ポストモダンと呼ばれる時期が本格到来(日本なら1960年代以降)したあとで「個人」という存在の意義が見直されてきている。それまでの何々に傾倒したかたちでの「個」であったのが、社会的にもカウンターカルチャーの登場や「大きな物語」の喪失などで自己の存在意義が認められるようになり、それに関しての社会問題なども起こるようになってきた。1950年に社会学者D・リースマンが『孤独の群衆』(アメリカ社会を考察している)のなかで現代人は他者志向型人間だと述べているが、依存するにもそれを価値判断する想像力自体が欠けた状態でますますそれがブルーになってしまうという状況を多くの学者が主張している。
自分でなんとかやっていかなくちゃいけないという非常事態、しかしそれをどうしたらよいのかわからない。他人に依存しても一時的で空虚な関係しかもてない状態。非常に悲観的な表現ばかりを並べているが、この状況はそのときに始まった新しい状況ではない。かつてもそんな雰囲気はあったはずである。ただ違うのはそれが蔓延化してしまっていることである。
例えば、夏目漱石は『私の個人主義』のなかでいっていた状況下は今日の状況とは違っていた。漱石は明治期の日本のおかれた状況と向き合い、個をいかに保持していこうかと努めようとした。彼のこの考えは、彼自身の気の弱さからくるのかもしれないが、最終的に漱石は「則天去私」というかたちで収めようとした。完全なる個人主義が排斥されがちの日本で己の個を貫くにはどうしたらよいかと考えたあげくにたどり着いたのが「則天去私」なのである。それがいいかどうかはっこ人の判断にまかせられるところだが、漱石自身はそうした。
漱石は言っている。「個人主義の寂しさは、他人には頼れないという孤独感」(正確な言葉は忘れた)であると。集団主義であるなら「みんなで渡れば怖くない」ではないが、安堵感は保持できる。それに比べ、個人主義は自分に責任を持たなければならないため、他人に相談できないという不安感はまぬがれないのである。しかし、個人プレーは臨機応変がしやすい。自由に動くこともしやすい。完全なる個人主義者にとって、日本という状況の中で「個」を尊重しながらうまくやっていくというのは難しい。山崎正和は日本における個人主義を「柔らかい個人主義」と表現しているが、この文脈上ではむしろ「柔らかい集団主義」と表現されるべきであろう(もちろん彼の個人主義論に反対するわけではない)。
しかし、ひとりで黙々とやり抜いていく姿は美しいという表現があるが、その点で日本は変な文化観をもっているのである。ただ忘れてはならないのは「中心」にいる者が変革者になるわけではないことである。山口昌男の「中心と周縁」やドゥールーズ=ガタリの「ノマド」という形にいきなり当てはめてみるというのも杜撰ではあるが、わたしとしてはわたしとしての「個人主義」をそんなふうに考えてみたいものである。
自分でなんとかやっていかなくちゃいけないという非常事態、しかしそれをどうしたらよいのかわからない。他人に依存しても一時的で空虚な関係しかもてない状態。非常に悲観的な表現ばかりを並べているが、この状況はそのときに始まった新しい状況ではない。かつてもそんな雰囲気はあったはずである。ただ違うのはそれが蔓延化してしまっていることである。
例えば、夏目漱石は『私の個人主義』のなかでいっていた状況下は今日の状況とは違っていた。漱石は明治期の日本のおかれた状況と向き合い、個をいかに保持していこうかと努めようとした。彼のこの考えは、彼自身の気の弱さからくるのかもしれないが、最終的に漱石は「則天去私」というかたちで収めようとした。完全なる個人主義が排斥されがちの日本で己の個を貫くにはどうしたらよいかと考えたあげくにたどり着いたのが「則天去私」なのである。それがいいかどうかはっこ人の判断にまかせられるところだが、漱石自身はそうした。
漱石は言っている。「個人主義の寂しさは、他人には頼れないという孤独感」(正確な言葉は忘れた)であると。集団主義であるなら「みんなで渡れば怖くない」ではないが、安堵感は保持できる。それに比べ、個人主義は自分に責任を持たなければならないため、他人に相談できないという不安感はまぬがれないのである。しかし、個人プレーは臨機応変がしやすい。自由に動くこともしやすい。完全なる個人主義者にとって、日本という状況の中で「個」を尊重しながらうまくやっていくというのは難しい。山崎正和は日本における個人主義を「柔らかい個人主義」と表現しているが、この文脈上ではむしろ「柔らかい集団主義」と表現されるべきであろう(もちろん彼の個人主義論に反対するわけではない)。
しかし、ひとりで黙々とやり抜いていく姿は美しいという表現があるが、その点で日本は変な文化観をもっているのである。ただ忘れてはならないのは「中心」にいる者が変革者になるわけではないことである。山口昌男の「中心と周縁」やドゥールーズ=ガタリの「ノマド」という形にいきなり当てはめてみるというのも杜撰ではあるが、わたしとしてはわたしとしての「個人主義」をそんなふうに考えてみたいものである。