わたしが最初に城を訪れたの(訪れたと言っても連れて行かれたのだが)は5歳くらいのときで祖父母と弟と一緒に行った名古屋城であった。大きな変わった形の建物を間近に目にしたのはそのときが初めてであった。正直、その時の記憶は城を見たという記憶よりもとなりの名城公園で綱渡り(子供用のイベントかなんか)で遊んだことのほうが強いのだが、そこからわたしの城ブームが始まった。祖母はわたしたち兄弟の教養本として城の写真集などを買ってきてくれた。わたしはそれを毎日眺めながら祖父に今度はどこへいこうかと話していた記憶がある。
わたしが思うに男の子なら小さいときに城というものに興味がわくと思うのだが、それは、男は城に対するなにかの憧れと歴史のロマンを小さいなりに感じていたためであろうか。男性の心理的シンボリックな存在としてそこにとどまっているかのようである。一国一城の主を夢見てしまうという感覚なのか。男は生まれつきそんな感覚を持ち合わせているのだろうか。ヨーロッパの城においては城と牢獄の関係が強調される。澁澤龍彦は次のように言っている。
「おもしろいことに、現実のヴァンセンヌやバスティーユも、たしかに最初は一つの城だった。城以外の何ものでもなかった。ただフランス王室がこれを牢獄として利用しただけなのである。サドはそこに住むことを余儀なくされて、牢獄と城とを共に生きた。そして生きているうちに、牢獄が城となり、城が牢獄となるという稀有な体験を味わったのである。ピラネージの牢獄の、あの目くるめくような空間の膨張感覚を味わったのである」(p.165)『城』(2001、河出書房新社)
そこから澁澤は権力の問題を汲み取ろうとしているのだが、なんだか男と城の心理的関係ということから権力と男性の関係は歴史的にも関係性かあったのだと感じられなくもない。城の魅力はそんなことからも尽きないものなのである。
「閉じこもることによって力を凝集する、―これがおそらく、城というものの本質的な機能ではないかと私には思われる。(……)城というミクロコスモスの内側には、かえって凝集された無限の欲望を感じさせるものがあるらしいのだ。外から眺めれば、一つの巨大なモニュメント、権力誇示のための空っぽな建築空間にすぎない城が、その内部に、渦巻くようにエネルギーを吸収する装置を備えているのでもあるがごとくである。密閉されたまま無限に膨張してゆくように見える、あのピラネージの牢獄の巨大な内部空間を私たちは思い出せばよいかもしれない」(p.162)(前掲載書)
わたしが思うに男の子なら小さいときに城というものに興味がわくと思うのだが、それは、男は城に対するなにかの憧れと歴史のロマンを小さいなりに感じていたためであろうか。男性の心理的シンボリックな存在としてそこにとどまっているかのようである。一国一城の主を夢見てしまうという感覚なのか。男は生まれつきそんな感覚を持ち合わせているのだろうか。ヨーロッパの城においては城と牢獄の関係が強調される。澁澤龍彦は次のように言っている。
「おもしろいことに、現実のヴァンセンヌやバスティーユも、たしかに最初は一つの城だった。城以外の何ものでもなかった。ただフランス王室がこれを牢獄として利用しただけなのである。サドはそこに住むことを余儀なくされて、牢獄と城とを共に生きた。そして生きているうちに、牢獄が城となり、城が牢獄となるという稀有な体験を味わったのである。ピラネージの牢獄の、あの目くるめくような空間の膨張感覚を味わったのである」(p.165)『城』(2001、河出書房新社)
そこから澁澤は権力の問題を汲み取ろうとしているのだが、なんだか男と城の心理的関係ということから権力と男性の関係は歴史的にも関係性かあったのだと感じられなくもない。城の魅力はそんなことからも尽きないものなのである。
「閉じこもることによって力を凝集する、―これがおそらく、城というものの本質的な機能ではないかと私には思われる。(……)城というミクロコスモスの内側には、かえって凝集された無限の欲望を感じさせるものがあるらしいのだ。外から眺めれば、一つの巨大なモニュメント、権力誇示のための空っぽな建築空間にすぎない城が、その内部に、渦巻くようにエネルギーを吸収する装置を備えているのでもあるがごとくである。密閉されたまま無限に膨張してゆくように見える、あのピラネージの牢獄の巨大な内部空間を私たちは思い出せばよいかもしれない」(p.162)(前掲載書)