大学院の授業で「マクドナルド化と日本の社会」に関する本を読みディスカッションをした。「マクドナルド化」という言葉を用いたのはG・リッツアで『マクドナルド化の世界』(邦訳 [1998]2001 早稲田大学出版部)での記載による。今回は『叢書・現代社会のフロンティア① マクドナルド化と日本』(2003 ミネルヴァ書房)を読んだ。
MacDonalizationとはいわゆるアメリカ化に強い意味を置いたグローバリゼーションと関連した語として用いられている。この本は、マクドナルドというアメリカのシンボル的存在が他国(本書の場合日本)に移入されたとき、マクドナルド経営の核である合理(システム)化というものがいかにその社会に影響をもたらすのかということを説いたものである。日本の場合、その影響は大きいもので、日本の場合既存の合理的社会の土台によって日本独自のマクドナルド化を築いていくことになった。そしてそのマクドナルド化は拡大していくことになる。その一方で、グローバル化が拡大していくにつれてローカルな動きが出てくることは必然であり、その中でマクドナルドなどのファーストフードに対抗する意味でスローフード運動(イタリアが発祥といわれる)などが食文化のなかでも概念づけられる。しかし、このマクドナルド化が意味するものとは、なにもそれが人間性を薄くしていくとか伝統的社会が消失していくということだけでなく、マクドナルドというわれわれが日常に接している食文化を通じて文化的権力の浸透を招いてしまうということを示唆しているのである。このことはかつての政治的植民地主義と対概念にあたるようなものだが、「従属理論」(フランク、アロンなど)という理論があるように、文化的上下関係が形成されていくには何も国家間のマクロなところから形成するだけでなく、日常生活の中でその要素が形成されていくのである。
またここではマクドナルド化という言葉を用いているが、他にもディズニーランドやコンビニエンスストア(コンビニはアメリカ発祥だが、日本に輸入されてそこでコンビニビジネスが形成されたと言ってもよい)がグローバリゼーションの一概念としてなっている。前者のディズニーランドというのはアメリカという国の要素が凝縮されたいわば縮図であり、社会学者のボードリヤールの言葉を借りれば「アメリカが実在ではなくシミュレーション」であり、ディズニーランドは実在だと思わせるための空想としてのハイパーリアルな装置だとしている。このDisnificationが意味するところは、それが単に日本の中の「アメリカ」が拡大していく過程を描いているのではなく、アジアの中の「日本」が拡大していく過程を描いているのである。それは先の文化的日常的帝国主義と呼応する。アジアに進出していくアメリカ発の日本の小売業界。そしてアジアで起こるコンビニ襲撃事件。人々の日常世界の言説‐空間的編成はそうしたシステムの運動の次元をこえて社会を変容させていくのだ。その過程でそれがひとつの「暴力」となったり「抵抗」が起こるのである。
Cf. ネグリ、ハートのいう〈帝国〉の概念、ウォーラー・ステイン「世界システム論」、ウィットフォーゲル「中心・亜周辺・周辺」など
先のコンビニエンスストアを見てみると日本の社会文化の縮図のようにも見える
Cf. 日本文化の雑種性、コンビニ的文化、日本的資本主義
MacDonalizationとはいわゆるアメリカ化に強い意味を置いたグローバリゼーションと関連した語として用いられている。この本は、マクドナルドというアメリカのシンボル的存在が他国(本書の場合日本)に移入されたとき、マクドナルド経営の核である合理(システム)化というものがいかにその社会に影響をもたらすのかということを説いたものである。日本の場合、その影響は大きいもので、日本の場合既存の合理的社会の土台によって日本独自のマクドナルド化を築いていくことになった。そしてそのマクドナルド化は拡大していくことになる。その一方で、グローバル化が拡大していくにつれてローカルな動きが出てくることは必然であり、その中でマクドナルドなどのファーストフードに対抗する意味でスローフード運動(イタリアが発祥といわれる)などが食文化のなかでも概念づけられる。しかし、このマクドナルド化が意味するものとは、なにもそれが人間性を薄くしていくとか伝統的社会が消失していくということだけでなく、マクドナルドというわれわれが日常に接している食文化を通じて文化的権力の浸透を招いてしまうということを示唆しているのである。このことはかつての政治的植民地主義と対概念にあたるようなものだが、「従属理論」(フランク、アロンなど)という理論があるように、文化的上下関係が形成されていくには何も国家間のマクロなところから形成するだけでなく、日常生活の中でその要素が形成されていくのである。
またここではマクドナルド化という言葉を用いているが、他にもディズニーランドやコンビニエンスストア(コンビニはアメリカ発祥だが、日本に輸入されてそこでコンビニビジネスが形成されたと言ってもよい)がグローバリゼーションの一概念としてなっている。前者のディズニーランドというのはアメリカという国の要素が凝縮されたいわば縮図であり、社会学者のボードリヤールの言葉を借りれば「アメリカが実在ではなくシミュレーション」であり、ディズニーランドは実在だと思わせるための空想としてのハイパーリアルな装置だとしている。このDisnificationが意味するところは、それが単に日本の中の「アメリカ」が拡大していく過程を描いているのではなく、アジアの中の「日本」が拡大していく過程を描いているのである。それは先の文化的日常的帝国主義と呼応する。アジアに進出していくアメリカ発の日本の小売業界。そしてアジアで起こるコンビニ襲撃事件。人々の日常世界の言説‐空間的編成はそうしたシステムの運動の次元をこえて社会を変容させていくのだ。その過程でそれがひとつの「暴力」となったり「抵抗」が起こるのである。
Cf. ネグリ、ハートのいう〈帝国〉の概念、ウォーラー・ステイン「世界システム論」、ウィットフォーゲル「中心・亜周辺・周辺」など
先のコンビニエンスストアを見てみると日本の社会文化の縮図のようにも見える
Cf. 日本文化の雑種性、コンビニ的文化、日本的資本主義