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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

マクドナルド化(MacDonalization)

2005-05-22 19:48:10 | D的思想
 大学院の授業で「マクドナルド化と日本の社会」に関する本を読みディスカッションをした。「マクドナルド化」という言葉を用いたのはG・リッツアで『マクドナルド化の世界』(邦訳 [1998]2001 早稲田大学出版部)での記載による。今回は『叢書・現代社会のフロンティア① マクドナルド化と日本』(2003 ミネルヴァ書房)を読んだ。
 MacDonalizationとはいわゆるアメリカ化に強い意味を置いたグローバリゼーションと関連した語として用いられている。この本は、マクドナルドというアメリカのシンボル的存在が他国(本書の場合日本)に移入されたとき、マクドナルド経営の核である合理(システム)化というものがいかにその社会に影響をもたらすのかということを説いたものである。日本の場合、その影響は大きいもので、日本の場合既存の合理的社会の土台によって日本独自のマクドナルド化を築いていくことになった。そしてそのマクドナルド化は拡大していくことになる。その一方で、グローバル化が拡大していくにつれてローカルな動きが出てくることは必然であり、その中でマクドナルドなどのファーストフードに対抗する意味でスローフード運動(イタリアが発祥といわれる)などが食文化のなかでも概念づけられる。しかし、このマクドナルド化が意味するものとは、なにもそれが人間性を薄くしていくとか伝統的社会が消失していくということだけでなく、マクドナルドというわれわれが日常に接している食文化を通じて文化的権力の浸透を招いてしまうということを示唆しているのである。このことはかつての政治的植民地主義と対概念にあたるようなものだが、「従属理論」(フランク、アロンなど)という理論があるように、文化的上下関係が形成されていくには何も国家間のマクロなところから形成するだけでなく、日常生活の中でその要素が形成されていくのである。
 またここではマクドナルド化という言葉を用いているが、他にもディズニーランドやコンビニエンスストア(コンビニはアメリカ発祥だが、日本に輸入されてそこでコンビニビジネスが形成されたと言ってもよい)がグローバリゼーションの一概念としてなっている。前者のディズニーランドというのはアメリカという国の要素が凝縮されたいわば縮図であり、社会学者のボードリヤールの言葉を借りれば「アメリカが実在ではなくシミュレーション」であり、ディズニーランドは実在だと思わせるための空想としてのハイパーリアルな装置だとしている。このDisnificationが意味するところは、それが単に日本の中の「アメリカ」が拡大していく過程を描いているのではなく、アジアの中の「日本」が拡大していく過程を描いているのである。それは先の文化的日常的帝国主義と呼応する。アジアに進出していくアメリカ発の日本の小売業界。そしてアジアで起こるコンビニ襲撃事件。人々の日常世界の言説‐空間的編成はそうしたシステムの運動の次元をこえて社会を変容させていくのだ。その過程でそれがひとつの「暴力」となったり「抵抗」が起こるのである。
 Cf. ネグリ、ハートのいう〈帝国〉の概念、ウォーラー・ステイン「世界システム論」、ウィットフォーゲル「中心・亜周辺・周辺」など

 先のコンビニエンスストアを見てみると日本の社会文化の縮図のようにも見える
 Cf. 日本文化の雑種性、コンビニ的文化、日本的資本主義

他者を語ること(talking about others)

2005-05-15 11:09:53 | D的思想
 金曜日にやった大学院の授業では、岡真理著『彼女の「正しい」名前とは何か』という本を読んで討論をした。彼女はいわゆる第一世界に属する人間が第三世界の人間をどう表象してきたのかということをフェミニズムの視点から捉えてるものである。教条主義的な相対主義にかられすぎた語る側の歪んだ考えの氾濫。ようするにローティーのいう言語論的転回という実情をもとに、言葉という暴力がいかに権力と結びついているかを捉えたものであって、彼女が初めてそれを指摘したわけではない。人類学者ではクリフォード・ギアツが解釈人類学の立場からそれを克服しようとしているし、ほかにもスピバックのサバルタンスタディーズ、グラムシのヘゲモニー問題、クイア理論などさまざまな視点から各自の視点に基づいての考察は多々ある。しかしこれらの問題が現在出されているということはそれがただの流行ではなくてグローバル化が進む中での世界規模での問題表出があることを示唆しているということになる。
 しかし、彼女はこの問題に対する具体的対応を明確には示していない。ただそれを読み取ることは不可能ではない。しかし、問題はそれを読み取ったところでそれをできるかというとできるわけではないのだ。何も彼女だけでなくクリフォードにしても「厚い記述」が可能かというと困難を要する。つまり、他者を語る、もしくは他者と付き合うこと自体人間のコミュニケーション形成において原点となることである。その問題が簡単に克服できたら過去数千年間哲学がおこなわれたこと自体無駄になってしまう。言いかえればそれだけ時間を要してもそれが克服されてないことになる。人間は秩序を求めようとする生物だ。その不安を解消するためわれわれは強者と弱者の上下関係を築き上げながら過ぎしてきた。そのうち弱者からの視点とそれを降伏するための具体的思案がなされてきたのはここ数十年の話だというだけである。ここである事例を挙げながらいかにそれが深い議論に進展させるかを見ていきたい。
 まずわれわれはいかにまわりの考えにしたがってしまうのかを考えたい。青年海外協力隊というのがある。いわゆる地球規模のボランティアだ。ある若者がそれを志願しようとしている。彼は当然そういう仕事に興味がありそれなりの本は読んで学んでるだろう。しかし、本を何冊も読むうちに次のような疑問が生じてくるようになった。「貧しい」地域の人たちに私たちが何かを「教えてあげよう」とするという行為それ自体、いったいどんな意味を持つのかを考えてしまう。海外ボランティアって結局強者が弱者にたいして何かを施すことに他ならないのではないか。つまり彼は、人類学者たちが感じたように、相手の人たちとフィルターをかけずに対等に接しようとしても自分のスタンスは強者の国の人間ではないかという帝国主義的ノスタルジアに陥ってしまっているのだ。では結局ボランティアは対等になんか決して接することはできないじゃないかという考えに達してしまう。しかしボランティアは現状を考えてみると分かるように終わらせるわけにはいかないのだ。国際的にもゆるされないだろう。それにいくらボランティアの施しが相手の伝統的文化を破壊して自らの西欧的体系に組み込まれていく可能性はあるといってもこのグローバル化が進む中で彼らも自らを必要としているのだ。そこをしっかり考慮しなければなるまい。では彼はいかにそのジレンマを克服すべきなのか。何ごとも初心が大切である。それを思い出すべきなのだ。われわれは何かものごとに取り組むとき基本的に自分の興味関心、好きなことをやろうとする。そしてそこまで悩みぬいたのだ。しかしものごとを進めるうちに色々な教条に自分の嗜好が麻痺させられていき結局初心を忘れてしまうのだ。つまり克服するためには「自分がいかにこれをやろうとしていたか」の気持ちを振り返りそこからいかにより賢明な方法でやりとおせるかを考えるべきなのだ。その賢明な方法は最近話題になってきたが「対話」という方法だ。その方法もいろんな対策が必要だとは思うが、他者と接する最大最適のコミュニケーション手段に他ならない。そのためにはわれわれがいかに相手を語ってきたかという本書などの視点も大切だが、逆に相手が己をいかに語っているかを考察することも大切だ。身近な例は映画だろう。よく洋画で日本をあつかったものがあるが、あの表象をどうみるべきだろうか。そしてそれらの克服方法をいかにナショナルな問題に応用できるかが課題なのである。
 われわれが一番身近に接している他者はだれか、それは近所の人だ。彼らとつきあっていくかがいかに難しいかということを考えるとそのことがいかに深刻な問題であることを気づかせてくれる。

在日(about minority people in japan)

2005-05-13 00:04:47 | D的思想
 今日は大学院の授業で「在日」について議論した。在日はマイノリティの一種だ。ところで日本でいわれるマイノリティとは在日地以外にどんな人たちがいるか?
 まあはじめに思いつくのが、アイヌなどの少数民族、それにからんで「琉球」人、戦前戦後から経済的影響もあって弱者のスタンスの尾を引いている東北地方の人たち(出稼ぎ、国のための米作、金の卵など)、生まれや育った環境である種の純粋に生きられない海外居住者、旧、在日外国人……。それらには「暴力」の構造をもつ権力関係(上下関係)が存在する。
 しかし、彼らのなかにはマイノリティとは感じていない人もいるかもしれない。しかし強/弱という二項対立が存在するならマジョリティ/マイノリティの構図はかならず存在する。だが人にはマジョリティになりうる可能性は存在するし、マイノリティになる可能性も存在する。そしてわれわれは普段、そのいずれに居ようがそれに気づいていないことがおおい。では言語的意味でのマジョリティ/マイノリティではなくそれを真に感じたとき自分と対する「他者」について考えざるをえない。しかし、それを常に感じている人が世の中にはいる。そのひとつが「在日」なのだ。

小説家について(about novelists)

2005-05-09 21:14:49 | D的思想
 小説家の自殺は多い。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成……。小説家に限らず評論家などの自殺も多々ある。人文科学に携わっている人の自殺が多い。それに比べて経済学者や政治学者、自然科学者などの自殺は少ない(ただ私が知らないだけかも)。ではなぜ人文系の人間の自殺が多いのだろうか。それは人文系の人間は頭がイカれているやつが多いからだ。天才は文学部に現れると言われるが(三島由紀夫は法学部出身などの例外も)、私もその説を信じているほうだ。自殺者は生前、鬱になったりとか精神的に狂っていた。家族的な問題から、友人・恋人の関係、そして現実の社会への嘆きによる極度の狂乱ぶり。正直、彼らの顔をみてもこいつらはヤバいなあと感じてしまうのは私だけだろうか。では彼らが主に文学部出身であるのはなにか彼らの精神的特徴と関連性があるのだろうか。逆に人文系以外の科学はどんな性格をもつのか。長く論じるつもりはないのでズバッと言ってしまうと、人文系の学問は合理性を求めていないということだ。言い換えれば、人文系の人間は非合理的な精神を求めているということになる。簡単に言えば正しい答えを求めていないのだ。文学論にしても歴史学、人類学などなども答えを求めようにも正しい答えがでない(ただ法学部にある政治学科でやる政治学と文学部でやる政治論は性格が違う)。逆に言えば、それ以外の学問は何らかの形で合理性を求めようとする傾向にある。特に自然科学と経済理論はそれが顕著である。論理的で簡潔的な論理(文章)を求める。つまり、答えがあればそれで自分はある種の満足感を得る。しかし答えのない問いを永久に問い続けようとする天才にとっては己の思考と現実との狭間で虚無感などを感じ、矛盾を乗り越えようと実らない努力をする。決して同時代の人間がたどりつかないパラダイムを先取りしてしまうため他の者は理解できないでいる。そして彼らは自己満足には陥らないため結局は歯止めが利かず狂うのだろう。
 まあ天才の自殺はどうでもいいとして、人文科学にふさわしい人間とはどんな人だろうか。つまり決して決まらない答えを求めようとするロマンを抱いている情熱家がふさわしい。しかし世の中がうまく区分されるものではなく中にはふさわしくない人間が入ってくる。そして、今は誰もが大学の時代なのでそれがますます加速してきている。そのことをわれわれは少しでも認識しようとすることだ。自分がどんな思考回路の持ち主なのかを。

長期連休もいよいよ終わり(the end of "golden week")

2005-05-08 17:27:06 | D的思想
 最長10連休となった今年のゴールデンウィークも今日が最後だ。といっても、前にもいったように私には関係のない「休み」となった。本屋にいって参考となる本を購入するなどしただけだ。いつも気を引き締めようと思ってもなかなか自分の身体にエンジンがかからないではこまる。ときどきぼけっとしてしまうのも何か空虚な自分を抱えている証拠なのかもしれない。だれかにエンジンをかけてくれと頼みたいこともときどきある。まあとにかくなんとか起爆剤をさがしたいものだ。

院生の授業で(in a class of gradurate school)

2005-04-28 15:53:05 | D的思想
 木曜日は私にとって唯一の授業と先週から参加してる大学院の授業がある日だ。今日は藤田省三の「或る喪失の経験―隠れん坊の精神史」というエッセイを参考に(授業中には読んでない)先生が最初講義を進めていった。その中で「いじめ」ということが話題になったのでそのことについて少し意見を述べたい。
 隠れん坊というある種、G・H・ミードのいう「一般化された他者」の形成のようなものが見て取れるが、要するにそれは子供でいうなら身体的経験の形成、大人であるなら回復となるだろう。その隠れん坊の話から遊びという話題になりそこからいじめという話になってった(その過程は覚えてない)。いじめという言葉は20年ぐらい前から社会問題化してきたものだが、当初と現在のいじめという概念はずいぶんと複雑化しているように思える。辞書的にいえば「いじめ」は弱い立場にいる人に対して面白半分にちょっかいするというイメージだった。もちろん現在でもその意味で通用するのだが、問題はその内容である。いじめ、それはなにかちょっとからかってやろうとか強い立場(子供で言うならガキ大将)が弱い立場(いじめられっこ)に対して相手の弱さをひけらかしてものを隠したり、なぐったりと個人または集団で相手にする。しかし彼らの関係はもともと中が悪いのではなく一種の遊びの認識がどこかに存在しており両者間に厚い壁があったのではない(ジャイアン・スネ夫とのび太の関係を考えたらわかる)。しかし、それが社会問題に浮上し始めたころからその概念は崩れ始めた。ただの弱者ではない人も被験者になってしまうのだ。そして最近ではそれが自殺にまで拡大してくるという惨事に。職場問題などもディスカッションの中で話になったが、それ企業内での会社道徳の見直し対策が進められていることにもつながる。しかし、私がここでもう少し述べたいのだが、現在の「いじめ」(全体的な意味としてのいじめ)はむしろ「いやがらせ」といえるのではないだろうか。「いやがらせ」の意味は、相手がいやだと思うようなことをやる行為のことだ。これは、先のいじめの概念とは少し違うものだ。これは両者間の関係は無に等しくても起こる。無視、仕事を与えない、性的いやがらせ(セクハラという言葉もありますが)など共同体内でのその人との人間関係をすべて断ち切ろうとすることまで発展する。つまりその人を鬱にまで発展させてしまうような断絶行為をいうのだ。まとめると「いじめ」の概念は意味、内容とも複雑化しておりそれがさらなる社会問題をも生み出し、拡大化させてしまっている。いじめの原因、それは明白には言い切れないが、それがかつてのような(実際どうだったかは定かでないが)儀礼的、遊びとしてのものではなくそれを崩させるような何かが現代社会には潜んでいるのは明白である。死と直結するまでになったいじめは、それがかつての金八先生が言ってたような「死ぬんじゃないぞ」とは簡単には言えない、言ってはいけないような状況を生み出しているのだ。

あることをきっかけに (from an incident) 

2005-04-26 23:56:24 | D的思想
 昨日のJR福知山線だったか、民営化されてからは最悪の事故となってしまった電車衝突事故。JR西日本の会長は遺族に直接あって謝罪をしたそうだ。それに呼応してか今日はJR常磐線かどこかでまた衝突事故。本題はこれらの事故がどうのこうのということではない。それは、あることが起こるとそれに類似したことが幾つか起こるというのはこのようなaccidentに限らず日常的にも起こっているはずである。例えば、何でもいいのだが、最近は「東大脳をつくる」本とかしょうしてそれらの本がある本(もしくははやり)をきっかけに多数出版されている。本屋の店頭で確かめてみるといいのだが「親子○代東大出身の家庭の著書が書いた合格本」とか「だれでも東大に入れる」とかその他多数だ。ひとり(ひとつ)が生じればそれに呼応したかのように、例に即して言えば、私もこんな経験で育てたとか自分でやってきたとか、なぜか自分の経験的価値を世に知らしめようと本に出す。もちろん彼らにその気はないにしてもではなぜそんな本がもっと昔に出ていなかったという疑問は隠せない。また近年の家庭内の暴力、殺人事件の多発についても毎日のように起きているが…。「意味ある偶然の一致」という概念を考えた心理学者のユングはいるがやはりそのことは先の例などに何らかの関連性はあるのだろうか。
 そしてもうひとつ言いたいのは、「何かがおこってからは遅いんだ」と事件が起こってからメディアやえらそう(威張っているという意味での)な人がうるさいほど叫んでいるが、実際人間は起こってからでないと行動に移せないというのが常なのではないかということだ。よく首相が記者陣の「今回の事件についてどう思われますか」という質問に対して「今回のことを教訓に対策をしっかりたてていかなければならないと思います」などと返答しているのに対してメディアなどは「何故見過ごしてきたのか、対策があまかった」などと新聞、雑誌に書いているが、正直首相に限らずこの返答は妥当とも言えるのではないだろうか。確かに完全無視状態でほったらかしてきたこと事態は連携が足りないなどの批判が言えるかもしれない。しかし、これ以上の返答をどうしたらいいのか、そんなこと誰も分かっていない。ただ暗黙の期待(建前)が存在しているだけなのだ。古来よりもっとも賢いヒトは臨機応変に先を見て対応、行動できる人だといわれている。そのことが長く言われ続けてきたのはそれが人間にはできる人がほとんどいないからではないだろうか。家庭内などの小規模なコミュニティ内ではそのことが可能であっても企業レベル、国家レベルでの共同体であるとそれができるボスはそうは存在しないはずである。
 なにはともあれこれからの対策の万全化が先決なのである。
 

思考の限界性について

2005-04-25 23:02:30 | D的思想
 私の研究項目上、どうしても偉人たちの思想と向き合わなければならない。読めば読むほど新たな疑問が生じ、また自分の知識の頼りなさが実感されて非常にイライラが生じてくる。現代思想の性格上「近代」という概念を避けて通るわけにはいかない。では近代とは何か。その歴史をたどろうと思えば古代ギリシア、ローマについて学び、キリスト教とそれを克服しようとしてきたイスラム教の教義を学ばなければならない。疑問が生じてくればくるほどやらなければならない範囲がどんどん増える。しょせん学問というのはそういうもんだ。もともと学問というのはあらゆることに不安を見出す人間界にある種の秩序をもたらそうとして必然的に生まれてきたものだ。それを考えると「政治学」「経済学」など○○学と名のつくものは基本的に同じ目的をもっているのだ。それを後の人間が「学」という枠で囲ったしまったにすぎない。よく自分の専攻が何なのか自分でも分かっていない(説明できない)という人がいるが、その人は少なからず学に当てはめた学問に疑問を抱いているはずである。しかし学問は言語を必要としている行為である。説明する際にはそれなしで説明できない。よってどうしても学という概念を援用しなければならないのである。それが言語論的転回という問題をはらむことになるのだ。