「建築は意味のある対立と価値を―とりわけ快楽と苦悩、使用と労働を―縮減する。そのように社会の諸属性が容赦なく凝縮される事態を容易に見てとれるのは、19世紀以降の学校・駅・市庁舎・警察本署・省庁といった行政建築の様式である。(……)これらの施設は、社会空間それ自体の内部における諸活動の間の結びつきを「統辞論的に」提供する。つまり、資本が経済的に管理し、ブルジョアジーが社会的に支配し、国家が政治的に統治する空間においては、諸活動がこのような形で「統辞論的に」結びつけられるのである。
(中略)
言語活動と同じく、総合的空間(たとえば、記念建造物と建築との間の空間、街路や広場の空間)は、コミュニケーションの効果と並んで、あい矛盾する諸効果を―たとえば暴力と説得の効果、(政治的)正統性を強化する効果と正統性を失墜させる効果を―発揮する。総合的空間が権力を刻印し規定する痕跡を帯びているかぎり、この空間の効果は、これまで論じてきた諸レベルに、つまり建築のレベル(記念建造物‐建築物のレベル)と都市のレベルにはねかえる。総合的空間がそこに住むひとびとのおかげで、そこに住むひとびとのために、意味作用を及ぼすところでは、「私的な領域」にも同じく意味作用が及ぶ。ただし、それは住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいてのことであるが」
(アンリ・ルフェーブル、斎藤日出治訳『空間の生産』(社会学の思想⑤)2000(1974)、青木書店:pp.332-334)
記念建造物にいかなる特殊な権力が作用しているかについて述べた部分である。人類の歴史を見てもわかるように、これまで諸文化において支配者の権力を誇示するべく(そのような意味が含意されていないにせよ)シンボリックな建造物をその共同体の住む重要な場所に建ててきた。
公的な領域としての(公共空間)としての認識が存在するかぎりにおいて、そのシンボリックな人工物は私的領域にまで浸透し、その住民の生活空間にまで入り込むことになる。公的空間と私的空間の相関関係と権力が浸透していくミクロ的過程についての分析が必要となってくるであろう。
フーコーは、自己規律型の理性の身体化が、軍隊や学校などの空間における監視装置による自己服従型のシステムによってなされると言っている。その身体化が成立しうる、つまり主体的な規範の身体化が成立しうるためには、その統一性の監視の提示が前提条件となる。ルフェーブルの言葉で言えば、「住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいて」の正統性(承認や了解)が認められていなければならない。認められていない状況だとしても、それが統一的な意志の表現のように見えていなければならない。
ということは、もしそれらの統一性が見出されないとするならば、それを記念的建造物であると名目上認めていたとしても、それに内在するシンボリックなものとしての権力装置の意味を果たせないことになる。いや、というよりも、それを承認したり否認したりする規範(想像力)自体がないためただの建物(意味なしのゴミ)となる。
ここで述べたことは、権力装置としての記念建造物の意味性についてであるが、ではそれがわれわれの身近にあるモニュメント(記念碑)的なものであるとするならばどうなるのか。人はそれをどうみているのか。人々が生活する空間の中でのモニュメントはいかなる存在となりうるのか。学術的に人気である権力論的に見る以外に、空間内での人と構築物との相関関係はいかなるものになりうるのかを、その空間の特殊性と照らし合わせて見てみるのも必要なのかもしれない。
(中略)
言語活動と同じく、総合的空間(たとえば、記念建造物と建築との間の空間、街路や広場の空間)は、コミュニケーションの効果と並んで、あい矛盾する諸効果を―たとえば暴力と説得の効果、(政治的)正統性を強化する効果と正統性を失墜させる効果を―発揮する。総合的空間が権力を刻印し規定する痕跡を帯びているかぎり、この空間の効果は、これまで論じてきた諸レベルに、つまり建築のレベル(記念建造物‐建築物のレベル)と都市のレベルにはねかえる。総合的空間がそこに住むひとびとのおかげで、そこに住むひとびとのために、意味作用を及ぼすところでは、「私的な領域」にも同じく意味作用が及ぶ。ただし、それは住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいてのことであるが」
(アンリ・ルフェーブル、斎藤日出治訳『空間の生産』(社会学の思想⑤)2000(1974)、青木書店:pp.332-334)
記念建造物にいかなる特殊な権力が作用しているかについて述べた部分である。人類の歴史を見てもわかるように、これまで諸文化において支配者の権力を誇示するべく(そのような意味が含意されていないにせよ)シンボリックな建造物をその共同体の住む重要な場所に建ててきた。
公的な領域としての(公共空間)としての認識が存在するかぎりにおいて、そのシンボリックな人工物は私的領域にまで浸透し、その住民の生活空間にまで入り込むことになる。公的空間と私的空間の相関関係と権力が浸透していくミクロ的過程についての分析が必要となってくるであろう。
フーコーは、自己規律型の理性の身体化が、軍隊や学校などの空間における監視装置による自己服従型のシステムによってなされると言っている。その身体化が成立しうる、つまり主体的な規範の身体化が成立しうるためには、その統一性の監視の提示が前提条件となる。ルフェーブルの言葉で言えば、「住民が「公的な領域」を受け入れこの領域をおしつけられるかぎりにおいて」の正統性(承認や了解)が認められていなければならない。認められていない状況だとしても、それが統一的な意志の表現のように見えていなければならない。
ということは、もしそれらの統一性が見出されないとするならば、それを記念的建造物であると名目上認めていたとしても、それに内在するシンボリックなものとしての権力装置の意味を果たせないことになる。いや、というよりも、それを承認したり否認したりする規範(想像力)自体がないためただの建物(意味なしのゴミ)となる。
ここで述べたことは、権力装置としての記念建造物の意味性についてであるが、ではそれがわれわれの身近にあるモニュメント(記念碑)的なものであるとするならばどうなるのか。人はそれをどうみているのか。人々が生活する空間の中でのモニュメントはいかなる存在となりうるのか。学術的に人気である権力論的に見る以外に、空間内での人と構築物との相関関係はいかなるものになりうるのかを、その空間の特殊性と照らし合わせて見てみるのも必要なのかもしれない。