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D的思考の広場

Nice to meet you! 日常のどうでもいい出来事から多角的に批評する広場です。

記念建造物(monument)

2005-09-10 22:20:31 | D的思想
「建築は意味のある対立と価値を―とりわけ快楽と苦悩、使用と労働を―縮減する。そのように社会の諸属性が容赦なく凝縮される事態を容易に見てとれるのは、19世紀以降の学校・駅・市庁舎・警察本署・省庁といった行政建築の様式である。(……)これらの施設は、社会空間それ自体の内部における諸活動の間の結びつきを「統辞論的に」提供する。つまり、資本が経済的に管理し、ブルジョアジーが社会的に支配し、国家が政治的に統治する空間においては、諸活動がこのような形で「統辞論的に」結びつけられるのである。
 (中略)
 言語活動と同じく、総合的空間(たとえば、記念建造物と建築との間の空間、街路や広場の空間)は、コミュニケーションの効果と並んで、あい矛盾する諸効果を―たとえば暴力と説得の効果、(政治的)正統性を強化する効果と正統性を失墜させる効果を―発揮する。総合的空間が権力を刻印し規定する痕跡を帯びているかぎり、この空間の効果は、これまで論じてきた諸レベルに、つまり建築のレベル(記念建造物‐建築物のレベル)と都市のレベルにはねかえる。総合的空間がそこに住むひとびとのおかげで、そこに住むひとびとのために、意味作用を及ぼすところでは、「私的な領域」にも同じく意味作用が及ぶ。ただし、それは住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいてのことであるが」
(アンリ・ルフェーブル、斎藤日出治訳『空間の生産』(社会学の思想⑤)2000(1974)、青木書店:pp.332-334)

 記念建造物にいかなる特殊な権力が作用しているかについて述べた部分である。人類の歴史を見てもわかるように、これまで諸文化において支配者の権力を誇示するべく(そのような意味が含意されていないにせよ)シンボリックな建造物をその共同体の住む重要な場所に建ててきた。
 公的な領域としての(公共空間)としての認識が存在するかぎりにおいて、そのシンボリックな人工物は私的領域にまで浸透し、その住民の生活空間にまで入り込むことになる。公的空間と私的空間の相関関係と権力が浸透していくミクロ的過程についての分析が必要となってくるであろう。
 フーコーは、自己規律型の理性の身体化が、軍隊や学校などの空間における監視装置による自己服従型のシステムによってなされると言っている。その身体化が成立しうる、つまり主体的な規範の身体化が成立しうるためには、その統一性の監視の提示が前提条件となる。ルフェーブルの言葉で言えば、「住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいて」の正統性(承認や了解)が認められていなければならない。認められていない状況だとしても、それが統一的な意志の表現のように見えていなければならない。
 ということは、もしそれらの統一性が見出されないとするならば、それを記念的建造物であると名目上認めていたとしても、それに内在するシンボリックなものとしての権力装置の意味を果たせないことになる。いや、というよりも、それを承認したり否認したりする規範(想像力)自体がないためただの建物(意味なしのゴミ)となる。
 ここで述べたことは、権力装置としての記念建造物の意味性についてであるが、ではそれがわれわれの身近にあるモニュメント(記念碑)的なものであるとするならばどうなるのか。人はそれをどうみているのか。人々が生活する空間の中でのモニュメントはいかなる存在となりうるのか。学術的に人気である権力論的に見る以外に、空間内での人と構築物との相関関係はいかなるものになりうるのかを、その空間の特殊性と照らし合わせて見てみるのも必要なのかもしれない。

堕落と絶望(fall and despair)

2005-08-31 23:36:42 | D的思想
「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それをふせぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。(……)そして人のごとく日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」(坂口安吾『堕落論』角川書店、1957(46):pp.101-102)

「東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。腹切りだとか、座禅だとか、柔術だとか、芭蕉の境地だとか、それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を、世界からふたたび孤立させようとする糸にくみすることにほかならない」(金子光晴『絶望の精神史』講談社、1996(66):p.32)

「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ。百年説〔筆者註:明治百年〕の人も、二十年説〔戦後二十年〕の人も、開国日本を、いまだ高価に買いすぎたり、民主主義で、箪笥にものをかたづけるように手ぎわよく問題がかたづき、未来に故障がないというような妄想にとりつかれてほしくないのだ。しいて言えば、今日の日本の繁栄などに、目をくらませてほしくないのだ。
 (……)
 世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」(前掲載書:pp.189-190)

 上記に引用した作品は坂口安吾と金子光晴のものである。坂口のは1946年、つまり戦後直後のものであり、金子のは1965年という高度成長期に真っ最中の時期に書かれたものである。それぞれの年代はある意味をもつ時代である。前者はそれまでの皇国史観が否定されGHQによる間接統治がなされ始めた時期でもあった。つまり外部からの民主主義を植え付けられた時期でもあり、人々はその急激な社会の変化に期待と不安を募らせ先が見えないという精神的に困惑じた状況が続いていたじきでもある。また後者の時期というのは、その前年に高速道路・新幹線開通、東京オリンピック開催と日本の復興を世界にアピールした年でもあり高度経済成長期に入り世界も日本に注目し始める時期でもあった。
 そんな両時期に、かれらは日本のそして日本人の何を見ていたのだろうか。両者を読み比べてみると時代と書かれている内容には差異があるのだが、約20年の隔たりがあるといっても共通項は見えてくる。坂口の不安が20年後を投影しているようにも感じられるし、金子の訴えが坂口の続編かと思えるくらい連続性があり、そしてまた21世紀になった今日までなにか引きずっている(彼らからしてみれば引きずるであろう)ことを予見しているようにも思える。
 坂口にしても金子にしても、旧来のモデルの否定という次元の問題を提示しているわけではない。日本にまとわりついてきた「美」とか「精神」というものの虚飾、そして外部から与えられた「民主主義」という名の安定剤をしっかり見極めることに徹し判断していかなければならないと訴えている。その論にはなにも飾り気のある学問調の筋立てで書かれているわけではないが、まさにその現実を無意識の域まで主観的にも客観的にも覗き込んだうえでの文化論なのである。
 わたしは8月25日の記事で、平凡と平和についての問題性について少し考えてみたのだが、われわれは不安であるときが一番活発にそして団結して物事を進めていけると書いた。ところが今日の状況下では、あえて先が見えない、いつ何時どこから恐怖が起こるか分からないという現実性のない「不可能性」の時代の中で、価値の判断どころではなく、始めから精神的に「平凡」「平和」を偽装確保しておくという状態になってしまっている。メディア通じた「民主主義」「平和」などという言葉は言葉だけの上面のみを人々は追い求めているのだ。ところが人々はそれが上面であることを認識していないというわけではない。認めていながらも不安であるために、場所を確保するために安定剤としてのそれを求めているだけなのである。

批判的検証(critical examinations)

2005-08-30 11:35:22 | D的思想
 学問をするとき、先行研究や理論についてそれなりの数の論文著作を読みそれらを系統的にも整理しておかなければならない。学部生のわたしにとっては、それの体系的整理というよりもむしろ各理論について大まかに整理されているかが先決となってくる。最初は、いろいろな理論について個別に読んでいかなければならないし、またすべてが初めての知識体系でもあるため何がいいたいのかをつかむのだけでも大変である。この段階においては、各理論のつながりを考えながらつかんでいくという段階には達していない。
 学問を志す者にとって、批判的検討をしながら読み進めなければならないと最初に言われるが、その説明を詳細に説明してくれる人はなかなかいない。この批判的検証、簡単に言えば書物を読むさいにはその中で書かれている文脈を頭の中で整理しながら内容をつかんでいき、「かかれている言葉をそのまま信じるな」ということを意味しているようだ。その括弧で囲んだ箇所をそのまま鵜呑みにしてしまうと大変な御幣を招くことになりかねない。その括弧の箇所がいわゆる批判的読みの意味するところとされているが、仮に何冊もの書物を重要箇所と不備・不鮮明な箇所とを検討しながらまとめていき自分なりの改善点についてうまく整理がついたとしよう。しかし、彼はそれをそのまま次のステップにつなげようとせず自分が築いた体系についても批判的検討を続けなければ(不断の検討)そこで終わってしまう。
 理論に完全なものはないということは誰もが認識するところであるが、実際にはそうでないような人が有象無象いるということは、その人たちはそこで結局息詰まってしまっている(当然本人たちはそのことは気づいていないのだろうが)。この点についてもう少し考えたいのだが、息詰まっていると本人たちが認識していないというと状態、それは換言すれば、そこで築いたもの(パラダイム)の枠にはまり込んでしまっているのだ。はまり込むという状態は、本人は認識していなくても本人をある枠に固定化してしまう思考体系が築かれて(身体化して)しまっていることを意味する。少しでも完全な体系を目指そうという欲望があるとすれば、それがその人なりに満足する段階に達成すれば、結局そこで途切れることになる。それが学問の面白さであり、練っても練ってもキリがないという怖さでもあるのである。
 ポストモダンの理論においては現実的側面とリンクしあいながら、その練っても練ってもキリがないことを積み重ねてきた。つまり臨機応変にそれは変化させていかねばならず、その点が理論であって理論ではない(完全な理論はない)という状況の意味でもあるのだ。
 今日におけるその問題というのは、そのことを認識しているかいないかということではなく、むしろそういう理屈は理解していたとしてもそれをいかに実践していくかの絶え間ない検討の場が排除されてしまっていることなのである。

その土地はどんな土地なのか(how is that location like?)

2005-08-29 20:40:18 | D的思想
 以前、8月2日の記事では旅雑誌(ガイドブック)についての興味深いところについて述べたのだが、今回はその書かれている文句について見ていきたいと思う。
 雑誌の中で表現されている言葉をよく見てみると非常に面白い。わたしは、女性雑誌に見られる観光地(旅)特集を以前ちょっと調べたことがあるのだが、ここでその中の一部を抜粋しておきたい。
(『Hanako West 2003秋 恋する京都』2003・10特大号、マガジンハウス)

「秋の京都はいつもよりずっとエレガント。
 美しい紅葉が古都の景色を優雅に彩ります。
 そんな秋は、京都のすべてに恋したくなる季節。
 静寂の庭園を、美味なる秋味の懐石料理店を、
 恋の街「祇園」、北野天満宮の市を……
 恋するように訪ねたくなるのはこの季節だけ
 あなたの「恋する京都」はどこにありますか?」 p.20
  
「京都は、絵画的で見ごたえのある名庭の宝庫。(中略)つくられた時代の物語に触れながら一つひとつ巡っていくと、凛とした日本人の美学や文化を再認識できるのでは?」 p.21

「風のそよぐ音、川のせせらぎ、お寺の香りなど、四季折々の魅力を感じられる風情があるから。五感を研ぎすまされる場所がたくさんあるんですよ。(中略)凛とした空気が漂っているというか……。(中略)山と川を近くに感じられて、とても心地よくって……。忘れられない旅になりました。だから、嵐山は、京都で一番思い出深くて、好きな場所ですね。」 p.24                                                      

「しっとりと落ち着いた京都の名割烹ほど、ふたりのディナーにふさわしい場所はない。中でも格別の料理と雰囲気にひたれる場所を厳選。訪れれば、ふたりの仲がきっと縮まる」 p.30                         

「心を癒す京の庭園巡りへ。(中略)ただ心を静かにして庭園と向き合う……それは日常の喧噪から離れ、安らいだ気分が味わえる極上の癒しだ。」 p.42

「昔ながらの手法や製法・厳選された素材・繊細な職人技・昔と変わらないetc」

「重みのある木造の建物や時を刻んだ梁や柱が、京都の人々が守り続けてきた歴史や伝統をそっと教えてくれるはず。」 p.45

「扇風機がくるくると回っている。やっぱりそんな風情のお店が好き」(錦市場商店街にて)p.58 

 これらはわたしが興味深かった箇所を抜き出したものなのだが、みなさんはどう感じられるだろうか。また自分の身の周りにおいてある雑誌をぱらっとめくって見ていただきたい。
 これらの文章自体、論理性があるわけでもない。また、専門的でもない。京都に限ってみれば、少なくとも若い女性向けの雑誌には「凛」「和」「伝統」「歴史」「美学」「恋」などという言葉が目立ち、モデルなどの人がこういうリポート形式で述べたことが読者にそのままイメージ化させる可能性も指摘できる。いったいいつ誰がどんなときにこのようなイメージを生み出してきたのかはよくわからないが、結局それは歴史的な蓄積によって今日の上記のようなイメージも形成されてしまっているのであろう。
 近年、若い女性の間でも日帰り(ときにプチ旅行とかいう表現も耳にしたことがあるのだが)旅行としてぶらっと京都へ旅行しに行くことが流行っているそうだが、彼女らが何を求めてそこへ行きたがるのか、またそうした先入観はどんなものなのかなどを考えてみるとちょっと面白い。実際行ってみて予想と違って少し落胆するのか、それともイメージどおりかもしくは何もそんなことを考えずその場を楽しんでいるのか。そのいずれの場合にせよ、実際に行ってみること自体に今日の旅(観光)を享受する意味があるように思う。
 また男性や他の年齢層向けにはどんな表現がなされているのか、その類似点と差異点を比較しながら考えたときに、それぞれの性別・年齢層に向けられる表現とはどんな形で固定化されていくのか、つまりなぜこの対象者にはこういう表現とこういうものを中心に紹介していくのかなどを考えながらみていくと旅行雑誌の面白さが深まるのではないだろうか。そして、上記にも挙げたような「癒し」「和」「伝統」というような言葉自体の概念を考えながら、そこから旅概念について考えてみてみると、何も観光(旅)についての視野を広げるだけでなく各領域との横断が可能になり、そこから現代の時代性についてマクロ的にも考えることに繋がっていくのである。

老化は苦なのかそれとも機能的か(about aging)

2005-08-27 10:24:35 | D的思想
 わたしも祖母と一緒に住んでいるのでよくわかるのだが、最近祖母も腰が曲がり始めいつもぶつぶつと愚痴をこぼしながら嘆いているのを耳にする。まだ口は達者で耳も聞こえているのでそれほど老化という感覚はまわりのわたしとしては持っていない。どうしてもわたしの頭のなかでは(偏見かもしれないのだが)老化といえば耳が不自由になり物忘れがでてきたなどという症状を思い浮かべてしまう。ボケてきたな、という表現がまさにそれを言い当てているような感じをもってしまっているのである。
 まだ若いわたしの身にとっては周りで話していることが途切れ途切れに聞こえたり、ここまで出掛かっているのになかなか思い出せないなどということはまだない。そういう場合、どうしても不自由だなあ、嫌だなあと思ってしまう。老化の初期症状の段階においてはかつてのピンピンしている頃の自分と比較してしまいどうしても気落ちしてしまいがちである。ただそれが積み重なり何十年もそれで生活しているとその感覚はずっと続くものなのだろうか。
 以前テレビを観ていて、100数歳の人のインタビューをふと目にしたのだが、インタヴュアーの人が「耳が聞こえにくくなって不自由を感じませんか」と尋ねていた。そうしたらその老人は「わしのような完全な隠居の身にとっては、まわりの余計なことも聞かずにすむから気が楽になってちょうどいい」と答えていた。社会に出て働くわけでもなく毎日が日曜日の生活を送っているような人にとって、周りの雑音、出来事などの情報は多すぎてその人にとっては余分なものでしかない。ただせさえ頭を使うこともなくなったのにそれでいて情報の取捨選択をしていてはとても気が滅入ってしまう。そのため少々聞こえなくなったとしても、わざわざどうでもいいことに目を向けずにすむので自然でやりやすいというのだ。
 わたしはこれを聞いていろんなことを考えさせられたのだが、老いを苦と考えるか自然の定めとして捉えるかは正直本人次第なのだが、ここで発想を逆転してみると、たしかに人間の人生は進化して退化するという流れにあることは確かである。現実の場面にそって考えてみた場合、最近肌に張りがなくなってきたという感覚から始まり、足腰が弱り、皮膚も爬虫類みたいになってきたというふうにいわゆる退化現象のように感じてしまうだろう。ただそれが人間の定めというものであれば、若者は若者なりに老人は老人なりにそれぞれの役割にそった機能に変化してきたということもできるのではないだろうか。
 社会から身を引いた人が若者のように思考も身体も活発であってもあまり役には立たない。ただ最近は高齢化のこともあって老人の範疇も変化し、また定年後の就職というのもあるため何とも言えないのだが、要するに動かぬ身にとっては動けないほうが基本的にやりやすい。歳相応の身体(歳にあった機能)に自分もなってきたと思えばなんとか気も楽になるのかもしれない。ただ個人差や性格のこともあるので嫌なものはいつまでたっても嫌なのかもしれないのだが。

平凡で平和な生活(ordinary and peaceful lives)

2005-08-25 20:01:06 | D的思想
 最近、「平凡」とか「平和」ということを耳にすることが多くなったような気がするのだが、聞けば聞くほどその意味がよく分からなくなってくる。
 われわれは平凡で平和な生活を送りたい、と若い人が言っているのを耳にするが、正直若いうちからそんなこと言ってるようじゃ始めから老後の生活のことを言っているようで私にはちょっと違和感を感じてしまう。「平凡」で「平和」という言葉、確かに穏やかな意味合いが強く、最近の「のどか」な田舎生活か都会生活かは知らないが、その言葉と何だかマッチしてしまっている。まあ確かに聞こえもいいし何だか理想のような生活を具現化している表現でもある。
しかし、そもそも若いうちから「平凡」や「平和」といった言葉を本当に感得しているのだろうか。それらの言葉を身体化させるためにはそれなりの年月と経験が必要ではないかと思うのだ。つまり結果的にそう感じるものであって、始めから予定説的に目指せるものでもないのではないだろうか。感じられたとしても、毎日一生懸命働いてるけど楽しいし幸せだということを感じることはあるだろうが、それはその時の一瞬の感覚にすぎない。「楽しい」「幸せ」というものと「平凡」「平和」とはもともと違う意味であり、両者を混同して一緒の意味で言ってるのであればそれは思い違いである。人それぞれで、「平凡「平和」のその意味は違ってくるだろうが、若いうちから夢見がちにそれを得ようとしているのでは何だか変である。金持ちだからといって平凡な生活を過ごせるとは限らないと同じように。
 ではなぜ人々はこんなにも平凡を求めるようになったのだろうか。「平凡」という言葉は、普通の、他人と同じように、という意味合いの言葉である。他人との差異にこだわらない、みんなと‘同じでいい’、などという感覚が蔓延化しているとも分析できるだろう。このことは19世紀末より「近代人」の感覚としてニーチェやハイデッガーなどによって近代批評されてきた。彼らが、「超人」や「死を意識できる存在」として強者を主張したことからもわかるように、彼らは大衆化を予期しそれを打ち克つための思索を試みてきた。そして、ポストモダン以降の批評でも彼らの思考がその基盤となって現在まで受け継がれてきている。それほどまでに大衆化という現象が普遍化してきているということである。確かに、今日の消費社会論にもあるように、他人との差異を獲得しようと記号を消費するということはなされていると言ってよいだろう。ただそれが外面性のみに変化を加えることによって他者との差異を求めようと、現実的に言えば「個性を発揮しよう」としているにすぎない。要するに、われわれの内的精神が「他者志向型」を形成してしまっているのである。ということは、若者が「平凡で平和な生活」を求める(欲求する)感覚自体大衆化の普遍化、悪く言えば病魔を示すものなのである。
 しかし、われわれは本当に人と同じであればいいと思っているのだろうか。それはただかなわぬ夢だと思って現状意識によって無理やり忘れよう隠そうとしているだけにすぎないのかもしれない。子供のときに、大人になったら○○になりたい、とみんなが好きなように発言していたのを思い出してみると分かるように、彼らは世間の白波を何も知らない状態ようするに自我をそのまま表出していた。結局、成長するにつれて社会化することで自我を押し殺しもしくは忘れてしまっただけなのである。もしかしたら昔はこうなりたかった、と今になって時々つぶやいたりするのはそれが多少とも残っている証拠なのかもしれない。 
 われわれは、平凡な日々の中でそれぞれの"ビューティー"を「夢」見ている。そして、彼らが無意識にしてきた"がまん"を放棄し、自分の"ビューティー"に向かって邁進するということをわれわれは時に目覚めることもある。ケヴィン・スペイシー主演で話題になった『アメリカン・ビューティー』はそれを上手くブラックコメディとして描いている。全米でヒットとなった本作は、"本当のアメリカン・オリジナル"と評され注目された。機能不全に陥ったアメリカの中流家庭(要するに‘普通の’家庭と呼ばれている家庭)が、あらがえない強い引力で"事件"へと転げ落ちていく様が、不可思議な空気の中で描かれる。倦怠が愛を上回り、体裁が本音を覆い隠す日々。不毛感、孤独感、閉塞感、「普通にしているのに何だかおかしい」という不思議な感覚が人を狂わせていくというスリリングな心理描写は、アメリカに限らず現代社会の精神構造を映し出しているようにも思える。
 ここで言う“がまん”の解消とは、決して余暇で“ストレス”発散するようなことを言っているのではない。人が変わったように何かに邁進していく内的変化のことをいっている。「平凡」とか「平和」という言葉は実は最も恐ろしいものである。それは時に「活動する」者の精神をむしばんでいくものだから。よってこれらの言葉というのは社会から退いてから結果的になって初めて分かるものなのかもしれない。

アジアはアジアなのか(asia is really asia?)

2005-08-20 23:02:04 | D的思想
 わたしたちは、普段何気なく「アジア」もしくは、「ヨーロッパ」「アングロアメリカ」「ラテンアメリカ」などという表現を使っているが、そもそも「アジア」というのはどこの地域のどこの国を指しているのだろうか。どこの地域のどこの国と言ったって、地図帳や地理の教科書を開いて見てみれば、赤のラインかなんかでアジアの地域が区切られているのが確かめられるではないかと言う人もいることだろう。しかし、ここではもう少し歴史的に、そしてわれわれが場所を認識するためには外部からの情報(知識)から得ないと知ることができないという現状を考えてみたい。
 ここで日本の明治以降のアジア(ここでは近隣諸国と呼んだほうがいいのか)との拘わりについてを見ていきたいのだが、簡単に挙げていくと、征韓論、日朝修好条規、日清戦争、日露戦争、韓国併合という歴史をたどり、思想的にも大アジア主義、満州における五族協和、そして大東亜共栄圏構想などを構築してきた。そして戦後にも日中、日朝韓、そして東南アジアとの外交関係もたびたび繰り返してきている。それらの歴史的事実を経てきたことで今日の日本人にどれほどの心理的精神的影響をもたらしたのだろうか。そもそも歴史というのはこれまでの歴史の断続的な積み重ねによって重層的に構築された社会の時間的側面を意味している。そのような積み重ねのなかで、われわれ日本人は「アジア」という言葉の、特に東アジア、東南アジアという言葉に特に敏感である。お隣の韓国、北朝鮮、中国、そして地域的に密接なところとして台湾、極東ロシア。これらの国と地域を地図上に並べてしまえば周知の通りの形が思い浮かべられようが、日本を含めたそれらの国を「東アジア」というひとつの区切りとして考えてきた意味というのはそもそもあったのだろうか。 
 確かに近隣諸国であるため、そして地理上の区分として「○○アジア」と名づけていはいるのだが、そもそもそういう区分をしてきた歴史的背景を考えてみてると、何かこれまでの上記に挙げたような歴史的思想的背景を基盤にわれわれの意識のなかに「東アジア」という枠組みの認識を確立、悪く言えば固定化してきたしまったように思えるのである。そして、それがわれわれの認識を形成させる。われわれは各々が直接それらの国々と関係をもっているわけではない(数的にも相当少ない)が「東アジア」の一員としての日本と認識しているのはなぜか。「東アジア」や「東南アジア」ならまだしも、「南アジア」や「中央アジア」、「中東」の区分ができる人がほとんどいないというのが現実であるように、われわれはお隣の国々に対してはこれまでの教育や雑学などの外部からの情報でそれらのすべての知識が構築されてしまっているのである(実際に行ったことがないかぎり、それ以上の感覚を得るというのは正直難しい)。
 このことを考えてしまうと、諸外国のことや、もっと身近なことを言ってしまえば日本のことに関してもすべてが虚構であり幻想であることになる。実際の現実としてのアジアとテレビや雑誌などのメディアという枠を通じて認識している「アジア」、その二重性のなかで物事が構築され、そしてわれわれのほとんどはその後者を通じてそれらを認識しそこでの「事実」を現実に還元させているのである。まさしくこれが「表象」の現実の意味を初めて実感する瞬間なのである。だがわれわれは他国の人たちとコミュニケーション(対話)を繰り返すことでその構築された幻想世界を行き来しそしてそれを現実のもの自明のものと認識していくのである。言い換えれば、少しでもそこで根付いてしまった幻想を変えようとするために常に国家レベルとしては外交、民間個人レベルとしては経済・文化交流を繰り返さなければならないのである。そして、現に外国に初めて行った人がそれまでの知識に基づく外国の様子との大きな差異があることに驚くという事実が示しているように、幻想と現実との適当な距離を確保していかなければならない。
 現在、9.11の衆議院選挙を目指して各党がマニフェストを作成しているが、そのなかで「東アジア地域との共同体」とかかんとかいう綱領が見られるが、正直なところわざわざ地域区分の明白な表現を使わないでも(言葉としての明白さがあり正式名称となっているため使用することには問題はない)仮にそれを実行するときにはその言葉の幻想にだまされなように紛らわされないようにしてもらいたいものである。

戦後60年を迎えて―戦争を語ること―(representation of war)

2005-08-15 00:40:02 | D的思想
 戦争の大義,その大義は常に不変のものとして語られうるのだろうか。2001年の9.11事件を契機とするアメリカ主導のアフガンそして後のイラクに対する戦争。それが起こるまで,そして今日までもその戦争の大義というものが盛んに講じられ,講じられたいくつもの解釈による利己的な大義というものを理屈的建前として開戦の宣言がなされることとなった。わたしはその開戦のときをテレビで迎えた。アナウンサーが,暗闇の中を駆け抜ける光を確認しながら落ち着いた口調で,「たった今,ブッシュ大統領の最後通牒通りイラクのフセイン政権に向けた戦いが始まった模様です」と報じていた記憶がある。
 テレビというマスメディアによって戦争報道は91年の湾岸戦争以降「お茶の間で観る戦争」――あえて非難を承知で表現すればまさしく「観戦」――としてわれわれ外部の一般人にはイメージの固定化がなされてきた。ベトナム戦争時,市街戦の模様,現地一般市民の殺害報道などが報道面上の大きな変換期としてメディア論のなかでも認識されているところであるが,湾岸戦争に始まる90年代以降の「戦争」というのは,ここではむしろ「戦争」の報道というのは,空中戦(この場合空爆)が主流となってきたことでわれわれがテレビから観るその様子というのはまるでシュミレーションゲームに出てくるような模様で「ピンポイント攻撃」というまさにそれに似つかわしい表現に何か新鮮な響きを憶えてしまった。この「何か新鮮」という表現自体,本来ならそれにふさわしい表現かどうかと問われたら頭を低くし声を下げて発言しなければならないだろう。しかし,よく考えてみるとこの表現というのは完全に非難の対象になる表現ではないはずである(もちろん,言論の自由が保障される私的な表現の場でという立場が前提条件になるのだが)。というのも,最初に提示した「戦争の大義についての普遍性があるかどうか」という問題と今日われわれが受けとめるイメージする「戦争」というものがどこまで共通性としての項が相関関係を緊密に保ち維持されているのかということに対して何か疑問を呈せざるをないからである。
 そもそも「戦争の大義とは何か」という抽象的な前提条件を講じるのは困難であるとクラウセヴィッツは大著『戦争論』のなかで述べているが,彼は戦争の定義として「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」という観点を主張している。この戦争は政治の一部という観点にもとづけば現実問題としての戦争はなおさら複雑な意義を強要されることであろうし,実際彼自身もこのことは最初に断っていることである。しかし,現実にこれまでそれぞれの大義をもとに戦争は起こってきた。これはわれわれ一般人が大義をどうのこうのと議論するという場はさらさらなく,せいぜい政治的執行者のいるお役所の建物の外でのデモが起こすぐらいのことである。要するにわれわれには大義を語っても指揮する身でない以上サロンでしか語れないのである。もちろんこのような現状はメディア(世論など)によって大きな状況変化へ転ずることもあるが,実際われわれ一般人の観点からは,その大義というものが複数ではあるが近似値を取りながら固定化されてしまっているという解釈におさまる。少なくとも本論ではその大義それ自体を問題とするものではないためあえて固定化させたという前提で議論を進めていく必要がある。
 戦争の大義,つまり戦争の実践的本質と言い換えてもよいだろうが,それが不変(普遍)もしくは固定化しているものであるとするならば,われわれがこれまで受けとめてきた「戦争」に対するイメージが一定であるのかそれとも変化してきたのかということを考えることで戦争というものの本質,いや本質と受け取らなくてもカノン(正典)化されている「戦争」,つまり表象されている「戦争」を議論していくことになるからである。逆説的に言えば,戦争という現場にいないわれわれはこのことから出発していかないと戦争を考えることにはならないのである。
 「われわれは戦後に生まれたから戦争は知らない」とか,また逆に「われわれは戦前に生まれたから戦争を語らねばならない」という使命感的な意見も耳にする。確かに,歴史的に考えれば,前者の意見を言う人たち(著者もそのひとりなのだが)は戦争期を生き抜いたわけでもない。これが当然の主張と言えばそうなる。しかし,後者の人たちが共通した戦争観を抱いているわけではないし,実際国民すべてが戦地へ出かけて行ったわけでもない。女性や子供などは戦地へ行って戦ったわけでもない。戦地へ行って戦ったのは行っていない人よりも少ないのである。ところが戦争が終わって60年が経った今日では戦前生まれの人はみな「戦争」を体験したと言う。戦後何年経とうが実際には問題にならず,戦争期を生き抜いてきた人は戦争を体験したのである。つまり,彼らはみな各自の「戦争体験」を語ることからも何らかの戦争観を持っているということになる。その戦争体験というのは戦前生まれであろうと戦後生まれであろうと自分が実際に体験したこと以外にも外部からの情報をもとに自分なりの独自の戦争観を生み出し語ることができる――現にわれわれは戦争について色々なところで語っている――。そこで語られる戦争観にはどれだけ実際の戦争を経験したかという割合が違うだけということになる。ということであるならば,その戦後60年の間に生まれてきた人たちも戦争を目撃したという解釈も可能になる。それが最初にもあげたようにラジオ,新聞,テレビなどで伝えられるマスメディアによって一般人が戦争観を各自の内部で形成され身体化させているということに繋がるのである。
 そのことは歴史的に見ても的を射ている意見である。われわれは戦争という言葉を知っているし何らかのイメージ像を抱いている。しかし,ここで注目しておきたいことは,そこでイメージされ語られる「戦争」というものは一体どんなものなのだろうかということである。というのも,先に実際戦地で「戦った」人と戦地へは行っていないが戦争下における苦しい生活を送り精神的にも肉体的にも「闘った」人がいるという区別し,戦後の人たちによる戦争観が新しく生み出されてきたこと述べてきたが,もしかしたらこれまで生み出されてきた戦争というイメージのなかに「戦争」を「戦場」の光景を強調しすぎてそれを「戦争」だと混同して捉えてしまっている可能性はないかと考えることもできるはずである。
 ここで以下に興味深い言葉を引用しておきたい。

平和を謳歌する日本だが,戦争を知っている私にとって,日本のヤワな平和論は信用できない。たとえば毎年夏になると,広島の原爆はひどかった,東京大空襲も悲惨だった,だから戦争はいやだという論調がもう60年近く続いている。それが間違いなのである。これは“戦争”ではなく,単に“戦場”はつらかったといっているにすぎない。確かに,戦争があって戦場が設定される。しかしその関係は「水と空気」のような関係だ。水と空気の本性が違うように,“戦争”と“戦場”の本性はまったく違う。(橋田信介『戦場特派員』(2001,実業之日本社)「あとがき」より)

 橋田信介は,フリージャーナリストで戦場カメラマンであり,ベトナム戦争時から戦場カメラマンとしての報道を行い,その後も湾岸戦争,カンボジア内戦,ボスニア内戦,アフガン戦争などで数多く取材していたが,2004年5月27日,イラク戦争取材中にバグダッド付近マハムディヤで襲撃され,甥の小川功太郎氏とともに殺害されたことで大きく報道されたことでも知られている。彼曰く,戦争と戦場は違うものであると述べているが,真意には,われわれが「戦争」だと思っているものは実際には「戦場」のことであって「戦争反対」と叫ぶ人たちが指している戦争それ自体は焼け爛れた崩れた街をイメージさせる戦場を背景とする「戦争」を強調するものでしかないのであることを,戦場カメラマンとしての立場から伝えようとしている。
 ここで言う戦場とは,戦闘が繰り広げられる戦地であり,空襲などで被災を受けた地域のことである。その戦場を戦争と混同するという感覚,それは戦前生まれの戦争期を生き抜いてきた人の戦争観,そして戦後生まれの人がイメージする戦争観のなかにも当てはまることである。戦後ひたすら「平和,平和」と謳われてきた社会を生きてきたなかで,家族や恋人と一緒に食事をとり余暇を楽しみ穏やかな生活をイメージするのと対極のイメージとして戦場の背景は固定化されてしまう。「空襲で建物は全壊し,一面焼け野原のなかをボロボロの服をきた親子がゾロゾロと徘徊し」,また「瓦礫の下でわずかなまずそうな食事をとりながら日々を生き抜く」などの様子がわれわれの頭のなかで連想される。それは確かに事実であったかもしれない。実際に戦争期を生き抜いてきた人はそのように語るであろうし,また報道写真・映像から見ても生の姿を「枠」のある映像媒体を通じて知ることができる。しかし,戦争を語るということになると,それらの現実はあくまで戦場の様子であり平和の対極にあるという戦争ということになると実際に「戦った」人にしか分からなくなってしまう。
 このことから考えてみると小説家の野坂昭如や日野啓三が語るような「戦争」の悲惨さというのはまさに「戦場」の悲惨さであるという印象のほうがふさわしいものとなってしまう。野坂の小説『火垂るの墓』に出てくる戦前戦後の神戸の街で生きる兄妹の姿は彼の戦争体験をもとに書いたものだそうだが,これは野坂自身の戦争観を示しているということである。しかし,ここでは戦場のイメージ――空襲から非難し燃え盛る街を逃げ回り、食べ物を探して何とか生きているという姿――が色濃く反映されてしまっている。日野啓三についても,彼の語る戦場を通じての廃墟のイメージは,戦争を語っているというよりもやはり戦場だけを語っているということになる。

だが遠からず焼け崩れるものとしてしか,それらをわれわれは祝なかった。空にはB29の航跡雲でなければ,探照灯の交錯しかなかった。少なくともわたしの記憶の中に残っている少年の目の空に,星は輝いていない。私たちは戦場〔著者註:ここで言う戦場とは文脈から見ても戦地と捉えたほうがよいだろう〕は知らなかったが,戦う理由も理解できず戦意もなしに生きねばならなかったのは,火と鉄と死とセメントの世界だったのだ。(日野啓三「焼跡について」p.8)

 ただここで彼らが戦争について語っていないということは言うつもりはない。戦場のことだけしか語っていないかと言えばそれは違うだろう。彼らは戦場(戦地)へ行って戦ってはいないが戦争期を生き抜いてはきている。戦争あっての戦場であるとするなら,彼らが語っているのもひとつの戦場を生き抜いたことによる戦争観であろう。彼らが語っていないとすれば,それは彼らが経験していない実際に現地に行ってそこでの体験自体である。その戦地で敵を殺すにせよ,非常事態で仲間を見殺しにしてしまわざるをえないにせよ「人を殺しあう」という人間行為を目の当たりにする光景を彼らは見ていない。そこのところが,先に「戦った人」と「闘った人」との戦争観の違いに繋がってくる。作家大岡昇平の『俘虜記』などで語られる戦地の様子は先の語りとは違ったものであることは明白である。
 ここから見えてくることは,戦争観は「戦争」という同じ共通項を違った趣向から表現しているものではなく,実際経験したことのほかにも外部からもたらされたイメージ(マスメディアや戦前生まれの人からの話など)によって各自の戦争イメージが形成されていると言える。ということは,上から唱えられる戦争の大義というものによってわれわれの戦争観の一部に少なからずの枠組みを与えているということにもなる。
「わたしは小さいときにあった大空襲でゴロゴロと転がる死体の上をまたぐように動きまわり食べ物を探していた」
「食べる物が何もないからイモのツルとかも食べるしかなかった」
「あと一歩遅れて防空壕に入っていたら死んでいた」
 ……
 これらの語りが戦争を戦場と捉えるという指摘自体,確かに戦争観(イメージ)の固定化につながり偏りが生じてしまうため将来へ向けて戦争を語り継いでいくというときに大きな展望が見えなくなってしまう可能性を示唆している。しかし,われわれが語る戦争が戦場のイメージしか持っていないと悲観的に判断してしまうのも何の議論の進展にもつながらないし,むしろ実際問題としてそういうイメージを抱いてしまうという現状をしっかり把握した上でそのイメージが多くの人に抱かれる背景を考えるという現状分析を心がけていかなければならない。そして大事なことは,そういう戦争観(イメージ)もひとつの戦争観であり,それが十分に語った上での結論なのかそれとも言葉では語りつくせないものがまだあやふやになっている状態にあるのかということを個々が常に顧みていくことのほうが重要であろう。
 戦争は机上の問題ではないことは誰もが知っているが,個々に内在化している戦争のイメージを十分に咀嚼した上で語ることは未だ十分ではない。それは戦争期を生き抜いていない人にとってはすべて外部からの得る情報(イメージ)でしかないためなおさら語ることはできないのである。そのときに先の野坂や日野らの戦争観がひとつの指針となってはたらくのだ。そういう認識の過程を踏まえた上で初めて《戦争期を生き抜いてきた人たちの語り》が本当の意味で価値――まさしく《生きた語り》――あるものになるのである。

                                               2005年(皇紀2665年)8月15日

※本論では《生きた語り》について中心に述べてきたが、戦争を表象するものとして何も人だけではなく映像や文字媒体もあるということを認識した上で、それらの表象体系を分析した上でこれからの戦争表象を考えていく必要がある。また今回は、戦地へ行った者がいかにそこで「戦って」きたのかについてやそこの現地で犠牲者となった者としての語りなどについては述べてこなかったことなどは不十分な点として指摘されよう。

職業と学問(vocation and learning)

2005-08-11 10:46:12 | D的思想
「我々は、徒に待ち焦れているだけでは何事もなされないという教訓を引き出そう、そうしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「時代の要求」に―人間的にもまた職業的にも―従おう。このことは、若し各人が夫々その人生を操っている守神(デーモン)をみいだし且つそれに従うならば、極めて容易に行われうるのである」
                M・ウェーバー、尾高邦雄訳『職業としての学問』(1936、岩波書店:p.72)

 敗戦下の混乱と不安に陥った彼の祖国ドイツの学生に対して行った講演であり、引用箇所はその最後の箇所である。彼のこの宿命論とでもいうべき内容は、「自分の仕事につき、そして時代の要求に従え」との教訓でもある。そこではウェーバーの主張していた「価値自由」の問題が取り込まれている。
 「価値自由」とは、研究者がある対象に対してむける価値判断を完全には排除できないと認めることで、逆に自分がもつ価値をはっきりと自覚することである。そうすることで自分が捉われている価値観から一定の距離を保ながら向き合えることができるのである。これは研究者に要求される倫理的態度とも呼べるものであり、自らを抽象的中立的立場という非現実的態度を批判する態度でもある。それが上記の引用箇所にもあるように、「時代の要求に従え」という現実的態度につながるのである。もちろんここでは研究者だけに当てはまることではないということを認識しておかなければならない。しかし、その自分のもつ価値というものが外部の複雑性によって歪められ(影響され)価値判断できる基盤がないとすればどうなるのか。それは「価値自由」の「自由」という言葉の曖昧さがその何かを物語っているようにも思える。
※引用文について、旧字体や旧仮名遣いについては現代仮名遣いに変更してある。

伝統工芸保存(conservation of traditional arts)

2005-08-10 10:58:06 | D的思想
 われわれは「伝統保存」ということを学校の教科書やニュースなどで耳にしているために馴染みの深い言葉だと思っている。その「伝統保存」に関連して、「近年の継承者減少と若者の感心事の変化によってその克服が深刻となっている」などという文句はごまんと耳にすることだろう。
 しかし、いくらその「伝統」に従事していない者が「保全」と叫んでいたとしても結局自分がそれには携われないことは確かである。できるとしたらその「危機」と呼ばれる状況を一般の人たちに伝えることでしかない。ところでその「危機」とは一体何を指しているのだろうか。というのも一般知識人、つまりここでいう伝統危機を一般人に伝える媒介者である人たちのことであるが、彼らのいう「危機」と実際にその「伝統」文化(作品)の継承者たちの感じている危機との間には差異があるように思えるのである。
 前者、つまり知識の媒介者たちがいう「危機」というのは、いわゆる我が国の昔から続いている伝統文化(ここで当然それらはよいものだという暗黙の領域が含意されている)が今日の大量消費社会のなかでマイナーな領域となって影に隠れた存在となってしまっており、それを克服するためにも若者の関心を何とかそれに向けさせなければならないという意図が少なからず含意されている。しかしそれは建前上のことであって、実際はその「危機」を表面的に教育的に伝えているにしか過ぎないのである。誤解を承知して言えば、「無関心」に等しく実際の継承者たちをフィルターをかけて見ているのである。学校教育上でも、小学校の生活か社会の授業で伝統工芸品についての勉強と社会見学として実際に体験してみるなどの課題がなされているが、結局そこでは「これらは何百年も前から続いている伝統工芸で今は継承者が少なくなって数人しか残っていないんだよ」などと技術、精神などを教えるだけに止まってしまっている。
 先にわたしが危機についての差異があると言ったのは、つまり実際の継承者(もしくは実践者)たちはその危機というものをどうみているのだろうかということを確認しておきたかったからである。今現実問題として何が彼らにとっての問題なのだろうか。わたしは実際にその人たちに訊いたわけでもないし知識もないためここではっきりしたことは言えないのだが、簡単に言ってしまえば(製作)技術・精神継承の問題も当然一理あると思うのだが、その前の段階、つまり最高の芸術品、工芸品をもっと簡単にまとめると製品をつくるための材料がないのである。科学技術の進歩によりより低コストで大量にできるかが求められることによってこれまでやってきた方法ができなくなってきており「いい味」が出せないというのである。しかし、このことは周知のことであって初めて耳にするようなことではないはずである。しかし、実際にはこのことよりももっと後の問題であることばかりを大きく問題にとりあげている。表面だけを問題にとりあげたところで結局そこでは作るための材料は暗黙のうちに備わっていると錯覚してしまう。だからといって材料とそれを準備するための技術条件が希少になっていることを知らないわけではない。要するに、この二つの問題をバラバラに捉えて両者を複合的に捉えていないということになる。そのことが政治的最高機関である文化行政のなかでも未だに見直されていない(もしくはそれへの対応策が検討されていない)のが現状なのである。
 料理漫画でも、腕以前の問題で材料の質が問われているものが多い。ここで製作技術が問題にされるのは、その材料の質といかに調理していくをいかに見極めていくかという段階になって初めて登場してくるのである。つまり、材料にこだわろうとしたら今日においてはかなりの大規模レベルで対応していかないとここまで肥大化した産業社会の中ではなんとも手の尽くしがたい状況なのである。

「日本の伝統的なよいものを残そうとして、四苦八苦して技術を修得しても、社会構造の変化には、いかんともしがたい。この灰がよい例だ。日本のやきものは灰に負うところが大きい。そういう現実的な課題をほっといて、伝統維持だ文化行政だといっても始まらないのである」
    加藤唐九郎「黄瀬戸をめぐるひとつの想像」(p.21)(『日本のやきもの13 黄瀬戸・瀬戸黒』1975、講談社)