木曜日の大学院の授業では、烏賀陽弘道『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業―』(岩波書店、2005)を読んだ。実際、授業ではJポップにかぎらずジャパニーズ産業(アニメ、ホラーなど)にも話が拡大していった。
Jポップというジャンルは日本では当たり前のジャンルとして認知されているか呼ばれているが、海外ではJポップという名に限らず日本の歌自体それほど知られてはいない。そもそも「Jポップ」のJはJリーグのJと同じような意味合いで付けられたものであり、カタカナで書くよりもアルファベットを用いることでいかにも国際性があるというイメージを付着しようとしているという。しかし、海外(東アジア以外の地域でも)で日本の歌を広めようとするならJポップというよりも「japanese (popular) songs」のほうがまともに聞こえるように思われるのだが…(つまり向こうの人たちにとってみれば、そのJがどんな意味を持ってるかもわからないのである)。またそのJポップというのは日本の音楽産業の歴史を振り返ってみることが可能であって、日本の資本主義社会における巨大消費産業を象徴しているもののひとつに数えられる。「作品」より「商品」という感覚になり、いかに安いコストで大量に作り出せるかという生産熱によって基盤を拡大していった(もちろんそれにはCDなどの再生媒体や音楽生産技術の発達などによるということもあるのだろうが)。そのため似たような趣向の音楽ばかりが大量生産されるようになった。リズムテンポも基本的には大きな違いもない。つまり、歌う歌手(グループ)も消費生産構造の一媒体として「導入される」側にまわったのである。その巨大産業を大まかに説明するとこのようになる。
このような状況はかつて、アドルノやホルクハイマーらのフランクフルト学派によって大衆産業のなかの「文化産業」構造が説明がなされた。たしか『啓蒙の弁証法』(1947)だったと思うが(実際ほとんど読んでないのだが)、現代の文化生産にかかわる根本的な問題を突き詰めたものとして現在でも評価されるところなのだが、そこにはラジオ(テレビもということになる)や雑誌などのマスメディアからなる複合的なシステムにより成り立ち、これらのメディアはそれぞれが連関関係にあり、そこで作り出されるモノはいくら細分化されていようとも基本的に同じものでしかない。つまり記号論的に言えばそれらはセグメント化された差異の認識でしかありえない。つまり、消費者もあらかじめ用意されていたタイプのものに従わざるをえず、大量生産のカテゴリーに従って消費していくしかないのである。さらには、操作する側と、視聴者側(操作される側)の要求とは循環した形になってしまっているので、そのサイクルのなかで、システム自体温存され緊密化されていくのである。このような文化の生産消費システムは20世紀初頭には形成されたのであるが、彼らはその文化産業を画一的な大衆欺瞞のシステムとして訴えたのである(たしかアドルノは「音楽」に関する論文を書いていたと思うが、内容的にはこの文化産業を踏襲していると思われる)。
確かに、この彼らの主張は一理を得ているのだが、ただ今日におけるサブカル理論やカウンターカルチャーなどの視点からみてみるとそのことが一概に正しいとはいえない。消費論の視点から見てみると、上の考え方はある種ガルブレイス(『不確実性の時代』や『豊かな社会』など)の理論と類似している。つまり、消費者側には自分の意思によってそれを選び取る状況を持てず生産者側の意思によって押し付けると見ているのである。この考えから言うと、消費者側は自らの意思で生産者側に要求するということはないということになるのだが、実際はそうではない。それ特に現在の消費者意識を見てみると分かることなのだが、かつてボードリヤールは記号論を援用して製品(商品)を記号と捉えたことで自己と他者の差異を示す媒介としてみるようになった。つまり、自分は他人と違う個性などを発揮するために自らの意思でそれを選び取っているというのである。もちろんこれだけでは上手く説明できないことは確かである。なんだかんだ言っても、わたしたちはメディアの影響をうけて流行を享受しているわけだし、またブランド生活ではないが皆が一様なものを選び取ることで個性の喪失だと主張されるであろう。現在の消費構造は、かつてヴェブレンが『有閑階級の理論』で主張したように、自分を見せるために選び取るという思考が復活し始めており、大量で多種類の製品のなかから消費者が自己の要求をもとに選び取るという構造になり生産者側もそれに応えようとするのである。
それをJポップの中で見てみると、宇多田やB'Zなどは彼ら独自の持ち味を生かし、消費者側もそれを正統に評価しようとしている。それは本書の最後にも書いてあるが、「心に響く曲」の趣向のもと製品競争(資本主義産業に入ってる限り競争原理は抜け出せない)に取り入れようとする試みそれ自体いろいろな試行錯誤が必要であるが、それ自体を一番求めておりよく分かっているのは消費者自身である。
Jポップというジャンルは日本では当たり前のジャンルとして認知されているか呼ばれているが、海外ではJポップという名に限らず日本の歌自体それほど知られてはいない。そもそも「Jポップ」のJはJリーグのJと同じような意味合いで付けられたものであり、カタカナで書くよりもアルファベットを用いることでいかにも国際性があるというイメージを付着しようとしているという。しかし、海外(東アジア以外の地域でも)で日本の歌を広めようとするならJポップというよりも「japanese (popular) songs」のほうがまともに聞こえるように思われるのだが…(つまり向こうの人たちにとってみれば、そのJがどんな意味を持ってるかもわからないのである)。またそのJポップというのは日本の音楽産業の歴史を振り返ってみることが可能であって、日本の資本主義社会における巨大消費産業を象徴しているもののひとつに数えられる。「作品」より「商品」という感覚になり、いかに安いコストで大量に作り出せるかという生産熱によって基盤を拡大していった(もちろんそれにはCDなどの再生媒体や音楽生産技術の発達などによるということもあるのだろうが)。そのため似たような趣向の音楽ばかりが大量生産されるようになった。リズムテンポも基本的には大きな違いもない。つまり、歌う歌手(グループ)も消費生産構造の一媒体として「導入される」側にまわったのである。その巨大産業を大まかに説明するとこのようになる。
このような状況はかつて、アドルノやホルクハイマーらのフランクフルト学派によって大衆産業のなかの「文化産業」構造が説明がなされた。たしか『啓蒙の弁証法』(1947)だったと思うが(実際ほとんど読んでないのだが)、現代の文化生産にかかわる根本的な問題を突き詰めたものとして現在でも評価されるところなのだが、そこにはラジオ(テレビもということになる)や雑誌などのマスメディアからなる複合的なシステムにより成り立ち、これらのメディアはそれぞれが連関関係にあり、そこで作り出されるモノはいくら細分化されていようとも基本的に同じものでしかない。つまり記号論的に言えばそれらはセグメント化された差異の認識でしかありえない。つまり、消費者もあらかじめ用意されていたタイプのものに従わざるをえず、大量生産のカテゴリーに従って消費していくしかないのである。さらには、操作する側と、視聴者側(操作される側)の要求とは循環した形になってしまっているので、そのサイクルのなかで、システム自体温存され緊密化されていくのである。このような文化の生産消費システムは20世紀初頭には形成されたのであるが、彼らはその文化産業を画一的な大衆欺瞞のシステムとして訴えたのである(たしかアドルノは「音楽」に関する論文を書いていたと思うが、内容的にはこの文化産業を踏襲していると思われる)。
確かに、この彼らの主張は一理を得ているのだが、ただ今日におけるサブカル理論やカウンターカルチャーなどの視点からみてみるとそのことが一概に正しいとはいえない。消費論の視点から見てみると、上の考え方はある種ガルブレイス(『不確実性の時代』や『豊かな社会』など)の理論と類似している。つまり、消費者側には自分の意思によってそれを選び取る状況を持てず生産者側の意思によって押し付けると見ているのである。この考えから言うと、消費者側は自らの意思で生産者側に要求するということはないということになるのだが、実際はそうではない。それ特に現在の消費者意識を見てみると分かることなのだが、かつてボードリヤールは記号論を援用して製品(商品)を記号と捉えたことで自己と他者の差異を示す媒介としてみるようになった。つまり、自分は他人と違う個性などを発揮するために自らの意思でそれを選び取っているというのである。もちろんこれだけでは上手く説明できないことは確かである。なんだかんだ言っても、わたしたちはメディアの影響をうけて流行を享受しているわけだし、またブランド生活ではないが皆が一様なものを選び取ることで個性の喪失だと主張されるであろう。現在の消費構造は、かつてヴェブレンが『有閑階級の理論』で主張したように、自分を見せるために選び取るという思考が復活し始めており、大量で多種類の製品のなかから消費者が自己の要求をもとに選び取るという構造になり生産者側もそれに応えようとするのである。
それをJポップの中で見てみると、宇多田やB'Zなどは彼ら独自の持ち味を生かし、消費者側もそれを正統に評価しようとしている。それは本書の最後にも書いてあるが、「心に響く曲」の趣向のもと製品競争(資本主義産業に入ってる限り競争原理は抜け出せない)に取り入れようとする試みそれ自体いろいろな試行錯誤が必要であるが、それ自体を一番求めておりよく分かっているのは消費者自身である。