちょっとのぞいてみた。読んでみると非常に面白い(?)。その人の意見(講義内容)をそのまま自分の思考回路に埋め込み(言い換えれば洗脳されたと言ってもよいかもしれない)、その思考論理から訳のわからない感想を書いてしまっている。普段、こんなことを書くはずないのにこんなことを書いている。その先生の話がよほど上手かったのか。それとも、学生の思考が受動オンリーモードで機能してしまっているのか。とにかくその内容を一部抜粋しておいた。完全なものを見たい人は
三田一郎ホームページの
ここを参照されたい。
1. 私は、今日の講義を聞く前は、物理学の世界の宗教の世界は考え方も物の見方も価値観も全く違って、共通点などないと思っていました。だから、三田先生はどのような話をされるのだろうと思っていました。私がこの講義を聴いて感じたことは、
現在の世界は全てのことは形があって、目に見えて理由があって例えば今日の講義のビックバンのことでも、たくさんの研究などで定義が作られていて、あいまいなものは、ほとんど許されてもらえない。私は、そういう現在の世界の考え方は、少しおもしろみがないと思ってしまう。全てをはっきりさせることは、全ても○か×、YESかNOで決め付けているように思える。その点で三田先生のように、物理というはっきりとした明確な分野に宗教、神といった分野を取り入れてお話してくださったのは、たいへん、新しい考え方だと思いました。
2. 今回、三田先生の話をお聞きしてとても興味深く感銘を受けた。「化学・物理」と「宗教」この2つは全く正反対であり、水と油みたいな関係であると認識していましたが、この2つを結びつけた話はとても新鮮だった。特に
ビックバンは、ただの迷信であり、一つの説にすぎないと思っていましたが、この話の中でビックバンについての話はとても納得させられた。しかし、これはキリスト教を信仰し、神を信じている人にとっては、通じる話であって、神がいないと信じている人にとっては、全くおかしな話と思われるだろう。自分は神をあまり信じていないのだが、今回の話をお聞きし、少し自分で深く考えてみようと思わさせられました。有難うございました。
3.
インスピーレーションは、神が授けてくださるというのを聞いて、本当にそのとおりだなあと思いました。すごく困っていたりした時とか、一瞬のひらめきが人生に大きな影響をあたえてくれると思いました。誰に対してもめぐみの雨は降る。でも、それは私たちの受け皿によって受ける量が決まるというのに感動し、三田先生の心の模型を見てなるほどと思いました。心がちぢこまっていては、水は吸収できないなあと思いました。心を白く、広く、何でも吸収して神があたえてくれるめぐみの雨を受けとめたいと思いました。科学は神の思想を理解する学問だというのに、なるほどと思いました。
4. 僕は「神」はいないと思う。
いるのなら人間を既に滅亡させていると思う。理由は人は他の生き物を殺すだけで土に還らない。生態系を崩し、地球に悪影響を与えることしかない。話にも出ていたが、科学と宗教を同じにするのはおかしいと思う。神に近づこうとするというのがよく分からない。人が生まれて、死に無に戻る存在であり天国や地獄などはない。科学を理解する研究するには素晴らしいことであるが、神を理解すること、追求することにはならないと思う。
5. 今回、物理学から神の神秘を分析したことで、
魂が神によって送り込まれたという可能性が私の中で強まりました。また、人間が何億年も前の原子によって構造されているということには驚きましたが、実感は湧きません。地球の温度や大きさ太陽との関係の微調整によって、人間は存在できるか否かが決まっている。そういった不思議も神の力によってなされているのかと思うと神の偉大な力を感じさせられます。しかし、神の存在というのは私達が信じなければ、そのような説は成り立ちません。私は神の存在を信じているので神による神秘や世界がつくられたことは信じている方なのですが、中で強まりました。
今回、物理学的にビックバンなどを説明されたことで神の力ではないとも説明がつくことに、神を信じている人にとっては物理学的にそういったことを証明されるのは嫌なことなのではないかと思いました。
6. 物理とキリスト教なんて結びつけて考えることはできなかった。しかし、宇宙の前では私たちはちっぽけなちりにすぎない。その中で、私たちは精一杯生きている。
神の前では無限に広がる宇宙でさえ、ただの星、銀河なのかもしれない。神はダレがつくったのかと質問した人がいたが、もし、それがわかったところで、私たちの神に対する気持ち、存在がかわるわけではない。神はわからないからこそ、その姿を追いつづけるのであるから。
7. 私たちが存在できる温度は-195℃~100℃であったり、地球の大きさが微調整されなかったら、人間は200kgをこえたら危ないとか、地球の半径が倍になったら重力が8倍になるとか人間はなかなかでデリケートというか難しい生き物なんだなあと思った。
そんな人間を創った神は本当にすばらしいと思った。神は宇宙を創るように人間を創られたと言われてるけれど、神は宇宙や地球に私たちが存在するにあたって生じる障害をすべて知ったうえで、それに適応できるものを創ったのか、ふと疑問に思った。この講義を受けて、今まで考えもしなかった科学と神との密接な関係を知り、神の偉大さが改めてわかった気がします。神の愛はいつでも同じように降り注がれていて、本当に私たち人間は神に感謝すべきであると思いました。
神は誰が創ったのかという質問がでていて、その答えはまだわからないらしいけど、私は、神は誰かに創られたものではと思った。ちゃんとした根拠はないんだけれど、神が天地を創造されたのだから、もし、神を創ったものがあるとしたら、神ではなくてその神を創ったものが天地創造をするんじゃないかなあと思いました。神について、まだまだなぞが残っていると改めて感じました。
8. この講義を聞くまでは、物理の学者なのに、神の存在を信じてるなんて、変わっているなあとばかり思っていました。しかし、実際、科学では説明できないことが、この世の中にはあふれていて、それを説明するには、科学の力が及ばないとなれば「神」によるものであるという以外、説明がつかない。「神」ならばこの世の何事においてできないことはないとされているからです。この世は、神によって創られたと聖書に書かれているが、実際神がこの世界をつくる場面はどんな場面であるか、とても不思議に思うことがあります。何もないところに突然宇宙ができたり、規模を小さくすれば、地球や海や山などが突然できるなんて、全く想像がつきません。「神」ならば、何でもできると言ってしまえば、そこで終わってしまうけれど、それでは、なかなか納得することが難しいです。しかし、そう考える以外、やはり説明できないのです。
ビックバンからこの世界はでき上がったという説も、やはり「神」の存在を無視できません。この世のすべては、「神」があってこそなのでしょうか。
9.「科学者から見た神の神秘について」全く物理について考えたことはなかったけど、確かに物理法則ができていなかったら、神は天地を創造することすらなかったのだと思う。物理と神の関係は結びつかなかった。でも物理法則を生み出したのは、誰か、全ての始まりは誰によるものなのかを考え出すとよく分からなくなってきた。もっと、難しいおはなしかと思っていたら、分かりやすくって物理への理解がちょっと進んだ。でも、結局言いたいところは、キリスト教概論で学んでることと同じで神は私たちとは全く別もので、同じと考えてしまうから、神にはなんでそんなことができるのか?とかいう疑問に達して答えが見つからない。
それは私たち人間とは全く違って、すごい力を持っているからなんだと、物理の観点から神を見て、あらためてそう思った。
10. 始めに科学とキリスト教をどうやって結びつけるのかとても不思議に思ったが予想以上に興味深く、とても楽しむことができた。私は物理に関しての知識はほとんどなく、またあまり興味のもてる分野ではないが、我々が住む地球、さらに宇宙のつくりと神の創造した宇宙とのつながりはとてもおもしろかった。特にビックバンや地球の細部のつくりなどは科学的にも解明できていないところもあるようだが、そのような未知のところを神の存在が補っているのだと思う。確かに神が宇宙、地球を創造し、人間をつくっていなければ、我々の存在はないのであり、もちろん、宇宙について研究がなされることも無かったであろう。そのような観点からも神に感謝し、我々の住んでいる地球上だけではなく宇宙にも神の力は大きく影響しているといえると思う。
ただひとつ不思議に思うことはなぜ神は地球にだけ生命(ヒト)を作ったのかということだ。これはただ科学的に解明されていないだけかもしれないが、宇宙全体として見るならば、
他の惑星にも生命を存在させれば、もっと宇宙のことがよくわかるだろうにと思う。我々は生活の中でちょっとした疑問などは神の存在によって埋めることができると思う。
11.(……)わたくしは一介の法学部の学生であり、物理学の知識は皆無に等しい(一応、高校時代に少し学習したが)。それゆえに、純然たる科学的なアプローチは不可能なので、ご了承していただきたい。結論からいうと、私は先生の講演会での意見には賛同しかねる。まずそもそも、物理学を含めた自然科学という学問は、自然の法則性を明らかにすることを目的としており、神や宗教について考察することが目的ではない。ましてその思想を学ぶ学問ではない。それらは、哲学・神学等の扱うところである。さらに、「現在私たちが持つ宇宙の知識で無限が理解できるか」とスライドにあるが、これは矛盾しているのではなかろうか。気持ちは理解できないわけではない。しかし先にビッグバン宇宙論の説明のスライドで「宇宙は膨張している」とあるが、無限であれば膨張する余地などないはずである。確かに我々は無限を理解できないが、この宇宙は有限である。次に「わたしたちの存在の不思議」というスライドがいくつかあるが、わたしたちの存在は不思議でも何でもないと思う。原子に働く力の強さがちょうどバランスがとれていたり、地球の大きさがちょうど良かったりするのはわかる。しかし、それのどこが「神秘」や「不思議」であるのか。ちょうど良い環境だから、はじめて我々人間が存在し、講演会を開いたりレポートを書いたりして、神について考えることができるのである。つまり「神秘」や「不思議」といった概念は、人間の個性的な主観の問題であり、信じている人間の目には、どんなことでも、「神の奇跡」と映ってしまう。
しかし、これらの問題はまだいい。最も納得し得ないのは「モーツァルトとアインシュタインのどちらがより偉大な天才か」という問いである。いうまでもなく、モーツァルトは音楽家であり、アインシュタインは物理学者であるが、こういった全く異質のものを比べることに何の意味があるのか。「サッカー選手とバレーボール選手とでは、どちらがボールを操る技術に秀でているのか」というに等しい。ルールも、目的も、方法も全く異なるものをはかりにかけるがごとき、けだし愚問である。さらに「物理学の数学的構造はモーツァルトの音楽よりも美しい」とあるが、「美しい」といった概念は主観的なものである。個人的な経験で恐縮だが、高校時代、数学や物理教師の「どう、美しいね、この公式」という言葉に、私は一度たりとも共感を覚えた記憶がない。私が思うに、先生の意見は万人の共感を得るものではない。畢意、科学では神は見出しえない。そういうことを目的としていないのだから、当然である。個人的に信仰するのは、自由だが、信仰の領域にとどまる以上、論理的に説明し得るものではない。かなり否定的な内容になってしまったので、正直心配である。だが、非論理的なことを書いたつもりはない。(……)
※誤字については極力訂正したつもりである。また本論に関係しないと思われることは省略してある。
とりあえず目に付いたものだけは赤字にしておいたが、面倒くさかったのと手が疲れたのでやめたが、重要箇所は他にもあるはずである。個人的に、まず、11さんの書き方(この人はそれなりに書いている)、どこかで見たような気がする。気のせいかもしれないが。話を元に戻すと、すごい考えの持ち主ばかりだ。神を信じるどうのこうのの前に、日本語がおかしい。それとこんなにみなさん神の虜になってるなんて……、まず神を信じるかどうか問われたときこんな11人中7、8人も信じてると表現してること自体わたしには信じられない。この信じられないにはもう1つ意味が含まれており、なぜあたかも信じてるかのごとく「書いてしまっている」のか、ということだ。要するに、最初にも書いたが何も自分の思考で考えてないということになる。わたしはかつて「本当の」(あえて使っているが)キリスト教に入っている人と話したことがあるが、彼自身も自分にとっての神が何なのかについて考えたことがなかったような雰囲気をかもしだしていた(なんでそんなことで洗礼をうけたのだろうか)。上記のコメントを読んだわたしの率直な感想は、神観念について何も考えてないということを嘆くことよりも、自分がその先生の意見(その意見が正当かどうかは別にせよ)をどう受け止めたかの感想の幼稚さと、相手の言葉に完全にのせられてしまっていることに驚嘆したのである。他人の言葉を見ることは面白いことだと思うが、これらの人がこんなにもいること自体何か驚きを隠せなかった。
※参考に友達のブログ「
たねむの国際私法的生活:説得」を挙げておきます。

