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近江商人 Lifelog

近江商人のライフログ、あるいは遺言状の下書き

個人情報と人名救助

2004年08月29日 | インターネット
メル友から「死にたい」…プロバイダー協力し救助 (朝日新聞)

『プロバイダー側は「個人情報は法的根拠がない限り原則的に出さないが、
今回は人命がかかわる緊急事態と判断した」』

なかなかよい話です。通報3時間後には通報者に無事の知らせが届いたと
いうことは、消防・プロバイダの判断・連携は相当スピーディなものだっ
たようですね。

特にプロバイダの本件責任者の方の判断。「当然」と思うなかれ、ですよ。
なんてったってその方はサラリーマン。個人情報漏洩とそれによる社会風
評~収益の悪化を食らう事業者が乱発し、公務員のモラル低下も叫ばれる
昨今、そしておそらくマニュアル上はNOという回答になるであろうという
事態に際して、「人命にかかわる」というとても人間らしく性善な感覚で
迅速に自らの責任でこの判断を下せたことに敬意を表します。そして、ネ
ットで個人情報を扱う仕事をする者として、性善説的なよい判例ができた
ものだと喜ばしく思います。

実は昨今の個人情報をとりまく一連の議論も、個人情報を漏洩する事業者
内個人のモラルの低下もさることながら、「個人情報が流出したら絶対悪
用される」という社会への疑念・性悪説の蔓延がコトを大きくしているよ
うに思います。

もっとヒトがヒトを信じれる世の中にしたいなぁ´ゝ`

ネット世間よし

2004年08月27日 | インターネット
「IPO? それでみんな幸せになりますか?」--ITmedia

『先端の一部の人ではなく、ネットを使う人みんなの毎日の生活を、
楽しく、便利にしたいという強い思いから生まれた』

別に理想論だけでやっているわけじゃない。
臆面なく「みんなのために」を語りながらも、3サービスともちゃんと
経済社会の仕組の中で成り立つようにビジネス設計している。

GREEの田中さんはAdsense、アフィリエイトを早々に取り入れ、かつ
楽天のブランディングに十分に貢献している。
ニフティはISPサービスの基本収入を携えつつ、自社の基本・パソ通に
立ち返ったサイトづくりで自ポータルサービスの付加価値を高め、
はてなはネット一般層をターゲットとしながら、当初からさいふの紐を
握ることを前提にサービス作りをしている。

結局は、彼らが世間のことを考えつつも、彼らの作ったサービスが世間
に必要とされるものであり、そして彼らが経済社会におけるサービスの
あるべきルールをきっちり守っているから人が集まって発展するのです。

日本のネットもようやく 売り手よし、買い手よし、世間よし が通用
する世界になってきたということが、近江商人にはとてもうれしいです´ゝ`


ところで、この記事を書かれた岡田有花さんの視点はすばらしい。
今度お会いしたら「近江商人の視点アワード」を差し上げたいですw

共同通信事件とネットの記名制(後編)

2004年08月04日 | インターネット
ジャーナリストなら匿名性に逃げ込まないでほしい!(from週刊!木村剛)

この一件で問題視されるべきは、日本のマスコミジャーナリズムの
無記名制の歴史そのものであり、またネットの成長過渡期における
匿名制の横行である。

海外において、ジャーナリズムは概して記名制による発信者責任が
徹底されており、これによる市民によるメディア監視がジャーナズ
ムの浄化、ひいては政治・公民の浄化作用を効かせている。
しかしながら、日本のジャーナリズムは歴史的に無記名を是として
おり、これが政官記者クラブによるメディア操作や資本(スポンサ
ー)による商業主義偏重の報道姿勢、反対に偏ったポピュリズム迎
合といった弊害を起こしてきた。

またネットの匿名制は、草創期においてIPアドレスで発信者の所属
が表されたり、オープンソース思想において性善的に行われていた
ネットコミュニケーションを、”禁断の果実”2ちゃんねるをはじ
めとするネット無法地帯の発達を経て、ユーザに性悪説前提になら
ざるを得なくしたネット急成長の代償である。

おそらく、小池氏は長年憧れ続けた「ジャーナリストの発信者責
任」の夢を、ブログというネットメディアの中に求めたのではなか
ったか。確かに、ブログには「自分の庭からの情報発信とご近所さ
んとの井戸端会議」という基本側面があるため、マスコミュニケー
ションの発信者であった人々には魅力的な場に映ったのだろうが、
いかんせん、まだまだ場として未熟なネットの現状においてはコミ
ュニケーションツールとしての側面が性悪説のままで置かれていた
ため、彼は「こそこそ話で村八分」を食らったのだ。
・・・サービスプロバイダーの商業都合上、「もりあがれ」のために
”コメント”欄が無記名OKとなっている点を彼は見落としていたの
ではないのか。。


今後ネットコミュニケーションが進化していく上で、また日本のマ
スコミュニケーションと健全に融合(もしくは発展的役割分担)し
ていく上で、発信者責任=記名制をシステムの中に組み込んでいく
ことは必須である。そうでなければ便所の落書きはいくら消しても
また繰り返され、小池氏のような悲しい発信者たちの涙は流され続
ける。

この点、民間による署名認定やソーシャルネットワーキングの人
の連結によるidentifyの仕組みに萌芽は見られるがそれでは向こう
30年のネット社会を見据える上では不十分であり、ぜひとも政府に
よるネットコミュニケーションユーザの共通ID制や匿名規制、それ
に伴う事業者負担の補助等の施策を検討してほしい。

われわれの子供・孫の世代に、ネットが「健全なコミュニケーショ
ンの場」としてより豊かな社会形成に貢献しているために。

共同通信事件とネットの記名制(前編)

2004年08月03日 | インターネット
ジャーナリストなら匿名性に逃げ込まないでほしい!(from週刊!木村剛)

これは今のネットメディアの成長を象徴する事件である。

共同通信社の記名ブログ署名で書く記者の「ニュース日記」
がライブドア堀江社長の社長日記を「スノッブ」「鼻持ちならな
い」とこき下ろしたことに端を発し、堀江氏が自ブログで紹介した
ことを経て、堀えもん信者や名無しさんらの激しいコメント374連
発を食った末、更新停止に追い込まれたという一件。

私見としては、共同通信小池氏がブログ上で堀江氏を卑下したこと
自体にはもちろんなんら問題はないと考える。むしろ、ジャーナリ
ストの立場を明確にした上で記名式で自身の意見を発信した勇気に
敬意さえ表したい。

おそらく共同通信小池氏は社内で問題視されたことを理由にブログ
の更新を停止したのであろうが、このことは小池氏自身としては、
ジャーナリストとしてたいへん不本意だっただろう。
共同通信社というマスコミ各社に情報ソースを送り込むことを生業
とする、本来日本一オカタイマスコミ企業の老記者である。元々、
当該のブログをスタートする時点で、社内での泥まみれの企画調整
もしくは組織文化を無視するチャレンジ精神の末にようやく、「無
記名式」という日本のジャーナリストたちが海外から揶揄され続け
ている方式から脱却した自分たちなりのジャーナリズムを見出した
矢先だったろうから。

とはいえ、小池氏のとった行動はもちろん正しいものとは到底言え
ない。こうなってしまった上では、「コトが起こって既得権益のマ
スコミ組織文化に迎合するくらいなら最初からやるな」という論が
正当化されてしまうし、そうでなければクビを覚悟でマスコミュニ
ケーションとネットコミュニケーションの文化的差異を司ったこの
一件のメインアクターとして表舞台で明治維新の西郷隆盛的「旧社
会的価値観の最期」を演じきるべきだからだ。

この一件の功罪として、マスコミジャーナリズムとネットジャーナ
リズムの間に深い溝が刻まれたことは間違いない。否、溝というよ
りは融合までの道程を長期化させた、というべきか。

共同通信事件とネットの記名制(後編)

続・知本主義

2004年07月31日 | インターネット
先日、稚拙なアフォ発想を自認しながらふと思ったままのイデオ論
書いてみたら、こんなクソブログにも小さなシナプスの広がりを与え
てもらえてのけぞるほどに光栄です。

観点をずらして思うことを述べると、人間は人生を通じての幸福を
つかむために存在するものだと思っています。その手段として家庭
を築いたり家や車やいいオンナを手に入れたり夢を追い求めようと
したりします。

その営みの全てが資本主義の下で貨幣換算できるわけではないはず
なのに、バブル崩壊以降の構造不況の中で人の心までが直接金で売
買されるような事象が散見されたり、株式本位制によって人や社会
に根ざした長期的豊かさの追求がおざなりになって至極短期的な
利益追求が主流となったり、社会の長期的な発展を設計するはずの
政治やメディアが保身や私利私欲のためにポピュリズム迎合の姿に
おちぶれたり、といった状況を鑑みると、資本主義がシステムとし
ての構造危機を迎えているのではないか、という疑念は多くの人が
感じるところではないでしょうか。

そんな中で、

人間同士の物々交換経済から認知や距離の障壁を取り除くために生
まれて資本主義のインフラへと成長した「貨幣流通」というプラッ
トフォームと、人間同士の知の交換から認知障壁を取り除き知恵を
生み出すインフラとなっている「インターネット」というプラット
フォームの類似性を捉え、腐った資本主義の対抗概念を「知本主義」
と呼んでみました。

理論的にはネットを介しての物体転送も可能ですからね。ネットに
よって知と物の交換も可能になるし、システム不全の垢がついた貨
幣よりも個の知恵の方が流通可能な価値になる可能性もあるのでは
ないか、と。

ブログやSNを見ていて、かなり「ふつうのひと」たちがネットコミ
ュニケーションの世界に参加してきている姿を目の当たりにして、
インターネットの発展・普及スピードが順調に進めば100年先の
世の有り様としてこんな仮説もありかな、と。

TVとネット(後編)

2004年07月30日 | インターネット
TVとネット(前編)
TVとネット(中編)

もちろん、マスメディアとコミュニケーションメディアの、1:n=最大
公約数的受発信関係と1:1=素数的受発信関係という違いはあるの
で、資本側はその状況相応のリソース注入の方法、たとえば映像
検索広告の仕組みや小額課金インフラの一般開放、優良コンテンツの
露出支援や報償拠出などの手法をドリルダウンしたあるべき姿で供給
することが必要だ。

ネットが、ブログの勃興などによってようやくテキストベースにおい
て人間個々人自身がコンテンツであるというネット=通信=コミュニ
ケーションメディアの原点に立ち返りつつある現状を鑑みれば、そも
そも「ネットで映像」という思考自体が時期尚早であったという事実
を認識してよい。
他方、映像制作機材の一般化の段階にある現状から次には映像制作技
術の一般化、演出技術の一般化も徐々に進行するだろう。マスにとっ
ては未だ障壁の高かった「ホームページ」が「ブログ」によってブレ
ークスルーを迎えたように、近い将来、よりリッチな表現手法である
「映像」がマスにとってもプロデュース可能な自己表現の手段とな
る。

ブロードバンドブームの熱病を超えて、再び地に足のついたネット上
の映像文化を育む=リアル同等の全体価値を産み出す場を創るために、
資本側、制作者、個人、それぞれのプレイヤーが然るべき努力を払う
ことを期待する。

TVとネット(前編)
TVとネット(中編)

TVとネット(中編)

2004年07月29日 | インターネット
TVとネット(前編)

そもそもTVとPCでは、受像機としての宿命的差異がある。TV=走査線
で表現されるアナログ映像とPC=ドット表現の30FPS紙芝居では、消
費者が受ける印象は全く異なるものだ。TVは映像で感動を伝えること
を起源とし、PCはテキストでデータを伝えることを起源としている。
そんな全く異なる二系の受像機に対して同じコンテンツを流し込んで
も、消費者が深層心理で受け止めるものが全く異なるのは当然だ。

エンターテイメントの表現方法は、演劇でも演芸でもスポーツでも、
生から映画へ、TVへとインターフェースが変化する過渡期において、
そのインターフェースに適合するための企画・演出・制作手法が然る
べき産みの苦しみの末に産み出されてきた。
演劇なら観客の焦点をつかむための照明、臨場感を演出する音響効果、
観客との距離を埋めるための全身・全表情を駆使した演技。映画なら
スーパーの遠近やカメラワークによる視角操作、スクリーンの枠や容
易な場面転換を活かしたシナリオ。TVなら生活空間を意識した時間構
成、CMインサート時の高揚、実況やBGMやテロップなど。

ではPCに適合する映像コンテンツはどういったものなのか、を探求す
る産みの苦しみに対して、プレイヤーたちが十分な人材や資本を投入、
または収集したか、というとこれには「否」と答えざるを得ないだろ
う。必然、その探求の答えはまだ出ていない。

あっと驚く放送局やひかり荘、爆笑新聞といった、柔軟な発想で産み
出されて発展途上中のネットのためのネットらしい映像コンテンツも
一部存在するが、かつての電鉄企業や新聞社がそうしたように、通信
事業者やIT企業がニューメディアの運営サイドとしてコミットしなが
らも資本と人材をメディア特性に適合したコンテンツ創出に注入する
営みを継続的に行わなければ、メディアとしての成長などありえない。

TVとネット(後編)

TVとネット(前編)

2004年07月28日 | インターネット
放送と通信の融合という言葉が叫ばれて久しい。

一連のブロードバンドブームは一旦沈静化したといえるのだろう。
インフラのみは孫さんのおかげで1500万世帯への普及を見たものの、
アプリの面ではブロードバンド時代のキラーアプリケーションと期待
されたVODは完全にキャズムの罠にはまってしまった。

VODに関するトレンドは、伝送のみIPで行いTVを受像機としたBBケー
ブルやKDDI光プラス、Coden光、4thMediaなどのTV向けVOD+多チャン
ネル放送サービスに移行し、これはこれでレンタルビデオに代替する
既存メディア用コンテンツの二次配信メディアとして相応の発展を遂
げるだろう。

では、なぜネット上のネットらしいPC向けの映像配信が十分に普及し
なかった(少なくとも第1フェーズにおいては)のか?

理由は「著作権を盾に既得権益業界がコンテンツの防波堤を築いたこ
と」だという論や「PCでの映像視聴はマジョリティ層には困難を強い
るインターフェースにすぎた」という論があり、それらも一因である
ことには間違いないが、それらは本質的な原因ではないように思う。

本質は結局、「放送=ブロードキャスト」と「通信=コミュニケーシ
ョン」というメディアとしての根本的な差異を無視したという点だ。

ブロードバンド映像配信に関わったプレイヤーたちは、放送のための
コンテンツやその表現方法・制作手法をそのまま持ち込むことに力を
注いだが、これは生と放送の差異(後述)を無視して野球中継を外野
スタンドの1カメだけで撮影・放送するようなものだ。

TVとネット(中編)
TVとネット(後編)

知本主義

2004年07月27日 | インターネット
日々ブログサーフィンを続けていてネット上に点在する知識の膨大
さにのけぞりながら、これらの知識がインターネット=外知のシナ
プスを経てしかるべき人間の脳でブレンドされることによって創造
可能となる『知恵』は、資本主義上の貨幣換算価値や共産主義上の
倫理普遍価値を超越した価値概念となり得るのではないか、と感じ
た。

ブログの出現は、インターネットをその本来の姿である「知のシナ
プス」の状態に再成長させた。そしてこうしている今も、ブログに
よって知が組織化され、インターネットの中で新たな知恵が産み出
されている。

現代の社会を支配しつつも人間の認知限界によりその完全性の欠落
を露呈する「資本主義=物理至上」、理想主義に過ぎて人間の倫理
限界の波を受け文明進化上の通過点としかなり得なかった「共産主
義=精神至上」。

奇しくもこの2つの既存イデオロギーの不完全性が自明となった
'90年代後半に勃興した”外知のシナプス”インターネットの進化・
普及がほんの10年でクリティカルマスを飲み込むフェーズに至った
ことで、いよいよ人間自身が産み出す「知恵」が物理・精神以上の
価値として認識される社会「知本主義=脳力至上」が新たな第3極
概念として成立する時が来たのではないか。

という気がした。